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 昨年末、友人を介して諏訪大社で出会った小松夫妻と話す中で、旦那様の小松泰安(現在名)さんが本書の著者だと言うことを聞き、既読本の書架から探し出して、21年ぶりに再読してみました。
 天河が十字曼荼羅の中心にあることを知るに至った最初の契機は何だったのか忘れていたのですが、94年1月10日初読の記録からして、明らかにこの本だったようです。また、世界に与える影響の大きな「想念霊界の変容」について、既にこの本でも言及されていたことを確認し、いい加減な読み方をしていた初読当時の自分自身の間抜けぶりに、ちょっとしたショックを感じたりもしました。
 神密道として描かれている著者の実践は、近年のスピ系の著作には見られない種類の、極めて冴えたものであることにも改めて気づきました。
 日本や世界のスピリチュアル・ポイントを賦活するために、人知れず個人で行動している方々は何人もいますが、泰安さんもそのうちの一人ですね。この読書記録の中にある方で言えば、佐田靖治さん もそのうちの一人です。1993年5月初版。

 

【白老師との出会い】
 本書は、後に鞍馬寺の魔王尊であると分かる「白老師」との出会いに係る不思議な夢の物語から始まっている。
 わたし、1960年長野県出身。誕生に際して語るべき逸話も持たないが、いかなる理由からか幼い頃から夢をよく見、目を覚ましたあとも細部まで鮮明に記憶しているタイプの人間であった。
 しかも夢の中では、自分は確かに夢の中にいるという第三者的な自覚を常に持ちながら、夢を体験している(明晰夢)場合がほとんどであった。(p.18)
 スピリチュアルに関心がある人々は、夢の世界はもう一つの実在界であることを知っている。だからこそ、このような方の著作であるからこそ、興味深く読むことだろう。

 

 

【天河マンダラ】
 天河神社の能舞台で瞑想していた時のこと。
 まずわたしに示されたのが、大日如来を中心にした四大菩薩のマンダラであった。
 そして次に、天河神社を中心に、
 伊勢神宮
 熊野速玉大社および那智の滝
 高野山
 鞍馬山
 の4カ所を4翼に配置したマンダラが現れ、ピタリと二つが重なったのである。
 天に天の川があるように、この地にも天に通じる河がある。
 大日如来が天のマンダラの中心であるように、
天河神社 は地のマンダラの中心にあたるのだと、わたしはそれを観て直感した。(p.58)
 地のマンダラは上に書き出したもので、これに対応する
 天のマンダラは、大日如来を中心に
 観自在菩薩
 金剛拳菩薩
 降三世菩薩
 虚空蔵菩薩
 となっている。

 

 

【理趣経】
 『理趣経』は、天河マンダラに対応するこの四菩薩を元に文殊菩薩と転法輪菩薩が絡んで、大日如来を顕現させるという内容になっているという。
 もちろん空海上人が最澄上人にあてた手紙にあるごとく、その道理は実に広大であり、全世界の地を墨として河海の水で磨(す)って書いても、その一句・一喝の意味を完全につくすことは誰にもできないかもしれないが、理趣経とは単なる経典ではなく、大菩提への極めて具体的な実践教本であり、今後各人が回転させるであろうマンダラの指針になることは確かであるので、読者も是非一度読んでおいて欲しい。(p.137)
 『理趣経』を、「大菩提への極めて具体的な実践教本」であるという視点で推薦していること自体が、トテツモナク新鮮である。
 『理趣経』といえば、たいてい下記著作のような意味で言及する人や著作が多いだろう。
   《参照》   『神界革命』 三原資忍  サン企画
             【理趣経】

 

 

【南翼:熊野】
 天河神社で瞑想した翌日、さっそく天河マンダラの南翼に位置する 熊野速玉大社 と那智の滝に行き、神事を行った様子が記述されている。そして、
 自分の成した神興しが成功し、天河流動の準備が整っていることを確信したが、熊野三山と総称されている限り、残りの一カ所である熊野本宮はもとより、三山の奥の院とされる奈良県/玉置神社へも参拝したほうが、より正確であろうと新宮をあとにした。(p.76)
 天河マンダラを人体にあてはめた場合、熊野本宮 の 旧社地 は会陰(性器と肛門の間)であり、玉置神社 は腹部/下丹田にあたることが記述されている。
 4翼の中の1翼を引き受けたからには、天と地のマンダラが完全に一致し、大天の意志一刻も早くこの地上に天下り、スムーズに流れ始めることを私は切望した。なぜなら天河神社を取り巻く4翼の準備が整い、いよいよ天河マンダラが回り始めれば、理趣経にあると聞く大日如来という新世界への大河が、天河をして現界に流れ出るに違いないと思っていたからである。(p.62)
 天河マンダラの構図を示された時すでに、北翼の鞍馬山、西翼の高野山に関しては、流動の礎は出来ていたらしい。南翼の熊野が終わったので、残るは東翼の伊勢神宮のみ。

 

 

【東翼:伊勢神宮】
 天理市にある石神斎宮へ行くと、○○○○の情報通りからだが光で顔だけがようやくうかがえる媛神が現れ、
「ご苦労様です」
 と声なき声をかけてくれた。
 外宮からの水を鏡池にそそいだ瞬間に、降っていた雨がピタリと止んだ。
 内宮の水は布留川へ。 (p.82)

 再び伊勢神宮へともどる ・・・中略・・・、石神斎宮からの水を勾玉池にそそぐと、先日同様降っていた雨がピタリと止み、胸がスッとした。・・・中略・・・。
 これで石上の媛神が伊勢神宮に祈請されたに違いない。
 一方内宮は相変わらず静かなバイブレーションであった。
 ところが、布留川の水を五十鈴川へそそいでいる内に、ふと石上の媛神だけで外宮の邪霊たちを浄化できるだろうか。いやそもそも天河マンダラの東翼としての伊勢神宮の準備は、本当にこれで良いのだろうか。と心配になり、自分もなにか手伝うことがあるかもしれないと外宮へ戻ってみた。
 しかしそのような心配は、はなから無用であった。
 邪霊たちは、ことごこく消え去り、宮全体がすがすがしいエネルギーを醸し出していたのである。
 これを観たわたしは、いよいよ天河マンダラの四翼が完全に整ったことを知った。(p.85-86)
 それぞれの場所に在る水を別の場所に移し替える「祀水(しすい)神事」によって、伊勢神宮のエネルギーを整え、天河マンダラが完成したらしい。
 小松ご夫妻は、今でもひそやかに「祀水神事」を行いながら、日本の各地の霊的エネルギーを整えてくださっているらしい。だから、「キーシャの行動に共感する」とも言っていた。キーシャは、世界中のレイライン(光の道)に水晶を置いて、地球のエネルギーを整える役割を担っている。
    《参照》   「クリスタルの目的について」質疑応答 その② - キーシャ・クラウザー

 

 

【スピリチュアルな世界】
 岡山県赤磐郡吉井町石上に建立されている石上布留魂神社は、スサノヲの命を祭神と仰ぐ備前国古一の宮式内社である。・・・中略・・・。神前に立つとすぐ四人の男神が出迎えてくれた。
 また、神社裏の小高い山の頂にある磐座は、相当なエネルギーポイントであるようで、体の中に潜んでいたキツネ男など、近寄るだけでワナワナ震え出す始末であった。
 その夜社殿にこもっていると、夢の中にスサノヲの命が現れ、
 「わたしがあなたのからだの中を洗浄してあげましょう」
 といってくれたので、
 「お願いします」
 と応えた。
 するとスサノヲの命は、わたしを出迎えた四神を光体に再変換し、光波として勢いよくそそぎ込んでくれたのである。
 わたしのからだはそのたびに激しく打ち震え、しまいには床から大きく飛び跳ねた。あまりの心地よさに思わず声を上げて目を覚ますと、からだが音を立てて床に落ちて行くところであった。
 次の朝、わたしは心身ともに爽快であった。
 キツネ男の霊は影すら残らず、逆にからだが従来の半分ほどに軽くなっていたのである。(p.98-99)
 本書内には、このような記述がいくつもある。
 チャンちゃん自身には霊的感性などないけれど、ワンダーランドを逍遥した若干の体験があるので、このような世界があることを良く分かっている。でも、そんな世界に、間接的にすら接したことがない人々は、このような記述をどう思うのだろう。

 

 

【動物霊さまざま】
 上記にあるキツネ男に関する下記の内容も、霊界に関する知識として、知らないより知っていた方がいい。
 動物霊として現れる人霊の多くは、よほど力の強いものでない限り、存在してはいるものの霊体として固まっていない漠然としたものが多く、わたしに憑いたものも彼自身が霊体としての自覚がある訳ではなく、動物霊界と言う悪霊界に引っ掛かたまま、我知らず揺り動かされている部類の霊であったからだ。
 つまり霊としての対象になりえないもの、いわば念象に近いものであった。
 善霊にしろ悪霊にしろ、相手が自分というものを自覚していればこそ、こちらはそれに意識のチャンネルを合わせることができるのだが、相手が核を持たない噴霧のような存在であれば、のれんに腕押しするようで手応えがなく、(p.98)
 こういった、人霊が化けた動物霊、純然たる動物霊、先祖霊、怨念霊等々に関して興味があるなら、それが詳しく書かれている著作に、『神界からの神通力』 深見東州 (たちばな出版)  という本がある。

 

 

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