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 神武天皇以前の古代日本について知りたい人は、この本を読むのが一番いい。日本の古代史に興味がある人は、この本を読んでおけば、いろんなことの辻褄が合ってくるから、いろいろ整理できてよく分かるようになるだろう。日本古代史フリークだけではなく、日本人全てが読むべき本である。2006年8月初版。

 

 

【絶対五神と八和幡之大神】
 
いきなりヤヤコシイ単語が連続するけれど、「津」とか、「丹」という字義を理解しておけば、全体が分かりやすくなる。
 まず、太陽ですが「日輪太陽界神(にちりんたいようかいしん)」 息津(おきつ)といいます。
 続いて宇宙産迂迦の「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」 湍津(たぎつ)
 人祖を送り出した「天生零迦児神(あうむかごのかみ)」 東生(とおう)
 月は「月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)」 卯根(うこん)
 地球は「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」 邊津(へつ)
 以上、五神を「絶対五神」生命生産出しの神と呼んでいます。この他に、植物、動物の神がおられますが、それについては後述します。
 そして、日輪太陽から「丹(に)」が生み出され、「芒種のエネルギー」と共に太陽の「真光」に乗って、丹光として宇宙産迂迦の障壁賀へ飛んでいく、この仕組みを司る神理気として「天照皇大御神」がおられます。
 これで八神になります。総称して「八和幡之大神」とお呼びするのです。日本のあちらこちらに八幡神社がありますが、ここからきています。また後世、訳があって、「八和幡之大神」を祀ることを禁じられたため、仏教を隠れみのとして、「八幡大菩薩」としているのも同じ神です。(p.30-31)
 「丹」とは、“太陽でつくられる生命の元”のこと。
 「芒種のエネルギー」とは、“日輪(オーラ)を成り立たせているもの”。精気=精子
 宇宙産迂迦の障壁賀とは、太陽系宇宙の最果てにあるものという意味だけれど、「丹」の目的地。人間に例えるなら“子宮”を意味するらしい。
 余談ですが、大覚寺や二条城の奥に「障壁の間」という場所があります。これは、天皇や将軍の寝室であり、セックスすることにより子供が誕生することを表しており、昔の人はこの言葉を知っていたのです。
 迂迦の障壁賀にある天王平の「天の意和戸(てんのいわど)」の前に「丹光」が届き、光は太陽へ帰されます。残された「丹」が障壁賀の天王平にたどり着いて、「生」と合体し「丹生」となります。(p.23)
 これ即ち、「丹生のシステム」。

 

 

【「天津神」と「国津神」そして、大神霊理気「大正腑・天神」】
 この太陽系宇宙産を創造され、コントロールされている大神霊理気を「大正腑・天神」の神と呼び、先に述べた「絶対 五神」と「天照皇大御神」を加えた六神、すなわち丹生・丹生魂遺伝子を生み出す「神仕組み」を「天津神」といいます。
 そして、次章で述べる「植物」「動物」の神と「人祖」である伊邪那岐・伊邪那美人神、すなわち生命誕生の神を「国津神」というのです。(p.31)
 上記の中に、大神霊理気「大正腑・天神」という重要語が出てくるけれど、これに関して、
 日本武尊は、・・・中略・・・「こんな戦いをしていたのでは私の良心が許さない。戦をせずに話し合いで解決しよう」と思われた。
 その時、銀杏の木の上に、大正腑・天神の神霊理気がお姿を現されたのです。そこで、日本武尊は二名の供に命じ、その地に「大正腑・天神」を祀られたということです。その場所は現在、私に情報を提供して下さる「K」さんの「住居の敷地」となっているのですから、不思議な縁です。
 なお、愛知県大府という地名は、これに由来しているのです。
 その後、三百年以上経過して、この神社は名古屋市・
熱田神宮 に移されました。熱田神宮のお祭りである「尚武祭り」は、「大正腑祭り」から来ているようです。尚武の「尚」という字はいろんな意味を含むという字ですが、「菖蒲」は真っすぐに伸びる花で、「曲がらない」象徴であり、「勝負」は命を賭けることでもありますが、根源的な意味は、生命を生み出す「生産(しょうぶ)」にあるのです。(p.144-145)

 

 

【「九気九神・伊勢生成(いせいいなり)の神」】
 初代・伊邪那岐尊・伊邪那美命が人祖として人類発展の基礎を築かれ、やがて天界に帰られたわけですが、このお二方を「人神」として、先の八神に加え、「九気九神・伊勢生成の神」と呼んでいます。(p.31)
 伊勢(いせい)は異性の総称で、雄雌、男女の世界。
    《参照》   『「秀真伝」が明かす超古代の秘密』 鳥居礼 (日本文芸社) 《前編》

              【伊勢の語源】
 生成(いなり)とは、生命が与えられること。

 

 

【伊邪那岐・伊邪那美】
 人類の祖先は、「伊邪那岐・伊邪那美」の男女お二人だったことがわかりました。零迦児(むかご)として、丹波の国、真名井原、丹庭に降ろされたのですが、そのように計画した天界の仕組みはどうなっているのでしょうか。私たちが住んでいる太陽系宇宙産は、「十三示元津(かい)」で出来ているとのことです。
 ちなみに、目に見える世界は「界」、見えない施津(せかい)を「津(かい)」で表現します。仏教ではこれを「十三仏」で伝えております。(p.22)
 伊邪那岐・伊邪那美、そして13示元津という用語の関係については、
    《参照》   『2013:人類が神を見る日』 半田広宣 (徳間書店) 《中編》

              【タカヒマラにおけるイザナギとイザナミ】

 

 

【2神の子どもたちと「七六(なむ)の大和詞」】

 結婚したお二人(伊邪那岐・伊邪那美)は、童女が初めて織物をされた滋賀県「多賀・栗栖」の地が大変住みよかったので、そこへ向かわれる途中、三重県・員弁(いなべ)の「饗庭(あいば)」の地で人類最初となる妊娠に気付かれました(現在、饗庭神社が残されています)。
 当時、寿命は数千年あったそうですが、その後、天命により38人のお子を産み、その地で育てられました。男女それぞれ十九人ずつのお子でした。そして天命に従い、現在の多賀町にある霊仙山の山頂に三十八名のお子たちを集わせ、輪になって順序良く一人ひとりに、天に向かって大きな声で違った発生をさせたのでした。そうすると、天上神霊津より、一言ずつ違った霊言が返されてきたのです。
 併せて七十六の霊言、言霊になります。
 すなわち、これが七六の言霊となり、これだけの言霊があれば、絶対に争い戦いにはならない「七六の大和詞」として誕生したのでした。
 しかしながら、後に権力により七十六の言霊が、五十音に削られていく中で、「対等、平等」の人権が損なわれ、ついに現代では二十六音(アルファベット)の言霊が支配する世界になりました。これでは、人類の安全保障はなくなり、言霊舌足らずの分が武器となって補われるということになり、どこまでいっても人間同士の安全が保障されることはないのです。
 聖書の冒頭に「初めに詞ありき」と伝えられているのは、このことなのです。(p.38-39)

 現在では、イエスが十字架で磔になられたのを表す為、十字を切っているのですが、それ以前からイエスは十字を切っておられたのです。その意味は、垂直が「国津神」、水平が「天津神」を表し、先にお伝えした「国津神」「天津神」の交わる地祇の地への祈りを表すためだったのです。「地祇の地」とは、地球上でただ一つ、日本の伊勢内宮のあるあたりなのです。(p.51-52)
    《参照》   日本文化講座 ⑤ 【 言霊・天皇 】

              【「神」という言霊】
 南無妙法蓮華経の南無は、「帰依」の意味とされているけれど、本来は言霊の国・日本で生まれたこの「七六の大和詞」のこと。

 後世、人が集まる賑やかな場所を「都」と呼びましたが、その源は「三八子」からきています。三十八人のお子が集う場所が「みやこ」なのです。(p.40-41)

 

 

【人祖「初代」の御陵】
滋賀県・多賀大社 の北にある「鳥居本」は墓所という意味ですが、ここより少し東の霊仙山麓に、人祖「初代」伊邪那岐尊・「初代」伊邪那美命の御陵があります。「大杉竜王大神」をお祀りする「北原竜宮」が、初代・伊邪那岐尊の御陵であり、丑寅の方向に祀られている「丑寅金神」です。南側に「比婆大神」を祀る社が、初代・伊邪那美命の御陵で、未申の方向に「未申金神」として地軸に沿って祀られています。(p.41)

 

 

【「御難賛助」の誓い】
 伊邪那岐尊・伊邪那美命は、天命により人類発展の基となる三十八名のお子を産み育てられ、「大丹生家・皇」とそれを補佐する「丹生家」の制度を定められました。(p.40)
 人祖の系譜にある「大丹生家」と「丹生家」は、きちんと記憶しておこう。
 また、何より大切なこと、それは「御難賛助」の誓いです。
 「決して、争ったり、殺し合ってはなりません」ということを教えられました。(p.40)

 記紀では、人類が地上に降りる時、誓った「御難賛助」の御誓約(うけい)のことを、「五男三女」の宇気比(うけひ)としています。(p.82-83)
 つまり、「天の安川の誓約」として描かれているのだけれど、「五男三女」は、とんでもない歪曲である。
 「大宇宙産の大御意思」とは、何だったのでしょうか? 動物、植物、人間、すべての命が弥栄に繁栄することです。人間は難儀が襲っても、われ先にと争うのでなく、助け合い励まし合って生き抜くことです。「御難賛助」、ただそれだけのことです。これが「志合わせになる極意」だと教えてくれています。
 難しい学問は不要です。(p.178)

 

 

【菊の御紋は本来十八弁】
 現在、天皇家に伝わる「菊の御紋」は16弁ですが、本来は「聴区(きく)」の紋章であって、天皇を中心に十八名の国務大臣を表し十八弁でした。「きく」とは、花の菊ではなく「よく聴く」という意味だったのです。後に述べる天武天皇による歴史の改竄で、初代天照天皇、速素佐之男尊の二名は取り除かれ、現在の十六弁になっているのです。
 ところで、現在伊勢神宮の外宮に祀られているのは、初代・天照天皇と速素佐之男尊および時の国務大臣十七名です。「豊受の大神」と呼ばれています。(p.45)
 元伊勢の「籠神社」の奥宮である眞名井神社の石碑 には、“豊受大神元津宮ナリ”と書かれている。

 

 

【籠舟で真名井から弥彦へ】
 神倭伊波礼毘古尊の天皇に位を譲られた饒速日は、今日から住む所とて定まらぬ身となってしまわれ、現在「酒見(逆身)神社」のある尾張一宮・今伊勢の地に、しばらくわび住まいされていましたが、やがて新潟の弥彦島に流されていきました(弥彦島は現在、埋め立てや川の浸食・堆積作用等により陸続きになっています)。
 その前に、饒速日は初代・天照天皇から続く天皇家の系譜を神武に渡すわけにはいかず、元伊勢(現在の宮津、籠神社)の海部宮司に預けにいきましたが、海部も「神武勢力に見つかれば、こことて危ない」ということで籠舟(流人舟)を仕立てました。それに饒速日を乗せ、弥彦島へ向かう途中、しばし陸路を歩かれるよう取り計らい、そこで出会うべく海部が手配した信頼できる竹内宿禰に預けます。
 それが日本の歴史を伝える「竹内文書」として今も残っていますが、ほとんど紛失してわずか5分の1程度のようです。また、この事件を忘れない為、元伊勢・真名井神社は、「籠神社」と呼ばれるようになります。
 天皇として行幸された晴れ姿を知る土地の人々は、流人として変わり果てたお姿を悼み、「天皇の御霊魂は、いつか、この地へ戻りたいであろう」と「浦島太郎の伝説」を創り、「浦島神社」を建てて、神武勢力に気付かれぬように、密かに饒速日をお祀りしたのです。(p.48-49)
 饒速日が籠舟でむかった弥彦島の東側に 弥彦神社 がある。
 連綿と続いた平和は、武力を用いた天武天皇の誕生で大きく変わってしまいました。人徳とか、人格で統治してきた天皇政治は、この時代から権力、武力で統治するようになっていったのです。(p.49)
 下記リンクにあるアマテラス族は、初代・天照天皇ではなく、その系譜にあった饒速日から天皇位を奪った神武―天武の系譜を意味している。
    《参照》   『ベールを脱いだ日本古代史』 坂本政道 (ハート出版) 《前編》

              【アマテラス族の渡来経路】【アマテラス族のルーツ】

 

 

【三津の基督神理気】
 初代天照天皇は、この世には三津(みつ)の基督神理気(きとくしんりき)があることを神示により知らされました。三津とは三つの施津(せかい)を表しています。(p.49)
 「息津(おきつ)太陽」の元宮として、三重県志摩、神筋山の麓に「内宮」
 「湍津(たぎつ)菊理」の元宮として、「加賀・白山比咩宮」
 「邊津(へつ)地球」の元宮として、阿蘓・霊津「幣立神宮」。
 宗像(むなかた)三女神として祭られている息津宮、湍津宮、邊津宮は、三津の基督神理気を広く大陸に伝えるために、宗像(もとすがた)を表したものであるという。
 参拝とは三拝であり、三礼三拍手が本来ですが、二礼二拍手に変えられています。現在ほとんどの神社で、それが正しいかのように行われているのです。
 なぜ三拝するのか、参考までに記しておきます。
 生命生産出(うみだ)しの“もと”は、太陽の「真光」と太陽が生み出す「丹」と、それを宇宙産迂迦の障壁賀へ届け生命を育む「芒種のエネルギー」なのです。これらに感謝して三拝するのです。(p.75)

 

 

【霊仙三蔵 ― 恵果 - 空海】
 滋賀県霊仙山麓で生まれた霊仙三蔵は、仏教の真髄を確かめるため、8世紀後半に遣唐留学僧として入唐しました。・・・中略・・・。仏教哲学の基として、人類の祖がどこなのかを調べているうち、人祖が日本から流れていることを悟り、・・・中略・・・人祖「初代」伊邪那岐尊・伊邪那美命の重大さを、異国の地で知ったのでした。
 これは魂が震える程の出来事、意外な真実の発見だったのですが、唐の朝廷の一員として内部を深く知った霊仙を、日本に帰すはずもなく、それらの秘密を「恵果」に伝えました。
 恵果は、人類の祖が天命が誘(伊邪那)った方であることを、中国に「大元帥明王」として隠されていたことを知りましたが、それは国家機密であり、大国の唐こそが祖であるとする朝廷に従わねば、命にかかわる事態でした。
 そこへ、日本から空海がやって来ました。恵果は、空海にすべてを託し、その秘密を日本に持ち帰らせたのです。(p.53-54)
    《参照》   『地球一切を救うヴィジョン』 白峰 (徳間書店) 《前編》

              【空海が恵果から教えられた秘密】
 中国で用いられていた「大元帥明王」という名を、記憶しておきましょう。
 この重大な事実を知った空海は、予定を早め1年半で帰国し、「丹生」の一族の支援を受けて、高野山に大伽藍を建てようとしたけれど、神武勢力からの反発が強かった。
 花の台を天に向けた高野山といえば、対のように花の台を伏せた比叡山があるけれど、日本の歴史は複雑である。
    《参照》   『世界支配者vsライトワーカー』 サアラ×玉蔵 (ヒカルランド) 《4/4》

              【比叡の人脈】

 

 

【密教の三宝荒神】
 神武政治では「人祖は、高千穂の峰に天降ったニニギノ尊である」と固執されていたからです。・・・中略・・・。
 それを救ったのが「三宝荒神」でした。事実を伏せて、密教の守護寺として建設したほうがよいと思い到りました。日本が人祖の国であることを秘密にした教えとして、「密教」が誕生したのです。
 三宝荒神の三宝とは、「息津、湍津、邊津」の三神をいい、荒神とは恐れ多い神を表しています。「天照皇大御神」や八和幡の大神を祀ることを、神武勢力が許さなかったため、形を変えて修験道として、荒神が作られたのです。(p.54)
 「大元帥明王」も「三宝荒神」も、荒々しい神々という印象だけれど、そこに秘められたものは、人類の祖である伊邪那岐・伊邪那美であり、三津の基督神理気なのだということ。

 

 

【謎の都「邪馬台国」】
 実は、この邪馬台国の都(三八子)は三重県の北西部にある員弁(いなべ)郡大安町石榑(いしぐれ)地方・麻生田(おうだ)一帯なのです。石榑は、かつて三十八人のお子たちが、子や孫を連れて滋賀・来栖の地から移り来られ、七十六の言霊を使って言葉を生み出された場所です。「意思呉れ」とは、その言葉を天界に求められたものだったのです。その後、時が経つにつれて、この地が大いに三八子(都)として栄えたのでした。(p.61-62)
 武智時三郎先生は、「徳による都を創るその場所は北伊勢」と考えていたという。この著作内容と符合する。
    《参照》   『2011年からの正しい生き方』 船井幸雄 (ヒカルランド) 《後編》

              【美濃・尾張・伊勢】

 

 

【石槫から京へ】
 ここ(石榑地方・麻生田一帯)には、古い時代から天津神を祀った「上賀毛神社」があり、国津神を祀った「鴨神社」がありますが、十代・崇神天皇、十一代・垂仁天皇の時代、東征を図った神武勢力が、対立する大和民族と融和を図るため、石榑に祀られていたこの神社を京に、「上賀茂神社」「下賀茂神社」として建立したのでした。ちなみに、「上賀茂神社」は貴族しか参拝が許されず、「下賀茂神社」が庶民のためのものだったようです。(p.62)
    《参照》   『誰も知らない開運絶対法則』 白峰・有野真麻 (明窓出版) 《後編》

              【いずれ原点回帰する!】

 

 

【天武天皇による大弾圧】
 ところで、8世紀はじめに書かれた「古事記」「日本書紀」に、それよりわずか数百年前に、中国にまで知られていた都、邪馬台国について何の記述もないのは、極めて不自然です。一体、なぜでしょう? それは、次章で述べる天武天皇の弾圧に関係します。大丹生家、丹生家が集う三八子(都)を徹底して破壊した天武天皇が、自分が指示した記録に、それを掲載させるはずもなかったのです。
 なお、邪馬台国の「卑弥呼」とは、固有名詞ではなく、天皇家、朝廷の占い師・巫女を表しており、代々受け継がれていました。「山陰神道」として、現代に伝わっております。(p.62-63)
    《参照》   『古代天皇家と日本正史』 中丸薫 (徳間書店) 《後編》

              【大海人(天武天皇)】 【天武と伊勢神宮】

 空海は、この「大丹生家」を護るために、八十八カ所の霊場を造りました。・・・中略・・・。八十八は米という字になり、この字はどちらの方向から見ても八十八になります。この八神(八和幡之大神)を祀られた「大丹生家」を四国に保護し、八十八カ所の札所を設けて擁護されたのです。(p.78-79)
    《参照》   『うれしうれしで超えよう2012年の銀河パーティ』 中丸薫・中山康直 (徳間書店) 《後編》

              【四国を、死国から始国に】

 

 

【白山を守った泰澄】
 天武弾圧に抗したのは空海だけではない。役小角や、加賀・白山を開いた泰澄大師のことも記述されている。泰澄は越丹生家出身で、白山信仰に仏教的な意味づけをして天武による弾圧から守ったという。「三所大権現」や「十一面千手観世音像」に託された意味も書かれている。
 ちなみに、「血種観音」の「血種」とは遺伝子のことですが、それが「千種」となり「千手」となりました。「千手観音」として伝えられている仏の手の数は、千ではなく三十八本になっており、前にお伝えしたとおり、人祖が産み育てられた三十八名のお子、それが生命遺伝子の「源」であることを伝えているのです。(p.123)

 

 

【役小角と水分(みくまり)神社】
 吉野・青根ヶ峰の山頂に人祖が残された記念の「霊石」を、丹生家十八家が、二十年毎の交替制で、何千年、何万年にわたり、これを維持・御護りしてきたのです。・・・中略・・・。
 天武の時代、その当番の代表は、丹生家筆頭の葛城族である役小角でした。「ただちに、青根ヶ峰の霊石を取り壊すように」と命令されますが、役小角は、「人祖の命令でない限り従えない」と断ります。そして、大島へ島流しになるのです。
 その後、青根ヶ峰の霊石は取り壊され、谷底へ落とされました。何とか復元したいと願い出るのですが認められず、結局、峰から相当下がった低い場所に、「ここならよかろう」と認められたのが、現在の水分神社になります。(p.69)
 「水分」という文字は故意に変えられているという。本当は「身分け」神社。

 

 

【吉野にある迂迦の障壁賀】
 実は、金峯山 には男根の意味が隠されており、青根ヶ峰は女陰、大天井ヶ岳までが膣を表しているのです。その先である山上ヶ岳が子宮にあたります。これが宇宙産の子宮・迂迦の障壁賀の写し山というわけです。(p.72)
 この地域で修験道を実践している人にとっては常識なのだろうけれど、吉野や熊野を背景としたミステリー小説の中で、「ここは山全体が子宮である」というような記述を読んだとこがある人々は多いはず。半村良の『妖星伝』にもそう書かれていた。

 

 

【持統天皇による「民草和気の道」

 あまりにすさまじい弾圧ぶりに、神の霊神理気がはたらかれ、天武天皇は脳に異常をきたし、ついに気が狂うという事態になりました。天武天皇の狂った振る舞いは異常極まり、あまりの恐ろしさに、次の天皇の引き受け手がなかったほどです。
 そして、四人いた妃のうち、たった一人の天照派であった方が天皇を引き受けられます。それが持統天皇です。皇后であった持統天皇は、神へのお詫びを願われ、それまで放置されていた伊勢内宮を復活され、20年毎に造り替える「式年遷宮の制度」を設けられました。これは、吉野の青根ヶ峰頂上で何万年と続けられていた、20年毎の交替制の丹生家のお護りにちなんだものでした。(p.86-87)

 持統天皇は、武力によるむごい戦いが行われた土地にお詫びの巡幸をされ、各地に神社を建立され、武力のない政治を行われたわけですが、この一連の地域を民草和気(くさなぎ)の道(倫理)と呼びます。(p.91)

 「民草和気の道」に建立されたのは、
 三重県桑名市多度町にある 多度大社

 岐阜県大垣市赤坂町にある 明星輪寺

 愛知県一宮市今伊勢にある 酒見神社

 名古屋市緑区にある      氷上姉子神社

 愛知県西尾市宮前にある   幡頭神社

 の5つ

            【持統天皇】

 

 

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