天皇の祭日とはお隠れになられた日を現在の暦に当てはめ祭日としている日で、年間102日あります。

 

 

重陽の日の本日は、雄略天皇の祭日です。

 

 

 

 

 



第二十一代雄略天皇は古代大和時代の天皇、
万葉集の巻頭の歌の作者です。



御父、允恭天皇の第五皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかおおなかつひめ)。
また徳天皇の孫でもあります。

 


大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇。


在位は四五六年から四七九年。


日本人が記した最古の文字史料には雄略天皇を示す「獲加多支歯大王」の文字が刻まれています。



埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘にこの名前がありました。「辛亥の年七月中」(雄略天皇十五年の可能性)ともあり、雄略天皇と言われていますが、古墳が前方後円墳だったため雄略天皇の時代には円墳に変わっており、崇神天皇紀の四道将軍の一人「大彦命」でないかとも言われています。

また熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣にも「獲加多支歯大王」とあり、これは雄略天皇とみられています。

 

異説があるにしても、このことから当時大和朝廷の勢力圏が関東から九州まで及んでいたとされています。


日本書紀を読むとなにしろ血生臭い天皇で、平安期以降の天皇のイメージから考えるとショックを受けるかもしれない天皇です。史上初めて暗殺された天皇である同母兄の安康天皇が眉輪王に殺されると、兄弟を疑い次々に殺して即位することになった天皇なのです。

行動力は記紀の中でも圧倒的な天皇でしたが、そのために仁徳天皇系の皇統が途絶える原因となりました。ただし、その行動を現在の基準で考えると雄略天皇を見誤ると思います。この当時内外を治めるには、ここまでの決断力と行動力がなければ無理な時代だったと言えるのではないかと思われるからです。
 

雄略天皇は、聖徳太子の「日出る国の天子」に繋がる大英断をした天皇として特筆されるべき天皇といいます。それは大陸への朝貢が当たり前だった時代に、朝貢を止めたことです。雄略六年に南宋が使いを遣わし貢物を奉ってから、我国からも南宋への派遣を数回行っていますが、大陸からの技術者を受け入れた後、派遣を止めてしまうのです。つまり必要な物は入れますが、交流には不要なものも入ってきますから、必要以上の交流はしないという道を選ぶのです。聖徳太子の時代に冊封体制を止める芽はここから生まれ、後には遣唐使廃止の菅原道真へも繋がり、江戸時代へも続いていくのは、こうした歴史の積み重ねがあればこそだといえ、その始まりが雄略天皇だったというのです。


この頃百済や新羅から朝貢を受けており、「三国史記」には、「百済には昔から日本の宮家があり、百済王は天皇に仕えている。それは周りの国々も知っていることだ」と記されてます。記紀には古代から半島との記録が沢山記されおり深いかかわりがあったことがわかりますが、雄略天皇の時代には特に記載が多く割かれています。また宋書倭国伝にみえる倭国王武は雄略天皇と考えられています。

 


英国オックスフォード大学教科書には「五世紀の日本の勢力は朝鮮半島まで支配した」とあり雄略天皇の御世にあたります。またプレンティスホール社のアメリカの教科書「世界文化」には、「キリスト歴400年頃、幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」とあり、英語圏でどのように教えられているかがわかります。


「泊瀬の朝倉の宮に天(あめ)の下知らしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)」と『万葉集』の始まりに載っている歌は、女性にその名前をたずねる歌です。この時代、名前を教えたら即結婚ですから、プロポーズの歌といえます。



ヴォーカロイドが歌う万葉集 籠もよ 

 

 

万葉集巻頭は、雄略天皇から始まりますが、日本霊異記として知られる日本国現報善悪霊異記の巻頭も雄略天皇の逸話「雷をつかまえた話」から始まります。万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれ、日本霊異記は822年成立されたといわれる薬師寺の僧、景戒の著書ですから、この時代雄略天皇がいかに伝えられ知られていたかがわかるかと思います。

 

 

特に万葉集はその成立過程から、長い間世に出ることなく万葉仮名が読めなくなってしまったため天暦5年(951)村上天皇の命によって解読作業が始まり読まれるようになったことを考えると、説話である日本霊異記の雄略天皇の逸話が一般にはよく知られていたのかもしれません。

 

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なお伊勢の外宮は雄略天皇の夢のお告げにより創建されました。

 

雄略天皇22年、天皇の夢枕に天照大神が現れて「一所にのみ坐せば甚苦し」、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の眞名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を我許もが」と教え諭されたことからだといいます。天皇は目覚められた後、渡会の山田原に立派な宮殿を建て、天照大神の食を司る大御饌神を迎えたことが外宮をの始まりとなったのです。そのため、食の祭である神嘗祭のお祭りは祭典は内宮ではなく外宮から始まります。

 


四七九年崩御。

古事記によれば御年百二十四歳。
ただし、古代の暦によれば半年が1年ですから、62歳ぐらいだったと思われます。年齢についてはこちらをご覧ください。↓
80年ぶりの逢瀬?

上記エピソードからイメージしたと思われる曲↓
雄略天皇に目を止めるなんて将来有望な子です!





雄略天皇は遺詔を残されました。

「今天下は一つに家に纏まり竈の煙がよく上がっている。民よく治まり、四囲の夷(ひな)も良く従っている。」と始まり、群臣を褒め、今後第三皇子に気を付けるように告げ、また皇太子の今後を祝福して終わります。この始まりには、祖先の神武天皇や祖父の仁徳天皇の志を継いだ者としての自負が感じられます。また雄略天皇の危惧したとおりに第三皇子の星川皇子は崩御直後に反乱を起こし鎮圧されました。


陵は丹比高鷲原陵、大阪府羽曳野市島泉八丁目にあります。

奈良の御所市にある一言主神社は、雄略天皇との逸話が古事記にもありますが、そのためか一言主神と一緒に雄略天皇も祀られています。


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「日本の10代天皇」
「全現代語訳日本書紀」
「歴代天皇で読む日本の正史」



なお、三種の神器を歌った佐久弥レイこと吉木誉絵さんの『Regalia』のCDに入っているもう一曲は雄略天皇を歌った『THE 21st』です。

歌詞はもちろん吉木さんが書いています。



雄略天皇については以下もご覧ください
古代のカリスマ
何度も繰り返す歴史
仇討の形
こをろこをろ


天皇を知る上で避けて通れない字


☆宮中祭祀については、以下をご参照くださいませ

神代在今の国
年間102日あります

宮中祭祀 新嘗祭①
宮中祭祀 新嘗祭②
宮中祭祀 新嘗祭③
豊明節会、新米解禁!

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歌謡曲の始まりは御製?