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 別の本を探すために既読本の書架を見ていたら、この本が目についたので、何となく・・・。92年93年に継いで22年ぶりの再三読。1986年10月初版。

 

【大峰山系と天河神社】
 上掲の写真に写っている文字を書き出しておいた。
 玉置神社 から弥山までが「胎蔵界」、すなわち胎児の世界で、弥山から山上ヶ岳を「金剛界」として、人間世界に生まれてから死ぬまでを表します。
 標高1895mの主峰、54番目の霊場弥山は、人生のちょうど“誕生”の位置に当たるわけです。
 
天河大弁財天社 はその弥山の麓にあり、弥山への登山口にもなっています。弥山山頂には天河神社の奥の院があります。
 つまり、天河神社は人生の原点ともいうべき“誕生”の位置に建立されているわけです。(p.44)
    《参照》   『「超古代」の黙示録』 後藤まさし (たま出版) 《前編》
              【吉野にある迂迦の障壁賀】

 

 

【フトマニ】
 瞑想の根源は波動であり
 生命の根源もまた波動である
 生命の波動はラ・リ・ル・レ・ロの言霊で表され
 それらの、波動が調和してフトマニとなる
 フトマニとは無意識状態を作り出した時
 天から入ってくる気のことである
 
 ラの波動は風の波動である。螺旋状に伸び勢いを象徴する。
 リの波動は水の波動である。内へ内へとしまり哀しみを象徴する。
 ルの波動は空の波動である。ラとリとレとロの四つの波動を統合する。
 レの波動は火の波動である。十一の両極を持ちながら上昇し、怒りと憎しみを象徴する
 ロの波動は木と土の波動である。成長の輪を広げ愛情を象徴する。 (p.5-10)

 

 

【本来の“言葉”と、二種類の言葉】
 本来“言葉”とは、天からの気を受けて、それが自然に私たちの口から漏れるもの ――つまり“言”の“端”なのです。つまり、これを言霊というのです。
 神々の、宇宙の言霊を受けて、フトマニの波動に充たされた私たちのからだが共振して、発する言の端が言葉なのです。・・・中略・・・。
 二種類の言葉とは、天から降りてきた“言葉”と、私たちが勝手に人間のものだと思い込んでいる“コトバ”(便宜上カタカナで表します)です。
 コトバは自我に満ち、自己中心的な欲に満ちたものです。
 コトバを生む舌は、両刃の剣の形をしています。
 そもそも、自分の存在を他にアピールするところからコトバは発生していますから、人を傷つけたり、逆に人から傷つけられたりする性格を持った音の道具であることは仕方ないのです。
 ところが、言葉は天からの気を受けたエゴを全くなくした、いわゆる“真言”ですから、人の精神に与える影響も、きわめて穏やかでここちよいものです。 (p.82-83)

 

 

【天河の五十鈴】
 天からの気を最も受けやすい波動状態 ―― フトマニ ―― を作り出す方法のひとつが、五十鈴の響きを身体全体で(もちろん耳のツボも含めて)、受け止めることなのです。
 形式から入る瞑想の代表例が禅とすれば、自然体から入る瞑想が天河でのやり方です。
 五十鈴は、天上識レベルへの瞑想の導入として、あなたの波動を最もよいサイクルに導いてくれます。(p.96)

 天河神社では、御守りとしてペンダントヴァージョンの五十鈴を頒布しています。金の五十鈴と同型で、大きさだけ何十分の一かに縮小したものです。これを首からかけていますと、心に動揺をきたしたり、迷いを生じたりしたときに、軽やかな音をたてて鳴り出します。・・・中略・・・。
 五十の神々が宿り、言霊を受けて下さる五十鈴。
 業を消し去りフトマニ波動を生み出す五十鈴。
 UFOの形にも似た天空からのメッセンジャー五十鈴。
 この三角形に連結された3つの鈴が作り出すサイキック・パワーは、あなたのメンタルな世界を一変させるくらいの力をもっています。(p.96-98)
 チャンちゃんが天河の五十鈴 (上掲写真) を手にしたのは93年頃ですが、今でも天河神社に行けば社務所で購入できるでしょう。軽やかな音が響きます。

 

 

【神々のメッセージの出入り口】
 宮下富実夫さんの記述から
 天河で知識を得ようと思ったことはありません。
 知識よりも、まず自分の人生をいかに改めるか、それについての無言のメッセージをいただくところが天河なのです。
 天川村に入るトンネルを抜けると気が変わりますが、神気というものすら感じます。なにか生まれ故郷に戻ったような、温かさ、なつかしさ、そして厳しさに全身が包まれます。・・・中略・・・。
 天河とは、神々のメッセージの出入り口なのです。 (p.48)
 宮下さんが天河神社に奉納した音楽が納められたCDも社務所で購入できます。

 

 

【時が消える】
 美内すずえさんの記述から。
 その時は天女像の開眼の儀式があって、その後、宮司さんを囲んで明け方までワイワイやっていたんですが、ふつうの神社とは全く違う人々が集まってて、ますます面白い所だなーって思いました。だってレゲエの外人さんとかアーティスティクな人が多いでしょ。そのとき、自分の心がどんどん透明になってゆくのを感じて、そう、自我っていうのが1枚1枚はがされてゆくような。
 なんだろう、この感覚は ―― って思ってるうちに、自分の内側が巨大なブラックホール、穴になって、地の底から冷たい透き通った風が、凄い勢いでゴーッと体の中を吹き上がってくるのが感じられるんです。目で見るとかできないけれど、上へ上へ吹き上げられてゆく、ほんとうに不思議な感覚でしたね。
 翌日の朝、時計を見ても今が何時何分なのかわからないんです。時間の観念というものが欠落して、一時間後というのが、何なのかわからない。ジィーッと時計を見つめても駄目で、さすがにうろたえましたね。
 東京にもどってきて、落ち着いてから、宮司さんにその話をしましたから、
「それは素晴らしい」「これから過去や未来に自由に行けるんですよ」って言われました。ポーッと抜けることや時計がよめないことが、なんで素晴らしいのかよくわからないですけどね。(笑) (p.113)
 宮司さんが言った 「これから過去や未来に自由に行けるんですよ」 は、「周波数の違う世界に移行しますよ」 という意味だろう。
    《参照》   『魂の伴侶と出会う旅』 ドリーン・バーチュー (クレイヴ出版) 《前編》
              【時間の概念が変容する】
    《参照》   『宇宙神霊記』 美内すずえ (学研) 《前編》
              【“時間”と“空間”と“光”】
              【聖域八ヶ岳】(←こっちは、ついで) 

 

 

 

                    <了>