ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第82章 ストリップと変態論 ~谷崎潤一郎の世界に絡めて~ の巻

 

 

 谷崎潤一郎の小説は実に面白い。読んでいると彼は絶対に変態だと思えてくる。最初に読んだ彼の小説『痴人の愛』に脚フェチやサディズム・マゾヒズムを感じさらせれ、引き続き読んだ『刺青』『春琴抄』『少年』でも妖しいサディズム・マゾヒズム、『卍』では同性愛(レズ)、『悪魔』ではフェティズム、『秘密』では女装マニア、『少将滋幹の母』ではスカトロと、なんとなんと変態のオンパレードである。他にも、『鍵』では夫婦間の日記盗み見、『幇間』ではいじられ役の太鼓持ち、『白昼鬼語』では自殺願望、『私』では盗人、等と特殊趣味的な人間の深層心理を抉ってくる作品が多い。

 彼はなんでも作品化しようと、自身の性癖までを包み隠さず、むしろ積極的に作品の中に落とし込みます。しかも、文豪と呼ばれるほどの天才的な文学表現で作品を彩ります。彼の生きた時代は今よりも性に対してずっと抑圧された時代だと思われますが、世の人は彼の性癖に興味を持ち共感をもって受け入れたわけです。当時は自然主義・耽美主義ということで赤裸々に内面を露呈し、読者を刺激することが求められていたのかもしれませんが。やはり文豪だから受け入れられたのでしょうね。ひとつ間違えたら、単なる変態として扱われちゃいかねません。

 

こんな内容を書ける谷崎潤一郎という人は一体どんな人物だったのでしょう。彼に興味をもって調べると、彼は80年の生涯で40回も引っ越しをしたり、奥さんを友達に譲ったり、度が過ぎる美食家だったりと、やることが規格外の人物です。たしかに一般人とはちょっと違う。

 

しかし、彼の小説に興味や関心を抱いて夢中になる読者は、ふつうの人でしょう。でも、やっぱ突き詰めれば変態に興味を持つ変態なんでしょうか。(笑)

もちろん、私もストリップ通いを趣味にする変態です。変態は否定しません。いつも物語を書きたくて妄想をしています。でも、小心者ですから、せいぜいストリップ通いをするか、こうして小説の中で堪能するくらいが関の山です。

 

ちょっと待て!

ストリップ通いということで変態扱いされるのは心外だな。ストリップの名誉として、ストリップは変態でないということを説明しなければいけない!!!!

ということで、以下の文を書かせてもらいました。(以下では、‘変態’と言い切ると表現がキツイので、できるだけ‘変態さん’とユルく書かせてもらう)

 

たしかに、ストリップ通いする者には「変わり者」が多い気がする。

客層を眺めるに、八割方、スケベな気分にかられてやってくる、いわゆる一見客(いちげん客)である。彼らは一過性のスケベになり、そのストレス解消のひとつとしてストリップ劇場にやってくる。大勢で飲んだ勢いで入場する者も多い。彼らはあまりリピートしない。一方、残りの二割方が、いわゆるストリップ常連と言われる客である。彼らは病気のごとく毎日のように劇場通いする人もいれば、土日のみ劇場に行くというレベルの人もいる。いずれにせよ、生活のリズムの中にストリップが組み込まれている。彼らは遠征も厭わない。たくさんのお金を落とすことから、生活費の中でストリップに費やす比率(私の造語であるが‘ストリップ係数’)が高い人たちである。独身が多いので独身貴族ともいえる、いわば「ストリップ貴族」である。そして後者の彼等こそが、間違いなく今のストリップ業界を支えている。

こうした後者の人たちの中に、ごく少ないが「変わり者」がいる。しかし、少ないなが

らも目立つ。あえて目立ちたい「女装マニア」も含まれる。男なのに女装しているのだから当然に目立つわけだ。彼らは目立ちたがり屋なのである。

他のお客さんたちは女装マニアを「キモイ」と思う。しかし、踊り子さんは面白がるので、彼らはますます図に乗って劇場を徘徊する。決して女性料金で入場しているわけではないので、劇場スタッフは大目にみている。まあ「キモイ」とは思えても、他のお客に迷惑をかけなければいい。

 女装マニアまでいかないが、「コスプレマニア」というのもいる。ぬいぐるみをいつも携えている「ぬいぐるみマニア」もいる。こんなふうにして、好きな踊り子さんの気をひこうと画策しているのだ。これらは踊り子の気をひく手段であるが、彼らが女装・コスプレ・ぬいぐるみそのものにも強く固執していることは間違いない。マニアなのである。

そうそう、「マニア」に近い用語で「おたく」という言葉があり、こちらはもっと格下げされる。これは「マザコン」に近いニュアンスがあって、こうなると女性からは嫌われる対象となる。

いずれにせよ、「マニア」「おたく」という認識を「ユニークな人間」「変わり者」と考えるうちはいいが、そのうち「社会不適格者」とか「変態」と認識されちゃうと困ったことになる。

 

変わり者の中には、性的な変質者もいるだろう。エロポラ好きは偏狭的なコレクターかもしれないし、パンプレ好きは下着愛好者と考えれば変態になっちゃうかもしれない。そういう意味では、ストリップ劇場には変態がいっぱいいるかもしれないが、まあここでは、人に迷惑をかけなければいいとしよう。過激でなければ変態でなしとして、除外して考えよう。

そういう熱心なストリップファンを「ストリップマニア」と呼ぼう。

 

マニアをあえて定義づければ、「なんらかの分野に熱中、没頭している人物」ということだ。熱中、没頭! いまどきあまり聞きなれない言葉だが、本来「美徳」といって差し支えない性向だと私には思える。

ストリップマニアは、ストリップという分野に熱中、没頭しているわけだが、物事に没頭できる人というのは賢い人が多い。たまたまストリップ好きで劇場に来ているわけだが、他の分野にも詳しい人がいる。実は、医者や学者や企業経営者だったり、一流会社勤務だったり、こういう高学歴者なインテリがけっこういる。ストリップは時間のかかる遊びなので現役だと仕事が忙しくてなかなか劇場に来れないものの、既に退職した人がホント多い。彼らは「マニア」「おたく」タイプなんだな。たまたま女性に縁がなく独身を通しストリップに流れている客も多いのである。

 

世にマニアという人種はたくさんいる。特に日本人には多い気がする。何度も言うが、こうしたマニアは、本来「美徳」なのだ。

ところがにもかかわらず、マニアに対する世間の評価は芳しいものではない。「ユニークな人間」「変わり者」というのはまだ愛情のあるほうで、「社会不適格者」「変態」と烙印を押されてはたまったものではない。

 

思うに、世の中はマニアがいるから進歩する。科学者、研究者、職人、芸術家、すべてマニアである。彼らを「社会不適格者」「変態」と言うのはとんでもない失礼なことだ。マニアこそ素晴らしいのだ。人に迷惑をかけない限り、彼等こそ「理性」「美徳」なのである。

日本には世界に誇るべき漫画やアニメの文化がある。まさにこれらは「マニア」「おたく」から生まれた。もしかしたら女に縁のない人(中には童貞も)がたくさんいたかもしれない。ついつい、そんなイメージを抱いてしまう。

 

女装マニアにしろ、ストリップマニアにしろ、非道徳だと思うからいけない。それは道徳が間違っている。

芥川龍之介のエッセイ集『侏儒の言葉』には警句や高度な皮肉が満載である。最初のページに次の文章がある。

<道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。>

人々は道徳といわれているものにさへ従っていれば、個々の事例について自分で判断しなくてすむので、便利である。それは交通ルールのようなものだ、と言っている。それは、単なる時間と労力の節約に過ぎず、「完全なる良心」を麻痺させていると付け加える。「道徳は常に古着である」とも言う。

女装マニア、ストリップのどこが悪いのか。何をか言わんである。

芥川は更に<良心とは厳粛なる趣味である>とする。そして、病的な愛好者を持っている。そういう愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪である。つまり、私のいうストリップ貴族のことである。

そして、芥川は「我々の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我々の好悪である。或いは我々の快不快である。」と別のところで言っている。女装趣味であり、ストリップが好きということが「完全なる良心」に通じていると私には思えてくる。

 少し脱線してしてしまったが、私は「マニア」こそが素晴らしいと主張したい。

 そうであるなら、ストリップには「マニア」に集まってもらいたいものだ。

 そういえば、だいぶ前だが、この童話の中で「変態さん、いらっしゃい!」(第27章)という話があったっけな。いま思い出したよ。

 

 いろいろ話が飛んでしまったが、最後に結論を云おう。

私は「ストリップマニア」になりたい。

文豪たちに負けずに、文章でストリップを表現して、この素晴らしさを伝えたい。自分が趣味として楽しんでいるストリップを誇りにしたい。

そして、一刻も早くストリップに市民権を与え、いつの日か、漫画やアニメのように世界に誇る文化にしたいと願ってやまない。

 

                                   つづく