イメージ 1

 

●伝統・文化の消えゆく運命 
というヘッドラインの章を読んでいて、思うところがあった。本文は以下の通り。
 作曲家の三枝成彰さんはこんな話をしてくれた。
 「世界の文化の基本的なルール、約束事はすべて西欧で決まってしまっている。これは、西欧の文化のほうが優れているからではなくて、歴史の事実としてそうなっている。このことをしっかり認識しておかないと、日本の文化などはいつまでたっても世界に理解されません。・・・・つまり、世界の人々に理解できる文化というのは、西欧文化がベースとなってしまっているということです。分母は西欧、分子にどれだけ自国のものを乗せることができるかが、その国の文化度になる。」
 けだし卓見である。だとすると、少なくとも能や邦楽といった種類のものは、いくら海外に紹介しても、歴史的あるいは文化地理学、文化人類学的関心は呼んでも、文化としての演劇、音楽としては理解されないということになる。(p.118~119)

 


【「技術」は「後発優位」であるが、「文化」は「先発優位」である?】
 いきなり横道に逸れる。技術といっても、産業技術は後発優位であるが、金融技術は先発優位といえるであろう。だからといって、金融は文化に依拠するものではない。あくまでも、金融は政治に依拠するものである。「金融」の優位性は、先んじて富の蓄積をなしてきた西欧が持つ「政治力」に依存しているということである。


【文化は本当に先発優位か?】
 さて、文化は、金融同様に、西欧の基準が「デファクト・スタンダード(既成標準)」となっている、という見解を、私自身はいささか奇異に感じた。なるほど事実はそうなのかもしれないが・・・・。
 しかし、作曲家の三枝さんも、著者の大前さんも、「西欧のデファクト・スタンダードに飲み込まれて、日本文化は消えゆく運命」と言っているが、これは明らかに間違っていると思う。


【文化的状況は意外な側面から変化してきている】
 表題の書籍が出版されたのは、今から10年前の1996年である。10年前は、日本のアニメ文化が西欧に進出する前だったのではなかろうか。2000年には、ロンドンの街を走るあの赤いツー・デッキ・バスに、既にポケモンの車体広告が付されていたのを、私は見ている。技術力一辺倒の産業界が予測していなかった意外な側面からアニメが登場して、日本文化を世界に搬出していたのである。


【最近、フランスで行われた日本フェア】
 先日、日本人ではなくフランス人がフランス国内でプロデュースした日本文化フェアの様子を、テレビで放映していた。日本のアニメに影響をうけたフランスの若者達が、日本の渋谷・原宿あたりを屯している若者達のファッションを真似していたのである。
 ヘルシーであることが時代の追い風を受けて日本食がフランスでも人気だと言う。日本人ではない東洋人が経営する日本食レストランが多く出店しているらしい。本当の日本食を食べたいが、純然たる日本食レストランは高すぎて若者では行けないと、不満気味に話していた。
 なお、番組の最後に、フランス人が日本人でなければ作れないものとして、シャワー・トイレをあげていた。西欧に旅行した日本人のビデに関する失笑談はテンコモリあるが、いずれ、全てのビデは日本発祥のシャワー・トイレに置き換わるのであろう。
 私は、フランスなど、西欧社会全体の文化の担い手の変化が、日本のアニメ進出とマッチして世界の日本化を推進してゆくように思っている。


【文化の担い手が変った。大人文化から子供文化へ】
 根本的な大きな変化として、文化の担い手が、大人から子供に徐々に変化してきている。
 西欧のクラシックやオペラは、大人の文化である。西欧の子供たちは大人から厳格にしつけられ、家で留守を守るだけの役割しか与えられていなかったのである。西欧は大人の文化国家であるが、それに比して、日本は大人と子供の中間とでもいうような中人の文化国家である。
 「甘えの構造」という日本社会の文化的な解釈概念があるように、日本は西欧ほどに大人と子供の領域を截然と分ける文化的社会構造は昔からなかったのである。年配の日本人で、日本も昔は「幼長の序」が厳しく、子供に自由はなかった、という人がおられるなら、西欧の子供たちは人格を認められた存在ではなかった、と理解しておいた方が現実にあった正しい認識である。
 世界中の多くの子供たちに影響を与えているのは、日本のアニメである。長期的な視点で見て世界の日本化は揺ぎ無くなっている。


【デファクト・スタンダード文化対策】
 大人の文化としての西欧文化、オペラやクラシック音楽は、なるほど、デファクト・スタンダードであるかもしれない。世界で活躍する大人たちが芸術の基本は西欧であると自負(錯覚?)しているのならば、しかたがない。負けて勝つという戦法で、西欧文化対策をこうずればいいではいか。
 舞台装置や舞台衣装を日本的なものにしてオペラをやればいい。実際にそのような芸術活動をやっている団体は既にある。このような日本文化としてのオペラが、西欧で上演されるならば、確かに日本文化の西欧浸透に役立つであろう。
 蛇足であるが、オペラの内容を知ったならば、多くの日本人はその下品さに驚くであろうものが少なくないそうである。例えば、新婚初夜の相手は誰がするか!とかいうストーリーなのだそうである。言葉が分らないことを幸いに、五感で感じるだけの芸術にしておいたほうがいい。内容を知ったらその低級さに唖然とするか失望する。


【能は芸術か?】
 大前さんは、能や邦楽といった種類のものは、いくら海外に紹介しても、歴史的あるいは文化地理学、文化人類学的関心は呼んでも、文化としての演劇、音楽としては理解されない、と書いている。
 しかし、大前さんの言うように、能や邦楽は単なる演劇や音楽ではない。能の起こりは本来、神事である。薪を炊いて異空間を演出するのも、幽玄なる神事だからである。退屈な神事をエンターテイメントにするために、二つの能の間に狂言を挟むようになったそうである。最初から民衆を相手にする芸能であったのではない。
 また、能の宗家ですら、その意味が分らないまま、代々伝えられてきた通りの作法で演じている演目があるという。そのような代表的演目である 『翁』 などは、予言神事であるという。
 


【能はエネルギー芸術である】
 神事という表現では、日本文化として世界に広めることが困難であると思ってしまう人のために、『僕はいかにして指揮者になったのか』 佐渡裕 (はまの出版) の中に書かれていたことを書いておく。
 佐渡さんは彼自身の才能を見出してくれた、レナード・バーンスタインと共に能を観賞していたという。この時、バーンスタインは涙を流しながら、「素晴らしいエネルギー芸術だ」 と言って感動していたそうである。
 超一流といわれる人々は、いうならば超能力者である。その能力を宗教ではなく芸術の世界で用いていた人々なのである。彼らは、静的な動きの中にも、ワキとシテが発する動的なエネルギーが見えていたのであろう。
 神道系の人々が能などの芸術を嗜むのは、感覚世界に通じているからである。感覚世界に参入できない仏教系の人々は、経典から学んで心の教えを語るだけである。情念世界をフィールドとする仏教系の人々には、そもそもからして芸術性がない。


【能とクラシック】
 能は、一般人には分りづらいものである。『娘道成寺』に招かれて、端然とした姿勢で最後まで観賞しなければならないとしたら、かなり苦痛である。ほとんど拷問に近い。私だったら逃げ出してしまう。
 観賞する側の感性の豊かさが、芸術価値を上下させてしまうのは、能に限ったことではない。クラシックにおいても、実は同様なのである。人によって聞き取ることのできる音の波長域は微妙に異なっている。通常の平均的な可聴域しか聞こえない人々がクラシックに大いに感動することなどありえないのである。
 モーツアルトは当然のごとく凡人以上の超感覚的知覚力を持っていた。それ故に、西洋のオカルティズムの系譜人脈に連なっていたとしてもなんの不思議もない。日本で能が神事としての側面を持つのと同様に、西欧でクラシックは当然のごとく秘儀の側面を持つのである。
 横道に逸れるが、クラシックのオーケストラについて、学者バカの見解を読んだことがある。エリアス・カネッティー 『権力と群集』 (法政大学出版だったか?) の中で、著者は、オーケストラの指揮者を権力者に、各楽器の演奏者を群集に例えて解釈していたのである。霊学的見識のない学者は、限りない愚鈍者たりうる実例である。


【21世紀の芸術】
 宇宙から地球に降りそそぐものが変化している。人類全体の超感覚的知覚能力が徐々に高まってゆくのではないだろうか。そうであるならば、日本文化として紹介され、現時点では視覚的に観賞されるにとどまっている能が、いずれは、多くの観衆によってバーンスタインのように感覚的に観賞されるようになるのではないか。
 文化は、技術に比べたら、遥かに長いサイクルで盛衰する。西欧が先に文化的なスタートを切ったからといっても、先発優位が永遠に続くのではない。芸術においても本質は日本の中にある。

 

<了>