「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)

「お金と引き寄せの法則」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)

という本を教科書にして引き寄せの法則について、

ご紹介してきました。

 
エイブラハムの本では次に健康をテーマにするつもりですが、
その前に、お金について、
エクトンという存在とのチャネリングをした本が、
とても面白く、エイブラハムの教えに通じるものがあるので、
ご紹介しています。
 
 
 
 
 
ちょっと別のテーマが続きましたが、
前回ご紹介したエクトンの教えでは、
椅子に座って静かに自分と向き合うレッスンを行ないました。
 
実際に役立つやり方はこうです。

どんな理由があろうとも、
いままで持っていなかったということは、
深いところではお金が欲しくなかったからだ、
と認めよう。

そして、いまからそれを変化させよう

私は、いまお金が欲しい。

いま、それを望んでいる。

私は、自分の現実に、もっとエネルギーを
引き寄せることができる能力があると感じられる、と。

深呼吸をしてください。

椅子に心地よく座って…。

ちょっとお金について自分に話してみましょう。

本当にお金が欲しいのか、
尋ねてください。

それではやさしく、努力なく、
ゆったりと目を閉じます。

深呼吸をして…。

そんなに深いトランス状態に入っていくことはありません。
普段より少し静かな意識状態に入ってください。

お金の場合だけでなくあらゆる物事に関して、
次のような質問を自分に尋ねることがもっとも大切です。

「なにを本当に求めているのか?」

お金に関しては、なにを求めていますか?

これから6か月先に、
財布あるいは銀行の口座を見ているところを
イメージしてください。

深呼吸して…。

そこにどのくらいのお金があってほしいですか?

感じて…。

もっと欲しいですか?
たぶんそうですね。

本当ですか?

深呼吸をして…。

金額はどのくらいでしょう?
どういった形で?
6か月後、自分が持っているお金の額が見えますか?

6か月後のある日、銀行に出かけます。
口座を見ると、その金額があります。

どんなふうにそのお金がやって来たのか、
知っていますか?

その6か月間を思い返してください。

どのようにしてその時点に辿り着いたのか?

どうやってそのお金を得てきたのか?

仕事を始めたのでしょうか?
賞金かなにかで入ってきたのでしょうか?
あるいは遺産ですか?
仕事が成功したから?
昇進したのでしょうか?

感じて…。

あるいはまったくわからないかも知れません。
それでもいいです。

呼吸をして、深い呼吸をして…。

銀行の口座にそれだけのお金があるとき、
どんな気分ですか?
その気分が好きですか?
いい気分ですか?

もしそうしたければ、
そのお金をどうしたいかを
考えることも出来ます。

重要なことではありませんが、
しても悪くはありません。

お金を使うことは役に立つでしょう。

あるいはそのお金を銀行に蓄えておいて、
利子で金額が殖えるのを待つこともできます。

どういう方法があなたにとって
お金をさらに拡大するために適しているでしょうか?

では、まだ目を閉じたまま、
イメージの中できょうという時に帰ってきてください。

いま、ほとんどの皆さんが、
6か月後には現在より多くのお金を得ているところを
イメージしました。

信じられますか?

ほんとうに現実だと感じられますか?

ほんとうにそれが欲しいのですか?

このゴールを達成するために、
あなたは毎日小さなステップでいいですから
一歩一歩進んでいく意思があるでしょうか?

あなたは、
いまありのままの人生を進んで受け入れますか?

こんなことをあなたは理解しているでしょうか?

よりよくなるのではなく、
いますでに完全であるひとつの状態から、
単に別の完全な形に、
移行しつつあるということ、を。

多くの人々が、
「これからよりよくなろう」と考えることで、
同じ状態に滞ります。

でも、私たちから言えば、
ただ違った状態に移行するだけです。

もっとお金のたくさんある状態に移行するだけです。

ゆっくりと目を開いてください。

これからもっと豊かな、もっとお金のある現実に
移行していきます。

よりよい世界ではありません。
ただ、違った世界です。

もしあなたがいまこの瞬間、椅子に座っている
あなた自身が創り出しているさまざまな現実を
批判したり判断し始めたら、
最終的にあなたは自分を傷つけてしまうことになります。

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)より

 

長く癖の様に続いた思い込みや思考習慣を変えないと、
現実的な変化は起きてきません。
現実的に経験することというのは、
内側の反映なので、自分が自分に対してどう感じているのか?
というのが忠実に反映されています。
 
私自身は長らく劣等感とか自己嫌悪といった、
自分を否定する考えに囚われていて、
一日中、これがダメだあれがダメだと責めるのが、
当たり前の様に生活してきました。
この場合は、責めているんだなという癖に気付いて、
そこから全く反対の別の考えを取り入れる様に、
自分を変えて行く必要があります。
自分の中からそういう考えを探し出すんですね。
 
”このゴールを達成するために、
あなたは毎日小さなステップでいいですから
一歩一歩進んでいく意思があるでしょうか?
あなたは、
いまありのままの人生を進んで受け入れますか?
こんなことをあなたは理解しているでしょうか?
よりよくなるのではなく、
いますでに完全であるひとつの状態から、
単に別の完全な形に、
移行しつつあるということ、を。
多くの人々が、
「これからよりよくなろう」と考えることで、
同じ状態に滞ります。”
とあります。
 
これからよくなるだと、今を否定していますよね。
自分を責めてしまったとしても、
責めちゃダメだ!と否定するのはまた別の責めになります。

 

いままでもずっとあなたの現実は
あなたの創造性の完全な表現であり続けてきました。

そして、これから先も
永遠にそういう状態が続くのです。

ただ、その中であなたはより多くの
お金を引き寄せたいというだけです。

それほど大したことではありません。

実際のところ、あなたの創造性によって
いままで表現されてきたもの、
つまりいまの現実をすでに完全だと認めれば、
望む状態にスムーズに速やかに
変化して行くことができます。

自分の創造した物事を完璧なものとして見るとは、
自らを愛する許可を自分に与えることです。

こういう見方をします。

私の人生にはもちろん、
表面的にはいくつか問題が
並んでいるように見える。

それでも、私の人生は完全性の表現だ。

その通りです。

もしかすると
先月家賃を払えなかったかもしれません。
それも完全性の表現です。

自分の子どもがみんな大きくなって、
小さな不便な家からもっと大きな家に移りたい、
という欲求を持っているかもしれません。
それも完全性の表現です。

あなたはそれを
完全であるとは感じないかもしれません。

完全性とは、
必ずしもあなたが普段「完全とはこうだ」と
思っていることと一致するわけではないのです。

会社の上司が、
あなたの代わりに他の人を昇進させてしまった。
そのときには完全だと感じないかもしれません。
でも、そうなのです。

完全だと認めるとは、
つまり宇宙の無限の秩序への理解を
自分に与えるということです。

それによって成長します。

得ることができます。

いままでにない方法で自分に触れることができます。

こんなふうに考えるかも知れません。
「人生は、よりよく、なり得る、はずだ!」
でもそう考えると結局、
自分を傷つけてしまいます。

いま、この瞬間の人生が完全だ、ということを
もし理解しなければ、
もちろんそれをそのまま信用する必要はありません。

でも、そのことを深く信じなければ、
いまいる状態に滞り続けることになります。

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)より
 
今の状態はダメだ!とやってしまうのは、
また、そんな風に責めたらダメなんだ!というのも、

”「人生は、よりよく、なり得る、はずだ!」

でもそう考えると結局、
自分を傷つけてしまいます。”
ということになるんですね。
 
じゃあどうしたらいいのか?というと、
”こういう見方をします。
私の人生にはもちろん、
表面的にはいくつか問題が
並んでいるように見える。
それでも、私の人生は完全性の表現だ。”
という考え方を採用するのです。
 
”あなたはそれを
完全であるとは感じないかもしれません。
完全性とは、
必ずしもあなたが普段「完全とはこうだ」と
思っていることと一致するわけではないのです。”
とあります。
 
いつもダメだと責める自分、
あーほらそうやってまた責めてる!
まったくもうダメだな!と感じてしまうこと。
それでも全て完全だよ!と受け入れてみる。
 
”完全だと認めるとは、
つまり宇宙の無限の秩序への理解を
自分に与えるということです。
それによって成長します。
得ることができます。
いままでにない方法で自分に触れることができます。”
とあります。
 
この箇所は、下記でご紹介した、
 
もうひとつ大切なことは、
「持続性」です。

一時的に失敗したように見えようと、
自分が設定したゴールが本当に
重要であると思えば、
失敗を乗り越えてさらに進んでいく、持続性です。

トーマス・エジソンは、
自分の望む電球を作るために、
何千回も繰り返し実験した結果、
電球の発明に成功したのです。

もしこの中で、
お金にひどく困っている方があったとしても、
豊かになる可能性はあります。

大成功したひとたちには、
人生のある時期、
経済的に行き詰まった状況を
経験していることが多いのです。

もうどこへも行く場所がない。
トイレットにまっすぐ行ってしまうか、
階段を上がって成功に向かうか
どちらかという状況です。

あなたの理解のために、
そういう状況を通過しなければならない
と言っているのではありません。

万が一そういう状況に陥ったら、です。

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)より
 
大成功の前の行き詰まった状況、
というような捉え方をすると、
そうか完全だなという見方も選択出来ると思います。
ちょっと切り取った今、ダメだと感じる時があるけれども、
それはそれでよく、
そう感じる部分も含めて私は完全である、
と視野を拡げていくとダメとは言えないな、
という気持ちになってきます。
あーこの状態で私は完全なんだなという気持ちから、
自分自身も愛おしい存在だな、
こんな風に生きていることは素晴らしいなといった、
感謝の気持ちが湧いてきます。
 
私の解釈としては、自分より大きな存在の視点で、
自分を受け入れて眺めるような感じですね。
それが、
”完全だと認めるとは、
つまり宇宙の無限の秩序への理解を
自分に与えるということです。
それによって成長します。
得ることができます。
いままでにない方法で自分に触れることができます。”
という箇所と同じかなと思います。
 
私自身もまた神の一部である、
だから完全だなと思えるのか?
これを延長していくと、
私もそうだし、あなたもそうだよね?
といった自他同一の意識になっていきます。
 
 
二元性を超えるといった記事を書いていますが、
度々善悪二元論とか統合についてお伝えしています。
 
言葉だけを流用して分かった気になって、
二元性や統合について語る様な人は矛盾が生じます。
 
ツイッターで見かけた格言風な発信で、
”思いやりで話す人は人の心をいたわり
思いつきで話す人は人の心を傷つける”
というのがありました。
 
これは一例なんですけれども、
こうやって関係ありそうな、
でも実際は対極にある二つでもない様なものを、
比較する材料として引っ張ってきて、
こっちは良くてこっちは悪い、
といった主張をするということはよく見られるものだと思います。
○○する人は××で、●●する人は△△だみたいな。
 
思いやりの反対だったら、無慈悲とか、
思いつきの反対だったら、熟慮とか熟思とか?
対極のものを並べて比べるという意味なら、
そうすると思います。
 
思いやりと思いつきを並べたのは、
語呂合わせ的なラップ的なノリでやったんだと思いますが、
深い発信ぽくドヤっとやるのは、
私はちょっと寒気がしますね。
いくらでもそんなの引っ張ってこれて、
永遠に比較できますよね。
異なる二つを比較する手法です。
これはよく、引き寄せアドバイザーがやっています。
 
”思いやりで話す人は人の心をいたわり
思いつきで話す人は人の心を傷つける”
を例にすると、
goo辞書では思い遣りについて、
"他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。"
とあります。
”思いやりで話す人は人の心をいたわり”
というのは、
”他人の身の上や心情に心を配りながら話す人は、
人の心をいたわっている”ということですよね。
 
労るという意味は、
"弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。
気を配って大切に世話をする。"
とあります。
”他人の身の上や心情に心を配りながら話す人は、
同情の気持ちをもって親切に接する。
気を配って大切に世話をする。"
ということですね。
うわっしつこい!と感じました。
思いやりを強調したい、
大事なことだから二度言った!みたいな。
 
思いやるということに人の心をいたわるというのも、
含んでいると思うんですよ。
 
思いやりという言葉を使っている時点で、
他者に気を配っている人を指しているのにもかかわらず、
人の心をいたわっている!ドヤッ!とやる訳です。
私はこういう表現は好きじゃないです。

意味を自分なりに分かる様に翻訳しながら読んだら、

あれ?と引っ掛かります。
感情移入してなんでも鵜呑みにして自己陶酔して受け入れてしまう、
というのは、自分を客観視出来ていないし、
ただ反射的に反応しているだけです。
思考を使いましょう。
 
思いやりで話す人は善い!
人の心をいたわるのが善い!
思いつきで話すのは悪い!
人の心を傷つけるのは悪い!
という意味を含ませているのかな?と感じますが、
その発信者が善いと感じるものと悪いと感じるものを、
引っ張ってきて並べて、こっちが善くてこっちが悪い、
とやっている訳で、
こういうのが善悪二元論です。
 
絶対的な善い悪いはありません。
 
思いやりで話しても思いつきで話しても、
別にそこに善悪はありません。
 
思いやりを持って話したとしても、
傷付く人は傷付きます。
何が地雷なのかなんて他者には分かりませんし、
こっちの気持ちが伝わらないなんてよくあることです。
傷付けるつもりがなくても傷つけてしまう、
そういうことも起こり得るのです。
 
それと同じで、
思いつきで話すことが全て、
人を傷つけるとは限らず、
受け止める側によって違い、
思いつきで話しているんだな、
別に悪意がある訳ではないよねと、
受け流せる人は沢山いますよ。
思いつきで話しただけでも、
褒められていると感じて喜ぶ人もいます。
 
常に両極存在するというのが法則で、
自分の都合の良い片側をそれぞれ並べて、
善い悪いの比較をするのはくだらないことです。
でもいくらでも続けられるので、
ネタに困った人がよくやる手法ですね。
何の発展もありません。
二元論ですから、統合していかないのです。
 
自分が発した言葉も鏡になるので、
”思いやりで話す人は人の心をいたわり
思いつきで話す人は人の心を傷つける”
というのはつまり、
俺に話す時はいつも思いやりを持て、
思いつきで話すなよ、
いつも人の言葉に傷ついちゃうからね!
ということですよね。
誰が何を言おうと傷付かないと選択出来るのなら、
思いつきで話そうが思いやりで話そうが動じません。
 
最近読んだ漫画でハマったのが、
やたらポジティブな主人公が出て来る恋愛モノなのですが、
誰に何を言われても良い方に解釈するのね。
主人公を利用しようとする、搾取しようとする、
悪役は沢山出て来るし、
暴言吐く人も出て来るのだけど、
主人公は傷付きません。
例えば、「厚化粧しすぎ!アクセサリーをジャラジャラつけて!
服も派手だな!みっともない!」とボロクソに言われても、
「何もしなくても美しいって褒められちゃった!」
と喜ぶのです。
主人公には少しの悪意もないので、
周囲の人にも悪意があるとは思っておらず、
何を言われても悪いこととは受け止めません。
付き合い切れないと感じる人は離れるし、
何を言っても通じないなと諦めた人は、
主人公に好意を抱くようになります。
結局、敵ばかりの逆境にいたはずなのに、
周囲が味方ばかりになってしまうのです。
 
私はこういう生き方が最強だなと思います。
怖い物なしですよね。
 
転換の技術というのは、自分を幸せにしていきます。
 
また別の例として、
”自分の為に生きるのではなくて全体の為に生きる”
というのを見掛けました。
これもとても危険な思想で、
自己犠牲を強いるもので、こういうものにハマると、
呪いの様に自分の人生を縛ることになります。
 
一見、素晴らしいことを言ってそうですが、
これも二元論になります。
 
自分というのは全体の一部であって、
自分=全体なので、切り離せません。
自分の為に行なうことはいつも全体の為になります。
自分と全体を切り離すことなく考えるのであれば、
自分の為に行なうだけで全体の為になるのです。
 
”自分の為に生きるのではなくて全体の為に生きる”
という主張に含まれているのは、
自分のことだけ考えて生きるのはダメ!
全体の為に生きなきゃダメ!
というものです。
自分の為に生きて、他者を否定する、
他者の為にならなくても自分の為になるならいい!
という生き方に対して、
それはダメだ!とやるものかもしれませんが、
それこそ、自分の為だけに生きる人を否定する、
全体の中の一部を否定しているため、
全体の為には生きておらず、
自分の(思想を主張する)為に生きているのです。
 
”自分の為に生きるのではなくて全体の為に生きる”
になってしまうと、
自分と全体を切り離しているので、
自分は不幸だけど全体にとっては幸せになる、
と感じられる選択肢も生じてきます。
 
例えば四人いる時に、お握りが三つあって、
みんなの幸せの為には、三人で食べて!
私は食べないよ!みんなが喜んでくれたらそれでいい!
とやります。
それも一つの選択で、例えば幼い子三人に、
自分の分を譲ってそれで満足ということもあります。
でも、譲られた人から見ると、
一人だけ食べられない人がいること自体が、
その人の幸福を妨げるということも起こり得るのです。
 
これこそ相手目線が必要なことではないでしょうか?
 
自分さえ我慢すればなんてやられても、
こっちは負担だし逆に迷惑なんだけど?
みたいなこともあります。
 
これが自分だけではなくて他の何人かもやったら、
「私が我慢するから!」の奪い合いになりますよ。
我慢している人を誰が幸せにしてあげるのでしょうか?
別の誰かが我慢している人を幸せにする為に、
我慢しなきゃいけないのでしょうか?
 
まずは自分を幸せにする、
自分の為にするのが大前提で、
その延長線上にはいつも全体がある、
ということを忘れてはいけません。
 
よく下記はご紹介していますが、
 

友であるみなさん、他者への奉仕が、
同時に自分自身への奉仕であることを
忘れてはなりません。

ここで私たちは、奉仕が、
自分自身への奉仕のようである
とは言っていないことに注意してください。

他者と自分自身の関係は類似でなく同一なのです。

そして、そこにあるのは
完全性と統合性にほかなりません。

つまり、あなたが群れの中の一頭の羊に対して
何か否定的な感じを抱いたとしますと、
あなたはそれを自分自身に対しても、
「創造主」に対しても感じているということです。

そしてそれは、あなたが他者への奉仕を通して
自分自身や「創造主」に奉仕しようとするとき、
あなたの奉仕に表われ、
あなたがなしうるはずであった
完璧な奉仕に汚点や傷を残すことになるのです。

どうか次の点を忘れないでください。

人は誰でも一人ひとりが完全に自由な存在です。
そして、その自主性はいかなる理由があっても
揺らいだり脅かされたりしてはならない一方で、
その本質はあなた自身の本質と
ひとつでありつづけるのです。

 

「ラー文書」一なるものの法則第一巻
(ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、
ジェームズ・マッカーティ著)より

 

奉仕というのも、
自他同一の意識がある人とない人では、
立ち位置が違うので、
全く解釈も違ってくるのです。
 
「プリズム・オブ・リラ」には、オリオン星系の、
ポジティブとネガティブの戦いについて書かれています。
 
オリオンにおける陰と陽の
両陣営の違いは際立っていた。

ネガティブ指向の集団は、
自己中心主義に凝り固まっていた。

彼らの理念は、
「自己への奉仕は、『全体』の奉仕につながる」
というものだった。

しかし、彼らが見落としていた点は、
この理念を実践に移す方法論そのものが、
まさに「全体」を否定することになる
という事実だった。

彼らは他者を支配することを通じて、
自分たちの理念を実践しようとしたのである。

「プリズム・オブ・リラ」
(リサ・ロイヤル★キース・プリースト共著)より
 
というネガティブ指向の理念と、
 
一方、ポジティブ指向の集団は、
「他者への奉仕」に終始していた。

たとえ自己を犠牲にしても、
他者に仕えることが存続のための唯一の道だと
彼らは信じていた。

こうして、いわば「支配を欲する人々」と
「自己犠牲をまったく厭わない人々」
との両者の間で、とても興味深い力関係が
演じられた。

ポジティブ指向の集団は、
「全体」の維持のためには、
自己を捨て「全体」に仕える必要がある
と思いこんでいた。

しかし彼らは、自分自身の存在が、
「全体」を構成する重要かつ不可欠な部分であることは
否定していた。

「プリズム・オブ・リラ」
(リサ・ロイヤル★キース・プリースト共著)より
 
というポジティブ志向の理念があるのだけれども、
これは矛盾が生じていて、
全体と切り離された個人意識の状態になっています。
 
”「全体」の維持のためには、
自己を捨て「全体」に仕える必要がある
と思いこんでいた。
しかし彼らは、自分自身の存在が、
「全体」を構成する重要かつ不可欠な部分であることは
否定していた。”
という箇所が、
”自分の為に生きるのではなくて全体の為に生きる”
と同じことになります。
 
上記の二つの例というのは、
正にオリオン的な思想なんですよ。
統合以前の問題を抱えています。
 
ゼロポイントの奥義とは、
内側の世界と外側の世界を反転させること。
個であり全体、
全体であり個という視点を獲得することにある。 
 
われわれは、ミクロコスモスであり、マクロコスモスでもある。
 
「22を超えてゆけⅡ太陽の国へver.2 6と7の架け橋」 (辻麻里子著)より
 
とある様に、
個であると同時に全体でもある、
という理解が必要です。
私という個人を意識する時と、
私自身もまた宇宙であるという全体を意識する時、
それぞれありますよ!ではなくて、
常に、私は個人でありながら宇宙であると意識している、
というのが統合意識領域に到達した状態になります。
両方同時に保持しているのね。
 
”自分の為に生きるのではなくて全体の為に生きる”
という言葉には、
自分の為に生きるのは悪、全体の為に生きるのは善、
全ての人は全体の為に生きるべきだ!
という押し付けがあります。
つまり善悪二元論になりますね。
エクトンは下記の様に伝えていました。
 

アメリカだけではなく日本や他の国々でも、
自分の部屋に友だちを招いて
チャネリングをやっている人たちが、
たくさんいると思いますが、
メッセージは共通しています。

それは、すべてのものへの無条件の愛、
自分が創り出している現実に対する
全面的責任です。

言い換えれば、誰も他の人や他の世界の出来事を
責めることはできません。

すべて、あなたです。

これは、とても大きな責任です。

ほとんどの人はそんな大きな責任を負うのはいやだと
思っています。

だからこの惑星で戦争や争いが起きます。

「私と私以外」、「私たちと彼ら」、という見方。

エクトンや他の存在たちが
共通して言うのは、
私たちと彼らが実は同じ、ということです。

何時であれ、他の人々と関わる時に、
自分と離れた「彼ら」という見え方がするときは、
自分の内側を探るチャンスです。
「彼ら」は自分のどの側面を反映しているのか、と。

誰かに腹が立ったり、誰かと問題を起こすとき、
私たちはよく
「私だったらあんなことはしないのに」と言います。

でも、多くの場合、
自分が同じようなことをする可能性があるか、
あるいは過去にそのようなことをして
それを認めたくない時に
「あんなことはしない」と怒ります。

「私は人を殺すなんて絶対にするわけがない」
と言うかもしれません。

でも、過去世で殺人を犯さなかったと
どうして言えるでしょう。

あるいは次の生、

別の人生で殺人を犯すかもしれません。

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)より

 

”それは、すべてのものへの無条件の愛、
自分が創り出している現実に対する
全面的責任です。
言い換えれば、誰も他の人や他の世界の出来事を
責めることはできません。
すべて、あなたです。
これは、とても大きな責任です。”
とあります。

 

例えば上でお題にした、

”思いやりで話す人は人の心をいたわり
思いつきで話す人は人の心を傷つける”
という主張の場合は、
どちらもあなたですよ!ということになります。

 
何を発信しているのかで、
その人の内側が筒抜けになりますし、
霊的な段階も丸見えになります。
 
こういう発想をする人もそれを喜ぶ人も、
幼い表現が好きなのかな?と感じます。
アミの壊れたパクリみたいなちきゅきゅみたいな、
稚拙な小説に大喜びする様な人達もいますが、
もう少し上質な情報に触れた方がいいでしょう。
アミもいいんですけど、ドーリル先生の著書もオススメですよ。
 
ある方のブログ記事から下記をご紹介しました。
 
読解力は周波数

難解に思える書籍は、1回読んだだけでは
理解出来ないことがあります。

2回、3回読み直して、やっと理解出来ることもあります。

それほど難解な本ではなくても、
2回、3回読み直すと、1回目とは違った
味わいが増すことがあります。

また、子供の頃に読んだ本を、
大人になってから読んでみても、
子供の頃に感じたものとは違う世界を
感じることもあります。

これは主に、一般書籍についてのことですが、
そうではない、いわゆる精神世界という分野によく見られるような
高次元意識について書かれたもの、
または高次元意識からもたらされた情報が書かれたものは、
何回読み直しても理解出来ないことがあります。

これは、その本の周波数に、
自分の意識の周波数を合わせなければ
読み解くことが出来ないということです。

単に難しい言い回しや単語、熟語を
連発しているということでもなく、
逆に、平易に書かれていても、です。

そこには、ある種の暗号やメッセージが
隠されている場合が多々あるからです。

このような仕掛けは、映画の中にもあります。
その映画のストーリーが面白いか面白くないかは別にして、
あるメッセージを暗号として織り込み、
人類の集合意識への意識づけをするケースです。

この意識づけのポジティヴな面についていえば、
私たちの生きる世界は、いかに嘘によって
塗り固められているかという証であり、
そのベールを少しずつ剥がしていく作業です。

嘘や隠し事が出来なくなる時代へと進行しつつあるいま、
真実なるものも明るみに照らされるのです。

しかし、情報操作が頻繁に行なわれ、
またその情報量も膨大であるため、
嘘か真実かの判断がつきにくいというのが、
昨今の状況でしょう。

そのような状況から、真実なる情報だけをキャッチするためにも、
私たちの人類の周波数を意識的に高めていく必要があります。
 
周波数帯が異なると理解出来ない、
自分自身の意識と周波数帯を拡げて行くことで、
理解出来るようになる、という情報があるのです。
いくらパクっても流用しても、
準備が出来ていない人はその本当の意味を理解することは出来ません。
言葉だけ先走ってしまうんですね。
理解するには実際に試して、経験を通していく必要があります。
本当に理解しているならば、経験して実際に結果が出ているのだから、
矛盾も生じなくなります。
自分の生活を中心に置いていきましょう。