《前編》 より

 

 

【「武家の商法」に見る日本文化の良質な原型】
 興味深い論点をもう一つ挙げます。「武士道」の非西欧的な要素を擁護する時の新渡戸の筆致がいささかヒートアップするのは「武家の商法」について語るときです。(p.133)
 新渡戸は「正直は引き合う」(Honesty pays in the long run)という欧米流の商業道徳に対して、次のようなパセティックな宣言をなすことになります。
「しからば、徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直は虚偽よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば、私は恐れる、武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを!
 武士道は『或るものに対して或るもの』という報酬の主義を排斥する・・・。」
 ここには非常に重要なことが書かれています。・・・中略・・・。
 努力と報酬の間の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。新渡戸稲造はそう考えていました。私はこのような発想そのものが日本文化のもっとも良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、その引き換えに、そういう「いいこと」があるのですかと訊ねないこと。これはこれまでの著作でも繰り返し申し上げてきた通り、「学び」の基本です。(p.135-136)
 「学び」の基本も、「報酬主義」に立脚したら成り立たない、と下記の著作にも書かれている。
    《参照》   『下流志向』 内田樹 (講談社) 《中編》

              【消費者マインドが作る「教育の崩壊」】

 

 

 

【武道における「隙がない」】
 武道的な動きにおいては、入力と出力との間に隙があってはいけない。隙がないというのは、ほんとうは「侵入経路がない」とか「侵入を許すだけの時間がない」ということではなくて、そこに自他の対立がない、敵がいないということです。 (p.173)
 自他の間に隙がなければ、一体化しているのと同じで対立などしようがない、ということ。
 「間髪を容れず」も「石火之機」も、自他の時間の流れの差異なき一体化状態を意味している。
 辺境に住む日本人だからこそ、時間の前後、遅速という二項対立の図式そのものを揚棄する時間の捉え方である「機の思想」が根付いた、と書かれているけれど、霊学的観点から言えば、それは違う。日本は最奥神界の波動が降りている国だから、二項対立を揚棄する「機の思想」が育まれたのである。
   《参照》   『人類が生まれた秘密をあかす』 深見東州  たちばな出版

             【日本神界の特異性 と 次元界スライドシステム】

   《参照》   『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》

             【日本神霊界】

 間違って理解している人が多いのですが、武道の目的は「敵に勝つこと」ではありません。「敵を作らないこと」です。(p.173)
    《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】

              【 武士 と 刀 】

 

 

【日本語脳の並列処理という特殊性】
 日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二カ所に振り分けて並列処理している。・・・中略・・・。
 言語を脳内の二カ所で並列処理しているという言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たち日本語話者の思考と行動を規定しているのではないかと思います。(p.226)
 故に「日本語がマンガを育んだのである」という養老孟司先生の解釈は、日本文化論の基礎として既に人口に膾炙しているだろう。
 マンガに限らず、言語と思考体系は密接不可分の関係にある。
   《参照》   『運のつき』  養老孟司  マガジンハウス

             【 『唯脳論』 はお経である】

             【そもそも日本語が「諸行無常」】

 

 

【近代日本人の人格分裂仕様を説明する理論】
 かつて岸田秀は日本の近代化を「内的自己」と「外的自己」への人格分裂という言葉で説明したことがありました。世界標準に合わせようとする卑屈にふるまう従属的・模倣的な「外向きの自己」と、「洋夷」を見下し、わが国の世界に冠絶する卓越性を顕彰しようとする傲岸な「内向きの自己」に人格分裂するというかたちで日本人は集団的に狂ったというのが岸田の診断でした。この仮説は近代日本人の奇矯なふるまいをみごとに説明した理論で、現在に至るまで有効な反証事例によっては覆されていないと思います。岸田の理論に私が付け加えたいと思うのは、この分裂は近代日本人に固有のものではなく、列島の「東夷」という地政学的な位置と、それが採用した脳内の二カ所を並列使用するハイブリッド言語によって、「外」と「内」の対立と架橋は私たちの文化の深層構造を久しく形成していたというアイディアです。(p.243)
 思考体系はどうしたって言語に支配されるけれど、それに加えて、“漢字”と“かな”を脳内の二カ所で並列処理する日本語脳という体系を加えれば、確かに日本人が分裂的双局思考様式となっていることの説明はしやすくなるだろう。
 ついでに、その双極性が、右脳と左脳の統合に伴い両極性へと推移したら、日本人は世界を治める上で極めて重要な能力を発揮するようになるだろう。これは決して空論ではない。
   《参照》   『アセンションへの切符』 野崎友璃香 (講談社) 《後編》

            【「二元性」から「両極性」へ】

   《参照》   『淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる!』 魚谷佳代 《後編》
            【調和と創造の時代の始まり】

 

 

【日本語の辺境語的構造】
 原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領したのです。そして、もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。(p.236)
 「真名」と「仮名」を比べると、確かに「仮名」の方が隷属的に見える。しかし、それも「真名」の土俵で見るからである。そこは、言霊の国である土着の「仮名」の土俵で見るべき。そうすると「仮名」は「かな」であり「神名」であることを知るだろう。「神名」は、決して「暫定」の座でも「隷属的」な地位でもない。むしろその逆である。
 日本人の総体が、言霊の国・日本の本質を理解し認識するようになれば、「辺境」と見えた日本が、かつて「世界の中心」であったこと、そしてこれから再び「世界の中心」になるのだということを自ずと自覚するようになるだろう。
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》

              【 日本 ⇒ シュメール ⇒ 日本 】

   《参照》   『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』 中丸薫他 《後編》

              【世界を牽引するのは日本】

   《参照》   『なぜ日本中枢の超パワーは「天皇」なのか』 中丸薫・ベン・アミー・シロニー 《後編》

              【「日本という国は特別な国だから・・・」】

 

 

 

  内田樹・著の読書記録

     『日本辺境論』

     『下流志向』

     『大人のいない国』

 

<了>