『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。














学校では教えてくれない、日本史の真実に迫ってみました。従って このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。

だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。



信長の小姓 森 蘭 丸の実像(第二部)

森蘭丸から考察する本能寺の変



次に訝しいのは、本能寺に於ける信長自身である。といっても、これは実像の信長が変だと言うのではない。あくまでも〈信長公記〉に現われている信長の行動である。
 その巻の十五の〈信長公御上洛のこと〉原文によると、「御小姓衆二、三十人召しつれられ、五月二十九日ご上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの開、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、罷りたつべきの旨、御触れにて、今度は、お伴これなし。さる程に、不慮の題目しゅつたい俟て、」で終っている。ここで引掛るのは、

 「御いっそう」という語句である。さっと読んでしまうと、中国地方へ出陣するのだから、至急いっそう次第に出立するというので、意味がその儘のみこめるようでもあるし、判らなくもある。
但し原文は「一左右」となっている。ということは、この時代も、まだ漢字の使用法は発音を当てはめて用いるのであって、今日のように熟語の定型はないのだから、なんとも言いようもないが「一つのものを右から左へやる」のが「いっそう」ならば「一掃」という文字でも、良いのではないかと想える。まあ、こう当てるのが常識というものであろう。
 
すると信長は、中国へ出陣するに先立って、「何かを一掃する目的」で上洛した事になる。そして、その何かは、京都にあった。
 しかも、その何かは、信長が出陣に当って後顧の憂いのないように、自分で整理して行かねばならぬ程の大問題であるが、小姓二、三十を伴ってゆくだけでも、事たりてしまうような相手で、その示威の為であろうか。
今度は「お伴これなし」それで、「舐めてかかったから」あべこべに「不慮の題目」が出来してしまったというのである。
 これを検討してゆくと、信長殺しの謎の中の一部分は判ってくる。

一掃する目的

 つまり六月二日に洛中の大名屋敷の留守武者二千が動かなかったのは、これはストライキではない。命令によるものらしい。しかも、その命令たるや、皮肉な話だが、信長からの発令らしい。
 おそらく「何かを一掃するために」上洛してきたのだが「洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと」といったような指令が、本能寺門前にあった所司代役の村井長門守から、各大名屋敷へ通報されていたのではあるまいか。当時のことだから、もとより詳しくは教えてなかったのだろう。
 
だから四条の本能寺で大騒動が起きて、各大名屋敷は色めいて周章狼狽したが、前もって、天下びとの信長から「絶対に出動すべからず」と命令されていたから、
もし違反したら、大変であると、まさか当人の信長が包囲されて居るなどとは、夢にも想わず、みな自分の所の屋敷だけを厳重に守っていたのではなかろうか。
と、これならば納得できる。すると、その一掃すべきものは、これは、大物ということになる。
 
さて〈角川新書の織田信長〉をもち出しては惡いが、その中に、次のような記述がある。こと事件前日のことなので、徹底的に解明をしなければならない。
 「〈仙茶集〉というのに〈御茶湯道具目録〉と題する覚え書が入っている」とまず書かれている。
 それは『日付は午の六月一日』『宛名は宗叱まいる』『差出人は長庵判』とあり、三十八点の名物茶器の名が列記されている。つまり、この覚え書は、天正十年六月一日、本能寺の変の前日に、博多の島井宗叱に披露して見せる信長秘蔵の名器三十八種の目録をかきあげ、宗叱に与えたものである。また長諳の追記として『この他にも沢山あるが一々書きたてるのは止めた。
また、三日月の葉茶壺、松島の葉茶壺、岸の絵、万里江山の絵図、慮堂の墨蹟などは、大道具で、持運びが不自由なので、安土の城に残してきたから、また次の機会に改めて拝見させる』とことわりが出ている。
だから、この目録にかいた三十八種を安土から本能寺に運搬してきて、本能寺の書院で茶会を催すために、信長は上洛してきたのである」と説明されている。そして、

歴史屋の悪辣さ
 
「信長は単なる武将ではなく、茶の湯ずきの趣味家で風雅の道に志が深く武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあって、西国出陣の途中、わざわざ秘蔵の名物茶器を披露をする茶会をやる為に、
本能寺へよって、災難にあったのだ」と、これを尤もらしく説明しているが、はたして、この人の説は、どんなものであろうか。奇怪そのものである。
 これによると、まるで楠長庵が、信長の代理人のように、「これとこれとを見せてやる。この他の物は沢山あるから書くのはやめた。大きな物は持ってこられないから安土の城へきたら、そこで見せてやる」と大言壮語をしている
 が、それ程のポストの人間だったのだろうか。
  古川弘文館の〈戦国人名辞典〉においても、彼は、「文禄元年、朝鮮の役にて、肥前名護屋城にて、宿直番士の記帳に当っていた」と出ている程度の人間である。
つまり「誰某は宿直、誰某は、あけで帰った」という人間の夕イムーレコーダー係である。しかも、これが本能寺の変から十年後の長庵という人物のこれが現実の姿である。しかも初めは大場長左衛門といっていたのを、楠木正儀の子、正平の八代の孫だと自称して「楠正虎」とまで名のった人物である。
 
 だから〈戦国人名辞典〉では、彼に関しては「信用出来ない」という言葉を繰返して二ヵ所も出している。
  もちろん「楠」に改名したのは、信長の在世時代ではない。その頃は長左衛門といって、祐筆の下の書記ぐらいの身分らしい。というのは、その後、安土城が炎上して実物が何も残っていないから、
よい加減なことを書いているが「三日月の葉茶壷や松島の葉茶壺が大道具で、持ち運び不自由で安土へ残してきた」というが、この二つは、ふつうの茶壷の大きさである。
運び瓶の茶の大壺と、掌にものる茶壷との区別さえ、この男は知っていないのである。それと、もう一つ訝しなことは、まるで彼が、信長の側近として、本能寺へ同行してきているような書き方を、
この筆者はしているが、六月一日に本能寺で茶会を催しているというのに、彼と鳥井宗叱は双方とも唖で口がきけず、当日二人は筆談を交したのだろうか。
 さもなければ、手紙なら、いざ知らず、向きあった長諳が、眼の前の宗叱をつかまえ、
 「うまの六月一日、宗叱へまいる。これこれと三十八点。この他に沢山あるが、いちいち書くのはやめた。また、あれとあれとは大道具で持ち運びできなかったから、後で見にこい」
 と、囗でいったというなら話の辻っまも合うが、なぜ紙にかいて、それに判を押して、手交しなければならないのか。いくら頭をひねっても、これでは理解不能である。

 常識で考えても、向き合った二人が筆談して、判までおして、渡しあうというそんな可笑しな状態は想像もされない。
 もし筆者が書いているような、そんな「覚え書」かあるものなら、それは楠長庵が書いたことに、三百八十五年後の誰かがしてしまった想像の創造であろう。
 なにしろ当日、その宗叱が主客だというのなら「耳がつんぼだったかも知れないから、向きあって筆談をしたか」とも、ごま化しはきくが、「六月一日の信長の名物びらきの茶会は、本能寺の書院でもよおされ、正客は近衛前久であって、地下人に相当する宗叱と宗湛は、相伴を命ぜられたのであろう」と、筆者は説明している。
すると、主客は放りっぱなしにして、たった二人だけで紙にかいたり判をおしたりして、やりとりしていたのか全然ピンとこない。
 
 そして、おまけに筆者は、しつこくも、その島井宗叱が、初夏のころ、同じ博多衆の神谷宗湛を同道し、六月に信長が茶の供応をするというので本能寺に参上したところ、
明智光秀の乱が起った為に、早々と本能寺をひきとった。そのとき「弘法大師の真筆千字文の掛軸」をもち帰ったという。

又、神谷宗湛の方でも、宗叱と同伴上洛し、本能寺で信長に謁見したが、そのとき、明智の乱が起ったので、本能寺書院の床の間にかけてあった「遠浦帰帆の図の一軸」をもち戻った。
というが〈山科言経卿記〉では「近衛前久ら四十人の公卿が本能寺へ集ったが、それは『数刻御雑談、茶子、茶有之』という原文になっている。つまり茶会などひらいてはいない。後述するが、もっと大切な密談なのである。
 それなのに筆者は、宗叱と宗湛の二人だけを、旅館のように本能寺へ勝手に泊めてしまい、夜明け方明智の乱にあったという。
だったら、この二人や楠長庵は、全員玉砕だからヘリコプターでも使って脱出したのだろうか。
 
 しかも、生来、手癖が悪いのか、二人で共犯で床の間の勍や掛物を掻払ったということを、書き加えている。
 ふつう他家の他人の物を黙って持ち出してきたということは、あまり賞められたことではないから、事実そうであっても、こんなに堂々とは書かないものである。
処が、この場合は明白に「窃盗行為」の事実をしめしている。ということは、歴史屋である一面、書画骨董の鑑定をも営んでいる筆者が、前述した二品の書画に折紙をつけて、その市場価値を高めて謝礼を得る者に頼まれ、出所を権威づけようとして、信長の遺愛品として証明したさに、彼自身の都合で、六月一月を尤もらしく茶会にしてしまったり、
架空のフィクションをさも本当らしく舞文曲筆しているのではあるまいか。いくら宗湛や宗叱が泥棒にされたり、楠長庵を勝手に踊らせても、四世紀前の人間では、何処からも文句がこないからであろう。
 
 なにしろ、この筆者は歴史学者には惜しいくらい、小説家以上に創作能力があまりにも豊かにありすぎる。
 さて、この茶会が六月一日という彼の発想は、おそらく「忠臣蔵」からの借りものではなかろうかと想像できる。
 
「頃は元禄十五年、十二月十四日の赤穂浪士の討入」が、「吉良邸の茶会のあと」だったという連想から、「茶会、疲れでみな寝ている。夜明け前に討入り」というプロセスをかりて、
あわれ織田信長を吉良上野介と同じようにしてしまったのではなかろうか。
 明智日向守光秀が大石内蔵助役という、「まあ有りそうなことだ」「そうかもしれない」と錯覚を与えようとする、尤もらしい手口であるが、やはり気が咎めるとみえ、
 「……信長は、これだけ多くの名器を安土から京都まで運ばせ彼自身も、それを監視しながら天正十年五月晦日、本能寺に到着したのであった。
つまり嫡男信忠の率いる二千人の軍勢とは別に、また馬廻りの武士達とも離れ、彼が単独行動したには、このような名物披露の茶会を催すという事情があったからだ」
 と、しきりに弁解しているが、そうなると、「信長が、御一掃なさる目的」にて出京されたのは、生活に困って、名物の秘蔵の茶器を一掃して、
 「織田家御売立て、於本能寺」と、オークション・セールをしにきたことになってしまう。
 美術倶楽部とかお寺というのは、よく道具類の売立てのせり市に使われるから、その連想を伴って考えっいたのであろうか。
 歴史家の中でも唯物史観にたつ若い人は、よく勉強しているが、この筆者のような、尤もらしく書く人は悪質極まりない。

「織田信長が安土から出洛してきた五月二十九日」
 この日、京にいた徳川家康は穴山梅雪と共に堺へゆき、同日は、津田宗及の昼茶席に出ている。
 その夜は松井友閖邸へ泊り、翌日は堺衆の茶席が催されている。ということは、彼の説を採るならば、同時に二ヵ所で盛大に茶会か催されたことになる。
 ところが、千の利休が、秀吉の御抱え茶頭になったのは翌年天正十一年五月からであり、当時の信長の茶頭は、やはり堺衆で、皮革商武野紹疇の門下津田宗達の伜の宗及である。

それなのに、信長の茶頭役が、本職の信長の方の名物披露を放りっぱなしにして、堺の方で当日は家康接待の茶席を催している。こんな事が、有り得るのであろうか。
 そしてこの天正十年六月の頃は、まだ北向道陳の、流れをくむ利休の時代ではなく、武野派の油屋紹佐、茜屋宗佐、銭屋宗訥に、今井宗久の全盛期である。
だから宮内卿法印の官名をもつ堺の政所の友閑邸へ、六月一日、彼らは集まっていたのである。

 筆者の説によると、まるで徳川家康が信長に対抗して、同日に茶会を催していた事になるが、そんなことをしに、わざわざ信長へ献上の三千両を担いで出てきたのではない。
しかも案内役というか随行にあたって、安土から信長の近習の長谷川秀一がついてきている。信長が本能寺で名器披露の茶会をやるのに、何故同じ日に堺で同じようなことをやらせるか、とても常識では考えられはしない。
一流の茶匠の数は限定されていて、しかも当時は圧倒的に堺在住が多い。
 それなのに堺で同時開催というのは、これは明瞭に、信長への対抗であり妨害である。もちろん松井友閖も信長の家来である。どうして邪魔になるような事をするだろうか。
この歴史学者は、今日の神風タレントの掛け持ちでも考えたかも知れないか、その頃の交通機関では、京と堺間の、同じ昼問でのトンボ返りは無理である。

誤謬に対して同情的な解釈を加えるならば、この日、六月一日、日中大雨なのに、信長のいた本能時へ夥しい来客が在ったからであろう。
つまり、人がくればお茶を出したであろうから、それで 茶会といった連想をしたのかも知れない。 しかし、この日、集ってきた連中は、茶のみ話に来たのであろうか。
信頼すべき史料として、改めて、ときの権中納言の<言経記>の六月一日の日記から、その来客メンバーを列記してみる。(客は近衛一人ではない)

関白 藤原内基  太政大臣近衛前久

左大臣藤原内基(兼) 右大臣近衛信基

前関白九条兼孝  内大臣 近衛信基(兼)   前内大臣 二条昭実 

つまり宮廷における関白以下、 前職まで一人残らず揃っ ている。 次に、五摂家を筆頭に、
鷹司信房、聖護院道、今出川晴季、 徳大寺公維、 飛鳥井雅教、 四辻公遠、甘露寺経元、 西園寺実益、 三条西公国 久我季通、 高倉永相、 水無瀬兼成、持明院基 孝、予言経) 庭田黄門、 勧修寺豊、 正親町季秀 中山 親綱 烏丸光宣 広橋兼勝、 東坊城盛長、 五辻為仲、竹内 長治 花山院家雅、 万里小路充房、 冷泉為満、 西洞院時 通、四条隆昌、中山慶親、 土御門久脩、 六条有親、 飛鳥井 雅雜、 中御門宜光、唐橋在通。

これぞ堂上公卿のオール・メンバーである。筆者の言も、こ の中に加わっている。 間違いないところであろう。
つまり、上の御所とよばれた内裏から、この本能寺へ来ていな いのは、憚り多いが、主上とあとは中宮女御の婦人方だけであり、下の御所と称されていた二条御所から見えていないのも、
皇太子殿下の誠仁親王、及び皇弟殿下や、御皇族の方だけにすぎない。

<言経記> では、この人名を羅列したあとへもっていって、前述したように、
「数刻御雑談、茶子、 茶これあり、 大慶々々」と、結ばれ ている。
(茶菓子がでて、茶が出たから、これは信長名物の茶器の 披露の茶会であったろう。それで大慶至極と書かれているのだと推測するような粗雑な思考では困るが、
一刻とは 現在の二時間。つまり数刻といえば、これは五時間から六 時間である。 しかも当日は夕方まで雨である。
 平安朝のよ うな宮廷勢力の強かった時代なら、彼らは自家用車の牛車 にでも乗ってきたであろうが、この天正十年では、せいぜ 関白太政大臣クラスが、輿(こし)に乗ってきたくらいで、
あとは、まだ雨傘なんか発明されていなかったから、 蓑を着てきたものと思われる。


 だから茶会ぐらいのことなら、これは、「雨天順延」になるか、又は信長の方で、それ程見せたいものならば、宮中まで持参して、その一般公開をしている筈だ。
というのは、なんでも信長の真似をした秀吉でさえ、この三年後の天正十四年の正月には、自慢の折畳み式黄金茶室を見せたいばっかりに、禁中へ運んで、これで茶会を催している事実が在る。
だから、この六月一日の本能寺は、接待用に、茶は出しているが、茶会とか、五十人余りのティー・パーティでないことは、はっきり言えると想う。
 
その例証として、<言経卿記>の六月一日の頭初に、
         
「前右府へ礼二罷向了(まかりむかわれ)、見参也。進物者被返了(しんもつはかえされる)、参会衆者……」
 というのが、メンバーの列記の前に入っている。これを岩波書店版の〈大日本古記録〉では(東京大学史料編纂所)が、
 「廷臣ラ信長ノ館二列参シテ、ソノ上洛ヲ賀ス。進物ハ受ケズ」
 と欄外に注釈を施しているが、これは、どういう意味による解釈であろうか、すらっと読めば気がつかないが、ゆっくり読んでは、私ごとき頭の悪い者にはまるで、この注釈では判らないのである。

 つまり前日の〈二十九日、丙戌〉の項に、
「一、前右府、御上洛了る。
 一、御局御出了、軈而御帰了(やがておかえりになる)。
           
 一、毘沙門堂ヨリ、入夜愛州薬所望、遣了。
 
 一 (約十行分空白)」

 と、あるからには、もし「信長の上洛祝賀」ならば、彼によって四月前から、太政大臣にして貰っていた近衛前久達の信長派だけでも、前日の二十九日に、つまり出京してきた日の内に、本能寺へ挨拶にゆくべきである。
 それなのに同日は行っていない。五月は二十九日が月末だから、晦日(みそか)で忙くてゆくことができなかったと、いうのでもあろうか。
 でなければ、みな協議しあって、御所の中で回覧板でも廻して、翌六月一日に、何処かで集合して、宮中の全員が一堂に集まり、そこから雨の中をてくてくと、本能寺へ行ったのであろうか。     
 まあ四百年前の人間のやる事だから、今と違って、のんびりしていたろうから、それも良しとしても、見逃してはならない大変なのが、
「・・・・・進物者被返了」の一行の記録である。


 せっかく雨に濡れて持って行った進物である。勿論たいした物ではなかったろうが「気は心」ともいうし、これは受取ってやるのが礼儀だし、人情というものだろう。
それを、みな突き返したということは、何を意味するのだろうか。これでは「賀」にはならなかろう。
 もしも、これが茶会だったら、たとえ半紙一枚を色代にもってきても、これは有難く受けとるのか作法というものである。だから、茶会なんてものではない。
といって、東大史料編纂所説みたいに「列参シテ信長ノ上洛ヲ賀シニ」きたものなら、その進物を断るのは、賀しにきたのを拒絶したことになってしまって、
「その説明」は、到底ここではなりかたない。成立は不可能である。

「お公卿さんは貧乏だから、気の毒がって信長が『好意だけで結構です』と受取らずに歓談して帰したのだ」とある歴史屋の珍説もある。あまりに愚劣すぎて、これは書名をあげる気もしない。

 「前右府」と信長の名称が一般に使われているが、彼は天正四年末に内大臣になり、翌年十一月に藤原一門の二条昭実にそれを譲り、右大臣になった。しかし、またその翌年の天正六年四月限りで、これも僅か五ヵ月で辞任している。

 といって、クビになったのではない。信長の方で止めて しまったのだ。だから、何んとか思い直してほしいと、主 上も思召されて、天正六年は、
その四月から十二月まで、右府のポストは空けたまま待って居られた。
 だから信長の方で、また二条昭実を天正七年の正月には右府につけて逃げてしまった。よく小説では、信長のことを「右府」とか「前右府」というが、正味、ほんの半年も彼はやっていない。
 
つまり天正十年六月の信長は、すでに四年半前から宮廷の官位を自分から投げ出して、民間人になっていたのである。
だから、雨の中を、ぞろぞろやってきた連中は、正規にいえば、みな身分や官位の高い、目上の者だちということになる。それなのに、その進物を拒絶するというのは、こんな非礼な沙汰はない。
これでは、まるで喧嘩である。 もし公卿衆が貧しくて気の毒だというのなら、それ迄の信長の慣習通りに、たとえ末広(扇子)の一本でも快く納めてやって、帰り際に、応分以上の銀一枚でもくれてやるべきだと想う。
 これ迄でも信長は何かを怜好だけ貰い、お返しとして、そうしていた。彼が気前よく金銀を撒いて居ったからこそ、信長派という堂上公卿の集団があったのである。

【注】信長は平安時代、藤原氏から続く中国大陸の血を引く朝廷勢力の官位を徹底して嫌ったこれは証拠である。
   何の官位も無いまま事実上の天下人として「安土城で」君臨し、本能寺で爆殺される。信長が生きていれば、
   毛利は何れ滅亡し、九州、四国も東北の伊達も軍門に下ったろう。その時信長はおそらく海洋民族の慣習通り「征夷代将軍」は受けただろう。