霊的な学びを進めていくとぶつかる壁、

傲慢さの克服について書いています。

ちょっと思っていたより長く続けていますが…。

大事なところなのでじっくり向き合っていきましょう。

 

スピリチュアル・エゴについて5

スピリチュアル・エゴについて7

 

スピリチュアルな知識を得ると、
他の人より、自分は凄いと優越感を持ったり、自慢したり、
偉いんだ、特別なんだ、という傲慢さが表れてきます。
 
この傲慢さを克服していない状態は、
誰かを攻撃したり、批判したり、
自分を特別な存在として正当化させるために、
馬鹿にしたり、揚げ足を取ったりします。
 
スピ界隈だけでなくて、カルト的なものも、
何かの趣味でも、自分達は知っているという立ち位置にあって、
知らない人を馬鹿にするというのは、
あちこちでよく見られると思います。
排他的なグループ行動みたいな感じです。
 
私自身もやったし、やられてきました。
 

どの界隈のことを書いているのかな?と分かる様な、

特定のグループを想像出来る様な内容を書きました。

 

数年前は、この一部のグループの情報を盛んに広めて、

宣伝していた人が、

今は、批判している場合もよくあります。

注意喚起はよいと思います。

直接本人達の肩を揺さぶって言い聞かせる訳ではなく、

自分のブログなりツイッターなりで、

意見を発信するのは自由ですよね。

 

でも、かつての自分も、同じ様なことをしていたのなら、

馬鹿になんか出来ないでしょう?

騙される人の気持ちも分かりますよね?

何でまぁ、シレっと自分は一切、

騙されたことなんてありませんみたいな顔して、

偉そうに上から目線で意見が言えるのかな?

みたいな人も多いです。

 

何の為の経験だったのでしょうね?

自分がやらかしたからこそ、

同じ様に騙されている人たちに対して、

まるで自分を見ている様で、

居ても立ってもいられないから、

つい意見を言ってしまうのだったら、

まだまだ、スピリチュアル・エゴの罠に囚われていますよね。

 

自分のことを棚に上げて、

誰かを上から見下している時、

とても気分はいいでしょう。

 

こちらも、

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)で
何度かご紹介しています下記の箇所と同じで、
多くのひとが自分じしんのことを
すばらしいひとだと思いこんでいるんだよ。
自分のもっているいくつかの欠点を、
まったく直視することができないでいる。
その欠点は、ときにはとても重症だ。
 
まったく直視することができないでいる訳です。
 
でも自分では気がつかないその欠点を、
まさに他人の中にみいだすと、そのひとを
ひと一倍はげしく非難するということがいつも
起るんだよ。
 
とありますが、

自分のことを棚に上げているから、

誰かを上から見下している時、

いい気分ですよね?

 
この様なスピリチュアルリーダー気取りの人も、
ちょいちょいいますけど、
この人達の太鼓持ちさんは、
リーダー達の過去を恐らく御存知ないので、
持ち上げてますけど、よくよく調べてみるのをおススメしますよ。
 
その上で、共鳴するならそのまま行けばいいですけどね。
 
私は、誰でも迷ったり間違ったりすると思うんですよ。
その間違いを認めて、修正したり、反省したり、謝ったりして、
自分と同じ様に他の人だってそうだよなと、
思いやりを持つことが大事だと思います。
 
一方的に偉そうに見下している人は、
本当にそんなことを言えるほど、
ご立派な方なのでしょうかね?
 
ちなみに、こうやって書いているのは、
嫌味でもあります。
スピリチュアルリーダー気取りの方々は、
ネタ切れを起こしていますので、
こちらも読みに来て下さっていますよね?
楽にネタを拾えるなんて思わないで下さい。
私は鏡を置きますよ。
 
 
下記の箇所も「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)で
ご紹介した部分です。
 
そしてとつぜんひとからその欠点を
指摘されようものなら、
死ぬほどひどいショックを受けるんだ。

 

他人のことほど、よく見える(鏡)なので、

見下している人を指摘したくなることもあるでしょう。

 

「われわれを愛からひきはなしている、
エゴという自分の中のみにくい部分には、
それを支えてしばりつけている
根があるんだ」

「その根って?」

「いちばん大きな本質的な欠点だよ。
われわれにはいくつもの欠点があるけれど、
その中でもいちばん重要なやつだ。
それががっちりとエゴを支えているんだ。
ちょうど土にうまって外からは見えない木の根のように、
自分で見つけるのはたやすいことじゃない。
他人のほうがずっと見つけやすい。
でも他人からそれを知らされると、
自分を美しいと思いこんでいた”みにくい、幸せ者の小さなひと”
とおなじように、
われわれのかわいそうなエゴはその支えを失って、
われわれは死ぬほどショックを受けるよ……」

 

他人の立場で、誰かの欠点を指摘する、

そういう場面もあるかと思います。

その時は、相手に対して偏った投影をしていない場合、

内観をしてネガティブな面をひっくり返して、

バランスが取れている場合ならやってみてもいいと思います。

 

その時の気持ちとしては、

あんなことしちゃ駄目じゃないか!とか、

お前は見下しているじゃないか!といった、

腹立たしかったり、何とかやり込めてやりたかったり、

とにかくその行為をやめさせたいと思ったり、

どうにかしてあげなきゃと不安になったりはしていません。

 

親の様な気持ち、小さな子どもを見守る様な気持ちで、

どうやったらその人が自分で気付けるだろうか?

何かしらのヒントやきっかけを作れないだろうか?

私に出来ることは何だろうか?

といった気持ちでいます。

 

揺さぶられたり、ネガティブな感情が湧いたりはしません。

 

拘りもなく、もし気付かなかったとしても、

それはそれで仕方ない、

今、自分の目の前にそれがあって、

自分に出来ることがあるなら、

出来る限りのことをしようという気持ちです。

勿論、自己犠牲ではないです。

 

あなた自身にネガティブな気持ちは一切ない、

自分が次の段階に進む為に必要な一歩を踏み出す為には、

相手に指摘するのが、必要な行為だと思えるのなら、

挑戦しましょう。

 

これはもっと罠に陥ってしまう可能性もあるので、

とても危険な行為でもあるのです。

十分気を付けて下さい。

 

 

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記の様な場面があります。

 

「ペドゥリート、じつは、ちょっときみを
からかってみたんだよ。
ハートはいつもあそこにちゃんとあるんだけど、
きみをちょっと催眠状態にして、
見えないようにしたんだよ」

「でも、どうやって?
ぼくはきみの催眠の指令の声を
なにも聞いていないよ」


「テレパシーでやったんだよ」

「遠隔催眠よ!」
とビンカが感嘆してさけんだ。

「そりゃ、きっとすごいことだ」
とぼくは言った。

もし、そんなことがぼくにできるなら……
といろいろな可能性を想像してみた。
たとえば、
おもちゃ屋のおじさんに、ぼくの好きなおもちゃを
ぜんぶプレゼントさせるようにするとか、
試験でまったく白紙の答案用紙を出して
先生に満点をもらうとか、

それから……。

「もし、だれにでもこの能力を
あたえたとしたら、どんなインチキをやらかすかわからない。
だから悪用するひとの手のとどかないところにあるんだ。
宇宙の基本法が、この能力を統制しているんだよ」

ぼくにはこの能力をそなえる資格があると思った。
「ぼく、その宇宙の基本法がなんなのかを知っているよ。
愛なんだ……」

「知っているだけでじゅうぶんだと思う?」

「なにが不足しているの?」

「それを実践することだよ」

「ああ、そのとおりだね。
だから、ぼくはいつもそれを実践しているんだ」
とそのとき、
ぼくは心の底からそう思って言った。

 

「自分の気まぐれを満足させるために、
おもちゃ屋さんを破産させることが愛なの?
ペドゥリート。
ひとの意思に反したことを強制することや、
ひとをだましたり、ペテンにかけたりすることが
愛なの?」


ぼくの頭の中で、自分でも気がつかないほど
すばやくかけめぐったいっしゅんの想像を、
アミはキャッチしていた。

有頂天になっていたぼくには、
アミの言葉が、バケツで冷水を頭から
浴びせられたように痛かった。

彼のきつい言葉の前に、ぼくは立っていることもできず、
イスにガックリとすわりこんだ。

まるでからだをまっぷたつに
わられてしまったような気がした。

全身から力がぬけ、
その上、ビンカにぼくのはしたない
考えを知られ、叱責されたところを
見られてしまった……。

アミはやさしい声でぼくを元気づけるように言った。
「心配しないでいいよ。
彼女はいま、軽い催眠状態にある。
だからいまのことはなにも聞こえていないよ」

そう言われてぼくは少し安心した。
しかし、まだ動くことも
話すこともできなかった。

ぼくは、いつも自分じしんを
模範生のように考えていた。

でもちょくちょくやましいたくらみを
想像しているのを、はっきりとアミに
指摘されてしまった。

どうしてかわからないけど、
少しずつアミに対して怒りのような気持ちを
感じはじめていた。
その怒りは、さきほどの言葉で
すっかりうちのめされていたぼくを
元気づけるものだった。

「これは、ぼくの仕事の
もっともつらい側面なんだ。
だれだって自分でも気がつかなかった欠点を
ひとに指摘されるのは、いい気持ちがしない。
でも、だれかがそれをしなかったら、
本人はけっしてそれに気がつかないし、
まして克服することなどできやしない。
でも、それを指摘するには
ちゃんとした言い方をわきまえていないといけないし、
少しずつやっていなかいとね……」

 

アミの一つひとつの言葉が、
ぼくに対する非難であり攻撃であるかのように感じ、
ぼくの怒りはますます大きくなっていった。

いったい、彼はなにさまだって言うんだ。

だかがぼくのちょっとした
じょうだん半分の空想を、こうも真正面からとらえて、
ざんこくに批判したりして……。
もしその遠隔催眠を使えたとしても、
けっして悪用なんかしない……。

そうだ、ぼくはいままでいちども
悪い子でいたことなんかない。

悪い子どころか、むしろ正反対じゃないか……!

そう考えているうちに元気を取りもどしてきた。

 

「エゴが元気づいてきた?」
アミがいつものように笑って聞いた。

その笑いは、ぼくにはざんこくで
冷ややかなせせら笑いのように感じた。

「まだそうやってぼくを攻撃しつづけるつもり?」
ぼくの声は挑戦的だった。

もう帰りたくなった。
ビクトルのいるテントに。
もうこれ以上、こんなことにかかわるのはうんざりだった。

ぼくは立ちあがった。
もうへこたれちゃいなかった。
また、自分じしんをとってもいい子だと
思いはじめていた。

ただアミが、これいといった理由もなく
ぼくのことを悪く言っているんだ……。

ぼくは彼を冷たいまなざしで見て言った。

「やい、いい子ぶった宇宙人。
愛を語り、大げさに愛を吹聴するけど、
じっさいにやることといったら、
ひとの小さな欠点をあげつらって
非難することだけじゃないか。
きみに愛なんかちっともありはしない。
ガティカ神父と同じだ。
”説教はするけど自分ではなにも実行しない”。
きみのようなはじしらずなひとになにもいいことなんか
できるはずがない。
だからぼく、もう帰るよ。帰るったら!」

アミは、ぼくのこうふんした
ののしりの言葉をとても冷静に聞いていたが、
その視線にはなんだか悲しげなかげが感じられた。

「ペドゥリート、心が痛むのはよくわかるよ。
でも、これもすべてきみのことを思ってのことなんだよ。
ごめんね」

 

スピリチュアル・エゴをテーマにして書き出したら、

ここを読んで張り切って、批判や攻撃を始めた人もいるでしょう。

正義の為には必要な行為であって、

自分にはその資格があって、

正しいことをしているのだ。

そんな自分に反論する人は何も分かっていないのだ。

お前の姿をよく見ろよ!

私はお前の為を思って言ってあげているんだ!

みたいな気持ちになったとしたら、

ちょっと立ち止まって下さい。

 

スピリチュアル・エゴについて3でご紹介しました、

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)にある下記の箇所、

 

「ペドゥリート、愛はだれもけいべつなんかしないよ。
たとえ精神的な虚栄心をもっているひとでもね。
愛は理解力があるんだ。
奉仕することにつとめ、
他人を非難しないようにすることだよ。
ちょうど父親が子どもの小さな欠点を
非難しないのとおなじようにね。
精神的な虚栄心は”七〇〇度”の段階にたどりつくための、
ひとつの段階にすぎない。
それにきみのなにが、
他人の精神的エゴを批判していると思うの?
それこそまさにきみの精神的エゴじゃないのかい?
もし他人の非難すべき欠点を、
克服できる欠点と見ることができるとき、
きみはもうきれいな身になっているよ。
だれかに対して非難するようなものをもっているかぎり、
まだまだきれいじゃないんだよ」

 

父親が子どもの小さな欠点を非難しないのと同じような気持ち、

誰のことも軽蔑などせず、

自分もそうだった様に相手もまた知らないだけであって、

いつかは気付いて克服出来るのだと思えていますか?

また、反論された時に、

こんな憎まれ役をわざわざやってあげたのに、

という様な不満や自己憐憫に陥ったりしてませんか?

 

誰かに指摘すると同時に、自分を客観的に観察し、

常に内観し続ける必要があります。

指摘するのに気分が良くなったりしていないか?

馬鹿にするような気持ちになっていないか?

隅々まで見張ります。

 

これは自分の傲慢さを克服する段階で、

本当にそれを理解しているのか?

身に付いたのか?というスピリチュアル・テストの様なものです。

今度は、自分と同じ様な状況の他人に対して、

どのような行動を取るのか?と自分自身を試すことになります。

この段階も難しいですよ!

克服しきれていないと、気分よくなりますからね。

注意して下さい。

 

これが本当に分かってくると、

慈しみとか憐れみの様な気持ちを持って、

相手に対して行動出来ます。

 

もし、相手が鏡に気付いて、ショックを受けるとします。

すると今度は攻撃される様になるでしょう。

偉そうに!とか、先生ぶって!とか、

今までお伝えしてきたことに対する揚げ足とか、

別の誰かの話を持ってきて、こっちの人の方が凄い!と馬鹿にされたりとか。

今までも散々色々言われてきましたし、

ストーカーされたり逆恨みされたりしました。

それだけ何かしら、相手を揺さぶるものがあったのでしょう。

私的にはそれだけでひとまず成功なのです。

それから先にどう進むかは相手次第です。

付きっきりで面倒を見るつもりもないですし、

そんな義理もないので、

頑張って!としか言えませんけどね。

 

”エゴの一枝はもう折られている”とありますが、

この一枝を思いっきりぽっきりとですね、

折って差し上げる必要があるんですね。

 

私は、子どもたちにもよくやっています。

タイミングと、言葉選びがとても大事なことです。

娘なんかボロボロ泣き出しますね。

でも必要なことです。

言うの方も辛いけど、ここで言わないと、

本人の為にはならないから、

ぐっとこらえて、心を鬼にして言うのです。

 

エゴにしがみついて離れたがらない人は、

絶対に聞く耳を持ちません。

自己愛性パーソナリティ障害なんかの人は、

もう難しいですよ、多分一生出来ないと思います。

支えを失って本当の自分と向き合えるほど、

心が強くないんですね。

妄想の中で生きている方が幸せなのです。

そっとしておきましょう。

もし真実の姿を知ってしまったらもっと狂ってしまいます。

大体、ストーカー化する、逆恨みするのは、このタイプです。

スピ界隈のリーダー的な立場の人に多いので、

やたら噛み付くのはオススメしませんよ。

 

 

「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)の下記の教えをご紹介しましたが、
 
大聖者のことば 八

「うぬぼれやとは争うな。」

別のことばで言えば、
我々は、教えを受けたいと望む人に対して、
その人が望む範囲で、
かつその人が受け入れる能力の
範囲内でしか与えることが出来ないのである。

うぬぼれという垣をすて切るまでは、
その人たちには、何らの言葉も受け入れさすことが
出来ないのである。

そんな人に教えを説こうと努力をすることは、
時間とエネルギーの無駄なのである。

議論することは、
彼らがこちらとの障壁を益々高く強固に
するものである。

だから、もし、
言うことがあれば、簡単明瞭に言って、
それについて論議することを断ればよいのである。

そう言ってからは、議論しては、いけない。

彼らは、自分の好きなことを言うことが
出来るのである。

もし、あなたが真理を話して
議論したなら、その真理は、
彼らの中へ貫入して行くであろう。

そして遂には、その手に武器をもって
反撃してくるのである。

 

武器を持って反撃してきますから!

 

必死で逃げている人の中には、

うっすら気付いて、もう今まで通りの、

いい気分が味わえなくなる場合もあるかもしれません。

そのまま逃げ続けますか?

思い切って向き合いますか?

 

私は偶然なんてこの世には存在しないと知っていますので、

あなたの準備が出来たから、

逃げたくなるような情報が目の前に現れたんだと思います。

せっかくのチャンスじゃないかなと。

死ぬほどショックを受けたとしても、

以外と死なないものなのです。

大丈夫です。

 

 

誰かのエゴを刺激する様な指摘をした時の、

相手の反応としては、

中傷されただの、非難しているだの、

相手は間違っているだの、馬鹿にしているだの、

ものすごく怒る訳です。
 
そんな時の説明が「アミ3度めの約束」(エンリケ・バリオス著)の
下記の場面にあります。
 
「ペドゥリート、進歩してないひとたちや、
閉ざされた心のもち主を前にしても、
変わらずに使命を果たそうとしていくのは、
とってもたいへんなことなんだ。
彼らがもってる恐怖やうたがいや不信に
たえていくのはね。
そういうときのための小さな秘密を教えてあげるよ」

そういうと、アミはぼくの耳もとで、
そっとささやいた。

”いいかい、彼らを子どもとして見ることだよ。
じっさい彼らは、なんにも知らない子どもみたいなものなんだ。
子どもだと思えば、そう憎くもならないだろう?
いまはずっと進歩しているけど、
きみだってちょっと前までは彼らみたいだったんだよ。
でもね、ペドゥリート。
くれぐれもそう考えていることを
さとられないようにしてね。
そうでないと彼らは怒りだすから”

アミの言うとおりだと感じた。

ぼくはあらためて、”子ども”としてゴロを見つめた。

そして彼の燃えさかるひとみを見たとき、
ぼくにははっきりとわかったんだ。

その炎の正体がただ恐怖でしかないってこと。

その根拠のない恐怖の炎こそが、彼をあぶり、
攻撃にかり立てているんだってこと。

そのせいで彼は、人生のもっともすばらしいものを
見失ってしまっているんだってことが…。

ぼくのうらみは、同情とあわれみと理解へと変わっていった。
 
何で私の言う事を分ってくれないの!
何で私の言う通りにしないの!といった気持ちがある時は、
まだ相手のことを子どもの様に思えていません。
それはどうしてでしょうか?
 
おむつした赤ちゃんに、お漏らしするな!と怒るでしょうか?

成長の段階として当たり前のことで、

自分だってかつてはそうでした。
大体赤ちゃんには怒ったところで通じないのです。
 
そんな風に思えますか?
同じ土俵で争う様な気持ちがあるのなら、
まず自分自身の内観をして、
どんな問題を抱えているのか向き合う必要があります。
 
まず最初に、他人に対して言っていたこと、
思っていたことは、自分のことじゃないの?という様に気付いた時、
ものすごいショックがあります。
受け入れられないという気持ちで、逃げ出したくなります。
そのまま逃げる人も沢山いますけど、
プカプカ水に浮かぶのに慣れてきたら、
その内自分で泳ぎたくなりますよね?
救命具を付けたままだと、
早く自由には泳ぐことが出来ないので、
物足りなくなるのです。
もっと先へ、もっと広いところへ行きたい、
もっと知りたい、もっと試したいと思う様になります。
そうしたら救命具は手放さないといけないですよね?
 
一度ショックを受けているので、
次のショックは割と小さくなるものです。
それを繰り返すと耐えられる様になります。
克服しようと向き合う様になるのです。
これは何度も逃げてあきらめて泣いて苦しんで、
それでもやっぱりあきらめたくないと思った時に、
進んでいく道です。
 
簡単に流される様に努力もしないで出来る事を求めているなら、
まだ準備出来ていないので、そのままでよいのです。
救命具をつけて楽しく安全に遊びましょう。
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記のような場面もあります。
 
みんないっせいに笑った、ただぼくひとりをのぞいて……。
みんなはおしゃべりをはじめた。
ぼくはすみのほうへ行って自問した。

どうしてぼくはいつもこう
うまくいかないんだろう……?
いつもこうだ……。

アミはぼくに近づいてきて言った。
「ペドゥリート、いいかい。
きみは、本来のきみの水準以下で
行動しているんだよ」

ぼくはもっとわかりやすく
説明してくれたらいいのに、
といった目つきで彼を見た。

「小さな子どもが食事のときに
服をよごしても、だれもそれを本気になって
しかったりしないだろう。
それはその子どもの水準による
行動だからね。
でも、もしおとながおなじことをしたら、
きっと周囲のひとからとがめられるだろう。
だってそれは彼の水準に
見合った行動じゃないからね」

「それとぼくとどういう関係があるっていうの?
アミ」

「ほんとうの自分に見合った行動を
していないんだ。
自分のあるべき水準で行動していないんだよ。
だから、なにかをしたり
考えたりするたびに、こらしめを受けて
苦しむことになるんだよ。
反対にきみがあるがままの自分じしんの
よい部分にしたがって行動すれば、
きみの人生はいつも天国そのものになるよ」

しばらくのあいだ、アミの言葉を反芻してみた。
そして、そのとおりだと思った。

ぼくはいまの自分とは
別のひとになる努力をしようと決心した。

「いや、ほんとうの自分じしんになることで、
じゅうぶんなんだよ。
手にいれなくっちゃならないのはそれなんだよ……。
じゃ、ぼくの友だちと話をしよう」
とアミは言った。

クラトとビンカは小屋のむこう側にある畑にいた。
老人は彼女に自分の小さな畑の
やさいやくだものの木々や、
そのほか、そこここにある
いろんなものを見せていた。
ビンカとクラトがふたりでいるところを見たら、
不快な気分が少しだけどぼくの中にうまれかけた。

でも、すぐさまその感情を
打ち消すようにした。

行動も思考もよりよくすべきだと思ったからだ。

「ブラボー!そう思えるようになったら、
それはもうひとつの進歩だよ、ペドゥリート」
とアミがよろこんで言った。

「エッ!それどういうこと?」

「きみは進歩しているんだよ。
自分の思考を観察しはじめたんだからね。
もう、それほどねむっている状態じゃない。
ふつう、ひとはけっして
自分の思考に注意をむけてみるということをしない。
悪い考えが頭の中をよぎったとしても、
まったくそれに気がつかないでいるから、
とうぜん自分はすばらしい考えを
いだいていると思っている。
これじゃ少しも進歩はない。
ペドゥリート、
きみはいま、自分の心を監視しはじめたんだよ。
自分じしんをより深く理解しはじめたんだ。
そのうえ、自分の意識のなかの
ふさわしくないものを、
取りのぞく力も獲得しつつある」

 

内観、内観お伝えしていますけど、

上記の様に

”自分の思考を観察”して、

”自分の心を監視”して、

”自分の意識のなかの
ふさわしくないものを、取りのぞく”

というのが必要になります。

 

思考、感情、意識を自分でコントロールするのです。

これを行なう為に、鏡である他人に対する感情と向き合ってみて、

それは自分のどんなところを映しているのかな?と探す作業をします。

 
進歩という面では避けて通れない部分です。
ここを読んで、エゴの一枝を既に折られた方々は、
何だか憑き物が落ちた様にすっきりした様子ですよね?
そこから最初の一歩が始まりますよ。
応援しています!