ヨーロッパにおいては
教養ある人物ならば、
シェイクスピアやゲーテなどの
有名な詩の一つや二つを
暗唱しているのが当り前であり、
何気ない会話の中で
それらを披露していくことが、
教養の証と言われるそうです。
そう言われてみると・・・。
名画の中の名画といわれる、
「ローマの休日」
という映画でも、
こんなシーンがありました。
アメリカ人の新聞記者ジョーは、
ローマの街角で、朦朧としている
見知らぬ少女を見つけ、
放っておくわけにいかず
タクシーで送ろうとします。
結局、ジョーのアパートまで
ついてきてしまった少女を
追い返すわけにもいかず、彼は
「ベッドではなくてカウチ(長椅子)で寝ろよ」
と言うのですが、
これに対して少女は、
「私の好きな詩を知ってますか?」
と言って、
Arethusa arose from her couch of snows in the Acroceraunian Mountains…
「アレトゥーサは起き上がった、
アクロサローニアの山々の
『雪のカウチ』から…」
と口ずさみ、そして
「キーツの詩よ」
と結びます。
(キーツとはイギリスの詩人
ジョン・キーツのこと)
「私に冷たいカウチで寝なさいって言うの?」
という抗議を、
そのまま直接口にすることなく、
詩の暗唱で伝えようとした少女に対し、
ジョーは
「シェリーの詩ですよ」
と淡々と言い返します。
(シェリーとはキーツと同年代の
イギリスの詩人、
パーシー・シェリーのこと)
実はこの少女は、
公務に嫌気がさして城を抜け出した
某国の王女アンであり、
ジョーが王族の彼女に負けない
知性を披露して突っ込みを入れた結果、
その詩は
キーツのものかシェリーのものか、
2人の間で口論となります。
物語の冒頭の、
コミカルなやりとりの中で
さりげなく
二人の知性をうかがわせる
名シーンでした。
それはさておき、
ジョン・キーツ (1795年~1821年)
パーシー・シェリー(1792年~1822年)
同時代のイギリスのロマン派詩人
のこの二人ですが、
さて、
アン王女が朗読した詩は、
キーツとシェリー
果たしてどちらのものだったのでしょうか?
【ローマの休日より】
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"If winter comes, can spring be far behind? "
「冬来りなば春遠からじ」
(パーシー・シェリー)
この言葉は、シェリーの
"Ode to the West Wind"
(『西風に寄せる歌』)
の中の一節です。
寒く厳しい冬が来た。
だけどそれは、
暖かい春もまた
すぐそこまで来ているということだ。
つらさに目を向けるのではなく、
その先にある希望をみつめて、
この時期を乗り切っていこう。
そんな、
逆境に立ち向かっていく強さと希望
を感じさせるこの言葉、
ご存じの方も多いのではないでしょうか。
原文は、直訳すると
「冬が来るなら、春はその遥かあとであろうか?」
となりますが、
やはり、
「冬来りなば春遠からじ」
の訳が一番ぴったりきますね。
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"When a thing is said to be not worth refuting you may be sure that either it is flagrantly stupid - in which case all comment is superfluous - or it is something formidable, the very crux of the problem."
「それは反論する価値がないもの
といわれた時、人は確信する。
それが、
ひどく愚かなものであるか
(その場合はいかなるコメントも
不要である)、
あるいは、非常に手強い問題の
核心であるか、
そのどちらかであると」
私たちの多くが
今おかれている状況、
求められている行動、
それはまさに
反論しても仕方のない、
受け入れざるを得ないものである。
それは間違いないのではないでしょうか。
"We look before and after. We pine for what is not.”
「人は前を見、後ろを見、
無いものに恋い焦がれる」
「なんでこんなことに?」
そう嘆きながら、
自由で豊かで楽しかった
過去の風景にしがみつく。
以前はあったのに、
今はこの手の中に
無くなったものばかりを見て、
それらが無くなったことを嘆き続ける。
「この先どうなるんだろう?」
そう不安に思い、
決して望ましくない空想の
未来の風景に恐れを抱き、
その中に無いものばかりを見て、
そんな未来に向かって
進まなければならないことを恐れ続ける。
多かれ少なかれ、
そんな感情を持つものが
人間というものなのかもしれません。
それでも、
おきてしまっている事実は
変えようのないものであり、
無いものは無い。
それもまた事実。
無いなら無いで、
自分には何ができるのか?
何をすべきなのか?
何もしなければ何も変らない。
それならば、
本来進む気のなかった方向
であったとしても、
それでも進んでいく。
それが道の無い荒野
であったとしても、
それでも歩き続けていく。
その先には、
その道を進んでいった者のみが、
手に入れることができるものが
きっとある。
歩き出した時には
わからなかったものが、
いつの間にか
この手の中にある。
そして、
"The pleasure that is in sorrow is sweeter than the pleasure of pleasure itself."
「苦しみのうちにある喜びは、
喜びそのもののよりも甘美である」
ということ、
それは信じる価値のあるものかもしれませんね。
【パーシー・シェリー】
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つらい時、不安な時は、
誰にでもあるもの。
そしてその感情を手放すことは
誰にとっても難しいことかもしれません。
だから
そんな時は、
その感情をそのまま
言葉にするのではなく、
その代わりに、
教養人らしく詩の一節でも
口にしたいものですよね。
"If winter comes, can spring be far behind?"
「冬来たりなば春遠からじ」
(パーシー・シェリー)
まずは、そう口に出して、
つらく厳しい冬は
いつまでも続くことはない。
必ず終わる。
その先には必ず、
光に包まれ、野に花が咲き、
命の鼓動にあふれる春が来る。
つらさに目を向けるのではなく、
その先にある希望をみつめて、
この時期を乗り切って歩いていこう。
心の中で、そう唱えて、
引き返すことのできないこの道を、
前に進んでいきたいものですね。
(今回のブログは2020/4/15に公開したものを加筆修正したものです)
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(この記事の冒頭でご紹介したシーンは、こちらで動画付きで紹介しています)
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映画「ローマの休日」の中で、
アン王女が口ずさんだ
“Arethusa”(アレテューサ)
という詩の作者は、
アン王女が主張する
ジョン・キーツなのか、
ジョーが主張する
パーシー・シェリーなのか?
映画の中では
正解は語られませんが、
(「映画の観客の皆さんも
教養があるならご存じでしょ?」
的な映画制作者側の
遊び心なのかもしれません)
正解はパーシー・シェリー。
つまり、ジョーの主張の方が
正しかったことになります。
ちなみにパーシー・シェリーの妻は、
「フランケンシュタイン」
の作者、
メアリー・シェリーだそうです。
【ローマの休日。何度見ても名画ですね】