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 そんな技術があるわけないと思いつつ、読書推奨派の著者の本を久しぶりに読んでみた。著者のお勧め本がたくさん書かれている。

 

 

【本のなかに自分を読む】
 結局、人生というものは、自分との話し合いであり、極端に言うと自分との闘いのようなものです。自分という人間は最大の友でもあり、最大の敵でもあるのです。
 最後は、自分の決断、選択なのです。
 かつて、 x 
『読書術』 で大ベストセラーを出した加藤周一さん は、こう言いました。
 「およそ本を読むときには、だれでもその本のなかに自分を読むもの」 であると。
また、人間通、読書通と評判の高い矢沢永一さんは、人間を知るということは、自分を知る以外にないだろうと言われています。その手段として、本の存在意義があることを強調されているようです。 (p.13)
 読書と自分自身に関する係わり方は人それぞれなのだろうけれど、一般的に、若い頃の読書はこのような傾向が強いのかもしれない。人文系の方にとっては生涯に渡ってのことになるのだろうか。
   《参照》   『男子、一生の問題』  西尾幹二  三笠書房
            【読書に関して】

下記の著作などタイトルからしてそのものである。
   《参照》   『自分の中に歴史を読む』 阿部謹也  筑摩書房
            【タイトル解題】

 

 

【読書力】
 読書力は、勉強力の強さにつながるものがあります。小さい頃から本を読み続ける人は、得をします。国語、英語、社会などの基本は読み書き能力です。速く的確に読める能力を有し、その分野に力を入れれば、勉強はかなりできるようになります。
 また読書は、脳を刺激し、発達させます。考える力をつけてくれます。すべての勉強の基礎力となります。(p.21)
 “考えるのは苦手” と思っている人でも、読書を続けていれば色々な素材が溜まってくるから、それらの関連性を無意識が探査しはじめ自ずと考えている自分に気付くことだろう。考えたいと思わなくても考えるようになってしまうのである。
 学生時代の本好きの難点は、本を読むのが楽しすぎて、学校の勉強に向ける時間が不足してしまうことでしょう。(p.21)
 これもよく分かる。
 大学生時代、ロクでもない定型的な授業を受けながら、 “読みかけのあの本の続きを読んでいた方が遥かにいい“ と、何度思っていたことか。

 

 

【 「読書」 と 「書くこと」 】
 書くことで読書が一層、意義在るものになってくる。
 こういう人類の発明した財産が、「読書」 と 「書くこと」 です。 (p.87)
 この記述は、このブログに書き残すようになって実感している。書いたほうが圧倒的に記憶に残るし、内容が頭に定着する。書かないと読んだことすら思い出せないことがある。少なくとも、このブログを始めてからは、かつて読んだのと同じ本を買ってしまうようなことはなくなった。
   《参照》   『本調子』  清水克衛・七田眞・斎藤一人・ハイブロー武蔵・他 総合法令
            【メモは必要 <七田>】

 

 

【生きる意志の反映】
 名言として、江藤淳・著 『夜の紅茶』 からの引用が記述されている。
 読むことを覚えるということは、社会が教育を通じてその成員に強制する行為である。しかし、読書に没頭するという行為のなかには、これよりももう少し深い意味が隠されている。つまりそれには、なにがしかの危機の自覚から生まれ、それを乗り越えようとする、自分にも十分には意識されていない意欲に結び付いた行為である。したがってそれは、決して受け身ではあり得ない。むしろ能動的で結局的な精神の営みであり、生きる意志の反映だとさえいえるのである。    (p.134)
 これが名言かどうかわからないけれど、読書に関して “正鵠を射た” というより “的全体を捉えた” 表現と言えるように思う。
 但し、読書が “生きる意志の反映” だとしても、読書は必ずしも “生きる意志を支える” ものではない。それを最終的に支えるのは現実なのかもしれない。文学小説の脆さというのは、この辺りにあるのではないだろうか。
 読書と現実は表裏一体で、あるいは車の両輪のごとく営まれないと意外に脆いものである。そのくせ、現実の側に重心が移ると読書は深く心に響かなくなるのである。
 学者であり評論家でもあった江藤淳さんは自殺で生涯を閉じてしまっている。

<了>

 

 

  ハイブロー武蔵・著の読書記録

     『自分を変えてくれる本にめぐり合う技術』

     『本調子』

     『本を読む人はなぜ人間的に成長するのか』