《前編》 より

 

【サナート・クマラの神識体】
 彼の本象が△の神識体であると知ったのはその時であった。
 またこの時、先日魂の父から透明な人型を与えられた理由が初めて理解できた。その世界は本来、意識というものが人型をしては留まることができない世界だったのである。
 地球の霊王とされるサナート・クマラであってさえ、その世界では化身の術なく、彼の神識の本象でしか実在できなかったのであるから、前日の透明な人型を得ていなかったなら、わたしなど一瞬たりとも留まれなかったに違いない。
 改めてその世界の不思議さと、大日如来への畏敬の念を新にしたわたしは、言葉もなく彼の本象を見つめるばかりであった。(p.123)
 神識という用語を久しぶりに読んだことと、サナート・クマラの神識がこの本に示されていたことを、再読した今になって気づいて、脱力気味に溜息が出る想い。
 ついでに、本書よりだいぶ視点は下がるけれど、下記のリンクをつけておきます。
    《参照》   『シャンバラからの超レッスン』 ベガサス (ヒカルランド) 《前編》
              【サナトクマラ】
 また、これを読んで、バシャールが自らの象徴として“青縁の黒い三角形”を示していたことを思い出したりもする。

 

 

【マンダラの次元リスク】
 *狭次元に簡約したマンダラというものは、簡約した次元自体を解放してこそ、本義が発揮される。
 つまり現状の三次元的主観内にありながらでも、二次元的に簡約したマンダラを三次元的に立脚化する過程を、肉体上で意図的に体得することができれば、その万次元に波及する行為は、おのずと言葉以上の共感として、誰もが実感できることに気付いたのである。(p.130-131)
 凡人のチャンちゃんは、マンダラの効果を実感したことがないから、「髪(1次元直線)」と「紙(二次元平面)」と「神」が同じ「カミ」という言霊であることから、二次元平面マンダラに十分本質が託されているのだろう、というようなことを、下記リンクのコメントに書いたけれど、本書には、そうではないことが記述されている。
    《参照》   『和のルール』 加藤ゑみ子 (ディスカバー)
              【平面性】
 異なる次元のマンダラを照合することで、納まる神気には次元を簡約化したことによる決定的な歪み(次元リスク)があろうことは予測できた。(p.131)
 これに関する検証も、後の章に記述されているけれど、次元を超えて自在に意識を使いこなせる人でなければとうてい書けないことである。

 

 

【天河流動の真の意味】
 天河流動は、神という実質 ⊃ 宇宙の真理 を直接大地に迎える神事であり、罪障の消滅と堕地獄を防ぎ生善を産むという福徳を具えている。(p.145)
 つまり、天河流動における真の正法は、悟りを得る真法であることはもちろん、悟りを得続けて生きるという悟後の命をも等しく含んだ命法なのである。・・・中略・・・。
 天河流動が何故現代に行われたかに目を向けた時にこそ、天河流動の真の意味が浮かび上がってくるのである。
 天河流動の真の意味。
 答えを先にいってしまえば、それいよいよ想念世界の終焉の時期を迎えた人類に、次なるステップを踏ませるためなのである。・・・中略・・・。天河流動の縁起はまさにここにあった。(p.147)
 これが、本書のタイトルに託された核心部分。
 ところが、この本を初めて読んでいた21年前は、この内容を完全に素通りしていた(!!!)らしい。この点をきちんと踏まえて理解していたなら、この読書記録のブログ内で、『天河流動縁起』というこの本のこの内容に、繰り返し何度も言及していたはずである。ところが、“想念霊界の終焉”と同じことを語っている下記リンクに紐付く5冊ほどの著作の同じ内容を書き出しながら、決して『天河流動縁起』の内容を想起することがなかったのである。我ながら愕然。
    《参照》   『ついに実現した地下存在との対話』 ダイアン・ロビンス (徳間書店) 《後編》
              【3次元から5次元へ(4次元は・・・)】
 上からの光だけでは、すでに現界で暗躍している悪霊・悪魔はもちろん、源である人間の悪想念が偽善の影に逃げ隠れてしまい、いくら光を投射しても悪霊の発生を防ぐことができず、想念霊界はいつまでたってもクリアにならないのが実際であった。
 しかし今回の天河流動により、魔王尊(サナート・クマラ)=嶊一切魔菩薩(智拳如来)の純化された閃光が、下方から全想念世界中に投射されはじめたため、上下双方からの光が造影を許さないように、霊の浄化はもとより想念霊界自体を解消する段階に入ったのである。(p.149)
 地球における想念霊界の消失は、この界を経由する輪廻の世界は無くなったことを意味している。
 しかし、スピリチュアルに関するある程度の知識と興味を持っていながら、意馬心猿を統御する志なき修養未満の人々が少なくないスピリチュアルフリークの皆さんは、この点をどう考えているのだろうか。野放しにした悪想念の集積は、輪廻を終えることも選択できる場(モンロー研の用語で言うならフォーカス27)で、どのような影響をもたらすのか、チャンちゃんには分からない。しかし肉体を持って生きながら、悪想念の自己管理をする意思がないということは、現界における地球進化を阻む因子になってしまっていることくらいは誰であれ分かるはずである。
 何度でもいうが、こころの終末を消化しない限りいまの人類に栄光はない。(p.174)
 こころの終末という想念の自己処理ができてからこそ、実は神への道にも正式に参入することができるのであるし、この点を欠いた安易な書物の氾濫からか、かえって想念地獄に陥ってしまった人間がかなり見受けられるからだ。 (p.16-76)

 

 

【想念の自己処理に有効な方法】
 想念霊界の終焉の時、神という実質を観る観ないにかかわらず、栄光を自覚するためには、想念の自己処理が必須課題であり、その手助けとなる有効的な手段の一つが、呼吸による陽光(日光/月光/星光)の吸収であり、全身に積極・肯定的な気を充実させることである。
 *発生や音響を使うなど、有効的な手段はまだいくつもある。
 神霊をあつかった書物でありながら、肉体の大切さを強調するのを妙に思うかも知れないが、それは何度もいうように、想念の自己処理には想念では負いきれないエネルギーが必要であり、下手な説法を百聞くよりも、たった一度の深呼吸の方がより有効的であるからである。(p.198-199)
 “呼吸による陽光の吸収が有効である”と書かれているけれど、陽光が室内まで差し込むこの季節、室内で着衣を取って何時間でも日向ぼっこをしている閑人のチャンちゃんは、呼吸を意識しない日光浴だけでも、想念の自己処理に有効であることを実感している。自己処理というより、日光浴をしているだけでマイナスの想念が本当に減るのである。これは誰であっても確実に自分で体感できることである。
 日光浴に、著者が言う呼吸法が付加されたら、本当に大きな効果が出るのだろう。
    《参照》   『シャンバラからの超レッスン』 ベガサス (ヒカルランド) 《後編》
              【日光浴:電気の塊を吸い取って、前に吐き出す】

 

 

 

 最後に、天河に関連する著作をリンクしておきます。
    《参照》   『天河』 柿坂神酒之祐 (扶桑社)
    《参照》   『宇宙神霊記』 美内すずえ (学研)
    《参照》   『空海は古代ユダヤの錬金術師だった』 月海黄樹 (徳間書店) 《前編》
              【天河神社】
    《参照》   『地球霊王、日本列島に現る!』 毛利雄二 (たま出版)
              【鞍馬寺 光明心殿の魔王尊(地球霊王)】
 
<了>