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古事記をちゃんと知る前、よくごっちゃになっていたのが、スサノオノミコトとヤマトタケルノミコト。髭ぼうぼうで泣きわめくところから始まるスサノオのお話と、女装して相手を油断させるのが最初の闘いというヤマトタケルのお話では、連想されるその姿形は全然違うのですけれど。


しかし、その行動パターンはそっくりです。


スサノオはイザナギノミコトが黄泉の国から戻って身体を清めた最後に顔を洗ったときに生まれた三柱の神々、アマテラスとツクヨミの後に生まれた三貴子の最後の神様です。しかし、高天原で暴れアマテラスが天石屋戸に隠れる事態を引き起こします。そのため、高天原より追放され、その行ったさきで八岐大蛇退治をするのです。


ヤマトタケルノミコトは、第12代景行天皇の皇子で太子(ひつぎのみこ)。古事記の景行天皇の章は、ヤマトタケルノミコトの章と言ってもよいほどその東西の征伐描写にさかれています。なぜヤマトタケルが征伐にあけくれたのかといえば、兄のオオウスノミコトを殺してしまったからです。父の景行天皇は征伐を口実に大和からヤマトタケルを追い払ったのです。


ヤマトタケルは西征を終えた後、ヤマトに落ち着く間もなく東征をいいつかります。西征の時は追放されたことに気づかなかったタケルも、このときには自分が大和から追放されていることにさすがに気づきます。しかし、それでも東征に励むんです。そしてその東征からの帰り、大和を思いながらもたどり着く前に薨去されてしまうのです。ヤマトタケルが悲劇の英雄と呼ばれるのはそのためです。



スサノオとヤマトタケルは、その行動パターンから共通点をよく指摘される存在同士です。



そして、そこまで行動パターンが似ているわけではないけれども、似ている英雄が古事記にはまだいます。実は古事記を学びなおして、私が一番気に入っている英雄でもあります。



それが第21代雄略天皇。



雄略天皇は聖の帝と言われた第16代仁徳天皇の孫にあたります。しかし、雄略天皇の登場は兄である第20代安康天皇の暗殺によって始まるやり過ぎな復讐からです。古代の天皇は行動力が凄いのですが、雄略天皇はずば抜けています。そして、このことが後に仁徳天皇系の血が絶えて、仁徳天皇の兄弟の子孫に皇統が移ることに繋がってしまいます。



古事記を学び直すと、神話であるスサノオと大蛇の戦いのイメージはそう変わりませんが、ヤマトタケルと雄略天皇に関しては、リアルに残虐で驚きます。ただ、古代世界を現在の物差しで見ることはできません。しかも、雄略天皇にはのほほんとしたイメージの逸話も多く、正反対の性格を併せ持つようにもみえるのです。


雄略天皇を最初知ったとき頭に浮かんだのは、まず織田信長です。あらためていうまでもなく、信長はその思いきった行動力と残虐性で知られていますが、秀吉の妻寧々への手紙などではユーモアや懐の深さもみせる計り知れない器の人物です。その信長になんとなく似ているといえば、雄略天皇のイメージがわかるかと思います。



ところで、雄略天皇の決断力の凄さは古事記の上だけではないのです。



熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘と埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘に、雄略天皇の名、大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)である「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」という文字が記されています。これは雄略天皇の時代に大和朝廷の統治領域が関東から九州にまで及んだことを表しています。


また宋書倭国伝には、倭王武が朝貢していたと書かれているのですが、その後支那の文献からは朝貢の記録が消えます。これは日本の独立を選んだ行動だといいます。倭王武とは雄略天皇で間違いないとされており、朝貢が当たり前にあった時代に朝貢を止めると決断したこの行動は特筆されるべきことなのです。しかもこれは後に聖徳太子へと繋がる布石にもなっていくのです。つまり「日出る国の天子」からの親書です。



聖徳太子の曾祖父である第26代継体天皇は、仁徳天皇系が絶えたため皇位につきました。曾祖父の時代のことですし、口伝が多かった当時その前の系統についての話はまだ新しい過去として生々しく語られていたことでしょう。




また「十七条憲法」も、そんな中でだんだん形作られていったのではないでしょうか。過去の蓄積が、聖徳太子により結晶化されたのです。





※写真は栃木市の聖徳太子神社内に奉られている聖徳太子像