引き寄せを続けて書いていますが、

今日は、本を書き写す時間がないので、

思ったことだけ書きますね。

 

すごく驚いたんだけど、

引き寄せのお守りとか売っている人がいるんだね?

お守りって…。

どういうつもりなのか。

 

それを買った人が、引き寄せに効くと信じることで、

プラシーボ効果みたいなことは起こるよね、きっと。

 
本人に起こることは、

本人の思考によるものだから、

お守りが引き起こす訳ではないよね?

 

よく、ブレスレッドとかにエネルギーを込めました、

という形で売る人もいますけど、

そういうのは大抵、

悪質なおかしなエネルギーが入っているので、

購入しない方がいいそうです。

 

天然石とか購入した時なんか、浄化しますよね?

人々の思念とか、エネルギーを、

石が吸い取ったりするからじゃなかったっけ?

誰かのものが入っているものをつけたいですか?

私はちょっと気持ち悪く感じます。

 

誰かの手作りアクセサリーが素敵だなと思って、

(その人のセンスが気に入って)

購入する場合ではなくて、

エネルギー入りが欲しいという場合のことです。

 

上記の引き寄せのお守りだというあるアイテムも、

そのアイテム自体に好感を持つなら、

購入したらいいけど、

引き寄せのお守りという視点で欲しいなら、

疑問に感じます。

 

もしエネルギーを入れてお守りの様にしたいなら、

氏神様や一之宮へ参拝して、拝殿なんかで、

これをお守りにしたいので、エネルギーを入れて下さいと、

御祭神にお願いすれば入れてくれるそうです。

勿論、目に見えませんけれども、

自分で手作りして参拝するといいと思います。

昔はよくやっていました。

おかしな人から購入するより、

簡単なので自分で創って、

自分でエネルギーを入れるのを、

オススメします。

 

総合的な処方箋(エイブラハム) という記事で、

覗き見の人達はみんな、

わざわざ、敢えて、

閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、

言い訳すると書きました。

 

私がツイッターやブログで記事を書く時は、

思い付いたことを言語化して書きます。

その時は閃いたり、降って湧いたり、

降りてきたりします。

それ以外には、経験したことを思い出して、

書く事もありますし、

本を書き写すこともあります。

何かのテーマがある訳ではなくて、

閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、

そういう思い付いたことを、

表現していくというのは、

私だけでなく他の人も同じだと思っていました。

でも敢えて、

閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、

前置きする人というのは、

閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとかではない場合も、

あるということですよね。

 

例えば、誰かの発信を見ながら、

自分っぽい言葉や表現に直すとかだと、

閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとかではないですよね。

だから、これはそうじゃない!と強調したくて、

前置きするんでしょうね。

(実際にはそれもパクりかもしれないけど)

 

「ハトホルの書」(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)から、
下記の様に、エネルギー的なひもで繋がること、
 

人の「光の卵」のような
エネルギー場が互いにつながりあうと、
エネルギーを求める側から
エネルギーを持つ側へと、
いくつもの「ひも」が送られます。

そしてエネルギーが欠乏している側は、
井戸から水を汲み上げるように
エネルギーを自分に引き込みます。

こうしたことは自己の別の意識レベルで
自動的に起こってしまい、
ふつうは無意識のうちに行われます。

これこそ吸血鬼という言葉のもつ
真の象徴的意味にほかなりません。

つまりエネルギーを人に
「吸われてしまう」ことがありうるのです。

 
「新しいレムリア」(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著)からは、
下記の、ヒッチハイカーと呼ばれる存在のこと、
 
多くの場合、このような方法で
低い領域から「ヒッチハイカー」と
呼ばれる存在が乗り移ることができる。

我が友人たちよ、
これはとても頻繁にあることで、
私たちは集まりのあとで
人びとがとても疲労しているのを
絶えず目にする。

その時、彼らは多くの人を
自分のハートのチャクラに
近づけることを許すので、
自分に好ましくないエネルギーが
オーリック・フィールド
(訳注 = 生体の周囲に広がる電磁場)
に飛び移ってきている。
 
をご紹介しました。
私はイメージでエネルギーコードをカットします。
ガイドやミカエルを呼んだり頼んだりしてもいいです。
あとは卵型のオーラで自分を包み込むとか。
 
これは無意識でやってしまうのだけど、
不動明王様の真言をよく唱えています。
寝ている時、夢でも唱えていることがあります。
(悪夢、生霊とかで)
口をついて出る感じです。
観音経といくつかの真言は何も見なくても、
必要な時にすぐ唱えられる状態にしています。
それだけ、色々な事があったので…。
スピリチュアルな学びって、
霊的なものごとも色々起きてきますので、
呑気に楽しい事だけ、キラキラフワフワとやるのは、
命に関わることもあります。
(やらない方がいいかと)
 
例えば、共依存関係とかだと、
エネルギーコードが繋がった状態になります。
生霊が飛んでくるというのも、繋がった状態です。
こういう場合、同じことを考えていたとか、
同じものを買ったとか、
同じところに行ったと言う様な、
行動がシンクロしだすことがあります。
どっちかがどっちかを操っている様な状態なんだけど、
危機感を持たない人は、
気が合うねーと喜びますよね。
 
逆に、もし、どっちかが嫌いだと、
ストーカーの様に感じます。
 
私の経験では、母の執着がすごくて、
離れたいなと思うと、
子どもが病気になったり、
トラブルが起きたりで、
結果的に母に頼る(子どもを預けるとか)ことになる、
というパターンを何度も繰り返しました。
離れようとすると、離れられない様な現象が起きる感じです。
 
生霊が憑いているんだと気付いたのは、
いくつかの怖い偶然が重なったからです。
例えば、
子どもたちを連れて一之宮を参拝しようとした時に、
ばったり母に会ったことが何度かあります。
その度に一緒に行きたいとか、
何故、神社なんか行くの?やめなさい、と止めたりとか、
物凄く妨害してきました。
(子どもたちも会いたくない、
気が重くなると言い出すほど)
この偶然というか、引き寄せは、
怖いなと感じました。
 
また、お祓いした後、母に電話したら、
ずっと具合が悪かったそうなんだけど、
私たちがお祓いをした時間と同じ頃、
急に具合が良くなったという話をする、
ということもありました。
 
お前かー!みたいな感じで、
その他にも神社に行こうとすると、
急に子どもたちが嫌がって泣き出すとかもありました。
死んだ人より生きた人の方が怖いんだよね。
 
振動の法則について6という記事で、
悪霊とか低級霊は一掃されていると書きました。
 
霊的な領域にあるものが、
物質的な領域に降りて来るというのが順番なので、
霊的な領域では悪性の霊的な存在は一掃されている、
ということです。
だからいずれは、物質的な領域もそうなります。
 
逆に言えば、物質的な領域に善人しかいなくなっても、
霊的な領域に悪霊がうじゃうじゃいたら、
片っ端から邪魔されたり取り憑かれたりで、
善人が善人として生きられないかもしれないですよね。
先に霊的な領域の方が整えられています。
 
今、気を付けることというのは、
マインドコントロールと生霊で、
あとは、悪性のエネルギーが強い人は、
精霊たちや自然霊たちに揶揄われることがある、
という風に書きました。
揶揄われるというのは、聖地に行って、
能力者ぶったり、
面白がって霊的な存在とコミュニケーションを、
取ろうとしたりといったことをするとか、
(色々なパターンがあると思いますけど)
不思議な現象が起きた!と喜んでいたら、
実際は揶揄われていたみたいなことです。
 
「療法の眞義」(M・ドーリル博士著)からは度々下記を、

ご紹介していますが、

 

わたしは、精霊にとりつかれていた
ある婦人を直した。

その精霊どもは、
はじめは彼女の好きなものをもたらし、
彼女の良いことのために力をかしてくれた。

だがしまいには、
完全に彼女を支配下におき、
彼女に何を別のことをさせようとした。

彼女が手紙で、わたしにこんな憑霊状態から
救い出してもらえないかと言って来た。

もう、精霊どもの来るのを
とめられないのだというのである。

初めは、彼女の方がその現象にものすごく
熱中したのであり、
今は逆に取りつかれてしまっている
というのが手紙を見てのわたしの判断であった。

わたしはその女に会ったことがなかったので
どんな女性か知らなかった。

何が彼女に入り込んでいるのか分らなかった。

しかし、わたしは、その様な精霊どもの従う
原理原則を知っていた。

彼らはまず、本人から信用を得る。

それから取りつく。

それからその本人の意志を
自分らの自由にするというのが常道である。

このようなことは、
神秘学徒にとって適当な指導者がいない場合は、
非常に危険なことであることは、
あなたも知っているはずである。

その様な精霊やネガテブ(悪霊)の取りつく場合は、
まず、人間の信用を得てかかるのである。

 
 
素人が率先して霊的な存在と関わろうとするとか、
霊的な能力を開発しようとするのは、
危険だからやめた方がいいみたいなことは、
なんとなく分かると思います。
コックリさんとか、やらない方がいい!とか、
言いますよね。
それなりの理由があります。
 
もし何かしら、不安になるような、
現象を体験してしまった場合、
おかしな霊能者を頼って、
お祓いをしてもらうとかはやめた方がいいです。
 
神社や寺院(大きい綺麗なところ)や聖地に行ったり、
マントラを唱えることで、
自分の意識と周波数を上げて、存在領域を移行させます。
そうすれば、干渉されることはなくなります。
これも引き寄せの法則で考えると分かると思います。
 
こういったことも、その人の成長の度合いに応じて、
それぞれの霊的なガイドがサポートしていますので、
他者を頼る事のない様にして下さい。
(むしろそういう為に存在しています)
 
霊的なガイド達というのは、
小学校の様に一人のガイドが沢山の分野を担当する訳ではなく、
中学校の様に、
それぞれの分野ごとに担当のガイドがいる様な感じで、
例えば、生霊だったら、生霊担当のガイドが、
サポートしてくれます。
 
ちなみに、エネルギーコードが繋がっているということは、
こちらからあなたのことも探せるということで、
ガイド達があなたを見つけることが出来ますよね。
 
自分が成長していく中で、
霊的な存在達の仕事を手伝う様な形になれば、
それを行なう為にあなたのことも守りますねと、
どんどんサポートしてくれるガイドが増えていきます。
 
なんちゃらの神がついています!みたいな人がいますけど、
そういった神という存在は、
同時に複数の場所に存在出来ますので、
私にもあなたにもついている可能性がありますよね。
逆についている神様って、
その方一柱だけですか?みたいに感じることもあります。
その方の担当分野から言うと、
あなたの商売をサポートしているとは思えないんだけど…、
みたいなこととかありますので、

見えないからといって好き勝手なことを言って、

風呂敷を広げない方がいいと思います。
 
 
 

自分自身にネガティブな気持ちは一切ない、

自分が次の段階に進む為に必要な一歩を踏み出す為には、

相手に指摘するのが、必要な行為だと思えるのなら、

挑戦しましょうと書きました。

 

これはもっと罠に陥ってしまう可能性もあるので、

とても危険な行為でもあるのです。

十分気を付けて下さい。

 

 

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記の様な場面があります。

 

「ペドゥリート、じつは、ちょっときみを
からかってみたんだよ。
ハートはいつもあそこにちゃんとあるんだけど、
きみをちょっと催眠状態にして、
見えないようにしたんだよ」

「でも、どうやって?
ぼくはきみの催眠の指令の声を
なにも聞いていないよ」


「テレパシーでやったんだよ」

「遠隔催眠よ!」
とビンカが感嘆してさけんだ。

「そりゃ、きっとすごいことだ」
とぼくは言った。

もし、そんなことがぼくにできるなら……
といろいろな可能性を想像してみた。
たとえば、
おもちゃ屋のおじさんに、ぼくの好きなおもちゃを
ぜんぶプレゼントさせるようにするとか、
試験でまったく白紙の答案用紙を出して
先生に満点をもらうとか、

それから……。

「もし、だれにでもこの能力を
あたえたとしたら、どんなインチキをやらかすかわからない。
だから悪用するひとの手のとどかないところにあるんだ。
宇宙の基本法が、この能力を統制しているんだよ」

ぼくにはこの能力をそなえる資格があると思った。
「ぼく、その宇宙の基本法がなんなのかを知っているよ。
愛なんだ……」

「知っているだけでじゅうぶんだと思う?」

「なにが不足しているの?」

「それを実践することだよ」

「ああ、そのとおりだね。
だから、ぼくはいつもそれを実践しているんだ」
とそのとき、
ぼくは心の底からそう思って言った。

 

「自分の気まぐれを満足させるために、
おもちゃ屋さんを破産させることが愛なの?
ペドゥリート。
ひとの意思に反したことを強制することや、
ひとをだましたり、ペテンにかけたりすることが
愛なの?」


ぼくの頭の中で、自分でも気がつかないほど
すばやくかけめぐったいっしゅんの想像を、
アミはキャッチしていた。

有頂天になっていたぼくには、
アミの言葉が、バケツで冷水を頭から
浴びせられたように痛かった。

彼のきつい言葉の前に、ぼくは立っていることもできず、
イスにガックリとすわりこんだ。

まるでからだをまっぷたつに
わられてしまったような気がした。

全身から力がぬけ、
その上、ビンカにぼくのはしたない
考えを知られ、叱責されたところを
見られてしまった……。

アミはやさしい声でぼくを元気づけるように言った。
「心配しないでいいよ。
彼女はいま、軽い催眠状態にある。
だからいまのことはなにも聞こえていないよ」

そう言われてぼくは少し安心した。
しかし、まだ動くことも
話すこともできなかった。

ぼくは、いつも自分じしんを
模範生のように考えていた。

でもちょくちょくやましいたくらみを
想像しているのを、はっきりとアミに
指摘されてしまった。

どうしてかわからないけど、
少しずつアミに対して怒りのような気持ちを
感じはじめていた。
その怒りは、さきほどの言葉で
すっかりうちのめされていたぼくを
元気づけるものだった。

「これは、ぼくの仕事の
もっともつらい側面なんだ。
だれだって自分でも気がつかなかった欠点を
ひとに指摘されるのは、いい気持ちがしない。
でも、だれかがそれをしなかったら、
本人はけっしてそれに気がつかないし、
まして克服することなどできやしない。
でも、それを指摘するには
ちゃんとした言い方をわきまえていないといけないし、
少しずつやっていなかいとね……」

 

アミの一つひとつの言葉が、
ぼくに対する非難であり攻撃であるかのように感じ、
ぼくの怒りはますます大きくなっていった。

いったい、彼はなにさまだって言うんだ。

だかがぼくのちょっとした
じょうだん半分の空想を、こうも真正面からとらえて、
ざんこくに批判したりして……。
もしその遠隔催眠を使えたとしても、
けっして悪用なんかしない……。

そうだ、ぼくはいままでいちども
悪い子でいたことなんかない。

悪い子どころか、むしろ正反対じゃないか……!

そう考えているうちに元気を取りもどしてきた。

 

「エゴが元気づいてきた?」
アミがいつものように笑って聞いた。

その笑いは、ぼくにはざんこくで
冷ややかなせせら笑いのように感じた。

「まだそうやってぼくを攻撃しつづけるつもり?」
ぼくの声は挑戦的だった。

もう帰りたくなった。
ビクトルのいるテントに。
もうこれ以上、こんなことにかかわるのはうんざりだった。

ぼくは立ちあがった。
もうへこたれちゃいなかった。
また、自分じしんをとってもいい子だと
思いはじめていた。

ただアミが、これいといった理由もなく
ぼくのことを悪く言っているんだ……。

ぼくは彼を冷たいまなざしで見て言った。

「やい、いい子ぶった宇宙人。
愛を語り、大げさに愛を吹聴するけど、
じっさいにやることといったら、
ひとの小さな欠点をあげつらって
非難することだけじゃないか。
きみに愛なんかちっともありはしない。
ガティカ神父と同じだ。
”説教はするけど自分ではなにも実行しない”。
きみのようなはじしらずなひとになにもいいことなんか
できるはずがない。
だからぼく、もう帰るよ。帰るったら!」

アミは、ぼくのこうふんした
ののしりの言葉をとても冷静に聞いていたが、
その視線にはなんだか悲しげなかげが感じられた。

「ペドゥリート、心が痛むのはよくわかるよ。
でも、これもすべてきみのことを思ってのことなんだよ。
ごめんね」

 

私が繰り返し、パクリが―とか書くと、
おかしな人に直接指摘してあげるのがいいことだと、
思い込む人もいるかもしれません。
 
正義の為には必要な行為であって、

自分にはその資格があって、

正しいことをしているのだ。

そんな自分に反論する人は何も分かっていないのだ。

お前の姿をよく見ろよ!

私はお前の為を思って言ってあげているんだ!

みたいな気持ちになったとしたら、

ちょっと立ち止まって下さい。

 

スピリチュアル・エゴについて3でご紹介しました、

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)にある下記の箇所、

 

「ペドゥリート、愛はだれもけいべつなんかしないよ。
たとえ精神的な虚栄心をもっているひとでもね。
愛は理解力があるんだ。
奉仕することにつとめ、
他人を非難しないようにすることだよ。
ちょうど父親が子どもの小さな欠点を
非難しないのとおなじようにね。
精神的な虚栄心は”七〇〇度”の段階にたどりつくための、
ひとつの段階にすぎない。
それにきみのなにが、
他人の精神的エゴを批判していると思うの?
それこそまさにきみの精神的エゴじゃないのかい?
もし他人の非難すべき欠点を、
克服できる欠点と見ることができるとき、
きみはもうきれいな身になっているよ。
だれかに対して非難するようなものをもっているかぎり、
まだまだきれいじゃないんだよ」

 

父親が子どもの小さな欠点を非難しないのと同じような気持ち、

誰のことも軽蔑などせず、

自分もそうだった様に相手もまた知らないだけであって、

いつかは気付いて克服出来るのだと思えていますか?

また、反論された時に、

こんな憎まれ役をわざわざやってあげたのに、

という様な不満や自己憐憫に陥ったりしてませんか?

 

誰かに指摘すると同時に、自分を客観的に観察し、

常に内観し続ける必要があります。

指摘するのに気分が良くなったりしていないか?

馬鹿にするような気持ちになっていないか?

隅々まで見張ります。

 

これは自分の傲慢さを克服する段階で、

本当にそれを理解しているのか?

身に付いたのか?というスピリチュアル・テストの様なものです。

誰かに指摘する時に、

いい気分にならないか?馬鹿にしないか?

よく自分を観察する必要があります。

克服しきれていないと、
指摘している自分に酔っぱらって、
気分よくなりますので、注意が必要です。
 
”エゴの一枝はもう折られている”とありますが、

この一枝を思いっきりぽっきりと、

誰かが折らなきゃいけないことがあります。

 
 
昔、あるブログ記事を書いている人、
仮にAさんとBさんとします、がいました。
二人は、異性で、いつも似たような内容の記事を、
同じ様な時期に更新していました。
 
私もそうでしたが、
その記事を読むスピリチュアル好きな人たちは、
二人は霊的にも現実的にも知り合いで、
運命の二人的なツインなんちゃらの関係で、
片方は男性性意識、片方は女性性意識で、
同じことを発信しているのだと信じていました。
ネットとかでAさんを紹介する時は、
セットでBさんも紹介するという人も多かったのね。
 
私は重要な内容だと思っていたので、
二人のブログ記事を順番に読んだり、
キーワード毎に、記事を抜き出して、
ノートにまとめたりしていました。
 
AさんとBさんの情報源は同じで、
同じことを言っていると思い込んでいたので、
二人の記事をごちゃまぜにしてまとめていたのだけど、
段々、違和感を感じたり、
矛盾や整合性が取れない点、
辻褄が合わないところが出てきました。
 
Aさんの記事をBさんが追っかけている、
真似しているだけで、
本質的なことは全く逆の方向を向いている、
みたいな印象を持ったんだよね。
 
例えば、ある政治家について、
Aさんの古い記事では、擁護しているのに、
Bさんの記事では、反対していて、
支配者側の手先みたいに書いたのね。
Bさんは、Aさんの古い記事までは目を通していないから、
知らないこともあり、
Bさんの自分独自の解釈で書いた内容は、
結果的にAさんとは正反対になるのかな?と感じました。
それを裏付ける様に、
Bさんが先に書いたテーマは、
後日、Aさんが全く逆の解釈で説明する、
ということもよくありました。
 
こういったことから、
Aさんの追っかけというか、
ファンのBさんが、
Aさんの内容を思い出させる様な、
言葉や表現を使ったり、
パクった内容をBさん風味に味付けしたり、
ということを行なっているのではないか?
と考えました。
 
よく知らない人から見ると、
二人は知り合いに見える様に、
Bさんが装っているのね。
同じ仲間の様に見える。
ある人気の男神と女神の生まれ変わりだ!と、
思い込んでいる人までいました。
 
私は、こうやって騙されている人がいるのはおかしいと思うし、
自分はノートに書き出して、比べて、
Bさんは私たちが考えている様な、
貴重な情報を発信してくれる人ではないと分かったので、
そういったことをブログに書いたのだけど、
これもまた逆恨みされました。

Bさんの熱狂的なファンが多くてね。

 

最終的にAさんが、

必要なことだからといって、

Bさんのことを記事に書いていました。

自分とは全く無関係で、知らない人で、

生霊を飛ばしてくるし、
ネットストーカー化していて、
好意的に読んでいる読者というよりは、
妄信、盲信している状態だと。
パクり、真似をやめて、
あなた独自のオリジナルの道を進む様に伝えていました。
その人のエネルギー自体も、善いものではなく、
本人がなんちゃらの神だとか、宇宙人だとか、
仲間と繋がっているというのも、
全くの嘘で、繋がれていませんと。
Aさんは八方美人になるつもりもないし、
誰かに好かれたいとかもないし、
でも、自分に関わることだから、
自分の責任としてはっきりさせますと。
そして、そういう指摘をされて、
自分がどんな感情を持つかという部分で、
盲信なのか?、盲信ではないのか?
分かるでしょうと。
もし、逆ギレや逆恨みをするようであれば、
盲信の疑いが強いということでした。
 
私はその記事が更新された直後に、
すぐ読んで、もの凄く衝撃を受けました。
様々な感情が湧きました。
(当時は説明がつかなかった思いもあり)
 
自分が指摘していたことは、
やっぱり正しかったのだという嬉しさ。

私の記事に気付いたBさんや、

Bさんの信者の逆恨み、生霊に辟易していたし、
昔の様に徒党を組まず一人で書いていたから、
孤軍奮闘なのが辛いことがあったり、
善かれと思ってやっているのに、
闇の手先と罵られたりとかで、
滅入っていたので、報われた感じ。
 
でも、私の中ではBさんは完全に悪になっていたので、
どうしてAさんは、
そこまでしてあんな詐欺みたいなことをするBさんを、
救おうとするのか?という様な憤り。
 
記事の内容は、本人にとっては厳しいので、
(名指しで好きな人に否定された訳で)
ショックだろうなとか思ったけれども、
私から見たらAさんはBさんがこれ以上、
道を踏み外さない様に、
信者たちが道連れにならない様に、
気に掛けて書いたのだなと思いました。
それが悔しくて、泣きました。
 
そういう自分にまたショックで。
普段、自他の区別をしない、
自分と同じ様に、他人を大事に!とか、
言っている癖に、
悪いことをした人は罰せられるべきだ、
地獄に堕ちろとか思っているのね。
そういう自分の気持ちに気付いて、愕然とした。
綺麗ごとばっかりだな、私と。
結局、Bさんはブログを削除していて、
その後どうなったのかは分かりません。
 
信者の中には、私たちを目覚めさせる為に、
わざとやったことで、Bさんが敢えて悪役を演じた、
裏では二人は仲良くしていて、
結ばれたのだという様なストーリーを作って、
広めている人もいました。
 
Aさんがはっきりと指摘することで、
鵜呑みにするのはやめようと反省した人、
Aさんの方が間違いだ!そんなの嘘だ!と怒る人、
Bさんが可哀想と同情する人、
(結構沢山いてびっくりした)
様々だと思います、鏡なので。
 
私もすごく考えさせられて、
特に、見て見ぬ振りをして、
優しく許してあげるのが、
スピリチュアル的には正しい在り方なのでは?
といった気持ちもあったので、
やっぱりそうではなく、
「秘教真義」(M・ドーリル博士著) には、
 
感情に使われ、ふり回されるのではなく、
感情を善用しなければならない。

そのためには正義が一つの方針となる。

感情的にどうあろうと正しきを
行なわなければならない。

そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす
善因を積んだことになるのである
 
という教えがあるのだけれども、
必要があれば、キツく、厳しいことも、
言わなければならないことがあるということですよね。
 
繰り返しパクリについて書いていますけれども、
これもまた、私にとっての必要な学びです。
パクる人の中には、
何年も張り付いて、(私が場所を変えても追ってくる)
ネタを拾うのが癖になっている人もいます。
 
ある統合失調症の人に、
俺とお前は同じであって、
だから、お前が考えていることは、
俺のもので、
宇宙に著作権なんて存在しないし、
パクっている訳ではないんだ!と言う人がいました。
ワンネスの大間違いみたいな…。
非二元界隈の人にも多いのだけど、
自他の境界線が分からないというのは、
自分にも経験がありますが、
どっちかというと、
メンヘラ的な要素が高めの感覚です。
 
例えば、比較や何かを解釈したり、
思考することをしない様にしよう、しようと思う事で、
比較や解釈、思考を否定してしまって、

何がしたいんだか軸が定まらず、

それを自由だ、あるがままだと言い出して、
真ん中―ブラブラーといった状態になる、
という風に迷走しているパターンもあります。
 

どこにでも働いている法則や真理という絶対的なものがあり、

それに対して、どういう方向に向かうのか、

という選択があり、

それを規準にすると、

自ずとどうしたらよいのか、見えてきます。

 

よく聞く引き寄せだとワクワクする方を選択する、

となりますけど、

実際は肯定するのか、否定するのか、といったことで、

法則や真理に従うのか、背くのかということでもあります。

 

感情的にどうあろうと正しきを
行なわなければならない。

そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす
善因を積んだことになるのである

 

 
という箇所をご紹介しましたけれども、
あれこれ他人について言いたい訳ではないけれども、
目に余る人たちに対しては、
見て見ぬ振りは出来ないというのが、
私にとっての”正しき”になります。
パクったりネタに乗っかたりというのは、
悪因を積むことになりますので、
指摘しています。
 
ツイッターでは、
私のツイートをパクったり乗っかったりする人が、
私の仲間、もしくは同じ情報源の人と思われて、
並べてRTされることもありました。
仲間と思われるのが心外でした。
 
私は単独でブログ記事を書いており、
ガイドと自分の学びの為に行なっていることです。
誰かと内容がかぶる、似たようなことを発信している、
そういう偶然が重なる場合、
絶対にあり得ないことなので、疑って下さい。
人の学びというのはそれぞれ違いますし、
その時々でテーマも変わりますので、
毎回毎回シンクロするとかないですよ。
 
あなたが追いかけているスピリチュアルリーダーは、
もう引き返せないかもしれないけれども、
あなたには、ガイドたちが沢山のサインを出しているのだから、
鵜呑みにせずに検証して下さい。
ネットで拡散したら、それなりに責任が生じますよ。