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 脳科学者と禅僧という組み合わせの対談は興味深いし、その期待を裏切らない内容になっている。
 特に南さんが仏教を語る視点は斬新である。

 

 

【クオリア】
南 : 茂木さんはクオリア(註 脳が感じる様々な質感のこと)という概念を用いて、意識というものに何とか肉迫しようとしている。・・・中略・・・。坐禅をしていると、クオリアというものがよく分かるんです。なぜかというと、坐禅で日常意識がどんどん脱落していくと自意識自体が変化して、それまでとは違う存在の質というものが露わになってくるんです。存在の質感が、鮮明になったり、崩れたり、だから、意識をクオリアというものをとっかかりに考えるということは、私には非常になじみがある感覚で、そこに焦点を合わせてこられたことに感銘を受けたんです。(p.17-18)
 量子力学の最先端では、”チャーム(魅力)” とか ”フレイバー(香り)” というような単語が素粒子の区分用語として用いられているけれど、このような従来の科学用語ではありえない感覚的な用語である “クオリア” という用語を、茂木さんが意識を語る上で用いたことが、座禅中の意識の様相を体感している南さん琴線に振れ、お二人が知己となりこの対談が実現したらしい。

 

 

【「考えられないことがある」 ということに気づくことが重要】
南 : 「枯木死灰」 という言葉があります。枯れた木のように、冷えた灰のように、一切思考を止め、世俗から離れるという意味です。こうした態度こそ、修行の理想であるといわれるのですが、私の考えはちょっと違って、「考えるのをやめろ」 ではなく、人が考えるということの根底に 「考えられないことがある」 ということに気づくことが重要だと思うんです。それが 「不立文字」 や、道元禅師の言う 「非思量」 だろうと。(p.24)

 

 

【解体するだけではいけない】
南 : 禅における最大の誤解は、解体して終わりと思っちゃうことです。一撃所知を忘じてね、不立文字で結構だと。そこを誤解しちゃうと、何も分からない。(p.57)
 禅について、そのように誤解させる本や解説が多いのではないだろうか。 「その先を、まだ語り得るの?」 とやや驚きつつ思うのだけれど、これに続いて、茂木さんが解体するだけでその先を語らない若者を揶揄し、南さんがその先を語っている。

 

 

「なんちゃってヴィトゲンシュタイン」 にお勧めの 「仏向上事」 】
茂木 : でも壊してから再生するには、強靭な精神力が要りますよね。解体はできるかもしれないけれど、そこから再生できるのは十人に一人いるかいないか。解体するだけの若者はいっぱいいるんですよ。私は昔からそういう人たちを 「なんちゃってヴィトゲンシュタイン」 って呼んでいます(笑)
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」 というヴィトゲンシュタイン有名なフレーズがあるじゃないですか。あれをお題目のように唱えている若者はいっぱいいる。問題はその先なんですよね。
南 : 語りえないものに沈黙したら、それでは終わらない。次にどうするか考える。道元禅師は、「仏向上事」、仏のさらに上を目指せ、悟りを捨ててまた悟れって言うんです。要するに歩みを絶対止めない。それが彼の苦悩でもあった。悟りというのは、「道得(どうて)」、つまり言葉であると道元は言います。悟りに言葉は届かないと言いきってしまったら、そこで終わり。もしその人が悟っているのだったら、言い続けるしか道はない。
茂木 : それは何か生命ということの本質ですよね。(p.58)
 人生を解体して “苦しい” だけの認識で終わっているのならば、陰気な仏教というだけである。
 “苦しい” けれど、 「仏向上事」 をめざすという態度は、純粋に仏教本来の態度だったのだろうか?
 “惟神の道” 化した仏教へと変遷した結果の仏教なのだろうか。
 道元の 「仏向上事」 に限らず、白隠の語りに言及して日本人の生き方を示す書籍を目にすることは少なくない。
 仏教の中では禅宗がもっとも “惟神の道(神道)” に近いのは確からしい。

 

 

【ブッダが因果を説くのは・・・・】
南 : ブッダは自分のことを、業論者で行為論者で精進論者だと言っています。
 つまり、彼にとって業や因果というのは、修行者として修業を続け、未来に向かって自分を投げ出すための根拠として必要だと言っているんです。ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」 ということではなくて、人が努力し未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だから、因果を信じろと。
茂木 : なるほど、すごいな。聞いていて鳥肌が立った。久しぶりにギアがトップに入る感じがします。
 普通に仏教を聞きかじった人々は、 「人は苦界に生まれ “因果” に支配されているから、ここから跳脱して “涅槃(ニルバーナ)” を目指すべきである」 と、視点が “因果” から “涅槃” へと一挙に飛んでしまっているはずである。そしてその手段として、 「三宝(仏法僧)帰依」 が説明されるから、南さんが表現しているような普遍化(脱仏教化)した “個人としての生き方“ を指し示してくれているように理解できた人など、殆どいないはずである。私にしても、南さんのような説明に出会ったのは初めてである。
 依拠する経典を持たぬ神道では、南さんが書いている人生の捉え方が普通なのであろう。但し、神道は人生を 「苦」 と捉える基盤をもたないから、あえて 「希望」 という言葉を用いることもなく、「明るく元気に前向きに」 という感じの生き方が基本になっているはずである。 
 日中の太陽を象徴天体とする神道に対して、夜間の月を象徴天体とする仏教だから、「苦」 と 「希望」 を相補的に対比させるこのような発想が生ずるのだろう。
   《参照》  『フエイエン』 比留間ひかりの (三省堂書店)

 

 

【生の正体】
南 : 根拠の無さこそ、生の 「正体」 だと思います。決定的に分からないものは、一種の災難で、そこからみんな逃れたいから、早く答えを教えてほしいというわけですよ。でも、安直な 「問題」 を構成して、「こうすればこうなる」 とやってしまうと、その瞬間からリアルなものが失われていく。それに比べて死の方がずっとリアル。死のリアリティーと直面することで生を賦活していくとしか私には思えないんです。それをごまかして、生自体に何かあると思うから、いろいろな迷いや執着が生じるんだと思う。 (p.154)
 “死の方がずっとリアル” という表現は、坐禅を通じて意識変性体験をしたことがある人にとっては分かりやすいのだろう。これを経験している人々は、現実(生)と幻想(死)が相互に融解しその境界が不明になるという。

 

 

【生を引き受け、世界を引き受ける】
南 : 私は人からよく自信満々に見えると言われる。なぜそうなのかというと、破綻していても何とか生きられるようにするしかないと思っているからでしょう。「破綻しないでいたい」 とか 「安心できる居場所がほしい」 ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。
 つまり、それが生を、世界を引き受けることだと私は思うわけです。(p.159)
 「完璧なもの完全なものを愛するのは優しい。最も困難なのは、狂気や悪徳や不条理に満ちたこの現実をそのまま受け入れることだ」 という 『ブリューゲルへの旅』(中野孝次・著)の中にあった言葉を思い出してしまった。
 理想や安心を断念し、それらの破綻した相を受け入れ引き受けることで、逆に理想や安心を確立する縁(よすが)が得られるのだろう。
 解法が明確にあるのでもなく、到達できる確証があるのでもない世界を生き続ける。その意志を示すことが、生きるということか。
         【「どんな人と入れ替わっても、その人の人生を幸せな形で生きてみせる」】
 
 
<了>