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 だいぶ前に1回読んでいるけれど、再読。1995年2月初版。

 

 

【片付け物をすると、行き詰まりが解消する】
 抜群のヒラメキは、身の周りの整理整頓からやってくる。
 私は清掃を日課にしている。毎日、
「大勢のお客さんない気持ちよく足を運んでいただけるように」
 という思いを込めて、掃いたり拭いたり、清めたり。
 自ら率先して体を動かし、掃除をする。そうして清掃に没頭し、無心に体を動かしていると、フッといろいろなことが頭に浮かんでくる。(p.18)
 机の下に落ちたものを拾う気になれない時がある。そのような意識にしているものこそが、ヒラメキを妨げているヌエのような邪な霊体なのであろう。怠惰・不浄を好むような霊体に包囲されていて運が良くなるわけはない。
   《参照》   『佐藤可士和の超整理術』 佐藤可士和 (日本経済新聞社) 
             【思考回路を整理する】 【整理と問題解決は、同じ・・・】

 

 

【ご神業の実体】
 
一般的に 「修業(しゅぎょう)」 というところを、神道系の方々は 「ご神業(しんぎょう)」 と言うらしい。
 ご神業の実体、いわば 「本当に生きたご神業」 とは、雑用をこなす際に直面する 『ぐちゃぐちゃのプロセス』 なのだ。
 葛藤とジレンマ。人間が生きていく限り、揉め事や対人関係の些細なことが連綿と続く。それはのがれることができない 『人間の宿命』 といってもいい。そこにご神業の実体がある。(p.39)

 

 

【「霊主体従」 と 「いずのめの働き」】
 「霊主体従」 とは、大本教の出口王仁三郎がいい始めたものである。神道学、古神道でいう霊と体の関係を、彼はわかりやすく明確に 「霊主体従」 と要約して呼んだわけだ。
 また彼は、
「いずのめの働き」 とも説いている。
「いず」 とは縦で霊のこと。「のめ」 とは横で体のこと。何をやるにしても縦と横の両方のバランスを保ってやることが一番の理想である。但し、縦が先で横が後である。霊が主で、体が従。また同時に、霊と体が一致していなければ、本当の幸せは成就できないということだ。(p.106)
 十字架のような形状を、 “いずのめ” というらしい。
   《参照》   『妙のことたま』 植松愛子・選 (たちばな出版)
             【カミ】

 

 

【読解力や理解力をつけるためには、まず読書である】
 若いうちに、読書力と読解力、読解したものを表現する表現力、思考を整理して文章を組み立てる論理性や組み立て力、それらを身につけるために必要な忍耐力と推進力を養うことだ。読解力、あるいは理解力が乏しいと、一流の人のいっている事が何も分からない。(p.134)
   《参照》   『スゴイといわれるプレスになる』 渡辺教子  繊研新聞社
              【ビターな知識人】

 好きなものから読んでいけば読書力は付く。読書を続けていれば読解力や理解力は付く。読みつつ、とりあえず書いていれば表現力も付いてくる。論理性や組み立て力というのも、評論や論文みたいなつまらない本をちょっと我慢して読んでいれば次第に付いてくるんじゃあないだろうか。つまり、どんなことでも一緒だけれど、継続していれば、さまざまな 「○○力」 は徐々に底上げされるものだと思う。
   《参照》   『自分を変えてくれる本にめぐり合う技術』 ハイブロー武蔵 (総合法令)
              【読書力】

 

 

【道の奥には何が・・・】
 修行者はよく、「道を究めよう」 という。だが、その 「道」 というのがくせ者である。道はどこまでいっても道なのだ。道路は全部つながっていて、どこまでいっても道がある。どこで道が終わるのか?
 あれだけの歴史と伝統のある中国では、道を説いている。だが、道の路上には真髄はない。では、どこに真髄があるのか? それは道の奥にあるのである。では、道の奥には何があるのか? それは愛と歓喜なのだ。
 そこには、道を究めようという気持ちもないし、求道しようという心もない。ただもう、本当に澄み切った愛情と、愛情に満たされた歓喜がある。すべてが無為に化しているのである。
 先ほど述べた頭山立助さんがそうだったように、 『無為に化す』 人物というのは、その人といるだけで幸せで、悪が善に変わっていく。そういう気持ちが自然に湧いてきて、魂が洗われる。その人自身は別に道を説くわけでもなく、頑張ろうなんてこともいわない。ただ会ってにこにこしているだけ。それで人を変えてしまう。無為にして化す。すなわち、道を超えた人である。(p.210-211)
 道の真髄は、道の奥に・・・、それは愛と歓喜。
 真髄を会得した人は、無為にして化す。
 道を超えた人。

 

 

【不昧因果(ふまいいんが)】
 カルマについて、禅宗では 「不昧因果」 という。「因果を昧(くら)まさず」 という意味の私の好きな言葉だ。すなわち人生を悟った人間は、因果や前世の因縁やカルマ、また家代々の祖先などに一切心を昧まされない。只今、只今を充実して、精いっぱい平常心と安心立命の中に生きている。
  ・・・(中略)・・・ 。
 この、因果を昧まさずとは、善因善果、悪因悪果から逃れてしまうという意味ではなく、因果を受けても影響されない境地、境涯を持って生きるということなのだ。そうしながら、甘んじて、不幸のカルマでも受けて、余裕で生きていこうということである。(p.215-217)
 「不昧因果」 は、この4文字だけからだと、幾通りも解釈できてしまう。
 「善因善果、悪因悪果という法則の必然性・厳然性」 を意味するものと、勘違いしていた。
 「人生を悟った人は、法則の必然性・厳然性に、いちいち心を昧まさない。そんな只今を生き続けること」

 

 

<了>
 
 

   《参照》  深見東州・著の読書記録