引き寄せを続けて書いていますが、
今日は、本を書き写す時間がないので、
思ったことだけ書きますね。
すごく驚いたんだけど、
引き寄せのお守りとか売っている人がいるんだね?
お守りって…。
どういうつもりなのか。
それを買った人が、引き寄せに効くと信じることで、
プラシーボ効果みたいなことは起こるよね、きっと。
本人の思考によるものだから、
お守りが引き起こす訳ではないよね?
よく、ブレスレッドとかにエネルギーを込めました、
という形で売る人もいますけど、
そういうのは大抵、
悪質なおかしなエネルギーが入っているので、
購入しない方がいいそうです。
天然石とか購入した時なんか、浄化しますよね?
人々の思念とか、エネルギーを、
石が吸い取ったりするからじゃなかったっけ?
誰かのものが入っているものをつけたいですか?
私はちょっと気持ち悪く感じます。
誰かの手作りアクセサリーが素敵だなと思って、
(その人のセンスが気に入って)
購入する場合ではなくて、
エネルギー入りが欲しいという場合のことです。
上記の引き寄せのお守りだというあるアイテムも、
そのアイテム自体に好感を持つなら、
購入したらいいけど、
引き寄せのお守りという視点で欲しいなら、
疑問に感じます。
もしエネルギーを入れてお守りの様にしたいなら、
氏神様や一之宮へ参拝して、拝殿なんかで、
これをお守りにしたいので、エネルギーを入れて下さいと、
御祭神にお願いすれば入れてくれるそうです。
勿論、目に見えませんけれども、
自分で手作りして参拝するといいと思います。
昔はよくやっていました。
おかしな人から購入するより、
簡単なので自分で創って、
自分でエネルギーを入れるのを、
オススメします。
総合的な処方箋(エイブラハム) という記事で、
覗き見の人達はみんな、
わざわざ、敢えて、
閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、
言い訳すると書きました。
私がツイッターやブログで記事を書く時は、
思い付いたことを言語化して書きます。
その時は閃いたり、降って湧いたり、
降りてきたりします。
それ以外には、経験したことを思い出して、
書く事もありますし、
本を書き写すこともあります。
何かのテーマがある訳ではなくて、
閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、
そういう思い付いたことを、
表現していくというのは、
私だけでなく他の人も同じだと思っていました。
でも敢えて、
閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとか、
閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとかではない場合も、
あるということですよね。
例えば、誰かの発信を見ながら、
自分っぽい言葉や表現に直すとかだと、
閃いたとか、降りて来たとか、湧いたとかではないですよね。
だから、これはそうじゃない!と強調したくて、
前置きするんでしょうね。
(実際にはそれもパクりかもしれないけど)
「ハトホルの書」(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)から、
人の「光の卵」のような
エネルギー場が互いにつながりあうと、
エネルギーを求める側から
エネルギーを持つ側へと、
いくつもの「ひも」が送られます。
そしてエネルギーが欠乏している側は、
井戸から水を汲み上げるように
エネルギーを自分に引き込みます。
こうしたことは自己の別の意識レベルで
自動的に起こってしまい、
ふつうは無意識のうちに行われます。
これこそ吸血鬼という言葉のもつ
真の象徴的意味にほかなりません。
つまりエネルギーを人に
「吸われてしまう」ことがありうるのです。
多くの場合、このような方法で
低い領域から「ヒッチハイカー」と
呼ばれる存在が乗り移ることができる。
我が友人たちよ、
これはとても頻繁にあることで、
私たちは集まりのあとで
人びとがとても疲労しているのを
絶えず目にする。
その時、彼らは多くの人を
自分のハートのチャクラに
近づけることを許すので、
自分に好ましくないエネルギーが
オーリック・フィールド
(訳注 = 生体の周囲に広がる電磁場)
に飛び移ってきている。
ご紹介していますが、
わたしは、精霊にとりつかれていた
ある婦人を直した。
その精霊どもは、
はじめは彼女の好きなものをもたらし、
彼女の良いことのために力をかしてくれた。
だがしまいには、
完全に彼女を支配下におき、
彼女に何を別のことをさせようとした。
彼女が手紙で、わたしにこんな憑霊状態から
救い出してもらえないかと言って来た。
もう、精霊どもの来るのを
とめられないのだというのである。
初めは、彼女の方がその現象にものすごく
熱中したのであり、
今は逆に取りつかれてしまっている
というのが手紙を見てのわたしの判断であった。
わたしはその女に会ったことがなかったので
どんな女性か知らなかった。
何が彼女に入り込んでいるのか分らなかった。
しかし、わたしは、その様な精霊どもの従う
原理原則を知っていた。
彼らはまず、本人から信用を得る。
それから取りつく。
それからその本人の意志を
自分らの自由にするというのが常道である。
このようなことは、
神秘学徒にとって適当な指導者がいない場合は、
非常に危険なことであることは、
あなたも知っているはずである。
その様な精霊やネガテブ(悪霊)の取りつく場合は、
まず、人間の信用を得てかかるのである。
見えないからといって好き勝手なことを言って、
自分自身にネガティブな気持ちは一切ない、
自分が次の段階に進む為に必要な一歩を踏み出す為には、
相手に指摘するのが、必要な行為だと思えるのなら、
挑戦しましょうと書きました。
これはもっと罠に陥ってしまう可能性もあるので、
とても危険な行為でもあるのです。
十分気を付けて下さい。
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記の様な場面があります。
「ペドゥリート、じつは、ちょっときみを
からかってみたんだよ。
ハートはいつもあそこにちゃんとあるんだけど、
きみをちょっと催眠状態にして、
見えないようにしたんだよ」
「でも、どうやって?
ぼくはきみの催眠の指令の声を
なにも聞いていないよ」
「テレパシーでやったんだよ」
「遠隔催眠よ!」
とビンカが感嘆してさけんだ。
「そりゃ、きっとすごいことだ」
とぼくは言った。
もし、そんなことがぼくにできるなら……
といろいろな可能性を想像してみた。
たとえば、
おもちゃ屋のおじさんに、ぼくの好きなおもちゃを
ぜんぶプレゼントさせるようにするとか、
試験でまったく白紙の答案用紙を出して
先生に満点をもらうとか、
それから……。
「もし、だれにでもこの能力を
あたえたとしたら、どんなインチキをやらかすかわからない。
だから悪用するひとの手のとどかないところにあるんだ。
宇宙の基本法が、この能力を統制しているんだよ」
ぼくにはこの能力をそなえる資格があると思った。
「ぼく、その宇宙の基本法がなんなのかを知っているよ。
愛なんだ……」
「知っているだけでじゅうぶんだと思う?」
「なにが不足しているの?」
「それを実践することだよ」
「ああ、そのとおりだね。
だから、ぼくはいつもそれを実践しているんだ」
とそのとき、
ぼくは心の底からそう思って言った。
「自分の気まぐれを満足させるために、
おもちゃ屋さんを破産させることが愛なの?
ペドゥリート。
ひとの意思に反したことを強制することや、
ひとをだましたり、ペテンにかけたりすることが
愛なの?」
ぼくの頭の中で、自分でも気がつかないほど
すばやくかけめぐったいっしゅんの想像を、
アミはキャッチしていた。
有頂天になっていたぼくには、
アミの言葉が、バケツで冷水を頭から
浴びせられたように痛かった。
彼のきつい言葉の前に、ぼくは立っていることもできず、
イスにガックリとすわりこんだ。
まるでからだをまっぷたつに
わられてしまったような気がした。
全身から力がぬけ、
その上、ビンカにぼくのはしたない
考えを知られ、叱責されたところを
見られてしまった……。
アミはやさしい声でぼくを元気づけるように言った。
「心配しないでいいよ。
彼女はいま、軽い催眠状態にある。
だからいまのことはなにも聞こえていないよ」
そう言われてぼくは少し安心した。
しかし、まだ動くことも
話すこともできなかった。ぼくは、いつも自分じしんを
模範生のように考えていた。
でもちょくちょくやましいたくらみを
想像しているのを、はっきりとアミに
指摘されてしまった。
どうしてかわからないけど、
少しずつアミに対して怒りのような気持ちを
感じはじめていた。
その怒りは、さきほどの言葉で
すっかりうちのめされていたぼくを
元気づけるものだった。
「これは、ぼくの仕事の
もっともつらい側面なんだ。
だれだって自分でも気がつかなかった欠点を
ひとに指摘されるのは、いい気持ちがしない。
でも、だれかがそれをしなかったら、
本人はけっしてそれに気がつかないし、
まして克服することなどできやしない。
でも、それを指摘するには
ちゃんとした言い方をわきまえていないといけないし、
少しずつやっていなかいとね……」
アミの一つひとつの言葉が、
ぼくに対する非難であり攻撃であるかのように感じ、
ぼくの怒りはますます大きくなっていった。
いったい、彼はなにさまだって言うんだ。
だかがぼくのちょっとした
じょうだん半分の空想を、こうも真正面からとらえて、
ざんこくに批判したりして……。
もしその遠隔催眠を使えたとしても、
けっして悪用なんかしない……。
そうだ、ぼくはいままでいちども
悪い子でいたことなんかない。
悪い子どころか、むしろ正反対じゃないか……!
そう考えているうちに元気を取りもどしてきた。
「エゴが元気づいてきた?」
アミがいつものように笑って聞いた。
その笑いは、ぼくにはざんこくで
冷ややかなせせら笑いのように感じた。
「まだそうやってぼくを攻撃しつづけるつもり?」
ぼくの声は挑戦的だった。
もう帰りたくなった。
ビクトルのいるテントに。
もうこれ以上、こんなことにかかわるのはうんざりだった。
ぼくは立ちあがった。
もうへこたれちゃいなかった。
また、自分じしんをとってもいい子だと
思いはじめていた。
ただアミが、これいといった理由もなく
ぼくのことを悪く言っているんだ……。
ぼくは彼を冷たいまなざしで見て言った。
「やい、いい子ぶった宇宙人。
愛を語り、大げさに愛を吹聴するけど、
じっさいにやることといったら、
ひとの小さな欠点をあげつらって
非難することだけじゃないか。
きみに愛なんかちっともありはしない。
ガティカ神父と同じだ。
”説教はするけど自分ではなにも実行しない”。
きみのようなはじしらずなひとになにもいいことなんか
できるはずがない。
だからぼく、もう帰るよ。帰るったら!」
アミは、ぼくのこうふんした
ののしりの言葉をとても冷静に聞いていたが、
その視線にはなんだか悲しげなかげが感じられた。
「ペドゥリート、心が痛むのはよくわかるよ。
でも、これもすべてきみのことを思ってのことなんだよ。
ごめんね」
私が繰り返し、パクリが―とか書くと、
自分にはその資格があって、
正しいことをしているのだ。
そんな自分に反論する人は何も分かっていないのだ。
お前の姿をよく見ろよ!
私はお前の為を思って言ってあげているんだ!
みたいな気持ちになったとしたら、
ちょっと立ち止まって下さい。
スピリチュアル・エゴについて3でご紹介しました、
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)にある下記の箇所、
「ペドゥリート、愛はだれもけいべつなんかしないよ。
たとえ精神的な虚栄心をもっているひとでもね。
愛は理解力があるんだ。
奉仕することにつとめ、
他人を非難しないようにすることだよ。
ちょうど父親が子どもの小さな欠点を
非難しないのとおなじようにね。
精神的な虚栄心は”七〇〇度”の段階にたどりつくための、
ひとつの段階にすぎない。
それにきみのなにが、
他人の精神的エゴを批判していると思うの?
それこそまさにきみの精神的エゴじゃないのかい?
もし他人の非難すべき欠点を、
克服できる欠点と見ることができるとき、
きみはもうきれいな身になっているよ。
だれかに対して非難するようなものをもっているかぎり、
まだまだきれいじゃないんだよ」
父親が子どもの小さな欠点を非難しないのと同じような気持ち、
誰のことも軽蔑などせず、
自分もそうだった様に相手もまた知らないだけであって、
いつかは気付いて克服出来るのだと思えていますか?
また、反論された時に、
こんな憎まれ役をわざわざやってあげたのに、
という様な不満や自己憐憫に陥ったりしてませんか?
誰かに指摘すると同時に、自分を客観的に観察し、
常に内観し続ける必要があります。
指摘するのに気分が良くなったりしていないか?
馬鹿にするような気持ちになっていないか?
隅々まで見張ります。
これは自分の傲慢さを克服する段階で、
本当にそれを理解しているのか?
身に付いたのか?というスピリチュアル・テストの様なものです。
誰かに指摘する時に、
いい気分にならないか?馬鹿にしないか?
よく自分を観察する必要があります。
克服しきれていないと、この一枝を思いっきりぽっきりと、
誰かが折らなきゃいけないことがあります。
Bさんの熱狂的なファンが多くてね。
最終的にAさんが、
必要なことだからといって、
Bさんのことを記事に書いていました。
自分とは全く無関係で、知らない人で、
盲信の疑いが強いということでした。
私の記事に気付いたBさんや、
感情に使われ、ふり回されるのではなく、
感情を善用しなければならない。
そのためには正義が一つの方針となる。
感情的にどうあろうと正しきを
行なわなければならない。
そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす
善因を積んだことになるのである
何がしたいんだか軸が定まらず、
どこにでも働いている法則や真理という絶対的なものがあり、
それに対して、どういう方向に向かうのか、
という選択があり、
それを規準にすると、
自ずとどうしたらよいのか、見えてきます。
よく聞く引き寄せだとワクワクする方を選択する、
となりますけど、
実際は肯定するのか、否定するのか、といったことで、
法則や真理に従うのか、背くのかということでもあります。
感情的にどうあろうと正しきを
行なわなければならない。
そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす
善因を積んだことになるのである