雄略天皇のエピソードは仇討ちから始まります。


雄略天皇がまだ王子の大長谷王子(おおはつせのみこ)だったとき、兄の安康天皇暗殺が起きます。大長谷王子は、その実行者であるまだ子供の目弱王(まよわのみこ)と、その目弱王を庇護した臣下の都夫良意富美(つぶらおおみ)を戦って死に追いやり、その前後にはハッキリしない兄達、また次の帝とみられていた従兄弟まで次々に殺していきます。


まだ政権の安定性がない当時だから、専守防衛だったのかもしれないが、疑心暗鬼に陥り、忠臣であったろう臣下まで巻き込んでまでも討ち取っていくのは、後から見れば結果しかみえないとはいっても無駄な殺戮にしかみえない。一方でまだ少年だった王子の決断力には驚く。皇位継承のライバルを消し去って、王子は天皇になりますが、その決断力のお陰でいらぬ混乱も起きなかったわけです。結局このせいで後々聖の帝仁徳天皇の系統は絶えてしまうことになり、雄略天皇の評価が二つに別れる要因ともいわれますが、非常時の決断力が重要なのは古今東西変わりません。


その雄略天皇が崩御すると、その子の清寧天皇が次の帝になりました。しかしこの帝は結婚しておらず子供もなかった。つまり次の帝になるべき後継者がいなくて案じていると、雄略天皇に殺された従兄弟、市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)の子供達がちょうどみつかります。袁祁王(おけのみこ)と意祁王(おけのみこ)です。二人は雄略天皇から逃れて、牛飼いとなっていたのです。



清寧天皇の崩御後の空位の間、市辺之忍歯王の妹の飯豊王(いいよどのみこ)、つまり二人の叔母が天皇の代わりをつとめていましたから、喜んで兄弟を向かえ天皇の後継者たる太子にすえました。



この後、兄と弟は譲り合ってまずまず弟の袁祁王が天皇になりました(これは兄弟が発見されるきっかけを作ったのが弟なので兄が譲ったのです)。顕宗天皇です。


顕宗天皇は、父の遺骨を探しだして丁寧に葬ります。一方で父の敵である雄略天皇の霊に報復したいとその御墓に人を差し向けようとしました。しかし、兄の意祁王が、人にやらせるものではない、と自分から雄略天皇の墓に行きます。ところが戻ってくるのが早かったので、顕宗天皇は報告を聞くとどのようにしたのかたずねると、回りの土をちょっと掘っただけだという。顕宗天皇は、父の仇なのだから本来ならことごとく壊すべきだと言うと、意祁王はこう諭すのです。


父王の恨みとして霊に報復したいのはもっともであるが、父の従兄弟であり天皇でもあった。父の仇だからといって天下を治めた天皇の墓を壊したなら、後の人々は必ず非難するでしょう。ただし父王の報復はしなければいけないから回りを少し掘りました。すでにこの辱しめによって後世に示すには充分です。



顕宗天皇は、これを道理にかなうことだとして同意しました。



さらに、弟の後に皇位についた意祁王、仁賢天皇の皇后は、雄略天皇の娘の春日大郎女です。つまり仇の娘を皇后に迎えたのです。これは雄略天皇の血筋が絶えたため、仁賢天皇が皇位を簒奪したという風にみえるのを防ぐ効果がありました。と同時に、雄略天皇の父の弁恭天皇系とその兄であり仁賢天皇の祖父である履中天皇系の平和裏な統合にもなり、それが結婚により成されたのです。


これにより、仁賢天皇が前の天皇の時代に雄略天皇の墓の土を少し掘ったのとあわせ、身内のわだかまりも解消したのです。



殺戮に始まる仇討ちは、和となって終わったのです。


和です。


仁賢天皇の賢は、その賢さを讃えるためにつけられたのでしょう。