ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第86章 ストリップと匂い ~田山花袋『蒲団』を読んで~ の巻

                          

                                    

 ストリップと匂いの関係を考えてみる。

 すぐに浮かぶのは、踊り子さんが放つ香水である。みなさん、好みの香りがあり、好きな香水を持っている。一人一人違う、まさしく千差万別の香りである。だから、ステージからその香りを嗅いだ瞬間に、その踊り子さんの世界に入っていける。香りとは、すごい効果だと思う。

 ところで、ニオイには「匂い」「臭い」という漢字がある。違いが分かりますか?

 臭いは「くさい」とも読めます。だから、「匂い」はいいニオイであり、「臭い」は不快なニオイということになります。「果物の匂い」、「ゴミの臭い」などと使い分けます。

 しかし、快・不快というのは人により個人差があります。だから、はっきりしないときは「におい」とか「ニオイ」と表記するようです。

 私なんかは「好きor嫌い」で使い分けます。例えば、犬の汗や糞尿なら「犬の臭い」となり、愛犬なら「匂い」となる。好きな女性の汗や糞尿なら「匂い」より「香り」かもね。(笑)

 

 人間の五感の中でも、臭覚は最も基幹となるものと言われます。生まれたばかりの赤ちゃんは臭覚でもって母乳を求めます。まず生きるためには臭覚なんです。視覚なんてずっと後ですよね。

 いまや40カ国で刊行の世界的ベストセラーになっている、ユヴァル・ノア・ハラリの文明論『サピエンス全史』によると、これまで人類は猿から別れ、原人→ネアンデルタール人→ホモサピエンスに進化してきたとされていましたが、その進化系は間違いで、たくさんのサピエンスの種類が同時にいて、そのひとつがネアンデルタールでありホモサピエンスであったとします。彼らは争いながら最終的にホモサピエンスだけが生き残ってきた、と説明している。ところが、ネアンデルタール人の方が我々の祖先であるホモサピエンスより身体が大きく体力的に勝っていたという。脳の大きさも同じなので知力の差もない。それなのに、なぜホモサピエンスが勝ち残ってこれたのかがこの本のテーマになっている。

 なぜ、同じ人間であるところのネアンデルタールとホモサピエンスが共存できなかったのかと我々は思っちゃう。それに対して、この本の中で、「ニオイ」がそれを許さなかったのだと説明している。嫌なニオイだと一緒にもいれないし、ましてやSEXなんてできないんだな。

 

 もう少し詳しく話しましょう。

人類に限らず生き物というのは子孫を残さなければなりません。恋愛し(相手を気に入り)、生殖行為をします。

人間が恋愛をする場合、そこにはプロセス(過程)というものがあります。顔を見ていきなり性行為をするわけではありません。5つのハードルがあって、ひとつクリアするとまた次のステップという段階が存在するのです。

それが「五感」というハードルです。五感とは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の5つを指し、この五感によって異性をふるいにかけるというのが恋愛のプロセスになります。

まず異性に出会うと、目で相手の見かけを判断します。これが視覚ですね。視覚的に合格すると、次は耳で相手から情報を引き出します(聴覚)。お互い話がはずむと距離が縮まってお互いの体臭を嗅ぎ合うようになってゆきます(嗅覚)。その後、デートして手をつなぎ(触覚)、合格するとキスをする(味覚)というのが五感的な手順です。

重要なのは、遺伝子レベルの欲求です。相手との相性は「ニオイ」がキーになります。だから無意識のうちに相手のニオイを嗅ごうとします。50センチ以内はいわゆる「親密ゾーン」というのですが、そのゾーンに入ると、お互いの体臭を嗅ぎあうことが可能となります。

 次は、身体に触れ、キスという段階になりますが、ここで「バクテリアの交換」という作業に入ります。身体に触れるだけでかなりのバクテリア交換となり、キスという粘膜感染では接触と比較にならないほど多くのバクテリアが交換されます。バクテリアには「ニオイ」があります。口臭ですね。なにより悪いバクテリアだと病気になってしまいます。これにより相手が遺伝子レベルで相性が合うかどうかを判断するわけです。

 我々人類は「ニオイ」でもって、好きな異性を嗅ぎ分け、最終的なる伴侶を求めていることが分かります。

 

 ストリップにおける「ニオイ」ですぐに思い浮かぶのはパンプレ(パンティ・プレゼント)である。

 客が踊り子のパンティをGETすると、すぐにニオイを嗅ぐ。情けない姿と思うかもしれないが、これは本能である。少しでも彼女のニオイを感ずると、男はめちゃくちゃ狂喜する。ニオイにより本能的に興奮し生殖行為に駆り立てるのである。

 ところが、踊り子さんの大半は、恥ずかしさもあり、臭いと思われ嫌われるのを恐れてか、ニオイは付けない。さっとはいてパッと投げる。あるいは一度はいたものの香水をふりかけて自分のニオイを消してしまう。だから、パンプレに彼女のニオイを求めるのはほぼ不可能である。

 ところが、可能性は低くても、万に一つ、ニオイを付けてくれる踊り子さんがいる。パンプレに夢中になる男性たちが健気に思ったのか。それは、一時の偶然なのか、はっきり意識しているのかは分からないが、とにかくGETできる。これを一度でも経験すると、その成功体験が忘れられない。ものすごく貴重なお宝になる。大事な夜のおかずになる。それはエロポラの比にならない。だから、男たちはパンプレに熱狂するのである。

 実は私も成功体験はある。しかし、苦労して運よくGETしても殆どニオイはない。何度もそれを味わううちに段々と虚しくなって、もうパンプレなんかは欲しない。

 客によっては、パンプレに命をかけるほどの人もいて、事前に弁当やチップを差し入れている。まぁ、こういう戦略もありか。でも、それで必ずしもニオイがついているかどうかは疑わしい。ともあれ、パンツをGETしないことにはニオイは始まらないかね。

 

 

 さて、私のような小心者は、文学の中に、このフェティシズムを求める。そうしたら、あった! あった!

 フェティシズムを描いた大変な名著があります。香山花袋の『蒲団』である。

 超簡単にあらすじを述べます。

 小説家である主人公(竹中時雄)の家に、小説家志望の女学生(芳子)が押し掛け、そして住み込みます。主人公は33歳前後で、妻と子供三人がいます。女学生は19歳で田舎から出てきました。ちょうど主人公は夫婦の倦怠期を迎えていましたので、若くて可愛い女学生に内心ドキドキします。しかし、師匠なので、また家族の手前、内心をひた隠します。

 そんな女学生に恋人ができます。内心、主人公は怒ります。もう小説修行に専念できなくなったとして、主人公は彼女を家から追い出し田舎に帰すことになりました。

 そして、有名なラストシーンになります。

数日後、ずっとそのままにしていた芳子の部屋に行きます。「懐かしさ、恋しさのあまり、かすかに残ったその人の面影を偲ぼう」と思い、机の引き出しにしまってあった芳子のリボンを見つけて、においを嗅ぎます。次に押入れにしまってあった芳子の蒲団と夜着を取り出して、においを嗅ぎます。「性慾と悲哀と絶望」が時雄を支配し、時雄はその蒲団を敷き、夜着に顔を埋めて泣いたところで小説は終わります。

 

不倫したくてもできなかった悲しい中年男の恋の話です。人によっては、最後の場面から「キモい中年男」小説と思われがちでもあります。

でも私には、繊細な恋愛描写が胸を打つ傑作であると思えました。触れられない愛であるストリップに慣れた私には、主人公の気持ちが痛いほどわかります。

 

ネットを見たら、森川友義さんの記事に出会いました。そこに、『蒲団』の恋愛学的意義がよく表現されています。以下、転機させて頂きます。・・・

 

『蒲団』は「新小説」という文芸雑誌の1907年(明治40年)9月号に掲載され、翌年『花袋集』(1908年)という本の中に収録されました。

花袋は「自然主義」に属する作家です。日本文学における自然主義は、この『蒲団』の大ヒット(花袋は回想録に『蒲団』は当時4~5万部売れたと記している )によって、欧州の自然主義とは一線を画すようになり、次第に「赤裸々に人生をありのままに描写する」作風となっていきます。島村抱月がこの本について「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録である」と評したのは有名な話です。

 

『蒲団』は恋愛小説として、2つの点で画期的です。

1つめは、明治・大正時代の作品の中で、唯一恋愛を「嗅覚」で表現した点です。(先に見てきたように)恋愛において「嗅覚」は非常に重要な要素なのですが、『蒲団』はこれを見事に描写しています。主人公の竹中時雄はリボンや夜着や蒲団に残る芳子のにおいを嗅ぎますが、それは私たちの遺伝子の欲求からすると自然な行為です。小説で描くと「キモい」と感じられることもあるかもしれませんが、私たちが無意識のうちに、好きな人のにおいを嗅ごうとしていることは否定できないことなのです。

 

もうひとつは、不倫の心理描写を克明に作品化した点です。『蒲団』が日本初の「私小説」で、この作品は田山花袋本人の経験が書かれており、芳子のモデルは岡田美知代、恋人の秀夫は永代静雄という実在した人物で、実際の出来事に基づいています。不倫願望をいだき妄想したのは、他でもない田山花袋その人なのです。ですから、花袋は不倫をしようとする人が必ずたどる心理状態を詳細に描くことができました。ただし、不倫願望はあっても、時雄は寸でのところで思いとどまっていますので、実際に「不倫した後」の心理描写までには至っていません。性描写を含めた不倫後の細部の心理については、平成の渡辺淳一『失楽園』まで待たなくてはなりません。・・・

 

会社勤務時代、満員電車の中で日経新聞に載った連載小説『失楽園』を興奮しながら読んでいたのが鮮明に思い出されました。(笑)

小心者の私は、不倫なんかできないし、せいぜいストリップ通いするしかできません。だからこそ、田山花袋の『蒲団』にこれだけ感情移入できたんだなと改めて感じました。

 

 

 ちんぽ三兄弟は、ストリップ太郎の長い話をしみじみ聞いていました。

「田山花袋の『蒲団』が発表された当時、私小説としてセンセーショナルだったことは分かるけど、今の感覚ではそんなに驚くような話じゃないね。異性の汚れた下着にむしゃぶりつくならいざしらず、異性の夜具のほのかなニオイに感ずるのはかわいい話だと思える。やはり文学レベルの高尚な話だと思えるよね。」

「むしろ、オレは別の問題を心配になる。これが私小説ということで事実だとすれば、書いた主人公の田山花袋は文豪だからいいにせよ、書かれたモデルの方がどうなのかなと思った。芳子のモデルである岡田美知代、そして恋人の秀夫である永代静雄。今だったら暴露本として作家を訴えるんじゃないかな。いったい二人はその後どうなったのかな?」

 これに対して、ストリップ太郎は補足した。

「特に、岡田美知代は、小説のモデルになったことで、重荷を背負わされ、その後は苦難の人生をたどったんだ。私小説の形を取るこの作品が話題になると、世間は小説を事実と思い込み、美知代は結婚などの私生活や作家としての仕事の上で「堕落女学生」のイメージをもたれ長く苦しむことになる。当時は直接、文豪である田山花袋に苦情なんて言えなかったんだ。美知代は後年「恩は恩、怨みは怨み」という謎の言葉を残していることからも、彼女の気持ちは窺われるね。

 岡田美知代のその後の人生を紹介するね。その後、永代静雄と結婚したものの離婚。もうけた2児には先立たれた。米国へ渡り、再婚もしている。

 しかし、美知代は、単なる『蒲団』のモデルではなかった。封建的な男女観が残る時代に文章で自分を表現し、自立を目指して積極的に行動をした。戦争の時代をまたぎ、82年の生涯を堂々と生ききった女性だった。

 美知代が、米国のストウ夫人の小説『アンクル・トムの小屋』を『奴隷トム』の題で翻訳し、明治末から大正にかけて少女小説などを手掛けたことは知られている。また、夫であった永代静雄は、明治41(1908)年から翌年、『少女の友』誌に、『不思議の国のアリス』をはじめて和訳し、『アリス物語』として発表しました。この二人の功績はもっと知られていいと思うね。」

「なるほど、事後談を含めて、やはり名著『蒲団』のニオイは、文学的なカオリに昇華しているね。」と、ちんぽ三兄弟は頷き合った。

 

                                     つづく