いささめ

いささめ

歴史小説&解説マンガ

 長寛二(一一六四)年八月二六日、それまで公然と語られることの無かった崇徳上皇について、ようやく公然と語ることが許されるようになった。

 と言っても、崇徳上皇の配流が終わったのではない。

 崇徳上皇が讃岐の地で崩御したのだ。

 崇徳上皇が亡くなったことで崇徳上皇院政の可能性は消滅した。消滅はしたが、記憶の中の崇徳上皇まで消えるわけではなかった。人気があったのに悲運にさらされ配流となり、配流となった先で崩御した上皇は、亡くなったがゆえに、より強固なイメージを持った存在へと昇華したのである。現在の社会に対する不満を束ねる偶像としての崇徳上皇の誕生である。

 さらにここに崇徳上皇への冷遇も加わる。崇徳上皇への冷遇は、崇徳上皇への同情と、崇徳上皇への偶像化に働くこととなった。

 当作品ではここまでずっと「崇徳上皇」と書き記しているが、この頃の記録に「崇徳上皇」のおくりなはない。あるのは「讃岐院」という院号である。院号として、住まいとした建物の名、あるいは住まいを構えている土地の名を用いるのは通例であるから、崇徳上皇が讃岐院と記録されるのは例に依っているのであるが、無神経にもほどがある。

 帝位を退いたあとで平安京を離れて余生を過ごすことは珍しくなく、過去二例の院政はともに平安京から離れた土地を院政の舞台としてきた。だから、理論上は白河院や鳥羽院と同じ扱いである。ただ、それと崇徳上皇への院号とを同列に扱うのみならず、讃岐の地を院号とするのは非難を受けるに値することであったのだ。崇徳上皇は讃岐に移り住んだのではなく、讃岐に配流となったのだから。

 長寛二(一一六四)年時点の記録は、後の崇徳上皇怨霊伝説からは想像もできない淡々としたものである。

 讃岐国から届いたのは崩御の知らせと埋葬の知らせである。伝承としては火葬での煙が都の方向へとなびいたというが、葬儀での煙に対する明確な記録はない。確実な記録は、長寛二(一一六四)年九月一八日に亡き崇徳上皇が讃岐国の白峰山の山頂で荼毘に付され、白峰山には御陵である白峯陵しらみねのみささぎが設けられたという点のみである。なお、崇徳上皇を祀る京都の白峯神宮が造営されたのはは明治維新直前の慶応四(一八六八)年のことであり、崇徳上皇の京都帰還は死後七〇四年を経過してのとこである。

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