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 十数年前、NHKの連続テレビドラマに出たことで有名になった著者。本業は狂言師さん。著者が歩んできた過程を読みながら、狂言なんて全然知らない人でも、気楽にその演目の数々を知ることができるだろう。
 いろんな舞台芸術の世界を生きている人々にとっては、さらに参考になりそうな記述がいくつかあるような気がする。

 

 

【三番叟(さんばんそう)】
 『三番叟』 は、能楽(能・狂言の総称)の 『翁』 のなかで演じられるもので、能楽として確立する以前の芸能の要素を残した、狂言師としての節目のひとつになる、たいへん格式の高い重い曲です。(p.40)
 『三番叟』 は、「舞う」 とはいわず 「踏む」 というぐらい、激しい足拍子の多いエネルギッシュな曲です。 (p.42)
 『三番叟』 を披(ひら)くということは、身体を完全にコントロールできるようになるまで訓練するということです。 ・・・(中略)・・・。押しつけられるものにすぎなかった型にも、やり方がいろいろあるということ、また、型というもの自体の深さ、奥がわからないくらいのブラックボックス的なところなども分かってきました。(p.43)

 『三番叟』 で狂言のおもしろさに目覚め、以後は稽古にも積極的に取り組むようになっていきました。(p.44)
 『三番叟』 を披いたのは17歳だったという。
 能の 『翁』 は、宗家が生涯に数回演ずる程度の最重要演目なのに、そのペアとなっている狂言のこの 『三番叟』 を17歳の青年が演じていたというのは、やや意外に思ってしまう。

 

 

【猿にはじまり、狐に終わる】
 狂言修業のなかで卒業論文に位置づけられるのが、 『釣狐』 という曲です。「猿にはじまり、狐に終わる」 といわれることはすでに紹介しましたが、この曲には、せりふ、語り、謡、写実的演技、物まね的演技など、狂言師として必要なすべての技術が含まれています。(p.69)
 始まりは 『靭猿(うつぼさる)』 という曲で初舞台は3歳。卒業論文に相当する 『釣狐』 を披いたのが22歳というから、まさに普通の大学生ペース。

 

 

【 能楽の 「型」 】
 私は、能楽の 「型」 というのは、倍率のよいレンズのようなものだと思っています。演じるものはレンズに向かってエネルギーを放射します。レンズがよければ投影される影は、実像よりも大きく映る。その形に想像力で色をつけるのは、観客席にいるお客さまの特権です。
 ですから、新劇のように、 ・・・(中略)・・・ 感情を動かした芝居はしません。 ・・・(中略)・・・。悲しいというポーズを取ったら、あとはエネルギーの強弱でそれを感じさせる。そこが狂言の優れたところでもあるし、新劇の人たちからすれば、ちょっと物足りない部分でもあるのかもしれません。(p.108-109)
 能や狂言は 「型」 という制約の中で演ずるからこそ、密度の濃いエネルギーが 「型」 に充填され、それが閾値を超えた時 「型」 から溢れ出たエネルギーの奔流となって観客に伝わるのだろう。
 一般に、能楽は 「静」 のイメージでとらえることが多く、止まっていたり、ゆっくり動いていたりといった印象を持たれることが多いと思います。しかしながら、実のところ、「止まっている」 のではなく、「とどまっている」 のであって、エネルギーが頂点に達すれば、激しく動くこともあります。(p.121)
 日本の伝統芸能には、 “エネルギーを封入する型“ があるからこそ、スタティック(静的)な動きとは裏腹に、圧倒的なエネルギー芸術としてのダイナミズム(動的力)を持っている。
 秀でた感性をもつ芸術家たちが、日本の伝統芸能を ”エネルギー芸術“ と評する所以である。
   《参照》   『「知」のネットワーク』 大前研一 イースト・プレス
            【能はエネルギー芸術である】
   《参照》   『 時宗・狂言 “日本の心” を求めて 』 高橋克彦・和泉元彌 徳間書店

 

 

【 『マクベス』 】
 私は、 『マクベス』 を題材にした、黒澤明監督の 『蜘蛛巣城』 という映画に、たいへんあこがれています。この映画は、イギリスに留学しているとき見たのですが、イギリスでは、 『マクベス』 は、「スコティッシュ・プレイ」 と遠回しに呼ばれ、日本の 『四谷怪談』 のように、お参りしてからやるような縁起の悪い戯曲です。それを黒澤さんは、日本風にアレンジしながら、さらに迫力と恐ろしさを倍増させています。序破急の矯め、引っ張りにも似たスピード感があって、能や狂言と共通する演劇的高揚があるのです。
 見終わったあと、思わず唾をのみ込んだまま、立ち上がることができませんでした。 ・・・(中略)・・・。さすが「世界のクロサワ」 です。 『マクベス』 というイギリスが本家のものを使って、原作を超えるほどの作品を作ったわけですから、称賛に値すると思います。(p.182)
 演劇系の芸能を詳細に理解する者同士だからこそ、このような感動が得られるのだろう。シェークスピアも能も狂言も詳しくは知らない私たちは、こうような記述を手掛かりに、黒澤映画を端緒として、文学や芸能に興味を広げてゆけばいいのだろう。

 

 

【狂言の流派】
 狂言では大蔵流と鷺流が(江戸)幕府のお抱えとして勢力を二分していましたが、京・尾張・加賀などで勢力を張っていたのが、和泉流です。(p.187)
 現在、狂言には和泉流、大蔵流の2流派がありますが、私の家は和泉流に属しています。(p.186)
 能の流派については下記
   《参照》   『隠れたる日本霊性史』  菅田正昭  たちばな出版
 和泉流では 「クーゥークククコケーコケー」 と鳴くにわとりですが、大蔵流では、「東天紅(トウテンコー)」 と鳴きます。(p.200)
 大蔵流のニワトリって、冗談みたいな鳴き声!  もしも、夕暮れ時だったら(ありえないだろうけど・・・) 「西天茜(セイテンアカネ)」 って鳴くんだろうか。

 

 

【能と狂言】
 能のなかにも狂言師の果たす役割があり、それを、間(あい)狂言、略してアイと呼びます。これも狂言師にとって重要な仕事です。夢幻の世界が表現されることの多い能で、アイは現実の世界を生きる人間として存在します。ときには、コミカルな味も出します。しかし、能の骨格から抜け出してしまうと、全体のバランスを崩してしまいますので、笑いとは逆の雰囲気が支配している舞台で、自重しながら、どうエネルギーを出すかが問われます。アイがひとりで20分も語る曲もあり、あらゆる語りの技術が求められているのです。こうしたアイを演じることによって、狂言師の芸は洗練されていくのです。(p.205)
 能の合間に演ぜられる狂言を、番組の合間のコマーシャルみたいな感じで気楽に見てしまいがちだけれど、それでは、狂言師さんたちに対してあまりにも失礼。
 狂言は能に比べたら、言葉も動きも遥かに分かりやすいし短いから、この本に書かれている様々な演目のあらすじを読んでおくだけで、いろんな演目を、短編小説のように鑑賞してみたくなることだろう。
 
 
<了>