ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第95章 ストリップとストーカー ~川端康成『みずうみ』『伊豆の踊子』を読んで~ の巻

 

 

  ストーカーというと、ストリップでは一番の重罪である。

 踊り子Sさん(鈴木ミントさん)の事件を思い出す。Sさんが最近ステージにのらなくなったので彼女のファンにさりげなく尋ねた。そうしたら、Sさんが地方公演に出かけていた時に滞在していたホテルまでストーカーされたらしい、と彼女のファンから聞いた。その事件の後、しばらく休業してしまった。私はそれを聞いて驚き、Sさんが心配になった。もうベテランの域に達している彼女だからストリップに絡むことはいろいろ経験しているだろうし、アイドルとしての警戒は十分にもっていただろう、とは思われるが、今回のストーカー事件は相当のショックを受けたことだろう。仲間うちでは、Sさんがこのまま踊り子を辞めてしまうのではないかとかなり心配していた。どうにか復帰してくれてホッとした。

 終演を待って劇場前で出待ちなんかしたら、一発出禁になる。そのくらいストーカー行為は忌み嫌われる。

 

 

 ストーカー事件を話題にしたのは、川端康成の『みずうみ』(原題は『みづうみ』だが、ここでは現代仮名遣いの表記とした)を読んだためである。

 この作品が川端の変態小説のひとつであることは知っていた。ストーカーのことを話題にしようと思い、ネタとして着手した。長編とはいえ、150ページに満たないので一日で読み切った。内容に引き込まれたわけではない。事件が過去や現在に飛びまくり話が非常に錯綜している。主人公の心理を追っているのだが、非常に分かりずらい。読んでる途中から、じっくり読み込もうという気持ちが萎えて、あまり時間をかけまいと思い、読み飛ばしてしまった。

 内容を簡単に紹介します。

元高校教師の桃井銀平には、綺麗な女の人を見かけると後を追いかけてしまう「ストーカー癖」がありました。ストーカーというと、相手に危害を与えるような恐ろしさを想起してしまいますが、銀平にそんな気はありません。銀平にあるのは、美しいものに惹かれる純粋な気持ちです。「ある聖少女の美しい黒い目の中のみずうみを裸で泳ぎたい」なんて願います。

様々な女性への秘めた情念を、回顧、現実、妄想、幻想などの微妙な連想を織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、「永遠の憧れの姿」に象徴化させていると解説されます。最後まで読むと、夢の中にいるような不思議な感覚が味わえると言いますが、私の頭の中は瞑想してしまいました。

本作は、川端康成の作品の中でも、とりわけ異質と言われています。美しい文体の中に潜む、異様な気持ち悪さ。そして、現実と妄想の間で揺れ動く主人公の心。発表当初、賛否両論が交わされた川端康成の問題作です。川端は晩年になり、「魔界」の概念にとりつかれるようになり、これを最も積極的に取り込んだ作品のひとつになります。

 

私には、なぜノーベル文学賞を受賞したまでの文豪がどうして「魔界」の概念にとりつかれるようになったのかが気になりました。

 そう思いつつ、初期の作品を読み返すと、川端には最初から「魔界」の意識があることに気づく。

 

 川端の初期の代表作『伊豆の踊子』の学生はストーカーだった。

 最初の場面で、茶屋のおばあさんは、旅芸人は夜の相手もしてくれると話している。それを耳にして、学生は一目ぼれした踊り子を夢中で追いかけ始める。

 川端はあのギョロ目をぎらつかせながら14歳の踊り子を追いかけていたわけだ。なんかぞっとする光景が浮かんでしまう。

吉永小百合は映画『伊豆の踊子』撮影時、川端に会い、川端の印象を最高の紳士だと話しているが、それは欺瞞である。きっと川端は吉永小百合のことをエロエロの目で見ていたんだ。

話の中の学生は、踊子だから、部屋に呼んだら来てくれるだろうと思っている。だから、同じ宿に泊まりながら、彼女が他の客がつかないか「今日の夜は汚されないか」と、心配になっている。相手の踊り子は14歳の女の子なんだから完全なロリータ趣味である。

学生の変態性は、踊り子の使った櫛を欲しがっていることからも窺われる。強いフェティズムを感ずる。ところが、踊り子はその櫛で子犬の毛をなでる。それを見た学生はがっかりする。学生は後で薫から旅の記念にもらおうと密かに思っていたのだ。

まるで、踊り子がパンプレを客の頭にかぶせるのに似ている。かぶせた瞬間にパンプレの価値はがくんと落ちる。パンプレは他のものと接触しないからこそ彼女そのものであり貴重なのである。いくら好きな女の子のパンツでも他の客の頭にかぶせたものなんか欲しくないものだ。

文中では、学生の私は旅芸人を下に見ていないとしきりに書いている。しかし、実際はそうでもない。学生は薫に本を読み聞かせる場面がある。その本のタイトルは「水戸黄門」である。学生にとっての葵のご門とは一高の学生帽である。一高とは今でいう東大教養学部であり超エリート。それに対し、踊子の薫は尋常小学校2年しか出ていないで字も読めないレベルの女の子なのである。エリート意識で旅芸人を見下しているのがぷんぷん匂ってくる。

このように、川端文学は、後年‘魔性’を追求したと説明されるが、むしろ当初から‘変態性’をキーワードにして読むと味わいがある。学生のもつ孤児根性は変態志向につながっているのである。ただ断っておくが、それで川端文学の評価が落ちるわけではない。むしろ人間くさいし、美しい文体でうまくオブラートに包んでいることが天才ならではなのである。

 

一方の、旅芸人たちの陰謀もすごい。旅芸人は社会の最下層にいる。だから一高の学生は非常にまぶしい存在。将来はえらくなるだろうから安泰である。40女はどうにか薫と結び付けたいと思っている。姉の千代子は何の取柄もない栄吉と所帯をもってしまっていて(できちゃった結婚で、赤ん坊は早産)、栄吉は一緒に旅芸人として同行している。母親としては、残る薫だけには玉の輿にのってほしい。そんなときに相手として将来有望な学生が現れたわけだ。なんとかして家族の中に取り込みたいと画策している。薫を安っぽく見せたくないので手練手管の言動をみせる。なかなかやり手の40女だ。

旅芸人たちは、亡くなった赤ん坊(仙吉と千代子の子)の四十九日を明日に控え、一緒に法要してほしいと頼む。しかし、学生はお金がなくなったこともあり、表面上は学校が始まることを理由に法要には同行できないと断る。

学生はこのまま同行すれば、旅芸人の術中にはまり、薫と結婚させられることになるだろうと警戒したのである。

薫のことが本当に好きなら、一日残って、一緒に法要することで家族との親交を深めたはずだ。前日に薫と千代子の二人を活動映画に誘ったくらいだから、お金もなんとかなったはず。頭のいい学生は家族の思惑が分かり、あえてこれ以上の深入りを避けたのであろう。

でも、旅芸人たちはあきらめずに、学生に対して次の冬休みに会いましょうと誘っている。大島に来て下さいと誘う。大島とはどんなところか。江戸時代は流刑の場であった。もともと風紀のよいところではない。

薫は学生に対して大島のことを次のように話している。夏は海水浴でお客がたくさん訪れる。それは当然にしても、冬でもお客さんが訪れると話す。それに対して、学生は「大島では冬でも泳げるんですか」と聞き返す。薫は一瞬迷ったが「そうです」と答える。それを横で聞いていた40女は「バカねえ」と薫をたしなめる。おそらく、客は女を求めて大島に行っている。旅芸人たちの商売はそんなとこにある。うぶな薫はうまく答えられなかったのだ。

大島の旅芸人は、『雪国』における芸者と全く同じ境遇にある。同じ芸を売る立場であり、旅芸人はあちこちを動き回り、芸者は一つ場所に留まる。男たちは、そうした女という慰めを求めて旅に出る。

結論から言うと、おそらく学生は薫と結ばれない。この学生が大きくなったら『雪国』の島村みたいになるのである。川端の女趣味はずっと続く。川端と親しかった三島由紀夫は川端のことを「永遠の旅人」と呼んでいるが、そういう意味が含まれているのだろう。

『伊豆の踊子』をストーカー物語として読むと、非常に緻密な仕掛けがされていることに改めて気づかされる。純情な恋愛小説と思わせておいて、実は鋭いサスペンスドラマに様変わる。さすがノーベル文学賞作家は奥が深い。

 

 

 以上のストリップ太郎の話を聞いて、ちんぽ三兄弟が騒ぎ出した。

「でも、川端の『みずうみ』と『伊豆の踊子』を読むと、悪意のないストーカーもあるんじゃない。いろいろ妄想はするけど、手を出したりしてないよ。」

「まぁ、ストーカーというのは、追いかける行為そのこと自体が問題なのかな。」

「そう考えると、ストリップの追っかけ(全国を遠征する)とストーカーは紙一重になるぞ。前者は熱心な客として歓迎されるも、後者は犯罪者になっちゃう。こりゃ大変だ」

「いったい、この差はどうして生ずるかな?」

 それに対して、ストリップ太郎は口を挟んだ。

「ひとえに客の心持ち次第なのだろう。みんなで踊り子を応援したいと思えるストリップを心底愛する者だけが追っかけを許される。利他の精神さ。それに対して、踊り子を自分だけのものにしたいと考える自分本位な輩は許されない。それはストーカーとみなされる。

 一般の男女の恋愛はどうしても相手を自分のものにしようと欲する。だからストリップの追っかけは特殊なのかな。でもアイドルの追っかけも同じだよね。」

 

「川端はなんでこんなストーカーまがいの小説を書いたのかな?  彼の‘魔界’にはどんな背景があるのかな?」
 この質問に対しても、ストリップ太郎は次のように解説した。

「『伊豆の踊子』の中に、主人公の孤児根性という言葉が出てくる。彼は幼くして全ての肉親を失ったんだ。医者だった父を1歳7カ月で結核で亡くし、翌年母も亡くなる。そのため康成は実家に預けられる。ところが、祖母は小学校入学時に、祖父は中学卒業時に亡くなる。別の家に預けられていた姉も既に亡くなっていた。彼は15歳にして天涯孤独となってしまった。

こうした孤児の生い立ちに加え、結婚したものの子宝にも恵まれなかった。「不妊」(最初の死産を含む、妻の数度の流産)の状況により、本当の意味での「孤児」の悲哀、「孤独」の感を強めたと言われている。

また、『伊豆の踊子』について言えば、ちょうど婚約までした初恋の人伊藤初代との突然の別れが大きく影響している。どうも彼女は誰かに犯され、黙って川端の元から離れていったようだ。川端のショックは大変なもの。

こうした悲惨な過去の体験が川端を魔界に導いたことは想像に難くない。」

ちんぽ三兄弟はしんみりと聞いていたが、話を切り替えた。

 

 

「先ほど、川端康成と吉永小百合さんの話があったね。実は僕は、吉永小百合さんのファンなんだ。

山田洋次監督の映画『男はつらいよ』(同じ主人公で50本の映画はギネス記録)にも吉永小百合さんは登場する。このシリーズには日本を代表とする美人女優がマドンナとして次々に登場する。マドンナに誰を選ぶかは山田監督の好みもおおいに影響していると思うが、最初に二度目の出演したのは吉永小百合さんだった。山田監督は、今や78歳にもなった吉永小百合さんを主役として抜擢するほど吉永小百合さんを気に入っている。」

「私も、渥美清さん演ずるフーテンの寅さんが大好き。

 ストリップの追っかけは、フーテンの寅さんみたいになるべきだね。寅さんは、純情だし、同じ旅人として粋だよなぁ。」

 みんなが頷いた。

 

                                    つづく

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第95章 ストリップと老いらくの恋 ~川端康成『眠れる美女』を読んで~ の巻

 

 

 この文豪シリーズを書くにあたり、三島由紀夫の次には川端康成に関心が向かった。

なぜなら川端は三島の恩師である。東大在学中に出版された三島の処女作『花ざかりの森』を高く評価したのは川端である。それが縁で二人の親交はずっと続く。

 ところで、三島が太宰治を嫌っていた話を既にしたが、川端も芥川賞選考委員として第一回芥川賞で太宰を落選させた張本人である。芥川賞を逃した太宰が川端に対して悔し紛れの手紙を送ったのは有名な話である。このように、三島も川端も、太宰つながりとなっている。

 

 川端康成といえば代表作は『雪国』『伊豆の踊り子』『古都』などで美しい恋愛小説を思い浮かべる。しかし、今回ご紹介するのは知る人ぞ知る変態小説である。『眠れる美女』『片腕』の短編に始まり、長編『みずうみ』など沢山ある。『みずうみ』は今でいうストーカー男の話である。川端は晩年に「魔界」に強い関心を抱くようになる。

それにしても、あのノーベル賞作家として有名な川端康成に変態小説があるのは意外だった。

 女優の吉永小百合さんが川端康成と会ったのは映画『伊豆の踊り子』の撮影現場でのこと。小百合さんの入浴シーンがあったが、そのとき川端は彼女を見て「あなたは脱がなくていい」と言ったという。その思い出から、小百合さんは「これまで会った男性の中で川端さんが一番ダンディな男性だった」と話している。

 このイメージを全く覆す。おそらく、彼の変態作品をノーベル賞委員会の人が見ていたら、川端はノーベル賞をとれなかったかもしれないなと勘繰りたくなる。(笑)

 

 川端の1963年ノーベル文学賞受賞の逸話を紹介する。ノーベル章の選考過程は50年間秘密にされることになっている。50年後の2014年に驚くべき事実が判明した。当時、最終候補として6人の名前があがっていた。その中には日本人の、谷崎潤一郎、川端康成、そして若くして三島由紀夫の名前もあった。その中でも三島由紀夫が最有力候補であったらしい。そこで日本文学に造詣の深いドナルド・キーンさんにノーベル賞委員会から打診があった。キーンさんは「今の日本文壇の評価では三島由紀夫に勢いを感じる。しかし日本には年長者を立てなければならないという風潮が強い。ここは最年長の谷崎潤一郎でいくべきだ。三島はまだ若いので次にチャンスがあるだろう。」と返答した。そこで一旦ノーベル賞委員会は谷崎潤一郎でいこうと考えたものの、発表まで時間が過ぎる間に谷崎は亡くなってしまった。そこで次席候補の川端康成に決まったというのだ。

 川端康成が受賞したとき、記者会見で三島由紀夫も同席している。表面上は恩師の受賞を称えながらも、自身が受賞を逃した悔しさを隠せなかったらしい。そのときの映像が生々しく残っている。

 もう少し雑談すると、後に2013年テレビ放送「ニッポン不易流行」で、ドナルド・キーンと瀬戸内寂聴の対談がされていて衝撃的な話をしている。「ノーベル賞は川端康成でなく三島由紀夫が受賞すべきだった。三島だったらあの自決はなかったし、受賞した川端の自殺もなかった」とキーンさん。寂聴さん「私もそう思う」。

 ドナルド・キーン氏は外国人でありながら、他の誰よりも日本文学を愛し探求を極めた学者です。彼は早くから、日本文学の最高到達点は、三島由紀夫さんだと高評価していました。谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫、安部公房の作品を欧米に紹介した功績は讃えきれないほどの大きな仕事だったと改めて思います。

 

 

 前置きはこのくらいにして、今回のテーマは(前述の童貞文学に対して)“老いらくの恋”としたい。

「老いらくの恋」と言えば、年老いてからの恋愛であり、決していかがわしくはない。もともと、この言葉は、昭和23年(1948)、68歳の歌人川田順が弟子と恋愛、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた語である。

 老いても恋ができるというのは素晴らしいこと。老いると性的に減退するものだが、枯れずに恋ができるというのは立派なものだ。

 ただ、ここでは純愛路線ではなく、前述した川端康成の老いてからの変態小説を取り上げる。

小説『眠れる美女』は、おじいちゃんと裸の女の子が添い寝する話。川端康成の作品には官能的な作品がいくつもあるが、なかでも人気なのが本作です。

 

物語は、江口という老人が会員制の秘密の宿に来たところから始まります。この宿は、睡眠薬で絶対に目覚めない裸の美少女と一緒に添い寝できる代わりに、すでに精力の衰えた老人しか入ることが許されていません。しかし、まだ性機能が衰えきってるわけではない江口老人は……というお話です。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用しながら、以下に詳しめにあらすじを紹介します。

<あらすじ>

江口老人は、友人の木賀老人に教えられた或る宿を訪れた。その海辺に近い二階立ての館には案内人が中年の女1人しかいなかった。江口老人は「すでに男でなくなっている安心できるお客さま」として迎えられ、二階の八畳で一服する。部屋の隣には鍵のかかる寝部屋があり、深紅のビロードのカーテンに覆われた「眠れる美女」の密室となっていた。

 

そこは規則として、眠っている娘に質の悪いいたずらや性行為をしてはいけないことになっており、会員の老人たちは全裸の娘と一晩添寝し逸楽を味わうという秘密のくらぶの館だった。江口はまだ男の性機能が衰えてはいず、「安心できるお客さま」ではなかったが、そうであることも自分でできた。

 

眠っている20歳前くらいの娘の初々しい美しさに心を奪われた江口は、ゆさぶっても起きない娘を観察したり触ったりしながら、昔の若い頃、処女だった恋人と駆け落ちした回想に耽り、枕元の睡眠薬で眠った。

 

半月ほど後、江口は再び「眠れる美女」の家を訪れた。今度の娘は妖艶で娼婦のように男を誘う魅力に満ちていた。江口は禁制をやぶりそうになったが、娘の処女のしるしを見て驚き、純潔を汚すのを止めた。まぶたに押し付けられた娘の手から椿の花の幻を見た江口は、嫁ぐ前に末娘と旅した椿寺のことを思い出す。2人の若者が末娘をめぐって争い、その1人に末娘は無理矢理に処女を奪われたが、もう1人の若者と結婚したのだった。

 

8日後、3回目に宿を訪れて添寝した「眠れる美女」は、16歳くらいのあどけない小顔の少女だった。江口は娘と同じ薬をもらって、自分も一緒に死んだように眠ることに誘惑をおぼえた。老人に様々な妄念や過去の背徳を去来させる「眠れる美女」は、遊女や妖婦が仏の化身だったという昔の説話のように、老人が拝む仏の化身ようにも江口には思われた。

 

次に訪れて添寝した娘は整った美人ではないが、大柄のなめらかな肌で寒い晩にはあたたかい娘だった。江口の中で再び「眠れる美女」と無理心中することや悪の妄念が去来した。

 

5回目に江口が宿を訪れたのは、正月を過ぎた真冬の晩だった。狭心症で突然死した福良専務もこの「秘密くらぶ」の会員だったことを、江口は木賀老人から聞いていた。福良専務は世間では温泉宿で死んだことになっていた。宿の中年女はその遺体を運び擬装したことを江口に隠さなかった。

その晩、江口の床には娘が2人用意されていた。色黒の野性的な娘と、やわらかなやさしい色気の白い娘に挟まれて、江口は、白い娘を自分の一生の最後の女にすることを想像した。江口は自分の最初の女は誰かとふと考え、なぜか結核で血を吐き死んでいった母のことを思い出した。深紅のカーテンが血の色のように見えた江口は、睡眠薬の眠りに落ちていった。

 

母の夢から醒めると、色黒の娘が冷たくなり死んでいた。江口は眠っている間に自分が殺したのではないとふと思い、ガタガタとふるえた。宿の中年女は医者も呼ばず平然と対処し、「ゆっくりとおやすみなさって下さい。娘ももう1人おりますでしょう」と言って、眠れないと訴える江口に白い錠剤を渡した。白い娘の裸は輝く美しさに横たわっているのを江口は眺めた。死んだ黒い娘を温泉宿へ運び出す車の音が遠ざかった。

 

 次のような解説あり。

『眠れる美女』は、川端康成の中編小説。「魔界」のテーマに連なる川端の後期を代表する前衛的な趣の作品で、デカダンス文学の名作と称されている。すでに男でなくなった有閑老人限定の「秘密くらぶ」の会員となった老人が、海辺の宿の一室で、意識がなく眠らされた裸形の若い娘の傍らで一夜を過ごす物語。老いを自覚した男が、逸楽の館での「眠れる美女」のみずみずしい肉体を仔細に観察しながら、過去の恋人や自分の娘、死んだ母の断想や様々な妄念、夢想を去来させるエロティシズムとデカダンスが描かれている。

これまで日本で2度、海外で3度(フランス、ドイツ、オーストラリア)映画化された。

→映画化されていることにビックリ!機会があれば観てみたい。

 

執筆期間中、川端は睡眠薬による禁断症状で意識不明な状態が続いたそうです。その時の経験も『眠れる美女』に生かされているのかもしれませんね。

 

内容を見るに、老人の性について書かれた作品ではありますが、ただ官能的なだけではありません。主人公の江口老人は、女の子と添い寝しながら、夢の中で今までの人生を回顧します。川端康成の繊細な文体でつづられる幻想的な夢の世界と、現実世界の官能性。それらが見事に融合し、不思議な読後感を誘う作品となっています。

しかしながら、『眠れる美女』の設定は、どう見ても変態的である。

薬によって眠らされた、裸の美女の横で、老いた男たちが、セックス抜きで(ただしペッティングは行なう)ただ眠る。冷静にふり返るにあからさまに気持ち悪い設定だ。

しかしこの作品に漂う、ふしぎな雰囲気とエロティシズムは強いインパクトを残す。

実際の行為には至っていないものの、女の体を観察し、セックス抜きで彼女らの体に触れることで、しないからこそのエロさが立ち上がってくるのが良い。特に肉体描写の丹念さと耽美さは目を見張るものがあるのだ。さすがは文豪。こういうエロティックな書き方もあるのだな、と感心させられる。

そしてそのような異常な設定から、老人の人生と、男性性と老いというテーマが浮かび上がってくる。

 

 

 この小説に出てくる「秘密くらぶ」は、私にとってストリップ劇場なんだなとつくづく思えた。

今のストリップ客の大半は高齢者である。性欲の激しい若者は直接的な風俗に走る。高齢になれば性的に減退するが、中には、江口のように枯れないエロスをもつ人もいる。そういう人向けにストリップ劇場があるんだね。言い換えれば、静かな安らぎの死に向かっていく高齢者の慰みの場がストリップ劇場ともいえる。

ストリップは「触れてはいけない」風俗。そこも相通じる。

文中に「仏の化身」と出てくる。女性の性器をよく観音様と言う。私は毎日ストリップ劇場で観音様を拝んでいる。まさしく踊り子は私にとっての仏様なのである。

 

まことにストリップ劇場というのは不思議な場所である。

性欲に駆られて入場するくせに、踊り子に対して犯そうという男としてのエネルギーには繋がらない。美術館で絵や彫刻を観るごとく美を求めている。

ストリップとは老人に残された枯れないエロスを楽しむ場。それは、老いらくの恋でもある。ストリップで元気をもらって長生きしたいものだ。

 

                                  つづく

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□94章 ストリップと童貞文学 ~森鴎外『ヰタ・セクスアリス』を読んで~ の巻

                          

                                    

  ノーベル文学賞作家である大江健三郎に『性的人間』という題名の小説がある。タイトルからてっきり文豪の性欲小説かと思って読んでみたら、期待していた性的な描写がなくてなんかがっかりした。(ちなみに、三島由紀夫は大江の小説では本作を特に高く評価している。だから内容は深い。)

その点、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は最初タイトルがなんのことか分からなかったがラテン語で「性欲的生活」という意味と知って読んでみたところ期待を裏切らなかった。

同じ目線で比較してはいけないところだが、つい私個人としては森鴎外の方にこそノーベル文学賞を授与させてあげたいな、と思う次第であった。(笑)

 

 訳の分からない『ヰタ・セクスアリス』というタイトルがこの小説を手にしにくくしている。「ヰ」は、「ゐ」をカタカナで表記したもので、「ウィ」と発音する。はっきり性欲的生活と書いてくれた方が飛びつく人も多いだろう。しかし、文豪の森鴎外は軟弱な表現を許さない。あえて格調高くラテン語にしたのであろうことは想像に難くない。

 しかしながら、大胆な性欲描写が問題となり、掲載された文芸誌「スバル」7号は発刊から1か月後に発売禁止の処分を受けた。

 ついでながら、この小説における、もうひとつのエピソードを記しておく。

<当時「スバル」の編輯をしていた吉井勇は、鴎外からヰタ・セクスアリスの原稿を受け取ったその足で「パンの会」の宴に出席、酩酊した翌朝見覚えのない場所で目を覚まし、一度原稿を紛失している。幸いその日の夕方、会場だった永代亭の酒棚にあり事なきを得たが、見つからなければこの作品は世に出ていなかったかもしれない、と述懐している。>

今では文豪の代表作のひとつとして、こうして手に取れるのが幸せな次第である。

 

 

 この小説『ヰタ・セクスアリス』はめっちゃ面白い。私の琴線にビンビンきた。

 ユーモラスにあふれている。冒頭で、ライバルである夏目漱石の『吾輩は猫である』を意識して、自身も「吾輩も猫である」「吾輩は犬である」なんかを書いてみたいと思う、とあって笑ってしまった。

この小説は「金井湛君は哲学が職業である」という書き出しで始まる。君づけなのもなんだかユーモラス。大学で哲学史を教えている金井君が主人公である。

つらつら考えたあげく、「丁度よいから、一つおれの性欲の歴史を書いてみようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう発展したか、つくづく考えてみたことがない。一つ考えて書いてみようかしらん。」となる。

これは息子に対する性教育としても意味があると納得して、これを書き始める。

 

 幼い頃からの自分の「性欲的体験の歴史」を振り返り書き綴られる。私は一気に話にひきこまれた。いくつかピックアップしてみる。

6歳の時の話。おばさんとどこかの娘が絵を見ています。人物の姿勢が非常に複雑になった絵で、ある部分をこれはなんだと思うと聞かれて、「足じゃろうがの」と答えると笑われます。それは真ん中の足だったんだね。(笑)

7歳の時の話。あるじいさんに「あんたあ、お父さまとおっ母さまと夜何をするか知っておりんさるかあ」とからかわれて、逃げ出します。

また、あるとき、男の子と女の子の違いが気になる〈僕〉は、高いところから飛ぶ遊びを思いつき、女の子にわざと着物をまくらせて飛ばせます。

 

ここまでは幼い頃の話で、少し大人に近づき始める。

やがて13歳になった〈僕〉は、東京英語学校に通うようになります。友達は性欲に振り回され、品行が悪いということで退学になっていったりもします。

そこでは寮生活でした。寮では、上級生の相手をさせられている少年がいて、金井君もあやうく捕まりそうになったことが何度かありました。それを父親に相談すると、「よくあることだ」と言われます。

→ 先に同性愛を扱った小説のひとつに『ヰタ・セクスアリス』が取り上げられていましたが、この辺がそうなのかと漸く納得できました。なるほど男子学生の生活がリアルに描かれています。当時は男社会だったため、高等教育を受けられるのは男子だけでした。そのため、必然的に学校は男子しかいない環境ができます。そして、その寮では男性同士の恋愛がよく起こっていました。もしかしたら、金井君のお父さんもそういう経験があったのかもしれませんね。堀辰雄『燃ゆる頬』なども、寮での同性愛を描いた作品で、実際にそういう経験をした作家も数多くいます。

 

もうひとつ印象的なシーンは、友達の家に遊びに行った時のこと。友達の裔一は留守で、裔一の義理の母親がいます。母親は〈僕〉を家に上がらせます。僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂いがする。僕は少し脇へ退いた。奥さんは何故だか笑った。

(中略)

「わたくしはお嫌」

 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を覗き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は蒼くなったであろう。〈僕〉は逃げ出してしまいます。

 

16歳になった〈僕〉は大学の文学部に入学します。古賀と児島という友達と三角同盟を組み、相変わらず女を知らない「生息子」のまま愉快に暮らします。 

その頃〈僕〉が淡い想いを寄せていたのは、実家に帰る途中で見かける「秋貞」という古道具屋の娘。「障子の口に娘が立っていると、僕は一週間の間何となく満足している。娘がいないと、僕は一週間の間何となく物足らない感じをしている」んです。

 

→ おとなへの階段を一歩一歩上っていく様子が丁寧に描かれます。顔を見るだけの古道具屋の娘のエピソードは、典型的な童貞文学というか、男子特有の妄想爆発のもんもんとした感じに共感できます。

はたして〈僕〉はいつ、どのようにして童貞を捨てるのか!?が気になりますね。

ここで大きな山場となるのは、本文中の言い方をすれば、「騎士としてdubを受けた」かどうかです。要するに性行為をして童貞を捨てたかどうかなんですが、それ以前以後で性的な事柄への関心は大きく変化します。

妄想による謎めいたものから、既知のものに変化するわけです。初体験をすませることによって、言わば視界はクリアになりますが、同時に幻想性は失われます。

 

金井君が一線をこえたのは20歳で、相手は吉原の遊女です。

友人と食事をした後、金井君は両親と暮らしている家に帰るはずでしたが、人力車が向かったのは遊郭でした。

金井君は、誘われるままに見ず知らずの女性と一夜を過ごします。のちに有名な哲学者となった金井君は、この夜を振り返って自身の異常さを認めます。

そして今年、高等学校を卒業する息子には、自分のようにはなってほしくないと思いました。金井君は、自らのこれまでの経験をつづった手記の表紙に、「vita sexualis」とタイトルを書き込んで、机の中に投げ込みました。

 

 以上が、あらすじです。一部(→)私の感想と解説を挿入しました。

 

 以下に、小説『ヰタ・セクスアリス』を読んでいて、気になった箇所について個人的な感想をいくつか述べます。

 

●「小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。」(P7)

⇒ 思わずにたり。私がこの童話「ちんぽ三兄弟」にて文豪シリーズを書いている趣旨をまさしく言い当てている!!!

 

●「宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督(キリスト)を婿(むこ)だというのは普通である。」つまり、女性が尼になるのを基督の嫁になる、と考えられる。

「性欲の目金(メガネ)を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。」(P9)

⇒ なるほどと納得!

 

●「寄席で「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。」とある。

⇒ これは、娼妓との性交渉を、おどけて言った敬語表現である。「かんこ」とは女性器をさす隠語。つまり吉原入門である。鴎外は、その後寄席以外では使われないので、無用な負担になる言葉だったと振り返っている。が、私にはすごく新鮮な詞として響いた。

吉原ソープで童貞を捨てた私には無性に懐かしさや親しみをおぼえさせてくれる。

 

ところで、大学時代のある友人が、自分はストリップの本番まな板ショーで童貞を捨てた、と酒の肴に面白おかしく話していた。それを聞いていて、さすがに私はそれで童貞を失いたくないなと思った。一生後悔すると思えた。というわけで吉原ソープに行った。たいして違わないかな(笑)。ともあれ、先の彼は今や大会社の社長におさまり、私は早々と会社を辞めストリップ通いしているのだから笑える。

 

●鴎外は年頃になり「自分の醜男子なることを知って、しょせん女には好かれないだろうと思った」。そして「僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった」と語る。

⇒ そういう人こそストリップに行くべきである。いいストリップ客になるだろう。

しかし、読み進んでいくと、さすが東大医学部のエリートである。非情な堅物ぶりが目に付く。たまたま友人に無理に連れられて遊郭(吉原)に行ったことを告白しているものの、そういうところには二度と行かないと書いている。これをみると、とてもストリップにハマる感じはしないな。

 

●性欲の虎

「世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背にのって、滅亡の谷に堕ちる。自分は性欲の虎を飼い馴らして抑えている。」(P104)結末

「羅漢に跋陀羅(ばつだら)というのがある。馴れた虎を傍に寝かしておいている。童子がその虎を恐れている。Bhadraとは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。ただ馴らしてあるだけで、虎の恐るべき威は衰えていないのである。」 つまり、小乗仏教の中の聖人は飼いならした虎を傍らに寝かして、虎の威をかることで性欲を抑えている、という話をしている。

⇒ 私は性欲の虎を飼いならしているかな? とふと思う。

子供を三人つくったときに、友人から「おまえは秋田の種馬だな」と冷やかされた。なるほど、私はせいぜい「馬」であり「虎」にはなれない。まぁ、馬並みという言葉もあるから決して馬のことを馬鹿にしてはいけないが…(笑)

たしかに「性欲の虎」とはいかにも性欲絶倫である。しかし、私は歳をとり性欲が萎えてくる時期にストリップにハマり、性欲が枯れないままできている。ストリップは元気の素であり、長寿の妙薬だと思っている。

虎の威をかりて、私は今日もストリップ劇場に向かう。

 

●森鴎外に『二人の友』という短編小説があり読んだ。

 この小説の中に二人の友人との思い出が綴られる。その一人、F君の話。

  F君は、主人公の専門であるドイツ語に憧れて東京から小倉までやってきた若き青年で、主人公は彼のドイツ語のレベルの高さに驚き弟子にします。

 F君のエピソードのひとつに、彼が宴会で、芸者から誘惑される話がある。芸者から「あなたは私の生き別れになった兄ではありませんか」と言われます。しかしF君は真面目に否定します。

 その話をF君から聞いたとき、主人公はすぐに、それが芸者の誘惑であることが分かりました。しかし、F君は芸者の誘いがわからない純粋さを持っていたわけです。主人公はF君が‘童貞’であることを直感しました。そして、‘童貞’こそが学問に対する真摯な態度に通じるものだと、‘童貞’に好感を抱きます。この鷗外の真面目な捉え方は鷗外自身の純粋さをも表していてとても清々しい。

 思わず「童貞文学、万歳!」と叫びたくなる。

 

                                     つづく

 

 

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第93章 ストリップと同性愛(ホモ) ~三島由紀夫「仮面の告白」を読んで~ の巻

 

 

 さて、前回、ストリップで同性愛とくればレズビアンとして話したわけだが、さすがにストリップでホモセクシャルはないだろうと思うだろう。ところがどっこい、最近は時代の流れか、ストリップのステージでホモセクシャルを演ずるものまで出てきた。男同士ではなく、もちろん女性が男装して演ずるものである。男同士が演じたら気持ち悪くてひいちゃうよね。ご安心下さい。でも、最近はほんと綺麗な男の子がいるよね。そういうAVジャンルもあって、表紙を見ると並みの女の子では全然叶わないような可愛さをもっているのに驚いちゃうもんね。おっ! 話を戻します。

   既に、この童話シリーズで最初の方(第8章 踊り子‘TEAMまんこ三姉妹’、BL(Boys Love)に挑戦の巻)で採り上げました。忘れているかもしれないので、もう一度ご紹介しますね。

 2016(平成28)年だから、今から5年ほど前のことになるか。

SMパフォーマンス系の栗鳥巣さんと京はるなさんの二人に、東洋所属のアイドルである渚あおいさんが加わった三人のチーム「TEAM BOYS LOVE」は、女性でありながら男装してホモ(レズ?)ショーを演ずる。2016年の2月頃、TSミュージックで、この三人に美月春さん(渋谷道劇)とが一緒にチームショーを演じたのが始まりのようだ。それがTwitterで漫画家(たなかときみ)に紹介され、人気が爆発した。彼女たちの男装がかわいい&かっこよく、特に女の子の心を激しく掴んだようだ。熱心なストリップ女子が連日劇場に顔を出すようになり、ストリップ界に革命を起こした。いわゆるスト女の台頭という社会現象がこの辺から本格化する。

私の観たチームショーの内容は次の通り。

二人ずつの組み合わせでそれぞれ別々の演目を行っていた。

栗&京は『コウシン』。「エッチな動画でひと儲け」、「パンチラ高校生」。

栗&渚は、『コウヒロ』。

京&渚は、『天使』。渚が男の子の守り神のような天使を演ずる。

コウシンとかコウヒロって何? アニメのキャラクターで、コウ役は栗、シン役は京、ヒロ役は渚、そして前者がタチ(攻め役)で後者がネコ(受け役)ということらしい。

このチームTEAM BOYS LOVE」が始まると、たくさんの男女ファンがペンライトを片手に熱く声援をおくる。場内が異常な盛り上がりをみせる。中には感動で涙する人までいる。

もう渚あおいさんと美月春さんが引退してしまったので、今や、このチームショーは観れなくなってしまった。非常に残念である。

 

 ストリップ界に、こうした「TEAM BOYS LOVE」が登場した背景には、LGBTの社会的認知が進んでいることがあげられる。いうまでもなくLGBTとは、女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の各単語の頭文字を組み合わせた表現である。あえて説明を要しないと思うが、トランスジェンダー(T)とは、“自身の性と心の性が一致しないが、外科的手術は望まない人”のこと。

 

 さて、先に同性愛(レズ)の話で文豪ネタが少ないと話したが、こと同性愛(ホモ)の方はネタが豊富である。ネットを見たら、わんさか出てくる。

 

 【偉人】歴史に残る同性愛者10人として、颯爽たる名前があがっている。

 織田信長、ピョートル・チャイコフスキー、オスカー・ワイルド、サマセット・モーム、折口信夫、川端康成、三島由紀夫、ジャン・ジュネ、媚癒夢姉貴、田所浩二 

  今だったらジャニー喜多川も入ってきたかな(笑)

 

 次に、同性愛文学作品で検索したら、次の作品が出てきた。

『秋月物語』上田秋成

『ヰタ・セクスアリス』森鴎外

『卍』谷崎潤一郎

『仮面の告白』三島由紀夫

『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』マルキ・ド・サド

『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー

『ヴェニスに死す』トーマス・マン

『泥棒日記』ジャン・ジュネ

『女神問弧印(めがとんこいん)』媚癒夢姉貴

『淫夢物語』というジャンルがあるんだね!!!!

 なるほど、この文豪シリーズに採り上げたものもあるけど、知らないものもたくさんある。『卍』だけレズもので、他は全部ホモもの。それにしても私の勉強不足を痛感する。世界は広い。こりゃ、文豪シリーズもまだまだ先が長いなぁ~と思わせられる。

 

 ということで、今回の文豪ネタは、この中から三島由紀夫を取り上げる。

 今やLGBTなど性の多様性が認められる時代であるが、全くそんなことが認められていなかった昭和初期の時代に同性愛を赤裸々に描いた文豪がいる。今回採り上げるのは三島由紀夫の『仮面の告白』である。これは当時一大センセーションであった。

 

 三島由紀夫にはひとつ因縁がある。

 なぜなら、今回の私の文豪シリーズは、もともと太宰治からスタートしている。

 三島由紀夫は太宰治が嫌いだったというのは、文学通なら誰もが知っている有名な話である。三島はボディビルで身体を鍛えたムキムキマンだし、男色だし、鉢巻をして割腹自殺した三島事件のイメージからすれば、女にだらしがない、女々しい作品が多い太宰とは相いれなかったは想像に難くない。三島は大学在学中の21歳のとき、既に文壇デビューしていたこともあり、ホテルで太宰の記念パーティ(『人間失格』発表?)があったときに出席した。そこで立ち話として、三島は太宰に向かって「私はあなたのことが嫌いです」と言った。それに対して、太宰は「私に会いに来たくらいだから本当は嫌いじゃないのでしょう」と受け流したというエピソードがある。まだ学生で文壇新人である三島に比べ、太宰の方が一枚も二枚も上手だったようだ。三島はカリカリしたと思う。

 ところが、その翌年に、太宰は女性と入水自殺してしまう。三島としても相当ショックだったと思う。感情のぶつけ先がいなくなってしまったわけだ。自殺とともに太宰の『人間失格』は話題を呼び売れまくる。いまや『人間失格』は日本で一番売れた小説である。

 しかし、三島は負けなかった。その翌年に三島は24歳で『仮面の告白』を発表して文壇にセンセーショナルを巻き起こすことになる。この『仮面の告白』で三島は若くして文壇の第一人者になる。

まぁ後々には、三島は、太宰が書いた童話集『御伽草子』を読んで感激し、先の嫌い発言を撤回したらしいが。天才である三島は同じく天才である太宰の凄さを見抜いていたことは間違いないことだろう。

 そのエピソードからも、太宰に傾倒していた私としては最初、三島文学に触れるのは、どこか抵抗があったことも確かである。また三島文学は難解だという先入観もあった。しかし、同性愛(男色)を書いた文豪作品をネタにするなら、三島の『仮面の告白』を読むしかないなと思った。

 

 ちなみに、三島20代の総決算として書き上げた長編小説『禁色(きんじき)』(三島28歳で刊行)も男色がテーマである。女性に裏切られ続けた老作家が、同性愛者の美青年を利用して女性たちに復讐する物語です。しかし、センセーショナルな内容であるため、『仮面の告白』と同様、同時代の評論家からは高い評価は受けられませんでした。

 

『仮面の告白』を読んで、印象に残った箇所を紹介したい。

 主人公の「私」は、子供の頃からじわじわと自分の男色について気づいていきます。そのじわじわ感がたまらなく丁寧に描かれる。

1つ目は、糞尿汲み取り人の若者です(当時はいわゆるぼっとんトイレが主流だったため)。私は、糞尿を運ぶ彼の姿に釘付けになりました。そして「彼の股引(ももひき)になりたい」という欲求に襲われます。

2つ目はフランスの英雄・ジャンヌダルクです。私は、凛々しくて勇敢な彼に夢中でした。ところが、ある時ジャンヌダルクは「彼」ではなく「彼女」であることを知ります。私はその時、裏切られたようなショックを受けたのでした。

3つ目は汗です。軍隊の行列が家の前を通るとき、多くの少年たちは銃や軍服に憧れました。ところが私が惹かれたのは、彼らの汗の匂いでした。

そして決定的だったのが「聖セバスチャン」との出会いでした。13歳の時、私は「聖(サン)セバスチャン」という絵と出会います。そこには、杭にたくましい腕をくくりつけられた美青年が描かれていました。腰に布をゆるく巻いた、ほぼ全裸の青年の身体には矢が刺さっていて、彼は憂いに満ちた表情を浮かべています。私は、この絵を通して初めて官能的な悦びの存在を知ったのでした。つまり、この絵で射精しちゃったんだね。

三島を理解するためのキーワードは、血・死・筋肉質な肉体です。小説の中の主人公が強く惹かれたのは、ギリシャ彫刻でよく描かれるような強靭な肉体を持つ青年が、矢で射られて血を流して苦しんでいる絵です。

物語は、その後中学2年生になってから、近江という男に出会います。近江は素行が悪い生徒で、筋肉質な体の持ち主でした。彼が体育の時間に懸垂をしたとき、その二の腕の筋肉の隆起から、私は目が離せなくなります。それは「聖セバスチャン」と重なりました。そして彼に恋愛感情を抱きます。しかし素行が悪かった近江は、退学処分になってしまい、主人公は近江との突然の別れを経験します。

後半は、園子という女性と出会い「美しい」と感じます。しかし本質的に男色の主人公は「自分は男と女のどっちが好きなんだ?」と悩み葛藤します。

 決定的なのは物語の最後のシーンです。

園子とデートしていた喫茶店の中で、浅黒い半裸の若者が目に入ります。筋肉によって凹凸のある立派な身体の持ち主です。そして次の瞬間、私は彼から目が離せなくなりました。彼の腕には、牡丹の刺青が入っていたのです。その瞬間、もう目の前の園子のことは見えなくなります。

 別れ際、私は若者の方を振り返りました。しかしそこには誰もおらず、こぼれた飲み物だけがぎらぎらと光りました。ラストシーンがとても印象的です。

 

 

 ちんぽ三兄弟は「TEAM BOYS LOVE」の話が出たときにニヤリと微笑んだ。

 彼等は「TEAM BOYS LOVE」が大好きだった。個人的には、渚あおいさん(東洋所属)や京はるなさんを応援していた。だからチームショーが始まるとペンライトを夢中で振ってステージを盛り上げていた。お陰で、たくさんの女性客とも親しくなれた。

 彼らはストリップ太郎から三島由紀夫の話を聞いて怪訝な顔をした。

「ところで、三島って本当にホモだったのかな…?」

というのは、三島由紀夫がふつうに結婚しているのを知っていたからである。

ストリップ太郎がこの点について補足した。

「そう、三島由紀夫は33歳のとき川端康成の媒酌で画家杉山寧(やすし)の長女瑤子(ようこ)と結婚している。相手は日本女子大2年生。友人に彼女の写真を見せられ一目ぼれして見合いした。一回りも歳が違う21歳の若妻。娘と息子の二人の子供をもつ。」

 余談になるが、三島(本名平岡)の息子さんの名前は平岡威一郎(ひらおかいいちろう)さんと言う。生年月日は1962年5月2日、慶応大卒。映画監督の市川崑に師事し、父・三島の原作の映画「春の雪」(2005年)では、「三島威一郎」を名乗って、企画・監修をしている。

「こう見ると、ほんとうに男色なのかなぁと疑問をもつね。文学者というのは往々にして、読者の関心を引くため、みんながおっ!と思うような面白いテーマを選ぶものだし。なんせ三島が23歳で『仮面の告白』発表した昭和23年当時は、今のようにLGBTが認められるような時代とは全く違うからね。」

 これに対しては、ちんぽ三兄弟の一人は「きっと彼の結婚は世の中の目を欺くためのもんだった。彼が男色だったのは間違いないと思うよ」と言う。

たしかに、この『仮面の告白』は自伝的な告白小説だと世間的に認識されているし、小説を読んでいると納得させられてしまう。本物の男色でなければ、これだけの心理描写は書けないからね。

「まぁ今となれば、男性も女性も愛せるバイだったという結論になるのだろうね。」

 みんなは頷き合った。

 

                                     つづく

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第92章 ストリップと同性愛(レズ) 

谷崎潤一郎『卍』、川端康成『乙女の港』を読んで~ の巻

 

 

レズビアンとは、女性として女性を好きになる「女性同性愛者」を表す。性的少数者全般を指す、LGBTの「L」に当たることでも知られている。

欧米では同性愛者をまとめて「Gay(ゲイ)」と表現することがあるため、レズビアンの女性でも「Gay」と名乗る方もいます。日本で有名な「レズ」という呼び方には、ネガティブな意味合いが含まれることもあるため、「レズビアン」や「ビアン」と呼ぶことが主流です。

 

 ストリップにおける同性愛とくれば、それはレズビアンのこと。昔のストリップのような‘なんでもあり’のエログロ・ストリップには、レズビアン・ショーはまさに黄金定番と言えた。一人のヌードでも美しいのに、二人以上のヌードを同時に見れるなんて贅沢の極みと云えるだろう。ステージ上で女性同士が絡み合う妖艶さはふつうのストリップとは一味違い、まだ若かりし私はその官能の世界に目のくらむような刺激を受けたものである。

 最近はレズビアン企画は減ってしまったが、チームショーで二人が絡むシーンにはレズビアンの流れが色濃く残っている。つい最近、久しぶりに道後ミュージック所属の琴音みおんさんに会った。そういえば、彼女はデビュー当時、さくらみみという芸名で、紅薔薇というパフォーマンス系でレズビアンを演じていたなぁと思いだしたところ。

 

 最近の芸能界などでは、ホモはやたら話題になるけど、レズはあまり騒がれない気もする。ストリップファンである私が、レズは美しいと思うがホモはキモイと思う個人的な見解のせいかな?

 また、ここで取り上げている文豪の世界でも、ホモはすぐにあげられるが、レズをネタにしたものには出会わない。なぜかな? 

 そうした疑問を踏まえ、レズビアンのことをネットで調べてみた。byウィキペディア(Wikipedia)

 

 レズの歴史はホモと同じく古い。女性同性愛の最も古い記録は、おおよそ紀元前625~570年頃、古代ギリシアのレスボス島に住んでいた女流詩人サッポーとされている。つまりレスボス島がレズビアンという言葉の語源である。

 起源は古いものの、倫理上・宗教上などによりレズビアンは「まっとうな性」とは認められず、長い間、水面下で続いてきたに過ぎない。

 その点は日本でも同様。女性同士の性愛が文学の主題となり得なかった理由のひとつとして、近代的な女性作家が成立する近世以前には、創作活動が男性の占有物だったというジェンダーに由来する問題があったことや、女性が結婚以外の性を堂々と謳歌することが貞操という観念によって封じられたことが考えられる。なるほど~

 

 ただ、最近になり、レズビアンは、フェミニズム、愛情、性生活、結婚、子育てなどに関連して、メディアの関心事となっている。

日本では2000年代に入ってからのいわゆる「百合」ブームによって、レズビアンをモチーフにしたマンガ・アニメ・小説が多数発表されている。

 

改めて気を取り直して、文豪作品からレズものを探してみた。

あった!あった! 谷崎潤一郎の長編『卍』である。

さすが谷崎先生は変態もののデパートである。尊敬します。感謝します。

物語はこんな感じで始まる。・・・

日本画の趣味を持つ園子は、夫である孝太郎にすすめられて女子技芸学校に通っています。ある時、園子が描く観音様の絵の顔が、他のクラスの光子という女性に似ていると校長に指摘されます。二人は同性愛なのではないか、という謂れのない噂まで広まります。それがきっかけで園子と光子は親しくなり、本当に同性愛の関係へと発展します。

小説『卍』はこれまで何度か映画化されています。最初の作品1964年版を観たら、若尾文子(光子役)と岸田今日子(園子役)が気品とエロスを爆発させて、とてもいい味をだしています!!!

ところが物語としては、同性愛まっしぐらではありません。園子の夫の孝太郎が光子に心を奪われてしまい、二人は肉体関係を持ってしまいます。つまり、同性愛と不倫とが複雑に絡み合った「卍」模様の恋愛です。

内容もサスペンスドラマの様相を呈してきます。あらら、なんか私が期待していたレズビアンの世界じゃないなと正直物足りなく思いました。(笑)

 

そもそも、この時代の日本での同性愛とはどのような認識だったのか。この時代は芸能人でもないのに内輪の不倫などがかなり新聞で叩かれていますが、同性愛はどうだったのか。キリスト教みたいに宗教的な罪ほど重くはなさそうだけど当然今のLGBTのようにメジャーではなさそう。社会から完全に排除されるでもなく、周りで面白がる人がいる程度なのかな。

調べている中で、「エス」という少女小説が流行っていた時代であることが分かった。

「エス」とは、大正時代から昭和初期にかけて女学生の間で流行した、女の子同士の特別な関係のこと。「シスター(姉妹)」の頭文字をとった名称とされています。エスの二人は、下級生は上級生を「お姉様」と呼び、文通をしたり、二人で遊びに行ったり、ただの友達や先輩後輩ではない強いつながりを持つのです。少女雑誌には相手に焦がれる女学生たちの悩みが、現代の恋愛相談さながらに投書されていました。とくに『女學生手帖』は有名。

当時の女学校に通えるのは、裕福な家に生まれ教養のあるお嬢様だけ。家柄はもちろん、勉学も、裁縫など当時でいう花嫁修業的なことも出来なければいけませんでした。当然、結婚前の異性との交遊は御法度。そんな環境下で、憧れの人と、友情以上愛情未満の「エス」の関係を結ぶことはどれだけ少女たちの胸をときめかせたことでしょう。

この時期、とくに少女小説の先駆けである吉屋信子(同性愛者であり、作品にもその傾向が強く認められるものが多い)の花物語が少女画報に掲載されブームになったことで「エス」を扱った作品が相次いで登場し、ついで「少女の友」に似たような作品が大量に掲載され、1930年代にピークを迎えた。例えば吉屋信子の『わすれなぐさ』『街の子だち』、川端康成(中里恒子)『乙女の港』などの、女学校のありようをリアルに描いた作品がそうである。

 

ここで、川端先生の名前が登場!!!! 内容をご紹介します。・・・

主人公の大河原三千子は人形のような可愛らしい容姿の持ち主。彼女がミッション・スクールに入学早々、二人の上級生に手紙をもらうことから物語は動き始めます。相手は5年生の八木洋子と4年生の克子。

三千子は、最初、自分がなぜ上級生からそのようなものを送られるのか理解できなかったが、クラスメートの経子は、「エス」という風習について教える。経子は幼稚園の時から同じ学園に在籍しており、三千子に学園の事情について伝える。

三千子は洋子に誘われるままに洋子の家の自動車で自宅まで送ってもらい、それが縁で洋子を姉として慕うようになる。しかし、その頃から洋子に関する悪い噂が校内に流れるようになり、三千子と洋子を苦しめる。

夏休みに三千子は伯母と共に避暑のために軽井沢へと赴くが、三千子はそこで克子と再会する。克子の熱烈なアプローチを断りきれず、克子と軽井沢を散策する内、三千子は洋子とは異なる魅力を持つ克子にも惹かれるようになる。

夏休みが終わって学校が再開されると、克子はことさらに三千子との親密ぶりをアピールして洋子を苦しめる。また、三千子も自分をめぐって洋子と克子が対立することに苦しむようになる。

 

この作品の注目すべきところは、女学生たちがどうやってエスの関係を始めるのか、エスの交流がどんなものなのかが細やかに描写されている点です。なんで川端先生がそんなことを知っているのか?

実は、この『乙女の港』は川端の少女小説として連載発表されたが、今日では、当時川端に師事していた新人の主婦作家・中里恒子(佐藤恒子)の草稿に、川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させた共同執筆の合作だったことが判明している。やはりね!!!

いずれにせよ、当時「エス」がそれなりの認知度だったことは間違いない。

 

選ばれしお嬢様たちが友情以上の関係を結ぶ…と聞くとロマンチックな印象ですが、その背景は「女性は結婚して子供を産むのが当たり前」とされていた時代。エスには男性優位社会・親きょうだい・結婚へ反発する少女同士が強く結びつくという対抗文化としての意味があり、また対等で自由なロマンティックラブの実践であったわけだ。

しかし、エスは卒業と同時に解消せざるを得ない、泡沫の関係でもありました。在学中どんなに仲が良かったエス同士でも、卒業し結婚すれば若かりし日の思い出として胸にしまわれることがほとんどでした。中には思いつめて心中してしまった女学生もいたそうです。強くお互いを想い合っていた二人にとっては、辛い世相でもあったのでしょう。

女性同士の心中は19世紀から報道されていたが、1911年の新潟における女学生同士の心中以来、1930年代には女学生同士の心中が頻発し、少女同士の親密な関係が同性愛として問題視されだした。

戦後、少女向け雑誌においても男女の恋愛を扱うことが許され、また女学校が解体し自由恋愛が一般化するにつれてエスは衰退する。しかししばらく経ってからエス小説が少女向けのレーベルから復刊されたこともあり、2000年代より始まるいわゆる百合ブームの作品において、エスと同様の関係は多数見出される。2000年代に大ヒットしたライトノベル『マリア様がみてる』も有名。

 

 以上、エスを調べてみて、私はハッとした。

スト女はこの「エス」だ!!と。

 

 

ちんぽ三兄弟も思わず叫んだ。

「スト女たちは決してレズビアンなんかじゃない。」

「男女機会均等法により男性同様に社会進出してきた女性たちが、これまでオヤジたちの専売特許のように楽しんでいた世界に顔を出してきた。飲み屋、パチンコ、競馬競輪に始まり、ついにストリップまで来たか、というイメージもあった。世にいう‘おやじギャル’の一派なのかなとも思っていた。」

「しかし、スト女は‘おやじギャル’ともちょっと違うな。あえて言えば、アイドルやミュージシャンを追いかける者たちと同じだと思っていた。」

「しかし、ストリップ太郎さんの話を聞いて、スト女が踊り子さんに憧れる気持ちは本質的に‘エス’なんだね。」

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第91章 ストリップと小悪魔 ~谷崎潤一郎『悪魔』を読んで~ の巻

 

 

 踊り子さんの中には、小悪魔的な魅力に満ち溢れている方がいる。蛇女だと敬遠してしまうが、小悪魔のレベルだとハマってしまう。

 踊り子と客のやりとりを見ていて、不思議に思うことがたくさんある。ストリップも客商売なので、踊り子が客に対する言動はある一定の礼儀があるものである。ところが一見して踊り子が客を見下している言動を示すことがある。ふつうはそんなことをされたら客はその踊り子を敬遠するものである。ところが、どんなに詰(なじ)られようと、いや、それが嬉しいのか、詰られれば詰られるほど、彼女に魅了されていく客がいる。彼はマゾなのかな?とも思うが、ちょっと違うような感じをうける。

 それは彼女のもつ小悪魔的な魅力なのである。彼は彼女のもつ美、気品、威厳にひれ伏しているのである。それは神でなく、あえて悪魔としての魅力があると言いたくなる。

 

 

 男というのは女には叶わない。どうあがいてみても、女には負ける。

 三島由紀夫は「男が女に勝るものは知力と腕力しかない」と言う。それ以外はすべて劣っている。彼の『不道徳教育講座』では、だから「女には暴力をふるえ」と面白おかしく語っている。彼はホモだから女性にはキツイのかしら。(笑)

 その点、谷崎潤一郎は、こと女性に対しては眞に従順である。

 

 

 今回は、谷崎潤一郎の小説『悪魔』を取り上げたい。

内容を一言で言うと、神経衰弱の男の物語です。

 主人公の佐伯は、帝大に入学するために汽車に乗って上京します。汽車の中で、佐伯は衰弱した神経が波立つのを感じて、戦慄に耐えきれず途中で降りてしまいました。そんな、やわな青年です。

そしてようやく東京に着いた佐伯は、叔母のいる林家の2階に住み始めます。そこで佐伯は、いとこの照子と再会しました。照子は肉付きの良い身体を着物で包んでいます。佐伯はそんな照子の目や鼻、唇や髪に魅力を感じるのでした。

大学をさぼりがちの佐伯は、家の2階でウイスキーを飲んだりタバコを吸ったりして過ごします。照子はそんな佐伯の部屋を訪れ、ともすると1~2時間話していくのでした。

 さあ、そんな彼と照子に、ある出来事が起きます。

10月半ば、佐伯の部屋を訪れた照子は風邪をひいていました。照子は着物のたもとからハンカチを取り出し、鼻をかみます。そしてひとしきり話したあと、照子は佐伯の部屋を後にしました。

佐伯の手元には、照子が忘れて行ったハンカチがあります。ハンカチを開くと、そこには鼻かぜ特有の臭いを帯びた鼻水がくっついています。佐伯はそれを両手にはさんでみたり、頬に叩きつけたりしていましたが、しまいにそれを舐め始めました。

佐伯は、こうして照子に踏みにじられていくのだ、と思います。それからも、照子は佐伯の部屋を訪れては佐伯を刺激します。佐伯は、照子にハンカチの一件を見破られるかとひやひやしながら、照子にもてあそばれるのでした。

 

この小説『悪魔』は、谷崎が悪魔主義者であると評されるきっかけとなった作品です。悪魔主義とは、社会的規範から外れた行動や嗜好を示す倒錯的な考え方を指します。醜いことや、汚いこと、異常なことを描き、その中に美と感動を見いだそうとする特徴があります。

道徳よりも美を上位とする思想で、芸術至上主義と似たところがあります。『悪魔』で言うと、照子の淫婦ぶりやそれを忌々しく思いつつも受容してしまう佐伯、背徳感を覚えながらも照子の鼻水を舐めてしまう佐伯の様子などが該当します。

こうした谷崎の悪魔主義は、平凡なサラリーマンが15歳の少女の下僕になるまでの道程が描かれる『痴人の愛』へつながっていきます。

 

 

 以上のストリップ太郎の話を興味深く聞いていたちんぽ三兄弟が納得顔で話します。

「ハンカチの鼻水の件は、先に述べていたニオイやスカトロジーに通じているね。文豪が取り扱うと芸術作品になるんだね。 芸術と変態は紙一重なのが面白い。」

「ストリップでも、パンプレでGETした下着をおもむろに鼻にあて匂いをかぐ奴がいる。 中には、下着に大好きな踊り子さんの沁みが付いていたと狂喜している奴もいたもんな(笑) 沁みは鼻水の延長線だわ。」

「それを見て笑っている踊り子さんは照子と一緒だね。みんな、小悪魔ちゃんなんだよ!」

 

                                     つづく

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第90章 ストリップとインモラル ~三島由紀夫不道徳教育講座』を読んで~ の巻

 

 

 以前、ロバート・フルガム著の『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本が大ベストセラーになった。人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。という書き出しから始まる。

 私は、子供についてのエッセイを書くのに、この本をネタにしたことがある。

 考えてみたら、今の私にとって「人生に必要な知恵はすべてストリップで学んだ」と言えるのではないかなと思うことさえある。これまで、ストリップ・エッセイで書いてきたことはステージの素晴らしさであり、踊り子さんとの触れ合いによる人生の機微であったと思えるのである。この中に美があり愛があり真実がある。

 だから、ストリップをモラルに反するものとして扱おうとする世の中の常識に、ものすごく違和感を感ぜずにいられない。

 

 この世には、男と女がいる。男と女しかいないわけだ。男と女が出会い家庭を持ち子孫を残していかなければならない。そうでなければ人類は持続しない。そのためにも、男は早く女というものを知らなければならない。できるだけ早くね。

 ところが、ある年齢に達しないと、男と女のことに興味を持ってはいけないものとされる。できれば、結婚するまで童貞と処女を守りなさいと言う。それがモラルだと。

 しかし、いざ、子供を作る行為に至ると、どうしていいか分からない人も出てくる。また、お互いの考え方が理解できず離婚に至ってしまう。これでは困る。昔は家の概念がしっかりしていたので、家族みんなが協力することで、さまざまな経験不足や諸問題が解決された。だから離婚なんか無いし、子孫もたくさん残せた。いまは家がしっかりしないから親も子供を教育できず放任している。

子供たちは自力でもって友人からマスコミから異性の知識を得ていく。ふつうは自然に興味をもって成長していくものだが、中には興味が持てず、また時にあらぬ方向にいってしまう。だから結婚しない独身貴族が増え、変態さんも増え、結婚しても離婚ばかりする人が増える。やっぱり、結婚前に、ある程度の男女の性や特質についてよく理解しておかなければならない。

 

 私は、高校を卒業してすぐに、もちろんその時には童貞だったので、女を知りたいという興味本位に、仲間と一緒にストリップを観に行った。当時は、ピンク映画の合間に三人くらい踊り子が出演していた。私たちは恥ずかしそうに後方で観ていたせいもあり、踊り子さんの秘部は陰毛のせいか真っ黒でなにがなんだか分からなかった。仮にそんな状態でSEXに及んでも、きっと穴がどこにあり、どうやればいいか迷ったに違いない。大学に入って、初めて正式のストリップ劇場に行き、真近で入れポン出しポンをやり穴の位置を確認し、かつ本番まな板ショーを観ながら性行為のやり方を見学できた。そこで初体験して童貞を失った友達もたくさん知っている。私は、そこまでの勇気がないというか、さすがに人前でSEXするのは気が引けた。

今の若者はAVやネットなどで性の勉強するのかな。しかし、それはあくまでバーチャルの世界だよな。その点、ストリップは生で勉強ができる。安い小遣いで学べるストリップ劇場は今でも貴重な存在だと信じて疑わない。ストリップ劇場は他にも人生で大切なことをたくさん学べる場であり、社会的な認識をもっと見直されるべきだ。

ストリップを反道徳的なもの、倫理に反するなんていう考え方は間違っている。

 

「モラル」は英語の「moral」から来る言葉で、道徳や倫理という意味がある。道徳とは、物事の善悪を判断する基準や、社会生活で守るべき基準という意味を持つ言葉だ。

「モラル」の類語には道徳、倫理、道義、徳行、善徳などがあるわけだが、では「モラル」の対義語は「インモラルimmoral」となる。「アンモラルunmoral」と表されることもあるが、同じ意味。いずれも道徳や倫理から外れた行為という意味だ。日本語では「不道徳」や「背徳」「不品行」などとなる。

 今回のテーマは、「ストリップってほんとインモラルなの?」を、文豪作品から見ていきたい。

 

 

 文学作品には、人間の奥底にあるインモラルな面を抉り出すものが多い。人間の本質を抉り出すことにより、人間そのものや、人間の生き方を問うのが文学である。

 文豪作品の中に、変態ものが多いのもそのためである。こうしたネタを提供することで読者の興味を引こうとしているのは間違いない。美と醜はコインの裏表なのだろう。

 だから「エロスはダメ」なんて言ったら、それは人間そのものを否定することになりかねない。「ストリップはダメ」というのは全く同じ論拠になる。

 ストリップを見せる踊り子も、ストリップを観る客も、反モラルな悪いことをしている感覚は全くない。むしろ健康なる善いことをしている気になっている。

 

 たまたま、三島のエッセイ集『不道徳教育講座』(角川文庫)と出会う。

<『不道徳教育講座』は、三島由紀夫の評論・随筆。三島の純文学作品では窺えない機知、逆説、笑いにあふれた内容で、人気が高い作品である。「知らない男とでも酒場へ行くべし」「人に迷惑をかけて死ぬべし」「スープは音を立てて吸ふべし」など、世間の良識的な道徳観や倫理に反するタイトルが、それぞれ70章に及ぶ各章に付されている。>

週刊誌「週刊明星」に連載したものらしく読みやすい。内容が一見滅茶苦茶なことを言っているものの、すごく説得力があり、思わずふむふむと納得させられる。私はこれまで、割腹自殺した「三島事件」から過激でネガティブなかたいイメージで三島を見ていたが、これを読んで人間的に急に親しみを感じた。

 

この中で興味を引かれたものを紹介します。特に今回のテーマに絡めて。

ひとつは、「童貞は一刻も早く捨てよ」。

これは前半で話したことそのもの。男はとにかく早く女を知らなくてはならない。そのためにはストリップがもっとも手軽で手早いと私は思う。

 

 もうひとつは、「沢山の悪徳を持て」。

 私はストリップをインモラルなんて全く思っていないが、仮に100歩譲ってインモラルだとしても、三島先生はインモラルをたくさん持てとおっしゃっている。

たくさんの悪徳をもて!

なぜ?

たいていの犯罪者は普段はおとなしいとか言われます。そういった人に限ってカッとなって大きく道を踏み外してしまう。

純情少年があばずれに打ち込んでしまうと他に何も見えなくなってしまう。お金に困り友達の預かりものを売りとばす。しまいには強盗をしでかすといった具合に。

それがこの少年にもし3人ほど女がいたらどうなるか。借金なんか踏み倒してしまうだろう。犯罪などはせず不道徳で済んでしまうのだ。・・・

 なんか、納得してしまった。

まじめな人に限って道を踏み外すことがものすごく悪いことだと考える。もっと視野を広くしておけば、いざ何かにぶち当たっても深刻にはならない。

視野を広く持てということは大切だ。

特に小学生なんかは住んでいる社会が狭いため少しでもいじめを受けると死を選びがちになる。

以前、ある踊り子さんが話したことを思い出す。2008年、トラックで歩行者天国になっていた交差点に乗り入れ、次々にナイフで切り付け、死者7人、負傷者10人を出した通り魔事件、いわゆる秋葉原無差別殺傷事件が起こった。加害者の加藤智大(ともひろ)(当時25歳)は元自動車工場派遣社員で、携帯ネットに「彼女ができない」とこぼす淋しい青年だった。私はこの事件が起こった直後にある踊り子が話した言葉を忘れられない。「この人、ストリップに来ていたら、こんな事件を起こさないですんだと思うわ」。

視野を広く持っていて住む世界が広ければどうなっていたでしょう。ストリップを知っていればリスク回避できたわけです。悪徳をたくさん持つとはリスク分散になります。

こうした考え方をしたら、ストリップなんて全く不道徳なんて言えなく感じました。

 

 他にも、読んでいてハッとさせられた三島先生の言葉(フレーズ)を載せておきます。

●今、道徳教育などとえらい先生が言ってるが、私は、善のルールを建て直す前に、悪のルールを建て直したほうがいいという考えです。

●優雅という言葉は、本質的には、性的熟練という意味だと考えてよいのであります。

●爛熟した文化というものは、究極的には、女性的表現をとるのです。

●健康な人間とは、本質的に不道徳な人間なのであります。

 ストリップに絡めて読むとすごく意味深い。

 

最後に、テーマから外れるがもうひとつ。「小説家を信用するなかれ」という章の中で、「三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知っているとはいえないのが、人生の面白みです。」というフレーズがあった。これを読んだとき、ふと、こんなことを考えた。

この世には、千人斬りを自慢するプレイボーイもいるだろう。その点、私は(風俗を除けば)別れた女房しか女を知らない。きっと、そのままの数字で死んでいくことだろう。でも、それを不幸だとは思わない。

しかし、ストリップのお陰で、三千人をはるかに超える数の下の顔を拝見している。そのことは幸せだと思っている。

 

                                     つづく

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第89章 ストリップと蛇女 ~太宰治『斜陽』を読んで~ の巻

 

 

 顔見知りのスト客で「性格の悪い踊り子さんのことを‘彼女は蛇だ’と言う」方がいました。彼は気に入らない客のこともけちょんけちょんにこき下ろすので、彼の‘彼女は蛇だ’との口癖のような言い方は彼らしくも思いましたが、やけにきつい表現だなぁと感じました。私にはそんな言い方はできません。

 

 初めて、彼からその表現を聞いた日のことを説明しておきましょう。

 ある劇場で、彼と久々に会ったので、お互いの近況の話をしました。もちろんストリップ絡みの話題になります。

 実は、つい最近、その劇場で、ある踊り子Kさんの引退記念がありました。私はデビューからKさんを応援していました。とても意欲的な素晴らしいステージをするので会うたびにポラを買っていました。デビュー当初は会いに行くと、私の顔を見ただけですごく喜んでくれました。ところが、私は新人好きでたくさんの踊り子さんを応援していたので、熱心にKさんを追っかけてはいませんでした。Kさんはそれが分かり、次第に私に対する態度もそっけなくなりました。ただステージが素晴らしいし、劇場に乗る頻度が多いので、私は無視することはしないで、会う度にずっとポラは買い続けていました。まぁ新人好きは段々そうなっていきますよね。そのことでKさんから好きになってもらわなくても仕方ないことと思っていました。でも繰り返しますが、私は挨拶ポラだけはしっかり買っていました。彼女の踊り子歴もけっこう長く続き、長い付き合いになりました。

 そんな彼女の引退を知ったので、最後の別れのご挨拶としてKさんの引退週の初日に会いに行きました。そうしたら、返却されたポラに「私はあなたのことがずっと嫌いでした。今週は二度と来ないで下さい」と書かれてありました。

 私はものすごく嫌な気分になりました。これはないよなと思いました。たしかに彼女に好かれているとは思っていませんでした。でもデビューからずっとポラを買ってきた客に対して、こんな別れ方をする彼女のことがほとほと情けなくなりました。

 そのことが強く後を引いていたので、つい彼に愚痴ってしまったわけです。そうしたら間髪入れず、彼が「なんだKさんも蛇だったのか」という言葉を発したのでした。

 

 妖怪好きの私は「蛇女」の話はいろいろ知っています。ゲゲゲの鬼太郎にも出ていましたね。

 蛇というのは気持ちの悪い生き物の象徴みたいなもんだから、蛇のような女というのは、それはそれは性格の悪い女という意味に使われます。アダムとイブも蛇にそそのかされて禁断の林檎を食べたわけですから、ずる賢いものとして、はるか昔から忌み嫌われる象徴になっています。

蛇女といえば、世界各地の神話・伝説・伝承に登場します。それは蛇の要素を含む女性ということで、身体のどの部分にどのくらい蛇の要素が含まれるかなんて明確な定義はありません。

ギリシャ神話の中に、「上半身は女性、下半身は蛇」というラミア、そして「髪が蛇」になっているメドゥーサが有名です。いまでは、各種創作物におけるキャラクターとして、さらにその定義は広くなり、「人間ではあるが雰囲気が蛇っぽい」「顔や肌に鱗を持っている」「瞳孔が蛇のようになっている」など、美しいものからホラー調の恐ろしいものまで様々です。

 

 ついでながら、有名なメデゥーサの話をさせてもらいます。

 ギリシャ神話では、青銅の腕と黄金の翼を持ち、髪の毛が蛇になっている怪物として描かれます。彼女を直視した者は恐怖のあまり体が硬直して石になってしまうといわれている。神話では、直接姿を見ると石になってしまうが、鏡に映った像には石化の力は無いため、英雄ペルセウスは、鏡像を頼りに戦うことでメデゥーサを退治します。

 ところで、メデゥーサはもともとは美女であり、特に髪の美しさが際立っていたという。海神ポセイドンの愛人でもあり、怪物になる前に彼の子を身篭っていた。そもそも怪物に変えられたのも、アテナの神殿でポセイドンと交わり、その神聖を穢したためだとも言われ、チャームポイントだった髪の毛をことごとく蛇に変えられてしまったのだった。英雄ペルセウスに首を刎ねられた際、その首元から天馬ペガソス(ペガサス)と黄金の剣を持つ巨人、クリュサオルが誕生したという。クリュサオルは後に海神オケアノスの娘カリロエーとの間に、三頭三体の巨人ゲリュオンと半人半蛇の怪物エキドナをもうけている。

メデゥーサは、元々はオリュンポス十二神が台頭する遥か以前にギリシャで崇拝されていた地母神だったと考えられている。そのことから、古代ではメドゥーサの顔を象った装飾が、神殿や鎧などの魔除けとして用いられていた。現代でもトルコにて青い目を模したお守りが売られている。

 

このメデゥーサの話を聞いていたちんぽ三兄弟は、最初のうち、ちんぽ頭が萎えていたが、最後には、「ステージで踊り子の美しさを見ると、ちんぽが石のように硬くなるのはそのせいか!!!」とビンビンくんが叫んでいた。(笑)

 

 

 さて、「ストリップと蛇」という話題をしたきっかけは、実は、太宰治の名作『斜陽』にあった。

 ここから、いつもの文豪の本題に入っていく。

斜陽の中には、蛇が頻繁に出てくる。(蛇56か所、蝮9か所)

そして、この蛇がストーリーに直接かかわるわけではないものの、物語を読み進めると、じわっと象徴的な意味をもっているのが伝わってくる。そこまで味わえれば太宰ファンとして合格である。

 

この『斜陽』という物語の序盤に、ひとつの出来事が象徴的に取り上げられている。それが「蛇の卵を焼く」ということ。

ある日、主人公かず子は庭先に蛇の卵を10個ほど見つけます。近所の子どもたちはそれを「蝮の卵だ」というので、それを信じたかず子は卵を燃やすことにします。しかし卵を焼く様子を母親に見られ、かず子は以下のように思います。

 

< 蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い祟りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。>

 

かつてかず子の父が亡くなった際には、「死の間際に枕元に黒い蛇がいた」「庭にある木すべての枝に蛇がのぼっていた」ということがあり、そのためかず子の母は大変蛇を苦手に思っているようです…

 

 この、冒頭に象徴的に描かれるシーンとそれが持つ意味合いは、まさしく「お母様にとって蛇は死を呼ぶ不吉なもの」でした。

私(かず子)の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうと感じている。

 実際、貴族のお嬢さんとしてシンボライズされた愛すべきお母様が早死にする。それは最後の没落貴族としての象徴でした。

 

 そして、物語の最後に、再び蛇がひとつの象徴として描かれます。

 お母様が亡くなり、戦争から帰ってきた弟が自殺し、残された主人公かず子は、自分は生きる覚悟をします。それは弟直治の先輩にあたる上原の子供を身ごもること。

 

「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧(さと)かれ」というイエスの言葉を心の頼りに恋に生きようと戦闘開始。

しかし戦争を経て6年後に再会した上原はまるっきり違ったひとになっているのだった。体を食い破るような渇望と疲れ果てた顔をして死にかけている上原に対する失望しながらも一夜を明かし、恋があらたによみがえって来たと感じる。このあたりの揺れる恋心の描写が上手い。

弟の直治の自殺のあと、自分を捨てた上原に最後の手紙で妊娠したことを告げ、一人で古い道徳と戦って生きて聞くことを伝える。

この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。

 

「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」というのはほぼそのままマタイ福音書の表現であり、どうやらかず子はキリスト教の影響を色濃く受けている。

妻子持ちの上原を誘惑する際、かず子は自分がどんどん「蛇」へと変化していっているという自覚を持っているが、それもアダムとイブにリンゴを食べるようそそのかしたあの蛇のイメージがもとになっていると考えられる。文中でも「ずるい、蛇のような奸策」であったと記されている。

まさしく、この作品『斜陽』のクライマックスは、主人公かず子の変化であり、すなわち「これまでの貴族的・伝統的な価値観に反旗を翻し、俗物的に力強く生きていくことを選んだ」ことです。これこそが有名なフレーズ「愛とは革命である」なのです。

 

ここには、汚泥にまみれてつらく悲しい人生を生き続ける生活力を蛇に託していると感じさせられる。

つまり、蛇というものは、這いめぐって内部に侵入し、なかで居座る悪いものの象徴であると同時に、一方で、先のメデゥーサのところで述べたように、蛇が地母神としての「豊穣」を意味するところなのです。妊娠をそのように描いているのです。

 

 またそれは、「美しい蛇」という概念に繋がっていきます。

かず子は赤い縞を持った「上品な女蛇」に、優美で品のある、自らの最愛の母親の姿をも重ね合わせます。この蛇は決して「ずる賢い」といった描写を与えられることはなく、蛇一般の概念(ずる賢いイメージ)とは一線を画すように描かれています。

また、先述した父の死のシーンに登場する蛇たちも、単に不吉なだけでなくある種の神々しさ(霊的な力)を持つ存在として描かれているのかもしれません。ここらへんは日本的な観念が影響してるんじゃないかしら、蛇信仰もありますし。

 

ここまでストリップ太郎の話を聴いていたちんぽ三兄弟がひそひそ話を始めた。

「最後に、蛇信仰の話が出てきたな。日本では昔から蛇を神の化身として信仰の対象として崇める気運が強かったらしい。縄文土器に蛇の文様が確認できるし、古事記や日本書紀にも8つの首をもつ巨大な蛇の生き物としてヤマタノオロチが登場する。」

「蛇信仰の由来は、やはり蛇の異様な体型にある。それに生態系も変わっている。動物を丸呑みしちゃう食べ方、牙に毒があるのも畏敬の念を抱かせるし、なんといっても成長の過程で脱皮するのが不死の象徴とされたらしい。」

「先ほどから蛇を女として語られているけど、むしろ蛇の退化した四体のイメージから、古来は男根のシンボルとみなされていたようだよ。まさしく生命のシンボルだね。だから、

ヤマタノオロチは若い娘をさらって食べちゃうんだ。」

「一体それが、どうして男から女へとイメージ転換されていったのかな?」

「蛇には毒牙があるし、、、川は蛇行してゆったりと流れているものの、時に氾濫するし、、、」

 三人はにやりと笑う。

 

「昔、ある男が朝になって目が覚めてみたら、蒲団の中に大きな青大将がとぐろを巻いていたという話を聞いたことがある。蒸し暑い夏のことだったので、男はさぞヒヤッとして気持ちよく熟睡していたんだろうな。しかし、蛇を見つけたときにどれほどヒヤリと肝を冷やしたことだろう。」

「それは夏版の湯たんぽみたいなもんだな」

「女の魅力のひとつは、人肌のぬくもりにあるという。その蛇を抱いて寝ていた男には、女の情念が宿っていたのかもな。」

「まぁともあれ、この女は蛇かしら?なんて考えつつ、ステージの上の踊り子を眺めるのも一興かもしれないね。」

 三人は頷き会った。

 

 

最後に、まさしく蛇足ながら、芥川賞作家である金原ひとみの『蛇にピアス』に触れたいと思います。彼女は太宰治が大好きというのですから、この作品『蛇にピアス』がもろに『斜陽』の影響を受けているのは疑いないでしょう。

金原ひとみは、1983年に生まれた東京都出身の小説家です。『蛇にピアス』で第130回芥川賞を受賞し(2003年下半期に発表された作品を対象に2004年1月15日に受賞)、デビューしました。

この小説作品を原作に、2008年に映画が公開されました。監督は蜷川幸雄さんで、主演は吉高由里子さん。当時無名だった吉高由里子さんと高良健吾さんの、体を張った演技に注目です。高良健吾さんのことは、先に映画『アンダー・ユア・ベッド』で紹介しましたが本当にいい若手の役者です。

この映画は、“痛み”によってしか“生”を感じられない少女の姿を描いた作品で、映画のキャッチコピーは「19歳、痛みだけがリアルなら 痛みすら、私の一部になればいい。」

生きている実感もなく、あてもなく渋谷をふらつく19歳の主人公ルイ。ある日訪れたクラブで赤毛のモヒカン、眉と唇にピアス、背中に龍の刺青、蛇のようなスプリット・タンを持つ「アマ」と出会い人生が一変する。アマの刺青とスプリット・タンに興味を持ったルイは、シバと呼ばれる男が施術を行なっている怪しげな店を訪ね、舌にピアスを開けた。その時感じた痛み、ピアスを拡張していく過程に恍惚を感じるルイは次第に人体改造へとのめり込んでいくことになる。・・・

刺青は非常にビジュアル的なもの。登場人物たちはアングラな世界の住人で、さらにそこにサドマゾが介入してくる特異な作品です。あからさまな性描写が芸術として昇華されていて、不快感なしに一気に読めます。

 

題名に象徴される通り、スプリット・タン(蛇のように舌に二股の切れ目を入れること)が本作のメルクマールだと思います。アマのスプリット・タンに魅了されますが、主人公のルイは結局スプリット・タンをしないで終わります。

このスプリット・タンの二枚舌は何を象徴しているのかな?

まさしく、『斜陽』で示された、蛇のもつ醜と美なんだと私には感じられました。

 

                                   つづく

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第88章 ストリップと椅子 ~江戸川乱歩『人間椅子』を読んで~ の巻

                          

                                    

 ストリップと椅子の関係を考えてみる。

 すぐに浮かぶのはステージを取り囲む座席である。映画館のように、正面のステージに向かって整然と1列目、2列目・・と並べてある劇場もあれば、盆回りや花道に向かって並べられることもある。後者がストリップ劇場独特なタイプといえよう。その座席も、ベンチシートのように安普請ものもあれば、肘掛けの付いた立派な作りのもある。背もたれがある方が断然いいが、蕨ミニや横浜ロックのように狭い劇場では単に盆を取り囲んだだけのものもある。また、せっかく立派な座席なのに、お金がないのか全く補修をせず椅子のバネが飛び出ていて座布団を敷いてごまかしている劇場もある。やはり接客業としては椅子くらいしっかりしてほしいと思う。このように座席ひとつ見ても、劇場それぞれの独自の雰囲気を形づくっているんだなぁと思える。

 

 さて、以上はストリップに限らず、映画館や他の娯楽施設に共通な話題であったが、ここでストリップ独特に椅子が使われるケースを紹介する。

 真っ先に思い浮かぶのは、ポラ撮影における「椅子ポーズ」である。わざわざ椅子を取り出してポラ撮影するため、進行が押している場合は敬遠される。劇場によっては一回目のポラ撮影だけに限るとしているところもある。

 この「椅子ポーズ」というのは、踊り子を椅子に座らせ、Mポーズなどに足を広げさせる、いわゆるエロポラ撮影に用いられる。椅子に座らせると、踊り子さんのお股がちょうど目の高さにくる。近い距離で水平に撮れるので、被写体がバッチリと写る。エロポラファンが好んで椅子を使いたがる。衣装ポラであれば、踊り子さんの顔がカメラマンの目の高さにくるが、エロポラだとどうしても下を向く形になりポラの収まり具合が悪いのだ。一度、椅子ポーズを始めると延々にポラ撮影が続き時間が押すことがままある。だから椅子ポーズは進行時間の状況次第となる。

 

 もうひとつ、ストリップと椅子で思い浮かぶのが、椅子を使った踊り子さんのステージである。

 演目の中には、ステージに椅子を置き、その椅子に絡んでダンス・パフォーマンスをかっこよく魅せる方もいる。

 私が一番お気に入りなのは、椅子を使ったベッドショーである。先のポラ撮影の椅子ポーズと同じく、ベッドショーは下向きに観るが椅子を使うと秘部が目の高さがくるため刺激度が強い。とにかく近くてよく見えるので興奮する。ときに、椅子の背に手をつき、後ろ向きに半屈みになると、そのヒップラインの美しさは生唾ものである。おしり好きにはたまらない。椅子ポーズの魅せ方も踊り子さん独自であるが、総じてかっこいい。

 

 以上、「ストリップと椅子」というテーマでつらつら書いてきた。まさか、椅子をネタにこんなストリップ・エッセイを書こうなんてそもそも思っていなかった。

 これを書くきっかけの方が面白い。

 文豪のひとり、江戸川乱歩の『人間椅子』を読んだのがきっかけなのである。

 江戸川乱歩といえば、私は小学生時代に名探偵・明智小五郎の登場する「少年探偵団」シリーズに夢中になった。図書館にある本は全て読破した。寝食を忘れて読んだほど。男の子ならみんな同じ体験をしたことだろう。振り返れば、私の人生の中で、これほど純粋に楽しく本に夢中になった時期もない。それ以降は知識・教養が主な目的になってしまったように思える。この時期にシャーロック・ホームズや怪盗ルパンなど推理・探偵ものにも興味を示したものの、少学校を卒業してからは探偵ものも卒業してしまった。

 

 改めて、江戸川乱歩を紹介する。

 

 

 

 文豪シリーズを読み漁った中に、江戸川乱歩の『人間椅子』を発見した。ネットの紹介で、この変態チックなネーミングが私の気を引いた。

乱歩がこれを書き上げた当初は『椅子になった男の話』という仮題を付けていたが、最終的には『人間椅子』というタイトルにし雑誌に掲載されることになった。やはりこの『人間椅子』というネーミングのインパクトが凄い。

 余談ではあるが、ノーベル賞作家の大江健三郎に『性的人間』という本があり、この題名から性的な描写を期待して読んだものの、全く性的描写がなく期待を裏切られたというネットの声があったが、気持ちがわかる。笑

 この『人間椅子』は期待を裏切らない。以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』により、内容を紹介する。

<『人間椅子』(にんげんいす)は、1925年(大正14年)に発表された江戸川乱歩の短編小説、スリラー小説(エログロナンセンス)。プラトン社の大衆娯楽誌『苦楽』の1925年9月号に掲載された。とある女流作家宛の手紙に書かれた、椅子の中に住み、そこに座る女の温もりを味わう男の体験談という形式の物語。(中略) 乱歩による初期のエログロナンセンス小説の代表作であり、映画やテレビドラマとしても数多く映像化もされている。>

――やはりこの作中で最も注目を浴びているのは、この男の変態性でしょう。大人の男が椅子になり、その椅子の中で興奮しているのかと思うと、なかなかゾっとするものを感じる。

 

 思わず、その映画やテレビドラマを観てみたくなる。と同時に、最近観たところの2019 映画『アンダー・ユア・ベッド』を思い出した。『アンダー・ユア・ベッド』は、作家である大石圭のホラー小説で、彼は他にも『甘い鞭』『殺人鬼を飼う女』など、男の狂気を描く衝撃作を出している。タブーなどにとらわれない先鋭的な作品である。『殺人鬼を飼う女』も映画化されて、私も観ている。

この映画『アンダー・ユア・ベッド』であるが、主役の高良健吾が、恋した女性を監視するためベッドの下に潜り込む主人公を演じている。高良健吾さんと言えば。1987年11月12日生まれ、熊本県出身で、いまや若手俳優の中のトップスターである。そんな彼が、こういう変態チックな役を演じたことに私はショックを受け、またこんな青春スターが私と同じ変態の血が流れていると思えると、なんか共感というか感動さえおぼえる。

高良健吾さんは映画『蛇にピアス』にも出演している。これも機会があったら話題にしたい。

 

それにしても、椅子の中に隠れたり、ベッドの下に潜ったり、好きな女性を感じたい気持ち。覗き願望かな。犯罪になっちゃうからマズイけど、このなんか変態チックな妖しい雰囲気にはぞくぞくする。これは暴漢のように直接触れるわけではない。どこか可愛げなところがある。この感覚、こそこそストリップを観に行くのとどこか通じるなあ~。

だから、私の気を引いたことは確か。

 

 ちなみに、この『人間椅子』の後、江戸川乱歩の『芋虫』も引き続き読んだ。戦争で手足をなくし芋虫のようになった旦那を妻がなぶり殺す話である。まさに不気味なスリラー小説(エログロナンセンス)。しかし『芋虫』もそうだが、一定層の性癖にささってしまうような乱歩の小説には多くのファンがいることは確か。

私は一旦ここで江戸川乱歩を読むのを中断しております。笑

 

                                     つづく

 

 

 

 

 

【おまけ】

この人間椅子というタイトルから、ふと思い出したのが、江戸川乱歩と同時代の作家・夢野久作の探偵短編小説『人間レコード』『人間腸詰(ソーセージ)』。こちらもグロイ内容。

人間椅子とか人間腸詰とか人間レコードとか、「人間〇〇」と名のつくものにはグロテスクな興味を引かれてしまいますなぁ~。

 

この人間椅子とシチュエーションが似ている作品として、安部公房の『箱男』もオススメ。

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第87章 ストリップとスカトロジー ~芥川龍之介『好色』を読んで~ の巻

 

 

 さすがに文豪の作品にスカトロについて書いたものはないだろうと思っていたら、すごい作品に出会った。それが芥川龍之介の短編小説『好色』である。なんと男が女の大便を食べる話である。読んでいて目が点になった。この作品は芥川の作品の中でも全く有名でない。いわばB級作品。しかし、私は芥川龍之介の全作品を読み切ろうとしているので遅かれ早かれ、この作品には出会ったはず。ネットの「青空文庫」にも堂々と載っている。

 芥川龍之介は、古典である今昔物語や宇治拾遺物語などをネタにしてたくさんの名作を作ったが、この『好色』も実際に『今昔物語』の「平定文仮借本院侍従語」と、『宇治拾遺物語』の「平貞文本院侍従等の事」として載っている話である。改めて、今昔物語や宇治拾遺物語などが今では古典文学と云われているが、実は下世話な猥雑な話も多い説話集なのである。今でいうエロ本なんだな。ともあれ、こうした今昔物語や宇治拾遺物語などに光を当てたことが芥川龍之介の功績のひとつだとされている。

 芥川龍之介の作品は偉大なる文豪として教科書でもたくさん取り上げられているが、この『好色』を教室で朗読したらどんな光景になるだろうなと想像してみる。若い学生諸君はどんな反応を示すことだろうと、考えただけで愉快になる。

 と、ここまで話したら、読者の方はどんな内容だろうか、と早く聞きたくなるだろう。が、少し我慢してもらい、先に本題である「ストリップとスカトロジー」について話してみる。

 

 

 今のストリップからは、ちょっとスカトロジーというのは結びつき難いだろう。

 ところが、昔のストリップはなんでもありのエログロ路線で特にSMショーは多かった。この中にスカトロジーも含まれる。

 ひとつ昔話を紹介する。40年近く前の頃、私が印象的に記憶している踊り子さんで「薬師丸桃子さん」という方がいた。薬師丸ひろ子と菊池桃子がアイドル全盛時、二人をもじったユニークな名前だったので記憶に残っている。アイドルというよりは綺麗系の方でしたが美人で人気がありました。彼女はステージ上で積極的に奇抜なアイデアに取り組んでいました。そのひとつがアヌスへの「入れポン出しポン」でした。鉛筆のような小さいこけしでしたが度肝を抜かされました。彼女はSMにも挑戦し、浣腸ショーなんてものがありました。お客がじゃんけんで選ばれて数人がステージに上がり、次々と彼女に浣腸していく。最後に水槽にまたがり、排泄シーンを見せる、という凄い内容でした。当時はこんな企画が平気で行われていました。

私がストリップを頻繁に観だした20年前にも、劇場でスカトロジーはあった。当時はSMパフォーマンス系出身の踊り子さんがけっこうデビューしていた。その中で、TSミュージックにて、Kさんはデビュー当時、カレーライスにおしっこしてそれを客に食べさせたり、水槽の上での脱糞ショーもやっていたなぁ。Nさんは、コップにおしっこをして、それを飲み干していた。飲尿健康法というのは聞いたことがあったが、なんせ美人のNさんの飲尿ショーだから驚いた。私もNさんだったら飲みたいと思ってしまった。(笑)

最近でも渋谷道劇のアイドルYさんがSMショーの企画でおしっこをコップにして客に飲ませたという話を聞いた。仲良しのミカドのスタッフが、Yさんのおしっこが飲めるからSM企画に是非来て下さいな、と勧誘されたことがある。本気で行こうかなと思ったが結局行かなかった。(笑)

こうした企画も、最初のデビュー当初だけで、彼女たちは通常の踊り子として人気が出てくると皆さん止めてしまった。どうも一般のストリップ客には馴染まないようだ。こうしたSM企画はたまに劇場で演ぜられる。客入りはよく儲かるらしいが、一般のストリップ客は敬遠する。

そういえば、私も前に好奇心で、こうしたSMやスカトロのショーを劇場で観たことがある。周りの客を見回すと、いつもの客層とはどこか違う。ところが中にちらほら見たことのある客もいた。

女王様の聖水ショーが始まった。客の何人かが手を挙げてステージにあがる。その中に、いつも劇場で親しく話を交わす仲間がいた。彼が喜んで女王様の聖水を呑んでいる光景を目の当たりにしてさすがに驚いた。

たしかに昔あった本番まな板ショーと同じである。お客が喜べばなんでもありとなる。しかし、やはり、私は、「ステージの上は公共の場である」と思う。本能を剝き出しにして性行為に走るのはどうかな、これは恥ずべき行為だと感じた。陰で個人的にやるプレイなら変態行為だろうとなんでも許されると思うのだが。

 

 さて、私が知ってる限りのスカトロ話を展開したが、いまやストリップ劇場そのもので演じられるスカトロショーというのは無くなった。(特別企画として開催されることはある)

 ところが、スカトロがアングラなものという感覚はどんどん無くなりつつある。

 AVの影響で、変態ものはしっかりとジャンルになっている。AV女優は最初のうちはクリーンなSEXものでスタートしても、すぐに飽きられてアナル、SM、スカトロに入っていく。それが当たり前のコースになっている。今やスカトロなんて履いて捨てるほどAV作品が多い。スト仲間にも、あからさまにスカトロ好きを公言する方もいるほど。

 ストリップでも、そういう感覚になっている。踊り子さんでも当然スカトロの知識はある。中には、AV女優としてスカトロ経験者もたくさん出ている。だから、ストリップ劇場でスカトロの話題が出ても、みんな平気なんだな。

  こんな話がやけに印象的に残っている。

 いつだったか、漫談の得意な人気者の踊り子Rさんが常連のおじいさんに向かって「私のおしっこ飲める?」と聞いた。おじいさんは「飲める」と即答した。すると「じゃ、私のうんちは食べられる?」と質問を重ねる。おじいさんは困った顔で「ううーん、うんちはちょっと無理かな」と答えていた。Rさんは「じゃ! ダメね。残念だわ」と言った。まわりの客は、踊り子Rさんと客の、そうした会話を微笑みながら眺めていた。今や、そんな会話がふつうにされる時代なんだね。それにしても、私はそのRさんの最後の言葉が不思議と印象に残った。

 

 

 ということで、以下に文豪のスカトロ作品を紹介する。

 まずは、芥川龍之介の『好色』の内容。

 平安時代の貴族の話。平貞文という光源氏並みにモテるプレイボーイがいた。彼は三人兄弟の次男だったので平中(へいちゅう)と呼ばれていた。

彼が恋文(ふみ)を出して、それになびかない女性はいなかった。ところが、あるお屋敷に仕える若い女房「侍従の君」は平中の手紙に全く反応しない。その態度に彼は苛立ち、ますます夢中になる。ところが何度文を出しても一向に反応がない。モテるはずの彼は自尊心がズタズタに傷つけられる。かなりショックを受けたようだ。なかなか諦めきれない彼は、最後に「彼女の嫌なところを見ることで」彼女に幻滅し嫌いになろうとした。そこで彼が考えたのは、なんと彼女の排泄した糞尿を見ること。

 当時のトイレ事情として、宮中の女性は用をたすときには、特別な漆箱(今のオマル)にした。それを下女が定期的に外に捨てに行く。平中は、その下女から無理やりオマルを奪って家に持ち帰ったのである。

 彼が箱の蓋を開けると、香ばしいニオイがして、箱半分くらい液体が入っていた。彼は箱に口をつけて液体をすする。さらに、その液体の底に、固形物が沈んでいた。彼はそれをつまんで鼻先に持っていく。つんとした香ばしいニオイに卒倒しつつ、おもむろに、それを口に入れ歯をたてた。

 てな、場面が続く。平中は最後に発狂して死んでしまう。幕はあっけない。

 この話をよく読むと、箱(オマル)の中のものは偽物(細工物)であったとする。糞尿がいい香りがするはずがないと。「侍従の君」は、平中が異常な行為に出ることを想定して、作り物を入れていたというのである。私はそんなことはありえないと思った。これは絶対に本物である。恋焦がれ気がふれていたら、糞尿もいい香りになるはずだと。

 

 この芥川龍之介の『好色』が当時、どれだけ評判になったかは知らない。

 ところが、谷崎潤一郎も同じ題材を使っている。彼は『少将滋幹の母』という長編の中で、平中のことを取り上げ、彼のひとつのエピソードとして、芥川の『好色』と同じ場面を書いている。その際、芥川くんが先に採り上げていることを作品の中で紹介している。ライバル関係にあった二人らしい。私はこの作品『少将滋幹の母』もすぐに読んだ。

 変態話が多い谷崎潤一郎だとむしろ驚きは薄い。彼は「好きな女性のうんちは食べられる」と公言していたらしいから。しかし、ストイックな芥川にはそんなイメージがないからショックは大きい。

  芥川は天才すぎる短編の名手であるが、彼の文章を味わうと、何度も何度も推敲を重ねたことが分かるほど、まさしく骨身を削るように精巧な文章を書く。芥川は長編を書けないことに悩んだようだが、彼の文章に取り組む姿勢を鑑みれば、彼には長編を書くのは無理だったと思われる。一方の谷崎はブルドーザーのように長編を書ける。彼も天才のごとく美しい文章を奏でる。しかし、二人の文学は違う。ひとつは取り扱う内容だ。谷崎はどんなに変態だと言われようと意に介せず自分の好きな趣味をどんどん書く。それに対して、芥川はまじめすぎる感じがする。今回、同じ平中のエピソードを描くにしても、芥川の文章は極めて拡張高い美文である。思うに、芥川も『好色』のようなお下品なことをもっと書いたらよかったのになと考えちゃう。谷崎のような変態ものに負けないようにね。そうしたら悩みやストレスも減っただろうに。

芥川は谷崎と激しい文学論争をしている。結果、芥川は悩み35歳で自殺する。一方、谷崎は晩年まで執筆をつづけ79歳で大往生する。そんな二人の文豪の対照的な人生をいまさらながら考えてしまう。

 

 

 最後にもうひとつ、最近読み上げた谷崎潤一郎の大作『細雪』の話をする。谷崎の最大の長編で、現代版源氏物語と評される谷崎の代表作である。この作品には変態チックなものは一切出てこない。長いがめちゃくちゃ読みやすく、私は二週間ほどで読み上げた。

 

谷崎潤一郎はこの『細雪』の中で、‘’理想の女性‘’に近い形で三女の雪子を描いている。題名が『細雪』というくらいだから、雪子の存在価値が大きいことは疑いない。

この原作を、市川崑監督が1983年に映画化している。ある旧家の4姉妹が主役であり、

長女の鶴子を岸恵子、·次女の幸子を佐久間良子、三女の雪子を吉永小百合、四女の妙子を古手川祐子が演じている。そうそうたる美人女優である。

私は長い『細雪』を読みながら、雪子に吉永小百合さんのイメージを重ねながら読んでいた。

だからこそ、長い長い小説『細雪』の最後の一行が、東京にいる婚約者に会いに行くために大阪から電車に乗り込む雪子に対して「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」という文章で終わることに、吉永小百合さんに下痢のイメージを残すなんて最悪だとも感じた。隠れサユリストである私としては許せない。

 なんでこうなっちゃうの?

 私が思うに、雪子は最後にようやく見合いが成就して、とうとう人妻になる。谷崎としてはそれがやるせなかったのかなと思う。雪子には永遠の穢れない聖女でいてほしかったんだな。だから谷崎一流の皮肉として雪子に下痢させて終わらせたんだ。きっと

先ほども述べたように、谷崎潤一郎は生前「好きな女の糞なら、喜んで食べられる」という発言をしているのだから、なんとなく納得してしまう。また谷崎の代表的エッセイ『陰影禮讃』では、彼は日本の厠についてニオイも含めて褒めちぎっているほどだから、彼がスカトロ好きであったことは間違いないし、それを堂々と格調高く言えるところがさすがの文豪である。長生きしたはずだ。

ふと、改めて思った。自分がこの女性を本当に好きかどうかは彼女のうんちを食べられるかどうかで決まるのかもしれないと。そうしたら、踊り子Rさんが発した言葉がようやく理解できた気になった。

 

 

ストリップ太郎のスカトロ話を興味深げに聴き終えて、ちんぽ三兄弟が騒ぎ出した。

「おれだったら、吉永小百合さんのうんちなら喜んで食べられるな。相手を愛おしいと思ったなら、彼女が出したものなら何でも愛おしいと思うはずだよ。よし、今度、『あなたのうんちを喜んで食べれるほど、あなたを愛してます』とプロポーズしてみようかな?」とビンビンくんが自信満々に話す。

「そんなことを言ったら変態扱いされちゃうよ。ぼくには、さすがにうんちまでは食べたいとは思わないな。」とフナャチンくんがどことなく情けない表情で言う。

「そういえば、スト仲間のMさんは踊り子さんのアヌスが好きだってよく言うよね。きれいなアヌスにすごく興奮すると言ってたな。そんな彼なら、女性のうんちは食べれると言うのかな? 今度、聞いてみたいな。」

「スト仲間のHさんはスカトロ・ビデオをたくさん蒐集していると言うから、きっと熱烈なスカトロジーで、喜んで食糞するのかな?」 

「しかし、そもそもストリップに来るレベルの男性に、そこまで深い糞尿愛好家なんていないんじゃないかな?」と三人は口々に話す。最後に、

「まずはステージを観ながら、この娘のうんちなら食べられるかどうか、という目で観てみようか。そのうえで、この娘のうんちは喜んで食べれると明言できるような踊り子さんに会いたいもんだな」とハンダチくんがしみじみ言った。

三人はしんみりと瞑想に耽った。

                                   

                                   つづく