童話『文豪たちがストリップへやって来た!!!』

 

 

第一部     文豪たちの集い

 

 天上の神様は大の読書好きなので、たまには文豪たちの慰労会でも企画しようと考えました。

 最初は近代日本の文豪を集めることにしました。

 そうそうたるメンバーが揃いました。

 まずは、明治の重鎮である夏目漱石と森鷗外の二人。そして、夏目漱石門下(木曜会メンバー)の志賀直哉と芥川龍之介。森鷗外を慕う永井荷風、荷風を師と仰ぐ谷崎潤一郎。

 昭和の代表としては、いわゆる無頼派。太宰治、坂口安吾、檀一夫、織田作之助の四人。その他、川端康成と三島由紀夫の師弟コンビ。以上12名の面々です。

 

 ある高級料亭の一室。彼らのお座敷での配置を見てみましょう。

 正面に位置する床の間の柱を挟んで、夏目漱石と森鷗外が座ります。夏目漱石の右横には志賀直哉と芥川龍之介が続きます。そこから少し間をおいて、いわゆる無頼派。太宰治、坂口安吾、檀一夫、織田作之助の順で並んでいます。

 森鷗外の左横には永井荷風、谷崎潤一郎の順で並びます。そこから少し間をおいて、川端康成と三島由紀夫がいます。

 

 日本の頭脳とも言える面子なので、ほとんどが東大卒(中退含む)で、さぞかしアカデミックな議論が展開されるかと思いきや、意外にも他人(作品)の悪口ばかり言ってます。悪口を言われた方は自己弁護に懸命です。東大出が他人の足を引っ張ったり、自分のための言い訳ばかり上手いのはいつの時代も同じですね。(笑)

 

■ さて、具体的に彼らの会話〈悪口合戦の模様〉を聞いてみましょう。

                                                                                                                                       

◆ まずは、夏目漱石と森鷗外の両巨頭、この古狸二人の腹の探り合いからスタート。

 今でこそ、夏目漱石が文豪としての筆頭株ですが、森鷗外の方が文壇デビューも早く、最終的な公的役職が軍医総監と上なので、夏目漱石が森鷗外を立てていました。でも、夏目漱石は内心は自分の方が格上と思っています。

「鷗外先生が前に住まわれていた千駄木の邸宅に、私もイギリスから帰国後三年ほど住んでいたんですよ。そこで私は『吾輩は猫である』を書いて作家デビューしたんですよ。」と夏目はそつない話題で鷗外に話しかけました。

 森鷗外はうわべは冷静でしたが、ライバル意識が強く、夏目漱石のことを「このエゴイストめ!」と内心思ってました。鷗外は漱石に向かい「夏目先生のデビュー作『吾輩は猫である』を読みましたよ。大変面白かったです。私も負けずに『吾輩も猫である』を書こうかと思ったほどです。(笑) 実際、私の長編小説『青年』は夏目先生の『三四郎』に刺激を受けて書き上げました。読んで頂けましたでしょうか。」

夏目は苦笑いした。正直に言うと鷗外の『青年』はいまひとつな作品と思っていました。だから変な言葉を返したら鷗外を怒らせるかもしれない。森鷗外は酒に酔って喧嘩に及んだ逸話を書いているくらいなので慎重に対応しました。(『文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛』谷沢 永一著)

一説によると、森鷗外は夏目漱石の私小説に刺激され、『青春』や『雁』などの私小説を書いたものの、漱石の次々と発表される私小説の名作に、とても太刀打ちできないと感じて、晩年は歴史小説の方向に進んでいったと言われています。

 

 

◆ 夏目はおもむろに隣の志賀直哉の方を向いて話し出しました。「先日話した新聞連載小説の件だがどうかね。是非とも君を新聞社に紹介したいと考えているのだが。」

志賀は困り顔で「その件ですが、考えてみたのですが、元来私は短編向きのようです。長編小説は自信がなく、この話はお断わりさせて頂きます。」と答えました。身体が緊張して震えています。小説の神様とまで称された志賀直哉ですが、生涯唯一の長編小説が『暗夜行路』のみで、これを書き上げるのになんと25年も要しています。マイペースな志賀直哉には最初から無理な依頼でした。しかし、折角の夏目先生の推薦を断ってしまったことに心底恐縮します。

それを見かねた芥川龍之介が、助け舟のごとく志賀直哉に話しかけました。「志賀先輩、相談にのってください。最近の私はスランプで書けないんですよ。どうしたらいいものでしょうか?」

志賀は即答しました。「書けないときは書かないことだよ。いずれ書きたくなるさ。」

 それを聞いた芥川はがっかりしました。答えになっていません。オレは書かないと生活ができないんだ。やっぱり志賀はマイペースな人だと思いました。

 志賀直哉は宮城県石巻市に生まれました。父親は第一銀行に勤務し明治期の財界で重きをなした人物です。だから裕福な家庭でした。志賀は学生運動にはまり、資本家寄りの父親に反抗しました。また結婚にも反対され、親子の縁を切ります。そのため全国を転々として歩くことになりますが、しっかり親の援助を受けています。だからお金には困らなかったのです。しかも後に父親とも和解します。

 今回集まった文豪の中で志賀直哉が88歳と一番長生きしました。この要因はマイペースな人生にあるのかもしれませんね。(笑)

 

 

◆ 向かい側では、永井荷風と谷崎潤一郎とが話が弾んでいました。美食家の二人は今日の料理についてウンチクを話しています。そして、話は戦争中のことに及びます。二人は戦時下でも闇物資を調達して食を楽しんでいました。永井荷風は、東京大空襲に遭い関西方面に疎開したときに、先に関西に移住していた谷崎潤一郎の好意で一緒に食べた牛鍋の味が忘れられないと話しました。戦時下では実際に谷崎潤一郎は官憲から目をつけられていたようです。

谷崎潤一郎は裕福な家庭に生まれたものの、だんだん没落して東大を中退せざるを得なくなりました。そのとき、彼の在学中に書いたデビュー作『刺青』を高く評価し文壇に導いてくれたのが永井荷風です。この作品の持つ江戸情緒とエロティシズムを理解されたのは幸運でした。この師弟愛は生涯にわたり続きます。

ちなみに、文豪の多くは短命ですが、永井荷風と谷崎潤一郎は共に79歳まで長生きしました。長寿の秘訣はやっぱり栄養ある食べ物を摂取できたからでしょうね。(笑)

 

芥川が話に割り込んできました。芥川と谷崎は仲良しです。

「松子さんは元気かな?」と芥川は聞きました。松子さんは谷崎の三番目の奥さん。谷崎は生涯に三人の妻を得ましたが、松子さんこそが理想の女性として添い遂げました。実は谷崎と松子さんとの出会いには芥川が深く関与しています。芥川が大阪出張の折り料亭で谷崎と飲みました。そこに芥川の熱烈な読者であった松子さんが訪ねてきました。松子さんは芥川目当てでしたが、谷崎の方が松子さんに一目惚れ。そのとき谷崎は48歳。しかも松子さんは既に結婚しているにもかかわらず谷崎は猛アタックし結婚してしまいました。

次第に酒がすすみだすと、芥川龍之介と谷崎潤一郎は芸術論を戦わせました。芥川は芸術至上主義を訴え、作品には美的表現こそが大切であり筋書きなど必要ないと言います。それに対して、谷崎は作品には美的表現も大切だがおもしろい筋書きがなくてはダメだと主張します。長編小説を得意とする谷崎らしい主張です。芥川は短編小説ばかりで、なかなか長編小説が書けずに悩んでいました。この論争は、谷崎が優勢の模様。

 

 

◆ 一方、隅の方で、川端康成と三島由紀夫の師弟コンビが小声で話していました。

「今回の集いには我々の仲間が少ないな。梶井基次郎くんも入れたいところだけど彼は酒癖が悪いからなぁ~」

 川端も三島も梶井基次郎を高く評価していました。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体といわれます。代表作は『檸檬』『冬の蠅』『闇の絵巻』『kの昇天』など。梶井は結核のため31歳で亡くなります。そのため若くして死を意識していたことから彼の作品は「絶望の文学」とか「闇の文学」といわれます。ただ酒を飲むと喧嘩ぱやくなるのが欠点。以前も川端がいたところで女流作家の宇野千代さんを巡り彼女の旦那である尾崎士郎と喧嘩するという事件を起こしていました。

 

川端が「岡本かの子でも同席していたら楽しいのにな。彼女はオレの愛弟子だ。洋行経験もあるハイカラさんだから場が華やぐはず。」と呟きました。
 川端康成は岡本かの子の夫である漫画家の岡本一平(朝日新聞にコマ漫画を掲載していた)とも親しく、家族付合いしていました。この夫婦はあの「芸術は爆発だ!」で有名な芸術家岡本太郎の両親です。

かの子は豪商である大貫家に生まれました。若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られます。小説家として実質的にデビューしたのは晩年ですが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表されました。耽美妖艶の作風を特徴とします。代表作は『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』『生々流転』『鮨』など。

なお、私生活では、夫一平の公認のもと、かの子の愛人とも同居するという「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られます。当時としてはぶっ飛んだ女性ですね。

 そうした性格面からか、かの子は谷崎潤一郎からよく思われていません。実は、谷崎はかの子の実兄である大貫晶川と文学活動を通じて親交がありました。かの子は歌人を目指した十代の頃、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けます。きっと谷崎にもモーションをかけていたかもしれません。しかし谷崎は終生かの子を評価しませんでした。

 

 三島が額に皺を寄せて、「岡本かの子さんを加えるなら、他の女流作家も入れないとバランスが悪いのでは。」と言い出します。
 問題は誰を入れるか。

三島由紀夫が以下にとうとうと自説を述べました。・・・


 まあ~名作『たけくらべ』の樋口一葉さんあたりが妥当なところでしょうか。しかし、岡本かの子と樋口一葉では相性が悪そうだなぁ~。
  なにより、樋口一葉は森鷗外先生の大のお気に入り。鷗外先生が彼女を独り占めしちゃうかも。
 樋口一葉は文才があるだけでなく、若くて美人です。鷗外先生には、樋口一葉が結核のため24歳で亡くなったとき、軍装して馬に乗って葬式に駆け付けたというエピソードがあります。そのときはさすがに場違いと思い直し葬式に出ずに帰ったらしい。きっと惚れてたんだろうな。
 もうひとつ、樋口一葉だと、夏目先生との関係も心配になるなぁ~。

夏目先生は「自分は千円紙幣なのに、樋口一葉は五千円紙幣なのか。オレの方が価値が上じゃないのか。」と内心思っているはず。

他にも、夏目漱石と樋口一葉にはこんな実話エピソードがあります。夏目漱石の妻・鏡子の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が東京府官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談にしたという。

ということは、もう少し縁があれば、樋口一葉は夏目漱石の義理の姉だったのですね。姉なら五千円紙幣でもいいか(笑)。それにしても世の中は狭いものです。

 

そこで、樋口一葉の代わりに、歌集『みだれ髪』の与謝野晶子を入れたとしましょう。与謝野晶子と岡本かの子は歌人として旧知の仲。ただ懸念材料として、岡本かの子と与謝野晶子の二人が揃うと、夫の浮気癖について、さぞかし激しい愚痴合戦を始めることでしょうな。

 

先ほど岡本かの子の「奇妙な夫婦生活」の話が出ましたが、こうなった元々の原因は夫一平の方にあったわけです。かの子は21歳で岡本一平と結婚します。翌年太郎を産みます。ところが一平は家庭をかえりみず放蕩します。彼は男前で女にモテたようです。かの子は続く長女の出産に失敗したことも重なり、神経衰弱になり神経科に入院します。退院後、一平は深く反省しますが、かの子はもう一平を愛せなくなります。その結果、当時かの子の熱烈な崇拝者であった早稲田大学生と共に「奇妙な夫婦生活」を始めることになったのです。学生との間に次男が生まれますが間もなく死亡します。その後、かの子は仏に救いを求めていきます。(瀬戸内晴美『かの子繚乱』参照) まるで瀬戸内寂聴さんの生き方そのものですね。

 

与謝野鉄幹の浮気癖はもっと酷い。与謝野鉄幹と晶子は生涯12名もの子供(うち1名は生後二日で死亡)を作った仲睦まじい歌詠み夫婦と思いがちですが、とんでもない間違いです。与謝野鉄幹の女グセの悪さは半端ない。山口県徳山女学校で国語教師をしていた若き鉄幹はあたりかまわず女学生に手を出していました。最初に妊娠させた子は生後間もなく死んだが、それが原因で退職させられました。ところがそのときには既に別の女性を孕ませていました。その子は無事に生まれるが、もう徳山にいられなくなった鉄幹は妻子を連れて逃げるように上京します。その後、文芸活動しながら暮らします。晶子(22)とは大阪の歌会で出会うわけですが、そのときはもちろん不倫でした。晶子は5歳上の鉄幹に夢中になります。翌年、鉄幹と晶子は駆け落ち婚。もちろん晶子と結婚後も鉄幹の浮気癖は直りません。晶子の親友にまで手を出します。みだれていたのは髪だけじゃなかったのですね。(笑) 

与謝野鉄幹は長身で和歌を嗜み、今でいえば芸能人並みに女性に人気があったようです。

芸の肥やしに女性と関係をもつといったところでしょうか。それにしても与謝野晶子に捨てられず愛され続けた魅力は一体なんだったのだろう。晶子は結婚生活の前半はずっと妊娠していたことになります。鉄幹は浮気の代償にとせっせと子作りしていたのでしょうか。晶子は愛と性の奴隷だったのかな。「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君(みだれ髪)」

 その後、鉄幹の創作活動は極度の不振に陥ります。気分転換にと洋行する始末。逆に、晶子の創作活動は高く評価されていきます。歌人だけでなく、童話、小説、源氏物語現代語訳と幅広くなり、懸命に家族を支えていきます。また、平塚らいてう等と共に女性解放運動の先頭にも立ちます。鉄幹の最大の評価は晶子という天才女流作家を見出して、しかも彼女を妻にできたことと言い切れますな。

 鉄幹の業績には、後に慶応義塾大学文学部の教授になり、明星を創刊して、高村光太郎、石川啄木、北原白秋など優れた文学家を育て、晩年にはお茶の水駿河台に文化学院を創設したなども挙げられますが、それもこれも晶子の内助の功(いや妻の七光り?)あってのものでした。゙

(渡辺淳一『君も雛罌粟〈コクリコ〉われも雛罌粟〈コクリコ〉 /与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』参照。この題名は、夫に恋焦がれてパリまで追いかけた与謝野晶子(34)の歌「ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟 われも雛罌粟」からとられた。雛罌粟(ひなげし)は、フランス語で「コクリコ」という。このときの晶子の洋行の費用を工面してあげたのは森鷗外でした。鷗外は女性に甘いようですな。)

 

 与謝野夫婦と親交が深かった森鷗外ですから、晶子に愚痴られでもしたらたまったもんじゃないですな。尊敬する先生たちが女性問題で右往左往する姿を見たくない。梶井くんのように女性が絡むと感情的になる奴もいるし。あー考えただけでうんざりします。私はこういうのが嫌なんで男色なのですよ、実は。・・・

 

以上の三島の独白に対して、同じく男色とされる川端は苦笑い。
 やはり女性の文豪の話は止めときましょう。

 

 ということで、三島由紀夫は真面目な面持ちになり、文体としては森鷗外と谷崎潤一郎を尊敬していると芸術的なことを話し出しました。

 

 ところが、すぐに太宰治の話題になります。

太宰治は、芥川龍之介を心酔していたので、第一回芥川賞(昭和10年)を欲していました。ちょうど彼のデビュー短編集『逆行』がその候補作品にノミネートされていたのです。

当時デビュー間もない26歳の太宰は酒と女と麻薬中毒により乱れた生活を送っていました。そのため借金まみれ。だから芥川賞の賞金500円が喉から手が出るほど欲しかったのです。現在の芥川賞の賞金は百万円ですが、当時の500円はそれよりはるかに上回ります。

しかし、その選考委員をしていた川端は、太宰の私生活の乱れを知っていたので落選させました。特に太宰の女性問題、最初の心中事件は相手の女性が死んだために報道されていました。

太宰はそんな落選理由はないと川端に激しく詰め寄りました。それに対して「君には才能があるから、私生活さえ建て直したらいい作品を書けるはずだ。」と川端は太宰を諭しました。

 たまたまそれを聞きつけた芥川龍之介が近づいてきて「太宰くんに賞を取らせてあげればよかったのに。そうすれば芥川賞の権威がもっと上がったはず。」と太宰を援護しました。

 太宰は尊敬する芥川の加勢を受けて気をよくしました。

 川端の旗色が悪くなってきたので、側にいた三島由紀夫は太宰に向かって「オレはお前の作品が嫌いだ。お前の作品は女々しい。」と批判しました。それに対して、太宰は「私の作品をしっかり読んでくれているようだから、本当は私のことが好きなんじゃないの?」と切り返しました。

 険悪になりそうな雰囲気を察して、川端は三島と太宰の二人を制しました。

 

 

◆ もうひとつの隅では、いわゆる無頼派の四名が盛り上がっていました。太宰治、坂口安吾、檀一夫の三人はいつもの飲み仲間です。坂口安吾は戦争直後に書いた『堕落論』『白痴』が注目されました。檀一夫の代表作は『火宅の人』。今日は大阪から『夫婦善哉』で有名な織田作之助が特別参加しています。織田作之助は他の三人とも、東京で何度か飲んだ仲です。

  

 先ほどの太宰治と川端康成と三島由紀夫のやり取りを聞いていた檀一夫はこう言います。「おれは東大出の中では太宰治が一番の天才だと思うね。」

 そして、ひとつの思い出(エピソード)を紹介しました。

〈以前、太宰と檀が熱海で飲み明かしたが、その代金が払えない。太宰が東京に引き返してカネを借りてくるという。檀は熱海に残ることになる。事実上の人質である。ところがその太宰が戻ってこない。数日後、東京に帰った檀は恩師の井伏鱒二の家で将棋を指していた太宰を見つける。「あんまりじゃないか」。それに対して太宰は「待つ身が辛(つら)いかね、待たせる身が辛いかね」と言った。(檀の『小説太宰治』にある) その時もちろん檀は怒ったようだが、この逸話が後に太宰の名作『走れメロス』につながるという。〉

 檀はここまで話して「やはり太宰は天才だ」としみじみ言います。坂口安吾が「太宰治はフツカヨイの天才だ!」(坂口安吾著『不良少年とキリスト』『太宰治情死考』から)と付け加えます。(笑)

 太宰はしきりに頭をかきました。

 

 ときに太宰治は志賀直哉を牽制しました。あいつは重箱の隅をほじくるような指摘をする肝っ玉が小さい奴だと。(坂口安吾著『不良少年とキリスト』から)

 太宰は自作『斜陽』にケチを付けられた腹いせに、志賀直哉が戦時中「シンガポール陥落」等で戦争を讃美するような発言を残したことを、自作『如是我聞』などで攻撃しました。太宰も大人げないところがあるな。

 太宰は175㎝の長身で色白の美男子。実際に女にはモテました。彼の次に文壇で美男子と言われていたのが志賀直哉だったから気に入らなかったのかもしれないな。(笑)

 志賀直哉が美男子というのは、志賀と同じ白樺派で親友でもあった武者小路実篤の作品『友情』『愛と死』からも窺えます。

 

 また、坂口安吾は永井荷風のことを通俗作家として批判しました。「根本的な作家精神の欠如」と切り捨てます。安吾先生も厳しいなぁ~  (坂口安吾『通俗作家 荷風 ——『問はず語り』を中心として - 』より)

 

 最後には「今日は中原中也がいなくて良かったな」と皆で言い合います。太宰も中也から随分からまれて嫌な思いをしたようです。中原の親友である小林秀雄(評論家)でさえも「中原には詩人としての魅力は感ずるも、性格的な嫌悪を感ぜずにはいられなかった。」と言っています。中原の性格の難というのは、子供っぽく人懐っこいところで、相手を気に入り文学論議に熱が入ると毎日のように押しかけて長居をします。しかも酒癖が悪いのだから困りものです。

 しかしながら中原は結核のため30歳の若さで亡くなります。誰もが夭折の天才詩人を懐かしみました。彼の詩集は『山羊の歌』『在りし日の歌』の二冊のみ。
 

 

 

■ 最後に、『この中で最も偉い文豪は誰か』という全体に係わる話題になりました。

 

◆ これに対して、夏目漱石は威厳をもって発言しました。

「私は38歳で『吾輩は猫である』を執筆して遅咲きの作家デビューですが、死ぬまでの12年間に長編小説をたくさん世に送りました。しかも驚くなかれ、全作品が今でも売れ続けています。文豪の中で一番でしょう。

全ての小説にわたるテーマは〈近代日本人が抱える自我の苦悩〉という普遍的なレベル。そのため、日本文学史では、あの『源氏物語』の紫式部以来の優れた文学者であると位置付けられます。また私は漢詩の素養も高く評価されています。初期の名作といわれる『草枕』の冒頭部分〈智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。〉は特に有名です。

さらに思想的にも〈則天去私〉の悟りに達しています。思想史的には、僧侶を除くと、聖徳太子の〈和を以て貴しとなす〉以来のものとされます。

 お分かりですか。偉人としての実績は誰もかなわないでしょう。」

 

 森鷗外は夏目漱石の発言を横で聞きながら「私の良さは分かる人にしか分からないさ。」と呟くのみ。

  森鷗外を心から崇拝している永井荷風は、鷗外先生が黙して語らないのが不満でした。

 

 志賀直哉も芥川龍之介も鷗外同様に達観していました。夏目先生の発言を聴いた後ではとても自慢話なんか出来ないといったところでしょうか。

ちなみに、志賀直哉は「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評があります。無駄を省いた文章は、文体の理想のひとつと見なされ高い評価を得ています。このことから直哉の作品は文章練達のための模写の題材にされることもあります。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていました。

芥川龍之介も文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』のなかで、「通俗的興味のない」「最も詩に近い」「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉であると述べています。

夏目漱石も志賀直哉の文体を高く評価しています。志賀は30歳のころ山手線の電車に跳ねられ重傷をおいます。一命を取りとめた志賀は療養のため兵庫県の城崎温泉に行きます。そのときに書いた志賀の名文とされる短編小説『城の崎にて』を読むと、旅館の窓から見えた蜂や鼠やイモリなど小動物に自分の死の影をみています。一読しただけでは難解な文章ですが、彼の凄さはこの直感力であり、それは禅問答に通じていると思わせられます。

 

◆ 天上の神様は、漱石の雄弁さ、鷗外の無口さ、その対照的な二人の様子を眺めながらほくそ笑んでいました。天上の神様は、文豪の中でも明治の巨匠二人は別格だと認識していたのです。

 なぜなら、二人の影響は当時の若手文士、そして後の文士たちに与えたものが甚大であるからです。

 具体的には、二人とも自宅に若手文士を集めて自由闊達な議論をしています。それは堅苦しい師弟関係ではなく、ヨーロッパ留学経験のある二人らしく欧州サロン風だった点が特徴です。二人とも決して偉ぶらず、極めて面倒見がよい。その中で知り合った才能ある若手文士をどんどん文壇に紹介していきました。だからこそ、二人の人柄に惹かれ多くの若手文士たちが集まったわけです。

 

 まずは夏目漱石のケース。

 毎週木曜日の午後三時から自宅に集まります。木曜会と称しました。

小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、内田百間、野上弥生子、芥川龍之介、久米正雄らの小説家の他に、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎などの学者もいました。

なお、本童話には木曜会メンバーとして志賀直哉を入れています。白樺派の武者小路実篤や志賀直哉も事実上の漱石門下としています。彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはありませんでしたが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていました。

そうそうたる人たちが、夏目漱石の自宅・書斎に集まり様々な議論をしていました。集まった人々は、漱石に教えを乞うと言う訳ではなかった様です。芥川龍之介は、当時をこう思い返しています。「木曜会では色々な議論が出ました。小宮先生などは、先生に喰ってかかることが多く、私達若いものは、はらはらしたものです。」多分漱石自身もそう言う議論を楽しんでいたのでしょう。

漱石には気難しい、癇癪持ちのイメージがありますが、木曜会では教育者としての顔が前面に出ています。それほどに漱石は門下生に対して面倒見が良く、仕事の世話をしてやったりもしていました。芥川龍之介が東京帝大在学中に書いた『鼻』を漱石が絶賛したことで、芥川が文壇で一目置かれるようになった話は有名。また、凝りもせず生涯借金を繰り返した内田百聞をはじめ、大半の弟子たちは漱石への甘えからか迷惑ばかりかけています。漱石に一切迷惑を掛けなかったのは芥川一人だけ。(笑)

 彼らは後に‘漱石山脈’と呼ばれます。夏目漱石の元に集まった人々の人脈です。その中には、出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者である岩波茂雄もいます。

 

 次に、森鷗外のケース。

自宅の二階(当時は二階から海が見えたらしく「観潮楼」と呼んだ)で定期的に開催された歌会が有名です。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれました。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続きます。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加しました(与謝野晶子を含めて延べ22名)。

 

 改めて思うに、この明治の巨匠二人がいなかったら、その後の日本文学や文壇の発展はだいぶ変わっていたことでしょう。

 天上の神様がそんな風に考えているところに、太宰治の発言で、一転して議論は思わぬ方向に進みます。

 

◆    一方、太宰治はこう言いました。

「歴代の日本文学作品の中で売上ナンバーワンを知ってるかい? 夏目漱石先生の『こころ』と私の拙書『人間失格』が首位を争っている。ただ『こころ』の方は高校の教科書に載っているため学校側がまとめて本を購入して生徒に配布しているらしい。だから生徒が本当に読んでいるかどうかはわからない。その点、私の『人間失格』は読者が読むために購入している。だから実質の売上ナンバーワンは私の『人間失格』ということになる。」

「ある文学者が言うには、私の作品『斜陽』は貴族の没落をテーマにしていますが、万一これがフランスで出版されていたなら間違いなくノーベル文学賞だったろうと。」

 他の無頼派はみな太宰を押しました。

 

 川端康成が太宰のコメントに反応します。 

「いやいや、実際にノーベル文学賞を取った私が一番なんじゃないかな。」

「私はこれまで美しい日本を美しい日本語で表現することにひたすら精進してきました。私の代表作『雪国』を読んでいただければご理解いただけると思います。」

 

谷崎潤一郎もこれに対して発言します。

「私は何度もノーベル文学賞の候補にあがりました。もう少し長生きしていたら私が日本人初のノーベル文学賞受賞者になれたかもしれないなぁ~」

「私も日本語の表記にはかなりこだわりました。私の作品『春琴抄』を見てもらえば驚くと思いますが、句読点や改行を大胆に省略しています。このように文体や表現を作品ごとに常に見直しています。だから、私の代表作『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などは、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作として高く評価されています。」

 

 急に三島由紀夫の顔付きが変わりました。ノーベル文学賞という言葉を聞いて黙っていられなくなったようです。

「私だって美しい日本語を極めようと日本語の辞書をまるごと一冊飲み込みましたよ。(笑)だから語彙が豊富です。また比喩や装飾が多いのが私の文章の特徴です。ぜひ私の代表作『金閣寺』『仮面の告白』『豊穣の海』を読んでみてください。」

さらに感情的になり、おもわず本音を暴露し出しました。

「川端先生から直接に、君は若いので次の機会があるだろうから、今回は私に譲ってほしいと言われ、私はノーベル賞委員会に川端先生の推薦状を書かされたんだ。しかし本当は自分こそがノーベル文学賞に相応しく思えてしょうがない。正直言って私が欲しかった。」

 

◆    話が内輪揉めの事態に発展して険悪な雰囲気になってきました。ノーベル文学賞は戦後

の話なので判断の基準にはなりません。

天上の神様が慌てました。これでは慰労会の趣旨に合いませんから。

そこで天上の神様はこんな提案を行いました。それには一同啞然としました。

「この中で一番のデクノボウこそが最も偉いんじゃよ!」

ふとよく見たら、天上の神様の後ろに宮沢賢治が立ってほくそえんでいた。なるほど、そうか宮沢賢治の童話『どんぐりと山猫』に通じるか。

 天上の神様は近代日本文学史の中では宮沢賢治が一番だと思っています。彼の代表作は何と言っても『銀河鉄道の夜』。しかし、彼は岩手の孤高の作家なので、文豪の仲間がおらず淋しい思いをさせてはと、今回の集いからは外していました。

天上の神様の一言により『この中で最も偉い文豪は誰か』という議論はようやく沈静化しました。

 

 

 

第二部 文豪たちがストリップ劇場へやってくる

 

 一次会は盛り上がりました。文豪たちが酔った勢いで、次はストリップ劇場に流れました。

 ストリップ通を名乗る永井荷風が先導してきたらしい。文豪らはみな基本的に真面目なインテリです。永井荷風が小説のいいネタになりますよと彼等を誘ったようです。そうでもしないと低俗と思われているストリップなんかに文豪が来るわけがありません。

 

ここで永井荷風のことを簡単にご紹介します。どうも彼は影が薄そうなので。(笑)

永井荷風は、明治から昭和を生きた小説家で、東京市小石川区(現在の東京都文京区)に明治12年に永井久一郎の長男として生まれました。父親は海外留学の経験もある優秀な官吏。厳しい教育のもと荷風は実業家になることを期待され海外渡航の経験もします。しかし荷風は文学に傾倒し父親の期待に背きます。帰国後は31歳で慶応義塾大学文学部の教授になり三田文学を創刊します。この頃は執筆活動も順調でしたが、芸妓遊びなど放蕩癖があり私生活は安定しません。困った家族は荷風33歳にて無理やり見合い結婚させます。ところが翌年34歳で父親が亡くなるや、家督を継いで、妻とも離縁します。そして大学の職も辞し、まさしく父親の呪縛から解放されたように自由気ままな生活を送るようになります。

彼の小説ネタは庶民の風流で粋な生活で、江戸情緒や𠮷原遊郭に関心が向きました。それは森鷗外や夏目漱石など文壇からも高い評価を得ました。

ところが、この頃から永井荷風は、私娼街(いわゆる赤線)にしばしば足を運びました。そこ(玉の井)での経験をもとに書いた小説が、昭和12年、朝日新聞に連載されました。これが彼の代表作『濹東綺譚』です。

戦後になり、ストリップが風俗の代表格になってくるとストリップに興味をもち浅草通いを始めます。晩年には、1949年(70歳)から翌年にかけて、浅草ロック座などで「渡り鳥いつ帰る」「春情鳩の街」「裸体」などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ちます。踊り子の新人採用にも選考委員になります。楽屋で踊り子さんに囲まれて談笑する姿がよく報道されました。文化勲章を受けたときもたくさんの踊り子さんに囲まれて祝福されます。亡くなる直前までストリップ通いしていたらしい。

先に、永井荷風と谷崎潤一郎の長生きの秘訣の話をしたところですが、栄養摂取の他に、エロスという要因も付け加えておきたい。(笑) なお、一言でエロスといっても、谷崎潤一郎のエロスは三人の妻を始めとする身内に向けられる傾向があり、永井荷風のエロスは外へ外へと玄人筋に向けられることに特徴があるのが面白い。

 

話を戻しましょう。永井荷風は先に劇場に入るや踊り子さんに目配せ。彼は完全に常連扱いされています。「このケーキはみんなで分けてくれ」と手土産を渡します。一次会のうちにケーキを準備させていたようです。手筈は万端。

 

さっそく夏目漱石を先頭にして文豪たちは入場しました。

すると夏目漱石の顔を見た瞬間に踊り子さんが叫びます。

「キャーキャー!!!  千円札の人―☆」

踊り子さんは現ナマに弱い。

しかし、堅物の夏目漱石は踊り子にチップをあげません。

 

文豪たちがずらりとステージのかぶり席に座ります。

やはり、最初に踊り子さんの目をひいたのは太宰治でした。何と言っても美男子・・・長身、色白の整った顔、流し目、巧みな話術、、、彼は女性を酔わせる天性のダンディさをもっています。

 案の定、踊り子の中には志賀直哉に気をひかれた者もいます。太宰が不満そう。

 でも多くの踊り子は太宰に夢中になりました。

太宰が「俺に夢中になると一緒に心中しちゃうよ」と言うと、踊り子は腰砕けになりました。

 

 芥川龍之介も美男子でした。彼は、鋭い眼光で踊り子を睨んでいます。芸術至上主義を掲げる彼は、ストリップをアートと評していたのですね。

男前な芥川に踊り子たちは一瞬傾倒しかけます。しかし、彼の鋭い視線を浴びると、もしかしたら『地獄変』のように燃やされるかもしれない!と思った踊り子は逃げ出しました。

ちなみに、『地獄変』の内容はこうです。平安時代、当代随一といわれた絵仏師良秀が大殿から地獄絵図の屛風を描くよう命ぜられたものの、地獄など見たことがないため描きあぐねていた。そんな折、火に囲まれ絶体絶命な状況の愛娘を目の当たりにする。ところが、良秀は娘を助けようともせず、見殺しのまま夢中でそれをスケッチし出した。そして屛風絵は見事に完成し評判になる。良秀は完成した翌日に自殺する。というお話です。芸術のためには自分の娘すら犠牲にするという芥川の芸術至上主義を見事に表しています。芥川が最も脂がのっていた中期の最高傑作とされます。なお、三島由紀夫はこの『地獄変』を基に最初の歌舞伎戯曲を書いており、歌舞伎座などで上演されました。

 

谷崎潤一郎は、一見ジェントルマン風に、真剣な目で、ステージの上の踊り子の脚を眺めました。それは芸術家のようにも見えるが、どこか変態チックでした。

ポラタイムには、彼は踊り子の顔を写さず、ひたすら脚ばかり撮り続けました。やはり彼は完全な「脚フェチ」でした。

そういえば、谷崎潤一郎の小説のネタはフェティズム(特に脚フェチ)やサディズム・マゾヒズムを始め、同性愛(レズ)、女装マニア、自虐趣味、覗き見、はてはスカトロまで、変態のオンパレードです。あらゆる変態的な趣味趣向や風俗を取り上げているものの、ストリップを題材にしたものはありません。これは不思議。きっと恩師の永井荷風に気をつかい荷風の得意分野を遠慮したんだなと思えてなりません。まあ~二人のエロスに対する個人差といえるかな。(笑)

 

ボディビルを趣味として、ごつい身体をした三島由紀夫は、ニヒルな顔に「ふふん、俺は男色だからストリップには興味ないよ」という表情を浮かべていますが、しっかり観ています。きっと頭の中ではキラキラとした美しい文章が流れるように浮かんでいることでしょう。

 

三島の隣で、川端康成がストリップを真剣に観ていました。あのギョロっとした眼差しで見詰められた踊り子は、泣き出してしまいました。きっと踊り子の全てをしゃぶりつくすように見たからでしょう。

ちなみに、川端にはこんなエピソードがあります。小説のネタにするために、実際に芸妓数名を集めて壇上に並べて観察したようです。そのとき、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見詰める川端の眼差しがたいそう気持ち悪かった、と芸者たちは証言しています。(笑)

川端康成の鋭い眼は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれています。泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたなどという、様々なエピソードがあります。

 

文豪たちはすぐに踊り子に夢中になりました。「オレと一緒にいてくれないと自殺しちゃうぞ!」と脅すのでした。とくに三島は日本刀をもって腹を切りそうな勢い。冗談じゃない。

踊り子たちは、たしかに文章には魅了されますが、この人たちは人間としては変人だなと思うのでした。

 

  総じて、無頼派の連中が踊り子さんに人気がありました。明るく陽気に拍手をします。気前よくチップをあげます。要は粋にストリップを楽しんでいます。いつの時代もどんな人も楽しみ方の基本は同じなんですね。

 

 

 

第三部 文豪たちの墓

 

 文豪たちの魂は久しぶりの再会と遊行を楽しんだ後、自分らの眠るべき墓へと帰っていきました。

 彼らの墓について、いくつかエピソードを紹介します。                                                                                                                

 

 文豪のお墓参りには全国から多くの読者が訪れます。人気者の太宰治の桜桃忌と芥川龍之介の河童忌はとくに有名。芥川龍之介の河童忌(命日)は7月24日で彼の晩年作品『河童』により命名。太宰治の桜桃忌は6月19日であり、その日は太宰治の命日でもあり誕生日でもあります。太宰が玉川上水に入水自殺してその遺体が発見された日が奇しくも彼の誕生日にあたっていました。亡くなった同年に書かれた作品『桜桃』(さくらんぼのこと)をとって忌日名としました。

 

゛芥川龍之介の墓は巣鴨慈眼寺にあります。

 なんと隣には谷崎潤一郎の墓があります。そういえば谷崎の最晩年の作品『瘋癲老人日記』(ふうてんろうじんにっき)には、自分の墓石は息子の嫁の足型にしてもらい、死んでも踏まれ続けたい老人の性倒錯(脚フェティシズム)が描かれていましたが、残念ながら谷崎のは普通の墓です。(笑)

 

 太宰のお墓は、彼が一時住んでいた三鷹市にある禅林寺という浄土真宗本願寺派の寺院にあります。

 なんと、そのはす向かいには森鴎外(本名、森林太郎)の墓があります。

 そのへんの事情は太宰治の『花吹雪』という作品の中にあります。「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」とあります。

生前森鴎外をとても尊敬していた太宰治のその遺志を酌み、太宰の死後、美和子夫人が

森鴎外のお墓のはす向かいに太宰治のお墓を設けたというわけです。

 

 そこで、なぜ森鴎外のお墓が三鷹にあるか、しかも墓標に森鷗外ではなく本名の森林太郎とあるのかを説明します。

最初は上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬されたのですが、関東大震災で弘福寺焼失後、東京都三鷹市の禅林寺と出生地の山口県津和野町の永明寺に改葬されました。

そして、鷗外には「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻まれました。

 軍医トップの軍医総監という肩書も文豪としての鷗外というペンネームもいらない。ただ森林太郎として死んでゆきたいという潔さを感じさせます。

だてに永井荷風や太宰治や三島由紀夫をはじめとした多くの文士に尊敬されているわけではないと感じさせられます。永井荷風は鷗外が亡くなってから鷗外全集の編纂を行いましたが、自著『鷗外全集を読む』の中で、文学を志す者は大学に入るよりも辞書を片手に鷗外全集を読んだ方がいいとまで言っています。森鷗外の代表作は『舞姫』『雁』『高瀬舟』『山椒大夫(安寿と厨子王)』など数多い。私としては『妄想』『かのように』『ヰタ・セクスアリス』を気に入っています。

 

ところで、一方の明治の巨匠である夏目漱石の墓所は東京ドーム2つほどの広さを持つ雑司ヶ谷霊園にあります。森鷗外とは対照的ですね。また一般的な墓石よりもデザインも変わっていて椅子のように思えます。まるで漱石が腰かけているようにさえ感じます。

 

雑司ヶ谷霊園は広いので他にもたくさんの有名人の墓があります。

 永井荷風のお墓もあります。彼に関しては是非とも紹介したいエピソードがあります。

永井荷風は散歩と江戸を愛しました。永井荷風が訪れた寺に三ノ輪の浄閑寺があります。浄閑寺は、吉原で亡くなった遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから、投込み寺とも呼ばれています。そうした境遇で亡くなった多くの遊女たちを慰霊するため本堂裏手に「新吉原総霊塔」が建立されています。この浄閑寺を何度も訪ねていた永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていました。(永井荷風の『断腸亭日乗』昭和12年6月22日より)

 しかし、永井荷風の願いは叶うことができず、浄閑寺ではなく、雑司ヶ谷霊園の父の永井久一郎の墓の隣に埋葬されました。浄閑寺に眠りたいという荷風の願いは叶えられませんでした。

 しかし、その願いに応えようと荷風没後4周年の昭和38年、谷崎潤一郎たち永井荷風を慕う後輩たちの手によって、「新吉原総霊塔」の向かい側に、「われは明治の兒ならずや」の一句を含む詩碑と筆塚が造られました。墓はありませんが、荷風の願いは叶ったことになるでしょう。

 この人間臭いエピソードを知り、私は胸が熱くなり、私の中で谷崎潤一郎の株が急騰しました。(笑)

 

 最後に志賀直哉のお墓について述べて締めたいと思います。

彼の遺骨は青山霊園に葬られましたが、不届きものがいて1980年(昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっています。そんなことがあってか、遺族と弟子の申し合わせにより、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」のような命日に故人を偲ぶ集まりは行われていません。

死後は静かに眠りたいのか、志賀直哉は死んでからもマイペースな人です。(笑)

 

                                    おしまい

 

 

 

【備考】

 

◆川端康成のお墓は鎌倉霊園にあります。

川端康成と鎌倉との関わりは、36歳の1935年(昭和10年)鎌倉市浄明寺宅間ヶ谷に住んだことから始まります。報国寺の近く、林房雄の隣家でした。1937年(昭和12年)38歳の時に二階堂に移り、1946年(昭和21年)47歳になり終の住み家となる長谷264番地に転居します。甘縄神明神社の隣にあり、小説『山の音』の題材ともなりました。

長谷の自宅は現在も川端家が居住する個人宅です。同じ敷地には川端康成記念会があり、川端康成の養女政子さんと結婚した東京大学名誉教授の川端香男里氏が理事長を務めています。

川端は養女政子さんをたいそう可愛がります。川端の一番弟子である三島由紀夫は七つ歳下の政子さんを気に入っていたようです。1952年(昭和27年)6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子さんと結婚したいと申し出をしましたが、秀子夫人は川端に相談することなく、その場で断ったとあります。(川端秀子「続・川端康成の思い出(二)」より)  27歳の三島にしては随分タイミングの悪いことをしたものです。

 

◆三島由紀夫は府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬されています。なお三島と楯の会の森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われています。

 

◆檀一夫は1976年(昭和51年)1月2日に死去しました。享年63歳。檀の墓は故郷・柳川の福厳寺に建てられています。1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われています。

 

◆坂口安吾は1955.2.17 に死去しました。享年48歳。坂口の墓は故郷・新潟市の坂口家墓地に埋葬されています。

 

◆織田作之助は1947.1.10 に死去しました。享年33歳。織田の墓は故郷・大阪府天王寺区にある楞厳寺に埋葬されています。