かといって、一〇〇人全体で一億円であることが決まっており、その一億円を努力と苦労の結晶ということで一人の人に集中しているとなると、とてもでは無いが社会が正しく機能しているとは言えなくなる。全体で一億円と決まっているなら、その一億円をどのように分配するかという問題になるが、どのように分配したとしても誰もが不満を持つ。一億円を稼いでいた人は自分の収入が減るし、平等に分配するとなったら一年間を過ごすに不十分な金銭に留まってしまう。
しかし、ここは脱成長の人が考えているのと異なる経済の現実がある。そもそも全体で一億円と決まっているわけではないと考えれば、それこそ、全体で一〇億円、すなわち一〇倍に増えたとしたらどうなるか?
金銭の全体量を増やせば、格差問題も公平の成就も解決しないが、生活水準の向上が実現する。その結果として、一億円の年収が五億円に増え、残る五億円を九九人で分配して一人あたり五〇五万円となったならば、双方とも受け入れることができる話になる。
金銭というものは年数を経る毎に増えていく宿命を持っている。二〇世紀末からの三〇年間の日本国はきわめて稀な例外とするしかなく、また、失敗例として特筆すべきところである。普通なら金銭は年々増え、増えた金銭は給与の増額となって勤労者の元に戻ってくる。ただし、金銭の増幅によってインフレが起こるために、勤労者でなくなった人、特に高齢ゆえに年金生活となった人にとって苦しい社会となる。これが、脱成長の人が掲げるのとは全く逆の経済の現実である。金銭全体の増額は、誰かの金銭が増えることと誰かの金銭が減ることとはつながらない。唯一つながるのは、年金生活や貯金を切り崩して生活する人がインフレに苦しむという声だけである。
しかし、経済の基盤が金銭ではなく土地で決まるとなると、脱成長と主張する人の考えがある程度は成立してしまう。土地は金銭と違って容易に増やすことができず、自分の土地を増やすことと他人の土地が減ることとが同じ意味になる。
ここで源頼家の話に戻る。
鎌倉幕府に仕えている御家人達は、各々がそれぞれの形で鎌倉幕府に対して貢献している。ただし、貢献に見合うだけの土地を鎌倉幕府が用意できるわけではない。土地には限りがある。貢献しても土地が得られないとなったならば、鎌倉幕府に対する貢献の意欲は完全に消える、あるいは、貢献ではなく反発を見せることとなる。ならば、どうやって土地を用意するか?
梶原景時のように鎌倉幕府に楯突いた、とされる人物を討ち取って、その人物の土地を分配するという方法もあるが、このような方法を何度も繰り返すのは現実的ではない。この後の歴史を知っているなら現実的ではないことが実際に発生してしまったと考えるであろうが、未来を知らないこの段階では現実的ではない。
源頼家は現実的な解決方法としてどのような選択肢を選んだのか?