霊的な学びを進めていくとぶつかる壁、

傲慢さの克服について書いています。

 

 
スピリチュアルな知識を得ると、
他の人より、自分は凄いと優越感を持ったり、自慢したり、
偉いんだ、特別なんだ、という傲慢さが表れてきます。
 
この傲慢さを克服していない状態は、
誰かを攻撃したり、批判したり、
自分を特別な存在として正当化させるために、
馬鹿にしたり、揚げ足を取ったりします。
 
自分の価値感での正しさで、相手を判断していて、
それに従わない人は自分の足を引っ張る様な気持ちになります。

この様なことをするのは、

二元性に留まっているからなのです。
 
 
よくスピリチュアルリーダー的な人が、
理想の生き方、地球の在り方などを説いて、
どうして皆気付かないのだ?
そういう人達がいるから、いつまでも支配者層はくたばらないし、
この地球のシステムも変わらないのだ。
思考停止の奴隷たちのせいで、
自分達は上に行けないのだ、
といった風に嘆く姿を見ることがあります。
 
以前、とても尊敬している方が、
”この地球”は変わりませんよとおっしゃっていて、
すごくショックで、びっくりしたのだけど、
今はその意味がよく分ります。
 
私のガイド達は、今すぐ幸せになって下さいとよく言います。
皆が変われば、状況が変われば、地球が変われば、
幸せになれるのだと思い込んでいるなら、
これから先も幸せになることはないでしょうと。
 
上記に書いたスピリチュアルリーダーというのは、
よくいるタイプですけど、
どんな理想的な考えを発信していたとしても、
その人の立ち位置は他人軸であり、
自己への奉仕の生き方です。
 
立ち位置の違いという記事も書きましたが、

他者への奉仕という立ち位置にある人は、

自分軸で生きることが出来て、

自分のコントロールをしています。
自己への奉仕という立ち位置にある人は、

他人軸で生きていて、

他者のコントロールをしています。

つまり、支配者層と一緒ですが、

例のスピリチュアルリーダーは、支配者層を批判しながら、

実際は彼等と同じ立ち位置にいるのです。

スピリチュアルリーダーの言っていることって、
自分の理想とする地球を創る為に、
お前らは変わるべきだ、
お前らのせいで自分は、地球は、幸せになれないのだ、
ということなんですよ。
 
地球さんはそんな風に思っていませんよ?
「私は変わりますけど、あなた方はどうしますか?」
という風に伝えているはずですよ。
「あなた方が変わらないせいで、私はいつまでも変われません」
なんて言うでしょうか?
 
”この地球”と書きましたけどこの三次元物質界というのは、
法則に従って存在しているものなのです。
地球さん自身はもう変わっています。

でも変わろうとしない人達にとっては、

地球はいつまでも変わらない様に見えています。
 
言葉遊びの様になってしまいましたが…。
 
誰かのせいにしている様な生き方をしている限り、
何も変わらないのです。
そういう人を持ち上げてリーダーの様に扱うのはやめましょう。
お互い堕ちて行くだけですよ。
声を大きくすればするほど、
人心を迷わせている訳ですから、
悪因を積んでいくことになります。
 
強い悪意を向けたい時という記事でご紹介しましたが、

「療法の真義」(M・ドーリル博士著)には、下記の様な教えがあります。

 

「この様な世界情勢の中で、特に我々の敵に対して、

我々はどの様な態度をとるべきか」

と問われた時には、わたしはいつも、

次の様に答えているのは、上述の様なこともその理由の一つなのである。

「我々は、冷静で、

心的均衡の内に自分がなさねばならない不愉快な任務(戦争従軍等)を

果さねばならないことを認めねばならない。

しかし、その任務の遂行に当っては、

いかなる憎しみも怒りの意識も持たずに果さねばならない。

もし、我々が心の中に怒りや憎しみの心を持って従事したなら、

我々は、自分自身をネガテブ状におくことになり、

それと同様なネガテブの状が自己の肉体に、

自己の心に、自己の環境に受ける様になるのである」

だから、次の言葉よりも真実はないのである。

”誰も、自分が最初に肥沃な地に、

それが自分自身におこる様に創造し、

物事が自分自身におこらない前に同様な状況を心的につくらない限りは、

自分の人生に何も表われることがないのである”。

このことは、我々の想念において、

我々の人生行動において本当に真実なのである。

”誰も、自分が最初に肥沃な地に、

それが自分自身におこる様に創造し、

物事が自分自身におこらない前に同様な状況を心的につくらない限りは、

自分の人生に何も表われることがないのである”

という部分を何度もガイドたちに強調されるのです。
法則は全てに働いていますので、
誰かのせいで幸せになれないのではなくて、
幸せを感じられない様な捉え方を自分でしていて、
その種を播き続けているから幸せではないのです。
 
 
例えば、ここを読んでいる時に、
他の人に対して言い訳をしたくなったり、
ここに書いてあることを否定したくなったりするとします。
 
その時、その行為に夢中になってしまって、
自分がどんな風に感じているのかを見ようとしません。
 
その行為自体に意味がある様な気がするし、
そうするだけの理由があると思い込みます。
私は悪者であって、非難されて当たり前なのだ、
自分は悪くないのだとしか思えない。
 
これは善悪判断をしている訳なんだけど、
鏡であるということを何度もお伝えしている様に、
言い訳をしたくなる、否定したくなるその気持ちが、
一番大事な部分です。
 
ここを無視するから、
誰かを攻撃したり、批判したり、
自分を特別な存在として正当化させるために、
馬鹿にしたり、揚げ足を取ったりという行動に繋がるのです。
 
まず鏡であるということが理解出来ないと、
そこから先には進めないのですが、
例えば、友達がちょっと元気がなかったので、
気になって何か力になりたいと思い、
「どうしたの?元気がない様に見えるけど、
悩みがあるなら相談して?」
と話したとします。
こちらは無理強いしている訳ではなくて、
一人で悩んでいるならと声を掛けたのです。
でも友達は、
「は?何いい人ぶっているの?
本当はバカにして笑っているんでしょ?
心にもないこと言わないでくれる?」
と逆切れするとします。
どんな風に感じますか?
 
思いもよらないことを言われて驚きませんか?
自分の考えや思いなんて見えもしないのに、
勝手に決め付けてとか思いませんか?
もしかしたら、そっとしておいて欲しかったのかもしれないけれども、
思ってもいないことを、そうであるかのように言われたら、
少なからずショックを受けるかもしれません。
 
親切で話しかけたのに、悪意に取られるとは…。
そもそも、そうやって人を疑って悪意に取るのは、
友達の責任であって、私が思っていることではないわ、
と考えませんか?
 
自分がされたら嫌なのに、同じことを、
他人にしていることに気付きませんか?
 
 

スピリチュアル・エゴについて4という記事の中でご紹介した

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記の部分がありました。

 
「ひとつの惑星が、
ある段階からその上の段階にうつろうと
こころみるたびに、それ以前には
まったく知られていなかった
現象がひき起こされるんだよ」
 
現在も地表上には混乱が沢山ありますけど、
この様な時にどうして神様は、宇宙人は助けてくれないの?と、
憤りを感じる様なことがあります。
 
目覚めていないあいつらのせいで、
自分達まで巻き添えを食ってしまうじゃないか!と。
 
では、もし、あいつらを無理に引き上げて、
次の領域に一緒に進んだらどうなるのでしょうか?
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には下記の様な場面があります。
 
「あなたがたの力をもってすれば、
キアや地球を自滅させないことくらい、
なんでもないことでしょうに」

ビンカは、アミをやや非難するような口調で言った。

アミはいつものように陽気に答えた。

「前にも言ったように、未開の文明に
集団で公に干渉することは宇宙の法で禁止されている。
それはぜったいに守らなければならない。

たとえば、きみたちの学校の上級生が、
もしきみたちのかわりに試験を受けてくれるとしたら
どう思う?」

「うわぁ!そうしたら、
なにも勉強しなくともよい点数がもらえて……」

そりゃすごいと思ったので、大よろこびで言った。

「そんなのインチキよ」
とビンカはぼくをとがめるように言った。

アミはつづけた。
「もし上の学年に進級できたとしても、
きみたちは授業の内容をまったく理解できないだろう。
そうしたら同級生だけでなく、学校全体のじゃま者になるだろう。
……そして同時に、
正々堂々と自分じしんの努力で勝ち得たんだ
というプライドもまったく感じられないだろう……」

「そのとおりだ、アミ」
とぼくは、少し反省しながら言った。

「ほんとうだわ。もしあなたがたが、
わたしたちのためにみんなやってしまったら、
それはよくないことだわ」
ビンカも言った。

「だからといって、なにもせず手をこまねいているのも
よくないことだよ。
絶壁にむかって走っている子どもを、
なにもしないで見ているわけにはいかないだろう。
かりにその子を取り押さえることは許されないとしても、
そっちに行っちゃあぶない
という警告を発することはできる。
そこにきみたちの使命があるんだよ」
 
霊的な学びには飛び級はないので、
この三次元物質界で必要な学びを終えていないのなら、
次の領域に進んでも、全く理解出来ないし、
積み上げていく事ができません。
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)から下記の箇所をご紹介しました。
 

「まだひとりでは泳げないひとから
いきなり”救命具”を取ってしまったら、
たいへんなことになるよ!……」

「またまた、なぞめいた言い方をして。
それ、どういうことなの?」

「あるていどまでの水準の人生において、
エゴは一種の”救命具”のような
保護者的な役目をしている。

でももし、もっと上の水準に進歩したければ、
その重い”救命具”─つまりエゴのことだけど、
それをいっしょにもっていくことは
できないんだ。
まず、ひとりで泳ぐことを学ばなければならない。
いつか二者択一しなけれならない時期というものが、
やってくるんだよ」

「その”泳ぐ方法を学ぶ”ってどういう意味なの?」

「宇宙の法にのっとって生きることを学ぶ
ということだよ。
もし愛とともに生きていけるなら、
ほかにはなにも必要じゃない。
でも、まだきみたちは
愛をどうやって手に入れたらいいのかも
知らないでいる。(以下省略)」

 
もし、あいつらを無理に引き上げて、
次の領域に一緒に進むというのは、
無理矢理救命具を取り上げて泳がせるということです。

泳げるのでしょうか?

溺れ死にますよ。

次の領域に必要な周波数帯を維持出来ないのです。

存在し続けることが出来ません。

 
見捨てるとか、切り捨てるということではなくて、
それを自ら選んでいるのです。
門は開かれていて、誰でも自由に選び取ることが出来るのに、
自分で進もうとしないだけなのです。
 
誰かのせいにして言い訳をして、
同じところをぐるぐる回り続けていて、
本当にいいのでしょうか?
誰かを攻撃したり、批判したり、
自分を特別な存在として正当化させるために、
馬鹿にしたり、揚げ足を取ったりしたくなるのは、
どうしてでしょうか?
本当にあなたは特別な存在ですか?