ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第86章 ストリップと匂い ~田山花袋『蒲団』を読んで~ の巻

                          

                                    

 ストリップと匂いの関係を考えてみる。

 すぐに浮かぶのは、踊り子さんが放つ香水である。みなさん、好みの香りがあり、好きな香水を持っている。一人一人違う、まさしく千差万別の香りである。だから、ステージからその香りを嗅いだ瞬間に、その踊り子さんの世界に入っていける。香りとは、すごい効果だと思う。

 ところで、ニオイには「匂い」「臭い」という漢字がある。違いが分かりますか?

 臭いは「くさい」とも読めます。だから、「匂い」はいいニオイであり、「臭い」は不快なニオイということになります。「果物の匂い」、「ゴミの臭い」などと使い分けます。

 しかし、快・不快というのは人により個人差があります。だから、はっきりしないときは「におい」とか「ニオイ」と表記するようです。

 私なんかは「好きor嫌い」で使い分けます。例えば、犬の汗や糞尿なら「犬の臭い」となり、愛犬なら「匂い」となる。好きな女性の汗や糞尿なら「匂い」より「香り」かもね。(笑)

 

 人間の五感の中でも、臭覚は最も基幹となるものと言われます。生まれたばかりの赤ちゃんは臭覚でもって母乳を求めます。まず生きるためには臭覚なんです。視覚なんてずっと後ですよね。

 いまや40カ国で刊行の世界的ベストセラーになっている、ユヴァル・ノア・ハラリの文明論『サピエンス全史』によると、これまで人類は猿から別れ、原人→ネアンデルタール人→ホモサピエンスに進化してきたとされていましたが、その進化系は間違いで、たくさんのサピエンスの種類が同時にいて、そのひとつがネアンデルタールでありホモサピエンスであったとします。彼らは争いながら最終的にホモサピエンスだけが生き残ってきた、と説明している。ところが、ネアンデルタール人の方が我々の祖先であるホモサピエンスより身体が大きく体力的に勝っていたという。脳の大きさも同じなので知力の差もない。それなのに、なぜホモサピエンスが勝ち残ってこれたのかがこの本のテーマになっている。

 なぜ、同じ人間であるところのネアンデルタールとホモサピエンスが共存できなかったのかと我々は思っちゃう。それに対して、この本の中で、「ニオイ」がそれを許さなかったのだと説明している。嫌なニオイだと一緒にもいれないし、ましてやSEXなんてできないんだな。

 

 もう少し詳しく話しましょう。

人類に限らず生き物というのは子孫を残さなければなりません。恋愛し(相手を気に入り)、生殖行為をします。

人間が恋愛をする場合、そこにはプロセス(過程)というものがあります。顔を見ていきなり性行為をするわけではありません。5つのハードルがあって、ひとつクリアするとまた次のステップという段階が存在するのです。

それが「五感」というハードルです。五感とは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の5つを指し、この五感によって異性をふるいにかけるというのが恋愛のプロセスになります。

まず異性に出会うと、目で相手の見かけを判断します。これが視覚ですね。視覚的に合格すると、次は耳で相手から情報を引き出します(聴覚)。お互い話がはずむと距離が縮まってお互いの体臭を嗅ぎ合うようになってゆきます(嗅覚)。その後、デートして手をつなぎ(触覚)、合格するとキスをする(味覚)というのが五感的な手順です。

重要なのは、遺伝子レベルの欲求です。相手との相性は「ニオイ」がキーになります。だから無意識のうちに相手のニオイを嗅ごうとします。50センチ以内はいわゆる「親密ゾーン」というのですが、そのゾーンに入ると、お互いの体臭を嗅ぎあうことが可能となります。

 次は、身体に触れ、キスという段階になりますが、ここで「バクテリアの交換」という作業に入ります。身体に触れるだけでかなりのバクテリア交換となり、キスという粘膜感染では接触と比較にならないほど多くのバクテリアが交換されます。バクテリアには「ニオイ」があります。口臭ですね。なにより悪いバクテリアだと病気になってしまいます。これにより相手が遺伝子レベルで相性が合うかどうかを判断するわけです。

 我々人類は「ニオイ」でもって、好きな異性を嗅ぎ分け、最終的なる伴侶を求めていることが分かります。

 

 ストリップにおける「ニオイ」ですぐに思い浮かぶのはパンプレ(パンティ・プレゼント)である。

 客が踊り子のパンティをGETすると、すぐにニオイを嗅ぐ。情けない姿と思うかもしれないが、これは本能である。少しでも彼女のニオイを感ずると、男はめちゃくちゃ狂喜する。ニオイにより本能的に興奮し生殖行為に駆り立てるのである。

 ところが、踊り子さんの大半は、恥ずかしさもあり、臭いと思われ嫌われるのを恐れてか、ニオイは付けない。さっとはいてパッと投げる。あるいは一度はいたものの香水をふりかけて自分のニオイを消してしまう。だから、パンプレに彼女のニオイを求めるのはほぼ不可能である。

 ところが、可能性は低くても、万に一つ、ニオイを付けてくれる踊り子さんがいる。パンプレに夢中になる男性たちが健気に思ったのか。それは、一時の偶然なのか、はっきり意識しているのかは分からないが、とにかくGETできる。これを一度でも経験すると、その成功体験が忘れられない。ものすごく貴重なお宝になる。大事な夜のおかずになる。それはエロポラの比にならない。だから、男たちはパンプレに熱狂するのである。

 実は私も成功体験はある。しかし、苦労して運よくGETしても殆どニオイはない。何度もそれを味わううちに段々と虚しくなって、もうパンプレなんかは欲しない。

 客によっては、パンプレに命をかけるほどの人もいて、事前に弁当やチップを差し入れている。まぁ、こういう戦略もありか。でも、それで必ずしもニオイがついているかどうかは疑わしい。ともあれ、パンツをGETしないことにはニオイは始まらないかね。

 

 

 さて、私のような小心者は、文学の中に、このフェティシズムを求める。そうしたら、あった! あった!

 フェティシズムを描いた大変な名著があります。香山花袋の『蒲団』である。

 超簡単にあらすじを述べます。

 小説家である主人公(竹中時雄)の家に、小説家志望の女学生(芳子)が押し掛け、そして住み込みます。主人公は33歳前後で、妻と子供三人がいます。女学生は19歳で田舎から出てきました。ちょうど主人公は夫婦の倦怠期を迎えていましたので、若くて可愛い女学生に内心ドキドキします。しかし、師匠なので、また家族の手前、内心をひた隠します。

 そんな女学生に恋人ができます。内心、主人公は怒ります。もう小説修行に専念できなくなったとして、主人公は彼女を家から追い出し田舎に帰すことになりました。

 そして、有名なラストシーンになります。

数日後、ずっとそのままにしていた芳子の部屋に行きます。「懐かしさ、恋しさのあまり、かすかに残ったその人の面影を偲ぼう」と思い、机の引き出しにしまってあった芳子のリボンを見つけて、においを嗅ぎます。次に押入れにしまってあった芳子の蒲団と夜着を取り出して、においを嗅ぎます。「性慾と悲哀と絶望」が時雄を支配し、時雄はその蒲団を敷き、夜着に顔を埋めて泣いたところで小説は終わります。

 

不倫したくてもできなかった悲しい中年男の恋の話です。人によっては、最後の場面から「キモい中年男」小説と思われがちでもあります。

でも私には、繊細な恋愛描写が胸を打つ傑作であると思えました。触れられない愛であるストリップに慣れた私には、主人公の気持ちが痛いほどわかります。

 

ネットを見たら、森川友義さんの記事に出会いました。そこに、『蒲団』の恋愛学的意義がよく表現されています。以下、転機させて頂きます。・・・

 

『蒲団』は「新小説」という文芸雑誌の1907年(明治40年)9月号に掲載され、翌年『花袋集』(1908年)という本の中に収録されました。

花袋は「自然主義」に属する作家です。日本文学における自然主義は、この『蒲団』の大ヒット(花袋は回想録に『蒲団』は当時4~5万部売れたと記している )によって、欧州の自然主義とは一線を画すようになり、次第に「赤裸々に人生をありのままに描写する」作風となっていきます。島村抱月がこの本について「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録である」と評したのは有名な話です。

 

『蒲団』は恋愛小説として、2つの点で画期的です。

1つめは、明治・大正時代の作品の中で、唯一恋愛を「嗅覚」で表現した点です。(先に見てきたように)恋愛において「嗅覚」は非常に重要な要素なのですが、『蒲団』はこれを見事に描写しています。主人公の竹中時雄はリボンや夜着や蒲団に残る芳子のにおいを嗅ぎますが、それは私たちの遺伝子の欲求からすると自然な行為です。小説で描くと「キモい」と感じられることもあるかもしれませんが、私たちが無意識のうちに、好きな人のにおいを嗅ごうとしていることは否定できないことなのです。

 

もうひとつは、不倫の心理描写を克明に作品化した点です。『蒲団』が日本初の「私小説」で、この作品は田山花袋本人の経験が書かれており、芳子のモデルは岡田美知代、恋人の秀夫は永代静雄という実在した人物で、実際の出来事に基づいています。不倫願望をいだき妄想したのは、他でもない田山花袋その人なのです。ですから、花袋は不倫をしようとする人が必ずたどる心理状態を詳細に描くことができました。ただし、不倫願望はあっても、時雄は寸でのところで思いとどまっていますので、実際に「不倫した後」の心理描写までには至っていません。性描写を含めた不倫後の細部の心理については、平成の渡辺淳一『失楽園』まで待たなくてはなりません。・・・

 

会社勤務時代、満員電車の中で日経新聞に載った連載小説『失楽園』を興奮しながら読んでいたのが鮮明に思い出されました。(笑)

小心者の私は、不倫なんかできないし、せいぜいストリップ通いするしかできません。だからこそ、田山花袋の『蒲団』にこれだけ感情移入できたんだなと改めて感じました。

 

 

 ちんぽ三兄弟は、ストリップ太郎の長い話をしみじみ聞いていました。

「田山花袋の『蒲団』が発表された当時、私小説としてセンセーショナルだったことは分かるけど、今の感覚ではそんなに驚くような話じゃないね。異性の汚れた下着にむしゃぶりつくならいざしらず、異性の夜具のほのかなニオイに感ずるのはかわいい話だと思える。やはり文学レベルの高尚な話だと思えるよね。」

「むしろ、オレは別の問題を心配になる。これが私小説ということで事実だとすれば、書いた主人公の田山花袋は文豪だからいいにせよ、書かれたモデルの方がどうなのかなと思った。芳子のモデルである岡田美知代、そして恋人の秀夫である永代静雄。今だったら暴露本として作家を訴えるんじゃないかな。いったい二人はその後どうなったのかな?」

 これに対して、ストリップ太郎は補足した。

「特に、岡田美知代は、小説のモデルになったことで、重荷を背負わされ、その後は苦難の人生をたどったんだ。私小説の形を取るこの作品が話題になると、世間は小説を事実と思い込み、美知代は結婚などの私生活や作家としての仕事の上で「堕落女学生」のイメージをもたれ長く苦しむことになる。当時は直接、文豪である田山花袋に苦情なんて言えなかったんだ。美知代は後年「恩は恩、怨みは怨み」という謎の言葉を残していることからも、彼女の気持ちは窺われるね。

 岡田美知代のその後の人生を紹介するね。その後、永代静雄と結婚したものの離婚。もうけた2児には先立たれた。米国へ渡り、再婚もしている。

 しかし、美知代は、単なる『蒲団』のモデルではなかった。封建的な男女観が残る時代に文章で自分を表現し、自立を目指して積極的に行動をした。戦争の時代をまたぎ、82年の生涯を堂々と生ききった女性だった。

 美知代が、米国のストウ夫人の小説『アンクル・トムの小屋』を『奴隷トム』の題で翻訳し、明治末から大正にかけて少女小説などを手掛けたことは知られている。また、夫であった永代静雄は、明治41(1908)年から翌年、『少女の友』誌に、『不思議の国のアリス』をはじめて和訳し、『アリス物語』として発表しました。この二人の功績はもっと知られていいと思うね。」

「なるほど、事後談を含めて、やはり名著『蒲団』のニオイは、文学的なカオリに昇華しているね。」と、ちんぽ三兄弟は頷き合った。

 

                                     つづく

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第85章 ストリップと脚フェチ ~谷崎潤一郎の世界と絡めて~ の巻

                          

                                    

 谷崎潤一郎の作品は『痴人の愛』から読み始めたが、読んでいて、作家の谷崎がかなり強烈なる脚フェチであることがすぐに分かった。脚フェチこそが本長編における最高の味付けであり、一度読み始めた読者を絶対に放さないという刺激フルなモチーフなのである。『痴人の愛』では主人公が何度も悪女であるナオミの言動に振り回され嫌気をさして彼女から離れようとするも、物語の最後の最後には、主人公は憧れの女性ナオミの足に踏まれることで彼女の魅力にひれ伏していく。谷崎の他の作品にも、『富美子の脚』など脚フェチをテーマにした作品は多く、晩年の名作『瘋癲(ふうてん)老人日記』では「女の足をかたどった墓石の下で、死んでも踏まれ続けたい」 と書くほど。

 

  現代では、脚フェチを公言する男性は多い。

 私としても、女性の美しさを語るうえで、脚の魅力に気づいている男性はとても粋だと思う。人間は視覚から80%の情報を得るという。相手が美人であるかどうかはルックス・スタイルを見て決めるが、スタイルの重要なポイントが足なのである。太くて短い、いわゆる「大根足」ではダメなのである。

 だからこそ、女性は足の美しさに過敏なる神経を使う。とにかく長くほっそりとして見せたいので、かかとの高いハイヒールを履く。本来、ハイヒールは歩行上かなり危険なのであるが、女性にとっては美が最優先になるので、危険なんてかえりみない。

 脚フェチというのは、そうした男女の共通の認識のもとに生まれてきた男性の性癖である。これを変態と呼ぶにはいささかかわいそうなところ。品の高い変態さんなのである。

 

 ストリップのステージで、脚の綺麗な踊り子さんは最高である。長い脚に形のいいヒップライン、颯爽と歩く姿を見ているだけで崇高なビーナスになる。同時に涎が出る。(笑)

 

 さて、ストリップと脚フェチについて語ろうと思うと、このストリップ業界で非常に有名な客がいる。名前は知らない。でも一度、彼の行動を見たら忘れられなくなる。

 彼は、女性の足の裏に強い興味がある。ポラ撮影では、せっせと踊り子さんの足の裏だけ撮る。誰もが性器を撮りたがっている中に、性器には目もくれず、ひたすら足の裏だけ撮るのだから目立つ。異様な光景ではあるが、決して違反行為ではない。ストリップでも局部のアップ写真は異常行為とみなされるわけだが、考えてみれば、中には顔のアップ、それも目だけ鼻だけ唇だけ耳だけ、中には臍だけを撮る人もいる。ただ、そういう人は好きな女性の全てを知りたい、写真に収めたいと考えるのであって、全身を撮っている。しかし、さすがに足の裏までは撮らない。だから、彼のようにたくさんの踊り子の足の裏を撮りたがる客は珍しいのである。

 足の裏というのは撮影を禁止されている特段マズイ箇所ではない。だから踊り子も笑って応ずる。これに気をよくして彼は何枚もパチクリと写真を撮る。周りの客は唖然として見ている。

 ある意味、踊り子も周りの客も彼の行動を微笑ましく見ているところがある。誰も非難なんかしない。そういう趣味の人もいるんだねと面白そうに眺めているのである。

 踊り子は、彼の性癖を理解し、足の裏を観ると興奮するのだからと、オープンショーでは、かぶりに座っている彼の顔先に足の裏を近づける。彼は真剣な表情で足の裏を眺める。彼が興奮しているのを踊り子は喜ぶ。ふつうの客は局部を近づけると喜ぶわけだが、踊り子としては客個人ごとに好みが違えばそれに合わせるのが商売上の上手である。彼が自分の客になり、また足の裏のポラを撮ってくれれば嬉しいわけである。

 踊り子の中には、オープンショーのときに、足の裏を近づけるだけでなく、直接彼の顔に足の裏で踏みつけるサービスをしてくれる。本当はストリップのルールとして触れてはいけないのであるが、踊り子の厚意なので問題ない。それを見て、客が羨ましく思うこともあるだろうが、だからといって、同じことをやってくれと踊り子に頼む客はいない。それだけ特殊な行為なのである。

 

 なにに興奮するのかな? ちょっと妄想してみよう。

 まず、足といえども一人一人違うのかな? スポーツ選手だと全然違うだろうな。踊り子も激しいダンスで足の裏が一人一人違うのかもしれない。一日中立ち仕事をしている女性の足の裏にはタコやマメができるらしい。ある夫は妻のそんな足の裏が愛おしいと言ってマッサージする夫婦の話を聞いたことがある。足の裏も愛情の対象となりえるわけだ。

 やはり、女性一人一人、顔が違うのと同じく、足の形も指の形も違うのだろう。女性の顔にキスしたくなるのと同じく、足の指や指の間を舐めたくなる。女性の足をかいがいしく持ち上げて、女神様への奉仕として舐める。女性としても、そこまで愛撫してくれる男性のことには愛おしく思うことだろう。

そう思えば、足の裏に興味を持つという行為は、全然異常な変態どころではない。フェミニズムの世界では一般的なことであろう。単に異性のある特定の部所に興奮するだけの話である。

 

 ストリップでは、ポラだって自由にたくさん撮れるわけだから、この趣味を味わうことも可能である。思えば、安上がりな趣味かもしれないな。プールや海水浴に行ったらいくらでも見れそう。しかし、足の裏って、いつでも見れるわけではない。いつもは靴や靴下の中に隠されているからね。それを見せてくれ!と女性に頼むのも変だ。やっばり難しいのかな。足の裏だけの写真集やビデオなんて滅多にないし。だからお金をだしてストリップ劇場でポラ写真を撮っているのかぁ~と思う。そう思うと同情したくもある。

 

 足の裏のように特殊な部位に異常に関心をもつフェミニストというのは、隠れてこそこそ楽しむのがいいのかもしれない。彼の場合、ストリップ劇場で周知にさらされるから目立ってしまったが、本来そういう趣味の人はアングラに楽しむものなのであろう。

 世の人はそれを変態と呼ぶ。でも彼の行動を見ていると、かわいくも感じられる。変態なんて、人に迷惑をかけなければ当然に許されていいのだと思う。だから、踊り子さんたちは彼のことを面白がり、かつ愛しい対象として過剰サービスをしているのだろう。気持ち悪い変態なら寄せ付けないはずだからね。

 特殊な変態というのは、アングラの世界で、お金を使い楽しむもの。そういう人がけっこういて、アングラなSMクラブなどは流行っているようだ。男の客側にそういう要望があれば、それに応えてくれる女性側もいて、商売として成り立つ。趣味の世界で楽しむクラブでもいい。そういう刺激を求め叶えてくれる場があることが、選択の自由を貴ぶ、今の世の中の平和な象徴だと思える。

 だから、隠れてやる分には問題ないと思う。

 金のない変態さんは、先ほどの彼のようにストリップ劇場にやってくる。ストリップ劇場というのは、安い料金で、女性のヌードを楽しめ、ときにエロポラ収集、下着収集など男性の異常な性癖を慰める。足の裏を好む彼もそう。中にはSM趣味でチップをやって頬を叩いてもらい喜ぶお客さんもいる。つまり「変態さん、いらっしゃい!」というのがストリップ劇場のひとつの顔でもある。それが安い料金、庶民の小遣いで楽しめのがストリップ劇場の良さでもある。

 

 ただ、ストリップ劇場は公共の場だとの考え方が大事だと私は思う。

 ステージの上では人の目がある。そこで本番行為とかエログロ行為を演ずるのはやはり行き過ぎである。ふつうの一般人である客が眉を顰める企画ものは避けた方がいい。

 昔はなんでもアリということで、本番生板ショーまであった。エログロ企画として、白黒ショー、SMショー、獣姦ショー、出産ショーなんてものもあった。風営法の規制もあり、これらは一掃された。そして、人気の高いSMショーなどはアングラな世界に移っていった。

 ときに変わった企画は、通常のストリップに飽きた客層の刺激になる。だから、SMショーなどを特別企画として期間限定で開催することもある。しかし、私はストリップ劇場は健全なストリップに限定すべきだと思う。せっかく女性客も増えたし。やはりダンス鑑賞やヌード鑑賞など美としてみんなが楽しめるものがいい。ストリップは今のアイドル路線でダンスパフォーマンスを主として続けていくべきだと思う。そうすることがストリップを生き残していく唯一の道だと思う。

 

                                     つづく

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第84章 ストリップと倒錯するSM(その2)  ~谷崎潤一郎『少年』を読んで~ の巻

 

 

 ストリップとSMの絡みを書くに当たり、これまでのストリップのステージ作品を思い起こしてみる。

 ステージでSMを演ずるとすれば、SかMかのどちらかになる。両方をひとつの演目で演ずるなんてできない。チームショーなら可能かな。ともあれ、Sとすれば凛とした女王様を演じ、Mとすればご主人様に隷属したメイド役や奴隷を演ずることになる。

 では、演じている踊り子は、自分がSかMかを自己認識しているかと言うと、そうでもないのだと感ずる。たまたま、ボンティージに憧れ女王様の恰好がしてみたいと思ったに過ぎないのだろう。

 だいぶ以前に六本木にあるSMクラブ「レーヌ」で働く現役の女王様がストリップの舞台に立ったことがあった。めっちゃ綺麗で、鞭を振るう姿に神々しさを感じた。この人はたしかにSが似合うなと思った。でも実際にSMクラブで女王様役になりきるというのは難しいらしい。女王様の方がなりきらないとSMプレイ自体がしらけてしまう。そこで女王様を勉強するために、一旦M女を経験させるという話を聞いたことがある。そうすればM男くんの気持ちが理解できるわけだ。なるほど

 たしかにストリップでのSMショーはけっこう見てきた。以前はエログロなストリップ企画の定番としてSMショーが演ぜられることが多かったこともある。

最近でも、SMパフォーマンス系から踊り子に転身するケースが多いため、彼女たちがSMを演ずることも多い。

 

しかし、往々にして、SかMかといえば曖昧なんだと思う。なんとなく、自分はこっちが好きとか、なんとなくこっちが似合う、というレベルの感覚なのかな。

以前こんな経験をした。SMショーの中に、M女を演ずる自縛ショーというものがある。まさに自分の身体を赤い縄で亀甲縛りにして、最後は宙吊りとなる。最後に、彼女は盆回りの客に鞭を渡して叩かれていた。その喜んでいる姿を見るに、私は彼女が本物のM女なんだと思った。そのため、私は鞭を渡されたとき、少し強めに叩いた。それを見た周りの客は驚いた。他の客は遠慮がちに軽くぺたぺたと叩くようにしていた。だから、隣の客は「そんなに強く叩いたら痛いだろ。それに体に傷ついたら大変だよ。」と私を諫めた。しかし、私は彼女の目が喜んでいたのを感じていた。「強めに叩いて!」という彼女の目の訴えを感じたからこそ私は強めに叩いたのだった。私はそのとき自分にはS気があるのかなとも感じた。しかし、それは違う。いつもステージの上の踊り子さんを憧れで見る私のまなざしは本来M気が強いのだと自己認識している。

まぁ私は、踊り子さんに「あなたはSですかMですか」と尋ねられると、「私はSでもMでもなく、単なるHです」と答えるようにしている。ストリップファンなんて、所詮そんなものであろう。

だから、SMについて語る内容も全然かわいいものである。(笑)

 

 

さて、SMを取り扱った物語として、谷崎潤一郎の短編小説『少年』を紹介する。

少年期には特有の残酷さ(いじめ、昆虫への虐待など)がありますが、本作はそれが前面に描かれている作品です。

登場人物は四人。

10歳くらいの主人公「私」。

私と同い年の信一(しんいち)。彼はお金持ちの息子で、大きな屋敷に住んでいる。彼は美形だが、意気地なしの弱虫で、学校ではいつも女中(お手伝いの女性)と行動を共にしている。

私と信一より1~2歳上のガキ大将である仙吉(せんきち)。信一の屋敷に仕えている。そのため、学校では信一をいじめる立場だが、家では信一に仕える立場に逆転する。

そして、信一の姉である光子(みつこ)。13~14歳の美少女。ただし妾の子のため家のなかでは信一より立場が弱い。外国人にピアノを習っている。

この四人の少年少女が信一の家のなかで「妖しい遊び」を始める。

まずは、私と信一と仙吉の三人での遊びから始まる。

最初は「泥棒ごっこ」。警官になった信一は、泥棒役のガキ大将・仙吉を捕まえるや、仙吉の着物の帯を解いて彼を縛り、両脚のくるぶしまでくくってしまいます。信一は捕縛された仙吉に「罪人だから入墨をしてやる」と墨を擦ったりします。

次は「狼ごっこ」。信一は「自分が狼になるから、私と仙吉は旅人になり、しまいに狼に喰い殺される遊びをしよう」と提案します。狼に噛まれて土間に横たわった仙吉は着物の裾をまくられて腰から下を露出し、背中に乗った信一はむしゃむしゃと食べる真似をします。

信一は同様に横たわっている私にも乗ってきて鼻の頭から食べ始めました。泥の付いた草履で顔を踏まれても、私は不思議と恐怖よりも快感を感じるようになります。そして、いつの間にか心も身体も信一の自由になるのを喜ぶようになりました。

遊びは過激化します。ここから光子も加わります。

最初は「狐ごっこ」。お雛様飾りの前で繰り広げられます。

仙吉と私の前に、美女に化けた狐の光子が現れ、足で踏みつぶした饅頭や、痰や唾を吐き込んだ白酒をすすめます。私と仙吉はそれをたいらげます。そこへ信一が現れて、人間をだます狐の光子を退治しようとします。光子は抵抗しますが、信一の号令のもと私と仙吉は光子の両脚を抱きかかえて縛り上げます。信一が口に含んだ餅菓子を光子の顔に吐き散らし、私と仙吉もそれをまねました。

 次は「犬ごっこ」。信一は本物の犬を連れてきました。お菓子を平らげてしまった犬は、信一の指の先や足の裏をぺろぺろ舐め始めました。それを見た3人は負けじとその真似をします。「綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来ている」と考えながら、私は一生懸命信一の指の股をしゃぶりました。

毎日のようにこのような遊びを続け、私・仙吉・光子はいじめられるのを喜びましたが、中でも一番ひどい目に合わされるのは光子でした。

 ところが、立場が逆転するようになります。

それは「家来ごっこ」。

 ある日の夜、光子は「仙吉に会わせてあげる」と私を屋敷の西洋館に誘いました。そこには手足を縛られて衣服を脱いだ仙吉が額へろうそくを載せて、上を向いて座っていました。溶けたろうは両眼を縫い、唇を塞いで、顎から膝へぽたぽたと落ちています。光子は「これからあたしの家来にならないか」と私に言いました。私も仙吉同様に縛られて、蝋で目と口を塞がれます。

次の日から私と仙吉は光子の前ではおとなしくひざまずきます。信一も逆らえば私たちに制裁を加えられるので、光子の家来になりました。次第に光子は調子付き、3人を奴隷のように使って、私・仙吉・信一・光子で構成される狭い国の女王となりました。

 

 以上の内容です。他人からの侮蔑が極まると、逆に快楽を感じるというマゾヒズムの構造が、鮮やかに描かれています。

ここで注目されるのは「サドマゾの逆転」です。

学校でガキ大将の仙吉はサド、信一はマゾ。遊戯の時は信一がサド、私・仙吉・光子がマゾです。中盤までは、私と仙吉は光子に対してサドを前面に出して接します。終盤になると立場が入れ替わり、光子がサド、私・仙吉・信一がマゾになります。

 

このように、サドとマゾは反転しやすく、表裏一体なのだという谷崎の認識が、テーマとして盛り込まれています。デビュー作の『刺青』も、初めはサドの清吉に焦点が当たっていましたが、清吉によって覚醒した娘は、清吉よりも優位な立場に変わります。

長編で初期・中期を代表する『痴人の愛』『卍』『春琴抄』にも同じことが言えます。この考え方は、谷崎作品を読み解く上でキーになります。

 

 

ストリップ太郎の話を聞き終えて、ちんぽ三兄弟が騒ぎ出しました。

「おれ、この谷崎の小説『少年』を知っているよ。これに影響されて漫画家の古屋兎丸氏が『帝一の国』『ライチ光クラブ』を描いたらしいよ。『ライチ光クラブ』は2016年に映画化もされた。」 漫画好きのビンビンくんが言う。

「そういえば、ストリップのステージで、この『ライチ光クラブ』をモチーフにした演目を観たことがあるよ。道劇所属の新條希さんと栗橋所属のRUIさんのチーム「Bitter chestnuts」による作品『ゼラジャイ』。ぼくはこれにインスピレーションを受けて創作童話『こだわり男爵とリセット少女』を書いたので鮮明に覚えている。しかし、こんなところにストリップと谷崎ワールドが繋がっているのを知ると感動を覚えるな。」

「それにしても、この『少年』は小学生くらいの年頃の話なので激しいノスタルジーを蘇えさせてくれるね。

自分はもっと幼い頃のことを思いだす。近所の女の子との『お医者さんごっこ』だ。

あるとき、私は好きな女の子と見せ合いっこしたんだ。最初に、私は単純に女の子のあそこが見たかったので、相手に『見せて!』と言った。そうしたら『あなたのも見せてくれたら、私も見せてあげる』との答えが返ってきた。やったー!! うまく交渉が成立したわけだ。お互い幼かったから、どのくらい恥ずかしかったか覚えていない。きっと興味より相手への気兼ねが強かったに違いない。だから、その見せ合いっこも瞬間の出来事だった。

不思議にも、後々、そのことをよく思いだす。そのたびに『彼女のあそこをもっとしっかり見ておけばよかった』と後悔の念に襲われるんだ(苦笑)。」

「なるほど、きっとそのときの気持ちが今でも強く残っていて、こうしてストリップに通っているのだな。」

「死ぬときに後悔しないように、しっかり見ておきたいものだね。」みんなは笑いあった。

 

   つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第83章 ストリップとSM(その1)  ~三島由紀夫『サド公爵夫人』を読んで~ の巻

 

 

「ストリップとSM」なんてタイトルを掲げてしまったが、やっば、SMについては、あまり人前で話してはいけないのかな。ホントに変態さんかと思われるからね(笑)

太宰治の名作『斜陽』の中に、「他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。」とある。太宰が言うと、とても文学的でロマンチックだが、所詮『人間とは、ひめごとを有する生き物だ』と思う。

SMというのは典型的な‘ひめごと’に思える。

 

 

まぁともかくSMについて考えるにあたり、三島由紀夫の『サド公爵夫人』を読んでみた。三島の代表的な戯曲である。たまたま題名に惹かれて読んではみたが、ありゃりゃ、この本からSMを解釈するのは全く無理だし、読んでいて、やっぱ三島文学は小難しいなぁ~というのが最初の感想だった。

 

この『サド公爵夫人』の内容に触れる前に、そもそもサディズムという言葉が、サド公爵夫人の夫であるマルキ・ド・サドに由来していることを知らないといけない。

サド公爵のことを話す。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

マルキ・ド・サド(1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意。

サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。

 

   サドの最初の本格的な作品として 『ソドム百二十日』がある。1785年にマルキ・ド・サドがバスティーユ牢獄で著した未完の小説である。ちなみにソドムは街の名。

この中では、悪事と放蕩によって莫大な財産を有する4人の男が、フランス中から拉致してきた美少女・美少年達と深い森の城館で120日に及ぶ性的・拷問的饗宴を繰り広げる物語が、性倒錯、暴力、善悪、反道徳、無神論といったテーマと共に描かれている。犠牲者はありとあらゆる性的虐待と恐ろしい拷問の末に大半が殺される。

これが後年、イタリアの映画監督により映画化された。1975年製作の『サロ、またはソドムの120日』(邦題『ソドムの市』)である。舞台をファシズム末期のイタリアに置き換えた映画。この映画には強姦、食糞、四肢切断などの恐怖シーンがある。同時代人の多くはこれを史上最も物騒な映画だと考え、世界各国で上映禁止とされた。

 そういえば、余談ではあるが、私のスト仲間が興味本位で『ソドム百二十日』という書物を購入して読んだらしい。全然おもしろくなかったと評していた。彼が求めていた内容でなかったんだろうな。そんな読書家の彼が、私のこの童話『ちんぽ三兄弟』を読んでくれ、非常に面白がり、私のこの童話をストリップ版「ソドムの市」と評してくれた。是非とも貴重なストリップ記録(風俗資料)として、この物語を遺してほしいものだと言ってくれた。とても嬉しい感想だった。

 

 さて、SMの話を続ける。

 SMという言葉を始めて表したのは、オーストリアの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングという人である。彼は、「異常性欲」について、「フェティシズム」、「同性愛」、「サディズム」、マゾヒズムの4つに分類している。このうちの「サディズム」は、相手に対して、精神的で身体的な屈辱と苦痛を与えることによって性的な快楽や満足を得ることを意味する。まさにサドの名前に因んで名付けられたわけだ。ちなみに、その逆になる「マゾヒズム」はオーストリアの作家マゾッホの名に因む。

 だから、変態といえば、一般的にはこの異常性欲を示すものとされる。本童話における話も、この異常性欲を軸として展開していくことになる。

 

 

 ここで、話を三島由紀夫の戯曲『サド公爵夫人』に戻す。

 この物語には、肝心のサド侯爵は登場しない。牢獄中のサド侯爵について、どうにか救いたいという気持ちもあって、六人の女性が語り合う内容になっている。サドの妻、その妻の母親と娘(サド公爵夫人の妹)を中心に、その友人たちも加えた、彼女たちの視点から好き放題にサドを語る。時に、その矛先が、サド侯爵だけでなく、お互い同士を批判し合う。女性たちには鬼気迫るものがあるし、感情のぶつかり合いは恐ろしく、その「こわさ」が本作の面白さになっている。

特に、夫サドを庇い待ち続ける貞淑な妻ルネの存在が印象的だ。ルネは悪徳の名を負い悪の裏階段を上ってしまった夫が退廃的であることは重々承知している。また、自分という妻の存在がありながら、夫が妹と不倫し逃亡したことも知っているし、それを容認もしている。また後年にはサドの、文字通りサディスティックな行為も受け入れている。まさに夫を護るべく貞淑の鏡のような存在である。ところが、物語の最後に、これだけ夫サドを庇っていた貞淑な妻ルネが突然サドと離婚することになる。後年ようやく夫が解放されるという直前になって、彼女を離婚に駆りたてたものは何か? 彼女の人間性にひそむ不可思議な謎こそが本作の最大のテーマになっている。

 

表向き、彼女はあくまで貞淑な妻なのだ。その二面性がこわくなる。文中、「おまえが貞淑というと妙にみだらにきこえる」と母親が言うのも当然だと思う。

 しかし、こうした二面性は彼女に限ったものではないと思える。

常識的に見て、まちがったこと、ゆがんだこと、悪いこととは知っているけれどついやってしまうこと、大仰な言葉を使うなら、悪もしくは背徳に惹かれる人は少なからずいる。

程度の大小や、事象の種類にこだわらなければ、ある程度の人はそういう感情を持っている。少なくとも、そういったことを想像するくらいならたいていの人はする。

そもそも、人が悪や背徳に惹かれるのは何に依るのだろうか。

背徳的な行為そのものに惹かれるのか、それとも道徳からはずれた自分自身に惹かれているのだろうか。それとも背徳を行なう人物に惹かれ、自分もその世界に踏み込むのか。

人間は常に多面的な存在でもある。その恐ろしい二面性もまた人の真実だろう。

だから、貞淑を体現しながら、同時に背徳に惹かれているのは、人間のあり方としては自然だろうし、業であるのかもしれない。

そして同時に、貞淑をやたらに強調するのは、貞淑であるほどそんな自分の背徳的行為が際立つから、行なっているのかもしれないなとも思えてしまう。

そんなルネの姿は、見ようによっては、自己陶酔の側面が強いよな、なんて思う。

特にラストのサドに対する賛美の言葉はその思いを強くさせる。

彼女はその場面で、背徳を突き詰めて、独自の世界に至るサドを絶賛している。だがそれは実際の生身のサドそのものに対する賛美ではないのだ。ルネが淫しているのは、背徳という行為の概念にすぎないのではないだろうか。

そしてそれは裏返すと、背徳という行為に走り、それに惹かれる己自身に対する自己愛なのではないか、と私には見えてならない。

そしてそんな彼女の姿もまた、人、という存在そのものなのかもしれない。

そう考えると、この戯曲が、文学的香気に満ちた、優れたものに見えてくる。

 

私は以前から、SMプレイの根底には「愛」がないとプレイ自体が成り立たたないと思っていました。M男は女王様の愛を信じて苦痛に耐えます。いや、愛があるからこそ苦痛も快感になるのでしょう。ふつうのセックスが単純な射精で終わるのに対し、SMプレイは本来時間の制限はなく果てしなく続くことも可能です。大事なことは、そこには互いの信頼関係が存すること。だから、ふつうに風俗店で行うSMまがいのプレイ、単に変わった趣味・嗜好に合わせて行っているプレイには「愛」がないために本当のSMプレイではない。私にはそう思えました。

三島の『サド侯爵夫人』でいう自己愛も「愛」のひとつのカタチです。

きっとSMというのは奥の深いものなのだと思います。

 

 ここまで来て初めて、太宰治のいう『人間とは、ひめごとを有する生き物だ』の意味が分かってきた気になりますね。

 

                                    つづく

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第82章 ストリップと変態論 ~谷崎潤一郎の世界に絡めて~ の巻

 

 

 谷崎潤一郎の小説は実に面白い。読んでいると彼は絶対に変態だと思えてくる。最初に読んだ彼の小説『痴人の愛』に脚フェチやサディズム・マゾヒズムを感じさらせれ、引き続き読んだ『刺青』『春琴抄』『少年』でも妖しいサディズム・マゾヒズム、『卍』では同性愛(レズ)、『悪魔』ではフェティズム、『秘密』では女装マニア、『少将滋幹の母』ではスカトロと、なんとなんと変態のオンパレードである。他にも、『鍵』では夫婦間の日記盗み見、『幇間』ではいじられ役の太鼓持ち、『白昼鬼語』では自殺願望、『私』では盗人、等と特殊趣味的な人間の深層心理を抉ってくる作品が多い。

 彼はなんでも作品化しようと、自身の性癖までを包み隠さず、むしろ積極的に作品の中に落とし込みます。しかも、文豪と呼ばれるほどの天才的な文学表現で作品を彩ります。彼の生きた時代は今よりも性に対してずっと抑圧された時代だと思われますが、世の人は彼の性癖に興味を持ち共感をもって受け入れたわけです。当時は自然主義・耽美主義ということで赤裸々に内面を露呈し、読者を刺激することが求められていたのかもしれませんが。やはり文豪だから受け入れられたのでしょうね。ひとつ間違えたら、単なる変態として扱われちゃいかねません。

 

こんな内容を書ける谷崎潤一郎という人は一体どんな人物だったのでしょう。彼に興味をもって調べると、彼は80年の生涯で40回も引っ越しをしたり、奥さんを友達に譲ったり、度が過ぎる美食家だったりと、やることが規格外の人物です。たしかに一般人とはちょっと違う。

 

しかし、彼の小説に興味や関心を抱いて夢中になる読者は、ふつうの人でしょう。でも、やっぱ突き詰めれば変態に興味を持つ変態なんでしょうか。(笑)

もちろん、私もストリップ通いを趣味にする変態です。変態は否定しません。いつも物語を書きたくて妄想をしています。でも、小心者ですから、せいぜいストリップ通いをするか、こうして小説の中で堪能するくらいが関の山です。

 

ちょっと待て!

ストリップ通いということで変態扱いされるのは心外だな。ストリップの名誉として、ストリップは変態でないということを説明しなければいけない!!!!

ということで、以下の文を書かせてもらいました。(以下では、‘変態’と言い切ると表現がキツイので、できるだけ‘変態さん’とユルく書かせてもらう)

 

たしかに、ストリップ通いする者には「変わり者」が多い気がする。

客層を眺めるに、八割方、スケベな気分にかられてやってくる、いわゆる一見客(いちげん客)である。彼らは一過性のスケベになり、そのストレス解消のひとつとしてストリップ劇場にやってくる。大勢で飲んだ勢いで入場する者も多い。彼らはあまりリピートしない。一方、残りの二割方が、いわゆるストリップ常連と言われる客である。彼らは病気のごとく毎日のように劇場通いする人もいれば、土日のみ劇場に行くというレベルの人もいる。いずれにせよ、生活のリズムの中にストリップが組み込まれている。彼らは遠征も厭わない。たくさんのお金を落とすことから、生活費の中でストリップに費やす比率(私の造語であるが‘ストリップ係数’)が高い人たちである。独身が多いので独身貴族ともいえる、いわば「ストリップ貴族」である。そして後者の彼等こそが、間違いなく今のストリップ業界を支えている。

こうした後者の人たちの中に、ごく少ないが「変わり者」がいる。しかし、少ないなが

らも目立つ。あえて目立ちたい「女装マニア」も含まれる。男なのに女装しているのだから当然に目立つわけだ。彼らは目立ちたがり屋なのである。

他のお客さんたちは女装マニアを「キモイ」と思う。しかし、踊り子さんは面白がるので、彼らはますます図に乗って劇場を徘徊する。決して女性料金で入場しているわけではないので、劇場スタッフは大目にみている。まあ「キモイ」とは思えても、他のお客に迷惑をかけなければいい。

 女装マニアまでいかないが、「コスプレマニア」というのもいる。ぬいぐるみをいつも携えている「ぬいぐるみマニア」もいる。こんなふうにして、好きな踊り子さんの気をひこうと画策しているのだ。これらは踊り子の気をひく手段であるが、彼らが女装・コスプレ・ぬいぐるみそのものにも強く固執していることは間違いない。マニアなのである。

そうそう、「マニア」に近い用語で「おたく」という言葉があり、こちらはもっと格下げされる。これは「マザコン」に近いニュアンスがあって、こうなると女性からは嫌われる対象となる。

いずれにせよ、「マニア」「おたく」という認識を「ユニークな人間」「変わり者」と考えるうちはいいが、そのうち「社会不適格者」とか「変態」と認識されちゃうと困ったことになる。

 

変わり者の中には、性的な変質者もいるだろう。エロポラ好きは偏狭的なコレクターかもしれないし、パンプレ好きは下着愛好者と考えれば変態になっちゃうかもしれない。そういう意味では、ストリップ劇場には変態がいっぱいいるかもしれないが、まあここでは、人に迷惑をかけなければいいとしよう。過激でなければ変態でなしとして、除外して考えよう。

そういう熱心なストリップファンを「ストリップマニア」と呼ぼう。

 

マニアをあえて定義づければ、「なんらかの分野に熱中、没頭している人物」ということだ。熱中、没頭! いまどきあまり聞きなれない言葉だが、本来「美徳」といって差し支えない性向だと私には思える。

ストリップマニアは、ストリップという分野に熱中、没頭しているわけだが、物事に没頭できる人というのは賢い人が多い。たまたまストリップ好きで劇場に来ているわけだが、他の分野にも詳しい人がいる。実は、医者や学者や企業経営者だったり、一流会社勤務だったり、こういう高学歴者なインテリがけっこういる。ストリップは時間のかかる遊びなので現役だと仕事が忙しくてなかなか劇場に来れないものの、既に退職した人がホント多い。彼らは「マニア」「おたく」タイプなんだな。たまたま女性に縁がなく独身を通しストリップに流れている客も多いのである。

 

世にマニアという人種はたくさんいる。特に日本人には多い気がする。何度も言うが、こうしたマニアは、本来「美徳」なのだ。

ところがにもかかわらず、マニアに対する世間の評価は芳しいものではない。「ユニークな人間」「変わり者」というのはまだ愛情のあるほうで、「社会不適格者」「変態」と烙印を押されてはたまったものではない。

 

思うに、世の中はマニアがいるから進歩する。科学者、研究者、職人、芸術家、すべてマニアである。彼らを「社会不適格者」「変態」と言うのはとんでもない失礼なことだ。マニアこそ素晴らしいのだ。人に迷惑をかけない限り、彼等こそ「理性」「美徳」なのである。

日本には世界に誇るべき漫画やアニメの文化がある。まさにこれらは「マニア」「おたく」から生まれた。もしかしたら女に縁のない人(中には童貞も)がたくさんいたかもしれない。ついつい、そんなイメージを抱いてしまう。

 

女装マニアにしろ、ストリップマニアにしろ、非道徳だと思うからいけない。それは道徳が間違っている。

芥川龍之介のエッセイ集『侏儒の言葉』には警句や高度な皮肉が満載である。最初のページに次の文章がある。

<道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。>

人々は道徳といわれているものにさへ従っていれば、個々の事例について自分で判断しなくてすむので、便利である。それは交通ルールのようなものだ、と言っている。それは、単なる時間と労力の節約に過ぎず、「完全なる良心」を麻痺させていると付け加える。「道徳は常に古着である」とも言う。

女装マニア、ストリップのどこが悪いのか。何をか言わんである。

芥川は更に<良心とは厳粛なる趣味である>とする。そして、病的な愛好者を持っている。そういう愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪である。つまり、私のいうストリップ貴族のことである。

そして、芥川は「我々の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我々の好悪である。或いは我々の快不快である。」と別のところで言っている。女装趣味であり、ストリップが好きということが「完全なる良心」に通じていると私には思えてくる。

 少し脱線してしてしまったが、私は「マニア」こそが素晴らしいと主張したい。

 そうであるなら、ストリップには「マニア」に集まってもらいたいものだ。

 そういえば、だいぶ前だが、この童話の中で「変態さん、いらっしゃい!」(第27章)という話があったっけな。いま思い出したよ。

 

 いろいろ話が飛んでしまったが、最後に結論を云おう。

私は「ストリップマニア」になりたい。

文豪たちに負けずに、文章でストリップを表現して、この素晴らしさを伝えたい。自分が趣味として楽しんでいるストリップを誇りにしたい。

そして、一刻も早くストリップに市民権を与え、いつの日か、漫画やアニメのように世界に誇る文化にしたいと願ってやまない。

 

                                   つづく

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第81章 ストリップという愛のカタチ ~谷崎潤一郎の世界に絡めて~ の巻

 

 

 谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』を読むと、男女関係、脚フェチをはじめとしたフェティシズム、サディズム・マゾヒズム、美意識、等々、さまざまなテーマが盛り込まれている。読者はそのいずれに、どういう興味、関心をどの程度持っているかで作品へののめり込み度が違ってくる。そのため読者自身の趣向を否応なく露呈させてしまう作品ともいえる。

 

谷崎潤一郎は、全作品を通して、女性を崇拝の対象として描く傾向にある。これは彼が、幼い頃に母親を亡くしているということもあって、女性に対して一種の幻影のようなものを抱いているからです。幼い自分を抱きしめてくれたぬくもりや、優しく接してくれた「母親」という存在は、彼の中で女神のような位置付けです。このことは彼の小説『母を恋ふる記』を読むとよく伝わる。この作品は他と比べると特別に詩情豊かな文章になっている。

 

 谷崎の女性崇拝の姿勢は、我々ストリップファンが踊り子にもつ感情に極めて近いものを感じます。だから主人公に共感できるのだ。

 主人公は相手の女性に触れようとしない。つねに距離を保って眺め崇拝するカタチをとる。

 私は常々「ストリップは触れられない愛であり、ストリップ独特の愛のカタチである」さらに「ストリップでは踊り子と客との間に適度な距離感が必要だ」という自論を話す。

ストリップの常識として、客はステージの上に上がったり腰掛けたりしてはいけない。それは、我々客が地上人であるのに対して、踊り子というのは女神か天女かという天上人であり、ステージの上は穢れなき天空の世界であることを物語っている。女性にもてない男性にとって、踊り子は神聖化されるのである。

 

谷崎が描く女性崇拝はそれに非常に近い。『痴人の愛』などにもみられるように、谷崎文学の女性には、多くの場合、獲得のしにくさがかえって女そのものを聖化していくという、不思議な性質が具わっている。あえていうならば、女は獲得されないことによってのみ聖なるものである、とまで言えそうだ。

谷崎が長編『細雪』で、理想の美しさをもつ雪子がなかなか縁談がまとまらず、読者をいらいらさせる。これはエロチシズムの天才・谷崎潤一郎が、雪子を描くにあたってこの法則を巧みに使っていることは、ほとんど疑う余地がないと思われる。 

 

 ストリップを観ながら、ステキな女性のヌードを前にして、「触りたい」とか「彼女を自分のものにしたい」という感情がないわけではない。しかし、そういうことを言動に出した瞬間に、踊り子と客という関係は成立しなくなる。

 ステージの踊り子には触れられず、ただ黙ってステージを眺める中に、女性崇拝の気持ちを昇華させていく。そのことに満足を得るのがストリップ愛なのである。

 ある意味、「触れられない」「自分のものにならない」というジレンマこそが踊り子への情熱を高ぶらせるのだ。

 

古今東西の文学世界では、そういうカタチでの、女性崇拝がたくさん描かれている。

 文学者の中には、離れているがために交信した手紙の中に真の愛があったと言う人はたくさんいる。

西洋のトリスタン伝説にもみられるように、トリスタンとイズーとが共寝をしながらも、お互いの間に剣を置いて肉体に触れることを故意に避ける。これは、距離感というものが人間の情熱をかえって燃え立たせるものであること。そして距離を埋めて結びついてしまえば、情熱はたちまち俗化されてしまうことを暗示している。元来、女性崇拝の感情には、人間の情念に根差した不思議なジレンマが秘められているのは確かであろう。

 

 谷崎潤一郎を始め、多くの文豪たちが、さまざまなカタチで、女性崇拝を描いている。へたすると、それは変態と呼ばれる領域になるかもしれない。しかし彼らは天才的な文学的表現でもって、それを煌びやかな美の世界に昇華させている。

 以下には、私が文豪たちの作品に触れ、興味をそそられた領域(もしかしたら変態の領域)について述べたいと思う。

 

 私は、ストリップを変態の領域だなんて微塵も思わない。ただ世間一般には汚らわしい風俗世界とみられてしまう。悲しいことである。文豪作品と絡めることで、ストリップのもつエロチシズムを見直してみたいと思う。

 

                                    つづく

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第80章 早死にする文豪たち の巻

                          

                                         

 ストリップ太郎のコロナ話が続いた。

ちんぽ三兄弟はストリップ太郎の話を黙って聞いていた。彼らは相変わらず、毎日のようにストリップ通いをしている。客が激減する中、自分らこそストリップ通いするのがストリップ業界へのささやかな貢献だと信じて疑わなかった。

そのために、早々にコロナのワクチン接種も受けていた。これには思惑もあった。今は入場時の制限は検温だけだが、万一、その証明書(ワクチンパスポート)が入場条件になっても大丈夫なようにしておこうと考えていた。プロ野球やサッカー観戦に導入される噂があったためだが。まぁ現在のところ、ワクチンパスポートが必要なのは海外渡航時だけであるが。(笑)

一方、ストリップ太郎はストリップ通いを極力控えようとしていた。シアター上野での警察ガサ入れがショックで長いレポートをまとめたり、ブログを開設したことは既に話した。ちんぽ三兄弟も、彼のブログをよく拝見していた。

「あれだけ、ストリップ通いしていたんだから、行かないと退屈したり、淋しくなったりしませんか?」と、ちんぽ三兄弟が尋ねた。

 それに対して、ストリップ太郎は「ブログを毎日のように更新するのに、けっこう時間が費やされるんだ。過去20年間、書き散らした原稿を読み返すだけでもずいぶん労力がかかる。今のうちにデータを整理しておかないと収集つかなくなるからね。」

「また、これまで書きたいと思っていた長編小説などもあって、それにも着手しておきたいんだ。そう思えば、いくら時間があっても足りないくらいさ。」

「それから、もうひとつあるんだ。これまで読んでみたいと思っていた小説を今ようやく読んでいるところなんだ。振り返ると、宮沢賢治の童話は好きで昔からよく読んでいた。学生時代には司馬遼太郎、吉川英治、城山三郎などの長編も読んでいたが、途中から長いのは段々きつくなってきた。社会人になってからはビジネス書ばかり。今頃になって、芥川龍之介や太宰治などの純文学を読みたいと思い始めたんだ。太宰なんかは、ふつうは青春時代に読んでいる人が多いと思うんだけど、なぜか私は老後になってしまった。六十の手習いと思えばいいか(笑)」

 

 

 そう話してから、次に、ストリップ太郎は、文豪について語り始めた。・・・

 文豪の作品を読みたいとすればどうするか。図書館に行けば無料で借りられるが、必ずしも全作品がそろっているわけではない。ところが、過去の有名な文豪作品は今やネットの「青空文庫」にほとんど入っている。ほんと便利な世の中になったものだよ。調べたところ、著作権の期限は原則死後または公表後から70年となっている。だから、芥川龍之介や太宰治などの作品はもう著作権フリーになっているんだね。

そうそう、つい最近まで著作権は50年だったんだ。それが著作権保護の観点からか2018年12月30日から70年に延期されたんだな。これにより川端康成や三島由紀夫が見れなくなったのは残念だ。川端康成や三島由紀夫などの作品はもっと多くの日本人に読みやすくすべきだね。ケースバイケースで配慮すべきだと思うね。

それにしても青空文庫はボランティアが製作しているというから大儀なことだ。私のように今から読もうと思い、その恩恵にあずかれるのはホント感謝に堪えない。

 

 そこで、いざ読もうと思うわけだが、長編小説はあまり読み慣れておらず、経験上ちょっと大変かと思い、まず短編から読み始めることにしたんだ。

 そうしたら芥川龍之介や太宰治は短編作品が多く、「午前中に芥川龍之介を一篇、午後には太宰治を一篇」みたいなペースで読むのが可能なんだ。太宰治の場合は長編も多少あるので、そのときは時間がかかるけど。

それにしても、太宰の長編はことのほか面白く夢中にさせられた。すぐに彼の長編作のほとんどを読み切った。最近では、長編の魅力にはまり始めたところなんだ。

 実は、芥川龍之介や太宰治の次にはまったのが谷崎潤一郎なんだ。『痴人の愛』に始まり、どんどん読破していき、いま彼の最大の長編『細雪』を読んでいる最中なんだ。

 

 こうした有名な文豪の作品を読んでいて、嬉しいことは、ネットに解説や感想がいっぱい掲載されていること。作品を読んだら、すぐにネット検索してみる。すると、解説や感想がすごく参考になる。読んでるときはピンとこなかった内容が、こんなに味わい深いものかと分かるんだ。これに完全にはまってしまった。

 長編を読む際に、最初にネットであらすじや登場人物をチェックしておいて、それから読み始めると理解度がぜんぜん違う。さっき話した長編『細雪』もそうやって読み始めたら、するっと話に入っていって止まらなくなったよ。

 また、解説で、他の作家の作品まで紹介されていると、それも読みたくなる。そのため、どんどんスパンが広がっていく。最近ようやく読書の楽しみが分かってきた感じなんだ。

 

 昔の文豪というと読みづらいかなと思っていたら、そんなことは全然なかった。芥川龍之介や太宰治なんかはすごく読みやすい。谷崎潤一郎もすごく読みやすく書かれている。変に難解なものと思い込んでたなと反省している。すっかり文豪を見直してしまったよ。

 芥川龍之介や太宰治を好きになると、内容の面白さを求めるというより、彼らの美しい文章やリズム(文体の呼吸みたいなもの)に毎日触れているだけで幸せな気分になるんだ。

 

 もうひとつ付け加えると、文豪の作品は、ネットで朗読されているものが多い。昔、図書館でカセットテープを借りて車の中なんかで聞いていたことがあったけど、数は少なかった。ところが今やネットですごく増えたよね。解説ものも多い。これらを活用すると読書が非常に効率的になることを発見した。たとえば、自動車運転中や入浴中や就寝中でも聞けるので、読むスピードや作品数が格段にアップしたんだ。

 

 

 さて、前置きが長くなったけど、ここから今回の本題に入っていく。

  いろいろと文豪に興味を持ち始めて、戦前の明治・大正・昭和期の文豪たちは早死にしている方が本当に多いなぁと感じた。30代で亡くなっている人がすごく多い。太宰治38歳、 芥川龍之介35歳。もっと長生きしてくれてたら、もっと多くの名作が残せたのになぁと残念に思っちゃう。

 文豪というと、太宰治の心中(享年38)、有島武郎の情死(享年45)、芥川龍之介の服毒自殺(享年35)、川端康成の安楽死(享年72歳)、三島由紀夫の割腹自殺(享年45歳)が真っ先に思い浮かぶ……全て自死である。それぞれ事情があるが、その点については今回は省く。

 

 芥川と太宰以外で、早死した方を思いつくまま以下に列記してみる。

・五千円札の肖像になった樋口一葉は結核により病死。24歳。

・「一握の砂」などで有名な詩人の石川啄木は、結核により死去。26歳。

・詩人の中原中也は結核性脳膜炎により死去。30歳。

・抒情詩人の金子みすゞは服毒自殺。26歳。

・詩人の八木重吉は結核により病死。29歳。

・詩人の北村透谷は25歳で自殺。

・『ごん狐』などで知られる童話作家の新美南吉は喉頭結核によって病死。29歳。

・敬愛する宮沢賢治は「急性肺炎」で病死。37歳。

・『檸檬』で有名な梶井基次郎は病死。享年31歳。

・紡績工場のルポルタージュ『女工哀史』で知られる小説家の細井和喜蔵は急性腹膜炎で死去。28歳。

変わったところでは、

・プロレタリア文学『蟹工船』で有名な小林多喜二は特高の拷問により死去。29歳。

 

 これらを眺めていて、真っ先に気づくことは結核による病死が多いことである。

 当時は、不治の病として「結核」が大流行していたのだ。肺に感染して症状を引き起こすことが多いので、咳や痰などが主要症状である。エジプトのミイラから典型的な結核の痕跡が見つかるなど、結核は人類の歴史とともにある古い病気である。日本では、明治以降の産業革命による人口集中に伴い、結核は国内に蔓延し、「結核は国民病」と呼ばれた。

明治時代から昭和20年代までの長い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核を、薬で退治することは人類の長い間の夢でした。1944年、ワックスマンが放線菌から作り出したストレプトマイシンはその劇的な効果で、まさに「魔法の弾丸」と呼ばれるにふさわしいものでしたが、一つの薬剤による治療では、やがて使用した薬剤が効かなくなる。結核が進化し耐性菌になる。コロナが変異株になるのと同じ。ともあれ、結核については、今では、国をあげて予防や治療に取り組み死亡率は往時の百分の一以下にまで激減した。けだし、昨今の日本において、この病の脅威が消えたわけではない。

 ともかくも、文豪たちが生きた時代は、現在のコロナ禍とよく似た状況にあったわけだ。

 

 最近、コロナ禍の下で自粛生活を送っている自分が、たまたま文豪作品に触れ、強い関心を持ち始め、これらに影響されつつ執筆しているわけだが、すごく複雑な心境になっている。こうしているのが言い知れぬ縁のようにも感じられるのだ。

 もちろん、還暦を過ぎた自分がいまさら早死とは言えないし(笑)、文豪なんかと比べるべくもないのだが、こうして彼らの作品と縁を得たことに望外の幸せを感ぜずにをれない。豊かな老後のメルクマールになってくれるものと確信する。

 

 ところで、文豪といえば、近代文学の二大巨頭である夏目漱石と森鴎外はそれぞれ享年49歳と60歳で亡くなった。現代の感覚で言えば早死にかもしれないが、当時の平均寿命を考えれば早死にではない。二人の死亡は、当時の新聞記事には早死にとは記されていない。

明治、大正時代の男の平均寿命は43才くらいという。とくに、明治時代なら戦争もしていたし普通だと思う。

平均寿命の経緯を見ると、戦後直後の1947年で50才、1951年に60才、1971 年に70才、2013年に80才だ。 伸びた理由は、乳幼児の死亡率の低下、結核などへの医療の進歩、生活環境の改善、などがあげられる。

 

 さて、早死にした文豪が多いという話をしたが、中には長生きをした文豪も当然いる。

幸田露伴は80歳、志賀直哉は88歳、太宰治の恩師である井伏鱒二に至っては95歳まで生きた。みんな、自然な老衰死である。

たまたま、私の文豪読書がただ今、谷崎潤一郎なので彼の話をしたい。彼は1965(昭和40年)年7月30日(79歳没)で人生を全うした。彼は若い頃は芥川龍之介と親交があり、文学上で激しい論争もした。芥川は文学に深く悩み自決したが、谷崎は長生きした。谷崎は、私生活では3度の結婚をし、その美人妻や他の女性関係でも揉めた。彼はそうしたスキャンダラスな世界を小説にも描いている。また彼は、脚フェチを始めとした強いマゾヒズム嗜好をもった変態でもある。それを包み隠さず文章に落とし込み、しかも煌びやかな文学の世界に包み込んだ。谷崎だから文豪なのであって、一般人なら単なる変態ということだろう。

谷崎潤一郎の恩師は、永井荷風である。谷崎は裕福な家に生まれたものの、父親の商売がうまくいかず家が傾き、東大を中退せざるをえなかった。ところが、谷崎の才能を認め文壇につなぎとめたのは永井荷風であった。

永井荷風は、文豪のひとりであるが、一方で、晩年になると浅草ロックに通っていたストリップ爺である。ストリップを執筆活動の刺激剤としていた。彼は若い頃は女遊びもし、結婚歴もあるがすぐ離婚し、その後は長く独身を通した。79歳で病死するが、まさしくストリップ客に多い独身貴族であり、最後は孤独死している。「4月30日朝、自宅で遺体で見付かった。通いの手伝い婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

思うに、永井荷風も谷崎潤一郎も、エロスの力で長生きできたのではないか。

私も、谷崎のように、自分を変態だと思っている。ただ世の男性というのは多かれ少なかれみんなそうかもしれない。「結婚前は自分ほどスケベな男はいないなと思っていたもんだが、いざ結婚してみると自分ほど淡白な男はいないなと思うようになったわ」なんて、酒を飲みかわしながら笑って話している。そんなもんだ。だから、私なんかも変態と思っても、せいぜい、文学の世界を堪能したり、ストリップ通いで発散するしかない小心者なんだな。でも永井荷風に負けないほどストリップ通いに励んでいる。私も長生きするかもしれないな。(笑)

最近、大きな声では言えないが、太宰治の『人間失格』、そして谷崎純一郎の『痴人の愛』に影響を受けて、ストリップ小説としての『人間失格』『痴人の愛』を書いてみようと密かに考えている。まだ構想段階だが、老後の課題として、楽しく時間を費やしたいものだ。

 

 

                                   つづく

童話『文豪たちがストリップへやって来た!!!』

 

 

第一部     文豪たちの集い

 

 天上の神様は大の読書好きなので、たまには文豪たちの慰労会でも企画しようと考えました。

 最初は近代日本の文豪を集めることにしました。

 そうそうたるメンバーが揃いました。

 まずは、明治の重鎮である夏目漱石と森鷗外の二人。そして、夏目漱石門下(木曜会メンバー)の志賀直哉と芥川龍之介。森鷗外を慕う永井荷風、荷風を師と仰ぐ谷崎潤一郎。

 昭和の代表としては、いわゆる無頼派。太宰治、坂口安吾、檀一夫、織田作之助の四人。その他、川端康成と三島由紀夫の師弟コンビ。以上12名の面々です。

 

 ある高級料亭の一室。彼らのお座敷での配置を見てみましょう。

 正面に位置する床の間の柱を挟んで、夏目漱石と森鷗外が座ります。夏目漱石の右横には志賀直哉と芥川龍之介が続きます。そこから少し間をおいて、いわゆる無頼派。太宰治、坂口安吾、檀一夫、織田作之助の順で並んでいます。

 森鷗外の左横には永井荷風、谷崎潤一郎の順で並びます。そこから少し間をおいて、川端康成と三島由紀夫がいます。

 

 日本の頭脳とも言える面子なので、ほとんどが東大卒(中退含む)で、さぞかしアカデミックな議論が展開されるかと思いきや、意外にも他人(作品)の悪口ばかり言ってます。悪口を言われた方は自己弁護に懸命です。東大出が他人の足を引っ張ったり、自分のための言い訳ばかり上手いのはいつの時代も同じですね。(笑)

 

■ さて、具体的に彼らの会話〈悪口合戦の模様〉を聞いてみましょう。

                                                                                                                                       

◆ まずは、夏目漱石と森鷗外の両巨頭、この古狸二人の腹の探り合いからスタート。

 今でこそ、夏目漱石が文豪としての筆頭株ですが、森鷗外の方が文壇デビューも早く、最終的な公的役職が軍医総監と上なので、夏目漱石が森鷗外を立てていました。でも、夏目漱石は内心は自分の方が格上と思っています。

「鷗外先生が前に住まわれていた千駄木の邸宅に、私もイギリスから帰国後三年ほど住んでいたんですよ。そこで私は『吾輩は猫である』を書いて作家デビューしたんですよ。」と夏目はそつない話題で鷗外に話しかけました。

 森鷗外はうわべは冷静でしたが、ライバル意識が強く、夏目漱石のことを「このエゴイストめ!」と内心思ってました。鷗外は漱石に向かい「夏目先生のデビュー作『吾輩は猫である』を読みましたよ。大変面白かったです。私も負けずに『吾輩も猫である』を書こうかと思ったほどです。(笑) 実際、私の長編小説『青年』は夏目先生の『三四郎』に刺激を受けて書き上げました。読んで頂けましたでしょうか。」

夏目は苦笑いした。正直に言うと鷗外の『青年』はいまひとつな作品と思っていました。だから変な言葉を返したら鷗外を怒らせるかもしれない。森鷗外は酒に酔って喧嘩に及んだ逸話を書いているくらいなので慎重に対応しました。(『文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛』谷沢 永一著)

一説によると、森鷗外は夏目漱石の私小説に刺激され、『青春』や『雁』などの私小説を書いたものの、漱石の次々と発表される私小説の名作に、とても太刀打ちできないと感じて、晩年は歴史小説の方向に進んでいったと言われています。

 

 

◆ 夏目はおもむろに隣の志賀直哉の方を向いて話し出しました。「先日話した新聞連載小説の件だがどうかね。是非とも君を新聞社に紹介したいと考えているのだが。」

志賀は困り顔で「その件ですが、考えてみたのですが、元来私は短編向きのようです。長編小説は自信がなく、この話はお断わりさせて頂きます。」と答えました。身体が緊張して震えています。小説の神様とまで称された志賀直哉ですが、生涯唯一の長編小説が『暗夜行路』のみで、これを書き上げるのになんと25年も要しています。マイペースな志賀直哉には最初から無理な依頼でした。しかし、折角の夏目先生の推薦を断ってしまったことに心底恐縮します。

それを見かねた芥川龍之介が、助け舟のごとく志賀直哉に話しかけました。「志賀先輩、相談にのってください。最近の私はスランプで書けないんですよ。どうしたらいいものでしょうか?」

志賀は即答しました。「書けないときは書かないことだよ。いずれ書きたくなるさ。」

 それを聞いた芥川はがっかりしました。答えになっていません。オレは書かないと生活ができないんだ。やっぱり志賀はマイペースな人だと思いました。

 志賀直哉は宮城県石巻市に生まれました。父親は第一銀行に勤務し明治期の財界で重きをなした人物です。だから裕福な家庭でした。志賀は学生運動にはまり、資本家寄りの父親に反抗しました。また結婚にも反対され、親子の縁を切ります。そのため全国を転々として歩くことになりますが、しっかり親の援助を受けています。だからお金には困らなかったのです。しかも後に父親とも和解します。

 今回集まった文豪の中で志賀直哉が88歳と一番長生きしました。この要因はマイペースな人生にあるのかもしれませんね。(笑)

 

 

◆ 向かい側では、永井荷風と谷崎潤一郎とが話が弾んでいました。美食家の二人は今日の料理についてウンチクを話しています。そして、話は戦争中のことに及びます。二人は戦時下でも闇物資を調達して食を楽しんでいました。永井荷風は、東京大空襲に遭い関西方面に疎開したときに、先に関西に移住していた谷崎潤一郎の好意で一緒に食べた牛鍋の味が忘れられないと話しました。戦時下では実際に谷崎潤一郎は官憲から目をつけられていたようです。

谷崎潤一郎は裕福な家庭に生まれたものの、だんだん没落して東大を中退せざるを得なくなりました。そのとき、彼の在学中に書いたデビュー作『刺青』を高く評価し文壇に導いてくれたのが永井荷風です。この作品の持つ江戸情緒とエロティシズムを理解されたのは幸運でした。この師弟愛は生涯にわたり続きます。

ちなみに、文豪の多くは短命ですが、永井荷風と谷崎潤一郎は共に79歳まで長生きしました。長寿の秘訣はやっぱり栄養ある食べ物を摂取できたからでしょうね。(笑)

 

芥川が話に割り込んできました。芥川と谷崎は仲良しです。

「松子さんは元気かな?」と芥川は聞きました。松子さんは谷崎の三番目の奥さん。谷崎は生涯に三人の妻を得ましたが、松子さんこそが理想の女性として添い遂げました。実は谷崎と松子さんとの出会いには芥川が深く関与しています。芥川が大阪出張の折り料亭で谷崎と飲みました。そこに芥川の熱烈な読者であった松子さんが訪ねてきました。松子さんは芥川目当てでしたが、谷崎の方が松子さんに一目惚れ。そのとき谷崎は48歳。しかも松子さんは既に結婚しているにもかかわらず谷崎は猛アタックし結婚してしまいました。

次第に酒がすすみだすと、芥川龍之介と谷崎潤一郎は芸術論を戦わせました。芥川は芸術至上主義を訴え、作品には美的表現こそが大切であり筋書きなど必要ないと言います。それに対して、谷崎は作品には美的表現も大切だがおもしろい筋書きがなくてはダメだと主張します。長編小説を得意とする谷崎らしい主張です。芥川は短編小説ばかりで、なかなか長編小説が書けずに悩んでいました。この論争は、谷崎が優勢の模様。

 

 

◆ 一方、隅の方で、川端康成と三島由紀夫の師弟コンビが小声で話していました。

「今回の集いには我々の仲間が少ないな。梶井基次郎くんも入れたいところだけど彼は酒癖が悪いからなぁ~」

 川端も三島も梶井基次郎を高く評価していました。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体といわれます。代表作は『檸檬』『冬の蠅』『闇の絵巻』『kの昇天』など。梶井は結核のため31歳で亡くなります。そのため若くして死を意識していたことから彼の作品は「絶望の文学」とか「闇の文学」といわれます。ただ酒を飲むと喧嘩ぱやくなるのが欠点。以前も川端がいたところで女流作家の宇野千代さんを巡り彼女の旦那である尾崎士郎と喧嘩するという事件を起こしていました。

 

川端が「岡本かの子でも同席していたら楽しいのにな。彼女はオレの愛弟子だ。洋行経験もあるハイカラさんだから場が華やぐはず。」と呟きました。
 川端康成は岡本かの子の夫である漫画家の岡本一平(朝日新聞にコマ漫画を掲載していた)とも親しく、家族付合いしていました。この夫婦はあの「芸術は爆発だ!」で有名な芸術家岡本太郎の両親です。

かの子は豪商である大貫家に生まれました。若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られます。小説家として実質的にデビューしたのは晩年ですが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表されました。耽美妖艶の作風を特徴とします。代表作は『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』『生々流転』『鮨』など。

なお、私生活では、夫一平の公認のもと、かの子の愛人とも同居するという「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られます。当時としてはぶっ飛んだ女性ですね。

 そうした性格面からか、かの子は谷崎潤一郎からよく思われていません。実は、谷崎はかの子の実兄である大貫晶川と文学活動を通じて親交がありました。かの子は歌人を目指した十代の頃、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けます。きっと谷崎にもモーションをかけていたかもしれません。しかし谷崎は終生かの子を評価しませんでした。

 

 三島が額に皺を寄せて、「岡本かの子さんを加えるなら、他の女流作家も入れないとバランスが悪いのでは。」と言い出します。
 問題は誰を入れるか。

三島由紀夫が以下にとうとうと自説を述べました。・・・


 まあ~名作『たけくらべ』の樋口一葉さんあたりが妥当なところでしょうか。しかし、岡本かの子と樋口一葉では相性が悪そうだなぁ~。
  なにより、樋口一葉は森鷗外先生の大のお気に入り。鷗外先生が彼女を独り占めしちゃうかも。
 樋口一葉は文才があるだけでなく、若くて美人です。鷗外先生には、樋口一葉が結核のため24歳で亡くなったとき、軍装して馬に乗って葬式に駆け付けたというエピソードがあります。そのときはさすがに場違いと思い直し葬式に出ずに帰ったらしい。きっと惚れてたんだろうな。
 もうひとつ、樋口一葉だと、夏目先生との関係も心配になるなぁ~。

夏目先生は「自分は千円紙幣なのに、樋口一葉は五千円紙幣なのか。オレの方が価値が上じゃないのか。」と内心思っているはず。

他にも、夏目漱石と樋口一葉にはこんな実話エピソードがあります。夏目漱石の妻・鏡子の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が東京府官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談にしたという。

ということは、もう少し縁があれば、樋口一葉は夏目漱石の義理の姉だったのですね。姉なら五千円紙幣でもいいか(笑)。それにしても世の中は狭いものです。

 

そこで、樋口一葉の代わりに、歌集『みだれ髪』の与謝野晶子を入れたとしましょう。与謝野晶子と岡本かの子は歌人として旧知の仲。ただ懸念材料として、岡本かの子と与謝野晶子の二人が揃うと、夫の浮気癖について、さぞかし激しい愚痴合戦を始めることでしょうな。

 

先ほど岡本かの子の「奇妙な夫婦生活」の話が出ましたが、こうなった元々の原因は夫一平の方にあったわけです。かの子は21歳で岡本一平と結婚します。翌年太郎を産みます。ところが一平は家庭をかえりみず放蕩します。彼は男前で女にモテたようです。かの子は続く長女の出産に失敗したことも重なり、神経衰弱になり神経科に入院します。退院後、一平は深く反省しますが、かの子はもう一平を愛せなくなります。その結果、当時かの子の熱烈な崇拝者であった早稲田大学生と共に「奇妙な夫婦生活」を始めることになったのです。学生との間に次男が生まれますが間もなく死亡します。その後、かの子は仏に救いを求めていきます。(瀬戸内晴美『かの子繚乱』参照) まるで瀬戸内寂聴さんの生き方そのものですね。

 

与謝野鉄幹の浮気癖はもっと酷い。与謝野鉄幹と晶子は生涯12名もの子供(うち1名は生後二日で死亡)を作った仲睦まじい歌詠み夫婦と思いがちですが、とんでもない間違いです。与謝野鉄幹の女グセの悪さは半端ない。山口県徳山女学校で国語教師をしていた若き鉄幹はあたりかまわず女学生に手を出していました。最初に妊娠させた子は生後間もなく死んだが、それが原因で退職させられました。ところがそのときには既に別の女性を孕ませていました。その子は無事に生まれるが、もう徳山にいられなくなった鉄幹は妻子を連れて逃げるように上京します。その後、文芸活動しながら暮らします。晶子(22)とは大阪の歌会で出会うわけですが、そのときはもちろん不倫でした。晶子は5歳上の鉄幹に夢中になります。翌年、鉄幹と晶子は駆け落ち婚。もちろん晶子と結婚後も鉄幹の浮気癖は直りません。晶子の親友にまで手を出します。みだれていたのは髪だけじゃなかったのですね。(笑) 

与謝野鉄幹は長身で和歌を嗜み、今でいえば芸能人並みに女性に人気があったようです。

芸の肥やしに女性と関係をもつといったところでしょうか。それにしても与謝野晶子に捨てられず愛され続けた魅力は一体なんだったのだろう。晶子は結婚生活の前半はずっと妊娠していたことになります。鉄幹は浮気の代償にとせっせと子作りしていたのでしょうか。晶子は愛と性の奴隷だったのかな。「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君(みだれ髪)」

 その後、鉄幹の創作活動は極度の不振に陥ります。気分転換にと洋行する始末。逆に、晶子の創作活動は高く評価されていきます。歌人だけでなく、童話、小説、源氏物語現代語訳と幅広くなり、懸命に家族を支えていきます。また、平塚らいてう等と共に女性解放運動の先頭にも立ちます。鉄幹の最大の評価は晶子という天才女流作家を見出して、しかも彼女を妻にできたことと言い切れますな。

 鉄幹の業績には、後に慶応義塾大学文学部の教授になり、明星を創刊して、高村光太郎、石川啄木、北原白秋など優れた文学家を育て、晩年にはお茶の水駿河台に文化学院を創設したなども挙げられますが、それもこれも晶子の内助の功(いや妻の七光り?)あってのものでした。゙

(渡辺淳一『君も雛罌粟〈コクリコ〉われも雛罌粟〈コクリコ〉 /与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』参照。この題名は、夫に恋焦がれてパリまで追いかけた与謝野晶子(34)の歌「ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟 われも雛罌粟」からとられた。雛罌粟(ひなげし)は、フランス語で「コクリコ」という。このときの晶子の洋行の費用を工面してあげたのは森鷗外でした。鷗外は女性に甘いようですな。)

 

 与謝野夫婦と親交が深かった森鷗外ですから、晶子に愚痴られでもしたらたまったもんじゃないですな。尊敬する先生たちが女性問題で右往左往する姿を見たくない。梶井くんのように女性が絡むと感情的になる奴もいるし。あー考えただけでうんざりします。私はこういうのが嫌なんで男色なのですよ、実は。・・・

 

以上の三島の独白に対して、同じく男色とされる川端は苦笑い。
 やはり女性の文豪の話は止めときましょう。

 

 ということで、三島由紀夫は真面目な面持ちになり、文体としては森鷗外と谷崎潤一郎を尊敬していると芸術的なことを話し出しました。

 

 ところが、すぐに太宰治の話題になります。

太宰治は、芥川龍之介を心酔していたので、第一回芥川賞(昭和10年)を欲していました。ちょうど彼のデビュー短編集『逆行』がその候補作品にノミネートされていたのです。

当時デビュー間もない26歳の太宰は酒と女と麻薬中毒により乱れた生活を送っていました。そのため借金まみれ。だから芥川賞の賞金500円が喉から手が出るほど欲しかったのです。現在の芥川賞の賞金は百万円ですが、当時の500円はそれよりはるかに上回ります。

しかし、その選考委員をしていた川端は、太宰の私生活の乱れを知っていたので落選させました。特に太宰の女性問題、最初の心中事件は相手の女性が死んだために報道されていました。

太宰はそんな落選理由はないと川端に激しく詰め寄りました。それに対して「君には才能があるから、私生活さえ建て直したらいい作品を書けるはずだ。」と川端は太宰を諭しました。

 たまたまそれを聞きつけた芥川龍之介が近づいてきて「太宰くんに賞を取らせてあげればよかったのに。そうすれば芥川賞の権威がもっと上がったはず。」と太宰を援護しました。

 太宰は尊敬する芥川の加勢を受けて気をよくしました。

 川端の旗色が悪くなってきたので、側にいた三島由紀夫は太宰に向かって「オレはお前の作品が嫌いだ。お前の作品は女々しい。」と批判しました。それに対して、太宰は「私の作品をしっかり読んでくれているようだから、本当は私のことが好きなんじゃないの?」と切り返しました。

 険悪になりそうな雰囲気を察して、川端は三島と太宰の二人を制しました。

 

 

◆ もうひとつの隅では、いわゆる無頼派の四名が盛り上がっていました。太宰治、坂口安吾、檀一夫の三人はいつもの飲み仲間です。坂口安吾は戦争直後に書いた『堕落論』『白痴』が注目されました。檀一夫の代表作は『火宅の人』。今日は大阪から『夫婦善哉』で有名な織田作之助が特別参加しています。織田作之助は他の三人とも、東京で何度か飲んだ仲です。

  

 先ほどの太宰治と川端康成と三島由紀夫のやり取りを聞いていた檀一夫はこう言います。「おれは東大出の中では太宰治が一番の天才だと思うね。」

 そして、ひとつの思い出(エピソード)を紹介しました。

〈以前、太宰と檀が熱海で飲み明かしたが、その代金が払えない。太宰が東京に引き返してカネを借りてくるという。檀は熱海に残ることになる。事実上の人質である。ところがその太宰が戻ってこない。数日後、東京に帰った檀は恩師の井伏鱒二の家で将棋を指していた太宰を見つける。「あんまりじゃないか」。それに対して太宰は「待つ身が辛(つら)いかね、待たせる身が辛いかね」と言った。(檀の『小説太宰治』にある) その時もちろん檀は怒ったようだが、この逸話が後に太宰の名作『走れメロス』につながるという。〉

 檀はここまで話して「やはり太宰は天才だ」としみじみ言います。坂口安吾が「太宰治はフツカヨイの天才だ!」(坂口安吾著『不良少年とキリスト』『太宰治情死考』から)と付け加えます。(笑)

 太宰はしきりに頭をかきました。

 

 ときに太宰治は志賀直哉を牽制しました。あいつは重箱の隅をほじくるような指摘をする肝っ玉が小さい奴だと。(坂口安吾著『不良少年とキリスト』から)

 太宰は自作『斜陽』にケチを付けられた腹いせに、志賀直哉が戦時中「シンガポール陥落」等で戦争を讃美するような発言を残したことを、自作『如是我聞』などで攻撃しました。太宰も大人げないところがあるな。

 太宰は175㎝の長身で色白の美男子。実際に女にはモテました。彼の次に文壇で美男子と言われていたのが志賀直哉だったから気に入らなかったのかもしれないな。(笑)

 志賀直哉が美男子というのは、志賀と同じ白樺派で親友でもあった武者小路実篤の作品『友情』『愛と死』からも窺えます。

 

 また、坂口安吾は永井荷風のことを通俗作家として批判しました。「根本的な作家精神の欠如」と切り捨てます。安吾先生も厳しいなぁ~  (坂口安吾『通俗作家 荷風 ——『問はず語り』を中心として - 』より)

 

 最後には「今日は中原中也がいなくて良かったな」と皆で言い合います。太宰も中也から随分からまれて嫌な思いをしたようです。中原の親友である小林秀雄(評論家)でさえも「中原には詩人としての魅力は感ずるも、性格的な嫌悪を感ぜずにはいられなかった。」と言っています。中原の性格の難というのは、子供っぽく人懐っこいところで、相手を気に入り文学論議に熱が入ると毎日のように押しかけて長居をします。しかも酒癖が悪いのだから困りものです。

 しかしながら中原は結核のため30歳の若さで亡くなります。誰もが夭折の天才詩人を懐かしみました。彼の詩集は『山羊の歌』『在りし日の歌』の二冊のみ。
 

 

 

■ 最後に、『この中で最も偉い文豪は誰か』という全体に係わる話題になりました。

 

◆ これに対して、夏目漱石は威厳をもって発言しました。

「私は38歳で『吾輩は猫である』を執筆して遅咲きの作家デビューですが、死ぬまでの12年間に長編小説をたくさん世に送りました。しかも驚くなかれ、全作品が今でも売れ続けています。文豪の中で一番でしょう。

全ての小説にわたるテーマは〈近代日本人が抱える自我の苦悩〉という普遍的なレベル。そのため、日本文学史では、あの『源氏物語』の紫式部以来の優れた文学者であると位置付けられます。また私は漢詩の素養も高く評価されています。初期の名作といわれる『草枕』の冒頭部分〈智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。〉は特に有名です。

さらに思想的にも〈則天去私〉の悟りに達しています。思想史的には、僧侶を除くと、聖徳太子の〈和を以て貴しとなす〉以来のものとされます。

 お分かりですか。偉人としての実績は誰もかなわないでしょう。」

 

 森鷗外は夏目漱石の発言を横で聞きながら「私の良さは分かる人にしか分からないさ。」と呟くのみ。

  森鷗外を心から崇拝している永井荷風は、鷗外先生が黙して語らないのが不満でした。

 

 志賀直哉も芥川龍之介も鷗外同様に達観していました。夏目先生の発言を聴いた後ではとても自慢話なんか出来ないといったところでしょうか。

ちなみに、志賀直哉は「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評があります。無駄を省いた文章は、文体の理想のひとつと見なされ高い評価を得ています。このことから直哉の作品は文章練達のための模写の題材にされることもあります。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていました。

芥川龍之介も文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』のなかで、「通俗的興味のない」「最も詩に近い」「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉であると述べています。

夏目漱石も志賀直哉の文体を高く評価しています。志賀は30歳のころ山手線の電車に跳ねられ重傷をおいます。一命を取りとめた志賀は療養のため兵庫県の城崎温泉に行きます。そのときに書いた志賀の名文とされる短編小説『城の崎にて』を読むと、旅館の窓から見えた蜂や鼠やイモリなど小動物に自分の死の影をみています。一読しただけでは難解な文章ですが、彼の凄さはこの直感力であり、それは禅問答に通じていると思わせられます。

 

◆ 天上の神様は、漱石の雄弁さ、鷗外の無口さ、その対照的な二人の様子を眺めながらほくそ笑んでいました。天上の神様は、文豪の中でも明治の巨匠二人は別格だと認識していたのです。

 なぜなら、二人の影響は当時の若手文士、そして後の文士たちに与えたものが甚大であるからです。

 具体的には、二人とも自宅に若手文士を集めて自由闊達な議論をしています。それは堅苦しい師弟関係ではなく、ヨーロッパ留学経験のある二人らしく欧州サロン風だった点が特徴です。二人とも決して偉ぶらず、極めて面倒見がよい。その中で知り合った才能ある若手文士をどんどん文壇に紹介していきました。だからこそ、二人の人柄に惹かれ多くの若手文士たちが集まったわけです。

 

 まずは夏目漱石のケース。

 毎週木曜日の午後三時から自宅に集まります。木曜会と称しました。

小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、内田百間、野上弥生子、芥川龍之介、久米正雄らの小説家の他に、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎などの学者もいました。

なお、本童話には木曜会メンバーとして志賀直哉を入れています。白樺派の武者小路実篤や志賀直哉も事実上の漱石門下としています。彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはありませんでしたが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていました。

そうそうたる人たちが、夏目漱石の自宅・書斎に集まり様々な議論をしていました。集まった人々は、漱石に教えを乞うと言う訳ではなかった様です。芥川龍之介は、当時をこう思い返しています。「木曜会では色々な議論が出ました。小宮先生などは、先生に喰ってかかることが多く、私達若いものは、はらはらしたものです。」多分漱石自身もそう言う議論を楽しんでいたのでしょう。

漱石には気難しい、癇癪持ちのイメージがありますが、木曜会では教育者としての顔が前面に出ています。それほどに漱石は門下生に対して面倒見が良く、仕事の世話をしてやったりもしていました。芥川龍之介が東京帝大在学中に書いた『鼻』を漱石が絶賛したことで、芥川が文壇で一目置かれるようになった話は有名。また、凝りもせず生涯借金を繰り返した内田百聞をはじめ、大半の弟子たちは漱石への甘えからか迷惑ばかりかけています。漱石に一切迷惑を掛けなかったのは芥川一人だけ。(笑)

 彼らは後に‘漱石山脈’と呼ばれます。夏目漱石の元に集まった人々の人脈です。その中には、出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者である岩波茂雄もいます。

 

 次に、森鷗外のケース。

自宅の二階(当時は二階から海が見えたらしく「観潮楼」と呼んだ)で定期的に開催された歌会が有名です。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれました。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続きます。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加しました(与謝野晶子を含めて延べ22名)。

 

 改めて思うに、この明治の巨匠二人がいなかったら、その後の日本文学や文壇の発展はだいぶ変わっていたことでしょう。

 天上の神様がそんな風に考えているところに、太宰治の発言で、一転して議論は思わぬ方向に進みます。

 

◆    一方、太宰治はこう言いました。

「歴代の日本文学作品の中で売上ナンバーワンを知ってるかい? 夏目漱石先生の『こころ』と私の拙書『人間失格』が首位を争っている。ただ『こころ』の方は高校の教科書に載っているため学校側がまとめて本を購入して生徒に配布しているらしい。だから生徒が本当に読んでいるかどうかはわからない。その点、私の『人間失格』は読者が読むために購入している。だから実質の売上ナンバーワンは私の『人間失格』ということになる。」

「ある文学者が言うには、私の作品『斜陽』は貴族の没落をテーマにしていますが、万一これがフランスで出版されていたなら間違いなくノーベル文学賞だったろうと。」

 他の無頼派はみな太宰を押しました。

 

 川端康成が太宰のコメントに反応します。 

「いやいや、実際にノーベル文学賞を取った私が一番なんじゃないかな。」

「私はこれまで美しい日本を美しい日本語で表現することにひたすら精進してきました。私の代表作『雪国』を読んでいただければご理解いただけると思います。」

 

谷崎潤一郎もこれに対して発言します。

「私は何度もノーベル文学賞の候補にあがりました。もう少し長生きしていたら私が日本人初のノーベル文学賞受賞者になれたかもしれないなぁ~」

「私も日本語の表記にはかなりこだわりました。私の作品『春琴抄』を見てもらえば驚くと思いますが、句読点や改行を大胆に省略しています。このように文体や表現を作品ごとに常に見直しています。だから、私の代表作『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などは、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作として高く評価されています。」

 

 急に三島由紀夫の顔付きが変わりました。ノーベル文学賞という言葉を聞いて黙っていられなくなったようです。

「私だって美しい日本語を極めようと日本語の辞書をまるごと一冊飲み込みましたよ。(笑)だから語彙が豊富です。また比喩や装飾が多いのが私の文章の特徴です。ぜひ私の代表作『金閣寺』『仮面の告白』『豊穣の海』を読んでみてください。」

さらに感情的になり、おもわず本音を暴露し出しました。

「川端先生から直接に、君は若いので次の機会があるだろうから、今回は私に譲ってほしいと言われ、私はノーベル賞委員会に川端先生の推薦状を書かされたんだ。しかし本当は自分こそがノーベル文学賞に相応しく思えてしょうがない。正直言って私が欲しかった。」

 

◆    話が内輪揉めの事態に発展して険悪な雰囲気になってきました。ノーベル文学賞は戦後

の話なので判断の基準にはなりません。

天上の神様が慌てました。これでは慰労会の趣旨に合いませんから。

そこで天上の神様はこんな提案を行いました。それには一同啞然としました。

「この中で一番のデクノボウこそが最も偉いんじゃよ!」

ふとよく見たら、天上の神様の後ろに宮沢賢治が立ってほくそえんでいた。なるほど、そうか宮沢賢治の童話『どんぐりと山猫』に通じるか。

 天上の神様は近代日本文学史の中では宮沢賢治が一番だと思っています。彼の代表作は何と言っても『銀河鉄道の夜』。しかし、彼は岩手の孤高の作家なので、文豪の仲間がおらず淋しい思いをさせてはと、今回の集いからは外していました。

天上の神様の一言により『この中で最も偉い文豪は誰か』という議論はようやく沈静化しました。

 

 

 

第二部 文豪たちがストリップ劇場へやってくる

 

 一次会は盛り上がりました。文豪たちが酔った勢いで、次はストリップ劇場に流れました。

 ストリップ通を名乗る永井荷風が先導してきたらしい。文豪らはみな基本的に真面目なインテリです。永井荷風が小説のいいネタになりますよと彼等を誘ったようです。そうでもしないと低俗と思われているストリップなんかに文豪が来るわけがありません。

 

ここで永井荷風のことを簡単にご紹介します。どうも彼は影が薄そうなので。(笑)

永井荷風は、明治から昭和を生きた小説家で、東京市小石川区(現在の東京都文京区)に明治12年に永井久一郎の長男として生まれました。父親は海外留学の経験もある優秀な官吏。厳しい教育のもと荷風は実業家になることを期待され海外渡航の経験もします。しかし荷風は文学に傾倒し父親の期待に背きます。帰国後は31歳で慶応義塾大学文学部の教授になり三田文学を創刊します。この頃は執筆活動も順調でしたが、芸妓遊びなど放蕩癖があり私生活は安定しません。困った家族は荷風33歳にて無理やり見合い結婚させます。ところが翌年34歳で父親が亡くなるや、家督を継いで、妻とも離縁します。そして大学の職も辞し、まさしく父親の呪縛から解放されたように自由気ままな生活を送るようになります。

彼の小説ネタは庶民の風流で粋な生活で、江戸情緒や𠮷原遊郭に関心が向きました。それは森鷗外や夏目漱石など文壇からも高い評価を得ました。

ところが、この頃から永井荷風は、私娼街(いわゆる赤線)にしばしば足を運びました。そこ(玉の井)での経験をもとに書いた小説が、昭和12年、朝日新聞に連載されました。これが彼の代表作『濹東綺譚』です。

戦後になり、ストリップが風俗の代表格になってくるとストリップに興味をもち浅草通いを始めます。晩年には、1949年(70歳)から翌年にかけて、浅草ロック座などで「渡り鳥いつ帰る」「春情鳩の街」「裸体」などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ちます。踊り子の新人採用にも選考委員になります。楽屋で踊り子さんに囲まれて談笑する姿がよく報道されました。文化勲章を受けたときもたくさんの踊り子さんに囲まれて祝福されます。亡くなる直前までストリップ通いしていたらしい。

先に、永井荷風と谷崎潤一郎の長生きの秘訣の話をしたところですが、栄養摂取の他に、エロスという要因も付け加えておきたい。(笑) なお、一言でエロスといっても、谷崎潤一郎のエロスは三人の妻を始めとする身内に向けられる傾向があり、永井荷風のエロスは外へ外へと玄人筋に向けられることに特徴があるのが面白い。

 

話を戻しましょう。永井荷風は先に劇場に入るや踊り子さんに目配せ。彼は完全に常連扱いされています。「このケーキはみんなで分けてくれ」と手土産を渡します。一次会のうちにケーキを準備させていたようです。手筈は万端。

 

さっそく夏目漱石を先頭にして文豪たちは入場しました。

すると夏目漱石の顔を見た瞬間に踊り子さんが叫びます。

「キャーキャー!!!  千円札の人―☆」

踊り子さんは現ナマに弱い。

しかし、堅物の夏目漱石は踊り子にチップをあげません。

 

文豪たちがずらりとステージのかぶり席に座ります。

やはり、最初に踊り子さんの目をひいたのは太宰治でした。何と言っても美男子・・・長身、色白の整った顔、流し目、巧みな話術、、、彼は女性を酔わせる天性のダンディさをもっています。

 案の定、踊り子の中には志賀直哉に気をひかれた者もいます。太宰が不満そう。

 でも多くの踊り子は太宰に夢中になりました。

太宰が「俺に夢中になると一緒に心中しちゃうよ」と言うと、踊り子は腰砕けになりました。

 

 芥川龍之介も美男子でした。彼は、鋭い眼光で踊り子を睨んでいます。芸術至上主義を掲げる彼は、ストリップをアートと評していたのですね。

男前な芥川に踊り子たちは一瞬傾倒しかけます。しかし、彼の鋭い視線を浴びると、もしかしたら『地獄変』のように燃やされるかもしれない!と思った踊り子は逃げ出しました。

ちなみに、『地獄変』の内容はこうです。平安時代、当代随一といわれた絵仏師良秀が大殿から地獄絵図の屛風を描くよう命ぜられたものの、地獄など見たことがないため描きあぐねていた。そんな折、火に囲まれ絶体絶命な状況の愛娘を目の当たりにする。ところが、良秀は娘を助けようともせず、見殺しのまま夢中でそれをスケッチし出した。そして屛風絵は見事に完成し評判になる。良秀は完成した翌日に自殺する。というお話です。芸術のためには自分の娘すら犠牲にするという芥川の芸術至上主義を見事に表しています。芥川が最も脂がのっていた中期の最高傑作とされます。なお、三島由紀夫はこの『地獄変』を基に最初の歌舞伎戯曲を書いており、歌舞伎座などで上演されました。

 

谷崎潤一郎は、一見ジェントルマン風に、真剣な目で、ステージの上の踊り子の脚を眺めました。それは芸術家のようにも見えるが、どこか変態チックでした。

ポラタイムには、彼は踊り子の顔を写さず、ひたすら脚ばかり撮り続けました。やはり彼は完全な「脚フェチ」でした。

そういえば、谷崎潤一郎の小説のネタはフェティズム(特に脚フェチ)やサディズム・マゾヒズムを始め、同性愛(レズ)、女装マニア、自虐趣味、覗き見、はてはスカトロまで、変態のオンパレードです。あらゆる変態的な趣味趣向や風俗を取り上げているものの、ストリップを題材にしたものはありません。これは不思議。きっと恩師の永井荷風に気をつかい荷風の得意分野を遠慮したんだなと思えてなりません。まあ~二人のエロスに対する個人差といえるかな。(笑)

 

ボディビルを趣味として、ごつい身体をした三島由紀夫は、ニヒルな顔に「ふふん、俺は男色だからストリップには興味ないよ」という表情を浮かべていますが、しっかり観ています。きっと頭の中ではキラキラとした美しい文章が流れるように浮かんでいることでしょう。

 

三島の隣で、川端康成がストリップを真剣に観ていました。あのギョロっとした眼差しで見詰められた踊り子は、泣き出してしまいました。きっと踊り子の全てをしゃぶりつくすように見たからでしょう。

ちなみに、川端にはこんなエピソードがあります。小説のネタにするために、実際に芸妓数名を集めて壇上に並べて観察したようです。そのとき、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見詰める川端の眼差しがたいそう気持ち悪かった、と芸者たちは証言しています。(笑)

川端康成の鋭い眼は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれています。泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたなどという、様々なエピソードがあります。

 

文豪たちはすぐに踊り子に夢中になりました。「オレと一緒にいてくれないと自殺しちゃうぞ!」と脅すのでした。とくに三島は日本刀をもって腹を切りそうな勢い。冗談じゃない。

踊り子たちは、たしかに文章には魅了されますが、この人たちは人間としては変人だなと思うのでした。

 

  総じて、無頼派の連中が踊り子さんに人気がありました。明るく陽気に拍手をします。気前よくチップをあげます。要は粋にストリップを楽しんでいます。いつの時代もどんな人も楽しみ方の基本は同じなんですね。

 

 

 

第三部 文豪たちの墓

 

 文豪たちの魂は久しぶりの再会と遊行を楽しんだ後、自分らの眠るべき墓へと帰っていきました。

 彼らの墓について、いくつかエピソードを紹介します。                                                                                                                

 

 文豪のお墓参りには全国から多くの読者が訪れます。人気者の太宰治の桜桃忌と芥川龍之介の河童忌はとくに有名。芥川龍之介の河童忌(命日)は7月24日で彼の晩年作品『河童』により命名。太宰治の桜桃忌は6月19日であり、その日は太宰治の命日でもあり誕生日でもあります。太宰が玉川上水に入水自殺してその遺体が発見された日が奇しくも彼の誕生日にあたっていました。亡くなった同年に書かれた作品『桜桃』(さくらんぼのこと)をとって忌日名としました。

 

゛芥川龍之介の墓は巣鴨慈眼寺にあります。

 なんと隣には谷崎潤一郎の墓があります。そういえば谷崎の最晩年の作品『瘋癲老人日記』(ふうてんろうじんにっき)には、自分の墓石は息子の嫁の足型にしてもらい、死んでも踏まれ続けたい老人の性倒錯(脚フェティシズム)が描かれていましたが、残念ながら谷崎のは普通の墓です。(笑)

 

 太宰のお墓は、彼が一時住んでいた三鷹市にある禅林寺という浄土真宗本願寺派の寺院にあります。

 なんと、そのはす向かいには森鴎外(本名、森林太郎)の墓があります。

 そのへんの事情は太宰治の『花吹雪』という作品の中にあります。「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」とあります。

生前森鴎外をとても尊敬していた太宰治のその遺志を酌み、太宰の死後、美和子夫人が

森鴎外のお墓のはす向かいに太宰治のお墓を設けたというわけです。

 

 そこで、なぜ森鴎外のお墓が三鷹にあるか、しかも墓標に森鷗外ではなく本名の森林太郎とあるのかを説明します。

最初は上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬されたのですが、関東大震災で弘福寺焼失後、東京都三鷹市の禅林寺と出生地の山口県津和野町の永明寺に改葬されました。

そして、鷗外には「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻まれました。

 軍医トップの軍医総監という肩書も文豪としての鷗外というペンネームもいらない。ただ森林太郎として死んでゆきたいという潔さを感じさせます。

だてに永井荷風や太宰治や三島由紀夫をはじめとした多くの文士に尊敬されているわけではないと感じさせられます。永井荷風は鷗外が亡くなってから鷗外全集の編纂を行いましたが、自著『鷗外全集を読む』の中で、文学を志す者は大学に入るよりも辞書を片手に鷗外全集を読んだ方がいいとまで言っています。森鷗外の代表作は『舞姫』『雁』『高瀬舟』『山椒大夫(安寿と厨子王)』など数多い。私としては『妄想』『かのように』『ヰタ・セクスアリス』を気に入っています。

 

ところで、一方の明治の巨匠である夏目漱石の墓所は東京ドーム2つほどの広さを持つ雑司ヶ谷霊園にあります。森鷗外とは対照的ですね。また一般的な墓石よりもデザインも変わっていて椅子のように思えます。まるで漱石が腰かけているようにさえ感じます。

 

雑司ヶ谷霊園は広いので他にもたくさんの有名人の墓があります。

 永井荷風のお墓もあります。彼に関しては是非とも紹介したいエピソードがあります。

永井荷風は散歩と江戸を愛しました。永井荷風が訪れた寺に三ノ輪の浄閑寺があります。浄閑寺は、吉原で亡くなった遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから、投込み寺とも呼ばれています。そうした境遇で亡くなった多くの遊女たちを慰霊するため本堂裏手に「新吉原総霊塔」が建立されています。この浄閑寺を何度も訪ねていた永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていました。(永井荷風の『断腸亭日乗』昭和12年6月22日より)

 しかし、永井荷風の願いは叶うことができず、浄閑寺ではなく、雑司ヶ谷霊園の父の永井久一郎の墓の隣に埋葬されました。浄閑寺に眠りたいという荷風の願いは叶えられませんでした。

 しかし、その願いに応えようと荷風没後4周年の昭和38年、谷崎潤一郎たち永井荷風を慕う後輩たちの手によって、「新吉原総霊塔」の向かい側に、「われは明治の兒ならずや」の一句を含む詩碑と筆塚が造られました。墓はありませんが、荷風の願いは叶ったことになるでしょう。

 この人間臭いエピソードを知り、私は胸が熱くなり、私の中で谷崎潤一郎の株が急騰しました。(笑)

 

 最後に志賀直哉のお墓について述べて締めたいと思います。

彼の遺骨は青山霊園に葬られましたが、不届きものがいて1980年(昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっています。そんなことがあってか、遺族と弟子の申し合わせにより、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」のような命日に故人を偲ぶ集まりは行われていません。

死後は静かに眠りたいのか、志賀直哉は死んでからもマイペースな人です。(笑)

 

                                    おしまい

 

 

 

【備考】

 

◆川端康成のお墓は鎌倉霊園にあります。

川端康成と鎌倉との関わりは、36歳の1935年(昭和10年)鎌倉市浄明寺宅間ヶ谷に住んだことから始まります。報国寺の近く、林房雄の隣家でした。1937年(昭和12年)38歳の時に二階堂に移り、1946年(昭和21年)47歳になり終の住み家となる長谷264番地に転居します。甘縄神明神社の隣にあり、小説『山の音』の題材ともなりました。

長谷の自宅は現在も川端家が居住する個人宅です。同じ敷地には川端康成記念会があり、川端康成の養女政子さんと結婚した東京大学名誉教授の川端香男里氏が理事長を務めています。

川端は養女政子さんをたいそう可愛がります。川端の一番弟子である三島由紀夫は七つ歳下の政子さんを気に入っていたようです。1952年(昭和27年)6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子さんと結婚したいと申し出をしましたが、秀子夫人は川端に相談することなく、その場で断ったとあります。(川端秀子「続・川端康成の思い出(二)」より)  27歳の三島にしては随分タイミングの悪いことをしたものです。

 

◆三島由紀夫は府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬されています。なお三島と楯の会の森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われています。

 

◆檀一夫は1976年(昭和51年)1月2日に死去しました。享年63歳。檀の墓は故郷・柳川の福厳寺に建てられています。1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われています。

 

◆坂口安吾は1955.2.17 に死去しました。享年48歳。坂口の墓は故郷・新潟市の坂口家墓地に埋葬されています。

 

◆織田作之助は1947.1.10 に死去しました。享年33歳。織田の墓は故郷・大阪府天王寺区にある楞厳寺に埋葬されています。

 

 

 

 

 

. 青山ゆいさん(東洋) お絵描きで踊り子と関係修復できた!絵の効用は素晴らしい!

 

 令和2(2020)年9月18日、出演していた虹歩さんが大変なものを渡してくれた。

 青山ゆいさんが描いてくれた妖怪アマビエの絵である。そのとき虹歩さんが描いてくれてた絵もアマビエだった。虹歩さんが描いているのを見て、ゆいさんも描いたらしい。

「昨日、ゆいにゃんがレッスンで来てて、絵かいてもらったの。」との虹歩さんからのポラコメ。ポイントは、その絵の横に「太郎さん、元気してますか?」との青山ゆいさんの手書きのメッセージがあること。

 間違いなく私にまた応援してほしいとのメッセージだろう。虹歩さんには「今度ゆいさんに会ったらポラを買ってお礼を言っておくね!」と伝えておいた。

 

 そして、それがすぐに実現した。

 翌月10月中の晃生の香盤に青山ゆいさんの名前が出る。私はちょうどTSの南美光さんの引退に合わせスケジュールを組んでいた。そこで大阪晃生10月14日(水)と15日(木)の二日間を予定していた。ちょうどいいタイミングだった。

 私は青山ゆいさんにどういう対応をしようかと思案した。

 まず、過去を振り返る。私は青山ゆいさんが平成20(2008)年1月21日、新宿ニューアートでデビューしたとき、三日目の23日に会いに行って以来、ずっと熱烈に応援していた。AVまで買ってお世話になっていた。ところが、私の居眠りが原因で関係が切れてしまった。私が会社帰りに劇場に寄ると疲れからすぐに居眠りしてしまうからだ。何度か、ゆいさんに注意され、その度に謝り、しまいには眠らないように頑張っていたところに「寝たふりをしていた」と怒られて、ついに私も応援を止めてしまった経緯があった。つまらないことで関係が切れてしまったなとずっと後悔していた。今の私は東洋をホームにしているために、たまにゆいさんと顔を合わせると気マズイ思いをした。

 虹歩さんの気遣いから、ゆいさんとの過去を振り返った。最後のポラは平成28(2016)年1月12日のTSのときのものがあった。一緒にお世話になったAVも残っている(笑)。

 ポラを撮らなくなって4年9か月も経つのかー。しみじみ・・・

 

 10月14日(水)当日、青山ゆいさんはトップバッター。

 私は居眠りせずに(当然ですなー)ステージを観てから、のこのこ挨拶に行きポラを買う。ゆいさんが「わー百年ぶりね」と言うので「4年9か月ぶりだよ」と答える。良く来たねの語呂合わせかな(笑)。

 私は、まず東洋で虹歩さんからお絵描きを頂いたことを話し御礼を言う。私はいつものようにポラ袋に手紙を同封する。私は最近お絵描きブームなのでお絵描きして頂ければ応援させてもらいたい旨のことを書いていた。すると、驚いたことにポラを買うたびに毎回お絵描きが返ってきた。めっちゃ上手い。お絵描きするのは苦痛ではないのかなと心配したが、ゆいさん自身は「お絵描きの苦手な私がこんなに夢中になってお絵描きしているのが可笑しくて楽しい」と言っている。しかも、私が同封した童話に合わせて描いてくれることに、私は歓喜した。「やったー!また新しいお絵描きさんをGETしたー!」有頂天になった。青山ゆいさんから絵を描いてもらったことを横に座っていたスト仲間のいっきさんに自慢した。後にいっきさんもゆいさんにお絵描きをお願いしていたらしい。(笑)

 不思議にもお絵描きがゆいさんとの関係を一気に修復してくれた。もともとファンだったのだから、きっかけさえあればこうなるのだろう。それにしても、虹歩さんの気遣いとお絵描きの力はすごいなと思えた。

 

 後日10月24日、渋谷道劇に虹歩さんに会いに行く。というか、今の私は虹歩さんの追っかけなのですぐに会える。ゆいさんから頂いた全ての絵をコピーして虹歩さんに見せる。

虹歩さんは笑顔で「ゆいちゃんと仲直りできて良かったね!」と喜んでくれた。

「12月にまた会おう!」とゆいさんに伝えておいて、と虹歩さんは言っていた。

 虹歩さんは踊り子さんの間で絶対的に尊敬されているのでほんと存在が大きい。虹歩さんのお陰でTSのさくらさんとも仲良くなったな。すべてお絵描きが縁である。

 

 お絵描きはストリップにおいても不思議な力を持っている。

 これまで関係をもっていなかった人、関係が壊れてしまった人、そんな人とお絵描きを通じて関係を再構築してくれる。

 絵は人のこころを丸くしてくれる。温かく優しくしてくれる。

 女の子は小さい頃からお絵描きを通して心を培っている。男の子にはそれがほとんどない。男の子がそうした女の子の特性を理解して、お絵描きの良さを受け入れると、女の子といい関係を容易に作れる。なんで、今までそんなことに気づかなかったのかともったいなくなる。

 これまでの私はストリップを通じて、踊り子さんと自分との相性を相手の外見や性格、また私の手紙への反応などで決めていた。ところが最近、それにお絵描きが加わった。それが今までの新人好きから大きく好みを変えるきっかけとなった。

 間違いなく、絵が私の心を丸くし、温かく優しくしてくれている。お陰で新しいストリップの世界・魅力を感じることができるようになった。

 お絵描きの効用は本当に素晴らしい!

 

                

2020年10月                            晃生劇場にて

 

 

 

. 黒井ひとみさん(栗橋) 「私、絵が下手だけど無性に描きたくなったわ」

 

 黒井ひとみさんとは、平成24(2012)年11月の今はなき若松劇場デビューからの長いお付き合い。ずっと私の童話のファンになってくれている貴重な方である。

 ここ数年、私がお絵描きブームになってから、何度かお絵描きもしてくれた。しかし「私、基本的に絵が下手だから勘弁してね」と言われ、私としても無理強いはできないので、お絵描きなしで私の童話だけを読んでもらっていた。童話をしっかり読んで感想を書いてくれるのですごく励みになっている。まさしく私の童話の貴重な愛読者の一人である。

 

 この7月から私は精力的に童話『ちから姫』を書いている。

 令和2(2020)年8月13日、ライブシアター栗橋にて「いま、この童話が大ブレイクしているんだよ」と言って、第1章を渡した。すると、楽屋で大変な状況になっているのを他の踊り子さんに聞いた。一緒に乗っていたロックの安田志穂さんが「ひとみさんが太郎さんの童話に感激して、楽屋で大きな声で朗読していたのよ。すごく面白い話ね。私もそれを聞いて喜んでいた。ちょっと気になったけど、天羽夏月さんがモデルなのね。私は天羽さんのことを知らないけど、天羽さん本人は怒ってないわよね。」とポラのときに話してくれた。

 私は、ひとみさんが私の童話を喜んでいるのを知って、一編ずつ渡すのを止めて、三回目に「よかったら全9話を渡すね。読んでみて!」となった。ちから姫のファンになってくれたひとみさんに、その後も書く度に次々と続編を渡すことになる。

 その前に、こんなことがあった。あの8月結の週に一緒に出演していた同じ栗橋所属の後輩・蟹江りんさんが9月頭の渋谷道劇に出演していたときに「太郎さんから頂いた『ちから姫』の新作をすぐにひとみ姐さんにメールしたいの。お姐さん、続編をすごく楽しみにしているの。安田志穂姐さんもそう。」と話してくれた。私はこの言葉にすごく元気づけられた。私の童話をこんなに楽しみにしてくれる踊り子さんがいるー!!

私は黒井ひとみさんの出演している劇場を探して、出来上がったばかりの原稿を持参し渡した。冒険編を渡しているとき、私は「ワンピースに負けないつもりで書いているよー」と手紙に書いたら「太郎さんの『ちから姫』の方がワンピースより、私にはずっと面白いわよ!」というコメントが返ってきた。これには感激した。

 

そして、今回の10月結のライブシアター栗橋公演を迎える。実は、この週はTS所属の南美光さん(元きよ葉さん)のミカドでの引退週にあたる。ちから姫のイラストを最も多く描いてくれた人。私は引退記念にSF編を書き上げて彼女にプレゼントしたい!と考えていた。初日からの三日間10/21-23をミカドで過ごし、それまで書き上げていたところを渡した。残すはあと3話。これを書き上げて楽日までに渡したかった。ライブシアター栗橋で書き上げようと思っていた。栗橋には三日間いた。その間、SF編を毎回2話ずつ、ひとみさんに渡し続けた。ひとみさんの反応がすごく良く、私は元気をいっぱいもらった。それをエネルギーにして残りの話を近くのマンガ喫茶で書き続けた。

 

 SF編の話が最高潮に達したとき、ひとみさんにある変化が起きた。

 前からひとみさんがお絵描きしないことは分かっていた。ところが「私もお絵描きしてみようかしら。太郎さんのこの童話『ちから姫』の記念に、私、絵が下手だけど描いてみようかなと思うの。」とポラのときに話し出した。私は驚きながらも「是非お願いしたい。ひとみちゃんの絵はとても味があるよ。けっして下手なんかじゃないからね。私の童話にとって最高の記念になるよ。」と話した。すると次の回から立て続けに絵が届けられた。話はこの『ちから姫』全体の中で最も大事なキーワードである‘時間の花’の話になっていた。難しい内容だけど、ひとみさんは気に入ったようだった。「この‘時間の花’というワードは童話モモに出てくるものなんだよ」と説明したら、ひとみさんが瞳をきらりとさせて「私、それ知ってる! 浅葱アゲハ姐さんのステージに出ていたので調べたことがあるの。」と言って、時の妖精のイラストを描いてくれた。これには感激した。ふつうには‘時間の花’や‘時の妖精’の絵はなかなか描けない。「びっくりしたよ。ひとみちゃんって賢いんだね。感心したよ。」と褒めたら喜んでいた。こうして、ちから姫、花のような時の妖精、インド舞踊、ペガサスと四枚の絵が立て続けに届けられた。

 私はこれらの絵を見ていたら涙が出てきた。ひとみさんの気持ちがその絵を通してストレートに伝わってきた。絵は上手い・下手なんて関係ない。一番大切なのは気持ちなんだな。改めてそう感じた。絵の味わい方をひとみさんに教えてもらった。

 最後に、ひとみさんにSF編のラスト章を渡したら「これでSF編が終わってしまうのね、すんごく淋しい!」と言ってくれた。

 

 ひとみさんのお陰で、SF編は書き上げられた。満足できる内容に仕上げられた。

 私はその原稿コピーを持参して、楽日前日にミカドの南美光さんに届けることができた。

 光さんは連投続きで疲労困憊の状況。「疲れ過ぎて頭がボーッとする」と言っていた。とても私の原稿を読む気力はないようだ。私はそれでもかまわない。渡すことができただけで十分に満足した。

 ミカドに一緒に乗っていた六花ましろさんにもSF編の最後の話を渡す。ましろさんのポラに「光姐さんに太郎さんの熱い作家魂が届けばいいね。」とコメントしてくれた。これまで光さんが私のちから姫のために描いてくれたイラスト20枚が心から嬉しい。宝物である。たくさん励まされて、ここまで書き続けられた。特に、南美光さんや六花ましろさんなどはいつも真っ白な原稿から先頭切ってお絵描きしてくれたのだから、これだけ沢山のお絵描きが貯まったのだと感謝している。お陰で私の長編童話は絵本小説として輝いている。

こうした私の童話を応援してくれる踊り子さんたちに只々感謝感謝である。

 

                

2020年10月                       ライブシアター栗橋にて