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 本書は今年の2月に出版されている。
 副題に、「日本人の生き方を取り戻す」とあるように、本書は、『清く美しい流れ』 の中にあるのが日本人の生き方である、という主題で貫かれている。
 

【道徳と経済】
 わが国の近代産業の父と言われる渋沢栄一は、かつてこういいました。
 「道徳なき経済は経済にあらず。経済なき道徳は道徳にあらず」
 つまり、経済と道徳は門柱や箸のようなもので一対のものだというのです。この考え方が近代産業興隆の真ん中にしっかりあったのですが、戦後は情けないことにすっかり消えてしまったようです。 (p.30)

 

 

【明治維新で失った日本の美点】
 (明治)新政府は、徳川幕藩体制の一切を、よいものも含めてすべて、近代化の名のもとに葬り去ろうとしました。これを「御一新」といいます。
 私はこのやり方は功罪半ばしたと思っています。 (p.47)
 この後、著者は、「功」 は独立国家としての道を歩むことができたこと。「罪」 は 「家族主義」 という日本人に最も適した社会の在り方を捨て去ってしまったことだと述べている。

 

 

【「五教」 で教えた家族関係】
 当時(江戸時代)は、家族内の人間関係を「五教」 という教えで浸透させました。五教とは、父は「義」、母は「慈」、兄は「友」、弟は「恭」、子は「孝」で、一家の中での各々の位置にいる最重要点が簡潔に示されています。
 俗にいう “人間にもまれて育つ” わけですから、少なくとも人に配慮することを学び、人間関係に精通します。
 こうして家族の中ですっかり人間関係のトレーニングをすませた末に社会人になるのですから、何よりも本人が楽です。その上、社会にとってもこの上ない人材を得ることになり、まさに「健全なる発展」が、着実にかなえられる仕組みであったのです。
 著者は、明治政府は、江戸までの家族主義を否定し個人主義を導入し、軍部が家族主義を復活させたが、それは江戸時代の家族主義の美点を喪失させたものだった、と書いている。
 産業に関する文化比較では、日本企業の特徴を 「家族主義」 という言葉で説明することが多い。「うちの会社」という人々が多いことや、「揺りかごから墓場まで」 といわれる家族的な企業文化は日本企業の特徴である。産業構造が変わり核家族化が進む過程で、家族の役割を代替していた企業が比較的多く存在していたことは事実である。

 しかし、近年のグローバリズム席巻過程でこそ、完全なる「家族主義の破壊」が進行しているといえるのであろう。

 

 
【世界でものを言うのは人間力】
 国際交渉の場に臨んでいる人々が、異口同音に言うことがあるという。
 「国際交渉の勝負は、交渉のテーブルではなく、ディナーのテーブルにある」
 そうした場所では、相手の文化度が高いほど本業の話になりません。となると話題は両国の伝統文化などになります。特に日本文化は各国の教養人の興味の的であるらしく、必ず日本の精神や伝統文化について相手が尋ねてくるそうです。そのときの答え方やその中身によって、相手はこちらの人間としての値踏みをしてくるというのです。
 中にはかなりの日本通もいて、「円山応挙の絵について」 とか 「龍安寺の庭について」 など手ごわい質問が相次ぐ場合もあるということです。相手を納得させる答えができないと、軽蔑したような表情になり、なんだこんな無教養な人間だったのかと相手が威圧的になって、翌日からの交渉の流れが変わったりすることもあるから気が抜けないというのです。 (p.68-69)
 上述されているように、“特に日本文化は各国の教養人の興味の的である” ということに留意しておかねばならない。日本文化は奥が深いからこそ教養人の興味の的になるのである。説明するほうとしては、奥が深い分やっかいなのであるが、これを避けて通ることはできない。
 国際交渉の場ではなくとも、世界でものを言う人間力を持つには、自国文化の理解がアルファである。

 

 

【江戸期の「生き方」教育】

 江戸期の子育てのバイブルとも言える 『和俗童子訓』 (貝原益軒・著)では、次のように言っています。
「君子は始めを慎む。差(たが)うこと、もし毫リなれば、謬るに千里をもってす」 (p.75)

 中江藤樹の著書 『鑑草』 にも胎教の重要性が説かれています。
「胎教の心もちは慈悲正直を本とし、かりそめにも邪なる念を発(おこ)すべからず」 (p.76)


「四端」とは、
「惻隠の心」 は 「仁」 (困っている人を見て気の毒に思う心)
「羞悪の心」 は 「義」 (自己の不善を恥じ、他者の悪を憎む心)
「辞譲の心」 は 「礼」 (譲り合う心)
「是非の心」 は 「智」 (道理に従って良い悪いと判断する心)
  これに、   「信」 (自分との、あるいは他人との約束を守る心)を加えて「五常」になる。 (p.79-81)
      《関連》   『「日本」がなくなる日』 鵜川昇 海龍社
寺子屋の教科書は、
男子は 『実語録』   『童子教』   『古状揃』   『三字教』  『孝教』
女子は 『百人一首』  『女今川』   『女大学』  『女庭訓往来』  などを使いました。  (p.88)

 「往来物」= 手紙、 「往来」= 手紙の具体例を集めた手本
「職業往来」、「商売往来」、「農事往来」、「魚屋往来」、「大工往来」など、三十数種類の手本があったといいます。これは手習い(習字)の手本として使用しましたから、何度も書き写すことで字が上手になると同時に、人とのやりとりの詳細な部分もマスターできるという一挙両得の学習法でした。 (p.92)


『小学』
 このような基礎教育と、後の人間教育のメインテキストである 「四書五経」 を結ぶ大変重要な存在として、『小学』 がありました。 『小学』 は、南宋の大儒朱子が、友人でもあり弟子でもあった劉清之に依頼して編纂した書物です。 (p.89)
 清掃、応待、進退。朱子は、人生を決定づける三つの重要な点を選び出しました。朱子の炯眼もさることながら、これを幼年教育の柱とした江戸期の父母の洞察力にも感心させられます。 (p.93)
 まさにこれらは、生き方教育であって、知識の教育ではないから、仕事を含む人生全般の実学に近い。今日の教育にこういった要素はかなり希薄である。

 

 

【自ずと然り】

 日本人は、自然を 「自ずと然り(おのずとしかり)」 と読んで、生き方、人生観にまで昇華しました。
 人間いかに生きるかという大命題に対して、大上段に振りかぶって 「こうすべき、ああすべき」 というのではなく、ごく自然に肩の力を抜いて、流れに逆らわずありのままに生きる、といったのです。 (p.106)
 
 
【神道を支えるもの、「鋭い感性」 と 「深い精神性」 】
 日本には、具体的な神の像はありません。わが国の原始神道は、祖霊や精霊や宿っている森や山、大樹や大きな岩などを御神体としていて、「これが神だ」 と誰にも明瞭に分かるものはないのです。
 これは、信仰心を持つ側、つまり神を崇める人間の側に、よほどの感性がなければ成り立たないということを意味しています。
 教祖もいない。教義も経典もなく、他宗教を排撃もしない。・・・(中略)・・・。このような信仰を、社会として維持するには何が必要でしょうか。
 それは、「鋭い感性」 と 「深い精神性」 です。
 この両者によって維持されてきたのが神道なのです。 (p.107-110)


 エミール・ガレやルネ・ラリックという巧の技を持った(アール・ヌーボーの)職人芸術家が、注目したのが日本文化です。彼らの目に日本はどのように映ったのでしょうか。
「彼ら(日本人)は、自然のスペクタクルに感動する霊感に満ちた詩人であると同時に、極微の世界を持った身近な神秘を発見する注意深い観察者でもある」 (p.174)
 「鋭い感性」 の先にある 「繊細な霊性」 に秀でた神道家たちが共通して語っているキーワードが “清明心” である。この本の著者は、以下のように説明している。

 

 

【清明心】
 「斎戒沐浴」 や 「禊ぎ祓い」 の事例を説明した後、以下のように書いている。
 このように、川は清いもので自分を清くするものとの認識が、やがて一つの価値観の源となり、我々日本人の心の根底をなす精神になりました。
 それが 「清明心」 です。
 清明といえば、月光の神々しさを賛美した言葉ですが、それとともに私は水や川に対する敬愛心から生じた言葉であると考えています。
 やがて。これが人間の在り方に投影され、澄み切った透明感をもった心、すなわち 「清く明(あけ)く心」 「清明心」 の持ち主こそ立派な人間だという価値観が生まれます。
 ここに日本人の理想の人物像が確立されたといってよいでしょう。
 これこそが、わが国の歴史を貫いて流れる 「清く美しい流れ」 の水源なのです。
 この古代日本からの流れを引き継ぎ、磨きをかけたのが、鎌倉武士でした。これ以降、「清く美しい流れ」 は 「武士道」 の系譜とも重なりあって流れていくことになります。 (p.113-114)
 このような鎌倉武士の代表として、著者は北条泰時の解説に多くの紙数を裂いている。なお、泰時の人格にさらに磨きをかけた存在として、栂尾高山寺の明恵を挙げている。
 鎌倉武士以前の政治家の中で、清明心という価値観を重視した人物として聖徳太子の他に、清明心を国家の制度の中に組み込んだ持統天皇の事例を記述している。

 

 

【持統天皇】
 著者は、下記のような偉業を称えて、「持統天皇に対する評価はもっと高められてしかるべきだ」 と書いている。
 国家リーダーの尊称を、それまでの 「大王(おおきみ)」 から 「天皇(すめらみこと)」 に変更したこと。
 国名も 「倭」 から 「日本」 に変え、天皇が治める日本国という、今日に至る体制を作ったこと。そして、
 天武14年(685年)に制定された位階は、上位の名称が 「明・浄・正・直」 となっています。
これは、上に立つ者として 「明けく、浄(きよ)く、正しく、直く」 という心構え、つまり清明心と、そこから生まれた正直心を重視する姿勢を打ち出したものです。 (p.187)
 上位位階の名称にこめられた清明心は、無私・無欲に連なっているのは言うまでもない。
 「民草和気の道」を巡ったのは、持統天皇自身の清明心の発露だろう。
   《参照》  『「超古代」の黙示録』 後藤まさし (たま出版) 《前編》
            【持統天皇による「民草和気の道」】

 庶民文化の中にあってさえも、明治維新以前に遡れば遡るほど、幸せ = 富貴 ではないことがわかる。

 

 

【日本人の伝統的な生き方】
 もう一度考えるべきことは、日本人の伝統的な生き方は、「富貴貧賤と幸・不幸は別物」 という哲学に貫かれていることです。だからこそ、「貧賤を楽しむ」 ことが可能なのです。日本の伝統精神文化である 「わびさび思想」 には、こうした考え方が色濃く反映されています。
 わびとは何か。侘茶の祖・村田珠光は 「藁屋に名馬つなぎたるがよし」 という言葉を残しています。 (p.156)
 
 

<了>