ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第95章 ストリップとストーカー ~川端康成『みずうみ』『伊豆の踊子』を読んで~ の巻

 

 

  ストーカーというと、ストリップでは一番の重罪である。

 踊り子Sさん(鈴木ミントさん)の事件を思い出す。Sさんが最近ステージにのらなくなったので彼女のファンにさりげなく尋ねた。そうしたら、Sさんが地方公演に出かけていた時に滞在していたホテルまでストーカーされたらしい、と彼女のファンから聞いた。その事件の後、しばらく休業してしまった。私はそれを聞いて驚き、Sさんが心配になった。もうベテランの域に達している彼女だからストリップに絡むことはいろいろ経験しているだろうし、アイドルとしての警戒は十分にもっていただろう、とは思われるが、今回のストーカー事件は相当のショックを受けたことだろう。仲間うちでは、Sさんがこのまま踊り子を辞めてしまうのではないかとかなり心配していた。どうにか復帰してくれてホッとした。

 終演を待って劇場前で出待ちなんかしたら、一発出禁になる。そのくらいストーカー行為は忌み嫌われる。

 

 

 ストーカー事件を話題にしたのは、川端康成の『みずうみ』(原題は『みづうみ』だが、ここでは現代仮名遣いの表記とした)を読んだためである。

 この作品が川端の変態小説のひとつであることは知っていた。ストーカーのことを話題にしようと思い、ネタとして着手した。長編とはいえ、150ページに満たないので一日で読み切った。内容に引き込まれたわけではない。事件が過去や現在に飛びまくり話が非常に錯綜している。主人公の心理を追っているのだが、非常に分かりずらい。読んでる途中から、じっくり読み込もうという気持ちが萎えて、あまり時間をかけまいと思い、読み飛ばしてしまった。

 内容を簡単に紹介します。

元高校教師の桃井銀平には、綺麗な女の人を見かけると後を追いかけてしまう「ストーカー癖」がありました。ストーカーというと、相手に危害を与えるような恐ろしさを想起してしまいますが、銀平にそんな気はありません。銀平にあるのは、美しいものに惹かれる純粋な気持ちです。「ある聖少女の美しい黒い目の中のみずうみを裸で泳ぎたい」なんて願います。

様々な女性への秘めた情念を、回顧、現実、妄想、幻想などの微妙な連想を織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、「永遠の憧れの姿」に象徴化させていると解説されます。最後まで読むと、夢の中にいるような不思議な感覚が味わえると言いますが、私の頭の中は瞑想してしまいました。

本作は、川端康成の作品の中でも、とりわけ異質と言われています。美しい文体の中に潜む、異様な気持ち悪さ。そして、現実と妄想の間で揺れ動く主人公の心。発表当初、賛否両論が交わされた川端康成の問題作です。川端は晩年になり、「魔界」の概念にとりつかれるようになり、これを最も積極的に取り込んだ作品のひとつになります。

 

私には、なぜノーベル文学賞を受賞したまでの文豪がどうして「魔界」の概念にとりつかれるようになったのかが気になりました。

 そう思いつつ、初期の作品を読み返すと、川端には最初から「魔界」の意識があることに気づく。

 

 川端の初期の代表作『伊豆の踊子』の学生はストーカーだった。

 最初の場面で、茶屋のおばあさんは、旅芸人は夜の相手もしてくれると話している。それを耳にして、学生は一目ぼれした踊り子を夢中で追いかけ始める。

 川端はあのギョロ目をぎらつかせながら14歳の踊り子を追いかけていたわけだ。なんかぞっとする光景が浮かんでしまう。

吉永小百合は映画『伊豆の踊子』撮影時、川端に会い、川端の印象を最高の紳士だと話しているが、それは欺瞞である。きっと川端は吉永小百合のことをエロエロの目で見ていたんだ。

話の中の学生は、踊子だから、部屋に呼んだら来てくれるだろうと思っている。だから、同じ宿に泊まりながら、彼女が他の客がつかないか「今日の夜は汚されないか」と、心配になっている。相手の踊り子は14歳の女の子なんだから完全なロリータ趣味である。

学生の変態性は、踊り子の使った櫛を欲しがっていることからも窺われる。強いフェティズムを感ずる。ところが、踊り子はその櫛で子犬の毛をなでる。それを見た学生はがっかりする。学生は後で薫から旅の記念にもらおうと密かに思っていたのだ。

まるで、踊り子がパンプレを客の頭にかぶせるのに似ている。かぶせた瞬間にパンプレの価値はがくんと落ちる。パンプレは他のものと接触しないからこそ彼女そのものであり貴重なのである。いくら好きな女の子のパンツでも他の客の頭にかぶせたものなんか欲しくないものだ。

文中では、学生の私は旅芸人を下に見ていないとしきりに書いている。しかし、実際はそうでもない。学生は薫に本を読み聞かせる場面がある。その本のタイトルは「水戸黄門」である。学生にとっての葵のご門とは一高の学生帽である。一高とは今でいう東大教養学部であり超エリート。それに対し、踊子の薫は尋常小学校2年しか出ていないで字も読めないレベルの女の子なのである。エリート意識で旅芸人を見下しているのがぷんぷん匂ってくる。

このように、川端文学は、後年‘魔性’を追求したと説明されるが、むしろ当初から‘変態性’をキーワードにして読むと味わいがある。学生のもつ孤児根性は変態志向につながっているのである。ただ断っておくが、それで川端文学の評価が落ちるわけではない。むしろ人間くさいし、美しい文体でうまくオブラートに包んでいることが天才ならではなのである。

 

一方の、旅芸人たちの陰謀もすごい。旅芸人は社会の最下層にいる。だから一高の学生は非常にまぶしい存在。将来はえらくなるだろうから安泰である。40女はどうにか薫と結び付けたいと思っている。姉の千代子は何の取柄もない栄吉と所帯をもってしまっていて(できちゃった結婚で、赤ん坊は早産)、栄吉は一緒に旅芸人として同行している。母親としては、残る薫だけには玉の輿にのってほしい。そんなときに相手として将来有望な学生が現れたわけだ。なんとかして家族の中に取り込みたいと画策している。薫を安っぽく見せたくないので手練手管の言動をみせる。なかなかやり手の40女だ。

旅芸人たちは、亡くなった赤ん坊(仙吉と千代子の子)の四十九日を明日に控え、一緒に法要してほしいと頼む。しかし、学生はお金がなくなったこともあり、表面上は学校が始まることを理由に法要には同行できないと断る。

学生はこのまま同行すれば、旅芸人の術中にはまり、薫と結婚させられることになるだろうと警戒したのである。

薫のことが本当に好きなら、一日残って、一緒に法要することで家族との親交を深めたはずだ。前日に薫と千代子の二人を活動映画に誘ったくらいだから、お金もなんとかなったはず。頭のいい学生は家族の思惑が分かり、あえてこれ以上の深入りを避けたのであろう。

でも、旅芸人たちはあきらめずに、学生に対して次の冬休みに会いましょうと誘っている。大島に来て下さいと誘う。大島とはどんなところか。江戸時代は流刑の場であった。もともと風紀のよいところではない。

薫は学生に対して大島のことを次のように話している。夏は海水浴でお客がたくさん訪れる。それは当然にしても、冬でもお客さんが訪れると話す。それに対して、学生は「大島では冬でも泳げるんですか」と聞き返す。薫は一瞬迷ったが「そうです」と答える。それを横で聞いていた40女は「バカねえ」と薫をたしなめる。おそらく、客は女を求めて大島に行っている。旅芸人たちの商売はそんなとこにある。うぶな薫はうまく答えられなかったのだ。

大島の旅芸人は、『雪国』における芸者と全く同じ境遇にある。同じ芸を売る立場であり、旅芸人はあちこちを動き回り、芸者は一つ場所に留まる。男たちは、そうした女という慰めを求めて旅に出る。

結論から言うと、おそらく学生は薫と結ばれない。この学生が大きくなったら『雪国』の島村みたいになるのである。川端の女趣味はずっと続く。川端と親しかった三島由紀夫は川端のことを「永遠の旅人」と呼んでいるが、そういう意味が含まれているのだろう。

『伊豆の踊子』をストーカー物語として読むと、非常に緻密な仕掛けがされていることに改めて気づかされる。純情な恋愛小説と思わせておいて、実は鋭いサスペンスドラマに様変わる。さすがノーベル文学賞作家は奥が深い。

 

 

 以上のストリップ太郎の話を聞いて、ちんぽ三兄弟が騒ぎ出した。

「でも、川端の『みずうみ』と『伊豆の踊子』を読むと、悪意のないストーカーもあるんじゃない。いろいろ妄想はするけど、手を出したりしてないよ。」

「まぁ、ストーカーというのは、追いかける行為そのこと自体が問題なのかな。」

「そう考えると、ストリップの追っかけ(全国を遠征する)とストーカーは紙一重になるぞ。前者は熱心な客として歓迎されるも、後者は犯罪者になっちゃう。こりゃ大変だ」

「いったい、この差はどうして生ずるかな?」

 それに対して、ストリップ太郎は口を挟んだ。

「ひとえに客の心持ち次第なのだろう。みんなで踊り子を応援したいと思えるストリップを心底愛する者だけが追っかけを許される。利他の精神さ。それに対して、踊り子を自分だけのものにしたいと考える自分本位な輩は許されない。それはストーカーとみなされる。

 一般の男女の恋愛はどうしても相手を自分のものにしようと欲する。だからストリップの追っかけは特殊なのかな。でもアイドルの追っかけも同じだよね。」

 

「川端はなんでこんなストーカーまがいの小説を書いたのかな?  彼の‘魔界’にはどんな背景があるのかな?」
 この質問に対しても、ストリップ太郎は次のように解説した。

「『伊豆の踊子』の中に、主人公の孤児根性という言葉が出てくる。彼は幼くして全ての肉親を失ったんだ。医者だった父を1歳7カ月で結核で亡くし、翌年母も亡くなる。そのため康成は実家に預けられる。ところが、祖母は小学校入学時に、祖父は中学卒業時に亡くなる。別の家に預けられていた姉も既に亡くなっていた。彼は15歳にして天涯孤独となってしまった。

こうした孤児の生い立ちに加え、結婚したものの子宝にも恵まれなかった。「不妊」(最初の死産を含む、妻の数度の流産)の状況により、本当の意味での「孤児」の悲哀、「孤独」の感を強めたと言われている。

また、『伊豆の踊子』について言えば、ちょうど婚約までした初恋の人伊藤初代との突然の別れが大きく影響している。どうも彼女は誰かに犯され、黙って川端の元から離れていったようだ。川端のショックは大変なもの。

こうした悲惨な過去の体験が川端を魔界に導いたことは想像に難くない。」

ちんぽ三兄弟はしんみりと聞いていたが、話を切り替えた。

 

 

「先ほど、川端康成と吉永小百合さんの話があったね。実は僕は、吉永小百合さんのファンなんだ。

山田洋次監督の映画『男はつらいよ』(同じ主人公で50本の映画はギネス記録)にも吉永小百合さんは登場する。このシリーズには日本を代表とする美人女優がマドンナとして次々に登場する。マドンナに誰を選ぶかは山田監督の好みもおおいに影響していると思うが、最初に二度目の出演したのは吉永小百合さんだった。山田監督は、今や78歳にもなった吉永小百合さんを主役として抜擢するほど吉永小百合さんを気に入っている。」

「私も、渥美清さん演ずるフーテンの寅さんが大好き。

 ストリップの追っかけは、フーテンの寅さんみたいになるべきだね。寅さんは、純情だし、同じ旅人として粋だよなぁ。」

 みんなが頷いた。

 

                                    つづく