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 武道家・甲野さんと、脳科学者・茂木さんの対談。日本文化における身体性の重要さを語っている東大出身の知識人に、養老孟司、茂木健一郎、斎藤孝、高岡英夫、内田樹 といった人々 (《後編》の最後に、5人の読書記録をリンクしておいた) がいるけれど、本文前に、養老孟司さんの推薦の辞として以下のように書かれている。
 「この本のゲラを読ませてもらって、二人で“バカの壁”の取扱説明書を書いてもらったような、そんな印象を受けた。世間の枠から外れたこの二人の話が多くの人達に通っていくようになったら、世の中もだいぶ風通しがよくなるだろう。いま立ち止まって何かを考え始めている若い人に本書を薦めたい。 養老孟司 (p.5)」 2008年10月初版。

 

【意識のパラドックス】
甲野  三尺幅の板をどんなに高い所にかけても、ロボットなら怖がらずに歩けるけれど、人間は「落ちるかもしれない」と思っただけで足が震えてしまう・・・中略・・・。ここにはものすごいパラドックスがある。意識があるからこそ、危険の予知や対策も立てることができる。その一方で意識があるから余計な恐怖心を感じてしまうことがある。武術では、ある面で感度をあげながら、ある面では感度を切ってしまうような、ある種矛盾した状態を要請する側面があるのだということを、武蔵は剣の極意として語ったのだと思うのです。・・・中略・・・ロボットのように無意識が良いのかと言えば、必ずしもそうではない。いかに状況によって意識の常態を切り替えていくかが大切だということです。(p.36)
 相手の呼吸を読んで技を出す程度のことなら意識的にできるけれど、生死を掛けるような極限状態の中では意識の流れの中で繰り出す技では遅い。意識の前段である「前意識」ないし「無意識」状態で技が出ないと間に合わない。
 ロボットのように意識がなければ、どのような場面であれパフォーマンスは安定するけれど、それだけのことであるなら、武道においては全戦全敗である。
甲野  知識とか意識というのはまさに「長所即欠点」なんですね。(p.44)
 意識は、“リスクヘッジ”に対して有用であるけれど、そこばかりに意識がフォーカスされれば、“自在なる創造性”は失われてしまう。脳内に太い回路が出来てしまうからである。

   《参照》   『宇宙パラレルワールドの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド) 《中編》

             【リスクヘッジの陥穽】

 

 

【順次縦列処理と同時並列処理】
甲野  明治維新以降、何でもかんでも「科学的にしなくてはいけない」と考える傾向が日本で強くなる中で、そうした科学的に取り扱いにくい同時並列性を無理矢理切り捨てて、矛盾のないものに矮小化してきた歴史があるんじゃありませんか。その結果、部分化し、矮小化してでも論理的にやることが優先されるという、本末転倒の話になってしまった。論理に当てはめようとするあまり、人間の能力をうんと落として辻褄合わせをすることが不文律になってしまったことが、近代人の不幸ではないかと思います。(p.42-43)
 「論理的」というのは、「順次縦列処理」のチャートで示せる時系列的な考え方の仕様だけれど、「同時並列処理」は、時系列的な一意性など示しようがないから「非論理的」と見下すような意識付けになってしまっている。
 「論理的」な考え方は、必然的に「要素還元主義」という思考体系に収斂する。しかしこのような「機械論的な思考体系」では世界を正しく解釈できないという気づきから、「散逸構造理論」などの「複雑系の科学体系」が語られるようになった。
    《参照》   『複雑系の経営』  田坂広志  東洋経済  《前編》

              【 「複雑系の知」 】

 しかし、「複雑系」の思考体系に入って行くよりは、むしろ、ケストラーの「ホロン(部分=全体)」の概念を都合よく援用して、甲野さんの言う「同時並列処理」を解釈したほうが簡単じゃん、と単純なオツム構造をしているチャンちゃんは思う。
 【意識のパラドックス】の書き出しのコメントに、『宇宙パラレルワールドの超しくみ』と言うタイトルの著作をリンクしたけれど、人間の脳は、もともと時系列という二元性に基ずく「時間」の概念を超えた『パラレルワールド』を認知できるからこそ、『同時並行処理』が可能な脳力を有しているのである。

 

 

【才能の有無は、リミッターを外せるかどうか】
茂木  武術でも音楽でも、全ての人に能力は潜在していて、違いはリミッターを外せるかどうかということになるかもしれません。・・・中略・・・。いわゆる「才能を発揮できていない人」というのは、いろんな意味で制約をかけている人ということになると思うんです。逆に言えば、甲野さんももちろんそうですが、才能のある人にはリミッターをうまく外せる人が多いように思います。(p.55)
 リミッターというのは、“無意識に制限しているもの(制限因子)” のこと。
 「火事場の馬鹿力」と表現される状態の時、リミッターは外れていることになる。

 

 

【「自分自身の生き方が、補助線になる」】
茂木  日本ではいまだに文系、理系なんていう言い方が通っていますが、陳腐な言い方ですよね。テンションが低い分類だなと思います。そうではなくて、領域を超えて補助線を提供する、もっといえば「自分自身の生き方、存在そのものが、社会にとっての補助線となる」、そういう生き方が最高だと思うんですよ。
甲野  「自分自身が補助線になる」というのはなかなかいい表現ですね。補助線というのは仮のもので、常にそこがゴールじゃなく、過程であるという考え方ですから、私の稽古のスタンスともよく似ていると思います。(p.78)
 終わりなき道を極めんとする人々は、皆、無名のままに補助線役としての人生を歩んでいることだろう。
 領域を跨ぐ補助線役とか、エポックな変革の先陣を切る補助線役は、客観的に評価されるかもしれない。
 今の時代、多くの分野で補助線役として相応しいのは、大局的に見て “女性” かもしれない。
 下記リンクに示す、領域を超えた業績を残している黒川伊保子さんもその一人。
    《参照》   『「無邪気な脳」で仕事をする』 黒川伊保子・古森剛 (ファーストプレス) 《後編》

              【文系・理系という区分】

              【境界線(枠)を取り去る】

 

 

【武道における型】
甲野  型って、ある形を真似して、それを反復練習することによって、その動きをスムーズに、自動化していくためのものだと考えている人が多いんですね。でも、そうじゃないのです。ついやってしまいがちな、当り前の動きを封じるためにあるのであって、反復練習とは正反対の世界なんです。
 稽古型は、・・・中略・・・、「できること」をいかに否定して、次の段階に飛翔させるかという教育的な方法論が、ひとつの知恵として「型」に結実していたと思うんです。 (p.79)
 空手の流麗な型稽古の様子をイメージしてしまうから、この記述はちょっと意外に思える。
 しかし、武道における型の説明は、能楽における型の説明に通ずるだろう。
    《参照》   『萬斎でござる』 野村萬斎 (朝日新聞社)

              【 能楽の 「型」 】

 “「できること」を否定して、次の段階に飛翔させる”ということは、動きを「型」に封印することでエネルギー準位を上げて次の段階に飛翔させるということだから、これは量子飛躍(クウォンタム・ジャンプ)に準ずる上達方法を言っているのだろう。これ即ち、論理的な学び方ではない。
 これこそが、日本人が大切にしてきた「体で学ぶこと(身体性)」の重要性を意味しているのだろう。
 順次縦列処理学習なら、手取り足取りの指導で習得できる。
 同時並行処理学習は、手取り足取りではできない。「型」によって「できること」を否定された時に、体が自ずとなす動きを導き出したいである。

 

 

【シラバス】
茂木  僕は大学のシラバスというのがまったく理解できないんです。あんなもの、意味ないでしょう。(p.83)
 甲野さんの、武道における「型」の説明に、茂木さんは「我が意を得たり」という思いから、このように語っている。
 日本語という並列処理言語を使って話す日本人指導者に、縦列処理様式のシラバスを要求するというのは、日本人の教育法としては致命的なミスを犯していると言えるだろう。
    《参照》   『日本辺境論』 内田樹 (新潮社) 《後編》

              【日本語脳の並列処理という特殊性】

 下記リンクにも、シラバスに関して同様なことが記述されている。
    《参照》   『下流志向』 内田樹 (講談社) 《中編》

              【消費者マインドが作る「教育の崩壊」】

 

 

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