いきなりヤヤコシイ単語が連続するけれど、「津」とか、「丹」という字義を理解しておけば、全体が分かりやすくなる。
続いて宇宙産迂迦の「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」 湍津(たぎつ)
人祖を送り出した「天生零迦児神(あうむかごのかみ)」 東生(とおう)
月は「月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)」 卯根(うこん)
地球は「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」 邊津(へつ)
以上、五神を「絶対五神」生命生産出しの神と呼んでいます。この他に、植物、動物の神がおられますが、それについては後述します。
そして、日輪太陽から「丹(に)」が生み出され、「芒種のエネルギー」と共に太陽の「真光」に乗って、丹光として宇宙産迂迦の障壁賀へ飛んでいく、この仕組みを司る神理気として「天照皇大御神」がおられます。
これで八神になります。総称して「八和幡之大神」とお呼びするのです。日本のあちらこちらに八幡神社がありますが、ここからきています。また後世、訳があって、「八和幡之大神」を祀ることを禁じられたため、仏教を隠れみのとして、「八幡大菩薩」としているのも同じ神です。(p.30-31)
「芒種のエネルギー」とは、“日輪(オーラ)を成り立たせているもの”。精気=精子
宇宙産迂迦の障壁賀とは、太陽系宇宙の最果てにあるものという意味だけれど、「丹」の目的地。人間に例えるなら“子宮”を意味するらしい。
迂迦の障壁賀にある天王平の「天の意和戸(てんのいわど)」の前に「丹光」が届き、光は太陽へ帰されます。残された「丹」が障壁賀の天王平にたどり着いて、「生」と合体し「丹生」となります。(p.23)
そして、次章で述べる「植物」「動物」の神と「人祖」である伊邪那岐・伊邪那美人神、すなわち生命誕生の神を「国津神」というのです。(p.31)
その時、銀杏の木の上に、大正腑・天神の神霊理気がお姿を現されたのです。そこで、日本武尊は二名の供に命じ、その地に「大正腑・天神」を祀られたということです。その場所は現在、私に情報を提供して下さる「K」さんの「住居の敷地」となっているのですから、不思議な縁です。
なお、愛知県大府という地名は、これに由来しているのです。
その後、三百年以上経過して、この神社は名古屋市・熱田神宮 に移されました。熱田神宮のお祭りである「尚武祭り」は、「大正腑祭り」から来ているようです。尚武の「尚」という字はいろんな意味を含むという字ですが、「菖蒲」は真っすぐに伸びる花で、「曲がらない」象徴であり、「勝負」は命を賭けることでもありますが、根源的な意味は、生命を生み出す「生産(しょうぶ)」にあるのです。(p.144-145)
《参照》 『「秀真伝」が明かす超古代の秘密』 鳥居礼 (日本文芸社) 《前編》
【伊勢の語源】
生成(いなり)とは、生命が与えられること。
ちなみに、目に見える世界は「界」、見えない施津(せかい)を「津(かい)」で表現します。仏教ではこれを「十三仏」で伝えております。(p.22)
《参照》 『2013:人類が神を見る日』 半田広宣 (徳間書店) 《中編》
【タカヒマラにおけるイザナギとイザナミ】
【2神の子どもたちと「七六(なむ)の大和詞」】
当時、寿命は数千年あったそうですが、その後、天命により38人のお子を産み、その地で育てられました。男女それぞれ十九人ずつのお子でした。そして天命に従い、現在の多賀町にある霊仙山の山頂に三十八名のお子たちを集わせ、輪になって順序良く一人ひとりに、天に向かって大きな声で違った発生をさせたのでした。そうすると、天上神霊津より、一言ずつ違った霊言が返されてきたのです。
併せて七十六の霊言、言霊になります。
すなわち、これが七六の言霊となり、これだけの言霊があれば、絶対に争い戦いにはならない「七六の大和詞」として誕生したのでした。
しかしながら、後に権力により七十六の言霊が、五十音に削られていく中で、「対等、平等」の人権が損なわれ、ついに現代では二十六音(アルファベット)の言霊が支配する世界になりました。これでは、人類の安全保障はなくなり、言霊舌足らずの分が武器となって補われるということになり、どこまでいっても人間同士の安全が保障されることはないのです。
聖書の冒頭に「初めに詞ありき」と伝えられているのは、このことなのです。(p.38-39)
現在では、イエスが十字架で磔になられたのを表す為、十字を切っているのですが、それ以前からイエスは十字を切っておられたのです。その意味は、垂直が「国津神」、水平が「天津神」を表し、先にお伝えした「国津神」「天津神」の交わる地祇の地への祈りを表すためだったのです。「地祇の地」とは、地球上でただ一つ、日本の伊勢内宮のあるあたりなのです。(p.51-52)
【「神」という言霊】
南無妙法蓮華経の南無は、「帰依」の意味とされているけれど、本来は言霊の国・日本で生まれたこの「七六の大和詞」のこと。
「決して、争ったり、殺し合ってはなりません」ということを教えられました。(p.40)
記紀では、人類が地上に降りる時、誓った「御難賛助」の御誓約(うけい)のことを、「五男三女」の宇気比(うけひ)としています。(p.82-83)
難しい学問は不要です。(p.178)
ところで、現在伊勢神宮の外宮に祀られているのは、初代・天照天皇と速素佐之男尊および時の国務大臣十七名です。「豊受の大神」と呼ばれています。(p.45)
その前に、饒速日は初代・天照天皇から続く天皇家の系譜を神武に渡すわけにはいかず、元伊勢(現在の宮津、籠神社)の海部宮司に預けにいきましたが、海部も「神武勢力に見つかれば、こことて危ない」ということで籠舟(流人舟)を仕立てました。それに饒速日を乗せ、弥彦島へ向かう途中、しばし陸路を歩かれるよう取り計らい、そこで出会うべく海部が手配した信頼できる竹内宿禰に預けます。
それが日本の歴史を伝える「竹内文書」として今も残っていますが、ほとんど紛失してわずか5分の1程度のようです。また、この事件を忘れない為、元伊勢・真名井神社は、「籠神社」と呼ばれるようになります。
天皇として行幸された晴れ姿を知る土地の人々は、流人として変わり果てたお姿を悼み、「天皇の御霊魂は、いつか、この地へ戻りたいであろう」と「浦島太郎の伝説」を創り、「浦島神社」を建てて、神武勢力に気付かれぬように、密かに饒速日をお祀りしたのです。(p.48-49)
《参照》 『ベールを脱いだ日本古代史』 坂本政道 (ハート出版) 《前編》
【アマテラス族の渡来経路】【アマテラス族のルーツ】
「邊津(へつ)地球」の元宮として、阿蘓・霊津「幣立神宮」。
宗像(むなかた)三女神として祭られている息津宮、湍津宮、邊津宮は、三津の基督神理気を広く大陸に伝えるために、宗像(もとすがた)を表したものであるという。
なぜ三拝するのか、参考までに記しておきます。
生命生産出(うみだ)しの“もと”は、太陽の「真光」と太陽が生み出す「丹」と、それを宇宙産迂迦の障壁賀へ届け生命を育む「芒種のエネルギー」なのです。これらに感謝して三拝するのです。(p.75)
これは魂が震える程の出来事、意外な真実の発見だったのですが、唐の朝廷の一員として内部を深く知った霊仙を、日本に帰すはずもなく、それらの秘密を「恵果」に伝えました。
恵果は、人類の祖が天命が誘(伊邪那)った方であることを、中国に「大元帥明王」として隠されていたことを知りましたが、それは国家機密であり、大国の唐こそが祖であるとする朝廷に従わねば、命にかかわる事態でした。
そこへ、日本から空海がやって来ました。恵果は、空海にすべてを託し、その秘密を日本に持ち帰らせたのです。(p.53-54)
【空海が恵果から教えられた秘密】
中国で用いられていた「大元帥明王」という名を、記憶しておきましょう。
この重大な事実を知った空海は、予定を早め1年半で帰国し、「丹生」の一族の支援を受けて、高野山に大伽藍を建てようとしたけれど、神武勢力からの反発が強かった。
花の台を天に向けた高野山といえば、対のように花の台を伏せた比叡山があるけれど、日本の歴史は複雑である。
《参照》 『世界支配者vsライトワーカー』 サアラ×玉蔵 (ヒカルランド) 《4/4》
【比叡の人脈】
それを救ったのが「三宝荒神」でした。事実を伏せて、密教の守護寺として建設したほうがよいと思い到りました。日本が人祖の国であることを秘密にした教えとして、「密教」が誕生したのです。
三宝荒神の三宝とは、「息津、湍津、邊津」の三神をいい、荒神とは恐れ多い神を表しています。「天照皇大御神」や八和幡の大神を祀ることを、神武勢力が許さなかったため、形を変えて修験道として、荒神が作られたのです。(p.54)
《参照》 『2011年からの正しい生き方』 船井幸雄 (ヒカルランド) 《後編》
【美濃・尾張・伊勢】
【いずれ原点回帰する!】
なお、邪馬台国の「卑弥呼」とは、固有名詞ではなく、天皇家、朝廷の占い師・巫女を表しており、代々受け継がれていました。「山陰神道」として、現代に伝わっております。(p.62-63)
【大海人(天武天皇)】 【天武と伊勢神宮】
【四国を、死国から始国に】
天武弾圧に抗したのは空海だけではない。役小角や、加賀・白山を開いた泰澄大師のことも記述されている。泰澄は越丹生家出身で、白山信仰に仏教的な意味づけをして天武による弾圧から守ったという。「三所大権現」や「十一面千手観世音像」に託された意味も書かれている。
天武の時代、その当番の代表は、丹生家筆頭の葛城族である役小角でした。「ただちに、青根ヶ峰の霊石を取り壊すように」と命令されますが、役小角は、「人祖の命令でない限り従えない」と断ります。そして、大島へ島流しになるのです。
その後、青根ヶ峰の霊石は取り壊され、谷底へ落とされました。何とか復元したいと願い出るのですが認められず、結局、峰から相当下がった低い場所に、「ここならよかろう」と認められたのが、現在の水分神社になります。(p.69)
あまりにすさまじい弾圧ぶりに、神の霊神理気がはたらかれ、天武天皇は脳に異常をきたし、ついに気が狂うという事態になりました。天武天皇の狂った振る舞いは異常極まり、あまりの恐ろしさに、次の天皇の引き受け手がなかったほどです。
そして、四人いた妃のうち、たった一人の天照派であった方が天皇を引き受けられます。それが持統天皇です。皇后であった持統天皇は、神へのお詫びを願われ、それまで放置されていた伊勢内宮を復活され、20年毎に造り替える「式年遷宮の制度」を設けられました。これは、吉野の青根ヶ峰頂上で何万年と続けられていた、20年毎の交替制の丹生家のお護りにちなんだものでした。(p.86-87)
持統天皇は、武力によるむごい戦いが行われた土地にお詫びの巡幸をされ、各地に神社を建立され、武力のない政治を行われたわけですが、この一連の地域を民草和気(くさなぎ)の道(倫理)と呼びます。(p.91)
の5つ
【持統天皇】