茶の湯は死の儀式
 
      【千利休】
  
  千利休は誤り、本当は千宗易が正しい
 
千利休(1522~1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。
 
「千」の姓は、先住民族の「先」をとったものである。今でも出雲大社や隠岐の神主の苗字になっている。「安来千軒」というのも数多く家があったというのではなく、先住民地帯を指すのである。さて文禄四年八月と言えば、追捕を怖れて逃げ隠れしていた千少庵とて五十歳である。そして利休と今では呼ばれる宗易が殺された時は四十三歳。なのに柴野大徳寺を訪れ仙岳宗洞に対して、「利休とは何どっしゃろ」と質問。それに「あんさんの親父のことやないか」と答えたのが尤もらしく「利休号頌」の一輔となって裏千家の宝物として現存。
 
またそれから十年後に、秀吉が死んだのでほっとして宗易の実の倅の道安が、飛騨の高山から戻ってきて、やはり春屋宗園を訪れて、彼に同じように不思議そうに、「いったい利休とは何や」と聞きに行ったと國學院派の茶道具歴史の大先生は<一黙稿>なる本に入っている話しだから真実なりと説明する。
 
しかし、ともに四十三歳の時まで父とは一緒だった腹違いの二人の倅共でさえ知らなかった利休名は、とても生前の天正十九年までは実在しなかったものと見るしかなかろう。つまり「利休の手紙」等という本もあるが、手作りつまり贋作ものと見るべきだが私が読売新聞の連載や「茶の湯は死の儀式」で明白にしてから、道具やさんに出回っている昨今の物は「休」一字署名のものが多くなってきた。というのは生前の宗易夫妻と親交のあった吉田神道の神祇大副だった兼見の日記にも、皆彼の事を「理休」としているゆえ、利休署名は作り物だと証明されたからであるらしい。
 
それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。
 それなのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。
 
利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。つまり、世界に比類なき宗教的とも言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。
 
 
 
 現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。
   堺は特殊部落だった
 
 堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていいたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊部落の土地だった。
 
さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。
 
 堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。
 利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。
 信長の出現で世の中は変わった
 
近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。が、限定職業の皮革業や魚屋、染料屋、鋳物屋の堺では、信長がヤ衆に商売を限定し、ヤ号をつけさせ、近江屋、尾張屋とさせているのが判明すると、自分らも元来はヤ衆だからと妥協した。
 
 信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろう。
 
信長が死に秀吉の代になると、利休こと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。
 
   わび、さびの意味
 
堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。(現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である)
 
なにしろ戦国の世である。かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、
 「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。だから眼前の青茶を見て(銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ)と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。
 
 亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。ただ忠誠心をテストする試験だからである。さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。
 
  伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。
信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。
 
  秀吉は天皇になろうとした
「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。
 しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われた秘話は「真書太閤記」「秀吉と女たち」に詳細。
 秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。
 だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻をを考えた。
 【補記】
 秀吉の野望は自分が天皇になって、豊臣天皇として新皇統確立を目指したものと思われる。公家とは元々が大陸からの征服者の系統だから、大陸に帰ってもらう。だから朝鮮は通り道としただけで、占領する計画は無かったと思われる。侵略を美化したり正当化するつもりはないが、世に征韓の役と言われるものの実体はこうなのである。秀吉はライバルであった明智光秀が、信長の急死の後、征夷大將軍の勅をかしこき当たりから貰っていたという事実があったので、その後塵を拝すのを嫌って「それならわしは天皇になったる」となったのだろう。
 
大陸系の公家連中を排除するのに、なにも大陸進攻までしないで、隠岐や対馬へ島流しにすれば済むようなものだが、大明国突入という無謀な戦争を起こした事は失敗である。しかし秀吉も日本原住民系の出身だから、占領され、奴隷化されていた民族の復仇戦と見れば頷けるものがある。
 
「帝には北京を中心に四カ国、公家の連中にも向こうで一国ずつ進上し、日本は秀吉の国となす」と遠大な計画をたてた。
 さてそうなると、後顧の憂いを取り除き挙国一致体制をとる必要が出てきた。その為に先ず叛乱防止のために刀狩りと称し、密告制をとって庶民の武器を没収した。さて、五世紀から七世紀にかけて大陸から進攻してきた連中が、白人がキリスト教をもって有色人地帯を押さえたように、西方極楽浄土の教えを持ち込んだのに対し、日本列島の原住民どもはこぞって次々と反抗した。
 
山中や離島へ逃げ込んだ彼らの子孫が、足利期にできた被区別地の末裔と一つになった。アメリカで南北戦争の後、解放奴隷のアフリカ人が追われてインデアン居留地へ逃げ込み合体したのと同じ事である。そして、「山がつ」と呼ばれる山者はウメガイとよぶ彼らの山刀を「ささら」といわれる竹細工の箕の直しも、青竹割の刃物を商売道具として、秀吉の命令を聞かず手放さなかった。
 
 さらに、京の周辺の桂や白川の者らも堺の者と共闘体勢までとりだした。「これでは従来の古ぼけた御所の代わりに建てた聚楽第さえ、大陸遠征の留守の間に奪われかねぬ」と秀吉は、まず堺衆の山上宗二が八瀬大原の者らと結託していると聞き、召し捕って拷問にかけ「しゃつら見るだに憎々しい」と耳をそぎ、鼻を削った生首を見せしめに堺のえびす口の門へさらさせた。
 つまり利休こと宗易が、かねて竹細工の道具や瀬戸のカトウ衆の同信心の者らに焼かせている黒碗を、彼が高値で売り捌いているのは、彼らの軍資金集めのためと密告があったからである。
 
 通俗歴史は、秀吉が利休の娘に惚れたのに拒まれたから殺したと説明し、その「お吟さま」で直木賞を取った人もいる。
 しかし彼女は未亡人ではなく万代屋新太郎宗安という、れっきとした夫と四人の子も居たのである。少女趣味というか十代の若い娘が好みであった秀吉が、四十に近い女への横恋慕はおかしい。今も昔も男の好みはそうそう変わるものではない。
  資力や人望からみても、利休こと宗易が反乱軍に担がれるものと秀吉は見たから殺したのだし、妻の宗恩が蛇責めの拷問で死んだのも、今で言う地下組織を白状させようためではなかったかと「利休殺しの雨が降る」に私が書いたのは、当時の伊達家の「鈴木文書」に、「戻橋に八付にされる」の一行を見つけたからである。それで徹底的に調べだした。
 
張付と呼ぶ死刑方法は信長がキリストの画を見て、始めて真似させたものだが、手首や脚は荒縄で縛っての刺殺だった。ところが秀吉の代になって寺側から政治献金を受け取り出すと、反仏教系のヤ衆とかハチと呼ぶ日本原住民系の処罰には、手足を縛らずに太釘で打ち付ける残酷な方法を始めた。これを八付とよんだ。
 木像とはいえ釘を打ち付け曝したというのは、秀吉が彼を原住民子孫の過激派とみなした証拠である。茶湯開祖として温厚なワビスキの利休居士は後年の儲けんがための者らの作為で、実像はレジスタンスの指導者だったらしい。大陸遠征準備に新開発のチリ-硝石入手のため呂宋へ助左を派遣したものの失敗した秀吉は、従来通り島原の口の津で硝石輸入をする必要上、交換輸出に原住民系の人間狩りを徹底的にやったらしく、それへの反撥が日本原住民系の神祗の連中の不穏な形勢になったらしい。でないと、ここの辻つまが合わない。
 
 座頭市の墓まで建てる歴史音痴の日本人
 
寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。
  仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。
  
 茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。
  よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。
  足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。
 
    茶の湯の起源は博打だった 
 
が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。
  
 つまり茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。
 
    裏千家の大恩人吉良上野介  
 
 吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。
  
 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、 「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。
  
 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。
 以前、英国王エリザベス女王が国賓として来日したが、接待で野点の茶を演出した際、飲むふりをしただけで、茶は飲まなかったという。
 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。
 
 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。
  幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。
 また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。<野史辞典>には、サカイ人なるものの別個の研究すらもでている。

 

織田信長の出自
 
 
  信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。
 天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。
 
  そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。
 そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、 彼だけの武勇知略ではない。
 
  <天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。
 
  「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。
 これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。
 
  「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。
 つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。
 
  だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。
 
  大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、 彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。
 
  (こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)
 
  という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元が なにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈であるし、それが戦国の常識である。
 
だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。
 
 なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、 信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。
 
 これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。
 
だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼ら信長の近習を匿っていた。
 だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。
 だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。
 
  さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、秀吉の妻、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、 永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。
 が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。
 
毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、 井之口城を占領した。
 
岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、
 木下籐吉郎が防いだだけの話しである。
 
  こんな事も歴史屋共は判らなく、講談の儘なのが現状である。
 明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、
 家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。
  有体は史学会の歴史屋共が、徳川慶喜に金を貰って嘘と知りつつ買収されたのである。
 その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。
 
  余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。
 それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、 八の民が進んで協力したからである。
 
  播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、 今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。
 この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。
 関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに 山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。
 
此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。
 つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、
 愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。
 
現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。
 彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。
 
神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。
 一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。
 
  だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。
 どうも信長は初めの内は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。
  しかし本能寺で爆死する数年前辺りからは、マカオの火薬を一手に入手し、「八」の民の大同団結を図り、 天の朝の復活を目指して日本統一の計画があったふしも窺える。
 
というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、
 信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。
 つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。
 「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。
 
また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。
 まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。
 
永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史にる。
 
従来この矢銭の解明が出来ず、(弓矢の矢代=軍費のこと)
 (屋銭と解釈して=棟別銭)の二通りの分け方がされている。
 
  しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭(やせん)」となっている。だからこれは、八族である原住系が、
 (これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金)として強制徴収したものらしい。
 
この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。
 だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。
 
  秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような 田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾なのである。
 
 

 

イロハ歌留多の解説。
 「札高し、愛宕さんには月詣り」
 
 これは関西に広まった歌留多で、その意味としては以下に記す。
昭和になってから映画が盛んになり、中でも時代劇が全盛で、多くの男優が綺羅星の如く活躍したが、中で小林重四郎は映画「国定忠治」の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。歌う映画スターのはしりとなった。
 
 そして「飴屋の唄」として江戸時代には良く歌われていたこの唄を劇中で復活させ、
「伊勢にゃ七度、熊野にゃ三度、愛宕様には、さあ月詣り」と
頭上に棒つきの飴を並べ、小太鼓打っての唄で、レコード化され、当時は大いにこの唄は流行した。
 しかしその歌の意味の事実は全く伝わっていない。
テレビの大岡政談などで、「年に一割八分までが、お上の法定利子だ」などと真面目くさって越前守の台詞があったが、あれはとんでもない間違いである。
 
 
 時代考証の人間も、脚本家も、ましてや現場のプロジューサーも全くの歴史音痴だからこんなとんでもない間違いを平気で犯す。
江戸時代には、現代のような「利息制限法」のような法律は無く、施行されたのは明治になってからである。
井原西鶴や近松門左衛門ものには「死に二倍」「死に三倍」といったものも書き残されている。
これの意味は、江戸時代商家の道楽息子が、
「親父が死んで自分が跡目を継いだ節には、二倍にして返すとか三倍にして戻す」という博打のようなものだが、江戸のようにその日暮しの貧乏人が多い庶民の間では「鳥金」ていって、夜が明けて鳥が鳴き、やがて鳥が飛んでいく午前十時から昼までには返金するという約束が定まっていた。
 つまり元金が倍々と跳ね上がって行くのだから、十日で一割などといった生易しいものでなく、連日午前から昼までに返さなければ、一日十割で一ヶ月滞納すれば元金は三百倍に、これは複利計算でなくてもなってしまう。
 これではとても払えないから仕方なく娘を吉原の女郎にでも売るはめになってしまう。
 
そもそも金融業というのは、一般からは年五分ぐらいで預かって、それを7分、八分の効率の良い処に貸しての
利鞘稼ぎだから、銀行やサラ金の無かった江戸時代は、こうした過酷な利息がまかり通っていた。
 
 それに担保にしたくても、肝心な土地というものは、これ全て徳川家の物だった。これの例証として、
三田村鳶魚の時代考証では、質屋とか札差は、隅田川向こうの新地にある弾左衛門家を「親質」にして
大名でも借金する際は、大名の領内で収穫される米の引取り受取書を持っていって金を借りたとある。
しかし庶民は、盲人金融の座当金というものを借りたり、更に一般の商店では信心借りといって、熊野神社や伊勢神宮で借りていて、これは同じ信心の者にだけ便宜が図られていたのである。
 だから熊野さんには年に三回だけ期日前に利息を納めれば良かったし、お伊勢さんには、
閏月も計算されるから、年に七回つまり隔月も利息の奉納だけで済んだ。
処が吉田神道だけは、ここは朝鮮系の神社だから厳しかったのである。
 そしてこうした金融制度は戦国時代から続いていて、織田信長は配下の武将に「播磨を攻めよ」と
命令した場合、軍資金は全く出さず、命令を受けた武将は攻め取ったその土地から略奪するため、それまでの諸掛軍費は借金して出征したのである。
 次の秀吉となると、出征費は派遣軍に出されるようになった。
さらに徳川家康は、出すには出してやったがケチで証文を取って、後で返済させていたものである。
それゆえ、先の信長時代には出征の費用が賄える秀吉のような金策の上手い者が立身出世できた。
 そうでない者は、一ヶ月の期限付きでしか貸さない銀を借りるために、勝軍地蔵も祭ってある、
愛宕山へやむなく借銀に登山したのである。
勿論この山には吉田神道の貸し出し用の銀や銭は山と積んであったが、即座に貸し付けては有り難味が無いと、金の掛からぬ接待として「連歌」の席を設けて、勿体をつけて待たせたのである。
 だから信長殺しと間違えられている明智光秀も、信長に毛利攻めを言いつけられていた秀吉の
応援のため、備中へ向かう途中で愛宕山へ登り、金策している。
 ここで詠んだ有名な連歌が「時は今雨が下知る皐月かな」である。
 
 
 「連絡(つなぎ)は、三つ葉の 枯れアオイ」
この歌はサンカ族に使われている。
現在「三つ葉葵」の紋所と言えば、テレビの「水戸黄門」が有名で、助さんが、一話が終わる三分ぐらい前に必ずといって良い定番の見せ場の立ち回りをやった後で突き出す印籠の紋所で、
「これなるお方をどなたと心得おるか。畏れ多くも天下の副将軍水戸光圀公であらせられるぞ、
 一同の者、頭が高い」と一喝する際の小道具で有名である。
この映画は最初、日活映画の撮影所が向島にあって、老齢となった山本喜一が、どうしても役者を続けたくて、当時の二枚目のスター河部五郎を助さん役に使って自分が水戸黄門役を演じたのが初めなのである。
 
 その後月形龍之介、東野英治郎、西村昇、佐野浅夫、石坂浩二、里見浩太郎と続く。
そして綿々と同じパターンの繰返しで、視聴者はよくも飽きないものと感嘆するが、これは後段で触れるが葵の紋に関係が有るらしい。
 
さて、水戸光圀の時代、水戸家は権中納言だったのが本当のところ。
光圀は元和八年に実子を額田藩に二万石分与して水戸藩は二十五万石になった。
しかし徳川綱吉の子で養嗣子として水戸家を継いだ綱条が、隠居した光圀を虐待した褒美として七万石加増される。
 ついで額田藩も光圀の子を始末(毒殺)して統合して三十五万石となったのである。
しかし副将軍などという制度は徳川体制では実際に存在しない。
実際は五代将軍に綱吉を立てる際、光圀と時の大老酒井が反対した。
その結果、綱吉が将軍になると、光圀は閉門処分となり、水戸に返され、当時の特殊地帯西山部落に閉じ込められて、ここで生涯を終えることになる。
 なにしろ、光圀は、サンカ葵族出身の徳川家康の血を引く直曾孫である。
即ち生粋のサンカ族で、綱吉というのは朝鮮(百済)系、済州島生まれの女於玉の腹より生まれている。
だから将軍綱吉に虐待されたことに同情して、もし諸国を気楽に旅でもして・・・・といった想いが
大正時代の立川文庫の「水戸黄門漫遊記」に書かれ、大いにこれは売れた。そして映画にもなったのである。
  東野英治郎がテレビドラマの主役だった頃、東映撮影所の小道具部屋が火事になったことがあって、
この時、撮影所には連日「三つ葉葵の紋は大丈夫だったか、助かったか」という問い合わせの電話が殺到したという逸話が残っている。
 これの意味するところは、現代にもサンカ系(日本原住民系)民族の末裔が多く暮らしている証拠である。
 

辻に立っている高札とは何だったのか??

 『文をやるには書く手をもたぬ』
 サンカが伝えたというコトツ(口頭、口伝え)の意味は・・・・・・・・
 現在、テレビの時代劇で、江戸の街中で瓦版売りが登場し、まるで現代の新聞の号外のような
設定で辻ごとに立ち売りしている様子を放映している。
そしてその瓦版なるものを庶民共が群がって銭を払って購入している。
 しかし、当時一般庶民は文字など書けもしないし、読めもしなかったのである。
だから瓦版などを買う訳がないのである。
現代では誰もが義務教育制度のため、読み書きの出来ない人間はおよそ居ない。
だから昔もそうだと思い込んでいて、テレビを見て誰もが不思議にも思わないし、疑問も感じない。
文政時代の実際の瓦版を見たことがあるが、現代の人間にはとても読みこなせはしない。
 また江戸時代は貸本が流行っていて、庶民には人気があった黄表紙本となると「読み本」
と呼ばれるだけに、もっと字が混み合っていて、文字の読める者でも、果たして読み通す事が
出来るかと自信が持てないから、文字の読める者に読んでもらったり、料金は十日で二十文
だったから、何人もの仲間とぐるぐる廻しにして読んだものなのである。
   だからここに「将門記」、筆記者柳亭徳枡の文政版の本のコピーを掲載するので
読めたら読んでみるのも一興である。
 さて、江戸も幕末に近い文化文政時代となると、大衆読物の黄表紙本は何版と出て、
おおいに読まれたが、崩し文字の文章で、当時の"文を書く手"を持つくらいの人には
読めたとしても、現代人では一行も読めはせぬ。
 
 
 書道をやっていて草書に堪能な人でもなくては、一般ではとても読めない。
つまり貸本として出回った黄表紙のベストセラーが「春本壇ノ浦合戦」とか「女忠臣蔵」といった
ポルノ本だったのも、これだけ読み難いものを、借り賃を払ってまでも首っぴきで懸命に
かじりつかせるには、やはりそれなりの、意味深長な内容があるせいだろう。
 神田神保町の紀陽銀行の先に古書店の源喜堂があるが、ここには江戸時代の貸本類が
積んであるから一見をお勧めする。
 
 
   さて、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」ときたら、他の同種の物はポルノばかりなのに、
道中に宿場があり、飯盛り女郎が次々に客を引いていたのに、壮年のヤジキタが何故か
酒も飲まず、女にも触れずに旅をしている、全く面白くもない読物なのに、何故に大流行した
のかという疑問が残る。これが明治維新の原動力となったのである。
 徳川幕府の政治的立場というのは、源氏と平氏が団結して徳川に反乱するのを怖れ、
中華思想の夷をもって夷を制する、これを真似て、源氏と平氏を交互に組み入れ、互いに
反目させあっていたのが実際のところなのである。
 喜多(キタ)、つまり北へ北へと追いやられていた騎馬民族系の、民族色は白で、動物の四本足から
とって四っと呼ばれる民族と、七世紀からアラブ方面から黒潮に乗って逃れてきた、海洋渡来系の
 弥次(ヤジ)、民族色は赤の平氏、この二大民族の相互牽制政策である。
 東の江戸には四っの弾佐衛門側と、西の八っの水上の隠坊側を、日本各地で双方を
睨み合わせ噛み付かせていたのを、双方を代表するヤジとキタが一緒に仲良く旅をする・・・・・・
 というそれまでには考えられもしなかった世直し(革命)の読物のおかげで、やがて明治の御一新に
なるのだから、たいしたものである。
 十返舎一九にヤジキタのストーリーを考えて書かせた陰の演出者は誰だったのか判らずじまい
であるが、恐らく薩、長、土の誰かであろうが、当時の日本人には実に飛び抜けて頭の良い
策士がいたものであると感心する。
 
 
   さて、京等寺院の足利尊氏の木像の首をはねたのに、付けられていた立て札や、
安政の大獄の仕返しに、髪結いや呉服屋の手代たちまで贈収賄罪で捕らえて斬首させた
目明しや、井伊大老の為に働いた村山こうを、捕らえて私刑にして始末した死体に
添え立てかけた斬奸状こそが、本物の高札なのである。
 
 
 テレビでは、奉行所などのオカミは高いところからから命令するものと解釈して、だからこれを
高札としてしてしまい、製作小道具部に作らせて、画面に放映している。
そして時代考証○○と権威付けているが全く何も判ってない輩である。
 
 
  しかし考えてもみるがいい。明治維新後に諸政一新のため、義務教育制度が出来るまでは、
テレビのように寺子屋などに義務教育でもないのに、子供を通わせるような家は、表通りの
大店ぐらいのものだったのである。
 
 
   文化文政の幕末近くになってコウゾの製紙原料を石臼で引き、マスプロ化されて、
美濃武儀川で開発されてから、紙の値段がぐっと安くなった。
 それでも「日本紙業史」によれば、文政七年の相場では「美濃半紙一帖四百二十文」
と出ている。一帖は二十枚だから一枚の単価は二十一文となる。

江戸時代二八そばというようにそばが拾六文だから半紙一枚分にもならない。
なのに高価な白紙を積んでいろはを書かせるような勿体無いことを日銭暮らしの庶民が
出来る訳はない。
 
 
   昭和三十年ごろでさえ、小学校の習字の時間は、習字用の白紙は高いので、練習用には
古新聞を使っていたものである。
つまり江戸幕府の政策として「民は由らしむべし、知らしむべからず」だったから、お上が
  町人達に読めもしない角ばった漢字で布告などする筈がないのである。
 つまり、今言う高札とは、奉行所の役人は読めるので、逆に過激派の不逞浪士の中で
筆の立つ者がいて、それが書いて立てたものが高札なのである。