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 昨日の日下公人さんの著書につながって、「教育勅語」なる本を広げてみた。
 

【 『教育勅語』 制定までの経緯】
 文部省が新設された翌年の明治五年(1872)五月、「一般人民邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」との趣旨に基づいて発布された「学制」は、国民すべてが学校教育を受けることを目指したわが国教育史上画期的な教育制度というべきもの。その主眼は「学問は身を立つるの財本」とする功利主義的学問観に立って、いわば立身出世を目標とする実用的な教育であった。
 西洋文明を模倣すること急なあまり、自国の学問をことさらないがしろにし、とりわけ道徳教育を軽視したところに、均衡を著しく欠くものがあったことは否めない。
 日本の近代化のためには、みずから率先して斬髪され、洋服を着用され、牛肉・牛乳を召し上がられ、太陽暦を採用され、馬に乗って兵隊を指揮することも敢えていとわれなかった明治天皇も、西洋偏重の教育の実情には深刻にご憂慮になり、明治十一年(1878)に教学刷新についての示唆を与えられ(後に「教学大旨」としてまとめられた)、また、同十五年には、元田永孚(もとだ ながざね:熊本出身の儒学者。明治天皇の君徳培養に終生奉仕)に命じて、幼童のための教訓書である 『幼学綱要』 を編ましめられた。
 こと道徳教育に関する問題の解決は、明治二十三年(1890)の山県有朋内閣にまで持ち越されたのである。
 実際の作成作業に入ったのは、榎本に代わって芳川顕正が文相に就任した5月以降のことである。芳川は東大教授の中村正直(東京出身の洋学者・教育家。当時のベストセラー 『西国立志伝』 を翻訳したことで有名)に勅語草案の作成を依頼し、中村案をもとにして文部省が成案を作ったものの、多くの問題点が指摘されて事実上廃案となるにいたる。
 中村に代わって草案の起草に携わることになったのが、当時の法制局長官であった井上毅(いのうえ こわし:熊本出身の学者的官僚。明治憲法制定に中心的な役割を果たす)であり、同郷の元田がこれに協力した。 (p.13~17)
 明治以前の日本には国定の「学制」はなかったけれど、様々な教育機関があった。
 藩校、私塾、寺子屋などである。地域特性のある藩校で有名なのは、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の時習館、薩摩藩の造士館などであり、私塾で有名なのは、吉田松蔭の松下村塾、緒方洪庵の適塾などである。「教育勅語」の草案に関わった井上・元田の両氏は、熊本藩校・時習館の出身者である。
 これらの教育機関の中には “読み・書き・そろばん” だけではなく、“経綸を説く” ような水準のものさえあったのは当然である。「開花」ばかりに傾いていた明治政府の教育傾向に、江戸時代から民衆の生活に根付いていた石門心学や、二宮尊徳の思想の中に語られていた道徳教育を、『教育勅語』 の中に「復古」的に再導入しようとしたのは、ごく自然な経緯だろう。
 最近、小学校教育の見直しが行われた。道徳の時間を復活させたことは、まことに時宜を得た正しい施策であると思っている。教育の「壊れ窓」は、『教育勅語』 に込められていた思想の欠落によって生じてきたものであることは、数年先になって全ての人々が納得するようになるだろう。          


 

【教育勅語】
 読んだことはなかったけれど、せっかくなので全文を書き出しておく。
 本文は、“ひらがな” ではなく “カタカナ” である。
 朕惟(おも)ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
 我が臣民克(よ)く忠に克く孝に億兆心を一にして
 世世その美を済(な)せるは此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す
 爾(なんじ)臣民父母に孝兄弟に友に夫婦相和し朋友相信し恭倹己れを持し
 博愛衆に及ほし学を修め業を習ひ以て知能を啓発し徳器を成就し進て公益を広め世務を開き
 常に国憲を重し国法に遵ひ一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし
 是の如きは独り朕か忠良の臣民たるのみならす又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
 斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すへき所
 之を古今に通して謬らす之を中外に施して悖らす
 朕爾臣民と倶に拳拳服膺して皆其徳を一にせんことを庶(こい)幾(ねが)ふ
   明治二十三年十月三十日
   御名御璽
 
 

<了>