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 この本の初版は1988年。私はこの著者の 『神界革命』  と 『黄金の帝国』 を90年代前半に一度読んでいる。今、思い返してみると、仏教の視点でしか日本と世界を見てこなかった私を、神道的な視点に移し変えるモーメンタムのような働きを担っていた本だった。
 当時としては、これらの本は、とても印象的だったのだけれど、その後、神道的な知見に多く触れてきた今の私には、復習のような印象が強い。
 ムー大陸(この本ではムァー大陸と書かれている)と日本人の関係について、やや詳細に書かれている点が、この著者の本のユニークさなのかもしれない。


【あなたの属している宗教団体は大丈夫?】
 神殿を設け、そこに祀られているものにすがりつき、お伺いをたてている教祖は、たとえ何百億の大金をかけて建設された神殿を持っていても単なる祈祷師にすぎないのである。その人間の魂自体が神の座に鎮座していない限り、どんなに教理につうじていようと徳分があると思われていても祈祷師に過ぎない。
 本当の神であり、救世主であるならば、偶像崇拝も神殿すらも必要ない。神の造られた日常の生活そのものが、大いなる神殿であり、自らの魂との問答こそが神との対話になるのである。  (p.30)
 教祖を崇拝しているような宗教団体の信者たちには、神道にある “自霊拝” という言葉など、決して聞いたことなどないであろうし、その意味することすら分らないのだろう。
 仏陀は “自灯明” と語っていたのに、殆どの仏教系宗教団体は信者に “教祖灯明” つまり教祖崇拝をさせている。


【太陽族の復活】
 現在、日本の天皇家の紋章として使われている16弁菊花紋の原型はムァー帝国にあり、ムァー帝国帝王の象徴であり、当時は二十四弁菊花紋を用いていた。この菊花は日輪の象徴であり、四方八方余すところなくその威光と帝国の加護がいきわたるようにとの願いがこめられたものであった。  (p.65)
 古代エジプトやペルシャやオリエント世界全般に菊花紋はみとめられるという。釈迦族(シャーキャ族)ですら太陽族の系譜にあることが書かれている。

 

 

【釈迦は日本に来ていたのか?】
 現在、古文献を元にして「釈尊は古代日本にも来て修行している」という説が巷の一部にひろまっているが、そのような事実は全くなかった。
 ただ、シャーキャ族に代々伝わった家訓や釈尊本人の霊的能力によって遥か昔に太陽神を拝していた人々の生活や宗教のあり方を知り、当時のインドの宗教勢力と戦い、自らも修行の正しいありかたを含め試行錯誤を繰り返しながら壮大な宇宙体系にまで純化・発展させていったのであり、その意味では 「日本的なるもの」 を習得していたといえる。 (p.70)
 この文章に続いて、以下のように書かれている。

 

 

【日本民族の役割】
 こうした輝かしい歴史を持つ 「太陽族」 の直系である日本民族は、数奇な運命のめぐり合わせから地球的規模のカタストロフィーを前にして経済力をはじめとする 「現世的な」 力を加速度的に高め、神の裁きと多くの邪悪なるものの挑戦を受けようとしている。 (p.70)
 しかし、その日本人が本来の生き方を失っている。
 人間の魂が本当に目覚めたならば神社、仏閣もいらず、墓もいらない。何故なれば、先祖の魂は己と直接語り合えるからであり、その思いは我々子孫の血の中に脈打っているからである。
 従って、先祖供養とは、己の魂とそれを支えている己の肉体を大切にし、磨くことである。大切にすると言うことは遊びほうけるのではなく、己の能力に応じて社会に還元していくことである。知識が豊富な者、体力がある者それぞれの能力に応じて社会の改革、発展のために使うのである。そうすれば己の魂が喜び、先祖の魂も喜ぶのである。現在の世の中は自己保存欲のための行動が余りにも多すぎ、一つの宇宙である人間がそうした行動に走ると、不思議なことに己の首を絞め、ついには自滅してしまう。「捨ててこそ浮かぶ身」であることを忘れてはならない。 (p.81)
 今後、激変する社会環境の中にあって必要とされるのは、その分野を問わず、宇宙の本義に迫るように努力し、己の魂の向上を第一にしている者ではなかろうか。
 ノーベル章や数学分野のノーベル賞と言われるフィールズ賞を獲得するような独創性のある優秀な研究者は、彼らの研究が著しくはかどっている時、その魂が高揚感を伴って活発に働いているのを体験で知っているはずである。 (p.114)
 

【「救済」とは】
 「救済」とは、相手の魂を引き上げ、引き上げられた魂の次元まで肉体が這い上がれるように手を貸すことである。従って、一時的には回復しても、病気等の原因を作ってしまった己の生活態度が変えられないと元の状態に落ちてしまい、再び苦しむのである。
 「救済」された心身は従来とは全く異なった生活形態をとらねばならないのである。  (p.118)
 「救済」されたから全てが良くなるのではなく、「救済」された後、良くなった状況を維持しようとする自助努力が必要ということである。

 

 

【理趣経】
 「理趣経」の本旨は、「魂を磨けば、より深い情感が得られる」ということである。日々の行いを改めることによって美しくなった魂の持ち主は、異性に会っただけで己の魂にふさわしいかどうかが了解されてくるのである。互いに引き込まれるようにして魅せられた男女は、相手の趣味や日々の生活、そして過去までも含めて魂の特色を漠然とながら理解する。
 このように、互いに同じ示現の魂どうしが引き合わせた場合、二人でいることだけで深い満足感に浸れるのである。そして「気」の微妙な働きだけで情感が高まり、魂が抑えきれない状態になる。男性の気と女性の気が、互いにふれあい和合を求めて相手の気と溶け合ってゆく。 (p.145)
 魂を磨いていないもの同士であっても、互いに引き込まれ合うのは、低級な動物霊的な欲望に満たされている者どうしだからである。示現が同じであっても、その示現の低い男女同士と高い男女同士では、繊細さのレベルが異なっている。
 低示現の情感は、せいぜい肉感止まり。
 高示現の情感は、肉感をはるかに超えた上限のない高まりになるという。
 それは、脳科学的にも証明されている。
    《参考》   『いい女は、セックスしない』 石崎正浩  なあぷる
              【人間を人間たらしめるもの】

 

 

【日本民族に合った教育法】
 それぞれの民族には、その特性と神から与えられた使命に合った教育法が必要である。私は、体を酷使して無理に修行する方法でも、電話番号帳を暗記していくような記憶力偏重の教育法でもなく、日々の生活を正していくことで 「霊性」 を促し、健全なる思考法のもとに世界の指導者となりうるような人格の形成が、日本民族の教育にふさわしいと考えている。  (p.182)
 『教育勅語』 を基にした教育法は、日本民族にとっては最も相応しい教育法であったということになる。
 上記に続いて以下のように書かれている。
 日本人の持っている基質を一時でも早く目覚めさせ、武力等という歪んだ動物的手段を避け、相手の魂を説き伏せるような 「誠」 の道を実践することで世界を指導していかなければならない。   (p.182)
 “無為にして化す” という表現がある。 「誠」 を極めた人ならば、そこにいるだけで相手を感化してしまうそうである。
                                【道の奥には何が・・・】
 
<了>