あめつちはじめてひらけしとき
歴史を見直しているうちに見えてきたもの。
それはどの民族にとっても大事なものは同じ。
その民族の言葉と歴史と神話。
それはその民族の経験と知恵の賜物。
日本であれば言葉は
大和言葉と漢字、ひらがな、かたかな、和歌。
その民族独特の哲学は、その民族の言葉でしか語れない。
歴史は神社と寺他様々な文化や伝統の引き継ぎも含まれる。
神話は古事記、日本書紀、風土記、その他地元の言い伝え。
特に神話と歴史が重なる日本の神話は大切。
古事記、日本書紀はその代表、基本である。
歴史や神話を教え伝えるためには言葉が必要。
言葉と歴史と神話は密接に繋がりあうもの。

だから、このうちのどれ一つでもないがしろにはできない。

そして密接に繋がりあうものの代表的なものが、
日本においては神社文化であり、
それを大事にお守りしてきた天皇の文化である。

日本は天皇文明の国なのだ。

これは歴史が語っていること。
  • 23May
    • 五月二三日は用明天皇の祭日・・・聖徳太子の父君

      祭日とは天皇が崩御された日のことです。崩御後100年以上の天皇は、100年毎に式年祭があります。式年祭の年でなくても、祭日には天皇陛下の毎日の宮中三殿への御拝,、代拝が多少変わるのかも知れません。皇居には、宮中三殿があり、その一つ「皇霊殿」は御歴代の天皇、后妃、皇子女などの御霊がお祀りされています。第三一代用明天皇は、和風諡号では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、大和時代といわれる頃の天皇です。古墳時代ともいわれますが、古墳時代とは原始的な響きにさせるためにわざと呼ばせているようで、大和時代のほうが相応しいのではないかと思います。御名は橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)。御父は欽明天皇の第四皇子、御母蘇我堅塩姫(きたしひめ)。堅塩姫は蘇我稲目(いなめ)の娘でしたので、初の蘇我系天皇の即位でした。以降、三三代推古天皇までの三代四三年間、蘇我系の天皇が続くことになります。異母兄の敏達天皇の崩御を受け即位。用明天皇の治世では、仏教を排斥しようとする物部氏と積極的に取り入れようとした蘇我氏の対立が激化した時代でしたが、天皇として初めて仏教受容の意思を明らかにしました。それが後の仏教隆盛に繋がっていきます。用明天皇の皇子には厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)、つまり聖徳太子がいます。用明天皇は1年半の短い在位で病気の為崩御されてますが、もっと在位が長ければ聖徳太子が天皇になっていたかもしれない、とも言われています。五八七年崩御。御陵は河内磯長原陵で、大阪府南河内郡太子町にあります。なお鵲森宮(かささぎもりのみや)は、用明天皇、穴穂部間人皇后、聖徳太子が御祭神となっている神社です。用明天皇の次の崇峻天皇の時に、物部守屋との戦いにのぞみ聖徳太子が必勝祈願をされ、勝った暁には四天王寺を作ることを誓われました。そして、その戦いに勝利したのでまず両親の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りされてから四天王寺を創建されたのです。ですから四天王寺は元はこの神社にあったとも言われています。参照:「宮中祭祀」展転社※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書他

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  • 22May
    • 「古今和歌集」編纂1114年目の日・・・「君が代」誕生

      本日は旧暦4月18日ですが、延喜5年(905年)4月18日は紀貫之らが最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂を開始した日です。※改暦は何度もありましたので単純に旧暦でみています。序文からは、編纂を開始したとも、あるいは奏上したともとれるようなのですが、この延喜5年に完成したのは間違いないようで、この延喜5年の和歌もあることから追加編纂がされたともいわれているようです。この時は醍醐天皇の御代で、この2年前に大宰府に左遷された菅原道真が亡くなっていました。つまり、古今和歌集は醍醐天皇勅命の和歌集です。20巻からなり、「万葉集」に選ばれなかった古い時代の歌からも選ばれました。そして、この中にあの「君が代」が収録されていました。この時は、まだ現在の君が代の形ではありませんが、これが今に伝わる「君が代」の始まりなのです。我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまでこれが少しずつ形を変え、現在の形へと変わっていったのです。実は、君が代は人気の題材で、君が代の和歌は沢山あります。和歌は、当時の教養であるとともに娯楽でもありました。上は天皇から下は庶民まで、いい歌であれば誰の歌でも選ばれて編纂されたのが「古今和歌集」で、これは万葉集と同じです。そして明治時代まで和歌を学ぶ基本として「古今和歌集」は存在していました。その「古今和歌集」に載っていたということは、「君が代」は当時人気の歌であったということになります。その「古今和歌集」からおよそ百年後、1018年頃編纂の「和漢朗詠集」にも「君が代」は載っています。つまり、百年後も、「君が代」は人気があったということになります。その間に、歌の冒頭が「我君は」から「君が代は」に変わっていたり、他にも写本により言葉が少しずつ変わっているバージョンがいくつもあります。それは、この歌がそれだけ人気のあったことの証でもあります。そうした君が代をたくさん紹介し、その移り変わりを解説までしているのが「君が代の歴史」です。和歌には多くの意味が含まれる事が当たり前ですが、特に「我が君」から「君」に変わることでより一層多くの意味を持たせることができるようになりました。君=天皇君=天皇=日本君=天皇=日本=日本人君=男(き)と女(み)君=男女=夫婦君=男女=夫婦=家族君=その場にいる人達君=歌われた人君=歌を聴いた人つまり、君が代の君とは、尊敬する人、敬愛する人はもちろん、その状況に応じ、その対象を変えて意味しました。千代に八千代にとは、八が大きいもの長いものを意味しますから、長い代、長い時間です。さざれ石とは、長い時間をかけて小さな石が一つの石になったものです。巖となりて、とは、そのさざれ石が巌になるまでの長い時間。苔のむすまで、はその巖が苔むすまでの時間です。つまり、二重に三重に四重に長寿を願う歌が「君が代」だからこそ、祝の席で必ず歌われました。だから江戸時代後半、君が代を知らない日本人はいなかったとまで言われるほど人気があったのです。こうした多くの意味を併せ持つ「君」が代のいつまでも続く繁栄と永続を願う歌であり、千年以上歌われてきたということは千百年以上の祈りがこもった歌であるということです。そもそも和歌とは、祈り、言霊として始まったものであり、だからこそ、今も皇室では大切に歌を詠まれています。こうした言霊の力がこもっためでたい歌だからこそ、君が代は江戸時代になると、なにかといえば歌われ、日本人なら誰でも知っている歌となっていきますが、既にこの時何百年も経っています。明治時代になり、西洋に国歌があると知ったとき、江戸時代に続き誰もが知っていた「君が代」を国歌にしよう、となったのは自然な流れだったのです。つまり、千年以上流行していた歌が、国歌になったのが我国ということです。世界最強の言霊歌・・・君が代世界一の言霊の歌日本人選手の金メダルには平和の言霊がついてくる日本が金メダルをとったら世界中が祝福される卒業という門出の日にその末永い幸せを言祝ぐ歌「君が代」むすびの歌君が代の旋律の成立過程・・・皇学「君が代」を美しく歌うには伝説となった野々村彩乃さんの「君が代」

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  • 21May
    • 五月二十一日は開化天皇と後一条天皇の祭日・・・桃太郎と道長の望月

      ★第九代開化天皇は伝承上とも言われる欠史八代の時代の天皇です。これは古事記、日本書紀共に開化天皇のご事績の記載がないことからいわれていることです。しかし、それは平和な時代であったことの証ともいえると思っていましたら、「古事記の邪馬台国」には別の説が書かれていました。作者の竹内睦泰氏は竹内文書の正統伝承者だそうで、その口伝を本にされた「古事記の宇宙」の続きの本です。また、もっとも力を注いで記しているのは御歴代の系譜であるから、御事績がないからと言ってそれを退けるのはおかしいと森淸人氏は「建國の正史」に書かれています。孝元天皇七年生。御名は古事記では若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)、日本書紀では雅日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)。御父孝元天皇の第二皇子、御母は内色許売命/鬱色謎命(うつしこめのみこと)。欠史八代と言われる時代の前半は、水田耕作の普及により大変豊かになり平安な時代でしたが、豊かになることによってその周辺からそれを狙われるようになりました。孝元天皇までの四代は大乱の時代だったといいます。つまり大乱過ぎて記録が少なかったことになります。この時代戦った相手とは吉備です。つまり桃太郎伝承とはこの大乱の時代のことだったのです。孝元天皇を含めた「孝」が名前に入った前の四代の天皇の時代には「吉備」の字がついた命が四人いますが、その四人がいわば桃太郎で吉備と戦いましたが孝元時代までは負けが続いていました。しかし孝元時代に祭祀王を、神武天皇の時代にならって女性にしたことにより勝つことができました。開化天皇は「孝」四代の戦乱を片付けて開化したことを意味しているとのこと。神話で予言された伝説の英雄?・・・桃ちゃんお供の秘密・・・雉は凄いんだよ‼おとぎ話(昔話)を読もう‼開化天皇は孝元天皇二十二年に立太子し、同五十七年に孝元天皇の崩御にともない即位されました。その際、宮を春日率川宮に遷されました。宮の伝承地には春日野の東端野田の四恩院付近説と奈良市本子守町の率川神社付近説がりますが、陵墓との位置関係から、率川神社付近が有力視されています。なお率川神社の御祭神は初代神武天皇の皇后様、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)とその祖神である狭井大神(さいのおおかみ)と玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)です。開化天皇六十年崩御。御陵は春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのうえのみささぎ)、奈良市油阪町にあり、春日率川宮跡の率川神社が近くにあります。初代神武天皇から第八代の孝元天皇までの陵墓が、畝傍山麓から葛城山麓一帯にかけて広がるにのに対し、開化天皇の陵墓が春日山、及び次代の崇神天皇の陵墓が三輪山麓に移っているのは政治の中枢が移ったからと推定されています。★第六十八代後一条天皇は平安時代の天皇です。一千八年生。御名は敦成(あつひら)。御父は一条天皇、御母は藤原道長の娘、彰子(しょうし)。父君は3歳の時に病で崩御され、父君の従兄弟にあたる三条天皇の御代に成長されました。彰子の女房には紫式部、和泉式部、赤染衛門等錚々たる顔揃えとなっており華麗な王朝サロンと化していたと伝わり、敦成親王ご誕生の様子も紫式部日記に詳しくつづられています。すめらぎのお話・・・現代も生きる平安のJ-POP在位一千十六年から一千三十六年。敦成親王は、一条天皇の第二皇子として誕生し、その年に親王宣下を受け、四歳にして立太子し九歳で三条天皇の譲位により即位されました。これは、藤原道長から三条天皇への譲位を促す嫌がらせと天皇の眼病の悪化が影響していました。中宮には道長の三女の威子(いし)が立てられ、「一家に三后」を実現させた外祖父道長をはじめ、関白で左大臣の頼通(よりみち)、内大臣教通(のりみち)などの藤原氏の有力者がこれを支えました。三条天皇の譲位の条件は、その皇子の立太子でしたので、天皇が践祚すると三条天皇の皇子、天皇より年上で二十三歳の敦明(あつあきら)親王が皇太子となりました。しかし道長は慣例となっていた皇太子への「壺切太刀」の伝授を行わず、東宮大夫の人選にも非協力的で、ついに敦明親王は辞意を伝え、後一条天皇の同母弟、つまり道長の孫の敦良(あつなが)親王が立太子することとなりました。(後の後朱雀天皇)道長の男子は摂政、関白、大臣の要職を占め、娘らは天皇や東宮の室となり外戚の地位を不動のものとしたこの頃「この世をば、我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしと思へば」と自ら歌ったと言われています。去年の11月、ちょうど道長の宴の日と満月が重なった日が千年目の日であったことから話題になりました。藤原道長の望月の和歌が示した「共有する」ことの大切さ後一条天皇の時代には、刀伊の入寇(侵略)があり、対馬、壱岐、博多などが被害に遭いました。略奪放火され、多くのものが拉致されて行きました。捕まえた捕虜はすべて高麗人であったので明らかに高麗人(朝鮮人)の侵略でした。この時は大宰権師藤原高家が九州の豪族や武士を率いて防戦しこれを撃退しましたが、最初の現場が対馬や壱岐という離れた島でしたので、ほとんど一瞬の被害だったといいます。後一条天皇はこの時代には珍しく他の妃を持たず、内親王のみで、世継ぎとなる皇子に恵まれぬまま一千三十六年崩御されました。御陵は菩提樹院陵、京都市左京区吉田神楽岡町にあります。参照:「宮中祭祀」「天皇のすべて」「歴代天皇事典」「歴代天皇総覧」「古事記の邪馬台国」藤原家の繁栄の時代と天皇については「大鏡」にもエピソードが載っています。開化天皇と後一条天皇は、神話やおとぎ話、また昔話がいかに現代に繋がっているかを示す天皇であり、その天皇が同じ日の祭日であるというのも、神話から繋がる我が国らしい祭日であるといえるかもしれません。桃太郎や浦島太郎、また金太郎でさえも、天皇やそこへ仕える人々に繋がっていく物語、また神話ともいわれる時代に繋がっていきます。しかし、それも語り継がれてこそ。今いる私達が次の世代に伝えていかなければ、本も読んでいかなければ、次代に伝えることはできないと改めて思います。繰り返し繰り返し語り継ぐということ

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  • 19May
    • 五月十九日は後亀山天皇の祭日・・・南朝最後の天皇

      第九十九代後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天皇です。正平五年・貞和六年(一三五〇年)後村上天皇の第二皇子として誕生。御名は熙成(ひろなり/のりなり)。御父は後村上天皇、御母は近衛勝子(阿野実為の娘説もあり)、また祖父は後醍醐天皇。在位は一三八三年から一三九二年。弘和三年・永徳三年(一三八三年)冬、同母兄の長慶天皇の譲りを受けて三四歳で即位されました。後醍醐天皇が南朝を開いて半世紀、この時期は南朝が最も衰えた時期でした。一方で三代将軍足利義満の室町幕府は隆盛期を迎えていました。元中九年・明徳三年(一三九二年)、後亀山天皇は義満の和平条件を受け入れ、南北朝は合一することになりました。その条件とは、後亀山天皇(南朝)が後小松天皇(北朝)に譲位する形で三種の神器を授ける。今後は南朝、北朝から交互に天皇を立てる(両統送立)。諸国の国衙領は南朝、長講堂領は北朝が管理することなどでした。後亀山天皇はこれを受け入れ、嵯峨の大覚寺で後小松天皇に神器を授けて譲位したのです(明徳の和約)。南朝の元号である元中は廃止し、東宮位にあられる護聖院宮(後村上天皇の皇子・惟成親王)は事実上廃太子されました。しかし、足利義満にはこの条件を守る気がなく、一方的な吸収合併のようでした。南朝に対しても軽視の態度をとっていたのです。後小松天皇は第一皇子に皇位を譲り南朝(大覚寺統)に皇位が移ることはありませんでした。武家の非礼や経済的困窮など不満もあったようで、嵯峨を出て吉野へ行ってしまったこともあります。その一因には両統送立を守る気のない動きをみせいていた幕府への抗議の意味もあったといいます。後に後亀山院は、なぜ南北の和睦に応じたのかを「自分の運命よりも、国民の苦しみ、憂いを休めたい」と語られたそうですから、これも大御心だったのでしょう。応永三十一年(一四二四年)崩御。御陵は嵯峨小倉陵、京都市右京区嵯峨鳥居本小坂にあります。参照:「宮中祭祀」「天皇のすべて」「歴代天皇事典」「歴代天皇総覧」「歴代天皇で読む日本の正史」他

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  • 18May
    • 令和の時代に向けて 未来の日本人へ

      江崎道朗さんのメッセージ。約1時間お一人で語ります。江崎さんが繰り返し御著書や講演で語っている部分もありますが、最新バージョンとなっています。本はあまり読まないという人にお薦めです。江崎さんは御著書もとても読みやすくわかりやすいのですが、そのお話もわかりやすい言葉で聞きやすいです。江崎さんはインテリジェンス方面に詳しく、また皇室にも詳しいお方です。明治以降の歴史については、江崎さんの御著書を読むと日本を含む世界の現在までの流れがわかりやすくなります。上記の動画では、皇室については最後にチラッとしか出てきませんが、本当にお詳しくてそうしたことがやっと形となったのが「天皇家百五十年の戦い」です。これは一見全然違う分野に見えるかもしれませんが、日本において密接につながっている重要なことです。なぜなら、日本=皇室だからです。だからこそ極端な話、評論家は今現在江崎道朗さんのお話を聞けば、他の方の話は聞かなくてもいいのではないかと思うほどです。たった1時間では物足りない、もっと詳しく知りたい!という方には江崎さんの御著書やあるいは江崎さんご自身が紹介された本を読まれると、より理解が深まることでしょう。また江崎さんで検索すれば動画もたくさんあります。江崎さんのお話もそうですが、講演等でも必ず最後に私達はどうすればいいのか?というヒントがあります。江崎さんのようにわかりやすく話をされ、しかもとても重要なことを話される方、しかもベストセラーを短期間に何冊も出されている方が地上波で全然出ていないことが日本のメディアの異常さを物語っているかと思います。令和の時代、新しい御代を生きる知恵はまず江崎道朗氏の御著書で日本を知ることから始まるかと思います。日本はシラス国です。シラス=知る、知らせることがなぜ重要なのか?人は、知ることによって自ずと考えるからです。多くの人が考えればそこに知恵が生まれます、多くの知恵が集まれば叡智ともなり、ひらめきも生まれるでしょう。だからこそ、日本人はまず知ることから始めたのです。未来を作るのは現在の私達です。しかし、過去もまた現在の私達が作ります。現在日本の過去=歴史が貶められています。過去が貶められるほど、未来もまた貶められます。それは暗い未来となってしまいます。江崎氏のお話から、秘められた過去を明るみに出すことは、きちんと歴史を知ることになり、失敗は教訓や戒めとなり、また伝統や成功体験を知ることは、誇りや励ましとなることでしょう。真の歴史を知ることは、明るい未来のため、歴史を未来に生かすためにも必要なことなのです。江崎氏のご著書一般に知られるきっかけとなったのはトランプ大統領の登場を予測していたことから日本人必読の書・・・「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」図書館の自由とフリーダムFREEDOM フリーダムの本当の意味皇室を支える国民の務め・・・江崎氏の動画二つ目追加しました日本中が涙する天皇陛下のお話正論他、江崎さんは多くの寄稿がありますが、正論SPのVOL2では、一番多く寄稿されていたのは江崎道朗さんでした。今こそ天皇について知ろう(^O^)/あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 『神棚なき核家族』 ⇒ https://t.co/pfpjX2U8zr #神棚2019年05月18日 08:59

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  • 17May
    • 5月17日は貞明皇后の祭日・・・大正天皇と昭和天皇を支えられた

      貞明皇后は上皇陛下の皇祖妣(御祖母)であらせられます。貞明皇后は、宮中で掌典長を務めていた公爵九条道孝の四女としてご誕生されました。九条家は五摂家の中の一つの家系でしたがちょうどこの頃華族令が出され摂家は全て公爵となっていました。なお、ウィキによれば貞明皇后を通して現皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継がれているとの事。御名は節子(さだこ)。節子姫は、明治十七年(1884年)六月二十五日誕生し、生後七日で高円寺村の豪農に里子に出されました。これは当時里子に出せば子供が健康に育つと考えられていたからだそうです。そのお陰か病気一つされず健やかにお育ちになり、四年後九条家からの迎えが来て実家に戻られた後、女学校に入ってからも夏休みにはこの家に来て泊まったそうです。皇太子嘉仁親王の妃になることが決まったのは十六歳の時でしたが、皇太子は御幼少の頃から病弱であったため、特に健康で元気な方が選ばれたと伝わっています。婚約が正式に決まったのは明治三十三年二月十一日で、結婚式は五月十日でした。この時、後の大正天皇となる皇太子は二十二歳、皇太子妃は十七歳でした。この結婚生活は皇太子の健康上にも良い影響を与えたと言われ、また子宝にも恵まれて第一皇子(後の昭和天皇)を始め四人の皇子が誕生されました。大正天皇は子煩悩でも知られ、幼い皇子達と一緒の写真が有名です。この皇太子時代の大正天皇は健康面も含め一番幸福な時代だったとよく言われますがそこには皇太子妃の貢献があったのだと伝わります。明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され皇太子が即位され天皇となられました(大正天皇)。皇太子妃も皇后となられ、年号は大正と変わりました。しかし政務が多忙になったことからだんだん大正天皇も体調を崩されるようになっていきます。また大正時代は第一次世界大戦が勃発するなど激動の時代の始まりの時期でもあり、そのような時代の天皇であられたことが大正天皇の容態の悪化を進めたともいわれています。立太子礼を終えた第一皇子の裕仁親王は18歳で婚約され、また欧州への外遊へ出かけましたが、その帰国後皇太子が摂政に就くことになります。そのような皇子の成長を見ることは皇后にとって喜ばしいことだったかと思いますが、大正天皇の看病に明け暮れる心労は大きかったかと思います。この頃大正天皇に変わり、また若い皇太子のため皇室を取り仕切られていたのは皇后でした。しかし、大正天皇は健康に戻られることなく大正十五年十二月二十五日崩御されました。皇太子が即位し(昭和天皇)、元号も昭和となりますが、大正時代以上に激動の時代となっていきます。皇太子妃が立后されるのに伴い皇太后となられた皇后は、25歳の若い天皇の支えとなっていきました。戦争中には、御用邸の焼け跡に芋畑を作り先頭になって農作業に励まれたといいます。また終戦後、譲位を考えていた昭和天皇を叱咤激励されたのも皇太后だと伝わります。皇霊殿に陛下をお招きになり高い位置にある皇霊殿から見える東京の市中を陛下にお見せして「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。譲位は絶対になりません!」昭和の日に日本について考えよう(^O^)/陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。どうしたらいいのかと。そしてこれが日本全国にわたる行幸の始まりとなり、最初に広島を選ばれたのです。病弱な大正天皇と明るい家庭を作り皇室の近代化を進めた貞明皇太后は、若く孤独な昭和天皇をも支え見守られたのです。昭和天皇が即位されてから、昭和天皇へのお使いをよく出されたそうですが、その口上は必ずその場に立ち上がりその場に陛下がいらっしゃるように姿勢を正しておっしゃったそうです。そして、そのお使いが戻ってきてお返事を聞く際にも同様にされたと、長く貞明皇太后にお仕えした坊城俊良氏が「宮中五十年」に書かれています。「天皇家百五十年の戦い」には、皇室には終戦時御料林などを含めると皇室は当時の貨幣価格で約37億円の財産があったと書かれています。巨大な皇室財産があったからこそ明治天皇や昭憲皇太后の福祉事業が可能であったと。ところが戦後は皇室財産の大半が国庫に入れられたため、皇室がいくつもの福祉事業を財政的に庇護し支えることは出来なくなったといいます。上記「宮中五十年」には、貞明皇后がそうした役に立てるために御自身の御生活上の費用はできるだけ切り詰めていたと書かれていますが、それは戦後ではなく戦前からの話なのです。例えば、ライ患者やその救護事業に尽くしている人々へしばしば御下賜金や、御下賜品があったことなど、貞明皇后の思し召しがあったことが、それまで政府が救ライ費用に相当の予算を計上しようとしても思うように進捗しなかった国庫支出の国会の協賛を進めたのだといいます。雨漏りのする防空壕の中での生活を続け、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られました。昭和二十六年五月十七日狭心症のため崩御。その日青山東御所の清掃に来ていた人々に挨拶されるため準備をしている時だったそうです。六月八日に貞明皇后と追号され、大喪の儀は六月二十二日に行われました。御陵は、多摩東陵、大正天皇の多摩陵の並びにあり、大正天皇と同じく御歴代の皇后の中で初めて関東に御陵ができた皇后となりました。目の前には皇后のお印であった藤の棚があります。あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 No.839 国民のおばばさま、貞明皇后(上) 国際派日本人養成講座/ウェブリブログ https://t.co/mnlAyEJBE22018年05月17日 07:05あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 No.840 国民のおばばさま、貞明皇后(下) 国際派日本人養成講座/ウェブリブログ https://t.co/wyNGtL41Vy2018年05月17日 07:07

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  • 16May
    • 御代替り・・・鏡の御代

      9日に行われた神宮神武天皇山稜及び前四代の天皇山稜に勅使発遣の儀の翌日、神宮で、即位礼と大嘗祭の期日奉告がされたニュースがありました。天皇陛下が召されているのが御引直衣(おひきのうし)。これは宮殿内でのみ着用する装束。この神宮神武天皇山稜及び前四代の天皇山稜に勅使発遣というのは、即位の時だけ行われるものではありません。また、特定の神社への発遣も行われていますから、それをご覧になっている方も多いかと思います。ただし、ニュースとしてとりあげられるのがこの時だけしかありません。神社で見られる勅使は必ず装束に身を包んでいますから、発遣の際には陛下もまた装束に身を包まれていらっしゃるのだろうと思います。神宮祭主であられる、陛下の妹宮、黒田清子様もいらっしゃいます。神宮には、三種の神器の一つ鏡、八咫鏡が祀られています。八咫鏡とは、天岩戸神話にて作られた鏡であり、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊にその鏡を、皇室の祖先神である天照大神の形代として他の二つの神器とともに授けられたものです。その鏡の力が強すぎるとして、10代崇神天皇の時代に皇室の外に出、祀る地を探して伊勢に落ち着いたのが現在の神宮の内宮です。皇居にある宮中三殿の賢所には、その鏡の形代が祀られています。御譲位の行事に、剣璽等承継の儀がありましたが、これは本来剣璽等渡御の儀です。渡御とは動くことです。ただし、天照大神の形代である鏡は動くことがありませんので、儀式の同時刻に賢所に奉告され、また皇霊殿、神殿にも奉告される賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀が行われたわけです。この三種の神器、特に鏡を大切にすることは、天皇が祖先を敬いその事績に見倣うことを体現しているのだと思います。ところで、先代旧事本紀大成経伝という、江戸時代に作られたといわれる偽書があります。これは先代旧事本紀という聖徳太子によって作られたと伝わる書をもとに編纂したと伝わるものでそのために偽書といわれるものです。先代旧事本紀そのものは、後からつけられたとみられる稚拙な序文のために偽書ともいわれていたものですが平安時代初期には序文がなかったとみられ、また本文には、大嘗祭で使用される祝詞があり本文そのものは本物とみられているようです。また本文にはここにしか書かれていない物部氏の祖先ニギハヤギについての記述もあるなど資料的価値も高いとみなおされているそうです。以前から先代旧事本紀を読んでみたいと思っていたら、この江戸時代の偽書である先代旧事本紀大成経伝の現代語訳をみつけました。どこが偽書なのかわかりませんが、私が手に取ったのは十七条憲法の箇所をまとめた本です(全3巻)。偽書と言われながらもなぜ人気があったのかというのはその内容の素晴らしさにあるかと思います。そこにはやはり本物が書かれているからなのでしょう。一方で、いかに本物が混ざっているとはいえ偽書は偽書であり、本物との違いを見極める専門家は大変なわけですから、その罪は大きいともいえます。ということを踏まえたうえで読んでほしいのですが、十七条憲法は日本書記では十七条のみですが、原典では17×5で、五つの憲法に前文がついています。内容は、政治家、神職者、儒学者、仏僧がそれぞれ厳守しなければいけないことを定めてあり、これに日本書記記載の十七条憲法があるわけですが、日本書記記載の際に一つしか記載しなかったためか、一部変えられたといいます。十七条憲法の内容が素晴らしいように、この先代旧事本紀大成経伝の憲法も素晴らしいです。ここには、なぜ十七条になったのかその由来も書かれていますが、それは推古六年十月白鹿が献上されたことによります。その鹿の角は17に分かれその枝元に文字があったといいます。それは、琴、斗、月、台、鏡、竹、冠、契、龍、花、日、車、地、天、水、籠、鼎の文字で、その意味を世法の数であるとして、憲法が作られたといいます。ここに鏡の文字が出てきますが、この鏡とは古の良典に照らして現状を映し、今を省みて学べという意味です。そしてこの前文の五には、政治を行うものは、歴史を省み、史実をよく知っておかねばならない。想像のように見えて真実であったり、またいかにも事実のようで想像に過ぎなかったりすることがあるものなので、事の真偽について、なぜ行われたのかという証と良き先代の時代の跡を尋ねたうえで行うべきである。必ず迷うことがあるものだ。すなわち、まつりごとに、古典の学を用いるには確かな理由があってのことである。上記を読んで気が付いたのですが、鏡を祖先と思って敬うとはどういうことかというと、それはつまり「古(いにしえ)を鑑みて見倣う」ということなんだということです。そうしたことが、言葉として再度伝えられたのが、古事記です。古事記には、稽古照今と書かれており、それも「古を稽(かむが)へて今に照らす」、つまり「過去に学んで、今の世の指針を見出す」ということ、つまり歴史に見倣え、ということです。三種の神器には、それぞれ色んな意味が考えられてきましたが、鏡とは、まさに歴史、あるいは伝統を象徴するものなのだと思いいます。だからこそ、我が国では古来より、伝統を重んじ、また古を学んできました。そして、そうしたことが大きな流れとなった時、時代の流れも大きく変わってきたのです。幕末の志士たちの目まぐるしい考え方の変遷の下地に、「大日本史」があったことは重要だと思います。令和の時代に入り、昭和天皇、上皇陛下と自然科学が御専門でいらした天皇の次に、歴史を御専門とされる天皇が即位されたことは、令和の時代が歴史を見つめる時代、つまり私達も天皇陛下に見倣ってあらためて歴史を見直す時代になったのではないか、と思うのです。陛下は、朝見の儀にて、こうおっしゃいました。「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽(さん)に励むとともに」令和は鏡の時代として、歴史や伝統を見直す時代なのではないか?陛下の御言葉は私達の指針にもなるのではないか、そう私は考えました。沢山の問題がありますが、歴史を鑑み、伝統にならえば、その道も見えてくるのではないかと思います。即位後朝見の儀 天皇陛下の御言葉日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば,上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御(み)心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽(さん)に励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。「天皇家百五十年の戦い」において江崎道朗氏はこう書いています。天皇陛下(上皇陛下)は日本国憲法下で即位された天皇である。如何に不備な憲法であれ、また制定過程が如何なるものであれ、帝国憲法がそうであったように、日本国憲法も時の内閣の全閣僚の副署と天皇の御名御璽によって成立した。立憲君主として、その憲法を「守らない」とおっしゃることができるはずがない。ここで重要なのは「日本国憲法を守る」ということともになにをおっしゃっているかである。陛下が日本国憲法に触れた御発言を追っていくと、三つの重要な点があることに気づく。第一に、日本国憲法第一条にある「日本国及び日本国民の象徴」ということをおっしゃっていることだ。「象徴」についての御言及は、ただ字面だけを見たら日本国憲法の条文の引用で、それ以上のものではないように思えるかもしれない。「天皇陛下は護憲の天皇だ」という主張も、陛下のこうした発言に着目したものだ。だが、「天皇が国民の象徴である」という言葉で陛下が表現されているのは、日本国憲法制定時に突然新たに出てきた概念ではない。長い皇室の歴史に基づいた本来的な皇室のあり方として「象徴」という言葉を使われているのである。「今後のあるべき皇室の姿についてのお考えを」という記者の質問に対しこう答えられている。<憲法で天皇は象徴と決められたあり方は、日本の歴史に照らしても非常にふさわしい行き方と感じています。やはり昔の天皇も国民の悲しみをともに味わうように過ごされてきたわけです。象徴のあり方はそういうものではないかと感じています。(昭和58年12月20日、50歳の御誕生日前御会見>・・・省略・・・つまり陛下は、「国家及び国民統合の象徴」という日本国憲法条文に文言に対して、皇太子時代から繰り返し、日本の歴史と皇室の伝統に基づく解釈を打ち出して来られたのである。・・・省略・・・第二に、「日本国憲法を守る」ことを言われるときには必ず、それと同時に、「国民の幸せを念頭におき、たゆまずに天皇の道を進んでいらっしゃった昭和天皇をはじめとする、これまでの天皇に思いをいたし」、「長い天皇の歴史を振り返り」、「長い皇室の歴史を念頭に置き」というように、昭和天皇の御心や皇室の歴史に触れられていることだ。象徴とは何かということを語られるときに必ず歴史に言及されているのと同様、日本国憲法に触れる際にも必ず歴史に言及されていることは、陛下のお言葉を理解するために見落としてはならない重要なポイントだ。陛下は、日本国憲法の条文は踏まえるのだが、条文を解釈するための立脚点として、「長い皇室の歴史」があることを何度も示されているのである。・・・省略・・・天皇陛下の御発言で重要な第三の点は、「国民のために尽くす」と繰り返しておっしゃっていることだ。・・・省略・・・現行憲法下で、天皇が国民統合の象徴として積極的に国民のために尽くす義務があるのかと言えば、そんなことが条文に一言も書いてあるわけではない。天皇が御自分から積極的に動かれることにはリスクも伴う。しかし、天皇はそのリスクを背負って「国民のために尽くす」ことが象徴としての務めであると宣言された。宮澤憲法学の言う「ロボット」ではないのだ。また、「国民のために尽くす皇室」というお言葉によって、陛下がおっしゃっている「皇室の伝統を守る」という言葉の意味もより深くわかってくる。陛下は、歴史と伝統を守ろうということだけをおっしゃっているのではない。皇室を守るのではなく、「国家国民のために尽くす皇室の伝統」を守ろうとされている。皇室という「伝統のある古い名家」を守ろうとしたわけではない。国家と国民のために尽くす皇室をどう守ればいいかということをお考えなのだ。平成元年1月9日の上皇陛下が即位された時の朝見の儀の御言葉大行天皇の崩御は、誠に哀痛の極みでありますが、日本国憲法及び皇室典範の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。深い悲しみのうちにあって、身に負った大任を思い、心自ら粛然たるを覚えます。顧みれば、大行天皇には、御在位六十有余年、ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ、今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国民社会に名誉ある地位を占めるに至りました。ここに、皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなる時も国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。「古代憲法」については、せっかくの本ですが、最後の付録で台無しになっているのが残念。著者のあとがきからも思想が透けて見えているのですが、本書の内容とリンクしていません。

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  • 15May
    • 沖縄日本復帰47年目の日

      47年前、昭和47年(1972)5月15日、終戦後からアメリカに占領されていた沖縄が日本に復帰しました。この闘争碑は沖縄本島の最北端、つまりこの海の向こうに九州があるというそんな立地にあります。この写真を撮った時はとても穏やかな美しい海だったのですが、そこでこの碑を見た時とても切なくなったことを忘れません。この写真を撮った当時の私はまだまだ全然知識がなくて、いえ未だに全然分かってないことばかりなんですが、考えてみればこの美しい沖縄の海は沢山の英霊の方々が沈んでいった場所でもありました。この時期、沖縄について多くの活動や記事があります。検索してみると、本当に沖縄のことを考えている活動かどうかは一目瞭然じゃないかと思います。また復帰40年の時の江崎道朗さんの映像があります。現在沖縄の自衛隊には沖縄の人が多くいるそうで、その自衛隊員と結婚する沖縄の女性も多いそうです。↓江崎さんは、学生時代から沖縄に行っては現地で戦争を知る人に話を聞いてきており、その著書の「天皇家百五十年の戦い」では一章を沖縄にあてています。それは、上皇陛下と沖縄の関わりが深く、またお心を寄せられていることからですが、長年実際に現地で聞いてきたことが、声の大きい人達に隠れがちな本当の沖縄の姿となって表れているのではないかと思います。よくわけのわからない(自称?)沖縄の人達が沖縄ばかり酷い目にあったというようなことを言われる度に私が思い浮かべるのは、日本中で連日空襲にあっていたことや、大空襲が東京を含め大阪、名古屋などにもあったこと、そして広島・長崎の原爆、さらに日本ために闘った、その立地から最初に狙われる沖縄を守るために出撃した大勢の英霊の方々のことです。2年前の8月15日、沖縄で御存命の人達にずっと聞き取りをされている方から、意外な話を聴きました。思い出せる限り書きますがもし間違えていたら、それは全て私のせいですので、そこを踏まえて読んで欲しいと思います。あやふやな話かもしれませんが、このような内容であったと汲んでいただけると助かります。実は、沖縄の激戦地は日本軍が追い詰められていった場所だけだったそうです。つまり沖縄本島の最南端にどんどん追い詰められていったのですが、そこだけのことで、他の場所はのどかだったというのです。そして戦時中でニュースも伝わらないことから、そのような激戦があったことをすぐ側の人達も戦後しばらく経つまで知らないことが多かったといいます。というのも、民間人は戦いませんからすぐに投降していったからなんだそうです。有名なひめゆり学徒隊の女性にも話を聞いたそうですが、あれも急展開のため兵隊を置いていくことは出来ないと(当時の女学生の責任感の強さ)その激戦の地まで学徒もついていってしまったという不運で、最後には兵隊といると危ないからそこを離れ逃げるように言われて逃げて生き残ったのだとか。ただしこのような場所で捕まるとどんな目に合うやも知れないからということで自ら命を絶つことになった人達もいたわけですし、その女性もその場にいたら自分も生きていなかったかもしれないという状況だったようです。最後にいた場所が運命を分けたのです。それからその聞き取りを行っていた方は、当時年長だった方と、幼かった方両方から話を聴いているそうですが、幼かった方はその後の戦後教育のせいか年長者と言っていることが全然違うそうです。幼い分当時理解していることは少なかっただろうし、戦後教育で記憶の書き換えもされているだろうから、私は当時ほとんど大人だった年長者の言うことが真実だと思うとおっしゃってました。話は戻りますが、沖縄戦で戦火に巻き込まれた沖縄の人達は、当時軍のために働いたり、何らかの関係があってついていった人達だったということです。そしてその戦火の移動上にないエリアの人達は、まったくのどかに戦後まで過ごしていたんだそうです。もちろん、沖縄が陥落する前は、他の日本中と同じ状態だったでしょうが、沖縄の地上戦に関していえば、こう知るとずいぶん印象が変わってきます。以前ツィッターでこんなツィートがありました。有事の場合自衛隊と自治体どちらかに助けを求める時は、絶対に自衛隊に助けを求めてはいけない。自衛隊は戦うのが本来の役目だからそこに助けを求めたら襲撃される危険があるし足手まといになるというようなことです。そして、これはその後確か江崎道朗さんもおっしゃっていました。有事の場合救助他色んな役目を担うのは自治体の仕事である、と。確か戦時中の沖縄は、避難勧告は早くから言われていたのになかなか行わず、緊迫してから避難を始めるなど後手後手になったと聞いた覚えがあります。有事に自衛隊の側に行ってはいけない。これはとっても重要なことですが、災害救助のイメージで自衛隊に助けを求めてしまうようなことがあるかもしれませんので、これは覚えていた方がいいことの一つです。本当はこうしたことは、きちっと教えられなければいけないし、避難訓練も行ってればいいのですが、教えられていませんし、北朝鮮のミサイルが緊迫した時期、危険を煽っていると言うような人達がいました。なにもなかったからいいけれども、それは後からいえることであって、これは当時の沖縄と変わらない状況だったともいえるかと思います。沖縄も当時危険をちゃんと認識していなかったから後手後手となったのでしょう。しかし、結果的に被害がなかったからといっても危険が去ったわけではありません。これからもあのような国がある限り危険はなくならないのですから、訓練は必要だと思います。東日本大震災の時、家族を巻き込んでの避難教習を何度も行っていた釜石市の小中学校では生存率が99.8%ぐらいだったのですから、いかに避難訓練が重要だかわかります。小中学生生存率99.8%は奇跡じゃなく教育の賜物自分の命は自分で守る教育が必要人間教育まで広がる防災教育釜石の奇跡が変えたもの世の中にはおかしなことを言う人達がいます。例えその人達の声が大きいからと言ってそれに惑わされたないように、しっかり知ることが大切だと思います。知ってさえいれば惑わされないからです。沖縄はその立地から、地上戦に巻き込まれ、また沖縄復帰前からずっと狙われてきた土地です。そんな土地だからこそ、現在沖縄はとてもおかしな状況になっています。これは終戦後の、そして占領されていたという環境と、その立地のために今も色んな人達に狙われている土地だからです。立地というのはとても重要で、国境の場所にある土地は、古今東西危険な地域なのです。沖縄に限らず北海道、対馬、尖閣諸島の島々の状況からも、その立地がそうさせていることがわかるかと思います。他にも危険な島々があるといいます。故翁長知事は「本土に復帰は不本意」などと言っていました。しかも国連で沖縄が差別を受けているだなどととんでもない演説をしました。これには、すぐに我那覇真子さんが反論をしましたが、この翁長さんは知事でありながらそれを利用して海外に行ってはないことばかり言いふらした残念な人でした。しかし、このような人のおかげで我那覇さんのような若い人達が危機感をもって増えてきているのかもしれません。演説の力沖縄の真意とは・・・国連でなにが起きているのか?沖縄はのどかな南の島のような印象がありますが、実は情報戦の最前線の場所なのです。戦後、日本ではウォーギルドインフォメーションプログラムで、色んな政策が行われ教育や習慣や様々な事を変えられました。最近良く思うのがその影響が一番現れているのが沖縄ではないかと思うのです。なぜなら、沖縄はその立地から戦場になった島だからです。そして占領もされていました。さらに、今は中国に狙われています。そのような悪条件が重なっている場所なのです。そしてだからこそ沖縄は英霊の方々が必死に守ろうとした島でもありました。しかし、あれほど日本復帰を望んだ沖縄が、そして人の良い沖縄の人達が、実はこんなにおかしな人達ばかりなのか?疑問に感じることも多いです。やはり環境がこのような沖縄にしているのか・・・と思うとそうでもないのです。実は一般市民のふりをしている動員人達が多いことが近年あきらかになっています。沖縄で活動している人達の動画がたくさんありますので、検索してみてください。そこに出てくる旗や、言葉を見れば一目瞭然です。違う言語や、国外の国の旗がある時点で、おかしいと誰でもわかります。沖縄には今でも本土復帰のために闘われた方々と変わらない人々が大勢います。そして沖縄のおかしな二誌意外しか情報がなかった人たちのため、地元のための本当の新聞である八重山諸島の八重山日報が沖縄本島でも買えるようになり、(東京でも買えます)また最近の沖縄の選挙の様子をみていても、またツィッターに若い沖縄の人達のアカウントが目立つようになってきていることからも、沖縄が変わってきていることが感じられます。つまり、それはそれだけ国境の島である沖縄の危機感の表れともいえるかと思います。機会ある毎に、沖縄だけでなく日本中でこうした危機意識の再認識と共有が必要なんではないかと、現在の国際情勢や外交を見て思います。こうした状況を沖縄から発信されているのが、仲村覚さんです。これも歴史戦である、と沖縄の歴史を伝えるため「沖縄はいつから日本なのか」の著書を出されています。上皇陛下は皇太子だった時に、「気になるのは、沖縄には他の地域と違った歴史、文化があるのに、学校教育の中にほとんどそれが入っていないことです。将来学校教育の中に入れるべきだと思います。」とお誕生日会見で仰られたと「天皇家百五十年の戦い」にあります。今でもそううした状況が変わらないことから、仲村さんは本を出されたのでしょう。沖縄に限らず北海道の歴史もきちんと教えられてこなかったことが現在の状況を招いているかと思います。沖縄の歴史はその立地を抜きに語れませんが、こうした歴史を知ることが今を知る上でも欠かせないことだと思います。必聴映像サイレント・インベージョンとは?

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  • 14May
    • 御代替り・・・斎田点定の儀

      大嘗祭の斎殿が栃木県と京都に決まりました。我が栃木です\(^o^)/産経ニュース@Sankei_news 大嘗祭の斎田は栃木県と京都府 占い「亀ト」で決定 https://t.co/t0OIXlxpFp  →カメの甲羅を使った古来の占い「亀卜」の結果  →「大嘗宮の儀」は、11月14、15日に皇居・東御苑で行われる2019年05月13日 13:58皇位継承に伴う11月の重要祭祀(さいし)、大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」で、神々に供える米を育てる地方を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が13日午前、皇居・宮中三殿の神殿前で行われた。カメの甲羅を使った古来の占い「亀卜(きぼく)」の結果、東日本の「悠紀(ゆき)地方」に栃木県、西日本の「主基(すき)地方」に京都府が、それぞれ選ばれた。結果について、天皇陛下は皇居・宮殿の表御座所で、宮内庁の山本信一郎長官から報告を受けられた。同日は祭祀をつかさどる掌典(しょうてん)職トップの掌典長が祝詞を読み上げた後、午前10時に神殿前に設けられた「斎舎(さいしゃ)」と呼ばれる施設に衣冠姿の掌典職員が入った。亀卜は非公開。宮内庁によると、東京都小笠原村で捕獲され、長さ約24センチ、幅約15センチ、厚さ約1ミリに加工したアオウミガメの甲羅を桜の木をくべた火にかざす占いを実施した。ひびの割れ方から都道府県を決めたとされるが、宮内庁はどのような亀裂によって判断したか、詳しい方法を明らかにしていない。平成への代替わりでは、米の産地は秋田、大分両県だった。「大嘗宮の儀」は、11月14、15日に皇居・東御苑で行われる。陛下が、斎田点定の儀で決まった都道府県で収穫された米を神々に供え、五穀豊穣(ほうじょう)と国の安寧を祈られる東山天皇の大嘗祭の「大嘗会祭図」の悠紀殿と主基殿。それぞれ、悠紀田と主基田の稲が使用され儀式が行われる。文献での記録としてのユキ、スキの言葉は日本書記の天武天皇の新嘗祭に登場しますが、語源を辿ると水田稲作が移入された弥生時代にまでさかのぼる必要があるのかもしれない、と「大嘗祭」の著者である工藤隆氏は書かれています。そして、ユキの語源は「斎酒(ゆき)」で「神聖な酒」、スキの語源も「サ(神聖な)がスに転じ、キ(酒)」で「神聖な酒」だといいます。神社庁のHP御代替りでは、本日使用された亀卜の見本写真があります。また平成の大嘗宮の上空写真や図がありますので、今回の大嘗祭の場合も想像しやすいかと思います。大嘗祭を初めとする皇位継承の諸儀式は、神代より現代にまで受け継がれてきた我が国精神の継承儀式である、と上記「御代替り」にあります。平成の儀式の時は、なにも知らずにテレビで放映されたものを驚きをもって見ていましたが、今では多少は知識を持ってこの儀式を迎えられることが出来るのを喜ばしく思っています。このような機会に2回もめぐり合わせていることも幸運だと感じていますし、このような古来から続く行事がある国に生まれたことを誇らしく感じています。大嘗祭は、天皇一代一度限りの即位時の特別な新嘗祭でありますが、新嘗祭は毎年行われているものです。現在、新嘗祭の日が勤労感謝の日と名前を変えられてしまったがために、それを知らない人が増えてしまいましたが、古来より日本で一番大事なお祭りとしてあったのが新嘗祭です。これを機に毎年行われている新嘗祭についての認識も一般化することを願っています。平成最後の新嘗祭のご様子 神社新報から お祭りを知ろう\(^o^)/藤原道長の望月の和歌が示した「共有する」ことの大切さ奉祝 満月の新嘗祭新嘗祭の後は豊明節会、感謝してご飯をいただきましょう(^O^)/新嘗祭の前日は鎮魂祭斎田点定の儀を詳細に語っていらっしゃる、広島宮崎神社の根宜さんなお上記で参照した「大嘗祭」の本は、最後に女系天皇と女性天皇の認識が混ざって書かれているので、その点がお薦めできなくなっていることを記しておきます。

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  • 10May
    • 五月十日は仁明天皇と中御門天皇の祭日・・・和風諡号最後の帝と閑院宮家創立

      パソコンの調子が悪くてアップが遅れました。本日は祭日の日です。★第五十四代仁明(にんみょう)天皇は、平安時代初期の天皇です。八百十年生。御名は正良(まさら)。御父は嵯峨天皇の第二皇子、御母は壇林皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)。またこの時同時に正子(まさこ)内親王が生まれていますので双子の親王と内親王でした。在位八三三年から八五十年。第五十三代淳和(じゅんな)天皇には多くの皇子がいましたが、皇太子には第五十二代嵯峨天皇である兄の皇子、正良親王を立てました。そして正良親王は、天皇から皇位を譲られて即位すると淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てました。淳和天皇の皇后は正子内親王で淳和天皇の譲位により皇太后になられており、その皇子でもある恒貞親王ですから、仁明天皇の叔父の子でもあり、姉の子でもあったわけです。これは嵯峨上皇が皇子がいるのに弟である淳和天皇に皇位を譲られたことに倣い、淳和天皇も謙譲の精神からやはり皇子がいるのにも関わらず嵯峨上皇の皇子である仁明天皇に譲位されたことを、仁明天皇も倣ってのことでした。この嵯峨天皇から続く兄弟叔姪の間で謙譲の心を持って皇位が伝えられたこの三代の時代は嵯峨上皇を中心に政治も安定して「崇文(すうぶん)の治(ち)」と呼ばれました。一方で、ここには嵯峨上皇の意向も大きく影響しており、仁明天皇に皇子、道康親王がいるだけに禍根となっていくのは、誰の目にも明らかでした。しかも道康親王の母は、急速に台頭した藤原良房の妹であり、親王は良房の甥でもありましたから、良房も仁明天皇の皇子が皇位に就くことを望んでいたのです。そうした動きを察知した淳和上皇と恒貞親王は何度も、皇太子の辞退を奏請されたと伝わりますが、その都度嵯峨上皇が慰留されていたのでした。八四十年に淳和上皇が、八四二年に嵯峨上皇が相次いで崩御されました。嵯峨上皇は国忌をせず、葬儀もつつましくするよう遺詔されたといいます。そしてこの直後承和の変、皇太子を奉じての謀反が起き、恒貞親王は皇太子を廃されましたが、これは藤原良房が他氏を排斥し勢力拡大するための陰謀だったと伝わります。すめらぎのお話・・・麗しい皇子の受難その後皇太子になったのは、良房の妹の女御、順子の子である道康(みちやす)親王でした。次の文徳(もんとく)天皇です。こうして藤原家の権勢が広がっていったのです。嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇へと続く世が平穏だったのは、皇族内部に上皇、天皇、皇太子の間で関係を良好に保とうとする皇位継承をめぐる深い配慮があったからでした。これは嵯峨天皇の父桓武天皇の即位から嵯峨天皇の即位頃までの様々な事件(怨霊の仕業といわれた事件)からの教訓から嵯峨上皇が知恵を絞ったことだったのかもしれません。ところが、その教訓も嵯峨上皇の崩御と共に臣下の陰謀で消え去ってしまったのです。いかに教訓を生かそうとしても、政治と絡まった派閥の前には簡単に消えてしまうという事を歴史は教えてくれます。この時二つの派閥が生まれており、嵯峨上皇と淳和上皇の崩御後にそれが顕在化したのが承和の変だったのです。仁明天皇のとりなしもむなしく、良房の専断により事件は処理され勢力図も変わっていったのです。八五十年二月、天皇は病により出家され数日後崩御されました。仁明天皇は和風諡号を奉贈された最後の天皇です。和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。御陵は深草陵、京都市伏見区深草東伊達町にあります。橘氏の氏神社、酒造守護で知られる梅宮大社(うめのみやたいしゃ)には嵯峨天皇、壇林皇后と一緒に親子で祀られています。なお現在和菓子の日とされている六月十六日は、承和十五年(嘉祥元年)の夏、仁明天皇が御神託に基づいて、六月十六日に十六の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて、疫病を徐け健康招福を祈誓し、嘉祥(めでたいしるし)と改元した古例に因んだもので嘉祥の日とも言われています。嘉祥の日には朝廷でお上に菓子を献じることが吉例となり、後には民間の習慣にもなりました。和菓子の日には和菓子を食べよう(^O^)/また仁明天皇が愛された色が承和(そが)色として今に伝わっています。仁明天皇は菊の花を愛で、宮中のたくさんの菊を植え、お召し物も黄色にされたといいます。その仁明天皇の愛された菊の色あいを出したのが承和色だといいます。暦生活@543life にっぽんのいろ「承和色(そがいろ)」 少しくすんだ落ち着きのある黄色。 平安時代初期に在位した仁明(にんみょう)天皇が愛した黄菊の色です。 天皇治世の年号が「承和」と呼ばれていたため、この名が付きました。 #にっぽんのいろ #暦生活 https://t.co/I2JH8dSnmM2016年09月17日 21:30★第百十四代中御門(なかみかど)天皇は、江戸時代の天皇です。一七百一年生。御名は慶仁(やすひと)、長宮(ますのみや)。御父は東山天皇、御母は櫛笥賀子(くしげよしこ)。在位一七百九年から一七三十五年。東山天皇の第五皇子として誕生し一七百七年に親王宣下を受け、翌年立太子し、その翌年父の譲位を受けて践祚、さらにその翌年即位されました。御即位が9歳だったため、はじめは東山上皇、そして後には祖父の霊元上皇が院政を行いました。この年は徳川五代将軍綱吉が没し家宣が六代将軍になった年でもあり、以降七代将軍家継、八代将軍吉宗までが、中御門天皇の治世でした。一七二九年には、将軍吉宗自ら注文してベトナム広南産の象の拝謁を霊元上皇と共に受けられました。この際、象が無官であるため参内の資格がないという問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させています。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象をみた天皇はその感銘を御製にしたためました。時しあれは人の国なるけたものもけふ九重にみるがうれしさ徳川家との関係も良好な時で、閑院宮家の創立などもすんなりできました。後年その閑院宮家から即位されたのが光格天皇です。中御門天皇は、有職故実の研究と再興に関心を持ち様々な節会を復活させました。また、管弦、和歌、書道などに通じ、特に笛は天下一品で狐が間近まで来て聞いたといいます。一七三十五年、皇子で皇太子の昭仁(てるひと)親王に譲位(桜町天皇)、上皇となった二年後インフルエンザ崩御されました。御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。参照:「宮中祭祀」「天皇のすべて」「歴代天皇総覧」他

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  • 09May
    • 御代替り・・・即位礼期日奉告の儀

      昨日、今上陛下即位後初の宮中祭祀がありました。昨日の儀式午前・・・宮中祭祀賢所に期日奉告の儀・・・賢所に天皇が即位礼及び大嘗祭を行う期日を報告される儀式皇霊殿、神殿に期日奉告の儀・・・皇霊殿、神殿に天皇が即位礼及び大嘗祭を行う期日を報告される儀式午後神宮神武天皇陵及び昭和天皇以前四代の天皇山稜に勅使派遣の儀・・・神宮並びに神武天皇山稜及び昭和天皇天皇以前四代の天皇山稜に即位及び大嘗祭を行う期日を報告し幣物を供えるために勅使を派遣される儀式この儀式が午前と午後に分かれているのは、陛下の装束が儀式で変えられたからです。午前の儀式では、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を召され、午後の儀式では御引直衣(おひきのうし)を召されています。黄櫨染御袍とは、天皇正式の装束であり多くの儀式で着用されるものです。黄櫨染は櫨(はぜ)と蘇芳を染料とする茶に近い色ですが、染料であるためその色合いが御歴代の天皇によって変わっています。私が実際に目にしたことがあるのは、明治天皇と上皇陛下のものですが、明治天皇の場合下の写真のように明るめの黄金色に近い色ですが、上皇陛下の場合は赤みを帯びた茶色に近い色でした。今上陛下のものはさらに深い色となっており、まさに自然染料の表れとなっています。明治天皇の黄櫨染御袍は、明治神宮所蔵のものですので、現在準備中の明治神宮ミュージアム開館時にご覧いただけるのではないかと思います。もしかしたら、その時には上皇陛下、昭和天皇の御袍の展示もあるかもしれないと期待しています。儀式ついては、広島の宮崎神社の根宜さんが詳しく説明をしている動画がありますので、これをご覧いただくと、昨日のニュースもわかりやすいかと思います。上記動画によればまた御引直衣は、この儀式でしか見れない装束とのことですが、「天皇の装束」によれば御引直衣は御歴代天皇が清涼殿、つまり宮殿で召された装束ですので、現在普段は洋装であることから、この儀式でしか見られない装束なのだと思います。また根宜さんが黄櫨染御袍が夏服であると仰っていますが、これは映像をみても透けて懐の御告文が見えていることから確認できます。根宜さんが手にされているのは神社庁配布の「御代替り」の冊子です。HPもありますので、こちらをご覧いただくとこれからの即位行事がわかりやすいかと思います。「天皇の装束」は人生の節目毎に装束を変えていった、天皇の生涯と連動している装束についてまとめられたものです。これは御歴代の天皇だけでなく、宮中祭祀で装束を召される現代の天皇にまで通じるものです。2019/05/08 に公開天皇陛下は8日、皇居・宮中三殿で、今後の即位関連儀式の期日を歴代天皇などに告げる「期日奉告の儀」に臨まれた。即位後初の宮中祭祀(さいし)で、陛下が祭儀の正装「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を天皇として身につけられる初めての機会となった。 陛下は午前10時30分ころ、厳粛な表情で皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる三殿中央の「賢所(かしこどころ)」の回廊を進み、ゆっくりとご一礼。笏(しゃく)を手に御簾(みす)の中に入られた。賢所の中では「即位礼正殿の儀」を10月22日に、一世一度の重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」を11月14、15日に執り行う趣旨の「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。次いで陛下は皇霊殿、神殿にも同じ趣旨を告げられた。 陛下に続き、古式ゆかしい装束を身につけた皇后さまもご拝礼。宮内庁によると、皇后さまが三殿すべてに拝礼されるのは、平成14年以来という。秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方も、安倍晋三首相ら三権の長、閣僚らとともに参列された。 8日午後には、陛下が宮殿で、伊勢神宮などに日程を告げる使いを差し向けられる「勅使発遣(ちょくしはっけん)の儀」も行われる

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  • 08May
    • 国立公文書館特別展「江戸時代の天皇」

      先日、国立公文書館で行われている特別展、「江戸時代の天皇」に行ってきました。ここの展示はいつ行っても満足できるのですが、今回も素晴らしかった。特に、今回光格天皇の時代にあった千度参りについて書かれた文献を生で見ることが出来たのは収穫ですし、絵巻の展示はほんの一部が開かれているという展示が多い中、長く開かれた行幸絵巻をそのまま辿って見ることが出来たのも贅沢なひと時でした。国立公文書館@JPNatArchives 春の特別展【江戸時代の天皇】5/12(日)まで! 第五章では天皇・朝廷と民衆に接点があった様子を紹介しています。「翁草」は「諸国飢饉」という項目の中で、天命の飢饉と千度参りを取り上げています。 本展は今週末12日(日)まで!お見逃… https://t.co/n7Ctmw0Lsx2019年05月07日 18:00また、朝議復興関連で、礼儀類典の絵図の精巧な絵図が物凄かったです。パンフレットを買ってきましたが、いくらきれいな写真でも生で見るのとは大違いです。和綴じの本で普通の和紙(かどうかよくわからないのですが・・・)にこのような絵が描かれいるのは初めて見たので、こういうものもあるのか?と驚きました。国立公文書館@JPNatArchives 春の特別展【江戸時代の天皇】5/12(日)まで! 第三章・第四章では、江戸時代の元号の選定と改元、光格天皇と朝儀復興について取り上げます。改元に際しては難陳と呼ばれる公家らの議論があり、「改元定難陳詞」には万治から嘉永までの難陳が… https://t.co/nEBWuF6gXB2019年05月04日 18:00しかし今回、こうしたものとは別に感動したのが、天皇の肖像画です。これは生ではなく写真でしたが、はっきりとした写真です。展示物として一定の大きさになっていましたのでよく見ることが出来たのです。天皇の肖像画は今まで何度も見てきていますし、後水尾天皇の肖像画は泉涌寺で展示されていたものを生で見ていますが、泉涌寺の展示物は保護のため明かりが制限されていましたし、距離があって細部までは見れませんでした。また、本などの印刷物では本の大きさに合わせ小さくなってしまい細部がよくわかりません。ここでは写真となっていることでよく見ることが出来たのです。そこでわかったことは、なにをいまさらと思うかもしれませんが、その皇統の血の流れです。今まで、何度も見ているのに、わからなかったのですが、この肖像画実によく描かれていて、特にその目がきれいに描かれていることで気づいたのです。いうまでもないことですが、目というのはその人を良く表します。その目がここまで描かれていることに凄く驚きました。そして、なぜ今まで分からなかったのかと思うほど、順に見ていく親と子、孫ととても似ているのです。なぜ今まではそれがく分からなかったのだろうと思うほどです。ここでこれを見ることで、その当たり前のことに感動しました。しかも、驚いたことにその遺伝子が、時代の境目に色濃く出ているようにみえたのです。この肖像写真は、一部を除いて写真が撮れましたので、撮ってきました。性能がよくなく影も映っていてわかりずらいかもしれませんし、目に至っては全然わかりないかもしれませんが、参考までに。江戸時代始まりの頃、後水尾天皇。二代将軍秀忠の娘、東福門院和子が中宮です。霊元天皇、後水尾天皇の第十六皇子。父帝の院政の中、兄の後西天皇から譲位され即位。東山天皇、霊元天皇の第五皇子。霊元天皇からの譲位により即位。第五皇子の中御門天皇に譲位後崩御されたが、中御門天皇の時代に東山天皇の第六皇子の直仁親王が初代となり宮家が創設され、霊元法皇から「閑院宮」の宮号と千石の所領が下賜される。光格天皇。閑院宮家初代の直仁親王の孫にあたり、閑院宮家から天皇に即位され、現在の天皇陛下まで続いています。東山天皇から光格天皇までの代の間には、桜町天皇、桃園天皇、後桃園天皇の肖像画もあるわけですが、桜町天皇系の御顔立ちとなっています。また女性天皇の肖像画はありませんでしたので、後桜町天皇の肖像画もありません。そして、仁考天皇、孝明天皇は仁考天皇系の御顔立ちのようになっていくように見えます。さて、光格天皇の御顔立ちを見て、どなたかの御顔が浮かびませんか?上皇陛下の現在の御顔立ちは、光格天皇の生き写しのようです。上皇陛下のお若い頃ではなく、現在の上皇陛下の御顔立ちに似ていらっしゃることに、皇統の不思議を感じさせられます。そしてお年を召されてからの明治天皇の御顔立ちは、後水尾天皇に似ていらしたのではないか?とも考えました。明治天皇すり替え説という都市伝説がありますが、こうした遺伝子の流れをみても荒唐無稽と言わざるを得ないかと思います。開催期間、あとわずかですが機会がある方にお勧めしたい展示です。こちらを見てから、行かれるとよりわかりやすいかと思います。展示そのものは多くありませんが、価値ある特別展です。

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  • 07May
    • 日本の叡智の結晶・・・十七条憲法(いつくしきのりとをあまりななをち)

      本日は旧暦では4月3日です。1415年前推古天皇12年聖徳太子は自らお作りになられた十七条憲法を発表されました。ユリウス暦では604年5月6日ですから、西暦でも昨日、改暦が何度かあってもこの時期であったことは間違いないでしょう。この時期と言えば、5月3日が憲法記念日なので毎年憲法関連の行事がありますが、私は十七条憲法が発布された日こそ憲法記念日として相応しい日と考えています。5月3日は、現在の憲法について話題が毎回盛り上がりますが、それよりも日本の叡智である十七条憲法を見直し考えることの方が有意義なのではないかと思うのです。そうすることで、自ずと見えてくることもあるでしょう。日本が近代憲法を作成するにあたって、井上毅がまず何をしたのかといえば日本古来から伝えられてきたことを見直すことから始めたのですから。何事も混迷を深めたら原点に戻ることが肝要です。日本の原点といえば、神話から続く我が国の物語であり、憲法の原点といえば十七条憲法にほかならないのです。我国の歴史の中の根本に、十七条憲法はいつも存在し、そして、明治期には大日本国憲法や、五箇条の御誓文、そして教育勅語の参考にもされています。十七条憲法は通常「じゅうななじょうけんぽう」と読まれていますが、大和言葉では「いつくしきのりとをあまりななをち」と読みます。下の写真は日本書紀の書き下し文のページですが、本文も全て大和言葉で読むのが実は正しいのです。なぜなら、「いつくしきのり」と「けんぽう」から受ける印象は全く変わってくるからです。十七条憲法は作られた当時の叡智の結晶であり、大和言葉で書かれたものです。ということは大和言葉で読まないとその意味も読み違えてしまうということになります。例えば十七条憲法の第一条にある「和を以て貴しと為し」も「わ」と「やわらぎ」では全然印象がが違います。和をもって貴しと為しそして第三条にある「君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす」の言葉からは、古事記が浮かび上がってきます。第二条の「三宝を敬へ」から、十七条憲法には「神」、「神道」が出て来ないという人がいるようですが、この文面と内容に貫かれているのは第一条から全て日本的考え方、つまり神道の考え方があることがわかります。だからこそ「神」という言葉をわざわざ載せる必要もなかったのです。天と地とは自然を敬い社会の中心とする考え方です。そして自然を敬うとは、家族・共同体が中心となるということでもあります。そしてそれが大きくなったものが国家であり、だからこそ日本語では「国の家」という漢字の組み合わせで表すようになったのです。国父といえば天皇となり、それが日本の形の基本となっています。なにもこれは我国だけのことではなく、法皇はパパと言われており、古来より何処の国も国は家族として成り立っていたのです。ところがそうして成り立った国で現存している国が日本だけとなってしまったのです。聖徳太子といえば、仏教を敬ったことで有名ですが、皇太子という立場は宮中祭祀を司る天皇の替わりも務められたということも意味します。推古天皇という女性天皇であった当時その代わりの務めは多かったことが推察できます。もちろん、天皇しかできない祭祀の替わりはできなかったでしょうが、皇太子であったということはご代拝も含め、宮中祭祀で重要な位置にいたことは間違いないかと思います。つまり聖徳太子そのものが祭祀王のような存在であったわけですから、神の言葉がないからといって十七条憲法が神を語っていないということにはならないのです。むしろ、十七条憲法は古来からの叡智に満ちた神道的考えに貫かれた祝詞であるといえますし、実際大和言葉で読めば「のり」なのです。仏教の釈迦は人であり、仏教は個人のためのものです。聖徳太子は神道だけでは個人がないため、個人の為である仏教を入れたのです。しかし、だからこそ聖徳太子は仏教を敬えとはいっても、仏教の解説本で僧に近づいてはならないと説いています。僧とは(自分の解脱のために)家族を捨てる者でしたから、そのような者に近づいてはならないとしたのです。それは、そのような者に近づいて影響され、家族を捨てるような人になってはならないという事なのです。(後に日本化した僧は妻帯するようになり、仏教そのものも神道と融合していきます)十七条憲法は儒教の影響を受けているという人もいますが、儒教の教えでは第一は礼ですが、十七条憲法では第一が和となっており、日本独自の考え方が貫かれたものだということが表れています。以下、ウィキペディアより↓夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)九に曰く、信は是義の本なり。(略)十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)現代語でわかりやすい十七条憲法上記では、(略)とされているところには、なぜそうしなければならないかの説明があります。例えば、十四条の嫉み妬むことの戒めはこうなります。「自分が嫉妬すれば相手も嫉妬し、その終わりがない。自分より才能がある人を喜ばず嫉妬していては500年経っても賢人には出会うことはできず、1000年経っても1人の聖人が出てくることを期待することはできない。聖人や賢人がいなくては国を治めることはできない。」妬みや嫉妬などは普遍的なものでなくなることはないでしょうが、それを古来から戒めようと努力してきたのが私達の先人の教えです。これを読んでいるとある国が頭に浮かんでくるのですが、その国のことを考えると、このような言葉を残し今も伝えられている日本はつくづく有難い国だと思います。だからこそ、この十七条憲法を「十七条憲法」という言葉だけでなく、全文を小学生のうちから教えて行くべきだし、日本の全企業や政治家なども毎日暗唱すべきだと思うのです。そして官僚をはじめとする公務員こそは、これを毎日暗唱して確認すべきです。そもそもこれは当時の官僚や公卿向けに書かれたものなのです。日本的思考の根底には、この十七条憲法の教えがあると思うのですが、それが埋もれてしまっているのが現在であり、それが現在日本の様々な問題を引き起こしている要因一つではないかと思います。だからこそ、こうした言葉を日々繰り返すことは、きっとその行動にも影響を与え、この言葉を意識することによって埋もれていた日本の和の精神が顕在化し、徐々にでも良い方向に変わっていけるようになるのではないか、と思うのです。世界最古で美しい憲法何度も繰り返す歴史記紀の薦めいつくしきのりと参考:平成29年4月8日日本国史学会、田中英道東北大学名誉教授講義他1397年前の本日、多くの人が嘆き悲しんだ日伝統とは叡智の結晶住職の視点で解説された十七条憲法と聖徳太子の本和の国に戻る時ではないか?五箇条の御誓文から十七条憲法にまでさかのぼる日本の民主主義についてわかりやすく解説された本「令和」に繋がる和の精神、五箇条の御誓文が示された日教育勅語をわかりやすく歌にした「大切な宝物」を歌う山口采希さんが、その教育勅語を知った時に感じたことや、曲を作る時に大切にした井上毅の基本原則についての解説五箇条の御誓文を歌にした「五つ星きらめく~平和の約束」

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  • 06May
    • 皇室の危機とは日本の危機ということ・・・追加しました

      御代替わりを機に、きっとまた始まると思っていましたがさっそく、上皇陛下、上皇后陛下が「上皇ご夫妻」や「上皇さま」「上皇后さま」にされています。皇室の方々に、「ご夫妻」という言葉は使用しませんし、ましてや上皇となられた方に「さま」を使用するなど考えられません。もちろん近しい方々や、一般の方々が親しみを込めて「さま」や「さん」を使用する場合もあるようですが、報道でそれを使うのはおかしいと言わざるをえません。これは単に言葉の問題ではなく、こうしたことから少しずつ皇室解体つまり日本解体への動きであることが怖いと思います。なんといっても国を破壊する手始めは言葉を奪うことから始まるからです。思考を司るのは言葉ですから、その言葉を変えるということは思考が変わってしまうことを意味します。だからこそ、国語はとても大切なものなのです。国を奪うのは言語を奪うことから始まるあらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 やっぱり始まりました。 ニュース記事に「上皇さま」とありますが「上皇陛下」「上皇后陛下」です。 それから皇室の方々に「ご夫妻」という言葉は使用しません。 また対となる言葉は対で使用します。 「陛下」と「さま」は対の言葉ではありません。 「殿下」と「さま」も同様です。2019年05月02日 06:00このGW中、皇室関連のニュースが増加しましたが、その中に2日のニュースで共同通信社が行った全国緊急電話世論調査があります。即位された天皇陛下に82.5%が「親しみを感じる」と回答、「親しみを感じない」は11.3%にとどまった。ここまではいいですが、以下のアンケートは必要ですか?皇室典範で「男系男子」に限るとした皇位継承を巡り、女性天皇を認めることに賛成は79.6%で、反対の13.3%を上回った。これは、天皇陛下に親しみを感じるかどうかの設問と一緒に行われているわけですから、誘導設問となります。親しみを感じている人達は、天皇陛下に内親王殿下しかいらっしゃらないのを知っているわけですから、そう答えたくなるわけです。しかし、現在皇位継承順位は、秋篠宮皇嗣殿下、悠仁親王殿下となっていますから、こうした質問をすることそのものが不適切です。つまり、ここでこういう質問をすることそのものが、国民の分断を狙っているとしか思えません。御代替わりの前、当時の天皇陛下、皇后陛下、また皇太子殿下同妃殿下、そして秋篠宮殿下同妃殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、それぞれ派閥に分かれて色んなことを言う人達がいました、ネットでもそうですし、女性誌でもそうです。ところが、最近急増したのは秋篠宮殿下への攻撃で、皇太子妃殿下への攻撃が止んでいるように見えました。そして4月末には事件まで起きましたが、未成年者を狙った卑劣な事件です。犯人が捕まっても事件の経緯から単独犯とは思えませんから本当に不気味です。そして御代替わりが始まってからのこの動き。天皇と国民の分断も狙われていますが、皇室内の分断も狙われているのです。そもそも、こうしたことを訊ねる前に、このアンケートに答えた人達は皇室の知識があるのでしょうか?戦後私達は、天皇や皇室に関すること、また長い間の私達の歴史でもあった神社に関することも教わらなくなりました。簡単に女性天皇と口にしますが、天皇陛下が一番になさることは宮中祭祀です。祭祀は潔斎が大変ですから、女性が天皇となる場合の負担は非常に大きいです。過去に女性天皇がいらっしゃいましたが、次の天皇への中継ぎとして即位されており、最後の女帝となられた後桜町天皇は、次の桃園天皇が成長されるとすぐに譲位されましたし、生涯今でいう独身のままでした。内親王殿下が天皇になれないのはかわいそう、という人がいますが、天皇になることこそ大変な責務であり、女性の方がその負担が大きくかわいそうだと思います。もし例えば、敬宮愛子内親王殿下が天皇になるとしたら、それはつまり生涯おひとりでいらっしゃることを意味します。もしかしたら、今の時代おひとりではかわいそうだから、ご結婚をという動きになるかもしれません。が、歴史がお好きでよく学ばれていらっしゃる殿下がたとえそうなっても結婚されるとは考えられません。そうなると結局は、女性天皇が生まれたがために、後継が攪乱されただけとなりますし、そして、その後の後継はどうなるのか?です。この女性が天皇となった場合独身となるのは、女系になることを防ぐためにあります。過去、8人、10代の女性天皇全てが父、または父系を辿ると天皇であり、それ以外の即位はないのです。母帝から内親王への譲位もありましたが、母帝も天皇の娘でありましたから、やはり男系での譲位だったのです。ふわ こういちろう@fuwa414 血統は3パターンしかない。 ①「男系天皇」父父父父父父父・・・初代神武天皇に辿り着く。 ②「雑系(天皇)」母父父母父母父・・・たとえ初代神武天皇に辿り着いてもただの血統 ③「女系(天皇)」母母母母母母母・・・誰に辿り着くの??… https://t.co/SuVkUO3kWa2019年05月05日 23:57ではなぜ、男系に限った皇統が続いてきたのか?「皇室の危機」や「王室で読み解く世界史」を読むとわかりやすいのですが、日本が安定した国として続いてきたのは、この男系を守ってきたからなのです。王朝の交代や簒奪があれば、安定した国とはいえません。これは大陸の歴史がいい見本です。現在一概に中国と言っていますが、あそこに一つの国があったわけではありません。民族も違います。そして、女系継承はイギリスやフランスの例をみても以下のような不安定な皇位継承方法であり、そういう方法を古代から皇室は避けてきたのは先人達の知恵です。①男系以上に王位継承権者が枝分かれする。②その結果、王位継承を主張する人物が複数出現する③政治情勢によっては現在の王位継承法が無視され、混乱と対立が起こる。④女系の子孫が外国人と結婚するケースもあり、外国の介入を招くケースが想定される。そうして守られてきた、皇室を私達が一時の流れに任せて、変えてしまって良いものか?iRONNA(いろんな)@iRONNA_jp 「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか https://t.co/LWEurCncCI ⇒「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、今の皇室の直系をなんと心得るか。いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。2019年05月01日 13:00私が書いているものでは、わかりずらいという方、わかりやすく書かれているブログがありましたので、こちらも是非読んでみてください。↓あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 何が「女性宮家」や。愛子天皇待望論?そんなんに騙される日本人がホンマにおるんか? https://t.co/JZ4DmsQMie2019年05月06日 02:33昭和天皇、上皇陛下がいかに戦われてきたか、多くの人に知っていただき考えてほしいと思います。今現在最適な本は「天皇家百五十年の戦い」です。民主主義の我が国では、まず私たち国民が賢くならねばなりません。がんばりましょう\(^o^)/、そもそも本来は、皇室の事は皇室の方々中心に決めるべきことなのです。天皇と皇室の方々が一番、皇統の歴史をお分かりですし、表に出ていない口伝で伝わっていることもあるでしょう。しかし、現在の皇室会議がいかに皇室の方々をないがしろにしたものであるか、戦前と戦後の違いが分かりやすく図になっているツィートがありました、違いが分かりやすいかと思います。これをみて、今回の御代替わりはどう決められたかも考えてみてください。特例法がどのように決められたか、有識者会議の人選はどのようなものだったか。大東 丈夫@maron_hayato 多くの国民は皇室会議で決定されたと有頂天で反対しないですが、皇族に発言権がなく座はが皇室と関係のない部外者です。また宮内庁長官は共産主義者なので出席はおかしい。元の皇族会議に戻すべき。 https://t.co/RCGNQPI2In2019年05月05日 14:05「天皇家百五十年の戦い」に登場する内閣法制局について語る、竹田恒泰氏↓衆議院、参議院満場一致で決定した御代替わりなのに、「譲位」と言ったら天皇の意思になるから違憲で、「退位」なら合憲?国が決定したんだから譲位と言っても問題はない。あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 『神は人の敬によりて威を増し人は神の徳によりて運を添ふ』 ⇒ https://t.co/kIsSPJiEsp 天皇は人(民)の敬によりて威を増し 人(民)は天皇の徳によりて運を添ふ 日本は神社文明、天皇文明の国なのだと改めて思う… https://t.co/qfA8AakbFE2019年04月13日 08:53天皇と皇室を御守りするのは私達国民しかいません本日、皇室の方への気になるコメントがあったのですが、そのコメントをアップしない替わりに以前も書いた江崎さんが仰っていた言葉を貼ります。また「天皇家百五十年の戦い」の9章を読むことをお薦めします。2019.5.7↓我々国民がどうあるか?リンクにもなっていますが、以下の内容です。現在、皇室に関して色々とあげつらう人達が非常に多くいます。その中には保守と言われる人達も多くいます。 しかしそのようにあげつらうことは、言挙げせぬ国であるはずの日本の国柄とは思えません。このような中、代替わりが行われることになりますから次の御代となる皇太子殿下や妃殿下、そして日本は大変です。日本には民、つまり国民が皇室(日本)を支えるという伝統があるはずです。この伝統を我々が引継いでいけば日本の未来は盤石でしょう。しかしこの伝統を我々が引継がなければ、日本のこれからは危ういことになります。皇室に対してあげつらう人達は「皇室がどうあるか?」ということを言っているけれども、そのあげつらっている人達自身はどうなんでしょう?すべきことを、国民としての責務を果たしているのでしょうか?そもそも「皇室が(人が)どうあるべきか?」ではなく、「我々国民(自分自身)がどうあるか?」が重要ではないのか?「皇室がどうあるか?」ではなく「我々国民がどうあるか?」

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  • 05May
    • 端午の節句とおおみたから 

      本日は端午の節句、子供の日です。明日は立夏ですが、私はGWをいつも衣替えの目印にしています。GWまではまだ寒い日が戻ってくるという風に目安にしているのですが、昨日の関東は晴天で暑かったけれども、夕方突然の雷雨、24節気は季節の変わり目が本当にわかりやすいと思います。子供の日といえば鯉のぼりや武者人形ですが昨今は子供の家でもあまり大きな鯉のぼりが揚げられることが減ってしまって、田舎に行かないとあまり鯉のぼりを見ることもなくなりましたが、その田舎でも減ってきている風景のように感じられます。しかしその代わり、沢山の鯉のぼりを挙げる風景が全国であります。加須市公式@kazocity_PR \12万人がジャンボこいのぼりを見上げる🎏/ 本日(5月3日)利根川河川敷緑地公園で『加須市合併10周年記念第10回加須市民平和祭』が開催され、全長100Mのジャンボこいのぼりが、12万人の来場者が見守るなか、利根川の空を雄大に泳… https://t.co/ospejFSZwg2019年05月03日 17:51時事通信映像ニュース@jiji_images 端午の節句を前に19日、東京ミッドタウン(東京・赤坂)に巨大なこいのぼりが登場し報道公開されました。長さ約25メートル、直径約2.5メートルの友禅染のこいのぼりで、体内を通り抜けることができきます。5月3日から6日まで一般公開。… https://t.co/0DjtUzvWzJ2019年04月19日 18:21武蔵野美術大学 デザイン・ラウンジ@mau_d_lounge 東京ミッドタウンにて、MIDPARK GALLERY 〜 こいのぼりコレクション 〜開催中。 たくさんのこいのぼりが泳いでいます。 5月6日(月)まで。お見逃しなく! https://t.co/5AxdrCFbb0 https://t.co/KPe5Vc8sZD2019年04月25日 17:4447NEWS@47news_official 水中にこいのぼり120匹、山口 防府市の佐波川 https://t.co/aKaYhZ2q0h #ニュース #47NEWS #共同通信ニュース2019年05月03日 16:23鯉が竜門を昇り龍となる中国の故事から、出世や栄光の糸口となる関門を「登竜門」と呼び、鯉のぼりは子供が立身出世するよう願いが込められています。江戸時代には、男子誕生の喜びを広く世間に知らせるため、戸外に幟として立てられるようになりました。五色の吹き流しは滝や雲になぞらえ、その色は陰陽五行の木・火・土・金・水を表し、邪を祓うものです。しかしそもそもの始めは武家が家紋や武者絵を描いた幟を立てていたのを庶民が真似したんだそうです。ただし、武家の風習をそのまま真似することがはばかられたので考えられたのが立身出世の鯉の幟だそうです。最初は小さかったものがどんどん大きくなっていったというのは、いかにも庶民文化が華やかだった江戸時代らしいですし、それをまた武家も真似していったというのですから面白いです。ということで歌川広重の浮世絵にも、大胆な図柄の鯉のぼりが描かれているものがあります。当時の鯉のぼりは黒一色だったそうで、確かに色鮮やかな浮世絵の中のいくつもの鯉のぼりは皆黒です。江戸時代の鯉のぼりは黒一色! 数百年前の子どもの日がいろいろと興味深い本日は子供の日とはいいますが、3月3日がお雛様で女の子の日、5月5日は男の子の日のような扱いになっています。しかし、実は、お雛様がお祓いの日であったように、端午の節句も元々はお祓いの日であって、男女関係ないものです。旧暦の五月は梅雨の時期です。この月を「早苗月」と呼ぶように、稲の若苗を田に植える大切な農事が行われる季節です。今年の旧暦の5月5日は6月7日、本来の端午の節句の時期は約1ヶ月先となります。端午の節句は田植えに先立ち、田の神に豊穣を祈る行事として行われていました。田植えに来臨する神を迎えるため早乙女は巫女となり、 菖蒲や蓬で葺いた屋根の下、敷き詰めた香り高い草の上で一晩を過ごし、翌日の田植えに備えて身を清めたのです。それが鎌倉時代に、菖蒲が尚武に通じるという縁起から、武士が端午の節句に流鏑馬などの行事を行うようになりました。鹿島神宮では五月一日が御田植祭と流鏑馬の日ですが、ここからきています。他にもそういう神社があるでしょう。勇壮流鏑馬 人馬一体 鹿島神宮その後、室町時代には兜人形も作られ、端午の節句が男子を中心とする祝いの日へ変わっていったのです。ということで、元々は田植えの行事で、早乙女つまり若い女の子が身を清め祓う行事だったのです。早乙女は10代前半から半ばぐらいでしょうか。とはいっても端午の節句は日本人にとってとても大切なお米、稲を作るための行事だったのですから、男女関係ないわけです。今年も豊作で、子供達がすくすく育ちますようにと願うのは古来から変わらない願いです。ところで、子供の日のおやつといえば、「せいくらべ」の歌にもあるようにちまきもありますし、菖蒲餅もあります。しかしなんといっても柏餅が全国的です。その柏餅の柏の葉といえば、天皇陛下が新嘗祭で使われる器が柏の葉で作られています。この柏の葉を、採りに行かれたお妃さまを怒られせてしまった「民のかまど」で有名な仁徳天皇のお話が古事記に書かれています。つまり、このことから新嘗祭の準備はお妃さまがされていたことがわかりますあらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 『柏餅の季節に伝えたいこと\(^o^)/』 ⇒ https://t.co/veqKGLWU2r #柏餅 #柏の葉 #端午の節句 #新嘗祭 #大嘗祭 #神饌 #御代替わり #代替わり #仁徳天皇 #子供の日2019年05月04日 21:33この仁徳天皇が、仁徳天皇七年四月一日に出された詔があります。本日は旧暦の四月一日でもあります。改暦は何度もありましたので、単純に現在の旧暦に当てはめていますが、この時期のことだったのは間違いないかと思います。仁徳天皇は、聖の帝として御歴代の天皇の見本とされてきた天皇ですが、この詔の存在も大きいと思います。「天の君を立つるは、是れ百姓(おおみたから)の為なり。然らば、即ち君は百姓(おおみたから)を以て本となす」天皇は「おおみたから」のためにある」と詔されているのです。百姓と書いて「おおみたから」と読みます。百姓が差別用語なんてとんでもありません。百姓は「おおみたから」とも読む言葉ですし、日本語には基本差別用語はないと思います。むしろ差別ということが差別ではないかと思います。その他にも「おおみたから」と読まれている民を表す言葉は、「元元」「民」「人民」「百姓」「黎元」「兆民」「公民」があります。私がほんのちょっと日本書記をめくって見つけただけですから、他にも沢山あるかと思います。ここからわかることは、つまり「国民」も「おおみたから」ということです。民を「おおみたから」=「大御宝」と呼ぶような天皇のような御存在が当時はもちろん現代においても他にあるでしょうか?その大御宝を想う心を「大御心(おおみごころ)」と言います。現在も私達日本人は、そんな大御心で想われている大御宝です。「あなたは宝物」と言われて嫌な人いますか?ただ日本人として生まれただけで私達は宝物になってしまうのです。嬉しくまた有難いことだと思います。仁徳天皇がこの詔を出された三年前に、民のかまどで有名な年貢の徴収を三年間禁止させる詔が出されています。この詔も「百姓(おおみたから)の窮乏を察し群臣に下し給える詔」となっており、民のかまどといわれるままの、「おおみたから」のための詔となっています。困難な時代に繰り返し語り継がれる話そしてこの詔を出されてから三年後に、民のかまどの煙が増えたことを喜んで詔されたのがこの「天皇はおおみたからのためにある」という詔なのです。しかもここからさらに三年仁徳天皇は税の徴収の禁止を続けたのです。そのため宮の屋根の葺き替えもされず宮殿はボロボロになり天皇も窮乏しました。だからこそ、民のかまどから六年の後に税の徴収の禁止が解かれ宮が造られた時、民は昼夜を分かたず進んで材を運んで宮を完成させたのです。民の竈(かまど)が物語る我国の姿そしてその翌年には「治水の詔」を出され土木工事が始まりました。仁徳天皇は民が豊かになるのを待ってから、今度は民をさらに豊かにし、水の氾濫を抑え稲作をより良くするための大土木工事を始め、それが現在の大阪の基礎を造ったといいます。そしてそのような大土木工事も民(おおみたから)のために行ったのです。世界一大きなお墓ができたわけ公共事業の先駆け大御心とはなんて有難いのでしょう。大御心の表れとして有名なものには、十七条憲法がありますが十七条憲法には「おおみたから」の言葉が13回登場します。また崇神天皇の国体の詔にも「おおみたからを愛(めぐ)み育(やしな)う」とあります。そもそも日本の始まりである神武天皇が、神武東征として日向(現宮崎)から橿原(現奈良)まで向かわれたのは、稲作の普及のため、人々が豊かになるため、つまり人々とは「おおみたから」なのです。だからこそ、各地でその稲作を教える期間とどまりながら移動したので東征の時期も長くかかっているのです。つまり、日本は建国の時から「おおみたから」のための「おおみこころ」で建国されたおおみこころにあふれる国なのです。おおみこころにあふれるからといって、甘やかされた国であるという意味ではありません。自立自営のため、仁徳天皇も困難な土木事業のため人々を借り出しました。しかしその困難な仕事の後には、多くの収穫がもたらされ、少しでも生活が楽になっていったのです。そして、そうしたことをその後の歴史においても行われてきたのが日本といえます。こんな素敵な話を知らないなんてもったいないことです。何度でもこうした話は機会がある度に伝えていきたいものだと思うのです。そして私達おおみたからは、おおみたからであることを誇りとして、そのおおみたからに恥じないようにしたいと考えるのです。それこそが、おおみたからと思召していただく天皇へお応えすることではないでしょうか。すめらぎのお話・・・仁が表すもの神武天皇の稲の伝搬から仁徳天皇の大土木工事まで詳しくわかりやすいお薦めの本↓私達の新しい御代の陛下のお名前はその仁徳天皇の字からなっています。そのお名前は御尊祖父でいらした昭和天皇の命名によりますが、未来の天皇となるその皇孫のために、未来を言祝ぐ名前を贈られたのだと思います。その陛下が、御即位した直後に仁徳天皇の詔の日が旧暦ですぐある偶然(去年はもっと離れていました)は面白いことだと思います。令和の時代を言祝がれていた昭和天皇昨日の一般参賀あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 天皇陛下の即位を祝う一般参賀 10時 https://t.co/9CvxtOL1on #so350740042019年05月05日 02:21三百年先、千年先を見据える目・・・神武天皇2600年祭の日に世界一のお墓にお参り以前、武者人形が展示されているのを見てこれは伝統技術の継承にもなっているのだなあと感じたことがあります。お雛様の人形もそうですが、こうしたものを飾ることは本物を見る目を養うこともできるのだとも思います。そして、我が国は、皇室を頂点として伝統とともに生きる国であるということを、こうしたものを見る度に再認識するのです。あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 江戸時代からの人形専門店 「久月」スペシャルサイト(公式) https://t.co/DQeyxeOTrR こういう人形があることによって守られている技術もある2019年05月04日 21:43あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 『我が国の強みである歴史と伝統を味わおう\(^o^)/』 ⇒ https://t.co/q1Uim7nHgo #御代替わり #歴史的瞬間 #伝統儀式 #歴史と伝統 #代替わり #皇室 #王室 #202年ぶりの御譲位 #皇室を支える国民の務め #天皇家百五十年の戦い2019年04月28日 10:01本日は各地の神社で、端午の節句、菖蒲祭の行事が行われています。また五月は祭りの多い時期でもあります。上記の鹿島神宮はもとより、大國魂神社の一番のお祭りもこの時期です。本日は是非お近くの神社にお参りしてみてはいかがでしょう?お祭りの一例↓是非お近くの神社のお祭りを見てみて下さい\(^o^)/くらやみ祭の大國魂神社 4/30~5/6京都藤森神社の藤森祭 5/1~5/5 菖蒲の節句発祥の地といわれる神社鹿島神宮の子供の日祭明治神宮5/5、5/6こいのぼり子供大会と御衣祭築地の5/5波除け神社端午の節句祭春日大社の菖蒲祭鶴岡八幡宮の菖蒲祭石清水八幡宮の菖蒲祭貴船神社(きふねじんじゃ)@kifunejinja 令和元年5月5日 端午の節供 午前11時より菖蒲神事を執りおこないます。 先着30名様まで殿内参列になれます。 初夏の御神氣みなぎる清々しい貴船神社の風流な神事を、ぜひご体感ください。 貴船神社 菖蒲神事 / Kifune Ji… https://t.co/LH9LgVtuJ22019年05月04日 17:23むすびcafe@musubicafe 端午の節供 清祓い菖蒲 #川越氷川神社 https://t.co/varNX8kXzX2019年05月04日 19:43昨日のお祭りニュース↓神社.com編集部@jinjya_com_k 岡山・笠岡の真鍋島で勇壮「走り神輿」 法被の若者らが島内駆け抜ける(山陽新聞デジタル) https://t.co/EST7jL7ppE2019年05月04日 21:41神社.com編集部@jinjya_com_k 近江の奇祭!400キロの神輿を引きずり下ろす(関西テレビ) https://t.co/rIlN5A1SX12019年05月04日 21:42神社.com編集部@jinjya_com_k 桑名市の多度大社で上げ馬神事(CBCテレビ) https://t.co/E7SWktdU1K2019年05月04日 21:43

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  • 04May
    • 神話から続く我国の伝統・・・鎮守の森

      栃木県足利市最大のけやきの木 樹齢450~500年日本書紀の神代の巻では、植樹をした神々について書かれています。素戔鳴尊(すさのおのみこと)と、その子である3柱の神々達の話です。それは高天原から降りて後のことです。我が子の治める国には舟があったほうがいいだろうと、素戔鳴尊が髭を抜いて放つと杉に、胸の毛は桧に、尻の毛は槙の木に、眉の毛は樟になったのです。そして、杉と樟は舟に、桧は宮に、また槙は現世の国民の寝棺によいと用途を決め、沢山の山の木の種子を皆で播こうと言うと、3柱の神々がどんどん種子を播いたのです。3柱の神々とは、五十猛命(いたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、爪(木偏に爪)津姫命(つまつひめのみこと)です。五十猛命は、高天原から降りる時に沢山の樹の種を持って降り、大八洲の中に播き増やしたので、全部が青山になったともいいます。大八洲とは、日本のことです。案外大昔の日本は森が多くなく、植林により森を増やしたのでしょうか?それとも、元々沢山あったけれども、それを伐採して使うことが増えたので、植林も増えたということでしょうか。いずれにしても、神々が植林して増やしたものを、伐採だけして減らしていくことはならん、という教えで木を植林続けてきたのでしょう。なにしろ家を作るには木が必要ですし災害の多い日本では、家を建て直すことも多いですし、栄えるほどに木も必要になったでしょう。また鍛冶屋作業にも火は欠かせません。いずれにしても、日本は縄文の昔からクリを植林してきたことがわかっており、神話から続く我が国の伝統であることが裏付けられています。実家の墓参りに行くと山裾に墓地がありますので、山道に少し入ります。その先にも山道があり昔はその山道を抜けて反対側に行くのが普通でした。しかし今はそんな道を歩いていく人はいませんので、道がどんどん塞がっています。その道を見る度に母は昔は子供達が薪拾いをしたから山道はとてもきれいで屑(この場合小枝等)なんて落ちていなかった。今は山が荒れていると言います。そう言われてみると確かにお墓参りに行く度にその周辺が荒れていく感があります。昔は普通の道だった気がするのですが、最近は本当にお墓参りの人しか通らないのです。森の重要性が見直されている今、森の管理をもっともっとみなおすべきではないかと思います。東京には中心に皇居と明治神宮という鎮守の森があります。明治神宮は明治天皇崩御後、大正期に造営が始まった人口の森であり、造営が始まる前は代々木から新宿まで見渡せるような土地だったという写真が残っています。そして、幕末明治初期の江戸城の写真や地図を見れば、江戸城に深い森はありません。昭和天皇がお若い頃は皇居内でゴルフもされています。しかし、今は深い森に覆われ鎮守の森となりました。それは昭和天皇が尊敬する明治天皇の為の鎮守の森が造られていくのを見て皇居も鎮守の森へと変貌させていったのではないかと思います。宮中三殿もある皇居はまさしく鎮守の森です。勤労奉仕で皇居の西側に入らせていただいた時、そこは想像以上の深い森が広がっており、東京のど真ん中にこれほど深い森があるのかと感嘆しました。そのおかげで、真夏の異様な暑さの時にもあそこだけスポっと涼しい風が起きる場所となっています。もし皇居に緑がなかったら、東京の夏はもっともっと酷いことになっているでしょう。またすぐそばに高層ビル群がある新宿や今また高層ビルが増えている渋谷に挟まれた明治神宮の森は、さらなる癒しの地となっていくでしょう。半蔵門から望む皇居の新緑行幸啓をされると植樹をされる天皇や皇室の方々、民間でも同様なことがあります。考えてみたら私も小学校卒業時に町内の公園に桜の木の植樹をしたことがありました。物事はなんでも上から下に流れます。天皇がされることは民間でも行われるのです。声高に叫ばなくても、神様に始まる植樹を引き継いできた御歴代の天皇の業績を、引き継がれていく天皇がいらっしゃる、そしてそれを見習う民間人が当たり前にいる我が国は本当に有難い国だと思います。グーグルマップが出来た当時よく地球上を見ていたことがありますが、地球上から見る世界はいかに茶色く砂漠が広がっていることか。ところが日本は古来から木造建築や紙製品が多く使われてきているにもかかわらず、緑に覆われています。それは、古来から植樹を続けてきたからであり、また古代から治水が行われてきたからです。そしてその植樹や治水は海外にも広がっています。その植樹により国そのものが変わっていくところがあります。以前アフガニスタンの砂漠に緑がよみがえったと話題になりましたが、そこには現地の人達で造り運営できるようにした用水路を、自ら江戸時代の治水技術を学んで一緒に造った日本人医師中村さんの姿がありました。世界中の国が自立することこそが真の平和に繋がるアフガニスタンは盗賊国と言われてきた国で、なにかあれば盗賊が登場するという危険な国だと読んだことがあります。なぜそのような国になってしまったのかといえば、そこに砂漠が広がり生きて行くのが困難な国であるという背景があるかと思います。ところが、もともとはアフガニスタンは豊かな穀倉地帯だったのが砂漠化してしまっていたのです。そこで元々農業国であるアフガニスタンに緑をよみがえらせるには水路が必要であると中村さんは考えたのです。全て人力に頼り、現地の人達で造りあげている水路の工事風景は、何年か前イギリス映画で見た海外支援で砂漠に川を造っている風景といかに違うことか。そこでは凄い重機が使われていましたから、完成後川の氾濫があった時それを治す重機がなければ復興が大変であることが想像できるのですが、人力で自分達で造ったものであれば復興の目途も自分達で立てられるのです。インドにも自らの資産を投じて砂漠を緑に変貌させた日本人、グリーンファザーと呼ばれる杉山龍丸さんがいました。杉山さんは砂漠の中に水源を求め、ヒマラヤ山脈からの地下水がある可能性の高い国道沿いにオーストラリアの砂漠で元気に育っていたユーカリに目を付けて植えていきました。現在その国道は豊かな緑に覆われており、その向こうには田園が広がっています。さらに、その砂漠化の原因となったシュワリック・レンジと呼ばれる丘陵地帯の土砂の崩落を止めるためにここにも植林をしています。ところがせっかく植樹をしてもその植樹したものをあっという間に無駄にしてしまう国もありますし、植樹し緑に変えたはげ山をそのはげ山にしたのは我が国の先人達であると言いがかりをつける国もあります。しかし、そのようなはげ山を造るようなことが我国の伝統にはないということは歴史が語ってくれているのです。しかしそのような我が国でありながら、現在日本中を砂漠化させたり、災害を誘発するのではないかという事業が進んでいます。私が実家に帰る度に目にするのがメガソーラーの増加です。私の実家は山の多い栃木県ですが、例えばよく通る切通しの途中にあるメガソーラーのパネル群は、小さい山の切通しの斜面一面を覆っています。このような斜面をはげ山にしてしまえば地盤がゆるくなりますし、大雨や地震の後に崩れる可能性が高まるのになぜこんなところに造ったのだろうと一目で思うようなしろものです。しかも道路のすぐそばまで迫っており、その道路を通行中にもし地震が起きたら一瞬で車ごとつぶされそうな不気味さを見せています。そして、そういう気味の悪い黒いパネルが、ちょっと周辺をドライブする度に増えているのです。不自然な設置に、疑問の声が上がらないことに違和感がありますし、またどこからも見える位置にそういう不自然なものが設置され、遠方からも見えていることの景観の悪化が周囲に住み人達に与える心理的影響も心配です。そして、これはなにもここだけのことではなく、日本全国に広がっていることから、日本の今後が心配になってきます。経済産業省 資源エネルギー庁のHPを見ると、去年起きた自然災害の内、西日本豪雨、台風21号、北海道胆振東部地震にともない、41件の太陽光発電設備における被災と事故が報告されているとあります。この中でも目を引くのが、土砂崩れです。土砂崩れの場合、パネルそのものの被災だけでなく周辺へ与える影響も見過ごせません。また、台風のさいには、強風によるパネル飛散被害が多いといいます。「太陽光パネルで民家包囲」計画もOK?! 発電設備めぐるトラブル相次ぐ 「熱中症」で訴訟にも発展産経WEST 2017.4.30 22:22更新太陽光発電をめぐるトラブルが相次いでいる。発電パネルなどの機材設置を規制する法令がないことが主な要因で、業者が周辺住民の意向を無視して工事を強行しようとするケースもある。自治体などは、設置を規制する条例を整備するなど対応に追われる事態となっている。(原川真太郎)あわや自宅が…2月中旬、兵庫県多可町で行われた太陽光パネル建設に関する住民説明会。同町加美区鳥羽(とりま)の主婦、酒井洋子さん(56)は図面を見せられ、目を疑った。自宅のすぐ南と西にパネルが設置され、隣家は四方すべてがパネルに覆われることになっていた。山間地の豊かな自然に魅力を感じ、約1年前に夫婦で移住した。だが、今年に入り、スギやヒノキが生い茂る自宅周辺の土地(約7千平方メートル)を購入していた兵庫県内の不動産業者が突然、自宅へやってきた。「パネルを設置して発電事業を行う。同意書に捺印(なついん)してほしい」と迫ってきたのだ。業者側はすでに発電事業を行う会社や個人へ土地の転売も済ませていた。「特別な開発許可は必要なく、本来なら断りなしに設置できるが、善意で事前に説明している」と主張した。町建設課によると、一帯は別荘地として開発された宅地だが、「太陽光パネルは建物ではないため規制する法令がなく、設置は自由」(担当者)という。説明会で納得できなかった酒井さんは、発電事業を行う会社などを交えて説明会を再度開くよう業者に要望し、会社側にはパネルを設置しないよう求める手紙を送った。すると会社側は近隣住民が事業に反対しているのを知らなかったことが判明した。会社側は「住民が反対しているのに事業はできない」と明言。「近々伐採を始める」と通告していた業者も4月下旬、町へ提出した伐採届を取り下げた。「一歩間違えば自宅がパネルに包囲され、とても住める状態でなくなっていた」。酒井さんは憤る。特別な許可は不要太陽光発電は平成24年、発電した電気を一定料金で電力会社が買い取る国の「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」の導入を機に拡大した。広い土地や日当たりのいい傾斜地がある郊外、山間部に大型太陽光パネル(メガソーラー)が次々に設置され、投資目的の参入も相次いだ。パネルなどの発電設備は、建築基準法や都市計画法の対象外のため、土地さえ取得すれば設置に特別な許可は不要という。周辺住民と十分な協議もなく計画を進め、摩擦が生じるケースが頻発している。自然エネルギーの普及に取り組むNPO法人「環境エネルギー政策研究所」(東京)の山下紀明主任研究員によると、メガソーラー開発に伴う住民トラブルは24~27年に全国で50件発生。兵庫県姫路市では27年、自宅の隣にパネルを設置された男性が「パネルの反射で熱中症になった」として、業者を相手取り損害賠償請求訴訟を起こし、現在も係争している。条例で規制の動きこうした状況を受け、行政も対策に乗り出した。メガソーラー建設計画をめぐり住民と業者が対立した大分県由布市では26年、指定地域で大規模な事業を行わないよう求める条例を施行。富士山を抱える静岡県富士宮市でも同様の条例が制定されている。兵庫県でも今年7月から、事前に事業計画の届け出を義務付け、違反した場合は罰金を科す条例が施行される。今回問題が起きた多可町でも、条例による規制を検討しているという。山下研究員は「開発には地域住民の理解と合意が大前提。国や自治体が土地利用のルールを整えることが不可欠だ」と指摘している。3年前の台風で氾濫した鬼怒川により茨城県が大洪水に見舞われたその要因の一つに上げられていたのが山を削り設置されていたソーラーパネルです。ここの場合は、自然堤防となっていた山を削り取ってソーラーパネルを設置していたがためにここからの越水により水の氾濫が広まったということでした。鬼怒川の氾濫、ソーラーパネル設置で丘が削り取られていた場所からも鬼怒川氾濫、ソーラーパネル業者「河川事務所は何も心配ないとの話だった」あのような災害が起きたにもかかわらず、上記のようなソーラーパネル設置によるトラブルが絶えないばかりかどう見ても危ない設置のメガソーラーパネル群が未だに増え続けており、そのために多くの樹木の伐採も進んでいます。私は大陽光を利用することには異論はありません。むしろ子供の頃からなぜ太陽光エネルギーの利用が進まないのか疑問であったぐらいです。しかし、現在の普及の速さと災害を誘発するような常識のない設置には異様なものを感じています。日本は樹木を増やし続けてきた鎮守の杜の国で、そのために治水が行われてきた国でもあります。東日本大震災の教訓を生かし、鎮守の森の効果を伝えてきた宮脇教授を中心に鎮守の森のプロジェクトが進んでもいます。そこには長い間に育まれてきた治水文化がある日本ならではの知恵があるのだと思います。しかし、そうしたことを戦後教えて来なかったがために浅はかな事業が進んでしまっているのが現状だと思います。命を守る鎮守の森あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 『鎮守の森・・・楽園の源』 ⇒ https://t.co/dTzzksZuY4 #鎮守の森 #楽園とは田園 #鎮守の森で防災 #鎮守の森が海を豊かにする #鎮守の森が水を育む #治水2018年05月03日 07:41隅田川の土手には桜並木が続き、徳川吉宗が庶民が桜が楽しめるようにと解放したと伝わりますが、実はそれは建前で、人々が大勢来ることで整えた堤防の土を踏み固めるのが一番の目的だったといいます。日本は古来から為政者が治水により国を豊かにしてきた国だからこそ今も自然が豊富にあるのです。そしてそうした伝統の根本には大御宝(おおみたから)である民のためを考えてきた天皇の大御心という伝統があります。私達は「おおみたから」=宝物(^O^)/「民のかまど」の詔は大冒険の始まり私達はそのような我が国、日本の為にも、またその日本に生まれ育ちこれからを担う我が国の子供達の為にも、ただ今だけを見るのではなく将来、未来を見据えた事業を考えて行かなければならないのではないかと思います。そうしたとき、災害を誘発するようなソーラーパネルの設置の仕方などありえないはずなのです。また近年問題になっているのが外国資本による土地買収問題です。この中には、安全上重要な土地のほか、水源地の森も多く含まれており、ここ数年ずっと問題となっていますが全然進展していません。以前富士山の麓はほぼ買い占められたなどという噂がありました。本当のところはわかりませんが、水は生命の源ですから外国資本に水源地の森を渡してしまうなどあってはならないと思いますが、こうしたことが言われるということは私達日本人の危機意識のなさの表れだと思います。外国による土地買収問題は安全保障上の重要問題 衆議院本会議質疑2019.2.15中国資本による自衛隊基地周辺の土地買い占めが急激に進行・・・「見えない戦争」で安全保障上の危機高まる⇒水源地や自衛隊基地周辺を爆買い2017.9.4外国資本の土地買収問題 安倍晋三首相が対処明言「国家安全保障に関わる重要な問題」2016.10.4昭和天皇由来のみどりの日である本日には、鎮守の国の我が国の伝統から未来のあるべき姿を考えたいと思います。私達の新しい御代、令和の時代のためにも。我々国民がどうあるか?令和の時代を言祝がれていた昭和天皇もうすぐ昭和の日、昭和天皇をお偲び顕彰し天皇と皇室についての知識を深めましょう皇室を支える国民の務命を守る鎮守の森 縄文時代から植林してきましたホットスポット日本の秘密 神様の毛は凄い♪鎮守の森神社の樹木林業を舞台にした映画実際に起きている問題をいち早く取り入れてきた007映画で水問題を扱った「慰めの報酬」山口采希@ayakiyamaguchi 平成の最後は平成を振り返る曲を作りましたが、令和の時代を迎えて曲を作りました。 「令和の御代」です(*´ー`*) 令和という元号は初めて日本の古典から引用されたそうなので、私もこの曲は少し日本の音階を意識して作りました(*^^*… https://t.co/jTdkkvxmQ02019年05月02日 20:39

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  • 03May
    • 五月三日は後白河天皇の祭日・・・平安のJ-POPに熱中した天皇

      第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位しましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の若さで皇子女なく崩御されました。心ならずも譲位させられていた崇徳上皇は、再度皇位につくか、我が子の即位を望まれましたが、そうはしたくない美福門院派は、養子となっている英邁の誉れ高い雅仁親王の皇子の守仁親王を推します。そしてまだ守仁親王が年少なためと、実父を飛び越えての即位はよくないということで、中継として雅仁親王が即位することとなったのです。即位の翌年、鳥羽法皇の崩御直後に、後白河天皇の即位に不満を抱く崇徳上皇と左大臣藤原頼長が保元の変を起こしました。これは、天皇の身内、藤原家の身内、武家の身内が、それぞれ争う乱でしたが、平清盛や源義朝ら勢いを増す武士勢力を擁す後白河天皇方が奇襲をし、崇徳上皇方は敗れ上皇は讃岐へ流されたのです。このことが、日本史上最大の怨霊を生むこととなりました。崇徳上皇は崩御後、怨霊となられたとして慰霊が繰り返されるようになりました。すめらぎのお話・・・歴代最大の肉親の悩みを抱えていた親子?すめらぎの話・・・大怨霊から神様となられた天皇後白河天皇は即位四年で守仁親王に譲位(二条天皇)し院政を開始しました。その後、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の五代に渡る院政の始まりです。しかし、暗愚の後白河上皇に治天の君の資格はないとする二条天皇とその側近や藤原家内や武士間の勢力争いが絶えずあり、それが噴出したのが平治の変です。この変の鎮圧で勢力を増した平清盛は上皇の権威を利用し、また清盛の力を利用して権勢を振るう上皇の関係がその後出来上がっていきました。清盛の妻の妹である滋子との間に生まれた憲仁(のりひと)親王を皇位につけ(高倉天皇)、皇后には清盛の娘の徳子が入内し関係を強化したのです。しかし、互いの勢力が拮抗するにつれ軋轢も生じ、一一七七年には鹿ヶ谷の陰謀が起こり平家打倒の密議がもれ、両者の関係は悪化していきます。そしてとうとう清盛により後白河法皇は幽閉されました。すめらぎのお話・・・稽古照今の点の連なり清盛は高倉天皇と娘徳子との間に生まれた言仁(ことひと)親王を即位させ(安徳天皇)、高倉上皇には形だけの親政をさせました。ところが、この年には高倉上皇との皇位争いに敗れた似仁王が平家打倒の軍をあげ失敗するも、今度は源頼朝らが挙兵し後白河法皇はこれを支援しました。一一八一年に高倉上皇の崩御に続き平清盛が没すると、平家の勢力は急激に衰えました。都落ちを察した後白河法王は比叡山に逃れましたが平氏一門は安徳天皇や三種の神器を道連れにしていきました。そこで後白河法皇は「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下しました。そして高倉帝の皇子、四宮の尊成親王を践祚させました(後鳥羽天皇)。つまり平家が檀ノ浦で安徳天皇を道連れに滅びるまで、天皇が同時期に二人存在していたのです。その時安徳天皇は亡き平清盛の妻であった二位尼と入水しており三種の神器も共に海に沈みました。鏡は伊勢に、剣は熱田にありますが、形代とはいえ本物同然に扱ってきたものです。そして璽こと勾玉はいつも天皇の側にある唯一無二のものです。鏡と璽は木製の箱に密封されていたため浮かんできたといいますが、布にくるまれた剣は見つかりませんでした。平家追討は「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として宣旨されていますから、源頼朝は指揮官の源義経に安徳天皇と三種の神器の保護を厳命しました。ところが義経はその過去にない戦いぶりから平氏を追い詰め、二位尼他多数の子女の入水を招き三種の神器もろとも沈ませてしまうのです。その愚かさには後白河法皇も怒りを感じたと思います。しかし戻ってきた義経には位を授けています。これが頼朝、義経兄弟の不和となる一因ともいわれていますが、位を授けたのは長い騒乱が続いてきた中での後白河法王の知恵だったのかと思います。また、この位を受けた義経への頼朝の怒りは、本来の目的を達成できなかったのに辞退もせず位を受けた義経への怒りだと思うのです。幼帝を死に追いやり神鏡剣璽を海に沈ませ剣に至っては発見もできなかった。それなのに位を受ける、その無神経さに頼朝は怒ったと思うのです。このことに関しては、頼朝は後白河法王と全く同じ心だったと。すめらぎのお話・・・なぜ頼朝は義経を許さなかったのか?なお昨日は、安徳天皇 の祭日でした。源義経は平氏討伐の功績により正四位下から従二位叙されましたが、その後頼朝との間にも確執が生まれ、後白河法王は源義経に頼朝討伐の院宣を下しましたが義経が敗れ、頼朝に抗議されると義経の追討の院宣を下したことから、頼朝には「日本国第一の大天狗」といわしめられました。幼い頃から暗愚と言われながら育ち、自分の皇子にまでもそう言われた後白河法皇ですが、貴族社会の騒乱に始まり武士の世に変遷していく動乱が続く中、上手く立ち回り権力の座は移っても朝廷の形はそのまま残していくようにしていったのですから、能力が相当あったのだと思います。そしてそれが一番わかっていたのはやはり伊豆に流され苦渋を味わってきた源頼朝だったのかもしれません。貴族社会から武士の世までの変換期の中、駆け引きを繰返しながら朝廷の威信を守り抜き公武関係を安定させていった後白河法皇は、宮廷とは縁の薄い民衆の芸能を好み、今様(当時流行した七五調の歌謡)を集めて『梁塵秘抄』を編纂したことで知られていることから、下層民衆にまで通じていたのだろうと言われています。多分貴族・武士入り乱れての内紛が続く朝廷からの息抜きが、庶民の芸能だったのかもしれません。すめらぎのお話・・・現代も生きる平安のJ-POP後白河天皇というと今様狂いというようなイメージが作られていますが、実は今様ばかりでなく催馬楽や朗詠、声明(しょうみょう)なども習得しており、音声への強い関心のその中心には声技がありました。自ら経典も読み(読経)その御世には能読(読経の達人)が多く輩出されたことが記録されています。当時の世の中に浸透しつつあった音楽成仏思想に基づき、今様や声明など音声を通して神仏による加護を期待することによる王権の強化を図り、私的な雑芸から公的な芸能へ転化させていったのが後白河天皇であるといえます。そして後白河天皇以降は宮廷音楽の一つとして認知されていきました。また、こうしたことは仁和寺の御室となった後白河天皇の皇子の守覚法親王に引き継がれ舞楽や伽陀といった様々な音楽要素を取り込んだ法会の展開に繋がっていくなどの影響を残されています。現代においても歌のうまい歌手に心酔する人が世界中におり、宗教的な感じまで漂うファン心理があることを思えば、その声の魅力というものに注目された後白河天皇の着眼点は鋭かったといえると思いますし、だからこそただの一天皇の趣味に終わらずその後の宮廷や寺の行事として定着していったのでしょう。後白河天皇と今様以下はボーカロイドが歌う今様ですが、当時の歌謡曲にのめり込まれた後白河天皇なら気に入っていただけるのではないかと思う私のお気に入りです。今様がわかりやすいのでぜひお聴きください。【初音ミク】遊びをせんとや生れけむ【梁塵秘抄】2012/01/12 にアップロード◆『舞へ舞へかたつむり』と合わせて【鏡音リン・レン】恋ひ恋ひて恋しとよ【梁塵秘抄】【VOCALOID3×11人】熊野を歌う今様【梁塵秘抄】一一九二年崩御。上皇になられた後の院政は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と五代に渡っており、その間、保元の変・平治の乱、治承の乱、承永の乱と戦乱が続き、二条天皇、平清盛、木曽義仲と相次いで対立し、幽閉されたり、院政の停止にもあいながら復権を果たして来られた激動の時期は、鎌倉幕府の始まりの後終焉を迎えたのです。源頼朝の上洛の二年後のことでした。この年の夏に頼朝は征夷大将軍に任命され鎌倉時代の幕開けとなるのです。平安時代の終焉はまさに後白河法皇の崩御と重なるのです。御陵は法住寺陵、京都市東山区三十三間堂廻り町にあります。法住寺では、本日11時から後白河法王忌が行われます。また1日~7日まで後白河法王御尊像特別御開扉中です。なお1日~7日は後白河法皇御尊像御開帳記念の御朱印、また本日は後白河法皇忌特別参拝記念の御朱印が授与できます。Nadia (Vocalist) - " Beatiful 般若心経 "- 法住寺・後白河法皇忌ー奉納ライブ2015年5月3日・法住寺(京都・三十三間堂東隣)Nadia(ナディア) ; 島根県出身。シンガーソングライター活動、作家としてアーティストや地元企業 CMへの楽曲提供に加え、『神々つどうご縁の国』に生まれたことを強く意識し、201­3 年より「いにしえの言葉」に曲を付け、積極的に発表、伝統音楽を伝えるアーティストと­してステージを開始する。彼女の歌声から暖かさ、時には凛とした日本のバイブレーションが響きわたります。江藤ゆう子 : 「遊びをせんとや生まれけむ」_法住寺・後白河法皇忌ー奉納シングライブ(5)2013年5月3日・法住寺(京都・三十三間堂東隣)「遊びをせんとや生まれけむ」=平安時代『梁塵秘抄』の今様歌謡法住寺・赤松圭祐住職の今様とのコラボ。参照:「宮中祭祀」「天皇のすべて」「歴代天皇事典」「歴代天皇総覧」他すめらぎのお話・・・歴代最大の肉親の悩みを抱えていた親子?すめらぎのお話・・・稽古照今の点の連なりすめらぎの話・・・大怨霊から神様となられた天皇仁徳天皇も聖徳太子も空海も清盛もお参りした神社 兄弟喧嘩 義経隠れ塔厳島神社 【後白河法皇の松の木】後白河天皇については、天皇について探究しだした頃の名前だけの知識しかない頃と、多少は知るようになった現在で印象が大きく変わった天皇です。天皇は知れば知るほど奥深いとあらためて感じます。

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  • 02May
    • 五月二日は安徳天皇の祭日・・・三種の神器と海に沈んだ幼帝

      第八十一代安徳天皇は平安時代末期の天皇です。御名は言仁(ときひと)。一一七八年生。御父は高倉天皇、御母は平清盛の娘徳子(高倉平中宮)。後白河天皇と平清盛の皇孫です。在位一一八十から一一八五年。高倉天皇の第一皇子として誕生された言仁親王は、生後間もなく親王宣下を受け立太子されました。そして二歳で高倉天皇の譲位を受けて即位されます。外祖父の地位を確保し、平氏一門の政治的基盤を確固たるものにするという平清盛の願いが叶った時です。この時期には、高倉天皇の父である後白河法皇は清盛により幽閉されており、全て清盛の指示により行われたといいます。しかしあまりにも天皇が幼いため実際の政治をみるための摂政が必要で、藤原基通が任じられました。この頃、後白河法皇の第二皇子の似仁親王が平家討伐の令旨を発し、これに各地の源氏が呼応したため、清盛は鎮圧しています。そして同年、福原へ行幸し高倉天皇、後白河法皇を奉じて遷都を行いました。しかし、八月には源頼朝が挙兵し、十月に富士川の戦いで平家軍が大敗したことから、清盛は京への帰還を余儀なくされ、後白河法皇は院政を再開しました。その翌年正月、高倉上皇が崩御され、二月には清盛が熱病で没しました。平家はその後どんどん弱体化し、二年後には源義仲に越中で敗れました。清盛のあとを継いだ宗盛は、義仲が京に迫ったので天皇と法皇を擁して西国へ走ろうとしました。天皇と法皇に刃向かえば朝敵になるからです。しかし、後白河法皇はいち早く延暦寺に脱出したため、安徳天皇を連れ三種の神器とともに都落ちをしました。後白河法皇は、源義仲に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡・剣璽を連れ去った」として平氏追討宣旨を下されました。また天皇不在の京都では、後白河法皇の詔により尊成(たかひら)親王が即位したため(後鳥羽天皇)、安徳天皇崩御までの間は二人の天皇がいたことになります。二人の天皇が同時に存在したこと、三種の神器なしでの天皇への即位ともに正史上初めての一大事件でした。安徳天皇は平家一門とともに太宰府(福岡県)に入ったのち、讃岐の屋島に行宮を営みましたが、一一八五年二月源義経の襲来により海上に逃れました。そして檀ノ浦の戦いで平家は滅亡し、八歳の天皇は祖母である二位尼(平清盛の妻、時子)に抱かれて入水しました。安徳天皇は東を向いて伊勢神宮を遥拝し、西を向いて念仏を唱えたといいますから聡明な幼帝だったのだと思います。この時三種の神器も一緒に沈みました。翌日漁師の網に安徳天皇の御遺体がかかりました。その御遺体が一時的に安置された場所は御旅所と呼ばれています。歴代天皇中、最年少の崩御です。その悲劇性から日本全国に安徳天皇が落ち延びたという伝説があります。その諡号には、御霊を御慰めする字である漢風諡号の「安徳」が贈られています。すめらぎのお話し・・・徳を贈られた天皇また三種の神器については、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収できましたが宝剣(天叢雲剣)はとうとう見つかりませんでした。元々鏡と剣はそれぞれ神宮(伊勢)の内宮と熱田神宮に収められており天皇のおそばにあるのは形代と言われていますが、しかし本物同然に扱ってきたものです。三種の神器なしに即位した安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇は終生、これをコンプレックスにしていたと伝わり、2度剣を捜させているといいます。後に、神宮(伊勢)から献上された剣が新しい形代となりました。壇ノ浦の戦いについては、源平の戦いぶりや平家滅亡と安徳天皇の入水及び三種の神器が沈んだことが普通に語られますが、これは国史上最大の事件の一つでした。天皇と三種の神器が同時に海に沈んだのですから皇室史上最大の事件の一つです。この戦いを率いた源義経は兄頼朝から、安徳天皇と三種の神器の保護を厳命されています。しかしその厳命を守れなかったばかりか、見つからなかった剣については、宇佐八幡宮に祈っただけで真剣に探していないとされています。そして源頼朝の母は、熱田神宮の宮司の娘です。熱田神宮で祀られているのが日本武尊が置いて行った剣、つまり「三種の神器の剣」ですから、その重要さが頼朝にはわかっていたのです。ところがそのことが最後まで理解できなかったのが源義経でしょう。三種の神器の大切さも幼い天皇の命を御守することの重要性も認識できなかった義経は、兄の母方由来の剣を紛失したことについても、どういうことか理解できなかった相当な愚か者だったのだと思います。だから見つからなかった剣を真剣に探さなかったなどと言われたのでしょう。国史上最大の汚点を残しているのが源義経なのです。その後都に戻った義経は、朝廷から任官されますが、本来このような失敗をしでかした義経らがそれを辞退しなかったことは余りにも無神経でした。安徳天皇は後白河法皇の皇孫にあたるのです。源頼朝が激怒するのは当たり前のことだったのです。すめらぎのお話・・・なぜ頼朝は義経を許さなかったのか?義経と頼朝の兄弟を見ると、戦後日本の姿ではないか?と思えます。平治の乱に負けて父の源義朝が亡くなった時、頼朝は13歳、義経は2歳。二人とも、義経の同母の幼い兄二人と一緒に命を助けられています。ただし、頼朝はこの時父に従って参戦しており、都落ちの一行の最年少者でした。しかし、雪の中で一行に遅れたため人の情けで匿われたりした後につかまりますが、本来は死刑となるところを平清盛の義母の願いにより助けられ伊豆に流されています。頼朝は戦に加わっているのですから元服を済ましている13歳ともなれば、ある程度教育も一通り終わり色んなことをわかっている年齢です。一方、幼児であった義経は出家のために寺に預けられました。つまり、義経の教育は勝った平家の意向で受けているのです。義経の無神経さは、その性格ではないかと考えていたのですが、もしかしたらそこに義経の育った環境が関係しているのかもしれないと思えてきたのです。源氏は(平家もですが)遡れば天皇の子孫です。その天皇が引き継がれてきた三種の神器についての知識がきちんとあったのだろうか?自身が天皇の子孫であるという認識がきちんとあったのだろうか?と思えてきたのです。もちろん、当時の戦の名乗りを考えてもある程度の知識はあったでしょう。しかし、その知識も親や身内から教わったものと、勝ったものから受けるものでは認識が違ってきたのではないか?と思えてきたからです。清盛は、義朝の遺児を恐れていたといいます。実際それは間違いではなかったわけですが、そうした子供に普通の教育を受けさせるでしょうか?なにかしら欠いた教育だったのではないかと思えるのです。つまり、義経には大事な何かが欠けた教育を受けていたのではないか?と。その後の歴史をみれば、本来であれば頼朝は弟たちで周りを固められたはずですが、平家である北条氏に囲まれ、結局鎌倉幕府の源氏は三代で終わり北条の鎌倉幕府となっていくのです。ひめゆり学徒の話では、年長者と年少者の証言が正反対となっています。同じことを経験しても、教育で正反対のことに変わってしまうのです。頼朝が、弟たちを信頼できなかったのは、もしかしたらこうしたことが関係しているのかもしれない、と思えてくるのです。御陵は阿彌陀寺陵、山口県下関市阿弥陀寺町にあります。隣には赤間神宮があり安徳天皇は御祭神として祀られています。毎年5月2日~4日には先帝祭が行われています。インターネット中継もありますのでご確認下さい。おいでよ関門@ei__yu 壇之浦の戦いに破れ、平家一門とともに入水した安徳天皇。 この安徳帝の命日なると、当地で生き残った平家の女官たちは、墓所への参拝を続けました。これが今に伝わる「上臈参拝」の由来。 5月2〜4日に下関の赤間神宮で行われる『先帝祭』では… https://t.co/mRoLb7YH0S2018年04月21日 20:38福岡県久留米市には全国総本宮の水天宮があります。ここは安徳天皇の母の高倉平中宮に仕えていた女官、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が壇ノ浦の戦いの後に水天宮を祀ったことに始まり、最初は尼御前と称えられ尼御前神社と呼ばれていました。御祭神には天之御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼が祀られています。東京の水天宮は、久留米藩の大名有馬家が代々信仰してきた有馬神社と久留米藩主になってからその土地で尼御前大明神と尊称されていた水天宮の御祭神を、参勤交代の江戸でもお参りできるよう、江戸屋敷に御分霊された屋敷内様でした。その水天宮が人々の信仰が篤く堀越にお賽銭を投げる人が後を絶たなかったため、時の藩主は毎月5日に限り屋敷の門を開き人々のお参りを許したといいます。そのため「情け深い」ことを掛けた「情け有馬の水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となったといいます。水天宮が子供の護り神、また安産・子授けとして有名なのは、幼くして崩御された安徳天皇が守護神とされているからです。参照:「宮中祭祀」「天皇のすべて」「歴代天皇総覧」他先帝祭(安徳天皇826年)水野宮司インタビュー (2011年)最後に、御代替わりで話題となったツィートを二つ。海外でも話題となった三種の神器あらみたま 🇯🇵 稽古照今で我が国を言祝ぎましょう@aramitama9 海外「まさか本当に実在するとは!」 三種の神器の存在に外国人から驚きの声が殺到 https://t.co/joX3rcHgNI2019年05月02日 04:15国内でも、こんな話題がありました。Share News Japan@sharenewsjapan 【話題】『昨日と今日、退位と即位に際して神器承継の儀式が完了するまでホントに雨ふったじゃん…この国ガチじゃん』 https://t.co/5g21K9cSGw2019年05月01日 21:07

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  • 01May
    • 御代替り(みよがわり)・・・践祚(せんそ)改元

      今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。()昨日の天皇陛下の御言葉です。最後の「我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」には、号泣状態となってしまいました。「我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」は、今までも陛下が一般参賀などで仰って来たお言葉ですが、陛下の祈りがよく表れているお言葉だと思います。本当に感謝の言葉でいっぱいになりました。日本はもちろん世界中が見守った天皇陛下の御譲位が昨夕行われ、本日より、天皇陛下は上皇となられ、皇后陛下は上皇后です。そして、皇太子殿下は天皇陛下、皇太子妃殿下は皇后陛下となられました。そしてもちんろん、本日から令和元年です。暦生活@543life 令和となりましたが、暦生活はこれまでどおり、暦のことを正しく、やさしく、面白くお伝えしていきたいと思います。 新しいことにも、挑戦していきながら(*^^*) これからもどうぞよろしくお願いいたします。 #暦生活 #令和… https://t.co/SsJft3qMZw2019年05月01日 02:02あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 『令和の時代を言祝がれていた昭和天皇』 ⇒ https://t.co/utGjgGjKjP #昭和天皇 #昭和の日 #昭和 #皇室 #天皇陛下の祈り #仁徳天皇 #皇太子殿下 #御代替わり #天皇家百五十年の戦い #言祝ぎ2019年04月29日 07:06その形として、本日は、践祚が行われます。このブログでは何度も申し上げていますが、践祚とは本来譲位が行われたすぐ後に行うものであり、日をまたぐものでないことは繰り返し記しておきます。昨日の退位礼正殿の儀は、日本だけでなく世界中で生中継されていたようで、ツィートも多くありました。私は英語が得意ではありませんし、全部見たわけではありませんので、印象ですが、三種の神器が話題、というか興味の的になっていたようですこれは解説を聞いていましたら、鏡はここになくて凄く遠くにあると言っていたので思わず日本語ですがツィートしたもの。あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 やっぱり三種の神器に興味津々ですね。 でも鏡は遠くにあるんじゃなくて神殿の賢所にあるんですよ。 遠くにあるというなら剣も遠くにあると言わなきゃならない。 せっかく調べたのに、そこがもれちゃいましたね。 英語で書けないからとりあえず… https://t.co/TmmGGCY0QA2019年04月30日 18:16三種の神器については、日本人でもご存知ない人が少なくありませんし、天皇陛下が伊勢へ行幸された時にも話題になっていたぐらいですから、この機に復習するのもいいのではないかと思います。つい最近竹田恒泰さんも話題にしていました。あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 『三種の神器・・・日本人の基礎知識』 ⇒ https://t.co/u6uynnbBWL #三種の神器 #皇位継承 #八咫鏡 #草薙剣 #天叢雲剣 #八尺瓊勾玉#伊勢神宮 #熱田神宮 #壇ノ浦 #剣璽等承継の儀2019年04月30日 21:40天皇の即位の儀礼の流れはこうなります。①践祚=三種の神器の引継②即位③大嘗祭=天皇が即位の時に行われる一世一代の新嘗祭本日行われるのは、①の践祚であり、ここに三種の神器が重要な役割を果たします。践祚と即位はなにかというと、践祚は、本来皇位を践(ふ)むという意味で、天皇が皇位につかれる事実を指します。践祚の後、陛下がそれを公式に国内や諸外国へ宣明することが即位です。現在は、践祚の語の規定がないため両者は区別されず、平成の御代替わりでは全て即位とされていますが、意味が違いますのでここではきちんと分けたいと思います。剣璽が皇位継承に伴い引継ぐ儀式を剣璽渡御の儀といいます。同時刻に賢所の儀も行われ鏡つまり天照大御神に報告をします。これが三種の神器の引き継ぎです。これは天皇が譲位、あるいは崩御された後すぐに行われる儀式としてあり、桓武天皇の時代に定められ次の平城天皇の即位の時から続けられてきた儀式です。歴史をみると何らかの理由で、すぐに践祚が行われなかったこともありますが、形式としては践祚はすぐに行われてきており、そうした理由もなく翌日に践祚が行われることになったのが今回の儀式です。②即位式と③大嘗祭は、セットで秋の開催となり、大嘗祭が終わると基本即位行事は終了しますが、その後も前四代の天皇陵への奉告などが続きます。首相官邸@kantei 【お知らせ】明日(5月1日)10時30分頃より剣璽等承継の儀を、11時10分頃より即位後朝見の儀を、YouTube首相官邸チャンネル(https://t.co/cmAxWg96rN)でライブ配信する予定です。ぜひご覧ください。 https://t.co/u3UpwtH1Sd2019年04月30日 17:15本日の即位行事午前10:30剣璽等承継の儀・・・上記の「剣璽渡御の儀」に天皇陛下の印である「御璽」、日本国の印である「国璽」も一緒に継承されます。賢所の儀・皇霊殿神殿に報告の儀・・・剣璽が承継されるのと同時刻に宮中三殿で、新帝が御位につかれた旨を天照大御神(賢所)、歴代天皇と皇族の御霊(皇霊殿)、天神地祇(神殿)に奉告されます。午前11:10即位後朝見の儀・・・内閣総理大臣他三種の長、地方自治体の代表などを御前に召されて皇位につかれた旨を宣言されます。午前11:40内奏午後侍従長、上皇侍従長、認証官任命式侍従長、上皇侍従長拝謁午後3:00上皇上皇后両陛下へご挨拶祝賀午後3:30 皇嗣同妃両殿下お始め皇族各殿下午後3:40 元皇族、御親族午後3:50 未成年皇族午後4:10 長官はじめ課長相当以上の者、参与及び御用掛午後4:20 元参与、元側近奉仕者、元御用掛午後4:30 旧奉仕者会会員等(元宮内庁職員及び元皇宮警察本部職員)午後4:40 宮内庁職員及び皇宮警察本部職員午後4:50 堂上会総代午後5:30 人事異動者午後6:00 侍従長始侍従職職員等根宜さんの御説明動画です本日は、日が変わると同時に、あるいは早朝、もしくは践祚の式の終了後に、全国各地の神社で奉告祭が行われるかと思います。下の写真は、29日に明治神宮にあった立て札です。動画の根宜さんの神社でもはるネギ@宮崎神社@sadaharu7 いつもの1日準備に加えて、今日は明日からの践祚改元奉告祭や奉祝の準備も! さらに、この度の御代替りの時期に神社を狙った放火などのテロに対する警戒態勢も強めています(`・ω・´) お参りのときに、不審者や不審物があればすぐに教えて下… https://t.co/dTEsxotVQ72019年04月30日 22:1429日の明治神宮では、御朱印の列が物凄かったのですが、昨日も各地の神社で多くの人が御朱印の列を作ったそうです。本日も令和の1日目で神社に行かれる方が多いかと思います。もし神社へ行かれる際には、御代替りについての冊子「御代替り」が神社に置いてあるかもしれませんので、お問い合わせいただくといいかもしれません。こちらには、秋の即位式、大嘗祭についても書かれています。また、4日の一般参賀に行かれる方は、神社で日の丸扇子を手に入れるのもいいかと思います。今年は、即位行事がまだあります。日の丸扇子は振りやすく携帯しやすく、また家では飾ることもできて便利だと思います。また、国際的なスポーツ大会でも使えますので、ぜひお手元に一つは持ってほしいと思います。なお、日の丸扇子が置いてない神社もありますが、明治神宮と靖国神社にはいつも日の丸扇子があります。令和の時代の繁栄を言祝ぐ君が代です。株式会社ティーファイブプロジェクト@teeFive_project 国歌 『君が代』 令和バージョン 2019 作曲 (Composer) : 林 廣守 ・ 奥 好義 編曲・演奏 (Arranger and Player): T.K.S(teeFive, inc.) Rec Date: 2019/… https://t.co/MNROp8lLrs2019年04月30日 17:53天皇弥栄日本弥栄令和弥栄玉田神社@JinjyaTamada 新帝が即位され、いよいよ「令和」の御代が始まります。 本日は午前9時から「践祚(せんそ)改元奉告祭」に併せて5月の「月次祭」を執り行います。 https://t.co/0jqJejuo5W2019年05月01日 06:38粟田神社@awata_shrine 令和元年五月一日を迎えました。早朝、御神前にて「践祚改元報告祭」併せて「月次祭」を斎行致しました。 令和の御代が和やかな素晴らしい時代となります様お祈り申し上げます。 https://t.co/KhLW8V6ycX2019年05月01日 07:12吉川八幡神社@hachimanshrine 朝方は清めの雨でした。 社務所の大掃除と境内・本殿の大掃除も無事に終わり祓い清めました。 明日は令和元年皐月元日の月次祭ならびに新天皇陛下即位報告祭です。 拝殿では巫女さん神楽講師が浦安の最終稽古をしています。 ※令和元年皐月元日… https://t.co/0GDhs1DqEq2019年04月30日 14:34零羊崎神社@hitsuzisaki 〈践祚改元報告祭 5月 月次祭〉 石巻市 牧山のてっぺん零羊崎神社です。「令和元年」新しき大御代を迎えました。謹んで新帝陛下の御即位をお祝い申し上げます。早朝の月次祭に先立ち、践祚改元報告祭を斎行し、神前に本日の改元と践祚の儀式が… https://t.co/WTDcqbl6zW2019年05月01日 07:46鳥越神社@torikoejinjya おめでとう御座います!!! 本朝、日供祭に合わせ践祚改元の御奉告を申し上げました! https://t.co/FMYtocG5fa2019年05月01日 04:21総本宮 京都 愛宕神社@atagojinjya おはようございます。 今朝の気温は10度で、天候は雨となっております。 足元に気を付けてお参り下さい。 本日は月次祭、践祚改元奉告祭を齋行致します。 https://t.co/90WmZnUXGT2019年05月01日 06:32藤森神社@fujinomori505 いよいよ新しい御代を迎えました。 奇しくもその初日、本日5/1より5/5に亘って当社春祭り「藤森祭」が斎行されます。「令和」の御代も素晴らしい御代となりますよう、皆さまとともに、お祈りいたしたく存じます。2019年05月01日 00:01豊国神社@toyokunishrine 【太閤秀吉公像復活】新しい御代の奉祝記念として、阪神大震災にて損傷し長く御蔵に収蔵しておりました「豊臣秀吉公之像」を修復し国宝唐門前に安置致しました。明日5/1に奉告祭並びに清祓式を修し公開致します。皆様のご参拝をお待ちしておりま… https://t.co/eLe0ZXgdH32019年04月30日 18:36星川杉山神社@sugiyamajinja 本日0時、改元奉告祭斎行いたしました。 雨にも関わらず多くのご参列をいただきありがとうございました。 令和どら焼きは頒布終了いたしましたことをお知らせいたします。 只今閉門、朝9:00からとなります。 よろしくお願い申し上げます。2019年05月01日 01:20少彦名神社(神農さん)@sinnosan1123 5月1日9時より践祚改元奉告祭、その後10時より瑞雲の御朱印帳、瑞雲御守の授与を開始します。明日は直書き御朱印は「神心」のみにいたします。混雑緩和のためご理解くださいませ。 #少彦名神社 #大阪 #神社 #神社がいいね #御朱印帳… https://t.co/15l1E8TK4V2019年04月30日 19:30熊野那智神社@takadatenathi 平成最後の日 雨とすごい霧で境内はこんな感じ いつもと同じ朝が来て、夜が来る、そして朝が来て『令和』がはじまる… いつもより感謝の気持ちを深く胸に刻み、明日の月次祭と新天皇陛下の即位奉祝の祈願祭の準備をします。 明日は普通に明日… https://t.co/vkoYf1rzHl2019年04月30日 09:40赤木山王宮 日枝神社@hieshrine 5/5に唐津曳山が祝賀奉曳される事は周知ですが、その日の9時には御即位奉告祭が唐津神社にて、10時からは式典が唐津市民会館にて行われます! 不肖私、祭典と式典の司会を命ぜられ今から慄いています。 今日は当日資料の準備に。 都… https://t.co/LZohH8NUGx2019年04月30日 18:06伊太祁曽神社禰宜@itakiso 明日5月1日は、践祚改元奉告祭(せんそ・かいげん・ほうこくさい)のため、9:30頃〜11:30頃まで、御朱印は書き置きのみの対応となります。 御朱印帳をお持ちの方、予めご了承ください。 https://t.co/NA4kmaJEvp2019年04月30日 13:39佐谷田神社@sayadajinja 【令和 #御朱印 について】新元号「令和」奉戴にあたり、明日5月1日に限り、20枚の御朱印を通常と異なる奉祝の体裁とします(※書き置きのみ)。 また、明日は奉祝祭等の行事により、御朱印帳への押印対応は正午からと致します。予めご了… https://t.co/O43acCn2oa2019年04月30日 13:13居木神社(いるぎじんじゃ)@irugijinjya “奉祝 御大典 天皇陛下御即位” を記念して特別木札守りを奉製いたしました。 5月1日 践祚改元奉告祭を斎行して御神前にお供えした後、授与所にて頒布いたします。初穂料 1,200円 #居木神社 #天皇陛下御即位奉祝記念… https://t.co/xAwETJl4O12019年04月30日 11:37叶神社@kanoujinja 皐月1日6時30分より践祚改元報告祭、併せて月次祭を執り行い、国家安寧、皇室の弥栄、氏子崇敬者の御多幸をお祈りいたしました。新しい御代が、皆様に、日本にとって一層平和であることをお祈りしております。2019年05月01日 07:45桑名宗社(春日神社)@kuwanasousha 令和元年五月朔日 鎮守の杜の穏やかな目覚めを迎えております。 本日、新元号奉祝行事は予定通り決行致します。 新天皇陛下の御即位を共に祝いましょう。 お稚児さん、石取祭、長島八幡神社獅子舞、また限定の御守、御朱印は春日神社へお越しく… https://t.co/DoecCGeTaU2019年05月01日 05:20秩父今宮神社(八大龍王宮)@imamiyajinja 5月1日(祝)午前10時~『践祚改元奉告祭』at 秩父今宮神社 本殿 どなたでもご参列できます。新帝の御即位と”令和”への御代替わりをいっしょにお祝いしませんか。 https://t.co/X7Nd1M5WK02019年04月28日 17:53ならまち 御霊神社@goryojinja 新しい御代の幕開け 践祚改元奉告祭と併せて月次祭を斎行致しました🇯🇵 常に国民の気持ちに寄り添い、国家の安寧を願ってこられた天皇皇后両陛下に感謝を申し上げますとともに、新しい御代の安寧と弥栄をお祈り申し上げます⛩ #令和… https://t.co/c2Obe2afCO2019年05月01日 08:15少彦名神社(神農さん)@sinnosan1123 本日午前九時より践祚改元報告祭を行います。また皇祖神である天照皇大神をお祀りする伊勢の神宮の遥拝と神宮大麻を授与致します。ご家庭にあっては神宮大麻をお祀りし、天皇陛下のご安泰をお祈りしましょう。#少彦名神社 #神宮大麻 #令和… https://t.co/viHL6GWg812019年05月01日 08:31

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      テーマ:
  • 30Apr
    • 御代替り(みよがわり)・・・御譲位

      我が国の悠久の歴史は、『古事記』『日本書記』といった書物からその起源を窺い知ることができます。天皇陛下のご先祖であられる天照大御神は、御孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を高天原より地上にお遣わしになりました。以来、我が国では、天照大御神の御子孫が代々、天皇として御位をつがれ、日本の国を治められるとともに、天照大御神をお祀りされてきました。そして、大御神から授けられた稲によって稲作を行い繁栄してきたのです。天皇の御代替りに際しては、様々な儀式が執り行われますが、そこには、この神々の時代の精神が息づいています。儀式そのものは、時とともに変化してきましたが、大嘗祭をはじめとする皇位継承の諸儀式は、神代より現代にまで受け継がれてきた我が国の精神の継承の儀式でもあるといえます。写真は、神社庁作成の冊子「御代替り」です。この冒頭に上記の言葉がありました。御代替りの儀式は神話から続く我国の歴史と伝統を体現しており、これを宗教の枠に入れ反対することがいかに見当違いであることか、ということがわかるかと思います。「御代替り」の冊子は、お近くの神社に置いてあるかもしれませんので、欲しい方は神社でおたずねください。さて本日、天皇陛下御譲位の儀式である「退位礼正殿の儀」が行われます。「退位」という言葉が使用されていますが、この冊子には譲位の儀式としての「退位礼正殿の儀」と記載されています。なぜなら、皇太子殿下に位を譲られる儀式だからです。本来、この儀式は当日中に即位の儀式まで行われてきたものを、今回、伝統に反して二日間に分けられたということは記憶しておくべきことです。この御譲位の行事は実はすでに始まっており、天皇陛下が伊勢神宮や、神武天皇陵、にもご報告をされてきたのもその行事の一つ一つでした。この「御代替り」の冊子を参照し、解説される宮崎神社の根宜さん他にも御代替わり関連行事についてアップされていますし、これからもアップされるご予定だそうです。本日は、まず午前に、宮中三殿での儀式が行われます。これも宮中三殿への御譲位の報告の儀式です。午前10時退位礼当日賢所大前の儀退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀そして午後5時、退位礼正殿の儀が行われます。退位礼正殿の儀の細目16:40 参列者が参集16:45 皇太子殿下同妃殿下をはじめ皇族方が参集17時前に正殿松の間に列立17:00 天皇陛下皇后陛下のお出まし続いて、剣・璽・国璽及び御璽を捧持し、皇太子殿下、皇太子妃殿下、親王殿下、親王妃殿下、内親王殿下び女王殿下が供奉される剣・璽・国璽及び御璽が案上に置かれる内閣総理大臣が国民代表の辞を述べる天皇陛下の御言葉天皇陛下、皇后陛下の御退出 その後、両陛下から皇太子同妃両殿下をはじめ皇族各殿下へのご挨拶に始まり、元皇族や御親族、長官から侍従職員までへのご挨拶があります。それがすべて終わるのは7時半ぐらいではないかと思います。官邸チャンネルでどこまで流すのかわかりませんし、午前の儀式はニュース映像があっても三殿へ入るまででしょう。しかし、少しでも長く、陛下の御姿を拝見したいと願っています。首相官邸@kantei 【お知らせ】4月30日及び5月1日に予定されている、天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典について、下記のとおりYouTube首相官邸チャンネル(https://t.co/cmAxWg96rN)でライブ配信をする予定です… https://t.co/le7ETPSoRh2019年04月26日 22:20平成の時代に深く感謝します。神社.com編集部@jinjya_com_k 出雲大社で「夜間特別参拝」実施へ 30日午前6時以降、5月2日午後8時まで開放(毎日新聞) https://t.co/6ydhPZtfUS2019年04月29日 16:33あらみたま 〇譲位×退位&生前不要@aramitama9 天皇陛下即位で京都市内の慶祝事業、二条城など無料開放、重要文化財での茶席など特別イベントも(トラベルボイス) - Yahoo!ニュース https://t.co/oQbY5hNbCg2019年04月30日 07:59

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