ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』
□第89章 ストリップと蛇女 ~太宰治『斜陽』を読んで~ の巻
顔見知りのスト客で「性格の悪い踊り子さんのことを‘彼女は蛇だ’と言う」方がいました。彼は気に入らない客のこともけちょんけちょんにこき下ろすので、彼の‘彼女は蛇だ’との口癖のような言い方は彼らしくも思いましたが、やけにきつい表現だなぁと感じました。私にはそんな言い方はできません。
初めて、彼からその表現を聞いた日のことを説明しておきましょう。
ある劇場で、彼と久々に会ったので、お互いの近況の話をしました。もちろんストリップ絡みの話題になります。
実は、つい最近、その劇場で、ある踊り子Kさんの引退記念がありました。私はデビューからKさんを応援していました。とても意欲的な素晴らしいステージをするので会うたびにポラを買っていました。デビュー当初は会いに行くと、私の顔を見ただけですごく喜んでくれました。ところが、私は新人好きでたくさんの踊り子さんを応援していたので、熱心にKさんを追っかけてはいませんでした。Kさんはそれが分かり、次第に私に対する態度もそっけなくなりました。ただステージが素晴らしいし、劇場に乗る頻度が多いので、私は無視することはしないで、会う度にずっとポラは買い続けていました。まぁ新人好きは段々そうなっていきますよね。そのことでKさんから好きになってもらわなくても仕方ないことと思っていました。でも繰り返しますが、私は挨拶ポラだけはしっかり買っていました。彼女の踊り子歴もけっこう長く続き、長い付き合いになりました。
そんな彼女の引退を知ったので、最後の別れのご挨拶としてKさんの引退週の初日に会いに行きました。そうしたら、返却されたポラに「私はあなたのことがずっと嫌いでした。今週は二度と来ないで下さい」と書かれてありました。
私はものすごく嫌な気分になりました。これはないよなと思いました。たしかに彼女に好かれているとは思っていませんでした。でもデビューからずっとポラを買ってきた客に対して、こんな別れ方をする彼女のことがほとほと情けなくなりました。
そのことが強く後を引いていたので、つい彼に愚痴ってしまったわけです。そうしたら間髪入れず、彼が「なんだKさんも蛇だったのか」という言葉を発したのでした。
妖怪好きの私は「蛇女」の話はいろいろ知っています。ゲゲゲの鬼太郎にも出ていましたね。
蛇というのは気持ちの悪い生き物の象徴みたいなもんだから、蛇のような女というのは、それはそれは性格の悪い女という意味に使われます。アダムとイブも蛇にそそのかされて禁断の林檎を食べたわけですから、ずる賢いものとして、はるか昔から忌み嫌われる象徴になっています。
蛇女といえば、世界各地の神話・伝説・伝承に登場します。それは蛇の要素を含む女性ということで、身体のどの部分にどのくらい蛇の要素が含まれるかなんて明確な定義はありません。
ギリシャ神話の中に、「上半身は女性、下半身は蛇」というラミア、そして「髪が蛇」になっているメドゥーサが有名です。いまでは、各種創作物におけるキャラクターとして、さらにその定義は広くなり、「人間ではあるが雰囲気が蛇っぽい」「顔や肌に鱗を持っている」「瞳孔が蛇のようになっている」など、美しいものからホラー調の恐ろしいものまで様々です。
ついでながら、有名なメデゥーサの話をさせてもらいます。
ギリシャ神話では、青銅の腕と黄金の翼を持ち、髪の毛が蛇になっている怪物として描かれます。彼女を直視した者は恐怖のあまり体が硬直して石になってしまうといわれている。神話では、直接姿を見ると石になってしまうが、鏡に映った像には石化の力は無いため、英雄ペルセウスは、鏡像を頼りに戦うことでメデゥーサを退治します。
ところで、メデゥーサはもともとは美女であり、特に髪の美しさが際立っていたという。海神ポセイドンの愛人でもあり、怪物になる前に彼の子を身篭っていた。そもそも怪物に変えられたのも、アテナの神殿でポセイドンと交わり、その神聖を穢したためだとも言われ、チャームポイントだった髪の毛をことごとく蛇に変えられてしまったのだった。英雄ペルセウスに首を刎ねられた際、その首元から天馬ペガソス(ペガサス)と黄金の剣を持つ巨人、クリュサオルが誕生したという。クリュサオルは後に海神オケアノスの娘カリロエーとの間に、三頭三体の巨人ゲリュオンと半人半蛇の怪物エキドナをもうけている。
メデゥーサは、元々はオリュンポス十二神が台頭する遥か以前にギリシャで崇拝されていた地母神だったと考えられている。そのことから、古代ではメドゥーサの顔を象った装飾が、神殿や鎧などの魔除けとして用いられていた。現代でもトルコにて青い目を模したお守りが売られている。
このメデゥーサの話を聞いていたちんぽ三兄弟は、最初のうち、ちんぽ頭が萎えていたが、最後には、「ステージで踊り子の美しさを見ると、ちんぽが石のように硬くなるのはそのせいか!!!」とビンビンくんが叫んでいた。(笑)
さて、「ストリップと蛇」という話題をしたきっかけは、実は、太宰治の名作『斜陽』にあった。
ここから、いつもの文豪の本題に入っていく。
斜陽の中には、蛇が頻繁に出てくる。(蛇56か所、蝮9か所)
そして、この蛇がストーリーに直接かかわるわけではないものの、物語を読み進めると、じわっと象徴的な意味をもっているのが伝わってくる。そこまで味わえれば太宰ファンとして合格である。
この『斜陽』という物語の序盤に、ひとつの出来事が象徴的に取り上げられている。それが「蛇の卵を焼く」ということ。
ある日、主人公かず子は庭先に蛇の卵を10個ほど見つけます。近所の子どもたちはそれを「蝮の卵だ」というので、それを信じたかず子は卵を燃やすことにします。しかし卵を焼く様子を母親に見られ、かず子は以下のように思います。
< 蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い祟りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。>
かつてかず子の父が亡くなった際には、「死の間際に枕元に黒い蛇がいた」「庭にある木すべての枝に蛇がのぼっていた」ということがあり、そのためかず子の母は大変蛇を苦手に思っているようです…
この、冒頭に象徴的に描かれるシーンとそれが持つ意味合いは、まさしく「お母様にとって蛇は死を呼ぶ不吉なもの」でした。
私(かず子)の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうと感じている。
実際、貴族のお嬢さんとしてシンボライズされた愛すべきお母様が早死にする。それは最後の没落貴族としての象徴でした。
そして、物語の最後に、再び蛇がひとつの象徴として描かれます。
お母様が亡くなり、戦争から帰ってきた弟が自殺し、残された主人公かず子は、自分は生きる覚悟をします。それは弟直治の先輩にあたる上原の子供を身ごもること。
「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧(さと)かれ」というイエスの言葉を心の頼りに恋に生きようと戦闘開始。
しかし戦争を経て6年後に再会した上原はまるっきり違ったひとになっているのだった。体を食い破るような渇望と疲れ果てた顔をして死にかけている上原に対する失望しながらも一夜を明かし、恋があらたによみがえって来たと感じる。このあたりの揺れる恋心の描写が上手い。
弟の直治の自殺のあと、自分を捨てた上原に最後の手紙で妊娠したことを告げ、一人で古い道徳と戦って生きて聞くことを伝える。
この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。
「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」というのはほぼそのままマタイ福音書の表現であり、どうやらかず子はキリスト教の影響を色濃く受けている。
妻子持ちの上原を誘惑する際、かず子は自分がどんどん「蛇」へと変化していっているという自覚を持っているが、それもアダムとイブにリンゴを食べるようそそのかしたあの蛇のイメージがもとになっていると考えられる。文中でも「ずるい、蛇のような奸策」であったと記されている。
まさしく、この作品『斜陽』のクライマックスは、主人公かず子の変化であり、すなわち「これまでの貴族的・伝統的な価値観に反旗を翻し、俗物的に力強く生きていくことを選んだ」ことです。これこそが有名なフレーズ「愛とは革命である」なのです。
ここには、汚泥にまみれてつらく悲しい人生を生き続ける生活力を蛇に託していると感じさせられる。
つまり、蛇というものは、這いめぐって内部に侵入し、なかで居座る悪いものの象徴であると同時に、一方で、先のメデゥーサのところで述べたように、蛇が地母神としての「豊穣」を意味するところなのです。妊娠をそのように描いているのです。
またそれは、「美しい蛇」という概念に繋がっていきます。
かず子は赤い縞を持った「上品な女蛇」に、優美で品のある、自らの最愛の母親の姿をも重ね合わせます。この蛇は決して「ずる賢い」といった描写を与えられることはなく、蛇一般の概念(ずる賢いイメージ)とは一線を画すように描かれています。
また、先述した父の死のシーンに登場する蛇たちも、単に不吉なだけでなくある種の神々しさ(霊的な力)を持つ存在として描かれているのかもしれません。ここらへんは日本的な観念が影響してるんじゃないかしら、蛇信仰もありますし。
ここまでストリップ太郎の話を聴いていたちんぽ三兄弟がひそひそ話を始めた。
「最後に、蛇信仰の話が出てきたな。日本では昔から蛇を神の化身として信仰の対象として崇める気運が強かったらしい。縄文土器に蛇の文様が確認できるし、古事記や日本書紀にも8つの首をもつ巨大な蛇の生き物としてヤマタノオロチが登場する。」
「蛇信仰の由来は、やはり蛇の異様な体型にある。それに生態系も変わっている。動物を丸呑みしちゃう食べ方、牙に毒があるのも畏敬の念を抱かせるし、なんといっても成長の過程で脱皮するのが不死の象徴とされたらしい。」
「先ほどから蛇を女として語られているけど、むしろ蛇の退化した四体のイメージから、古来は男根のシンボルとみなされていたようだよ。まさしく生命のシンボルだね。だから、
ヤマタノオロチは若い娘をさらって食べちゃうんだ。」
「一体それが、どうして男から女へとイメージ転換されていったのかな?」
「蛇には毒牙があるし、、、川は蛇行してゆったりと流れているものの、時に氾濫するし、、、」
三人はにやりと笑う。
「昔、ある男が朝になって目が覚めてみたら、蒲団の中に大きな青大将がとぐろを巻いていたという話を聞いたことがある。蒸し暑い夏のことだったので、男はさぞヒヤッとして気持ちよく熟睡していたんだろうな。しかし、蛇を見つけたときにどれほどヒヤリと肝を冷やしたことだろう。」
「それは夏版の湯たんぽみたいなもんだな」
「女の魅力のひとつは、人肌のぬくもりにあるという。その蛇を抱いて寝ていた男には、女の情念が宿っていたのかもな。」
「まぁともあれ、この女は蛇かしら?なんて考えつつ、ステージの上の踊り子を眺めるのも一興かもしれないね。」
三人は頷き会った。
最後に、まさしく蛇足ながら、芥川賞作家である金原ひとみの『蛇にピアス』に触れたいと思います。彼女は太宰治が大好きというのですから、この作品『蛇にピアス』がもろに『斜陽』の影響を受けているのは疑いないでしょう。
金原ひとみは、1983年に生まれた東京都出身の小説家です。『蛇にピアス』で第130回芥川賞を受賞し(2003年下半期に発表された作品を対象に2004年1月15日に受賞)、デビューしました。
この小説作品を原作に、2008年に映画が公開されました。監督は蜷川幸雄さんで、主演は吉高由里子さん。当時無名だった吉高由里子さんと高良健吾さんの、体を張った演技に注目です。高良健吾さんのことは、先に映画『アンダー・ユア・ベッド』で紹介しましたが本当にいい若手の役者です。
この映画は、“痛み”によってしか“生”を感じられない少女の姿を描いた作品で、映画のキャッチコピーは「19歳、痛みだけがリアルなら 痛みすら、私の一部になればいい。」
生きている実感もなく、あてもなく渋谷をふらつく19歳の主人公ルイ。ある日訪れたクラブで赤毛のモヒカン、眉と唇にピアス、背中に龍の刺青、蛇のようなスプリット・タンを持つ「アマ」と出会い人生が一変する。アマの刺青とスプリット・タンに興味を持ったルイは、シバと呼ばれる男が施術を行なっている怪しげな店を訪ね、舌にピアスを開けた。その時感じた痛み、ピアスを拡張していく過程に恍惚を感じるルイは次第に人体改造へとのめり込んでいくことになる。・・・
刺青は非常にビジュアル的なもの。登場人物たちはアングラな世界の住人で、さらにそこにサドマゾが介入してくる特異な作品です。あからさまな性描写が芸術として昇華されていて、不快感なしに一気に読めます。
題名に象徴される通り、スプリット・タン(蛇のように舌に二股の切れ目を入れること)が本作のメルクマールだと思います。アマのスプリット・タンに魅了されますが、主人公のルイは結局スプリット・タンをしないで終わります。
このスプリット・タンの二枚舌は何を象徴しているのかな?
まさしく、『斜陽』で示された、蛇のもつ醜と美なんだと私には感じられました。
つづく