今回は、東洋の踊り子・伊吹千夏さんの五周年作「麗しの桜」について、「葵の上(源氏物語)とセクシャル・バイオレンス」という題名で観劇レポートさせて頂きます。変な題名と思うでしょうが、とりあえず読んでみて下さい。

 

 

H27年12月中の渋谷道頓堀劇場は、香坂玲来さんの引退週で盛り上がっている。玲来さんがこれまでの作品を次々と披露し、合わせて六花ましろさんとの最後のチームショー「ハモンセラーノ」も演ずる。今週の香盤は次の通り。①伊吹千夏(東洋)、②JUN(西川口)、③川中理紗子(道劇)、④浅葱アゲハ(フリー)、⑤六花ましろ(道劇)、⑥香坂玲来(道劇)〔敬称略〕。メンバーも良く、私は5日間通う。

 

H27年12月14日、渋谷道頓堀劇場で初めて千夏さんの五周年作を拝見。

先週、大阪東洋で五周年を迎えていたが行けなかったので、今週渋谷での再会を楽しみにしていた。「わぁ~久しぶりに会えて嬉しいな。怪我して三カ月もお休みしてしまった。なんとか戻ってこれたよ。」私とは約半年ぶりになった。

持病の首で長期間休養していたのを知っていたので心配していたが、無事復帰してくれて嬉しい。今回の作品は激しい踊りは無いのであまり首に負担がかからなさそう・・!?

 

さて、さっそく五周年作「麗しの桜」を紹介しよう。

最初に厳かな音楽とともに台詞が流れ、紫式部の源氏物語のことに触れる。場面が平安時代の貴族が背景であることが分かる。

舞台の上に、たくさんの鶴の絵が描かれた絢爛豪華な着物が簾のように掛けられている。まるで屏風絵のよう。

そこに白い貴族の衣装を着て登場。白地の衣装に、腰にキラキラした濃紺の帯を巻く。なにより髪飾りが豪華。輝く銀の王冠のような簪(かんざし)から後ろに長い銀の簾が流れる。耳の後ろに青い垂れ糸が揺れる。

桜の花を付けた長い枝を振りながら、白足袋で優雅に舞う。

次に、その白い衣装を脱ぐと、エナメル系の黒い着物姿に。黄緑の帯が鮮やか。着物の後ろはたくさんの鮮やかな色模様の布が縫い付けられている。片方の肩を曝け出しつつ演ずる。

最後に、華やかな白い着物姿になる。白地に、ピンク・赤・白・青・黒の花柄がきれいに散りばめられている。着物の裏地は鮮やかな青。

髪が驚くほどロングになっている。腰まであるかな。そのままベッドへ。

 

今回は、いつものように激しいダンスで押すのではなく、妖艶さに酔わせる。流し目が鋭い。

「葵の上(18)ヴァージンです。光源氏さまは今夜来てくれるかしら・・・」とのコメント。

正直、この作品には、女性の美しさというより、むしろ光源氏のもつ男性の凛々しさみたいなものを強く感じた。そして、何度も観ているうちにSMちっくなセクシャル・バイオレンスを意識するようになる。

 実は、OPショーで、千夏さんがある客の顔になんども足の裏を押し付けるシーンを見た。その客は完全なM男くんで顔を歪ませながらも恍惚とした表情を浮かべた。周りの客が面白がる。私のスト仲間のHさんもOPショーでチップをあげて千夏さんに顔を叩いてもらって喜んでいる。私にはそういう気が無いので頼まないが、M気のある男性には千夏さんのような女王様タイプにかまってもらうのはたまらないのだろう。

 千夏さんはどうやって客のM気を見つけるのかな? ポラ時や手紙なんかで客に直接お願いされるのかな?それともポラ時の雰囲気で自分から嗅ぎ分けるのかな? また、それに応えるところが凄いことだと思う。

 前に、千夏さんはお尻で語れる踊り子さんだと評したことがある。たしかに、千夏さんの小股の切れ上がったお尻で頬をペンペンされると悶絶して失神するだろう(笑)。千夏さんには男たちをひれ伏させる妖艶さがある。それこそセクシャル・バイオレンスなのだ。

 ステージの最後に糸リボンを投げるが、まるで蜘蛛の巣で男たちを絡めとるみたい(笑)。

 

 話を源氏物語の「葵の上」に移す。

 源氏物語の冒頭で、光源氏は12歳で元服をしてすぐに結婚する。その相手が四歳年上の「葵の上」。彼女は朝廷の重職にあった左大臣の娘。源氏より身分が上のせいか、すごくお高くとまった女。器量も良く、大切に育てられた上品な深窓の人でしたが、お互いに、何となくそりが合わない第一印象を抱いてしまい、その想いがずっと続いた。

 紫式部は、葵の上を綺麗だが気の強いどちらかと云えば嫌な女と位置付けていたようだ。光源氏の女性放浪を物語として成立させるにも好都合だったのでしょう。

 葵の上は光源氏の浮気性について当然知っていたでしょうが、嫌なことがあってもそれを表に出さないところに凛としたものを感ずる。先に私が、今回の周年作で女性の美しさより男性のような凛々しさを感ずるというところに通じます。

 四歳年上の葵の上は、本当は自分より幼い光源氏を手のひらで転がすことができたはず。セクシャル・バイオレンスでもって光源氏をM男に導くことができたはず。若々しい端正な光源氏の顔を足で踏みつけ、ときに顔面騎乗してあげればどんなに喜んだことでしょう。千夏さんのステージを観ながら、ずっとそんな妄想をして楽しんでました。(笑、失礼!)

 実際の物語では、光源氏に遊ばれ捨てられた六条御息所の女が正妻の座にいた葵の上に呪いをかけて、葵の上は病床に伏す。光源氏は自分のせいでやつれていく葵の上を愛おしく想い、二人のわだかまりは解け始める。そして葵の上は懐妊し光源氏の子/夕霧を産む。なんと結婚して10年後のこと。ところが産後様態が急変し帰らぬ人になる。葵の上にはもっと幸せになってほしかったなと思うのは私だけではないでしょう。

 あぁ~葵の上にセクシャル・バイオレンスがあったなら・・・

 

 

平成27年12月                               渋谷道劇にて

 

 

 

【おまけ】なぜハーマイオニーはハリーではなくロンを選んだのか?

 

 清水愛さんの演目「Harry Potter」を機に、映画シリーズをまとめて観た。少し遅れたが、H30年GWはハリーポッター漬けになった。

 ちょうど大阪東洋に行くと定宿にしているDVD試写室「I love video&DVDてんじんばし」にハリーポッター・シリーズが揃っていた。全八巻のうち最初の1~4巻と7巻の計五巻があったので4巻まで観た後に、天満のTSUTAYAに行って残りを借りて一気に観た。

 正直言えば、途中でだれてくる時もあった。長いのと登場人物が多すぎて途中で頭の整理がつかなくなる。家族でハリーポッターの映画を観に行って途中で居眠りして子供たちに非難を浴びたのをふと思い出す(笑)。まぁ今回は気合いを入れて拝見した。というか、只今、二回目を観ようとしている。しかも、7→8→6→5→4→3→2→1という逆の順で。

 私は7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝part1』が一番好きになった。ハリーがロンとハーマイオニーの三人で死の秘宝の分霊箱を探す旅に出かけるところ。この場面が長すぎるという人もいるが、逆に私はこの場面を丁寧に映像化してくれて嬉しかった。ロンがハリーのやり方に疑問と不満を持ち出して、かつ嫉妬心からハリーとハーマイオニーの間を疑い、一緒の旅から途中離脱する。三人の心の揺れや葛藤が見事に描かれている。

 ロンが抜けたテントの中で、落ち込むハーマイオニーを元気付けようと、ラジオの音楽に合わせて、ハリーがハーマイオニーをダンスに誘うシーンがある。ハリーとハーマイオニーはダンスで抱き合いながら、このままくっついてしまうのかと思ったほど。しかし、ハリーはハーマイオニーが親友ロンのことを好きなのを知っているから、決して手を出さない。ここで手を出したら、ファンタジーではない泥臭い展開になってしまうもんね。

 

 それにしても、ハリーポッター・シリーズを通して、私が‘最大の謎’だと思ったのが「なぜハーマイオニーはハリーではなくロンを選んだのか?」だった。

 誰が見ても、ハーマイオニーにはロンよりハリーの方がお似合いだ。

 ハーマイオニーは賢くて強い女である。

 ハリーは強い男で勇敢である。当然、ハーマイオニーは一人の男性としてハリーの魅力に惹かれたはずである。しかし、ハリーは両親の仇であるヴォルデモート卿と戦う運命にある。そのためハリーは自分の死を予見していた。そんな自分の運命に最愛のハーマイオニーを巻き込みたくないと思ったのではないかな。ヴォルデモート卿を倒すまでは協力してもらいたいが、自分の死のショックを引きずってほしくないと考えたのかもしれない。そうした心の壁がハーマイオニーの恋心を跳ね付けたとも考えられる。

 一方、ハリーに比べて、ロンは弱い男である。生きてるクモを怖がる小心者。ウィーズリー家の六男であり、兄たちが全員優秀なためひけ目を感じていた。そんな彼も、ハリーたちと行動を共にしながら成長していき、5巻では監督生にもなっていく。それでもハリーに比べれば見劣りする。なぜにハーマイオニ―はロンに惹かれていくのか?

 ハーマイオニーのように強い女は、ロンのような弱い男を放っておけないのである。つまり、ロンの弱さが最大の魅力なのである。彼の言動ひとつひとつに寂しさと弱さが潜んでおり、女性の中に眠る、「守りたい」「助けたい」という本能を刺激する。彼の女神になりたいと、本能が騒ぐのです。幸せになれるかどうかは別として、ね。

 

 原作者のローリングは、2007年に小説『ハリー・ポッターと死の秘宝』でシリーズを一旦完結させたのだが、2016年に本編の後日談を描いた事実上のハリー・ポッターシリーズの最終巻(または完結巻)『ハリー・ポッターと呪いの子』が発売された。

 この本の冒頭は、『ハリー・ポッターと死の秘宝』のエピローグとして19年後が語られたシーンから始まる。ハリーとジニーの子供たち、ロンとハーマイオニーの子供たちが登場していて微笑ましい。そしてハリーの次男であるアルバス・セブルス・ポッターがホグワーツ魔法学校に入学する展開となる。当然に彼がハリーと同じく主役になるのかと思い気や、なんと本作の主人公はハリーの敵役だったドラコ・マルフォイの息子スコーピウス・天使・マルフォイなのに驚く。次男アルバスは影が薄い。もし彼がハリーとハーマイオニーの子供であればもっと強いのになぁと思っちゃう(笑)。

 この作品のモチーフは「逆転時計」にある。この逆転時計を使うことによって過去の事実を変えて「もしも」の仮想世界を見せてくれる。そのひとつが、ロンがハーマイオニーではなくパドマ・パチルと結婚していること。ハーマイオ二―がなんかすごくキツい独身女教師になっている設定。彼女のガリ勉頑固な強い女さが完全に裏目に出まくった人生を送っているわけ。これには我ながら拒絶反応が出る。

 

 こうした展開は、前作『ハリー・ポッターと死の秘宝』で一旦完結した時点で、原作者の頭の中にあった模様。

シリーズの最後で結ばれるハーマイオニーとロン。原作者のJ.K.ローリングのもとには、ハーマイオニーにはハリーと結ばれてほしかったというファンの意見が殺到したそうだが、実は、ローリング本人もこの結末を後悔していたのである。インタビューで「2人の恋愛は最初に考えていた設定を守って書いたの」「ファンの怒りの声は聞こえていたけれど、作品から離れて初めて客観的に見られるようになった」と告白。さらに「ロンとハーマイオニーは将来、結婚カウンセリングを受ける羽目になったと思う。ハーマイオニーはハリーと結ばれるべきだった」とも……。原作者にここまで言われてしまうなんて、ちょっぴりロンが気の毒になる。(笑)

 

                                    おしまい

 

 

 

 

『ハリーポッターがやってきた ―うさかめver―』  

~清水愛さん(ロック所属) の演目「Harry Potter」を記念して~

 

 

ハリーポッターが仲良しのロンとハーマイオニーを連れて森のストリップ劇場にやってきた。ヴォルデモート卿との死闘を制したハリーは、協力してくれたロンとハーマイオニーに御礼の意味を込めて慰安旅行に誘ったのだった。

 

彼らは、森のストリップ劇場のうさぎちゃんやバンビちゃん達のかわいいステージを楽しく観劇していた。

ハーマイオニーがふと、舞台の後方で、カメさんが懸命にリボンを投げている姿が目に入った。気になって、周りの者に聞いた。そして、カメさんがうさぎちゃんをこのストリップの世界に誘ったこと。うさぎちゃんがカメさんを頼りにし、しかもそれが愛情に変わっていること。しかし、カメさんは自分がカメであるコンプレックスからか、うさぎちゃんの求愛を断っていること。そんな噂話まで聞こえてきた。

ハーマイオニーはそんな二人を見て見ぬふりができなかった。というのも、ハーマイオニーはいまやロンと結婚を前提にした公然の仲になっているものの、心の奥にはハリーに対する憧れが燻っていた。

ハリーは死ぬ覚悟でヴォルデモート卿と対決していたので、ハーマイオニーの気持ちには応えなかった。それがハリーのハーマイオニーに対する思いやりであった。ハーマイオニーの淋しい気持ちを察し、支えたのがロンだった。ロンの優しさを受け入れたハーマイオニーには後悔がなかった。しかし、うさぎちゃんとカメさんの姿を見ていると黙っていられない気持ちになった。

 

ハーマイオニーは劇場側に面白い企画を提案した。

森のストリップ劇場にはたくさんの動物たちが踊り子や客として、いた。彼らは決して同じ種族ではない。カメさんのように、自分はウサギよりも下等な動物だとコンプレックスを抱いている者もいるだろう。そこで同じ目線で相手が見れるように魔法で人間にしてあげる。その上でステージで5対5のフィーリングカップル・ゲームをやることにした。

カメさんとうさぎちゃんが選ばれて人間に化けた瞬間、そこには最高の美男美女が現れた。誰もが目を見張った。「なんてお似合いのカップルでしょう!」と口々に話した。

ゲームは楽しく進んだ。

 

帰り際、ハーマイオニーは、うさぎちゃんにお土産を与えた。‘惚れ薬’という魔法で調合した薬。これを飲めば相手は自分に惚れ込む。最期はカメさんにこれを強引に飲ませなさい!と話し、渡した。

結果的に、この薬は使うことはなかった。いや、使う必要がなかったのです。

 

                                 H30年5月

 

 

 

 

 今回は、ロックの踊り子・清水愛さんについて、新作「Harry Potter」を題材にして、「ハリーポッターの父親になれたら」という題名で語ります。

 

 

 

今回の作品は、清水愛さんの13年近いキャリアの集大成になっている。

愛さんは元々ダンスに定評があったが、今年からリングにも挑戦し習得した。愛さんがリングを始めたのは8月結に栗橋で開催された空中大会からと聞いている。ハリ―ポッターの魔法による空中芸が、愛さんのリングによる空中芸に非常によくマッチしている。

そして何より、愛さん扮するハーマイオニーが似合い過ぎるほど似合っていて、映画の雰囲気をそのまま伝えてくる。映画『ハリー・ポッターシリーズ』のハーマイオニー・グレンジャー役を演じたエマ・ワトソン(英: Emma Watson、1990年4月15日生まれ – 現在27歳)は、10歳の時にオーディションでハーマイオニー役を勝ち取り、2001年にシリーズ1作目『ハリー・ポッターと賢者の石』でデビュー。以後、全シリーズに出演した。2009年12月、「過去10年間で最も興行収入を稼いだ女優」としてギネス世界記録に認定されるほどの大女優に成長。またスクリーンの外では、2014年に名門ブラウン大で英文学の博士号を取得するという才媛ぶり。幼い少女だったエマ・ワトソンも今や27歳の素敵な女性になったんだね。どうしても愛さんとイメージがダブっちゃうよ。(笑)

いずれにせよ、清水愛さんが持つ全ての芸域がこの作品「Harry Potter」に集大成された形だ。間違いなく清水愛さんの代表作であり、最高傑作と評したい。

 

 この作品が童話好きの私のファンタジー魂をくすぐったのは言うまでもないが、私はハリーポッターに特別な想いがある。

 主役のハリー・ポッター(ハリー・ジェームズ・ポッター)を映画で演じているダニエル・ラドクリフが私の息子とよく似ていた。息子は既に30歳で男一児の父親なのだが、大学三年(当時21歳くらい)のとき中国北京に短期留学した。当時ハリーと同じ丸いメガネをしていたこともあり、北京の女子たちに「日本から来たハリー」と言われ記念写真をたくさん撮られたと自慢していた。昨年驚くことがもうひとつあった。私の甥が私の母親と一緒に私の自宅に遊びに来たのだが、当時の私の息子とそっくり。甥も丁度21歳だった。我が家はハリー顔の家系なのかな!? ということは、私はハリーの父親なのか!? 

私も魔法が使えたらいいな。魔法の呪文を手紙に書いて、踊り子さんに渡してもてたいナ~。なんて考えてしまう。あはは、無理か(笑)

 今回の作品を機に、もう一度ハリーポッターの映画を観てみたくなった。この映画シリーズは私の子供たちとの思い出の一ページでもある。

 

平成29年12月                           大阪東洋ショーにて

 

 

【参考】『ハリー・ポッターシリーズ』について    

主にWikipediaなど参照

 

 

 ハリーポッターのことを知らない大人はいない。原作を読んだり映画を観たことがない人でも名前だけは知っているだろう。

私は断片的にしか知らないのでまとめて味わいたい気持ちに駆られた。早速、ネットでいろいろ調べてみた。

 

<概要>

『ハリー・ポッターシリーズ』(英: Harry Potter)は、イギリスの作家J・K・ローリングによる児童文学、ファンタジー小説。日本での通称は「ハリポタ」。1990年代のイギリスを舞台に、魔法使いの少年ハリー・ポッターの学校生活や、ハリーの両親を殺害した張本人でもある強大な闇の魔法使いヴォルデモートとの、因縁と戦いを描いた物語。1巻で1年が経過する。

第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』がロンドンのブルームズベリー出版社から1997年に刊行されると、全く無名の新人による初作であるにもかかわらず、瞬く間に世界的ベストセラーになった。子供のみならず多数の大人にも愛読され、児童文学の枠を越えた人気作品として世界的な社会現象となった。73の言語に翻訳され、シリーズ世界累計発行は4億5000万部以上になり史上最も売れたシリーズ作品となった。

2001年から8本のシリーズで公開された映画(2011年完結)もシリーズ世界歴代2位の興行収入と大きなヒットを記録。当初から全7巻の構想であり、第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の原書が2007年7月21日に発売された。

2016年に本編の後日談を描いた事実上の第8巻『ハリー・ポッターと呪いの子』が発売された。これは、2016年夏に上演された舞台劇の脚本を書籍化したもので、ローリングはこの作品をハリー・ポッターシリーズの最終巻(または完結巻)としている。

2010年6月には、フロリダのユニバーサル・オーランド・リゾートに、映画版のセットを模したテーマパーク:ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター(The Wizarding World of Harry Potter)が開園した。 2014年7月15日にはユニバーサル・スタジオ・ジャパン、2016年4月7日にはユニバーサル・スタジオ・ハリウッドでも開園した。

 

<あらすじ>

孤児で、義父、義母(伯父、伯母)に冷遇され、従兄弟等にいじめられているハリー・ポッター少年は、11歳の誕生日に自分が魔法使いであることを知る。ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、いままで知らなかった魔法界に触れ、亡き両親の知人をはじめとした多くの人々との出会いを通じて成長する。

そして、両親を殺害したヴォルデモート卿と自分との不思議な因縁を知り、対決していくこととなる。

 

第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』(1997年6月26日発売)

第2巻『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(1998年7月2日発売)

第3巻『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(1999年7月8日発売)

第4巻『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(2000年7月8日発売)

第5巻『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(2003年6月21日発売)

第6巻『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(2005年7月16日発売)

第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』(2007年7月21日発売)

第8巻(最終巻)『ハリー・ポッターと呪いの子』(2016年7月31日発売)

 

<主要人物>

◆ハリー・ポッター / ハリー・ジェームズ・ポッター

演 - ダニエル・ラドクリフ(映画版)、サンダース・トリプレットス(映画版・赤子時代) / ジェイミー・パーカー(舞台『Harry Potter and the Cursed Child』)日本語吹き替え - 小野賢章(映画版) / 矢島晶子(ゲーム版第1作・第2作)、山口勝平(ゲーム版第3作、『クィディッチワールドカップ』)、山本泰輔(ゲーム版第4作)

本作の主人公。ヴォルデモートに命を狙われたが、歴史上唯一生き残ったため「生き残った男の子」や「選ばれし者」と呼ばれる。額には当時受けた呪いのために出来た稲妻型の傷がある。くしゃくしゃの黒髪で母譲りの緑の目、丸い眼鏡を掛けている。後にジニー・ウィーズリーと結婚した。

 

◆ロン・ウィーズリー / ロナルド・ビリウス・ウィーズリー

演 - ルパート・グリント(映画版) / ポール・ソーンリー(舞台『Harry Potter and the Cursed Child』)日本語吹き替え - 常盤祐貴(映画版) / 渕崎ゆり子(ゲーム版第1作)ハリーの親友。ウィーズリー家の六男。生きているクモが苦手。兄たちが全員優秀なためひけ目を感じていたが、5巻では監督生となった。また、7巻の最終章では、ハーマイオニー・グレンジャーと結婚した。

 

◆ハーマイオニー・グレンジャー / ハーマイオニー・ジーン・グレンジャー

演 - エマ・ワトソン(映画版) / ノーマ・ドゥメズウェニ(英語版)(舞台『Harry Potter and the Cursed Child』)日本語吹き替え - 須藤祐実(映画版) / 深見梨加(ゲーム版第1作・第2作)、氷上恭子(ゲーム版第3作)、河原木志穂(ゲーム版第4作)

ハリーの親友。マグル出身の魔女だが、学年一の秀才。親は2人とも歯医者。初めはハリーやロンとそりが合わなかったが、トロールに襲われているところをハリーとロンに助けられ親友となった。5巻では監督生となった。また、7巻の最終章では、ロン・ウィーズリーと結婚した。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは、マグルの両親の元に生まれた魔法使いですが、非常に優秀で、あらゆる本を読み膨大な知識を身につけています。その知識でハリーをヴォルデモートとの戦いの中で何度も救ってきました。ヴォルデモート失脚後はロンと結婚し、魔法省に勤め、最終的には魔法大臣にまで登りつめます。

 

ハーマイオニー役のエマ・ワトソンは幼い頃、撮影時に他のキャラクターのセリフを口パクで言ってしまう癖があったそうで、何度もアウトテイクを出してしまいました。エマ曰く、とても大好きな作品だったので熱心になりすぎてしまっていたとのことです。真面目な彼女らしい失敗談と言えます。

 

エマ・ワトソン(英: Emma Watson、1990年4月15日生まれ – 現在27歳)は、イギリスの女優。映画『ハリー・ポッターシリーズ』のハーマイオニー・グレンジャー役で知られる。身長165cm。2001年に『ハリー・ポッターと賢者の石』のハーマイオニー役でデビュー。以後、7作目の『ハリー・ポッターと死の秘宝』まで全シリーズに出演した。2009年12月、「過去10年間で最も興行収入を稼いだ女優」としてギネス世界記録に認定された。エマが2000年から2010年までの過去10年間で出演した映画は『ハリー・ポッター』シリーズ以外で声優を務めた『ねずみの騎士デスペローの物語』を入れても、映画1本あたり約8億9,700万ドル(日本円で約807億円)、合計で約54億ドル(日本円で約4,860億円)を稼いでいたという。

 

イギリス人の両親のもと仏パリで生まれ、両親の離婚後にイギリスに渡る。世界的大ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの実写映画化では、10歳の時にオーディションでハーマイオニー・グレンジャー役を勝ち取り、シリーズ1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」で子役としてデビュー。最終章「死の秘宝 Patr2」まで10年間、同役を演じ続けた。2009年からアメリカの名門ブラウン大学に通い、その間も「ウォールフラワー」や「ブリングリング」、「ノア 約束の舟」などで若手女優として活躍。ディズニー実写版「美女と野獣」ではヒロインのベル役に抜てきされ大きな話題を呼び、映画は全世界興収10億ドル突破の大ヒットを記録した。スクリーンの外では、14年にブラウン大で英文学の博士号を取得。フェミニストとして男女平等を精力的に訴えている。

 

 

 

 

 

 今回は、ロックの踊り子・清本玲奈さんについて、H29年12月結の大阪東洋ショー公演模様を、「赤鼻のトナカイ」という題名で語ります。

 

 

 

【参考】ルドルフ 赤鼻のトナカイ誕生秘話(実話)

クリスマスソング誕生エピソード/1938年アメリカ・シカゴ

 

「まっかなお鼻のトナカイさんは♪」と歌われるトナカイ「ルドルフ Rudolph」は、1938年のアメリカ・シカゴで誕生したクリスマスのキャラクター。

原作は、1938年に書かれた、ロバート・メイ氏が4歳の娘のために書いた詩。

作者は、当時シカゴに住んでいた男性会社員のロバート・メイ(Robert L. May/1905-1976)。妻エヴリン(Evelyn)と4歳のバーバラ(Barbara)の3人家族だった。

この頃のアメリカは、1929年10月の株価大暴落(ブラック・マンデー)による金融恐慌から始まった不景気にいまだ苦しんでいた。通信販売を手掛けるモンゴメリー・ウォード (Montgomery Ward) 社で広告宣伝・コピーライターとして働いていたロバート・メイだったが、妻がガンに倒れ、ただでさえ少ない給料は妻の治療代・薬代に消えていった。生活は苦しく、一向に景気も回復しない毎日。最愛の妻は回復の見込みもなく、4歳になる娘バーバラは元気のない母を見て不安そうにしょんぼりしている。

あるとき、娘バーバラは父に尋ねた。「どうして私のママは、みんなと違うの?」

これまで母親に十分に甘えさせてやることもできず、貧しい生活の中でたくさんガマンをさせてしまったであろう娘バーバラの突然の心からの一言に、父ロバートは愕然とした。

「ああ、私はこんな幼い子になんてつらい思いをさせてしまっていたんだ。ああ、何かこの子を喜ばせてあげられるものはないのか?私は所詮貧しいコピーライター。今の私に出来ることと言ったら…」

娘が言い放った「みんなと違う」の一言は、一方で父ロバートの幼い頃の記憶を呼び起こしていた。ロバートは子供の頃、体が弱く痩せて小柄だったためにいじめられ、貧しくて進学することもできなかったのだ。

幼い頃に「みんなと違う」といじめられた自分、「私のママは、みんなと違う」と悲しむ娘、父ロバートの頭の中を「みんなと違う」というフレーズがぐるぐると巡っていた。

「ちょうど今はクリスマス、子供にも人気のサンタクロースとトナカイのお話に、このフレーズを生かして、何か娘が喜ぶ楽しいお話を作ってやれないだろうか…?」

強いインスピレーションを受けたロバートは、寂しそうに尋ねる娘バーバラを前にして、即興で赤鼻のトナカイ「ルドルフ Rudolph」のお話を始めた。

ルドルフは、その真っ赤な鼻を仲間のトナカイから笑われ、いじめられていた。ルドルフは「みんなと違っていた」のだ。

 でもクリスマスの夜、その「みんなと違う」赤い鼻がサンタの役に立って、ルドルフは心から喜んだというハッピーエンディングのストーリーが、ロバートの口から流れるように紡ぎだされていった。彼は自分自身のコンプレックスを赤鼻のルドルフに託し、神様に創られた生き物はいつかきっと幸せになることを、幼い娘、病と闘う妻、そして自分自身に言い聞かせたかったからだといいます。

その後、娘にせがまれて毎晩この話をするようになったロバートは、クリスマスプレゼントとしてお手製の本にまとめ始めます。プレゼントを買う余裕の無いロバートにとって、それは娘や妻への心のこもった贈り物でしたが、完成を目前にして妻がこの世を去ってしまいます。打ちのめされたロバート。しかし、娘のために本を完成させ、愛する娘を喜ばせました。亡くなった奥さんも天国で喜んでいたに違いない。

その数日後、務めていた会社(大手デパート)のパーティで、ロバートが「真っ赤なお鼻のルドルフ」を朗読すると、会場から割れんばかりの拍手。大絶賛を受けたこの話は、次のクリスマスに会社の宣伝用冊子として配布されることが決定した。

1939年のクリスマスシーズン、ロバートが務めていたモンゴメリー・ウォード社から、「ルドルフ 赤鼻のトナカイ Rudolph the Red-Nosed Reindeer」のタイトルで無料の冊子が配布された。

同書は250万部の発行数を記録し、後の1946年に再リリースされた際はさらに350万部の大ヒット書籍となった。

再リリースから2年後の1948年、ロバートの従兄弟(いとこ)であるジョニーマークス(Johnny Marks)が作詞・作曲し、今日知られるクリスマスソング『赤鼻のトナカイ Rudolph the Red-nosed Reindeer』がリリースされた。世界的に有名なクリスマスソングは、こうして誕生したのである。

 

『赤鼻のトナカイ』 日本語 新田宣夫版

まっかなお鼻の トナカイさんは

いつもみんなの 笑いもの

でもその年の クリスマスの日

サンタのおじさんは 言いました

暗い夜道は ピカピカの

おまえの鼻が 役に立つのさ

いつも泣いてた トナカイさんは

今宵こそはと 喜びました

 

赤鼻のトナカイは、その歌の通りのお話です。

<あらすじ>

赤い鼻を持つトナカイのルドルフは、いつもみんなにバカにされていました。

ある夜、ルドルフは森の中で頭上を横切るサンタのおじいさんを見ました。

サンタは皆が尊敬する8頭の立派な英雄トナカイがひくソリに乗っていました。

 

 1年が過ぎ、次の年のクリスマスイブ、ルドルフはサンタの出発を見送ろうと森へ行きました。

この夜はひどい霧が立ち込め、勇敢なサンタのトナカイたちも、少し怖気づいていました。

 

ルドルフをみつけたトナカイのリーダーが耳打ちし、サンタのおじいさんは、ルドルフに自分たちを助けてほしいと頼みます。

ルドルフもまわりのみんなもとても驚きましたが、ルドルフのママは驚きながらも、「この日のために神さまがその鼻をくださったんだよ、行っておいで」とルドルフに言います。

 

ルドルフは、そのときからサンタの仕事を勇敢に手伝うようになり、英雄のトナカイたちにもサンタのおじいさんにもとても感謝され、ルドルフもみなと違う鼻を持っていることを感謝するようになりました。

 

 簡単ですが以上のような内容です。

作者の家族への思いが生んだ「真っ赤なお鼻のルドルフ」。人と違うって素敵なこと。一年でもっとも優しくなれ、勇気を与えてくれる素敵なクリスマス物語ですね。

 

 

 

 

 

 

今回は、ロック所属の踊り子・清本玲奈さんについて、H29年5月頭のDX歌舞伎の公演模様を、「最新映画の世界に誘われて」という題名で話します。

 

 

 

今回の出し物二つについて語りたい。

 

一方、映画「ラ・ラ・ランド(LA LA LAND)」はデミアン・チャゼル監督が、ライアン・ゴズリング&エマ・ストーン主演で描いたミュージカル映画。売れない女優とジャズピアニストの恋を、ゴージャスでロマンチックな歌とダンスで描く。オーディションに落ちて意気消沈していた女優志望のミアは、ピアノの音色に誘われて入ったジャズバーで、ピアニストのセバスチャンと最悪な出会いをする。そして後日、ミアは、あるパーティのプールサイドで不機嫌そうに80年代ポップスを演奏するセバスチャンと再会。初めての会話でぶつかり合う二人だったが、互いの才能と夢に惹かれ合ううちに恋に落ちていく。2017年度第89回アカデミー賞で史上最多タイとなる14部門にノミネートされ、チャゼル監督が史上最年少(32歳)で監督賞を受賞したほか、エマ・ストーンの主演女優賞など最多6部門でオスカー像を獲得した。

 

前置きはこのくらいにして、清本さんのステージ模様を話そう。

 

もうひとつの演目「ラ・ラ・ランド」は、映画のサントラ盤にのって、主人公のミアに扮して踊る。

映画の最初の場面、渋滞したロサンゼルスのハイウエィ。ようやく車の流れが動き出すが、紙を見ながらぶつぶつ呟いていたミラはそれに気づかず、後ろの車からクラクションを鳴らされ腹を立てる。その車に乗っていたのは若い男で、ミアは彼に中指を立てて怒りを示す。女優志望のミアはオーディションを受けまくっては落選する毎日。車の中でブツブツと呟いていたのもオーディション用の台本を読んでいたのでした。その日もバイトを終えて面接を受けるが、また落選。

ステージでは、その場面を意識して、椅子を二つ用意して、車の座席に見なす。クラクションを鳴らすポーズまである。

清本さんは黄色いワンピースの衣装。靴はハイヒールではなく、黒いバレエ・シューズ。これでダンスが納得いくように動き回れる。

ドレスを黄色から青へ、そして緑へ。ここで一旦、椅子を盆へ移動。

そして、椅子を舞台に戻して、次に白いドレスに着替える。ドレスは透け透けだが、木や草が刺繍として描かれていて華やか。椅子を再度、盆に移動してベッドショーへ。今回の演目は椅子を使った演技が光る。

最後には、最初の黄色いドレスに着替えて盆の上で踊って終わる。映画の最後の回想シーンを意識しての締めになっている。

音楽は映画のサントラ盤。1.Mia Gets Home 2.Another Day of Sun 3.Some one in the crowd 4.City of stars 5.Mia & Sebastian's Thene 6.Credits

 

どちらの作品も、ダンスの上手い清本さんならではの、ノリノリで明るく楽しい演出。観ているだけで幸せな気分になる。これが清本ワールドの真骨頂である。

 

最近の若い子のステージはアニメをモチーフにしているものが多い。私は使っているアニソンを知らないだけでなく、そのアニメそのものを全く知らないことが多い。しかし、知らないとステージを理解できないので必死で勉強して付いていく。そうしないとレポートは書けないからね。清本さんの場合はアニメではなく、その対象が映画になる。

そうやって、若い子と知識を共有することで楽しめるし、なにより私自身が若返る。もう若い子のことは分からんと諦めた時点で老いが始まる。若い子と仲良くなりたかったら若い子の世界に興味をもち進んで足を踏み入れて勉強することだ。

そういう意味でストリップというのは最高の場である。自慢じゃないが、私は劇場通いばかりでTVも観ないから、最近はめっきり新しい曲も映画も知らない。しかし、私はストリップから、最新曲、最新のアニメ、そして最新の映画情報まで得られる。ストリップが好きだから、若い子と接していられ、新しい情報が得られるという一石三鳥を味わえる。嬉しいことである。

清本さんに、これからも新しい世界に連れていってもらうことを期待しているよん。そして、清本さんの若いエネルギーを浴びて、たくさん若返りたいと思っています♪

 

 

平成29年5月9日                         DX歌舞伎にて

 

 

 

 

 以下に、映画『グレイテスト・ショーマン』を観た、私の感想をストリップと絡めて述べてみたい。特にこの映画に再三登場する三つのフレーズ「The Greatest Show」「A Million Dreams」「This Is Me」をキーワードにして話を展開していく。かなり個人的な想いなので、ここだけの話にして下さい。

 

 

1.     ストリップはまさしく「The Greatest Show」だ!

 

最初に少し余談から始める。

 今回、清本玲奈さんがこの映画をモチーフにしたステージ作品を演じてくれた。本作品披露としては二週目になるH30年6月結の大阪東洋ショー劇場で拝見した。リングへの初挑戦を含め、ステージの出来栄えに心から拍手を送りたいと思った。

 ただ、玲奈さんが東洋を一日(1,2ステージのみ)体調不良で欠場した点について、厳しい苦言になるが、清本玲奈が真のThe Greatest Showman(woman)になるためには、せっかく彼女目当てでやってきた観客をがっかりさせるような欠場はなくさないといけないな!と強く感じた。

 生身の人間だから時に体調も悪くなるよな、特に今回はリングの初挑戦もあり体調維持が難しかったろう、などと同情もする。ただ清本さんが突然欠場するのは今回だけではなく、本東洋の前の5月の浅草公演でも三日間12欠場しているし、前回のH29年12月結の東洋でも一日(1ステージだけ)欠場している。やはり清本さんがロックの看板になるためには体調管理は不可欠だ!と思わざるを得ない。もちろん、これはファンとして高いレベルを期待しての苦言だ。

次のようなエピソードがある。既に昨年引退してしまったが、灘ジュンさんはデビューから10年以上ロックの看板として活躍した。彼女が常に看板として君臨したお陰で、他のお姐さん方はプレッシャーを感ぜずに出演できたと感謝していた。ては、灘ジュンさんの凄さはどこにあったのか?

 誰もが「あんな綺麗な女性は見たことがない」と口々に彼女の美貌を褒める。ところが、ある踊り子さんが「ジュン姐さんほどタフな踊り子はいない」という話をしてくれた。ジュンさんは海外のマカオも含め日本全国の劇場を回り、どこの劇場も客で満杯にした。重要なことは一度も穴を空けたことはないこと。このためロック経営陣からも絶大な信頼を得ていた。ジュンさんは間違いなく真のThe Greatest Showman(woman)だった。

 さて、本題に移る。

 

 私にとって、ストリップこそがThe Greatest Showである。観客を感動させ、幸せな気持ちにさせてくれるものがThe Greatest Showであると定義すれば、間違いなくストリップはThe Greatest Showである。私を毎日劇場に駆り立てるストリップの魅力は、バーナムが目指した「The Greatest Show on Earth」(地上最大のショー)」に匹敵する。

映画の主人公のP.T.バーナムは<ショービジネス>の概念を生み出した男。誰もが“オンリーワンになれる場所”をエンターテインメントの世界に作り出し、人々の人生を勇気と希望で照らした実在の人物だ。この映画では、19世紀のアメリカにおいて、彼の幼少児からサーカス興行師としての挫折と成功をきらびやかに描いている。

日本のストリップは世界に類を見ないエンターテイメントの世界だ。日本の文化のひとつと云えよう。過去に本番生板ショーなどエログロ路線に走った経緯もあって、風俗の代表としてのストリップはどうしてもエロスの殿堂ととらえがちだが、ショーアップされた今のストリップはアートのレベルに達している。だからこそ女性客も増進している。

本映画の中でも、バーナムの興したサーカス興行が芸術かどうかを、バーナムと新聞の批評家の間で激しく論じられるが、映画の最後の最後に「最も崇高な芸術とは人を幸せにすることだ」というバーナムの言葉が載る。その通りだと思う。

ストリップはアートとエロスが融合した独特な日本文化であり、世界に類を見ないThe Greatest Showとしての誇りを持ちたい。

 

2.     ストリップの光と影

 

映画の中で、主人公バーナムは、変わった外見や特殊能力を持つ人達を集めて、派手なショーを行うプランを考える。このヒントは、蝋人形のような動かないものばかり集めた「バーナム博物館」では客が入らず、それを見た娘たちが「生きている者、動く者がいいなぁ~」と囁いた言葉に基づいている。映画をよく観ると、若かりしバーナムが父が死んで食べる物に困りパンを盗み失敗した時に、奇形の女性が彼にリンゴを恵んだシーンが印象に残った。彼がプランを考えるときにリンゴが机の上にあったね。また、娘たちが読んでいた童話「親指トム」から、銀行にいた小人のことを思い出した。そうした発想を基にして、小人や大男、ヒゲの生えた女、曲芸が得意な兄妹など、各地から人材を集めたバーナムは、歌と踊りで聴衆を楽しませるサーカス興行を始めたのだった。これが見事に大当たり。

 ただ、こうした興行は単に「奇形」(Freaks)の人々を見世物にしているに過ぎないと抗議の声があがり、また批評家は「これはアートではない」と人権侵害やその差別的な不快感を新聞で酷評した。

 同じことがストリップにも云える。エロスとアートの境目が曖昧なため、常に規制の対象として警察権力に吊るし上げられる。ストリップ興行の経営側としても税金の明朗化などやるべき改善点はあるかもしれないが、警察権力による単なる弱い者いじめのような対処は止めてほしいし、ストリップにもっと正当なる市民権を与えてほしいと痛切に感ずる。

 

 また、ストリップの経営側にも、未だに「ストリップは女の裸を見せるため、女の子の人買いの世界」という意識が残っている。昔の人身売買の発想から抜け切れていない。今やストリップで働く女の子にはそういう意識はない。こういう昔ながらの罪悪観念は払拭しなければならない。

 

 ストリップはスポットライトが降り注ぐ明るい場所。ところが、明るすぎるために目がくらんでしまう惧れもある。

 例えば、ストリップに嵌り過ぎて、普通の生活から逸脱してしまうこと。踊り子側の話としては、チップやプレゼントで美味しい思いをたっぷりし、金銭感覚がなくなり、引退後には普通の仕事や生活ができなくなる、などの話はよく聞く。客の側の話としては、踊り子に夢中になり、浪費癖がつき、ひどいときには家庭や仕事を失ってしまう、など。

 以前、ある踊り子さんに「楽屋の風景を一度見てみたいものだ」という話をしたら、「お客さんは表のステージの明るいところだけ見ていたらいい。光の当たらない陰である楽屋なんか見ない方がいいわよ。」と言われたことがある。もっともな話である。

 ストリップの客は「わぁー、かわいい娘のおまんこが見れて嬉しいよー♪」と言っているうちが華であり、あまりに特定の踊り子にはまりすぎて、いわゆる深入りするとロクなことは無い!という話も、自分の実体験を踏まえて誠に的を得た話である。

 

3.     人間のもつ美しさと汚さ

 

 主人公バーナムは、奇抜なアイデアでサーカス興行を成功させ、家族を貧乏なアパート住まいから立派な洋館に移らせるなど、表向きは大成功を収めた。

 しかし、彼は幼少の頃から盗みをしたり、サーカス興行のための資金を銀行から借りる時に南シナ海に沈んだ船舶登録証を使って詐欺まがりの行為をした。また肝心なサーカスでも所詮フリークスたちを集めて見世物にしているペテン師と世間から言われる。

 私が映画の中の彼を観ていて「おいおい、これはないよな!」と思ったのが、ジェニーリンドのNY公演の時。サーカス団員たちを客席に座らせず立ち見にさせたこと、なにより酷いのは公演後のパーティから彼らを閉め出したこと。あれだけ彼らの事を高く評価し、彼らを使って自分は成功したのに、その仕打ちはねえだろ・・・。まさしく、彼には表と裏、光と影の部分がある。

 

 以前、「人には三割のいいところがあれば合格点」ということを聞いたことがある。残りの七割はダメなところ、できないところとなる。野球でも三割打者といっても七割は打てないのである。三割打者になるだけでも大変なのだから、この話はなんとなく頷ける。だから、三割のいいところを見てあげて、七割のダメなところは目をつぶって見てあげなさいということになる。

 また、顔見知りのスト客の中に「ストリップでは仲間ができると同じ数だけ敵ができる」と言っていた奴がいた。私のスト仲間の中には「太郎さんはこれだけいい人なのに、なんでネットであれだけ叩かれるのか、信じられない。太郎さんのことを知らなすぎる。」と話してくれる。人は誰しも本当のところは分からない。一緒に酒を飲んだりして話す時間をもたなければ、相手のことは殆ど分からないもの。だから私のようにストリップ仲間がたくさん増えた分だけ、知らず知らずのうちに顔の知らない敵をたくさん作っているのだろう。あまりにも有名人になってネットで叩かれる標的にされる。出る杭は打たれるの言葉通り、妬み嫉みや誹謗中傷などは有名人になった宿命であろう。とすれば、分かってくれる人だけでもいることが有難いと思うしかない。分かってくれる人だけ分かってくれればいいと割り切るしかない。誰にでも良く思われるなんて不可能に近い。

 このことは、バーナムの妻チャリティ・バーナムが、サーカス興行の成功に満足せず、歌姫ジェニーリンドのアメリカ巡業に夢中になるバーナムに説いていた。しかし、バーナムは誰の助言も受け付けず、自分の夢の実現に邁進してしまった。

 

 先ほど、ストリップにも光と影があるという話をしたが、美しいアートな部分を評価してあげ、エロとかその他の部分は目をつむってほしいもの。むしろ、アート以外の部分を面白いと感じてあげる寛容と感性がほしい。

 私が書いているストリップ童話にも全く同じことが言える。評価する人と蔑む人が出てくるだろう。物事は清濁併せ吞むくらいの気概がないと本当のことは見えてこない。

私の好きな作家、池波正太郎さんの人気シリーズ『仕掛人・藤枝梅安』で、梅安は繰り返し世の道理を説く。「善と悪とは紙一重」「世の中の仕組みは、すべて矛盾から成り立っている」・・・そんなものかと思う。

 

4.     歌姫ジェニーリンドの手のひら返し

 

主人公のバーナムは、サーカス興行でひとかどの成功を収めたにもかかわらず、歌姫ジェニーリンドに出会い、本物を見せてくれた彼女の存在に惚れ込み、誰の助言も受けず、サーカス興行はフィリップに任せて、ジェニーリンドとともに米国公演に駆け回ることになる。

おいおい、ほどほどの成功で満足しなよ!と言いたくなる。結局、それを機にして、全財産を失い、家族からも見放されることになる。足るを知らないとこういうことになる!という教訓そのものだ。

 しかし、所詮見世物小屋的なサーカス興行はペテン師的なイメージから脱却できず、本物の歌声をもつジェニーリンドの魅力にかけたくなったバーナムの気持ちは理解できる。なぜなら、彼のエネルギーは全て幼少からの貧乏と富裕層への反骨精神から湧き出てきたものだから。そのため、どんなに成功しても、マナーの悪さが残っている。根本からそれを消さないと人間の品は変えられない。しかし、物事は裏腹で、行儀よく収まってしまうと、きっとショービジネスへのエネルギーも消えてしまう。

 

 それにしても、バーナムに見込まれた歌姫ジェニーリンドの手のひら返しは痛烈だった。

 私はストリップにおける自分と重ねて見ていた。私もある踊り子と出会い、「自分の16年間のストリップ歴はこの子に出会うためのものだった」と思わせるほど夢中になって応援した。これまで特定の踊り子を追いかけるというやり方をせずに、新人を中心に手広くストリップを楽しんできた。それなのに180度転換した。そして見事に裏切られた。家族も仕事も全てを失ってしまった。彼女が引退した今でもその影を引きずっている気がしてならない。

 今では、特定の踊り子に夢中になることはせず、以前のように手広く楽しむやり方に戻っている。それが自分にとって最適なストリップ観劇なのだと改めて思っている。

 

 だいぶ昔のこと、ある仲良くしていた踊り子さんから、「太郎さん、ストリップに夢中になってくれて嬉しいけど、くれぐれも家庭を壊すようなことをしてはダメよ」と言ってもらっていた。自分に限ってそんなことは絶対にない!と思っていたが、いつの間にか、家庭を壊すほどにストリップに嵌っていた。そして、もう抜けられない状態になる。

 私にもバーナムに負けないくらいの素敵な家族があった。妻は美人だったし、私のような身体障害者でもいいと結婚してくれた。私は結婚する時「この女は絶対に守る!」と心に誓ったものだ。かわいい三人の子宝に恵まれ、みんな成人して立派に社会人になったくれた。三人のうち二人は結婚し、私は初孫の顔も見せてもらった。こんな幸せな家族を壊してしまった罪悪感は一生消えないだろう。そのうえ、特定の踊り子に夢中になり仕事まで失った。まさに、ストリップで人生を壊した。ただいまストリップ浪人中だが、ストリップ廃人になったわけではない。「ストリップに負けた」のではなく「私のストリップ愛が勝った」のだと思っている。だから後悔はない。今は執筆しながら自分の人生を前向きに模索している。

 

 バーナムは最後は家族のところに帰っていった。映画では「家族愛の素晴らしさ」「人は家族を大切にしなければならない」ことをストレートに教えてくれる。全くその通り。

 私もこれから先、年老いていけば家族のところに戻りたいと思うだろう。しかし、好き勝手なことをした私のことを許してもらえるとは思わない。

 今は自分の夢を追って頑張るしかない!と思っている。

 

5.     A Million Dreams 夢を追うこと

 

この映画は、本当にいろんなことを教えてくれる。

その中の最も大切なひとつが「A Million Dreams」というフレーズ。まさしく、夢を持つこと、いつも夢を追い続けることの大切さを示している。

これをキーワードにして映画を観ると、話の筋がよく分かる。

特に映画の最初の場面はここから始まる。子供の頃に描いた夢で恋に落ちた2人。約束した夢が成功するにもかかわらず、バーナムは、子供の頃にゴミのように扱われたこと、自分の考える芸術が評論家に批判されること、本物の芸術に触れてしまうことで名声と承認に惑わされ、本当の自分の夢を見失ってしまう。気づくのはいつだって失ってから・・・。

 

先に述べたように、バーナムにも良い面と悪い面が混在している。というより、人間すべて、世の中すべてが綺麗事ではまとめられない。すべてが清濁併せて進んでいる。

それでもバーナムがアメリカン・ドリームを実現できたのは、バーナムが本来持っていた「既存の発想やしがらみにとらわれない自由なアイデア力」「ありのままで生きることへの絶対的な肯定」「自分の人生を自分で選び取る意志の力」があったからこそ。

若い時に犯したいくつかのミスにフォーカスするのではなく、彼がなぜアメリカン・ドリームを体現することができたのか、その行動や情熱のエッセンスをきれいに描き出そうと注力した作品が、本作「グレイテスト・ショーマン」だったのだと思う。

 

何度この映画を観ても飽きない。いや何度も観たくなる。

チャレンジングに生きること、楽しく生きがいをもって生きること、仲間を思いやり愛すること、家族を思いやり愛すること・・・どれもよくあるメッセージだが、それを真正面から描いており、意外性とか裏技とか小技もない。こうしたストレートなメッセージや画面に横溢する正のエネルギーは、見ているだけで元気がもらえる。だから何度でも観たくなる。

これから先の人生、へこたれることもきっと沢山あるだろう。でもこの映画を支えにしたいと思う。

 

6.  This is Me  これが俺のストリップ人生だ!

 

バーナムが集めたフリークスたちは、バーナムに軽視されながらも、自分たちを世に出してくれたバーナムに感謝していたし、サーカスという居場所・活躍の場、ひいてはそれが家族となっていることに感謝していた。だから、最後にサーカス小屋が火事で全滅し失意に浸るバーナムを、みんなで助けてサーカス興行を再立ち上げする。

 

 私も今、同じような体験をしている。

 ストリップのために家族も仕事も捨てた自分は、恋焦がれた踊り子にも捨てられてストリップ廃人になりかけた。先にその踊り子から他の踊り子を全て切るように言われ、その意見に従った。そのため、肝心の踊り子に切られた瞬間、私には劇場に居場所を失ってしまった。途方に暮れていた私に救いの手を差し出してくれたのは以前から応援していた踊り子たちだった。その中には彼女の言葉に従って切った踊り子もいたのに、みんな以前と変わらずに仲良くしてくれた。

お陰で、以前のように楽しいストリップLIFEを満喫できることに加え、今では私の童話にマンガを描いてくれる踊り子もたくさん現れ、私の童話と踊り子の漫画のコラボという私のストリップ・マガジン構想は大きく前進した。何人もの踊り子たちが私の童話を愛してくれ、私のことを応援してくれている。夢が現実に近づこうとしている実感がある。

しかし、仮に童話シリーズ「うさぎとカメの森のストリップ劇場」等を世に発表したら、これまた徹底的に叩かれるだろう。発表するための障壁もいろいろ考えられる。

それらに負けずに立ち向かっていかなければならない。自信もないし、不安もあるが、前に進んで行かないと私には明日はない。今こそ、バーナムの知恵と勇気とバイタリティを見習いたい。

 

私は小児麻痺で足が不自由なために小さい頃からよくいじめられていた。それでも、ひねくれずに今までこれたのは、家族の愛情、実家が商売をやっていたのでお客さんが店の手伝いをしている私のことをかわいがってくれたこと。また少ないながらも親友がいたこと。こうした人たちに支えられた。

運動ができなかったので私は勉強に専念した。お陰で中学高校はずっと主席で通し、希望の大学にストレートで入学。勉強ができると人の目は変わる。田舎では10年に一度の秀才と称され、障害を乗り越えた美談にされた。お陰で田舎で見合い結婚もできた。

 ところが、こうしてストリップに嵌り、毎日のように劇場通いすると、足が悪いことで非常に目立ってしまった。ネットで太郎叩きが始まった。幼い頃のいじめと全く同じだ。とくに恋焦がれた踊り子に皆勤し出してからは、その踊り子の人気が高まるにつれ太郎叩きが一層激しくなる。最期は会社を辞めるように仕組まれたが、会社を辞めてからもストリップ廃人だのと依然として叩かれ続けている。誰かを虐めていないと気が済まない人間がいるようだ。この世からはいじめはなくならないね。

 私のスト友人の中には、こうした状況を踏まえ、私が執筆活動を成功させて、こうした輩を見返してやろうぜ!と応援してくれる者も多い。彼らの声が私を励ましてくれる。世の中には必ず見てくれる人はいる。

  良くも悪しくも、目の前の私がこのままの自分。‘This is Me’

 足が悪かろうが、ストリップに嵌り家庭と仕事を捨てた不良親父だろうが、ストリップ童話を書く私も、すべてそのままの自分である。‘This is Me’

 ストリップ童話がどう評価されようが、ストリップを愛し、それを形にしたくてストリップ童話を書き上げた。

我がストリップ人生。これが‘This is Me’なんだ。

 

7. 最後に

 

以上、ずいぶん長くなったが、私がとくに印象に残った三つのフレーズ「The Greatest Show」「A Million Dreams」「This Is Me」をキーワードにして話を展開してきた。

夢とはなにか、芸術とはなにか、個性とはなにか、いろんなことを強烈に伝えてくる映画。ストレートなメッセージもいいし、ミュージカル映画らしく音楽も最高、ほんと全部いい。

 

 ところが、歌の良さからミュージカル映画としては素晴らしいが、ストーリー的には内容の薄い映画だと酷評されているようだが(そのためアカデミー賞のノミネートにすら上がらない)、私にとっては自分の人生と重ねながら観ているので、何度も観る度に心に響いてきて泣けてくる。

 確かに、私も最初に観た一回目は、歌の素晴らしさだけが印象に残った。ジェットコースターのようにストーリーが流れてしまうからだ。ミュージカル映画としてのポイントはしっかり押さえたうえで、あえてストーリーは細切れに繋ぎ、104分という短い中に押し込めた。それが監督の狙いだった。ストーリーを重視するなら、もう少し長くして時間配分と編集の仕方を考えるやり方があったと思うが、あえて監督がそうしなかったに過ぎない。それによって内容が劣るわけでなく、むしろ観方の側の感性の問題だと思えてならない。

 しかし、二回三回と観直してみると、しっかりとしたストーリーがあり、たくさんのメッセージがストレートに刺さってくる。そしてミュージカル部分が素晴らしいため、何度も観たくなる。これが監督の狙いだったのではないか。私にはこの映画がアカデミー賞クラスの映画に思えてならない。

 

                                    おしまい

 

 

 

 

 

 

 今回は、ロックの踊り子・前田ののさんについて、H30年7月頭の大阪東洋ショー劇場での模様を、作品「まえのんロール」を題材に語ります。

 

 

 

私は今回「シナモロール」というキャラクターを初めて知った。実はMY童話「うさぎとカメの森のストリップ劇場」を執筆していて、その中でサンリオのキャラクターとしてハローキティ、マイメロディ、キキララを登場させていた。これはKAERAさん(TS所属)のリクエストによるもので、彼女にたくさんマンガも描いてもらっている。今では本童話の貴重な登場人物になっている。それなのに「シナモロール」というキャラクターの存在が抜けていたことに只今愕然としているところ。(笑)

今回の演目で、最初うさぎキャラかと思ったが、耳が垂れているから犬キャラなんだね。「シナモンの原型は、2000年にデザイナーの奥村心雪が描いたうさぎのぽっちゃりとしたキャラクターで、上司にキャラクターを提案したものの却下されたため、耳と尻尾をアレンジして犬のキャラクターとして発表したものである。」なるほど・・うさぎと勘違いするのもあながち間違いではないか・・

サンリオのPROFILEでは次のように紹介されている。「遠いお空の雲の上で生まれた、白いこいぬの男の子。ある日、空からフワフワ飛んできたところを、『カフェ・シナモン』のお姉さんに見つけられ、そのままいっしょに住むことに。シッポがまるでシナモンロールのようにくるくる巻いているので、『シナモン』という名前をつけてもらう。今は、カフェの看板犬として活躍中。特技は、大きな耳をパタパタさせて、空を飛ぶこと。おとなしいけれど、とても人なつっこくて、お客さんのひざの上で寝ちゃうこともある。」

今回の演目は、この「シナモロール」の「ふわもこ」なイメージを前田ののさんなりに表現したものとなっている。

 

もうひとつ特筆すべきは、選曲の妙。この「シナモロール」の「ふわもこ」なイメージを表すのに最高の選曲をしている。

二曲目の「ふふふ」は歌い出しがなんと「ふわふわふにゃふにゃふらふらふふ」だ。

それ以外はハナエさんの3rd Album『SHOW GIRL』から三曲使用。ハナエさんの可愛さと透明感を併せ持ったウィスパーボイスが「シナモロール」のイメージにぴったし重なっている。ハナエさんは17歳でデビュー。13歳の時、EMIミュージック・ジャパンのオーディション「Great Hunting」にデモテープを送ったというまさに早熟な天才少女である。

ハナエ(1994年2月27日 - 現在24歳)は、日本の女性歌手。所属芸能事務所はアソビシステム、所属レコードレーベルはVirgin Music。福岡県出身。身長160cm。

 

 

 

平成30年7月                           大阪東洋ショーにて

 

 

 

『シナモロールがやってきた ―うさかめver―』  

~前田ののさん(ロック所属)に捧げる~

 

 

 森のストリップ劇場に、シナモロール(愛称はシナモン)と仲間たちがやってきた。

 今年のゴールデンウイークにハローキティとマイメロディたちが森のストリップ劇場に来場したときに、すでにシナモロールとポムポムプリンもサンリオ軍団の代表として参加していたので、今回は二度目の来場となる。

 今回の来場目的は、つい最近2018年7月1日の第33回サンリオキャラクター大賞でシナモロールが見事グランプリに輝き、昨年に引き続き二連覇を達成したことのお祝い記念行事になっていました。そして、その前の第30,31回で二連覇していたポムポムプリンも同行することになりました。

 シナモロールとポムポムプリンは今やサンリオを代表する犬キャラクターである。ちなみにポムポムプリンはゴールデン・レトリバーの雄をモチーフにしているが、シナモロールの方はよく分かっていない。

 

 森のストリップ劇場では、最初にシナモロールとポムポムプリンがやってくると聞いて、既に人気を席巻しているストリッパー・キティの猫キャラに加え、犬キャラまで送り込んできたのかと警戒した。しかし、それは早とちりであった。単なる観劇に加え、劇場内に一時的なカフェを開設して、森のストリップ劇場の踊り子やお客をもてなそうと考えていたのです。

 だから、うさぎちゃんがシナモロールを一目見た瞬間に、「わー、私と同じうさぎキャラだから一緒にステージに上がろうね!」と声をかけた時には笑いが起こった。そもそもシナモロールは男の子なのである。でも、シナモロールの長い耳と青い目、そして赤い頬を見ると、うさぎの女の子に見えるもんね。

 うさぎちゃんは、シナモロールの持つ「ふわもこ」なイメージに耐えられず思わず抱きしめちゃいました。またまた笑いが起こります。

 

 さっそく、場内にシナモロール・カフェとポムポムプリン・カフェの二つがオープン。

 ところで、シナモロールはたくさんの仲間たちを連れてきていました。名前を上げると次の通り。

男の子の仲良しグループはカプチーノ、エスプレッソ、みるく。カプチーノは、のんびり屋さんで双子の弟‘ココとナッツ’の優しいお兄さんです。エスプレッソはワンちゃんコンテストで優勝歴を持つ品のいいおぼっちゃま。みるくは、ちょっと甘えん坊でおしゃぶりを加えた白い子犬です。シナモンに憧れていて、いつか彼のように空を飛びたいと思っています。シナモンを加えた彼ら男の子4人組はいつも仲良く遊んでいます。

 女の子の仲良しグループはモカ、シフォン、アズキ。モカは名前の通り茶色の可愛い子犬の女の子。おしゃべりとおしゃれが大好きで、みんなのお姉さんのようにしっかりとした頼もしい存在です。シフォンは耳がふわふわとした愛くるしい女の子。大らかで細かいことにはこだわらない性格なので、みんなのいる場を和ませるムードメーカー的な存在です。この二人にアズキを加えた三人は「シナモエンジェルス」と呼ばれています。リーダーはしっかり者のモカ、他2人は大らかな性格でふわふわ耳が可愛いシフォンと、耳が天使の羽のようになっている関西弁のアズキです。

 その他にも、チョココルネみたいにクルクルねじれたツノがチャームポイントで、時空を超えて、過去や未来、絵本の世界へ行くことができる時空の旅人、コルネ。そのコルネに乗ってやってきた謎の女の子、ポロン。彼女はシナモンと同じ青い目をしている。

 どの名前を見ても、コーヒーとケーキが美味しくなりますよね。もともとシナモロールは2000年頃のカフェブームの時代背景の影響を受けて、そこから発想を得ていますから当然ですね。シナモロールそのものも、尻尾がまるでシナモンロールのようにくるくる巻いているので、「シナモン」という名前をつけてもらったわけですからね。

 そうそう、変わり種としてはちょんまげの付いた品川紋次郎も参加していました。いまや、シナモンは品川区のしながわ観光大使に任命されていますからね。こじつけもここまで来ると頭が下がります。(笑)

 

 一方のポムポムプリン・カフェも盛況です。こちらも仲間たちの名前がいい。

親友はハムスターのマフィン(雄)。マフィンの他にねずみの「スコーン」、りすの「ベーグル」、うさぎの「パウダー」、カエルの「ミント」、ペンギンの「ホイップ」、カモメの「シロップ」、とりの「カスタード」、さるの「ココナッツ」、ロップイヤー(うさぎ)の「タルト」、しろくまの「バニラ」、双子のハムスター「ビスケ」「クッキー」がいる。

森のストリップ劇場の面々は彼らとカフェで楽しく遊んでいます。甘い物好きなゴリくんは胸を叩いてゴホゴホと喜んでます。名前を聞かれただけで噛みつかれそうだと、皆ビクビクしてます(笑)。

 

 こうして、森のストリップ劇場の面々は、サンリオのキャラクターたちに癒され、楽しい一日を過ごしました。特に、うさぎちゃんは最近の仕事では猫キャラや熊キャラの気勢に押され気味だったり、カメさんとの関係が進展しないことから、公私共に元気がなかったので、今回のシナモロールたちの来訪には元気をもらったようです。よかった♪

 

                                    おしまい

 

 

 

 

 

ロックの踊り子・前田ののさんの、2019年10月頭の大阪東洋ショー劇場における公演模様を、演目「東京喰種(トーキョーグール)」を題材にして、「ダーク・ファンタジーの世界」という題名で語ります。

 

 

 今回は、演目「東京喰種」の観劇レポートを書かせて頂く。

 

 初めてこの作品を拝見したとき、テーマが何か分からなかった。すぐにポラタイムでののさんに確認する。「アニメの『東京喰種』を演じています」と聞いて、すぐにこのアニメをネットで検索した。名前くらいは聞いたことがあったが内容は知らない。興味が湧き、その晩、TSUTAYAでビデオレンタルしてきて一気にアニメ(第一期)全12話を観た。ちなみに、アニメでは続編があり、東京喰種√A (第二期)全12話、東京喰種:re (第三期)全12話、東京喰種:re (最終章)全12話と続く。非常に面白いので全部観ようと思う。

 最初に、漫画『東京喰種』の解説をしておく。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 『東京喰種トーキョーグール』は、石田スイによる日本の漫画作品。略称は「TG」。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて2011年41号から2014年42号まで連載された後、新編となる『東京喰種トーキョーグール:re』(トーキョーグール リ)が、同誌2014年46号から2018年31号まで連載された。

<概要>

石田スイ(1986年12月28日 - 現在32歳。日本の男性漫画家。福岡県出身。)のデビュー作。

現代の東京を舞台に、人の姿をしながら人肉を喰らうことで生きる「喰種」(グール)をテーマにした作品。コンセプトはダーク・ファンタジーとなっているが、サイエンス・ファンタジーの要素もある。2018年9月の時点でシリーズ累計発行部数は全世界3700万部を突破している。2019年4月時点で発行部数は4400万部。2013年7月から十和田シンによる小説版が発売された。2013年8月から同年9月までデジタル漫画雑誌『ジャンプLIVE』にてスピンオフ漫画『東京喰種トーキョーグール [JACK]』が連載され、また『週刊少年ジャンプ』(集英社)2014年31号に読み切り作品『東京喰種トーキョーグール [JOKER]』が掲載された。2014年から2018年にかけてテレビアニメ化、2015年と2017年には舞台化、2017年と2019年には実写映画化された。

<ストーリー>

人間社会に紛れ込み、人を喰らう正体不明の怪人喰種が蔓延する東京。

上井大学に通う青年金木 研(カネキ ケン)は女性の喰種神代 利世(カミシロ リゼ)に襲われ瀕死となるが、直後に起こった鉄骨の落下がリゼに当たったことで捕食を免れ、命も取り留める。しかしその後、彼女の臓器を移植されたことで、半喰種となってしまう。それ以来、カネキは苦悩と恐怖に満ちた日々を送ることになる。

 

ところで、今回の『東京喰種』では、人肉を食べるなどの過激な描写から、ダーク・ファンタジーに分類されている。私はダーク・ファンタジーという言葉を初めて知った。ネットで調べると、(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

ダーク・ファンタジーはファンタジー作品のジャンルの1つ。インターネット上では(おもに漫画・アニメ・ゲーム分野において)ダクファンと略される事もある。

<ダーク・ファンタジーの概要>

ファンタジー作品で、重苦しい雰囲気や悲劇的展開、残酷な描写や過激な性描写など、主人公をはじめとする登場人物にとって不条理な世界観などに重きを置いているものを指す。あるいは、幻想文学作品で、幻想・怪奇・ホラーの色合いが濃いものを指す。

大人ないし成人向けのファンタジー作品という意味合いからアダルト・ファンタジーと呼ぶ場合もある。ただし、未成年ないし低年齢向けのダーク・ファンタジー作品にも『ダレン・シャン』などが存在する。

最近の日本漫画界では、「東京喰種」や「進撃の巨人」のようなダーク・ファンタジーが人気を博しているようだ。これらが海外からも評価されている。しかし、海外のメディアには「日本人は変態志向だ」と言う人もいるようだ。(笑)

 

 さて前置きはこのくらいにして、今回の演目「東京喰種」のステージ内容をおさらいする。

まず、本作品では、「リゼの役を演じています」と、ののさんが教えてくれた。

神代利世(リゼ)は、「東京喰種」に出てくる登場人物の1人。見た目は、メガネをかけた大人しそうで綺麗なお姉さん。趣味は読書で、物語の主人公である金木研(カネキ)と同年代であり「あんていく」の常連客でした。知的な見た目とは裏腹に中身は貪欲で残虐な喰種。物語を進めるきっかけを作っていく重要な人物です。

またポラタイムで、ののさんが話してくれましたが、リゼは物語序盤で死んでしまったのかも分からないままフェードアウトしますが、「東京喰種:re」の最後に再登場します。物語の始まりのきっかけから終わりまでリゼで始まりリゼで終わったといっても過言ではないというほど、リゼは東京喰種という物語の鍵となる人物です。

 

 

 

 本作品を機に、初めてアニメ「東京喰種」を拝見したが、その続編も早く観たくなる。しばし、東京喰種の世界観に浸っていたい。

 東京喰種との縁を取り持ってくれた前田ののさんに心から感謝する。

 

 

とりあえず(第一期)全12話を観た段階で、童話が思い浮かぶ。エロ童話「おちんちんgirls」を書き上げる。これは、ののさんの他に、小春さん、倖田李梨さんの三人で、OPショーを演じているときの模様と、アニメ「東京喰種」を絡めて書き上げたもの。これを二日目に観劇レポートに先行して渡したい。

そして、三日目にこの観劇レポートを提出した。

 

 

2019年10月                           大阪東洋ショーにて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     2019.10東洋にて

『おちんちんgirls』  

~前田ののさん(ロック所属)の演目「東京喰種」を記念して~

 

 

 

 仲良し三人組の女子高生が、喫茶店に入っていった。喫茶店の名前は‘あんていく’。

 女子高生の名前は「リリ」「コハル」「ノノ」と言う。

 彼女たちは人肉を食べる「喰種(グール)」と呼ばれる人種だった。喰種は、姿・形はふつうの人間と同じなので、人間界に潜り込んで生活をしていた。しかし、彼らの食物は人肉という、一種の変異態であった。しかし、当然のごとく、人肉は手に入りにくい。そこで、喰種たちが生活しやすいように喫茶店あんていくが隠れ蓑になって人肉を彼らに提供していた。一度、人肉を食べれば一か月は食料なしでも生きることができた。

 

「若い男の子の人肉が食べたいわね!」と女子高生三人は言う。「おじさんはダメね。肉が硬いもの。やはり、若い男の子の肉は柔らかくて美味しいわ。」

 彼女たちは人肉の中でも、若い男の子を好んで食べていた。

 こうした喰種の特徴としては、背中に‘ちんぽ’が生えた。なぜ、そんなものが生えるのか。とりあえず、天使や悪魔が人間から離脱するときに背中に羽根が生えるのをイメージしてもらえればいい。ちんぽが生える場所としては、首の下部から尾骶骨のあたりまでで、一番手が届きにくい箇所。若い男の子の人肉が食べれなくなると、そのちんぽは大きく硬くなる。そのため背中に激痛が走る。だから、ちんぽが硬くなり始めると、若い男の子の肉に異常に飢える。若い男の子の人肉を腹いっぱいに食べると、その背中のちんぽは柔らかくなり、特に違和感なく背中に収まる感じになる。

 また、ふだんから、このちんぽを宥める行為が必要になる。硬くならないように、撫でたり摩ったりするのである。ところが、背中なので自分一人では手が届かない。そこで、三人の女子高生はお互いの背中にあるちんぽを癒し合っていた。

 元気な女子高生三人組は歌を唄いながら、その行為に耽っていた。その楽曲はロマンス&バカンスの「おちんちんYEAH」。三人は歌いながら、楽しそうにお互いのちんぽをしこしこやっていた。その曲こそ、彼女たちのテーマソング。そのため、彼女たちは「おちんちんgirls」と呼ばれていた。

 

 ある日、サワティ王子が、「その喫茶店に行くと可愛い女子高生に食べられる」という妖しい噂を聞きつけて、喫茶店あんていくにやってきた。サワティ王子は、すぐに「おちんちんgirls」を見つけ、ニヤッと笑って、視線を送ってきた。

おちんちんgirlsは言った。「私たちは若い男の子が好きなの。おじさんはダメ!」

それを耳にして、サワティ王子はしょんぼりと頭をうなだれ喫茶店を出ていきました。マル 

                                    おしまい

 

 

 

 

 

今回は、H30年3月頭の大阪東洋ショー劇場における、前田ののさん(ロック所属)について、演目「のの雪」を題材にして、「アナ雪とストリップ」という題名で語りたい。

 

 

今回の作品は大ヒット映画「アナと雪の女王」(略称: アナ雪)をモチーフとしており、演目名を「のの雪」としているのがシャレている。

今回の作品の観劇レポートを書くに当たり、ネット等でいろいろ調べているうちに、私自身がこの映画に嵌り、すぐさまTSUTAYAからレンタルして観た。私は最近もっぱらストリップ観劇ばかりで映画を全く観ない。ステージで興味をもった映画だけ拝見している。これだけ話題になった映画を今頃観るというのも恥ずかしい限りであるが、この映画を拝見して本当に良かった。ものすごく色々と考えさせられた。ネットで片っ端から映画解説や評伝などを読み漁った。これまでの私のレポートでは内容を分かりやすくするため、映画のあらすじを始めとした参考文献を巻末に参考と称して載せていたが、それらを整理するだけでかなりのレポート枚数になるため、今回はステージ感想に関するものだけに限定して記載することにした。だから映画を観ていることを前提としたレポートになっているので、このレポートを読む人は事前に映画を観て頂きたい。映画の紹介を割愛したにもかかわらず、今までで一番長い大作レポートになった。

 

 

 

 さて、これから観劇レポートの本題に入る。冒頭で述べたように、たくさんの映画解説を踏まえた上で、私なりの観点からポイントを絞って話したい。

 まず、この映画「アナと雪の女王」が他のディズニー映画とどこが違うかを述べてみたい。極めて特徴的な点が三つある。

 

1.   ダブル・ヒロインであること

 

これまでのディズニー映画ではヒロインは一人だったが、今回はアナとエルサという二人の姉妹がヒロインとなっている。

この二人は性格がかなり違う。

アナ、18歳。明るく積極的な性格で、王家の者とは思えないほどくだけた口調で話したり、意外に腕っぷしが強かったりと男勝りな面もあるが、パーティーの日には運命の人との出会いを妄想するなど、年頃らしく恋に憧れる18歳の少女である。ただ思い込みが少々激しく勢い任せなところがあり、ハンス王子との結婚を出会ったその日に1曲歌って即効で決めた。

自由奔放なじゃじゃ馬タイプ。わがままで感情のまま行動する。私が私がという自己主張の強い性格。特別な才能を持たない普通の女性。

エルサ、21歳(ディズニー初の20代ヒロイン)。おしとやかな深窓の令嬢タイプ。真面目でクールだが、優雅で心優しい性格。思慮深く、相手のことを優先する控えめな性格。全ての物を凍らせるという特別な魔法を使える「雪の女王」。

こう並べてみると、全く対照的と言ってもいいかもしれない。

 

 この点について、おたくという語の生みの親であるコラムニストの中森明夫氏は面白い解説をしている。「エルサとアナっていうのは、実は一人の女性の中にある二つの人格。二つの生き方だと思ったんですよ。」二人でもって一人の女性を示している。つまり、本来は一人の女性がアナとエルサの両方の性格を合わせ持ち、たまたまどちらかを強く表に出しているかの違いだと言う。面白い観方であり、極めて心理学的な分析である。

彼は次のようにアナ雪を言い切っている。「アナとエルサが姉妹ではなくて、一人の女性の中にある二つの人格だった。あらゆる女性は雪の女王(才能)を閉じ込めながら、アナ(平凡な女性)として生きている。この映画は雪の女王(才能)を開放する映画だ。」(括弧は私が分かりやすくするため挿入した)、と。

 

2.   王子が悪役(ヴィラン)であること

 

これまでのディズニー映画では、悪役というのは明確であった。ヒロインに敵対する悪魔などがいて、王子様がヒロインを助けるというストーリーである。ところが、今回のハンス王子は途中まではまさしく理想的な王子様を演じ、最後の最後に手の平を返すように悪役に転ずる。こんなストーリー展開はいままでのディズニーには例を見ない。

そういう意味では、今回のアナ雪は王子否定論、ヒーロー不要論となる。主題歌「Let It Go」(ありのままで)が示すように、エルザが魔法を伸び伸びと操り雪の女王として君臨できたように、女性は自分の才能で生きていけばよく、王子なんかの男性に頼る必要はないと言い切っているのかもしれない。

 

このことは現代風潮を色濃く反映している。女性は仕事をもち強くなった。一人で生きていけるから男性なんかに頼らなくてもいい。

今回のアナ雪はディズニー長編映画初の女性監督。正確に言うと、当初からアナ雪の構想を持っていたクリス・バックという男性が監督だったが、途中から脚本を担当していたジェニファー・リーが共同監督になる。つまり、当初あった原作は途中から、彼女の意向が強く反映されるストーリー展開に大きく書き直されたのだ。

彼女の生い立ちと私生活を見るとよく理解できる。ジェニファー・ミシェル・リー(Jennifer Michelle Lee, 1971年- 現在47歳位)は、ロードアイランド州イーストプロビデンスで生まれ育つ。ニュー・ハンプシャー大学の英語科を卒業し、出版界でグラフィック・アーティストとして働くためにニューヨークへ移る。1999年に28歳でロバート・ジョセフ・モンと結婚するが、後に離婚した。2003年に娘のアガサ・リー・モンが生まれる。30歳の頃、コロンビア大学芸術学部に入り、美術修士号を取得した。そこで彼女は後に映画『シュガー・ラッシュ』で共同脚本を務めるフィル・ジョンソンと出会う。この映画の成功が今回のアナ雪の脚本担当に繋がる。彼女は才能溢れる、男性には頼らなくても生きていける、とても強い女性なのだと感じさせる。それがエルサのキャラクターに強く反映されている。娘のアガサ・リー・モンは若くして、映画『アナと雪の女王』で「Do You Want to Build a Snowman?」を歌っている。彼女のしたたかさを感じる一面でもある。

 彼女の生き方・信念が本映画のエルサに強く反映している。

 

3.   「真実の愛」が男女の愛でないこと

 

これまでのディズニー映画は、王子様とヒロインの恋愛そして結婚こそが「真実の愛」として語られてきた。ところがアナ雪では違う。最後の場面で、アナはオラフの助言でクリストフの愛に気付き、クリストフの名前を叫びながら探そうとする。激しい嵐の中なかなかクリストフが見つからない。漸くクリストフの姿を見つけて駆け寄ろうとする。ところが今にも殺されそうになっているエルサを見つけた瞬間に、クリストフのことは放って、エルサの元に駆け寄り、身代わりとなり刀で切り付けられる。結局、クリストフのことは無視して、エルサとの姉妹愛を優先させたわけだ。

この映画における「真実の愛」とは男女の恋愛ではなく「家族愛」のこと。この点が従来のディズニー映画と根本的に違うところで、一部には「この映画は女性が男より女を選ぶという同性愛まで認めることに繋がる。幼い子供たちが男女の恋愛に憧れを抱かなくなることは危険思想だ。」と批判的な意見まで飛び出している。

いずれにせよ、これも女性監督ジェニファー・リーの考え方が強く反映したものだろう。

ネットのWikipediaを参照すると <作品のメッセージとして、監督のクリス・バックは、「家族の強さ」であり、すなわち、エルサとアナの「姉妹の絆」であるとしている。また、共同監督で脚本を担当したジェニファー・リーは、「『恐れ』対『愛』」が本作の大きなテーマであると述べている。> と、両監督がそれぞれ違うことを言っているのが面白い。男性監督クリス・バックは単に家族愛と言っているのに対し、女性監督ジェニファー・リーは、「『恐れ』対『愛』」と言う。恐れとは雪と氷、そして全てを凍らせる魔法であり、その魔法を制御できるのは「真実の愛」であることを知り、アナは自分の胸に刺さった氷を溶かし、かつアレンデール王国に夏と平和を取り戻した。この映画は、そうしたアナの壮大な成長過程を描いている。

 

以上の特異点を踏まえて、「アナ雪とストリップ」について、以下に私の独断論を展開する。

 

1.   「アナと雪の女王」はアナの物語だ!

 

私は最初に、邦題名の「アナと雪の女王」というのが気になった。ストリップファンなので、アナという言葉に敏感に反応したのかな(笑)。私なら「雪の女王のアナ(お尻好きな人にはアナルでもいい)」という題名にしちゃうかも(笑)。おっと、冗談はさておき・・

この映画『アナと雪の女王』の原題は『FROZEN』。“frozen”という単語には「凍った」「氷結した」「極寒の」「冷ややかな」という意味がある。

原題の『FROZEN』から『アナと雪の女王』に至るには、担当者のセンスが少なからず要求されたはずだ。(ちなみに、『アナ(Ana)』は『アン(Ann)/英語』のスペイン語読みでもあるそうだ。)

ネットに、宣伝プロデューサー廣村織香さん(ウォルト・ディズニー・ジャパン)の記事が掲載されていた。要約すると次の二点。「今回の作品は、ディズニー・アニメーションで初の、アナとエルサという“ダブルヒロイン”。その2人のキャラクターを伝えることができるタイトルにしたい。」そして「今回の作品は、アンデルセンの『雪の女王(The Snow Queen)』に着想を得て制作された作品です。ストーリー自体は、アンデルセンのものとは全く異なりますが、それでも、アンデルセンの作品を知っている人にも、興味を持ってもらえばということで“雪の女王”の言葉は残しました。」

 この結果、ダブルヒロインと言いながらもアナとエルサを同等に併記することなく、エルサは雪の女王にすり替えて表記したことになる。

 

 そもそも、ダブルヒロインなのかなぁ~と疑問が湧く。私には、この映画はアナの成長がメインストーリーであって、先ほどのようにエルサを雪の女王とすり替えるくらいだから、エルサは主人公アナの成長をもたらすきっかけを作るところの魔法を使う脇役ではないかと感じた。たまたま、この映画の主題歌「Let It Go」があまりにも出来が良く、興行的にこの歌を売りにしたかったから、エルサも併せて主人公にしたんじゃないのかな。

 

 アナは、落ち着いた大人っぽいエルサに比べて、すごく子供っぽく、いつも自分勝手な行動をしがちなオテンバ娘。それが、仲良しの姉との隔離、両親の死、生涯を誓い合ったハンス王子の裏切りとクリストフの素朴で純粋な愛、命がけの冒険、そして真実の愛。こうした様々な体験を通して素敵なレディへと成長していく過程をドラマ仕立てしたのがこの映画の本質なのではないかと思える。

 ののさんが今回の演目のテーマとして、アナを演じているのは大正解である。

 

2.   オラフは、アナとエルサの化身

 

この映画において、オラフという雪だるまのキャラクターは極めて重要な役割を演じている。(ちなみにオラフという名前はダジャレから生まれた。英語の「Oh!Laugh」、「あぁ、おかしい」をそのまま名前にしてしまったのだそうです。)

 映画の最初で、アナとエルサが雪だるまを作る。二人で仲良く遊んだ思い出の象徴として「雪だるま」という存在がある。全編を通じて「雪だるま作ろう」という曲のメロディが奏でられている。それがこの映画をほんわかしたものにしている。演目「のの雪」はこのポイントをよく掴んでいるね(すごく感心した!)。

 エルサは城を出て、最初に使った魔法が雪だるまを作ったことだった。それも無意識のうちに作った。それがオラフであった。

 オラフはユニークさが前面に出て、それだけが目立っているが、実は愛の化身である。姉エルサが妹アナを想う姉妹愛のシンボルであり、愛の真実を知っている。クリストフの愛をアナに気付かせたり、名言「愛とは自分のことよりも相手のことを考えることだ」と教える。オラフは、この映画『アナと雪の女王』のテーマである「真実の愛(true love)」のメタファー(暗喩)なのです。

 最後の場面で、寒さで凍えそうになっているアナに寄り添い、暖炉の火で溶けそうになってもアナの側を離れようとしなかった。「アナのためなら、溶けてもいいよ」と言い放ったオラフはかっこいい。彼は自己犠牲の塊でもある。私にはオラフという名前が「おらぁ歩なんだ」と聞こえてくる。将棋の歩、つまり捨て駒でもあり、また将棋において最も大切な駒だ。

オラフの口癖「ぎゅーっとして!」は、本来なら雪だるまを抱きしめたら溶けてしまう。それは魔法の力を恐れずにエルサと接していたころのアナを映している。「ぎゅーっとして!」という言葉に「大好きだよ」といって抱きしめていた姉妹の愛情が凝縮されている。

 

 オラフが冬を象徴する雪だるまであるにもかかわらず、夏に憧れているという事が面白い。まさしく、寒い冬をイメージさせるエルサに対して、暑い夏をイメージさせるのがアナ。この二人は中身が全く違うにもかかわらず、お互いを求め合っていた。私の敬愛する歌手で、大学の先輩でもある小田和正さんはオフコース時代に名曲「夏の終わり」を作る。「夏は冬に憧れて 冬は夏に帰りたい あの頃のこと今では すてきにみえる」という歌い出しは、まるでアナとエルサのことを歌っているかのようだ。

 

3.   「真実の愛」は、ストリップにおける見守る愛に通じる!

 

エルサは触れるもの全てを凍らせてしまうという禁断の力を持ったがために、最も愛していた妹のアナから遠ざかることを選択せざるをえなくなった。本当は愛する妹と仲良く遊びたかったし、ぎゅっと抱きしめたかった。それなのに、愛する者のために、部屋に閉じこもり、最後は城から出て山奥に籠ることになる。愛する者のために距離を置くという考え方は、まさしくストリップに通じる。私は以前から「踊り子と客の距離感はとても大事だ」と繰り返し説いている。

 

 ストリップというのは他の風俗と違い、踊り子さんに触れることができません。ただ観るだけです。従って、踊り子さんを愛する仕方としては、目で愛する方法しかありません。好きな踊り子さんに会いたくて劇場に足を運び、ステージを通じて応援する。それは好きな人を「見守る愛」です。ふつう好きな異性ができると自分のものにしたくなりますが、踊り子さんはみんなのものですから、自分だけのものにはできません。そのため、好きな踊り子さんが気持ちよく踊れるように、ひたすら見守ってあげようという気持ちです。これはストリップにしかない、愛のひとつの形です。

 本当に純粋な愛とは本来プラトニックなものだと思います。私は妻を愛し、直接的にSEXもし子供も生まれ、これはこれで大きな愛ではあります。しかし、誰の胸の内にもあると思いますが、実らなかった初恋やSEXに至らなかった恋愛の中に本当に崇高な愛を見ているのではないでしょうか。昔の文学者の中には異性との手紙のやりとりの中に本当の愛があったと懐古している人もいるくらいです。私が手紙を大切にしているのはそのためです。

 見守る愛とは、極めてプラトニックなもの。リボンさんがひたすらお気に入りの踊り子さんのためにリボンを巻き、そして投げる。この中にも無償の愛があります。リボンさんの中には俺が俺がという方がいますが、残念なことに我が入ってきた瞬間にそれは純粋な愛ではなくなります。

 さきほど、ストリップは触れられない愛だと言いました。しかし、好きな踊り子さんを見ていると、正直に言うと、抱きしめてあげたくなります。この衝動は「見えない手」となって、ベッドの上の踊り子さんを優しく抱きしめます。私の魂が抜け出し、踊り子さんを包み込みます。

 好きな踊り子さんに会えた喜び、すてきな裸体を近くで感じられる感激、素晴らしいステージから得られた感動、こうした全ての感情を踊り子さんと共有したいと思う。心で観て、心で感じているからこそ、心を伝えたい。私の魂と踊り子さんの魂を重ねたい。そんな願望が「見えない手」となって、大好きな踊り子さんを包み込もうとする。そこに、ストリップにおける「真実の愛」があります。

 

4.   「Let It Go」(あるがままに)は今の私の生き方そのもの

 

私は愛すべき家族を持っていた。趣味としてストリップに嵌ったが、ストリップのために家族を捨てるなんて考えはこれっぽっちも持っていなかった。ところがストリップに嵌ると時間が割かれる。劇場に行くために「今日は仕事で残業した」とか「今日は休日出勤する」など言い訳をし、次第に生活の中に嘘が多くなる。嘘は必ずバレる。「ストリップは単なる遊びだ」と妻に言い訳しても聞く耳を持たない。最終的に妻は家を出て行ってしまった。

子供が小さいまでは専業主婦だったから良かったものの、次第に子育てから手が離れ、看護師の資格を活かし病院に勤め出してからは妻は強くなった。私の稼ぎに頼らなくても生きていけると判断し、エルサのように家を出て、自分の城を作った。まさしく女性監督ジェニファー・リーの生き方である。

 

一方、私はストリップのために家族も仕事も捨ててしまった。それが私にとっての「あるがままに」であった。

主題歌「Let It Go」の最後の歌詞は「少しも寒くないわ」という台詞で終わる。私も今のストリップLIFEは全く淋しさなんか感じない。家族がいなくても、今は少しも困らない。仕事がないと収入減がなくなり困るが、今のところ退職金でストリップ漬けの生活が可能になっている。家族や仕事があるときはどうしても時間に制約されて、好きなストリップにのめりこむことができなかったが、家族と仕事から解放されることでそれが可能となった。だから今の生活に100%満足している。時間も労力もお金も全てストリップに注ぎ込むことで私の「あるがままに(=わがまま)」は完結している。

 

  以上が、アナ雪を通して私が感じたストリップ論です。

 

 

平成30年3月頭                      大阪東洋ショーにて

 

 

 

 

 

 

 

                      H30.3東洋にて

『雪の女王のアナ(&アナル)』  

~前田ののさん(ロック所属)の演目「のの雪」を記念して~

 

 

 

 ボクは「アレンデール王国」と書かれた看板の売春宿にいた。最近、新装開店して、ディズニーのお姫様を源氏名にしているらしい。ディズニーのお姫様みたいな女の子がいたらいいなぁ~面白そうなので入ってみた。

 受付にオーケンという管理人がいた。値段を聞いたら4000クオーネと言う。「以前は1000クオーネだったじゃないか!」とボクが言うと、「新装開店して高級店になったんですよ。値段が高くなった分、女の子の質もよくなりましたよ。お客さん、いい子を付けますからね。」と慇懃に答える。ボクは黙って4000クオーネを払った。

 オラフという従業員がかいがいしくボクを部屋まで案内した。途中「今日ご案内するのは最近入った女の子です。すごく綺麗で、びっくりすると思いますよ。」と調子のいいことを言う。

 オラフがノックすると部屋のドアが開く。エルサという娘が今夜の相手だった。

 ボクはその娘を見て、こんなに綺麗な子は見たことがないと思った。金髪で絶世の美女。彼女が相手なら4000クオーネなんて全然高くない。

 21歳と若い。ルックスに負けず、ヌードもきれい。色白で、おっぱいもお尻もふっくらとしている。パイパンが眩しかった。たまらなくそそられた♡

 ただ、部屋の中がクーラーが効き過ぎているのか、すごく寒かった。きっと北欧の娘だから、寒いのが当たり前なのだろう。いくら暑くてもクーラーが苦手といって、暑い中で相手したこともあったから、その逆もあるだろうと勝手に納得した。なによりも、こんな綺麗な娘を相手にするのだから寒いとか暑いなんてどうでもいい。じきに身体を触れていれば温かくなるさ!と思った。

 案の定、彼女は私の顔に自分の顔を近づけてきた。唇を重ねる。一瞬ひやっとした。なんか死体か幽霊とキスをしている気分になったが、目の前の綺麗な顔を見詰めると寒さなんか吹っ飛んだ。冷たいとか寒いと感じたのも最初の一瞬でだんだん気にならなくなった。

 

 さっそくお風呂で身体を流すことにする。えっ! お風呂に氷が張っているではないか。

 エルサはニコッと笑う。私は何も言えずに黙って風呂に、いや氷風呂に浸かった。

ひえぇー

 身体が縮みあがった。

 風呂から上がったボクの身体をエルサがバスタオルで拭く。そしてベッドに誘う。

「前のアナにしますか? 後ろのアナにしますか?」エルサは尋ねる。

 ボクは身体が縮みあがっていて、それどころではなかった。

「大丈夫です。私が硬くしてあげます。」 エルサはそう言うとボクのものを掴んで息を吹きかけた。周りの空気に含まれている水分がボクのものに付きだして、氷の粒が白く覆いだした。またボクの中に流れていた血も局部的に固まり出した。たしかに、ボクのものは凍って硬くなった。

 エルサがボクにおおいかぶさってきた。彼女の身体はひんやりした。

 彼女は硬くなったボクのものを手で掴んで自分のアナに入れた。前のアナか後ろのアナか、よく分からない。ただ彼女のアナは雪の結晶のように美しく輝いて見えた。

 

 あぁ~彼女は「雪の女王」なんだ。漸く気が付いた。しかし、時は既に遅かった。

 エルサとのSEXは全く感じなかった。本来血の塊である性器が凍っているのだから、感ずるはずがない。やはりSEXは熱い血が重なり合うから快感を呼ぶのであり、血の通わないSEXに快感があるわけがない。

 ボクは彼女の美しさに参ってしまった。まさに彼女はCool Beautyだった。しかしCool Beauty だけではダメだ。Cool Beauty with hot Heartじゃないといけない。

 もう雪女とのSEXはコオリコオリ(氷氷)、いやコリゴリだ!

 ボクは今更ながら、頭の中で何度も反芻していた。

 

                                    おしまい  

 

 

 

 

【「千と千尋の神隠し」のストリップ的な考察】

 

1.    「千と千尋の神隠し」の舞台である湯屋 (油屋)はストリップ劇場だ!

 

 初めて、映画「千と千尋の神隠し」を観たときに、湯屋 (油屋)という銭湯の舞台はソープランドをイメージさせるなぁと直感的に感じた。なぜなら、銭湯なのに大きな浴場ではなく、一人一人のお客(しかも男性を対象と思わせる)を個室のように仕切ったお風呂で接待しているような、いかがわしい雰囲気を漂わせている。それに、この建物内には「回春」という文字もはっきりあったしね。

 主人公の千尋が湯屋で働く際に名前を「千」としたのは源氏名を表している。千尋は「湯女(ゆな)」として働くことになるが、「湯女」とは江戸時代に実際に存在した、今でいうソープ嬢のこと。

 宮崎駿監督は、この映画のインタビューの際に、「今の世界として描くには何が1番ふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか。」と答えている。

また、宮崎駿は、鈴木敏夫プロデューサーのキャバクラ好きの知人による話を元にして、『千と千尋の神隠し』の湯屋を“キャバクラに見立てた”物語を作ったと明言している。

その知人の話というのが「キャバクラに働きに来る女の子たちは、もともと引っ込み思案で、人とのコミュニケーションが上手くできない子が多い。ところが、必要に迫られて、一生懸命いろんなお客さんと会話をするうちにだんだん元気になっていく」というものだったとか。

 キャバクラやソープランドが出てくれば、日本の風俗産業の代表格であるストリップだって同じように語れそうだ。

 

 さっそく湯屋をストリップ劇場に見立ててみよう。

 本映画では湯屋の経営者として湯婆婆、そして姉の銭婆が登場するが、彼女たちはストリップ劇場のママさんを彷彿させられる。未だに踊り子たちの扱いを女の子の人身売買みたいに考えて、お金や権力に異常に執着するママさんもいるよねぇ~。

 湯屋の従業員がカエルというのも笑わせるね。ストリップとカエルは切っても切れないもんね(笑)。ちなみに本映画では、男子従業員がカエルで、女子従業員はナメクジらしい。

 湯女がキャバ嬢やソープ嬢を思わせるという話をしたが、踊り子だってごく普通の女の子に「あなたでも十分大丈夫だから、踊り子をやってみなさい」と勧誘されてステージに上がった娘がいっぱいいる。

 本映画では、お客は「八百万(やおろづ)の神々」であるが、ストリップのお客も魑魅魍魎のような人々がたくさん登場する(笑)。

 

2.    ステージは踊り子の成長物語

 

本映画では、千尋という10歳のひ弱で不機嫌な、ごく普通の女の子が登場する。彼女が、引越しの最中に「不思議な町」に迷い込む。同行した両親は、ある店のカウンターにあった料理を勝手に食べたせいで豚にされてしまう。独りぼっちになった千尋はその町を支配している湯婆婆のもとで「千」という名前にされ、油屋(湯屋)で下働きをすることになる。さまざまな出来事に遭遇するも、謎の少年ハクや先輩のリン、釜爺らの助けを借りながらも、厳しい難局に立ち向かっていく。一人の少女がこうした体験を通して成長していく姿を描いた物語である。

 

最初に千尋が登場した時、ずいぶんブウたれた女の子だと正直思った。父親の転勤で嫌々ながら転校を余儀なくされ、友達とも別れざるを得ずに「初めてもらった花束が別れの花束なんて」と嘆いていた。車窓から見えた新しい校舎を「あんな学校、嫌だ」と愚痴り、ふてくされた顔をしている。これまでの宮崎映画では全てかわいい美少女が主人公であったが、この映画の主人公である千尋はブスだ!と宮崎監督自身も言っているほど。

そんな千尋が、両親が豚にされ、その両親を助けるためにも湯屋で働かなければならなくなる。幼くて何もできない千尋が、さまざまな試練にさらされながら、頑張って乗り越えていく。物語が進展して行くなかで、千尋の顔がどんどん逞しくなっていくのが分かる。最後には先輩のリンに「おまえのことを愚図って言ってごめんな。おまえは立派に成長したよ。」と言わしめたほどだ。

 

以前、私はあるベテランの踊り子さんに「踊り子さんは選ばれた美女ばかりですよね。みなさん自信満々でデビューされてきたんでしょうね?」という質問をしたら、「とんでもない。ごくごく普通の女の子に『あなたでも十分務まるわよ。大丈夫だから、踊り子をやってみなさいよ。』と殆ど騙される形でステージに上がった娘ばかりよ。」と話してくれたことがあった。

右も左も分からない世界で、足をぶるぶる震わせながら舞台に上がり、心無い客の声に何度も心折れそうになりながらも、懸命にステージを務め続ける。そして舞台の場数を重ねつつ、次第にストリッパーの顔になっていく。踊り子は最初から選ばれた美女というわけではなく、まさにストリッパーの顔を自分で作っていくのである。

最近はAV嬢から鳴り物入りでストリップの世界に入ってくる娘も多いが、ひと昔前は何の経験もなく18歳でこの世界に入って来た娘がたくさんいた。彼女たちには千尋の心情がよく分かるだろう。

 

この世界の中でのキーワードは‘働かなければ生きていけないこと’。

映画では、少年ハクが「なんど断られても‘働きたい’とだけ言うんだ!」と千尋にきつく忠告する。働かないとこの世界から追放されてしまうからだ。

それまでの千尋の環境は、両親から‘与えられたままで’生きてきた。だから面白くないからとブウたれていられた。ところが両親が豚にされて、誰も頼ることができなくなった時点になると、自分が働かなかったら生きていけない。ましてや豚になった両親も助けられない。まだ10歳と幼い千尋ではあるが過酷な運命に立ち向かっていかなければならないのである。

おそらく、宮崎監督の一番のメッセージはそこにある。ブウたれている若者たちに向けて、働くことで社会との接点を得ろ!と。

私の経験から、会社の中で働くには、まずは礼儀が大切。最初は挨拶から始まる。同僚に仕事を教えてもらわなくてはいけない。職場のルールは守らなくてはならない。自分の好き勝手にはできない。嫌な仕事も自分の努力と創意工夫、そして周りの人の協力をもってして、乗り越えていかなければならない。時に自分の意に沿わなくても偉い人たちに頭を下げないといけないことも知る。それが社会なのである。働くことで社会の縮図を知るのである。全く同じ経験を千尋もしていく。

 

3.    名前の意味について

 

この映画では「名前」にこだわっている。

千尋には「荻野千尋」という名前があるわけだが、「不思議の町」に入り、そして油屋で働くにあたり、湯婆婆に名前を奪われ「千」という名前にされる。

一方、千尋のことを支える少年ハクは「絶対に自分の本当の名前を忘れてはいけない」と千尋に忠告する。

実際、湯婆婆と油屋で働く契約をするときに、千尋は契約書に自分の名前を書き間違える。「荻」の字中の「火」を「犬」と書く。結果的に、それが効を奏して千尋は元の世界に戻ることができた。一方、少年ハクはこの世界に入り湯婆婆と契約するときに、契約書に本当の名前を書いてしまったがために、元の世界には戻れなくなってしまった。

 

名前には、どういう意味があるのだろうか?

名前というのは「生きる居場所」。すなわち、その人が生きている居場所の証である。例えば、荻野千尋は荻野家の長女として家族に保護される権利を持つ。仮に荻野千尋が会社に入れば、ある部署で働く権利を与えられる。つまり、名前は自分の居場所を主張できる権利なのである。社会の中で、家族と会社という組織が、その人を組織の一員として保護してくれるようになっている。

だから、勝手に自分の名前に関する家族や会社の情報を暴露され、不本意な扱いをされると、その人の居場所は危ういものとなる。そのために個人情報保護法が成立している。しかし、未だこの法律はザル法である。

例えば、家族の中に犯罪者がでて、その事実が公に知られると、他の家族も批判の対象となり、仕事を失ったり、終いには夜逃げ同様に引越しするはめになる。家族もろとも生きる居場所を失い、社会から追放されることになる。

ストリップは悪いこととは思わないが、踊り子をやっていることを親バレして辞めていく方も多いし、世間体が悪いと思っている踊り子はたくさんいるだろう。ストリップの客も履歴書に「趣味はストリップ通いです」とは書けない。つまり、ストリップは市民権を得ているとは言えない。

私の場合も脇が甘くて、ネットで名前や会社名などの個人情報が暴露されてしまった。まさかとは思っていたが、その結果、家庭崩壊と失業という最悪の事態を招いてしまった。具体的にはネットで私のストリップ通いを家族に知られ、妻は許してくれず離婚となり、妻と子供三人が家から離れていった。また一番ショックだったのが、看護師をしていた娘は医者との婚約を破棄された。酷いことにネットで私に娘がいることまで暴露されていた。婚約相手が興信所に調べさせたのであろう。その事実が婚約相手や娘に伝わってしまう。娘から涙ながらに責められ、最後は「お父さんとは二度と口をきかない!」と縁を切られた。たかがストリップ通いでそこまでされるとは夢にも思わなかった。気付いたときには後悔しても遅かった。

また、ネットに名前と会社名・部署名・役職名までを載せられることで、会社の情報検索にひっかかり、私のストリップ通いは会社や従業員にバレることとなった。最初は上司から呼び出されて注意されただけだったが、その頻度が高まるにつれ退職勧告になっていった。私は部下に女性もいたので、ストリップ通いの上司をどう思うか分からない。終いには会社の中で「私を会社の中枢部門に置いておくわけにはいかない」と判断されてしまい、もう私は会社に居られなくなってしまった。

私はこうして家族と会社の中で居場所を失った。それは社会からの追放になる。

 

もうひとつ、踊り子は芸名を持つ。千尋の場合の源氏名「千」と同じく。

踊り子としてステージに立つときは、芸名だけが広がる。仮に有名になった場合も、本名が出ると困る。親バレを怖がる踊り子は多いからね。

そして踊り子を辞めたら、当然に本来の名前に戻る。ところが、なかなか元の名前に戻れない方もいる。芸名の自分に固執してしまい、元の名前で生きていけないのである。つまり、踊り子時代に一度ちやほやされてしまうと、地味な生活に満足できないのか、普通の生活ができなくなるという話はよく聞く。引退後も華やかな踊り子時代を思い出し、地味な仕事や生活に耐えられず、すぐに戻ってくる方も多い。こういう人は、女優のような芸能人にもたくさんいる。

千尋はこの不思議な世界で成長を遂げ、普通の生活に戻っていった。踊り子というのもストリップという不思議な世界で、人気が出るとたくさんちやほやされ、たくさんお金を稼ぎ、もちろん苦労もして、成長をする。踊り子とファンという関係は、踊り子の成長を一緒に楽しむことに醍醐味がある。お互いがそのことを十分に理解してストリップを楽しまなければならない。

そのことを忘れると、本来の名前を忘れてしまい、踊り子を辞めた後に本来の自分に戻れなくなるので気を付けなければならない。

 

私はストリップの父を自任している。だから、太郎チルドレンと呼ばれるような、私と縁のできた踊り子さんには「踊り子と客の間には適度な距離感を持つ必要がある」と再三話す。ファンは踊り子という芸名のある一時期だけを応援するもの。彼女の本名である長い人生には関与できないし、関与しようとしてはいけない。つまり、もともと踊り子は恋愛対象や結婚対象にはなれないのである。そのことをしっかり弁(わきま)えないとお互いが不幸になる。そのことを十分弁えてさえおけば、ストリップで絶世の美女との仮装恋愛を楽しめる。

それがストリップという世界のルールなのである。

 

4.    お客はすべてカオナシである。

 

本映画には、カオナシという怪物が登場する。しかも準主役級の少年ハクよりもはるかに多く出てくるメインキャラクター。もともと宮崎監督はメインにするつもりはなかったらしいが、話が進むにつれ、どんどんメインになっていったというのが面白い。それほどに本映画を味わうには重要な存在として位置づけられる。

カオナシは、黒い影が仮面を付けている容姿。仮面をつけているから表情や感情は読み取れない。また、言葉は「あー」とか「えー」としか発しないので何を考えているか分からない。こうしたことから彼はカオナシという名前の通り(ちなみに英語ではNO FACE)、「個性が見えない」「自分がない」存在

彼が初めて登場するのが、千尋がハクに連れられて油屋へ通じる橋を渡る時。カオナシは千尋になんとなく興味を持つ。油屋で下働きしている千尋のことを外から眺めていたら「雨の中に立っていたら濡れちゃうよ。この扉を開けておくから中にお入り!」と千尋に優しい声を掛けられ、千尋に好意を抱き、千尋の喜ぶことをやろうとする。番台から薬湯の札を盗んで千尋に渡して、千尋を助けるまでは良かったが、身体から砂金を出して渡すと従業員たちが狂喜するのを見て、次第に欲望をエスカレートさせ、反発する従業員を飲み込み‘欲望の怪物’になっていく。

それを止めようと、カオナシの前に立つ千尋。カオナシは千尋の機嫌をとろうと砂金を差し出すが拒否されて戸惑う。千尋には欲望がなかった。「あなたには私がほしいものは出せない」と言われ、そこでカオナシは暴走を止めおとなしくなる。

そして千尋から「あなたの家はどこ? 両親はいるの? あなたは元のところに戻った方がいいわ。」と促されるも、戻る場所のないカオナシは「いやだ」「さびしい」と言うだけ。ここからカオナシは「居場所のない不安定な存在」であることが分かる。

物語の最後には、千尋と一緒に海原鉄道に乗って、銭婆のところに行き、そこで銭婆に存在を認められ、ここに居るように言われる。ようやく安住の地を見つける。

 

以上の行動から、カオナシの特徴は次の通り。

・コミュニケーション能力がない

・お金で全てを解決しようとする

・嫌なことがあるとすぐ暴れる

 極めて人間くさい、生の人間の欲望がそのまま具現化されたような存在と云えよう。

 宮崎監督は「みんなの中にカオナシはある」と話しているので、カオナシに人間そのものを暗喩させていると感じられる。

 

 改めて、ストリップの客はみんなカオナシだと思う。

まず、ストリップの客というは、寂しがり屋のかまってちゃんばかり。砂金をダシに千尋の気を引こうとするカオナシを見ていると、チップをダシにして踊り子の気を引こうとする客そのものだ。

だから「あなたには私が求めているものは出せない!」とバシッと言われてたじたじになるカオナシを見ていると、「こいつ、どうなる?」と自分のことのように心配になる。最後に、銭婆のところに居場所を見つける。おっ、ここで働かせてもらえそう。なんとか心穏やかに暮らしていけそう。そんなカオナシの姿に私はホッとした。

 

 ストリップの客は誰も自分の素性を話そうとはしない。それぞれに自分の生活があり、家族がいたり、職場を持つ。いくらストリップが好きでも、家族や職場の同僚に「ストリップ通いが趣味だ」とは言えず、こそこそと劇場通いしているのが大半である。客同士、いくら仲良くなっても素性を明かさないのがマナーでもある。本名を名乗らずニックネームで呼ぶことが多い。みんなカオナシなのである。ほんと不思議な世界である。

 みんなスケベで、趣味を同じくしているので気が合う。ストリップの話をしていると話が盛り上がる。飲み仲間になることも多い。それでもお互いの生活には踏み込まないよう、一線は守っている。

 だからいいのかもしれない。家族や職場ではあまりスケベな顔はできない。品格が疑われるし、今はちょっとした言動ですぐセクハラ問題になる。表向きはスケベな本性を隠し、真面目な顔をして生きていかなければならない。それだとストレスが溜まるので、時にストリップでストレス発散をする。これは自然な行いである。ストリップという世界で裏の本性を出して楽しみ、また表の世界に戻っていけばいい。表裏バランスすることで人間として生きるバランスを得られる。特に女性に縁のない独身男性にとってはストリップのような性風俗は欠かせない。ストリップが性犯罪や軽犯罪の抑止効果があることは他で述べたい。

 

 ストリップそのものが悪いことだとは思わないが、未だストリップが市民権を得ておらず、カオナシの状態で楽しむ遊びだとすれば、個人情報をネットなどで暴露するのは許されない犯罪である。他人の楽しみや幸せを奪う人間が許されていいはずがない。私のように家庭を壊され仕事を失くすような人間を作ってはいけない。個人の不幸を喜ぶ人間が蔓延しては‘いじめ’は無くせない。しっかり犯罪者として罰するべきだ。そういう仕組みを作っていかなければ世の中はよくならない。

 

5.    私はハクになりたい!

 

本映画に登場するハクは、宮崎映画に登場する男性の中で、最も美少年として人気が高い。平昌オリンピックのフィギュアスケートで二連覇した羽生弓弦選手が着ていた衣装によく似ているため、羽生選手とイメージがダブルと噂されるほどだ(笑)。

ハクは千尋が不思議な世界に迷い込んできて、最初から千尋の味方として助ける。

最後には、湯婆婆に対して「千尋と両親を助けてほしい。そうしてくれたら、自分は八つ裂きになっても構わない。」と言い切って、湯婆婆の子供(坊)を助けるために銭婆のところに向かう。愛する千尋のために自己犠牲を厭わない。

そんなハクだから千尋にも愛される。

 

一方、ハクはあまりにもかっこよすぎないか、ハクの出番って都合よすぎないか、という声も聞こえてくる。

この点に関して、宮崎監督はこう述べている。「こういうふうにするつもりは全然なかったんです。ただ女がいれば男がいるし、男がいれば女がいる。そうやって世界ができているわけで、主人公がブスなんだから白面の美少年がいないとつまらないかなと思っただけなんです」(ロマンアルバム)

ハクは千尋の成長を促す係として作られた、対比キャラだ。だから見た目も対照的となった。

作画監督・安藤雅司もこう述べている。「(ハクは)本当はもっと怪しくしたかったんです。ただキャラクター的に、透明感のある美少年の典型ということで描いていくしかなかったというのが正直なところです。でもハクに関しても、少女マンガに出てくる美少年のようにならないように、気をつけたつもりです」(ジブリの教科書「千と千尋の神隠し」)

奇怪な存在だらけの映画で、彼のキレイな外見はとても目立つ。序盤でたまたまハクと出会って以来、救われまくる千尋。ハクはいつも都合のいいところで登場する。

とにかく、宮崎アニメの中でも屈指の王子様キャラである。

 

私は美少年でないから、ハクの容姿には遠く及ばない。ただ、‘容姿’違いではあるが、手紙という‘用紙’で踊り子を元気にする魔法の言葉を発する。最近は白(ハク)の用紙にお絵描きを楽しんでもらう。そんなことで踊り子を応援する。

ストリップ界のハクと呼ばれたい。(笑)

 

                                   おしまい