ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第95章 ストリップと老いらくの恋 ~川端康成『眠れる美女』を読んで~ の巻

 

 

 この文豪シリーズを書くにあたり、三島由紀夫の次には川端康成に関心が向かった。

なぜなら川端は三島の恩師である。東大在学中に出版された三島の処女作『花ざかりの森』を高く評価したのは川端である。それが縁で二人の親交はずっと続く。

 ところで、三島が太宰治を嫌っていた話を既にしたが、川端も芥川賞選考委員として第一回芥川賞で太宰を落選させた張本人である。芥川賞を逃した太宰が川端に対して悔し紛れの手紙を送ったのは有名な話である。このように、三島も川端も、太宰つながりとなっている。

 

 川端康成といえば代表作は『雪国』『伊豆の踊り子』『古都』などで美しい恋愛小説を思い浮かべる。しかし、今回ご紹介するのは知る人ぞ知る変態小説である。『眠れる美女』『片腕』の短編に始まり、長編『みずうみ』など沢山ある。『みずうみ』は今でいうストーカー男の話である。川端は晩年に「魔界」に強い関心を抱くようになる。

それにしても、あのノーベル賞作家として有名な川端康成に変態小説があるのは意外だった。

 女優の吉永小百合さんが川端康成と会ったのは映画『伊豆の踊り子』の撮影現場でのこと。小百合さんの入浴シーンがあったが、そのとき川端は彼女を見て「あなたは脱がなくていい」と言ったという。その思い出から、小百合さんは「これまで会った男性の中で川端さんが一番ダンディな男性だった」と話している。

 このイメージを全く覆す。おそらく、彼の変態作品をノーベル賞委員会の人が見ていたら、川端はノーベル賞をとれなかったかもしれないなと勘繰りたくなる。(笑)

 

 川端の1963年ノーベル文学賞受賞の逸話を紹介する。ノーベル章の選考過程は50年間秘密にされることになっている。50年後の2014年に驚くべき事実が判明した。当時、最終候補として6人の名前があがっていた。その中には日本人の、谷崎潤一郎、川端康成、そして若くして三島由紀夫の名前もあった。その中でも三島由紀夫が最有力候補であったらしい。そこで日本文学に造詣の深いドナルド・キーンさんにノーベル賞委員会から打診があった。キーンさんは「今の日本文壇の評価では三島由紀夫に勢いを感じる。しかし日本には年長者を立てなければならないという風潮が強い。ここは最年長の谷崎潤一郎でいくべきだ。三島はまだ若いので次にチャンスがあるだろう。」と返答した。そこで一旦ノーベル賞委員会は谷崎潤一郎でいこうと考えたものの、発表まで時間が過ぎる間に谷崎は亡くなってしまった。そこで次席候補の川端康成に決まったというのだ。

 川端康成が受賞したとき、記者会見で三島由紀夫も同席している。表面上は恩師の受賞を称えながらも、自身が受賞を逃した悔しさを隠せなかったらしい。そのときの映像が生々しく残っている。

 もう少し雑談すると、後に2013年テレビ放送「ニッポン不易流行」で、ドナルド・キーンと瀬戸内寂聴の対談がされていて衝撃的な話をしている。「ノーベル賞は川端康成でなく三島由紀夫が受賞すべきだった。三島だったらあの自決はなかったし、受賞した川端の自殺もなかった」とキーンさん。寂聴さん「私もそう思う」。

 ドナルド・キーン氏は外国人でありながら、他の誰よりも日本文学を愛し探求を極めた学者です。彼は早くから、日本文学の最高到達点は、三島由紀夫さんだと高評価していました。谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫、安部公房の作品を欧米に紹介した功績は讃えきれないほどの大きな仕事だったと改めて思います。

 

 

 前置きはこのくらいにして、今回のテーマは(前述の童貞文学に対して)“老いらくの恋”としたい。

「老いらくの恋」と言えば、年老いてからの恋愛であり、決していかがわしくはない。もともと、この言葉は、昭和23年(1948)、68歳の歌人川田順が弟子と恋愛、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた語である。

 老いても恋ができるというのは素晴らしいこと。老いると性的に減退するものだが、枯れずに恋ができるというのは立派なものだ。

 ただ、ここでは純愛路線ではなく、前述した川端康成の老いてからの変態小説を取り上げる。

小説『眠れる美女』は、おじいちゃんと裸の女の子が添い寝する話。川端康成の作品には官能的な作品がいくつもあるが、なかでも人気なのが本作です。

 

物語は、江口という老人が会員制の秘密の宿に来たところから始まります。この宿は、睡眠薬で絶対に目覚めない裸の美少女と一緒に添い寝できる代わりに、すでに精力の衰えた老人しか入ることが許されていません。しかし、まだ性機能が衰えきってるわけではない江口老人は……というお話です。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用しながら、以下に詳しめにあらすじを紹介します。

<あらすじ>

江口老人は、友人の木賀老人に教えられた或る宿を訪れた。その海辺に近い二階立ての館には案内人が中年の女1人しかいなかった。江口老人は「すでに男でなくなっている安心できるお客さま」として迎えられ、二階の八畳で一服する。部屋の隣には鍵のかかる寝部屋があり、深紅のビロードのカーテンに覆われた「眠れる美女」の密室となっていた。

 

そこは規則として、眠っている娘に質の悪いいたずらや性行為をしてはいけないことになっており、会員の老人たちは全裸の娘と一晩添寝し逸楽を味わうという秘密のくらぶの館だった。江口はまだ男の性機能が衰えてはいず、「安心できるお客さま」ではなかったが、そうであることも自分でできた。

 

眠っている20歳前くらいの娘の初々しい美しさに心を奪われた江口は、ゆさぶっても起きない娘を観察したり触ったりしながら、昔の若い頃、処女だった恋人と駆け落ちした回想に耽り、枕元の睡眠薬で眠った。

 

半月ほど後、江口は再び「眠れる美女」の家を訪れた。今度の娘は妖艶で娼婦のように男を誘う魅力に満ちていた。江口は禁制をやぶりそうになったが、娘の処女のしるしを見て驚き、純潔を汚すのを止めた。まぶたに押し付けられた娘の手から椿の花の幻を見た江口は、嫁ぐ前に末娘と旅した椿寺のことを思い出す。2人の若者が末娘をめぐって争い、その1人に末娘は無理矢理に処女を奪われたが、もう1人の若者と結婚したのだった。

 

8日後、3回目に宿を訪れて添寝した「眠れる美女」は、16歳くらいのあどけない小顔の少女だった。江口は娘と同じ薬をもらって、自分も一緒に死んだように眠ることに誘惑をおぼえた。老人に様々な妄念や過去の背徳を去来させる「眠れる美女」は、遊女や妖婦が仏の化身だったという昔の説話のように、老人が拝む仏の化身ようにも江口には思われた。

 

次に訪れて添寝した娘は整った美人ではないが、大柄のなめらかな肌で寒い晩にはあたたかい娘だった。江口の中で再び「眠れる美女」と無理心中することや悪の妄念が去来した。

 

5回目に江口が宿を訪れたのは、正月を過ぎた真冬の晩だった。狭心症で突然死した福良専務もこの「秘密くらぶ」の会員だったことを、江口は木賀老人から聞いていた。福良専務は世間では温泉宿で死んだことになっていた。宿の中年女はその遺体を運び擬装したことを江口に隠さなかった。

その晩、江口の床には娘が2人用意されていた。色黒の野性的な娘と、やわらかなやさしい色気の白い娘に挟まれて、江口は、白い娘を自分の一生の最後の女にすることを想像した。江口は自分の最初の女は誰かとふと考え、なぜか結核で血を吐き死んでいった母のことを思い出した。深紅のカーテンが血の色のように見えた江口は、睡眠薬の眠りに落ちていった。

 

母の夢から醒めると、色黒の娘が冷たくなり死んでいた。江口は眠っている間に自分が殺したのではないとふと思い、ガタガタとふるえた。宿の中年女は医者も呼ばず平然と対処し、「ゆっくりとおやすみなさって下さい。娘ももう1人おりますでしょう」と言って、眠れないと訴える江口に白い錠剤を渡した。白い娘の裸は輝く美しさに横たわっているのを江口は眺めた。死んだ黒い娘を温泉宿へ運び出す車の音が遠ざかった。

 

 次のような解説あり。

『眠れる美女』は、川端康成の中編小説。「魔界」のテーマに連なる川端の後期を代表する前衛的な趣の作品で、デカダンス文学の名作と称されている。すでに男でなくなった有閑老人限定の「秘密くらぶ」の会員となった老人が、海辺の宿の一室で、意識がなく眠らされた裸形の若い娘の傍らで一夜を過ごす物語。老いを自覚した男が、逸楽の館での「眠れる美女」のみずみずしい肉体を仔細に観察しながら、過去の恋人や自分の娘、死んだ母の断想や様々な妄念、夢想を去来させるエロティシズムとデカダンスが描かれている。

これまで日本で2度、海外で3度(フランス、ドイツ、オーストラリア)映画化された。

→映画化されていることにビックリ!機会があれば観てみたい。

 

執筆期間中、川端は睡眠薬による禁断症状で意識不明な状態が続いたそうです。その時の経験も『眠れる美女』に生かされているのかもしれませんね。

 

内容を見るに、老人の性について書かれた作品ではありますが、ただ官能的なだけではありません。主人公の江口老人は、女の子と添い寝しながら、夢の中で今までの人生を回顧します。川端康成の繊細な文体でつづられる幻想的な夢の世界と、現実世界の官能性。それらが見事に融合し、不思議な読後感を誘う作品となっています。

しかしながら、『眠れる美女』の設定は、どう見ても変態的である。

薬によって眠らされた、裸の美女の横で、老いた男たちが、セックス抜きで(ただしペッティングは行なう)ただ眠る。冷静にふり返るにあからさまに気持ち悪い設定だ。

しかしこの作品に漂う、ふしぎな雰囲気とエロティシズムは強いインパクトを残す。

実際の行為には至っていないものの、女の体を観察し、セックス抜きで彼女らの体に触れることで、しないからこそのエロさが立ち上がってくるのが良い。特に肉体描写の丹念さと耽美さは目を見張るものがあるのだ。さすがは文豪。こういうエロティックな書き方もあるのだな、と感心させられる。

そしてそのような異常な設定から、老人の人生と、男性性と老いというテーマが浮かび上がってくる。

 

 

 この小説に出てくる「秘密くらぶ」は、私にとってストリップ劇場なんだなとつくづく思えた。

今のストリップ客の大半は高齢者である。性欲の激しい若者は直接的な風俗に走る。高齢になれば性的に減退するが、中には、江口のように枯れないエロスをもつ人もいる。そういう人向けにストリップ劇場があるんだね。言い換えれば、静かな安らぎの死に向かっていく高齢者の慰みの場がストリップ劇場ともいえる。

ストリップは「触れてはいけない」風俗。そこも相通じる。

文中に「仏の化身」と出てくる。女性の性器をよく観音様と言う。私は毎日ストリップ劇場で観音様を拝んでいる。まさしく踊り子は私にとっての仏様なのである。

 

まことにストリップ劇場というのは不思議な場所である。

性欲に駆られて入場するくせに、踊り子に対して犯そうという男としてのエネルギーには繋がらない。美術館で絵や彫刻を観るごとく美を求めている。

ストリップとは老人に残された枯れないエロスを楽しむ場。それは、老いらくの恋でもある。ストリップで元気をもらって長生きしたいものだ。

 

                                  つづく