【「千と千尋の神隠し」のストリップ的な考察】
1. 「千と千尋の神隠し」の舞台である湯屋 (油屋)はストリップ劇場だ!
初めて、映画「千と千尋の神隠し」を観たときに、湯屋 (油屋)という銭湯の舞台はソープランドをイメージさせるなぁと直感的に感じた。なぜなら、銭湯なのに大きな浴場ではなく、一人一人のお客(しかも男性を対象と思わせる)を個室のように仕切ったお風呂で接待しているような、いかがわしい雰囲気を漂わせている。それに、この建物内には「回春」という文字もはっきりあったしね。
主人公の千尋が湯屋で働く際に名前を「千」としたのは源氏名を表している。千尋は「湯女(ゆな)」として働くことになるが、「湯女」とは江戸時代に実際に存在した、今でいうソープ嬢のこと。
宮崎駿監督は、この映画のインタビューの際に、「今の世界として描くには何が1番ふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか。」と答えている。
また、宮崎駿は、鈴木敏夫プロデューサーのキャバクラ好きの知人による話を元にして、『千と千尋の神隠し』の湯屋を“キャバクラに見立てた”物語を作ったと明言している。
その知人の話というのが「キャバクラに働きに来る女の子たちは、もともと引っ込み思案で、人とのコミュニケーションが上手くできない子が多い。ところが、必要に迫られて、一生懸命いろんなお客さんと会話をするうちにだんだん元気になっていく」というものだったとか。
キャバクラやソープランドが出てくれば、日本の風俗産業の代表格であるストリップだって同じように語れそうだ。
さっそく湯屋をストリップ劇場に見立ててみよう。
本映画では湯屋の経営者として湯婆婆、そして姉の銭婆が登場するが、彼女たちはストリップ劇場のママさんを彷彿させられる。未だに踊り子たちの扱いを女の子の人身売買みたいに考えて、お金や権力に異常に執着するママさんもいるよねぇ~。
湯屋の従業員がカエルというのも笑わせるね。ストリップとカエルは切っても切れないもんね(笑)。ちなみに本映画では、男子従業員がカエルで、女子従業員はナメクジらしい。
湯女がキャバ嬢やソープ嬢を思わせるという話をしたが、踊り子だってごく普通の女の子に「あなたでも十分大丈夫だから、踊り子をやってみなさい」と勧誘されてステージに上がった娘がいっぱいいる。
本映画では、お客は「八百万(やおろづ)の神々」であるが、ストリップのお客も魑魅魍魎のような人々がたくさん登場する(笑)。
2. ステージは踊り子の成長物語
本映画では、千尋という10歳のひ弱で不機嫌な、ごく普通の女の子が登場する。彼女が、引越しの最中に「不思議な町」に迷い込む。同行した両親は、ある店のカウンターにあった料理を勝手に食べたせいで豚にされてしまう。独りぼっちになった千尋はその町を支配している湯婆婆のもとで「千」という名前にされ、油屋(湯屋)で下働きをすることになる。さまざまな出来事に遭遇するも、謎の少年ハクや先輩のリン、釜爺らの助けを借りながらも、厳しい難局に立ち向かっていく。一人の少女がこうした体験を通して成長していく姿を描いた物語である。
最初に千尋が登場した時、ずいぶんブウたれた女の子だと正直思った。父親の転勤で嫌々ながら転校を余儀なくされ、友達とも別れざるを得ずに「初めてもらった花束が別れの花束なんて」と嘆いていた。車窓から見えた新しい校舎を「あんな学校、嫌だ」と愚痴り、ふてくされた顔をしている。これまでの宮崎映画では全てかわいい美少女が主人公であったが、この映画の主人公である千尋はブスだ!と宮崎監督自身も言っているほど。
そんな千尋が、両親が豚にされ、その両親を助けるためにも湯屋で働かなければならなくなる。幼くて何もできない千尋が、さまざまな試練にさらされながら、頑張って乗り越えていく。物語が進展して行くなかで、千尋の顔がどんどん逞しくなっていくのが分かる。最後には先輩のリンに「おまえのことを愚図って言ってごめんな。おまえは立派に成長したよ。」と言わしめたほどだ。
以前、私はあるベテランの踊り子さんに「踊り子さんは選ばれた美女ばかりですよね。みなさん自信満々でデビューされてきたんでしょうね?」という質問をしたら、「とんでもない。ごくごく普通の女の子に『あなたでも十分務まるわよ。大丈夫だから、踊り子をやってみなさいよ。』と殆ど騙される形でステージに上がった娘ばかりよ。」と話してくれたことがあった。
右も左も分からない世界で、足をぶるぶる震わせながら舞台に上がり、心無い客の声に何度も心折れそうになりながらも、懸命にステージを務め続ける。そして舞台の場数を重ねつつ、次第にストリッパーの顔になっていく。踊り子は最初から選ばれた美女というわけではなく、まさにストリッパーの顔を自分で作っていくのである。
最近はAV嬢から鳴り物入りでストリップの世界に入ってくる娘も多いが、ひと昔前は何の経験もなく18歳でこの世界に入って来た娘がたくさんいた。彼女たちには千尋の心情がよく分かるだろう。
この世界の中でのキーワードは‘働かなければ生きていけないこと’。
映画では、少年ハクが「なんど断られても‘働きたい’とだけ言うんだ!」と千尋にきつく忠告する。働かないとこの世界から追放されてしまうからだ。
それまでの千尋の環境は、両親から‘与えられたままで’生きてきた。だから面白くないからとブウたれていられた。ところが両親が豚にされて、誰も頼ることができなくなった時点になると、自分が働かなかったら生きていけない。ましてや豚になった両親も助けられない。まだ10歳と幼い千尋ではあるが過酷な運命に立ち向かっていかなければならないのである。
おそらく、宮崎監督の一番のメッセージはそこにある。ブウたれている若者たちに向けて、働くことで社会との接点を得ろ!と。
私の経験から、会社の中で働くには、まずは礼儀が大切。最初は挨拶から始まる。同僚に仕事を教えてもらわなくてはいけない。職場のルールは守らなくてはならない。自分の好き勝手にはできない。嫌な仕事も自分の努力と創意工夫、そして周りの人の協力をもってして、乗り越えていかなければならない。時に自分の意に沿わなくても偉い人たちに頭を下げないといけないことも知る。それが社会なのである。働くことで社会の縮図を知るのである。全く同じ経験を千尋もしていく。
3. 名前の意味について
この映画では「名前」にこだわっている。
千尋には「荻野千尋」という名前があるわけだが、「不思議の町」に入り、そして油屋で働くにあたり、湯婆婆に名前を奪われ「千」という名前にされる。
一方、千尋のことを支える少年ハクは「絶対に自分の本当の名前を忘れてはいけない」と千尋に忠告する。
実際、湯婆婆と油屋で働く契約をするときに、千尋は契約書に自分の名前を書き間違える。「荻」の字中の「火」を「犬」と書く。結果的に、それが効を奏して千尋は元の世界に戻ることができた。一方、少年ハクはこの世界に入り湯婆婆と契約するときに、契約書に本当の名前を書いてしまったがために、元の世界には戻れなくなってしまった。
名前には、どういう意味があるのだろうか?
名前というのは「生きる居場所」。すなわち、その人が生きている居場所の証である。例えば、荻野千尋は荻野家の長女として家族に保護される権利を持つ。仮に荻野千尋が会社に入れば、ある部署で働く権利を与えられる。つまり、名前は自分の居場所を主張できる権利なのである。社会の中で、家族と会社という組織が、その人を組織の一員として保護してくれるようになっている。
だから、勝手に自分の名前に関する家族や会社の情報を暴露され、不本意な扱いをされると、その人の居場所は危ういものとなる。そのために個人情報保護法が成立している。しかし、未だこの法律はザル法である。
例えば、家族の中に犯罪者がでて、その事実が公に知られると、他の家族も批判の対象となり、仕事を失ったり、終いには夜逃げ同様に引越しするはめになる。家族もろとも生きる居場所を失い、社会から追放されることになる。
ストリップは悪いこととは思わないが、踊り子をやっていることを親バレして辞めていく方も多いし、世間体が悪いと思っている踊り子はたくさんいるだろう。ストリップの客も履歴書に「趣味はストリップ通いです」とは書けない。つまり、ストリップは市民権を得ているとは言えない。
私の場合も脇が甘くて、ネットで名前や会社名などの個人情報が暴露されてしまった。まさかとは思っていたが、その結果、家庭崩壊と失業という最悪の事態を招いてしまった。具体的にはネットで私のストリップ通いを家族に知られ、妻は許してくれず離婚となり、妻と子供三人が家から離れていった。また一番ショックだったのが、看護師をしていた娘は医者との婚約を破棄された。酷いことにネットで私に娘がいることまで暴露されていた。婚約相手が興信所に調べさせたのであろう。その事実が婚約相手や娘に伝わってしまう。娘から涙ながらに責められ、最後は「お父さんとは二度と口をきかない!」と縁を切られた。たかがストリップ通いでそこまでされるとは夢にも思わなかった。気付いたときには後悔しても遅かった。
また、ネットに名前と会社名・部署名・役職名までを載せられることで、会社の情報検索にひっかかり、私のストリップ通いは会社や従業員にバレることとなった。最初は上司から呼び出されて注意されただけだったが、その頻度が高まるにつれ退職勧告になっていった。私は部下に女性もいたので、ストリップ通いの上司をどう思うか分からない。終いには会社の中で「私を会社の中枢部門に置いておくわけにはいかない」と判断されてしまい、もう私は会社に居られなくなってしまった。
私はこうして家族と会社の中で居場所を失った。それは社会からの追放になる。
もうひとつ、踊り子は芸名を持つ。千尋の場合の源氏名「千」と同じく。
踊り子としてステージに立つときは、芸名だけが広がる。仮に有名になった場合も、本名が出ると困る。親バレを怖がる踊り子は多いからね。
そして踊り子を辞めたら、当然に本来の名前に戻る。ところが、なかなか元の名前に戻れない方もいる。芸名の自分に固執してしまい、元の名前で生きていけないのである。つまり、踊り子時代に一度ちやほやされてしまうと、地味な生活に満足できないのか、普通の生活ができなくなるという話はよく聞く。引退後も華やかな踊り子時代を思い出し、地味な仕事や生活に耐えられず、すぐに戻ってくる方も多い。こういう人は、女優のような芸能人にもたくさんいる。
千尋はこの不思議な世界で成長を遂げ、普通の生活に戻っていった。踊り子というのもストリップという不思議な世界で、人気が出るとたくさんちやほやされ、たくさんお金を稼ぎ、もちろん苦労もして、成長をする。踊り子とファンという関係は、踊り子の成長を一緒に楽しむことに醍醐味がある。お互いがそのことを十分に理解してストリップを楽しまなければならない。
そのことを忘れると、本来の名前を忘れてしまい、踊り子を辞めた後に本来の自分に戻れなくなるので気を付けなければならない。
私はストリップの父を自任している。だから、太郎チルドレンと呼ばれるような、私と縁のできた踊り子さんには「踊り子と客の間には適度な距離感を持つ必要がある」と再三話す。ファンは踊り子という芸名のある一時期だけを応援するもの。彼女の本名である長い人生には関与できないし、関与しようとしてはいけない。つまり、もともと踊り子は恋愛対象や結婚対象にはなれないのである。そのことをしっかり弁(わきま)えないとお互いが不幸になる。そのことを十分弁えてさえおけば、ストリップで絶世の美女との仮装恋愛を楽しめる。
それがストリップという世界のルールなのである。
4. お客はすべてカオナシである。
本映画には、カオナシという怪物が登場する。しかも準主役級の少年ハクよりもはるかに多く出てくるメインキャラクター。もともと宮崎監督はメインにするつもりはなかったらしいが、話が進むにつれ、どんどんメインになっていったというのが面白い。それほどに本映画を味わうには重要な存在として位置づけられる。
カオナシは、黒い影が仮面を付けている容姿。仮面をつけているから表情や感情は読み取れない。また、言葉は「あー」とか「えー」としか発しないので何を考えているか分からない。こうしたことから彼はカオナシという名前の通り(ちなみに英語ではNO FACE)、「個性が見えない」「自分がない」存在。
彼が初めて登場するのが、千尋がハクに連れられて油屋へ通じる橋を渡る時。カオナシは千尋になんとなく興味を持つ。油屋で下働きしている千尋のことを外から眺めていたら「雨の中に立っていたら濡れちゃうよ。この扉を開けておくから中にお入り!」と千尋に優しい声を掛けられ、千尋に好意を抱き、千尋の喜ぶことをやろうとする。番台から薬湯の札を盗んで千尋に渡して、千尋を助けるまでは良かったが、身体から砂金を出して渡すと従業員たちが狂喜するのを見て、次第に欲望をエスカレートさせ、反発する従業員を飲み込み‘欲望の怪物’になっていく。
それを止めようと、カオナシの前に立つ千尋。カオナシは千尋の機嫌をとろうと砂金を差し出すが拒否されて戸惑う。千尋には欲望がなかった。「あなたには私がほしいものは出せない」と言われ、そこでカオナシは暴走を止めおとなしくなる。
そして千尋から「あなたの家はどこ? 両親はいるの? あなたは元のところに戻った方がいいわ。」と促されるも、戻る場所のないカオナシは「いやだ」「さびしい」と言うだけ。ここからカオナシは「居場所のない不安定な存在」であることが分かる。
物語の最後には、千尋と一緒に海原鉄道に乗って、銭婆のところに行き、そこで銭婆に存在を認められ、ここに居るように言われる。ようやく安住の地を見つける。
以上の行動から、カオナシの特徴は次の通り。
・コミュニケーション能力がない
・お金で全てを解決しようとする
・嫌なことがあるとすぐ暴れる
極めて人間くさい、生の人間の欲望がそのまま具現化されたような存在と云えよう。
宮崎監督は「みんなの中にカオナシはある」と話しているので、カオナシに人間そのものを暗喩させていると感じられる。
改めて、ストリップの客はみんなカオナシだと思う。
まず、ストリップの客というは、寂しがり屋のかまってちゃんばかり。砂金をダシに千尋の気を引こうとするカオナシを見ていると、チップをダシにして踊り子の気を引こうとする客そのものだ。
だから「あなたには私が求めているものは出せない!」とバシッと言われてたじたじになるカオナシを見ていると、「こいつ、どうなる?」と自分のことのように心配になる。最後に、銭婆のところに居場所を見つける。おっ、ここで働かせてもらえそう。なんとか心穏やかに暮らしていけそう。そんなカオナシの姿に私はホッとした。
ストリップの客は誰も自分の素性を話そうとはしない。それぞれに自分の生活があり、家族がいたり、職場を持つ。いくらストリップが好きでも、家族や職場の同僚に「ストリップ通いが趣味だ」とは言えず、こそこそと劇場通いしているのが大半である。客同士、いくら仲良くなっても素性を明かさないのがマナーでもある。本名を名乗らずニックネームで呼ぶことが多い。みんなカオナシなのである。ほんと不思議な世界である。
みんなスケベで、趣味を同じくしているので気が合う。ストリップの話をしていると話が盛り上がる。飲み仲間になることも多い。それでもお互いの生活には踏み込まないよう、一線は守っている。
だからいいのかもしれない。家族や職場ではあまりスケベな顔はできない。品格が疑われるし、今はちょっとした言動ですぐセクハラ問題になる。表向きはスケベな本性を隠し、真面目な顔をして生きていかなければならない。それだとストレスが溜まるので、時にストリップでストレス発散をする。これは自然な行いである。ストリップという世界で裏の本性を出して楽しみ、また表の世界に戻っていけばいい。表裏バランスすることで人間として生きるバランスを得られる。特に女性に縁のない独身男性にとってはストリップのような性風俗は欠かせない。ストリップが性犯罪や軽犯罪の抑止効果があることは他で述べたい。
ストリップそのものが悪いことだとは思わないが、未だストリップが市民権を得ておらず、カオナシの状態で楽しむ遊びだとすれば、個人情報をネットなどで暴露するのは許されない犯罪である。他人の楽しみや幸せを奪う人間が許されていいはずがない。私のように家庭を壊され仕事を失くすような人間を作ってはいけない。個人の不幸を喜ぶ人間が蔓延しては‘いじめ’は無くせない。しっかり犯罪者として罰するべきだ。そういう仕組みを作っていかなければ世の中はよくならない。
5. 私はハクになりたい!
本映画に登場するハクは、宮崎映画に登場する男性の中で、最も美少年として人気が高い。平昌オリンピックのフィギュアスケートで二連覇した羽生弓弦選手が着ていた衣装によく似ているため、羽生選手とイメージがダブルと噂されるほどだ(笑)。
ハクは千尋が不思議な世界に迷い込んできて、最初から千尋の味方として助ける。
最後には、湯婆婆に対して「千尋と両親を助けてほしい。そうしてくれたら、自分は八つ裂きになっても構わない。」と言い切って、湯婆婆の子供(坊)を助けるために銭婆のところに向かう。愛する千尋のために自己犠牲を厭わない。
そんなハクだから千尋にも愛される。
一方、ハクはあまりにもかっこよすぎないか、ハクの出番って都合よすぎないか、という声も聞こえてくる。
この点に関して、宮崎監督はこう述べている。「こういうふうにするつもりは全然なかったんです。ただ女がいれば男がいるし、男がいれば女がいる。そうやって世界ができているわけで、主人公がブスなんだから白面の美少年がいないとつまらないかなと思っただけなんです」(ロマンアルバム)
ハクは千尋の成長を促す係として作られた、対比キャラだ。だから見た目も対照的となった。
作画監督・安藤雅司もこう述べている。「(ハクは)本当はもっと怪しくしたかったんです。ただキャラクター的に、透明感のある美少年の典型ということで描いていくしかなかったというのが正直なところです。でもハクに関しても、少女マンガに出てくる美少年のようにならないように、気をつけたつもりです」(ジブリの教科書「千と千尋の神隠し」)
奇怪な存在だらけの映画で、彼のキレイな外見はとても目立つ。序盤でたまたまハクと出会って以来、救われまくる千尋。ハクはいつも都合のいいところで登場する。
とにかく、宮崎アニメの中でも屈指の王子様キャラである。
私は美少年でないから、ハクの容姿には遠く及ばない。ただ、‘容姿’違いではあるが、手紙という‘用紙’で踊り子を元気にする魔法の言葉を発する。最近は白(ハク)の用紙にお絵描きを楽しんでもらう。そんなことで踊り子を応援する。
ストリップ界のハクと呼ばれたい。(笑)
おしまい