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 最初、この本のタイトルを訝って買うかどうかためらった。タイトルの内容が正しいかどうか、圧倒的に眉唾であった。何故なら、自分自身を省みて、そこそこ本を読んではいるけれど、全く人間的に成長しているとは思っていないからである(ここを読んだ友人は深く頷くに違いない)。人間的な成長を遂げていないチャンちゃんは、少なくとも「人生の肯定的な側面を信じて、社会人として前向きに行動しながら本を読むのでなければ、人間的な成長は難しいのでは・・」 と考えている。
 しかし買った。著者の本は以前に5冊ほど読んでおり、それらの内容は、いずれも著者自らの生きてきた過程が正直に飾ることなく表現されていたものであったことを知っていたし、今どき「本を読もう」なんてことを恥ずかしげも無く言える著者の勇気が素晴らしいと思っていたからでもある。


【生きるということは・・・】
 「生きがいの読書」という章がある。この中で、森本哲郎氏の著作を引用した文章があった。
「生きる、ということは、目的を持つことだ。・・(中略)・・もし、人生に何の目的も見出せないとしたら、その人は到底生きて行けないはずである」(p.94)
 チャンちゃんはこれと全く同じ内容の文章を、高校時代にヘルマン・ヘッセのいずれかの作品の中で読んだことを記憶している。ハンス・ギーベンラートは「車輪の下」敷きになって死んでしまったけれど、作者のヘッセは、その後、己に内在する「知と愛」二つの精神をナルチスとゴルトムントという二人の人物に投影して人間の両極を潜り抜け、「シッタールタ」の東洋の宗教的英知に道を探し求め、ほぼ最終到達点として「ガラス玉演戯」という至高芸術の世界を描いていたように記憶している。
 ヘッセは職業作家として芸術家の道を選んだのだからこれでいい。目的を求めつつ目的を達成したのだから最高の人生だったとチャンちゃんには思える。しかし、既に或はいずれは社会人として職業を持つ一般人は、「人生の目的(生きがい)」を「自分探し」という言葉に替えて、芸術的英知や宗教的英知などのややこの世離れしたものを求めるあまり、現実世界の今という時に“地に足が着いていない状態”になってしまっていることが多いのではないか? 少なくともチャンちゃんはそうであった(今もそうかも)。学生時代までならば、あるいは20代までならばそうであっても良いだろうとは思う。


【人生の目的】
「人生の目的」という問題に対して、チャンちゃんはかつて「そんなの答えじゃない」と思った回答を、とある宗教家の本の中で読んだことがある。その回答とはこうである。
「日常生活」。
 日々常に生きて活かすこと。より大きな価値に対して自分を活かすこと。そのために日々常に怠らずに生活の中で研鑽すべし、ということらしい。
 幸せ探しの一つの回答は、「青い鳥」(メーテルリンク)で、
 自分探しの一つの回答は、「日常生活」。 やけに似ている。


【寝食を忘れて思いつめよ】
 渡部昇一さんの著作(『人間らしさの構造』)も引用されている。
「生きがいとは自己実現である。実現されるべき自己とは善きものである。・・(中略)・・われわれの本性を善きものであるとまず認めて、それを成長させるという姿勢が、生きがいを求める人の姿となるであろう」(p.95)
 チャンちゃんはこの本を大学生のとき講談社学術文庫で読んだ。その時のチャンちゃんは、ハイブロー武蔵さんが引用している箇所に意義を見出すだけの成長段階に達していなかった。当時チャンちゃんが求め、回答の代替として記憶しているのは「自分のやりたいことを求めるなら、寝食を忘れて思いつめよ・・」という意味内容の記述があったことである。
 しかしチャンちゃんは、思いつめてはいたと思うが、普通に食べて普通に寝ていた。自らの潜在意識ないし深層意識に迫るという具体的なポイントを軽んじてしまったのである。


【自分探し】
 「自分探し」ということで思い出すことがある。
 強すぎるリーダーシップの有様を知って、中田英寿を内心嫌っていた人々が結構多くいたことは知っていた。しかしそんな彼等の何人かは、引退のブログに「自分探し」という言葉を見つけて「中田が好きになった」と言っていた。

 中田の言う「自分探し」は、我々凡人の「自分探し」と同じであろうか? 彼は意思の強い人である。華やかなスポットライトを浴びれば背後には孤独という名の深い影が生ずる。
 

 

  ハイブロー武蔵・著の読書記録

     『自分を変えてくれる本にめぐり合う技術』

     『本調子』

     『本を読む人はなぜ人間的に成長するのか』

 

<了>