遠野物語のカッパの話をご紹介しています。
さて。
とても愛嬌があって、人びとに愛されている妖怪、河童。
その正体に迫りたいと思います。
さて。
河童の原型とされる河伯は、中国の河…黄河の神様と言われています。
河伯は、もともと、黄河で溺れてしまった人が、
神となって生まれ変わったモノと信じられていました。
その河伯が、日本に入ってきたのです。
入ってきたのはいつ頃かわかりませんが、
魑魅魍魎という言葉が出て来る頃には、伝わっているのではないかと…魍魎は、水の精霊で、河伯の眷属です。
江戸時代に編纂された信府統記に、
千曲川と犀川の合流地点に河伯がいて、そこで泉小太郎のお父さんの黒龍が、河伯から治水を学んだとされている事から、
河伯が広まったのは、江戸時代かもしれません。
では、
河童として日本の民話に登場し出したのはいつかというと、
実はこれも、江戸時代からなのです。
駒ヶ根市の河童、女神湖の河童はお武家様が出てきますから、
江戸時代ごろのお話ですね(^ ^)
江戸時代から近年にかけて、カッパの話はとても多いのです。
ではなぜ、
江戸時代ごろから出始めているのか、というと…。
江戸時代には…
日本全国に…
とても辛い史実がありましたね…
それは…
年貢と、飢饉です。
幕府は、農民を働かせるために、士農工商という身分で縛り、
財政が逼迫すると重い税を納めるように仕組みました。
農村では、年貢が厳しいため豊かな生活が送れず。
さらに冷夏で穀物・野菜が採れない飢饉に見舞われ、自分たちが食べるのも苦労していました。
飢饉となると、藩政がうまく回らなかった地域では、恐ろしい数の犠牲者が出ました。
そして、江戸時代は…まだ、避妊という方法は知られていませんでした。
荻野式の不妊治療法(避妊法)が発表されたのは、大正13年でした。
貧乏の子沢山とは言いますが…
貧困の農村では、一軒で10人近く子供がいる家もあり。
全ての子供を育てられるわけがなく。
すこし大きくなった子供は奉公に出されたり、身売りされたりした時代が、昭和の中期まで続きました。
そして…
生まれてすぐに育てられないとわかっている子は…
間引きされたのです。
間引きと言うのは…
動物の、生まれて間もない命を川に流し、天に帰す行いです。
…動物の中には、
もちろん…人も、含まれます。
現代では、堕胎すら罪とされ、論議を呼ぶところですが…
神を信じ、万物に命があると思われていた時代から…
…このような愚行は行われていたのです。
伊邪那美と伊弉諾尊の一番最初の子供ヒルコが、日本で一番最初に間引かれた子供と思われます。
生まれたばかりの子は、人としての存在ではなく。
闇の世界にいるモノが、この世に出てきたような感覚だったのかもしれません。
育てられないとわかっていても、途中で流せなかった子供は産むしかなく…
しかし、
お腹が大きくなって周囲にわかるようになってしまい、
皆があの家には子供か生まれるようだと噂になってしまうと、
公然と間引いたとも言えず。
もっもとも、日本の着物は妊娠がわかりにくい形なので、周囲の人たちに気がつかれにくかったと思いますが…
また、
赤ちゃんが産まれる、兄弟ができる、と喜んでいる、子供たちに本当の事が言えないため…
『河童』という妖怪を仕立て上げ、
「カッパにさらわれた」
「カッパの子だったので川に流した」
との、言い訳に使ったことが、
カッパの誕生の始まりではないか、と言われているのです。
それに。
カッパという架空の生物が、さも生きているように話すと、
流してしまった命が蘇るような…
そんな錯覚を覚えたのかもしれません。
だから、
ほとんどのカッパが緑(青)色をしている理由は、
死んだ子供が、妖怪となって蘇ったから
なのです。
では、遠野のカッパは、なぜ赤いのか、と言うと…
それは…生まれたばかりの子供を、「赤子」と、いうところから想像すると…
『遠野のカッパは、生きている子どもや人ではないか?』
という、仮説が立つのです。
実際、遠野でも間引きは行われていたようです。
カッパで有名なカッパ淵は、常堅寺の裏手にある小川の、淀みのことです。
淀みには色々なモノが集まります。
目に見えるモノも、見えないモノも…。
実際、常堅寺では、
上流から流されてきてら淀みに浮かんでいた子供を供養した事があったようです…
その中には、運良く命が助かった子供も、いたのかもしれませんね。
でも、遠野に限らず…
山間部の農村などでは、
負の歴史があって…
遠野にカッパの話がとても多いのは、
間引きが原因だけではないのです。
続く。