ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□94章 ストリップと童貞文学 ~森鴎外『ヰタ・セクスアリス』を読んで~ の巻

                          

                                    

  ノーベル文学賞作家である大江健三郎に『性的人間』という題名の小説がある。タイトルからてっきり文豪の性欲小説かと思って読んでみたら、期待していた性的な描写がなくてなんかがっかりした。(ちなみに、三島由紀夫は大江の小説では本作を特に高く評価している。だから内容は深い。)

その点、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は最初タイトルがなんのことか分からなかったがラテン語で「性欲的生活」という意味と知って読んでみたところ期待を裏切らなかった。

同じ目線で比較してはいけないところだが、つい私個人としては森鴎外の方にこそノーベル文学賞を授与させてあげたいな、と思う次第であった。(笑)

 

 訳の分からない『ヰタ・セクスアリス』というタイトルがこの小説を手にしにくくしている。「ヰ」は、「ゐ」をカタカナで表記したもので、「ウィ」と発音する。はっきり性欲的生活と書いてくれた方が飛びつく人も多いだろう。しかし、文豪の森鴎外は軟弱な表現を許さない。あえて格調高くラテン語にしたのであろうことは想像に難くない。

 しかしながら、大胆な性欲描写が問題となり、掲載された文芸誌「スバル」7号は発刊から1か月後に発売禁止の処分を受けた。

 ついでながら、この小説における、もうひとつのエピソードを記しておく。

<当時「スバル」の編輯をしていた吉井勇は、鴎外からヰタ・セクスアリスの原稿を受け取ったその足で「パンの会」の宴に出席、酩酊した翌朝見覚えのない場所で目を覚まし、一度原稿を紛失している。幸いその日の夕方、会場だった永代亭の酒棚にあり事なきを得たが、見つからなければこの作品は世に出ていなかったかもしれない、と述懐している。>

今では文豪の代表作のひとつとして、こうして手に取れるのが幸せな次第である。

 

 

 この小説『ヰタ・セクスアリス』はめっちゃ面白い。私の琴線にビンビンきた。

 ユーモラスにあふれている。冒頭で、ライバルである夏目漱石の『吾輩は猫である』を意識して、自身も「吾輩も猫である」「吾輩は犬である」なんかを書いてみたいと思う、とあって笑ってしまった。

この小説は「金井湛君は哲学が職業である」という書き出しで始まる。君づけなのもなんだかユーモラス。大学で哲学史を教えている金井君が主人公である。

つらつら考えたあげく、「丁度よいから、一つおれの性欲の歴史を書いてみようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう発展したか、つくづく考えてみたことがない。一つ考えて書いてみようかしらん。」となる。

これは息子に対する性教育としても意味があると納得して、これを書き始める。

 

 幼い頃からの自分の「性欲的体験の歴史」を振り返り書き綴られる。私は一気に話にひきこまれた。いくつかピックアップしてみる。

6歳の時の話。おばさんとどこかの娘が絵を見ています。人物の姿勢が非常に複雑になった絵で、ある部分をこれはなんだと思うと聞かれて、「足じゃろうがの」と答えると笑われます。それは真ん中の足だったんだね。(笑)

7歳の時の話。あるじいさんに「あんたあ、お父さまとおっ母さまと夜何をするか知っておりんさるかあ」とからかわれて、逃げ出します。

また、あるとき、男の子と女の子の違いが気になる〈僕〉は、高いところから飛ぶ遊びを思いつき、女の子にわざと着物をまくらせて飛ばせます。

 

ここまでは幼い頃の話で、少し大人に近づき始める。

やがて13歳になった〈僕〉は、東京英語学校に通うようになります。友達は性欲に振り回され、品行が悪いということで退学になっていったりもします。

そこでは寮生活でした。寮では、上級生の相手をさせられている少年がいて、金井君もあやうく捕まりそうになったことが何度かありました。それを父親に相談すると、「よくあることだ」と言われます。

→ 先に同性愛を扱った小説のひとつに『ヰタ・セクスアリス』が取り上げられていましたが、この辺がそうなのかと漸く納得できました。なるほど男子学生の生活がリアルに描かれています。当時は男社会だったため、高等教育を受けられるのは男子だけでした。そのため、必然的に学校は男子しかいない環境ができます。そして、その寮では男性同士の恋愛がよく起こっていました。もしかしたら、金井君のお父さんもそういう経験があったのかもしれませんね。堀辰雄『燃ゆる頬』なども、寮での同性愛を描いた作品で、実際にそういう経験をした作家も数多くいます。

 

もうひとつ印象的なシーンは、友達の家に遊びに行った時のこと。友達の裔一は留守で、裔一の義理の母親がいます。母親は〈僕〉を家に上がらせます。僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂いがする。僕は少し脇へ退いた。奥さんは何故だか笑った。

(中略)

「わたくしはお嫌」

 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を覗き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は蒼くなったであろう。〈僕〉は逃げ出してしまいます。

 

16歳になった〈僕〉は大学の文学部に入学します。古賀と児島という友達と三角同盟を組み、相変わらず女を知らない「生息子」のまま愉快に暮らします。 

その頃〈僕〉が淡い想いを寄せていたのは、実家に帰る途中で見かける「秋貞」という古道具屋の娘。「障子の口に娘が立っていると、僕は一週間の間何となく満足している。娘がいないと、僕は一週間の間何となく物足らない感じをしている」んです。

 

→ おとなへの階段を一歩一歩上っていく様子が丁寧に描かれます。顔を見るだけの古道具屋の娘のエピソードは、典型的な童貞文学というか、男子特有の妄想爆発のもんもんとした感じに共感できます。

はたして〈僕〉はいつ、どのようにして童貞を捨てるのか!?が気になりますね。

ここで大きな山場となるのは、本文中の言い方をすれば、「騎士としてdubを受けた」かどうかです。要するに性行為をして童貞を捨てたかどうかなんですが、それ以前以後で性的な事柄への関心は大きく変化します。

妄想による謎めいたものから、既知のものに変化するわけです。初体験をすませることによって、言わば視界はクリアになりますが、同時に幻想性は失われます。

 

金井君が一線をこえたのは20歳で、相手は吉原の遊女です。

友人と食事をした後、金井君は両親と暮らしている家に帰るはずでしたが、人力車が向かったのは遊郭でした。

金井君は、誘われるままに見ず知らずの女性と一夜を過ごします。のちに有名な哲学者となった金井君は、この夜を振り返って自身の異常さを認めます。

そして今年、高等学校を卒業する息子には、自分のようにはなってほしくないと思いました。金井君は、自らのこれまでの経験をつづった手記の表紙に、「vita sexualis」とタイトルを書き込んで、机の中に投げ込みました。

 

 以上が、あらすじです。一部(→)私の感想と解説を挿入しました。

 

 以下に、小説『ヰタ・セクスアリス』を読んでいて、気になった箇所について個人的な感想をいくつか述べます。

 

●「小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。」(P7)

⇒ 思わずにたり。私がこの童話「ちんぽ三兄弟」にて文豪シリーズを書いている趣旨をまさしく言い当てている!!!

 

●「宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督(キリスト)を婿(むこ)だというのは普通である。」つまり、女性が尼になるのを基督の嫁になる、と考えられる。

「性欲の目金(メガネ)を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。」(P9)

⇒ なるほどと納得!

 

●「寄席で「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。」とある。

⇒ これは、娼妓との性交渉を、おどけて言った敬語表現である。「かんこ」とは女性器をさす隠語。つまり吉原入門である。鴎外は、その後寄席以外では使われないので、無用な負担になる言葉だったと振り返っている。が、私にはすごく新鮮な詞として響いた。

吉原ソープで童貞を捨てた私には無性に懐かしさや親しみをおぼえさせてくれる。

 

ところで、大学時代のある友人が、自分はストリップの本番まな板ショーで童貞を捨てた、と酒の肴に面白おかしく話していた。それを聞いていて、さすがに私はそれで童貞を失いたくないなと思った。一生後悔すると思えた。というわけで吉原ソープに行った。たいして違わないかな(笑)。ともあれ、先の彼は今や大会社の社長におさまり、私は早々と会社を辞めストリップ通いしているのだから笑える。

 

●鴎外は年頃になり「自分の醜男子なることを知って、しょせん女には好かれないだろうと思った」。そして「僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった」と語る。

⇒ そういう人こそストリップに行くべきである。いいストリップ客になるだろう。

しかし、読み進んでいくと、さすが東大医学部のエリートである。非情な堅物ぶりが目に付く。たまたま友人に無理に連れられて遊郭(吉原)に行ったことを告白しているものの、そういうところには二度と行かないと書いている。これをみると、とてもストリップにハマる感じはしないな。

 

●性欲の虎

「世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背にのって、滅亡の谷に堕ちる。自分は性欲の虎を飼い馴らして抑えている。」(P104)結末

「羅漢に跋陀羅(ばつだら)というのがある。馴れた虎を傍に寝かしておいている。童子がその虎を恐れている。Bhadraとは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。ただ馴らしてあるだけで、虎の恐るべき威は衰えていないのである。」 つまり、小乗仏教の中の聖人は飼いならした虎を傍らに寝かして、虎の威をかることで性欲を抑えている、という話をしている。

⇒ 私は性欲の虎を飼いならしているかな? とふと思う。

子供を三人つくったときに、友人から「おまえは秋田の種馬だな」と冷やかされた。なるほど、私はせいぜい「馬」であり「虎」にはなれない。まぁ、馬並みという言葉もあるから決して馬のことを馬鹿にしてはいけないが…(笑)

たしかに「性欲の虎」とはいかにも性欲絶倫である。しかし、私は歳をとり性欲が萎えてくる時期にストリップにハマり、性欲が枯れないままできている。ストリップは元気の素であり、長寿の妙薬だと思っている。

虎の威をかりて、私は今日もストリップ劇場に向かう。

 

●森鴎外に『二人の友』という短編小説があり読んだ。

 この小説の中に二人の友人との思い出が綴られる。その一人、F君の話。

  F君は、主人公の専門であるドイツ語に憧れて東京から小倉までやってきた若き青年で、主人公は彼のドイツ語のレベルの高さに驚き弟子にします。

 F君のエピソードのひとつに、彼が宴会で、芸者から誘惑される話がある。芸者から「あなたは私の生き別れになった兄ではありませんか」と言われます。しかしF君は真面目に否定します。

 その話をF君から聞いたとき、主人公はすぐに、それが芸者の誘惑であることが分かりました。しかし、F君は芸者の誘いがわからない純粋さを持っていたわけです。主人公はF君が‘童貞’であることを直感しました。そして、‘童貞’こそが学問に対する真摯な態度に通じるものだと、‘童貞’に好感を抱きます。この鷗外の真面目な捉え方は鷗外自身の純粋さをも表していてとても清々しい。

 思わず「童貞文学、万歳!」と叫びたくなる。

 

                                     つづく