ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第90章 ストリップとインモラル ~三島由紀夫不道徳教育講座』を読んで~ の巻

 

 

 以前、ロバート・フルガム著の『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本が大ベストセラーになった。人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。という書き出しから始まる。

 私は、子供についてのエッセイを書くのに、この本をネタにしたことがある。

 考えてみたら、今の私にとって「人生に必要な知恵はすべてストリップで学んだ」と言えるのではないかなと思うことさえある。これまで、ストリップ・エッセイで書いてきたことはステージの素晴らしさであり、踊り子さんとの触れ合いによる人生の機微であったと思えるのである。この中に美があり愛があり真実がある。

 だから、ストリップをモラルに反するものとして扱おうとする世の中の常識に、ものすごく違和感を感ぜずにいられない。

 

 この世には、男と女がいる。男と女しかいないわけだ。男と女が出会い家庭を持ち子孫を残していかなければならない。そうでなければ人類は持続しない。そのためにも、男は早く女というものを知らなければならない。できるだけ早くね。

 ところが、ある年齢に達しないと、男と女のことに興味を持ってはいけないものとされる。できれば、結婚するまで童貞と処女を守りなさいと言う。それがモラルだと。

 しかし、いざ、子供を作る行為に至ると、どうしていいか分からない人も出てくる。また、お互いの考え方が理解できず離婚に至ってしまう。これでは困る。昔は家の概念がしっかりしていたので、家族みんなが協力することで、さまざまな経験不足や諸問題が解決された。だから離婚なんか無いし、子孫もたくさん残せた。いまは家がしっかりしないから親も子供を教育できず放任している。

子供たちは自力でもって友人からマスコミから異性の知識を得ていく。ふつうは自然に興味をもって成長していくものだが、中には興味が持てず、また時にあらぬ方向にいってしまう。だから結婚しない独身貴族が増え、変態さんも増え、結婚しても離婚ばかりする人が増える。やっぱり、結婚前に、ある程度の男女の性や特質についてよく理解しておかなければならない。

 

 私は、高校を卒業してすぐに、もちろんその時には童貞だったので、女を知りたいという興味本位に、仲間と一緒にストリップを観に行った。当時は、ピンク映画の合間に三人くらい踊り子が出演していた。私たちは恥ずかしそうに後方で観ていたせいもあり、踊り子さんの秘部は陰毛のせいか真っ黒でなにがなんだか分からなかった。仮にそんな状態でSEXに及んでも、きっと穴がどこにあり、どうやればいいか迷ったに違いない。大学に入って、初めて正式のストリップ劇場に行き、真近で入れポン出しポンをやり穴の位置を確認し、かつ本番まな板ショーを観ながら性行為のやり方を見学できた。そこで初体験して童貞を失った友達もたくさん知っている。私は、そこまでの勇気がないというか、さすがに人前でSEXするのは気が引けた。

今の若者はAVやネットなどで性の勉強するのかな。しかし、それはあくまでバーチャルの世界だよな。その点、ストリップは生で勉強ができる。安い小遣いで学べるストリップ劇場は今でも貴重な存在だと信じて疑わない。ストリップ劇場は他にも人生で大切なことをたくさん学べる場であり、社会的な認識をもっと見直されるべきだ。

ストリップを反道徳的なもの、倫理に反するなんていう考え方は間違っている。

 

「モラル」は英語の「moral」から来る言葉で、道徳や倫理という意味がある。道徳とは、物事の善悪を判断する基準や、社会生活で守るべき基準という意味を持つ言葉だ。

「モラル」の類語には道徳、倫理、道義、徳行、善徳などがあるわけだが、では「モラル」の対義語は「インモラルimmoral」となる。「アンモラルunmoral」と表されることもあるが、同じ意味。いずれも道徳や倫理から外れた行為という意味だ。日本語では「不道徳」や「背徳」「不品行」などとなる。

 今回のテーマは、「ストリップってほんとインモラルなの?」を、文豪作品から見ていきたい。

 

 

 文学作品には、人間の奥底にあるインモラルな面を抉り出すものが多い。人間の本質を抉り出すことにより、人間そのものや、人間の生き方を問うのが文学である。

 文豪作品の中に、変態ものが多いのもそのためである。こうしたネタを提供することで読者の興味を引こうとしているのは間違いない。美と醜はコインの裏表なのだろう。

 だから「エロスはダメ」なんて言ったら、それは人間そのものを否定することになりかねない。「ストリップはダメ」というのは全く同じ論拠になる。

 ストリップを見せる踊り子も、ストリップを観る客も、反モラルな悪いことをしている感覚は全くない。むしろ健康なる善いことをしている気になっている。

 

 たまたま、三島のエッセイ集『不道徳教育講座』(角川文庫)と出会う。

<『不道徳教育講座』は、三島由紀夫の評論・随筆。三島の純文学作品では窺えない機知、逆説、笑いにあふれた内容で、人気が高い作品である。「知らない男とでも酒場へ行くべし」「人に迷惑をかけて死ぬべし」「スープは音を立てて吸ふべし」など、世間の良識的な道徳観や倫理に反するタイトルが、それぞれ70章に及ぶ各章に付されている。>

週刊誌「週刊明星」に連載したものらしく読みやすい。内容が一見滅茶苦茶なことを言っているものの、すごく説得力があり、思わずふむふむと納得させられる。私はこれまで、割腹自殺した「三島事件」から過激でネガティブなかたいイメージで三島を見ていたが、これを読んで人間的に急に親しみを感じた。

 

この中で興味を引かれたものを紹介します。特に今回のテーマに絡めて。

ひとつは、「童貞は一刻も早く捨てよ」。

これは前半で話したことそのもの。男はとにかく早く女を知らなくてはならない。そのためにはストリップがもっとも手軽で手早いと私は思う。

 

 もうひとつは、「沢山の悪徳を持て」。

 私はストリップをインモラルなんて全く思っていないが、仮に100歩譲ってインモラルだとしても、三島先生はインモラルをたくさん持てとおっしゃっている。

たくさんの悪徳をもて!

なぜ?

たいていの犯罪者は普段はおとなしいとか言われます。そういった人に限ってカッとなって大きく道を踏み外してしまう。

純情少年があばずれに打ち込んでしまうと他に何も見えなくなってしまう。お金に困り友達の預かりものを売りとばす。しまいには強盗をしでかすといった具合に。

それがこの少年にもし3人ほど女がいたらどうなるか。借金なんか踏み倒してしまうだろう。犯罪などはせず不道徳で済んでしまうのだ。・・・

 なんか、納得してしまった。

まじめな人に限って道を踏み外すことがものすごく悪いことだと考える。もっと視野を広くしておけば、いざ何かにぶち当たっても深刻にはならない。

視野を広く持てということは大切だ。

特に小学生なんかは住んでいる社会が狭いため少しでもいじめを受けると死を選びがちになる。

以前、ある踊り子さんが話したことを思い出す。2008年、トラックで歩行者天国になっていた交差点に乗り入れ、次々にナイフで切り付け、死者7人、負傷者10人を出した通り魔事件、いわゆる秋葉原無差別殺傷事件が起こった。加害者の加藤智大(ともひろ)(当時25歳)は元自動車工場派遣社員で、携帯ネットに「彼女ができない」とこぼす淋しい青年だった。私はこの事件が起こった直後にある踊り子が話した言葉を忘れられない。「この人、ストリップに来ていたら、こんな事件を起こさないですんだと思うわ」。

視野を広く持っていて住む世界が広ければどうなっていたでしょう。ストリップを知っていればリスク回避できたわけです。悪徳をたくさん持つとはリスク分散になります。

こうした考え方をしたら、ストリップなんて全く不道徳なんて言えなく感じました。

 

 他にも、読んでいてハッとさせられた三島先生の言葉(フレーズ)を載せておきます。

●今、道徳教育などとえらい先生が言ってるが、私は、善のルールを建て直す前に、悪のルールを建て直したほうがいいという考えです。

●優雅という言葉は、本質的には、性的熟練という意味だと考えてよいのであります。

●爛熟した文化というものは、究極的には、女性的表現をとるのです。

●健康な人間とは、本質的に不道徳な人間なのであります。

 ストリップに絡めて読むとすごく意味深い。

 

最後に、テーマから外れるがもうひとつ。「小説家を信用するなかれ」という章の中で、「三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知っているとはいえないのが、人生の面白みです。」というフレーズがあった。これを読んだとき、ふと、こんなことを考えた。

この世には、千人斬りを自慢するプレイボーイもいるだろう。その点、私は(風俗を除けば)別れた女房しか女を知らない。きっと、そのままの数字で死んでいくことだろう。でも、それを不幸だとは思わない。

しかし、ストリップのお陰で、三千人をはるかに超える数の下の顔を拝見している。そのことは幸せだと思っている。

 

                                     つづく