ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第81章 ストリップという愛のカタチ ~谷崎潤一郎の世界に絡めて~ の巻

 

 

 谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』を読むと、男女関係、脚フェチをはじめとしたフェティシズム、サディズム・マゾヒズム、美意識、等々、さまざまなテーマが盛り込まれている。読者はそのいずれに、どういう興味、関心をどの程度持っているかで作品へののめり込み度が違ってくる。そのため読者自身の趣向を否応なく露呈させてしまう作品ともいえる。

 

谷崎潤一郎は、全作品を通して、女性を崇拝の対象として描く傾向にある。これは彼が、幼い頃に母親を亡くしているということもあって、女性に対して一種の幻影のようなものを抱いているからです。幼い自分を抱きしめてくれたぬくもりや、優しく接してくれた「母親」という存在は、彼の中で女神のような位置付けです。このことは彼の小説『母を恋ふる記』を読むとよく伝わる。この作品は他と比べると特別に詩情豊かな文章になっている。

 

 谷崎の女性崇拝の姿勢は、我々ストリップファンが踊り子にもつ感情に極めて近いものを感じます。だから主人公に共感できるのだ。

 主人公は相手の女性に触れようとしない。つねに距離を保って眺め崇拝するカタチをとる。

 私は常々「ストリップは触れられない愛であり、ストリップ独特の愛のカタチである」さらに「ストリップでは踊り子と客との間に適度な距離感が必要だ」という自論を話す。

ストリップの常識として、客はステージの上に上がったり腰掛けたりしてはいけない。それは、我々客が地上人であるのに対して、踊り子というのは女神か天女かという天上人であり、ステージの上は穢れなき天空の世界であることを物語っている。女性にもてない男性にとって、踊り子は神聖化されるのである。

 

谷崎が描く女性崇拝はそれに非常に近い。『痴人の愛』などにもみられるように、谷崎文学の女性には、多くの場合、獲得のしにくさがかえって女そのものを聖化していくという、不思議な性質が具わっている。あえていうならば、女は獲得されないことによってのみ聖なるものである、とまで言えそうだ。

谷崎が長編『細雪』で、理想の美しさをもつ雪子がなかなか縁談がまとまらず、読者をいらいらさせる。これはエロチシズムの天才・谷崎潤一郎が、雪子を描くにあたってこの法則を巧みに使っていることは、ほとんど疑う余地がないと思われる。 

 

 ストリップを観ながら、ステキな女性のヌードを前にして、「触りたい」とか「彼女を自分のものにしたい」という感情がないわけではない。しかし、そういうことを言動に出した瞬間に、踊り子と客という関係は成立しなくなる。

 ステージの踊り子には触れられず、ただ黙ってステージを眺める中に、女性崇拝の気持ちを昇華させていく。そのことに満足を得るのがストリップ愛なのである。

 ある意味、「触れられない」「自分のものにならない」というジレンマこそが踊り子への情熱を高ぶらせるのだ。

 

古今東西の文学世界では、そういうカタチでの、女性崇拝がたくさん描かれている。

 文学者の中には、離れているがために交信した手紙の中に真の愛があったと言う人はたくさんいる。

西洋のトリスタン伝説にもみられるように、トリスタンとイズーとが共寝をしながらも、お互いの間に剣を置いて肉体に触れることを故意に避ける。これは、距離感というものが人間の情熱をかえって燃え立たせるものであること。そして距離を埋めて結びついてしまえば、情熱はたちまち俗化されてしまうことを暗示している。元来、女性崇拝の感情には、人間の情念に根差した不思議なジレンマが秘められているのは確かであろう。

 

 谷崎潤一郎を始め、多くの文豪たちが、さまざまなカタチで、女性崇拝を描いている。へたすると、それは変態と呼ばれる領域になるかもしれない。しかし彼らは天才的な文学的表現でもって、それを煌びやかな美の世界に昇華させている。

 以下には、私が文豪たちの作品に触れ、興味をそそられた領域(もしかしたら変態の領域)について述べたいと思う。

 

 私は、ストリップを変態の領域だなんて微塵も思わない。ただ世間一般には汚らわしい風俗世界とみられてしまう。悲しいことである。文豪作品と絡めることで、ストリップのもつエロチシズムを見直してみたいと思う。

 

                                    つづく