【少年法をどうすべきかをもっと考えるべきなのでは・・】
私が言いたいのは
たとえ少年でも、人を殺める意思を持って人を殺めた犯罪の場合は、最低でも無期懲役とする。
という規定がほしいし、更生をする余地はなしという考えにしてほしいということです。
(出所できても障害保護観察でもかまいません)
遺族の方の心痛は察するに余りある。
しかし、その反面、遺族の為に静かにしておくだけでいいのかという思いが頭に浮かんでくることも事実なのです。
遺族の方が、この事件は特異な事件と言われていますが、それで片づけ切れない部分を感じます。
確かに日本では特異な事件です。
記憶に新しいところで、レベル的に匹敵するのは今年初めに起こった川崎市中学一年生殺害事件でしょうか。
彼は年齢的には18歳と微妙ですが、早くて数年、成人扱いなら30年で出所するでしょう。
元少年Aの事件は、アメリカでは結構あるそうです。一昨年亡くなられたロバート・K・レスラーさんなどが本に書かれていました。
(レスラーさんはトマス・ハリス著「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」などに情報を提供したFBI心理分析官)
少年Aは犯行前からすでにレスラーさんの本などを読んでいたことがわかりました。
ビデオも見たでしょう。
羊たちの沈黙 1991(小説は1988)
刑事グラハム/凍りついた欲望 1986
(レッド・ドラゴン 2002 リメイクして改名)
つまりこの犯罪は日本では特異ながら、アメリカの犯罪の影響を受けていたはずです。
「レッド・ドラゴン」や「羊たちの沈黙」に出てくる犯人の超然的で芸術的な意識と描写は、彼の犯罪時の心理に類似しているはずです。
付け加えると、川崎中一殺害の場合はISの影響が少なからずあったはずです。
私が書いたブログでも、未解決の事件については「犯人は少年Aではないか」というコメントが寄せられます。
平岡都さんの事件は未解決の凶悪事件ですが、香川県で起こった事件との類似性も感じられ、犯人は元少年Aではないかと言う人もいます。
勿論、これらの事件は、車の免許を持っていないであろう「元少年A」の仕業ではないだろう・・・と推測はできますが、これは「絶歌」を読んで初めてそう思えたことでもあります。
(車の免許やクレジットカードは文面から使えないのではないかと推測しています)
香川県の事件は1997年なので元少年Aとは違います。
私は香川県の事件と島根県の事件は同一人物かもしれないと思っています。(が元少年Aではありません)
それによって、ある意味ほっとする反面、犯人は今でもどこかに生きているという新たな不安となるわけです。
何がトリガー(引き金)となって再び殺人を犯すのか、まったくわかっていないのは不安です。
という考えに至れるわけです。
遺族のことを最大限に考えた場合、「この事件のことは忘れよう、何も口出ししないようにしよう」ということになります。
遺族の方はそれでよいと思いますが、事件を知らない若者はともかく、この事件はほとんどの国民が知っている事件です。
もし、元少年Aが昔のモンスターを表に表わしていて、昔のような劇場型犯罪の延長線でこの本を書いていたとし、世間が遺族に気を使いすぎて誰も騒がなかった場合どうなるか。
次の事件が起こり、加害者が元少年Aで、新たな犠牲者が出たとした場合、今の遺族の立場は悪くなってしまいます。
新たな犠牲者の遺族は、犯人にも社会にも少年法にも怒りを覚えるでしょうが、それに加えて今までの遺族に気を使って問題提起とその解決を重視しなかったことにも怒りを覚えるでしょう。
何か問題が起きた時に、その根本から考えてこのような犯罪が出来るだけ二度と起きないように対策を練る。
という考えや意思表示や行動はとても大事だと感じます。
私は、注視して議論しなければならないポイントは、遺族のことを考えてそっとすることではなくて、(勿論そのことには気を使う必要がありますが)、
少年法で、「殺人罪を犯した人物は、無期または(たとえばフランスなどのように)一生保護観察体制のもとに社会に戻す」というように修正をすべきではないか
という部分をもっと考えるべきなのではないでしょうか。
この事件は 遺族の方の気持ちだけを察して静かにする・・・ということで片づけられることが出来ない宿命にある事件なのではないかと思うわけです。
今回、もし彼に保護観察が一生ずっと付いて、担当者から彼が今どうしているかの報告が世間にあったとしたら、私は「絶歌」は読んでいなかったとおもいます。