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 日本各地を旅して歩きながら、様々な「日本のクオリア」に思いをはせた内容が記述されている。2009年7月初版。

 

 

【イチゴっぱなれ】
 白神山地を案内してくれたマタギのオジちゃんが話してくれたこと。
「熊の子どもはこのイチゴが大好きなんです。熊が子熊を親離れさせる時には、子熊がイチゴを夢中になって食べているうちに、どこかに行ってしまうんですよ。それでねえ、親離れしたばかりの子熊を撃ったりすると、なんだい、イチゴっぱなれかい、と仲間たちにからかわれるんですよ」 (p.29)
 裕福で未熟な人間の親は、何時まで経っても子供と一緒に「イチゴべったり」である。
 それにしても、イチゴっぱなれの子熊を撃っちゃうマタギのオジちゃんは、ヒド過ぎるじゃん。

 

 

【植物の叡智】
 どのような運命も受容することが叡智というものの究極のかたちだとすれば、植物たちは動物たちよりもよほど成熟している。一匹に動物たる私は、植物の生命哲学に包まれ、抱かれ、そして帰依する。(p.54)
 個人が意志的に運命を切り開いてゆくことに価値を見出す能動的な生き方の反対側に、個を滅却して全てを受容する受動的な生き方がある。西洋は意志的な文明であり、東洋は受容的な文明であるといえる。特に日本はそうである。
 イギリスに留学してノイローゼ気味になった漱石が、後に思い至った「則天去私」という表現は、植物の叡智そのもののようであるけれど、日本文明の基でもあるだろう。

 

 

【「聖地」とは】
 「聖地」とはきっとある感受性のことであり、「気付き」のことである。触媒するものとの出会いがある時、私たちの感性は開かれる。いつもよりも青空が高く見えた時、そこに聖地が出現する。そして、「こんなものだ」と思っていたこの地上が本来は汲み尽せぬ豊饒さを秘め抱いていたことを、ようやくのことで感謝をもって思い出すのだ。(p.107)
 カモメがタカにやられるように、聖地に貫かれてこそ本望である。腐葉土はやわらかく、都会のコンクリートは足裏に硬い。ビルは倒れず、苔やキノコは育まれない。偶有性の自然誌から遠く離れた場所で、再びやさしくそして密やかに「貫かれる」いつ来るかわからない瞬間を待つ。(p.111)
 感性が鈍っていると何処に行っても何も感受できない。都会的な生活から出て数週間文明から遮断された山の中で暮らしていたら、誰でも人間本来の感性が働き出し、霊性ですらも開花するはずである。
 聖地といわれる所は、特殊な地形・地層の場所にあったりするから、感性・霊性を高める何らかの物理的要因も必ずあるはずである。
 病気が治る「奇跡の水」で有名になった「聖地・ルルドの泉」は、活性酸素を中和して体調を整える水素を多量に含む水素水だった。ルルドからそれほど遠くないバルセロナ近くのモンセラート山は、奇抜な地形な山々だけれど、やはりネットリとした特殊な水が湧き出ている。勿論、富士山も聖地である。
   《参照》   『アセンションはもう始まっています』 田村珠芳 (風雲社)
             【霊峰富士の天然水素水】

 

 

【デュシャンの『泉』】
 デュシャンといえば、美術の改革者であり、現代美術の始祖とも言ってよい人である。イギリスにおける美術関係者へのアンケートで、その代表作『泉』が「20世紀において最も影響を与えた美術作品」に選ばれた。便器に「R.Mutt」という署名をしただけの作品 である。(p.171)
 ルルドの泉のことを書いた「泉」ついでに、デュシャンの泉のことも知っておいた方がいいと思いつつ、書き出しておいたけれど、デュシャンの泉に呆れかえる人も少なくないんだろう。
 「美術のクオリア」という章の中に、ピンとくる記述はなかった。

 

 

【犬馬難鬼魅易(けんばなんきみやすし)】
「犬馬難鬼魅易」というのは、松田正平画伯が好んで書いた文句だという。
「どういう意味ですか」
「はあ、何でも、犬や馬といった、ありふれたものを描くのは難しく、鬼や魑魅魍魎の類のような、想像上のものを描くのはかえって易しい、そんな意味だそうです」
 寡聞にして知らなかったが、なるほどと思う。確かに、脳科学をやっていてもそんなことがある。日常の、ごく当たり前の心の動きを説明することが難しい。抽象的な数学などは、かえってその原理を説明するのが容易であるとまで行かなくても、まだ取っつきやすい。学問が進むとは、易しいことが難しいことであると理解するものだという説もある。(p.197)
 「易しいことが難しいことであると理解するもの」となってしまうのは、今日の科学文明が「分離相対性」の強い言語(英語)によって主導された体系だったから、と言えるかもしれない。
 今後、世界の文明は、「最大融合極性」を示す日本語によって主導されるようになるにつれて、「難しい学問」は量子飛躍的に飛び越えて、ダイレクトに先進の宇宙文明に繋がってゆくだろう。そうして、超高度な文明へと進化してゆくのである。
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》
              【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 

 

【ただわが内に留まりたるのみにて(秘仏と茶室)】
 秘仏の姿をとどめておこうとすれば、自分の脳裏に焼き付けておくしかない。・・・(中略)・・・。
 もう一つ、秘仏を拝観する。霊験でありがたみもわかた。あとは山を下りるだけである。
 なつかしい気配に包まれた。招福楼の御主人の特別のはからいで、茶室に招き入れられる。かがみ、にじり寄り、みほとけの前と同じ姿勢をとる。和ろうそくに照らされ、いただき、ぬぐい、味わう。時間の流れが蜜のように溶け始めた頃に、食事の支度ができた。
 外は漆黒である。虫を投げて深さを測るわけにもいかず、ただ眼福、舌福にひたる。
 身の回りの方丈の宇宙にこもり、はっと気がつく。ただ、自分の心にとどめておくしかないのは、味や香りもまた同じことである。忘れがたい食宴。しかし、それが過ぎ去りし折には、その感触はただわが内に留まりたるのみにて。だからこそ、「最後の晩餐」なのであり、「別れの杯」なのであろう。(p.204-205)
 何時でも見ることができるなら、今が浅くなってしまう。それは同時に未来や過去も希釈されてしまうことを意味する。今を深めるためにこそ秘仏扱いが大切なのだろう。
 時を「今」という一点に凝縮する作法が「秘仏」であり、空間を「方丈」という制限範囲内に凝縮したのが「茶室」である。だからこそ、茶室という「方丈の宇宙」は「豊饒の宇宙」を胎蔵しうるのである。
 「時」も「空間」も、「今」の一点に凝縮する。その極みを求めたのが、日本の伝統芸能を継承してきた“わざをぎ”たちなのであろう。そして、それは“ただわが内に留まりたるのみ”である。

 

 

【人類の「幼年期の終わり」において、「日本のクオリア」を見直す】
 私たちの「宿命」であるこの島国での体験を、長い歴史の中で培われてきた日本語を用いていかに定着させていくか。日本語の宇宙をいかに耕すか。クオリアが育まれるところの霧のかかった私秘的な領域から、広く流通する情報空間へと解き放っていくか。・・・(中略)・・・。人類の「幼年期の終わり」において、「日本のクオリア」を見直すことは私たちにとって必要な「自省」である。(p.208-209)
 「日本のクオリア」、その質を保障するのは、あくまでも「日本語」である。日本のクオリアを世界に伝える最も確実で優れた方法は、日本語を世界に伝播・拡散させることだろう。 
 地球風水である『ガイアの法則』によって、文明の脈動点が、「最大分離極性(経度0)」の地点から、その対極側にある「最大融合極性の地(東経135度)」に移ったというたぐい稀なる時は、さながら人類の「幼年期の終わり」と表現しうる時である。1995年以来、脈動点となっている東経135度にある日本文明のあり方(日本文化・日本語)が、これからますます世界展開してゆくのは既に定まった未来である。

 

 

【オープン・エンド】
 「日本」は揺れ動き続けている。オリジナリティと影響、感化と受容の関係は微妙で豊かである。私たちが「日本固有」のものと思っていることの多くが、外国からの影響の下に育まれた。逆に、この島国からも、諸外国に多くのものが「贈りもの」として差し出されてきている。
 開かれていてこそ、ある文明圏は豊かに育まれる。1人の人間も同じこと。成長し続けるためには、自分が何ものかであると決めつけてはいけない。組織や肩書きで人を評価するなど愚かなこと。脳は本来完成型のない「オープン・エンド」な性質を持っている。私たちは一生学び続けることができるはずである。
 日本文化も個人も、「オープン・エンド」だからこそ豊饒なものになり得る。しかしながら、その豊饒が物質的な豊かさに向かうのであるなら、たちどころに隘路となってしまう。クオリアは物質性ではない。
   《参照》   『脳が変わる生き方』 茂木健一郎 (PHP) 《前編》
             【決めつけない】
             【答えはない】

 

 

<了>