前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであったことは既に記した通りである。
源実朝はその後、大倉に新しい寺院を建てることとし、後に大慈寺と名付けられることとなる新たな寺院の開眼供養を検討した。
鎌倉という都市は、面積や人口を考えてもかなり寺院が多い都市である。それも、昔からある寺院というわけではなく、平安時代末期以降に新しく建立された寺院が多い都市である。戦場を駆け巡る宿命を持つ鎌倉武士達がそれだけ宗教の救いを求めたというのは理由の一つとして挙げられよう。また、栄西の説く臨済宗が広く受け入れられたように既存仏教と一線を画す教えはこの時代の人にとってかなり魅力的に映ったこともその通りである一方、既存仏教の側にとっても仏教のあるべき姿を実践する都市として新興都市である鎌倉は新たな布教先として魅力的に映ったであろう。
ただ、それだけが鎌倉に寺院の多いことの理由とはならない。
ホテルや旅館などないこの時代、寺院は宿泊施設でもあったのだ。それも、軍勢を収容できるだけの施設として機能したのである。
源実朝が新たな寺院を御所のある大倉の地に建立させたことは、信仰心だけでなく実利的な意味も存在したのである。鎌倉は東と北と西を山に、南を海に囲まれた天然の要塞の中の都市であるが、和田合戦のように鎌倉の市街地での戦闘を念頭に置くと、大倉御所も、その周囲も、決して防御力が高いとは言えない。後の戦国時代になると防御力の高い城が全国各地に建設されるようになるが、この時代の建築技術ではそこまで防御力の高い建造物を建てることは難しい。鎌倉に入ってこようとする軍勢を鎌倉の入り口で防ぐことはできても、都市の内部に入り込んでしまった軍勢からどうやって守るのかを考えたとき、御所の近くに寺院を建立するというのは正しい選択肢である。
ここまでは鎌倉幕府の内部で意見の統一を得ている。
問題は、新たな寺院をスタートさせるにあたっての開眼供養に誰を招くか。
ここで源実朝と御家人達とで意見が割れたのだ。
源実朝は京都内外の寺院から高僧を招くことを主張したのに対し、中原広元、三善康信、二階堂行村といった面々が反対したのだ。なお、この場に北条義時もいたことは判明しているが、北条義時がどのような意見であったのかを吾妻鏡は記していない。
反対派の意見は、鎌倉まで高僧を招いた場合に要する費用、往復の交通費に鎌倉での滞在費用が多大な金額になることを主張し、そのような費用をかけるならば鎌倉にいる僧侶に開眼供養をさせるべきとしたのである。
吾妻鏡には源実朝が先例に則って高僧を招こうとしたのを中原広元らが反対したとしているが、この前後の歴史的な出来事を考えると、源実朝は単に先例重視で高僧を招こうとしたのではないことがわかる。前年の和田合戦の影響で京都における鎌倉幕府の武力のプレゼンスが落ちてきているのである。それが延暦寺や園城寺、興福寺といった寺院の僧兵達の暴虐にもつながっているのだ。源平合戦の渦中で一度は灰燼に帰した園城寺や興福寺であるが、寺院として復活すると直ちに僧兵達の跋扈も復活した。それでも鎌倉幕府から派遣された御家人が六波羅に滞在し、京都内外に武力で睨みを効かせることで寺社の武装デモを事前に防ぐことに成功していたが、和田合戦はその睨みを破壊した。実際にはそうではなかったが、ほとんどの人は和田合戦によって鎌倉幕府が京都内外に利かせている睨みが無くなった、あるいは、無くならないにしても睨みが減ったと考えたのだ。
源実朝がここで高僧を鎌倉に招くことを、しかも、誰を招くかは公表せず、ただ高僧を招くことだけをニュースとして京都に届けたなら、各寺社は互いに自分たちの寺院から鎌倉に僧侶を送り出そうとして対立状態になる。その上で、各寺社は鎌倉幕府との関係を構築せざるを得なくなり、その関係構築が京都内外における鎌倉幕府のプレゼンスの復活にもつながるのだ。