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いささめ

歴史小説&解説マンガ

 正治二(一二〇〇)年一二月二八日、源頼家は一つの指令を出した。

 源平合戦での恩賞の土地は、御家人一人あたり五〇〇町、現在の面積単位で言うとおよそ五ヘクタールを上限とし、それ以上を没収するというのである。一戸あたり平均二〇ヘクタールである北海道を除き、現在の日本の農家の保有する田畑の敷地面積は一戸あたり一ヘクタールであり、源頼家は御家人一人あたり農家五戸分の敷地面積、すなわち、御家人の所領として農家五戸分を上限とするとしたのだ。この五戸分の収穫からの年貢で御家人に生きて行けというのである。

 五戸あたりで養うことのできる非農家の人数など限られている。武士一人ならば、あるいはその武士とその家族ならばどうにかなるかもしれないが、武士団を養うなど無茶な話だ。戦時は武器を取り平時は自分で田畑を耕すのであっても、農家五戸分での収穫では鎌倉幕府の御家人としてやっていくなど不可能と断じることができる。

 少し考えても無茶なこの指令について、源頼家は土地を没収する理由も明言している。源平合戦以後の功績に対する報償を用意しなければならないが、現在の鎌倉幕府にそれだけの土地はない。そのため、報償としての土地を提供できず、生活苦に陥っている御家人がたくさんいる。そうした御家人達を救うために、過剰な土地を持つ者から土地を没収するというのだ。

 この発表は事前通告無しでの発表であったようで、政所にただちに諸国の田文調進を命じたものの、実践するように命じられた中原広元は困惑し、知らせを聞きつけた三善康信がただちに駆けつけて源頼家を叱責する場面も見られた。田文調進とは令制国単位での荘園および公領の田地面積とその土地の所有関係などを調査した土地台帳であり、また、鎌倉幕府の御家人への賦課台帳でもある。源頼家はこれまで何度も田文調進を命じており、土地政策に積極的であったことが窺える。ただし、土地の没収と再分配が前提であることを明言した田文調進はこのときがはじめてであった。

 このときの源頼家の発表は当日中に取り消さざるをえなくなったが、それでも源頼家は諦めず、来年にはまた命令を出すと明言した。

 先に、金銭ではなく土地で経済の基盤が決まる場合には脱成長の主張がある程度成立してしまうと書いた。このときの源頼家の発想は、まんま脱成長の主張、あるいはさらにそれを悪化させた社会主義に通じるものがあった。すなわち、成長を止め、全体を等しく貧困に陥らせる考えだ。厄介なことに、本人は善意でやっている。正しいことだと確信しているから過ちを認めないし、何なら過ちであると証明されても証明のほうが間違っているという態度で終始する。

 さらに記録をよく読むと、源頼家の発表そのものは突然でも、何の計画も無しに発表したのでは無いことが読み取れる。

 発表に先立つ一二月三日、源頼家は蹴鞠仲間である大輔房だいゆうぼう源性げんせいを呼び出した。この人物はこの時代の日本国におけるトップクラスの人物であり、特に土地の測量について抜群の才能を示していた人物である。源頼家は大輔房源性を陸奥国に派遣しており、現地における所領争いの実情を調査させていた。吾妻鏡ではこの後、大輔房源性が自分の数学の知識をひけらかしたのを、現在の宮城県松島に出会った僧侶に窘められたことのエピソードが載っているが、そのようなエピソードより重要なのは、源頼家が綿密な現地調査を実行させていたことである。その上で出した答えが御家人一人あたりの五〇〇町という結果なのであろう。これは平等な分配のみを考えた結果であり、御家人にとっても、農地の住人にとっても、最善の結果では無い。しかし、この時点の鎌倉幕府でできる最大限の譲歩の結果でもあったのだ。

 

 

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