文字だけで、文章だけでけっこう何でも気軽に話せる、ブロ友というのはいいですね。

でも、ある日突然居なくなってしまう人もいたり、残念ながら、さよならしてしまう人

もいます。北は北海道から、南は沖縄まで、端から端にいたんですが、現在は北海道の

方だけです、沖縄の方は大好きでしたが、彼の諸事情によりブログを〆てしまわれました。

北海道の方は、独身のころから知っていますが、この度、「海の日」に結婚されました。

なんだか親族のように嬉しいんですよね、おかしいことに。そして、真ん中当たりの大阪、

京都の方たちとも仲良くしていただいています。

つい、昨日、大阪のブロ友さん、彼女のユーモア溢れるブログは、ちょっと関西の人じゃ

ないと笑えないんですが。彼女が15歳の時にパニック障害という病気にかかったことを

書いておられました。すっかり完治されたわけではなく、今でも、ここぞと言う時に

出かけることが出来ないという、ちょっと難義な後遺症もかかえておられます。

 でも、普通に社会生活を送れるようになったきっかけはやはり信頼のおける先輩の一言

だったそうです。「ありのままでいい」「弱くてもいい」「自然体でいい」というなんて

ことない言葉なんですが、悩んでいる人間にとっては一条の光であったと思います。


 パニック障害ではありませんが、現実の世界では、とにかく人付き合いに苦痛を感じる

ワタシです。人見知りというのとは次元が違います。道の反対から知ってる人がくると

反射的に横道に入ります。ですが、知らない人からは案外声がかけられやすい風貌なんで

しょうか?スーパーで野菜を手にとっていたら、「茄子の揚げびたしするの?」って声を

掛けられ、レシピを教えてくれるおばあちゃんや、突然、「おばちゃん、また明日な」って

養護学校の子に握手されたり、(いつもの通り道)。

 反対にワタシの方だって、猫だっこしてる、佐官のお兄ちゃんに、「何歳やの?」って

声掛けたり、電車の椅子に小学生が座ってたら、「勉強、何が好き?」って尋ねたり。

これは、人見知りとは違うでしょう。だれかさんのブログで書いてあった声かけ名人の

部類に入るかもしれません。一期一会の人達を警戒する気持ちは毛頭ないんです。

じゃあ、なんでしょう?人付き合い、そう付き合いが苦手なんです。


 楽しい仲間の中にいて、一緒に笑っていて、もちろん楽しんでいる、でもなんだか

ワタシがいることで、皆が気を使って、(自意識過剰)楽しくすごせないんじゃないん

だろうか?なんかオドケテ皆を笑わせないといけない。お酒を呑む場であれば、必要以上

に呑んでしまって、気を使って帰りはぐったりと疲れてしまい、今度誘われても、断ろう

 でも、断れない。そんな時期が何年も続いて、とうとう、全てを捨てたい、知らない人

ばかりの処へ行きたいと願うようになり、ほんとにそうしてしまいました。

職場も家も変りました。たった一人で(主人ほったらかしで)大学の先輩を訪ねて墨田区へ

先輩もびっくり、突然、軽音楽部の後輩が「こんにちわ、近くに住むことになりました」


 この話は、後日また記事に書きます。



 大阪のブロ友さんが、一言で救われたという、その一言がワタシにもあったんです。

一言というか、文章に救われたんです。

以前にブログで書きました。佐野洋子さん、「百万回生きた猫」の作者です。


 2年前、いつものように、図書館へ行くと、入ってすぐの所にコーナーが作って

ありました。「さよなら、佐野洋子さん」

えー、彼女、亡くなった。癌で。ワタシを慰めてくれた、気風の良いあのねえさんが。

始めて彼女の作品を読んだのが、「百万回」です。誰もが感動したように、ワタシも

同じ涙を流して、人を無償に愛することの美しさ、見返りを求めない愛、愛されなくても

愛することで、人は十分満足できて、死を安らかに迎えることが出来る。

 そして、もうこの世に何の未練も無く、二度と帰ってこなくていいんだ。

「百万回」を読んで、作者がどんな人が知りたい、なんだいっぱいエッセイを書いて

いるじゃありませんか、まず本屋さんで選んだのが、「友だちは無駄である」中身は

読みません、背表紙の題名だけを見て、ウキウキしながら、とっととカウンターへ。

 この題名だけで選んでしまう自分が、なんだかやっぱり変です。内容は無駄ではな

いんです、「友だちってのはこういうものよ」みたいな彼女の友達の定義?のような

ものが書いた楽しいエッセイでした。一時期、御主人だった谷川俊太郎氏との対談形式に

なっています。


 そんなワタシだって、人並みに願ったも時期もありました。

 一年生になったら、一年生になったら、友達100人できるかな?

まどみちおさんの詩ですが、数じゃないことは、小学生の高学年にもなればわかります。

赤毛のアンの心の友、ダイアナ・バリーのような友達が出来たらいいな。

 ただ、本人の熱望にそぐうことなく、月日は流れ、とうとうダイアナは今だに現れませ

ん。淋しい気持ちの片方で、ほっとしている傲慢なワタシもいるんです。


 むつっとして、その場のフインキをくずすような、そんなことが出来ればそれがほんと

なんですが、そうではなく、かえって皆からまたB子を呼ぼうよと言われるほうな態度を

とっているんです。今思い出してもじわーっと汗が出てきます。

 本当の、ちっとも楽しくない、この場を去りたい衝動を抑えて、我慢して満面の笑顔

我慢の限界が、頭に出来た10円禿げの数々。帽子が脱げない日が続きました。

もう毛が生えてきたぞ、と安心したとたん、反対側に一回り大きな10円禿げ。


 我慢の限界ってあるんです。「氷点」の陽子が「陽子の心は、凍ってしまいました」

まさに、氷点です。心が固まったまま動かない。社会生活が出きないんです。こんな

経験された方、いるでしょう、いるはずです。誰にも言えないので、廻りにいたとしても

それぞれが、一人で悩んでいるばかり。何の解決にもなりません。

ただ、ただ孤独に、自分の不甲斐なさばかりが、心を巣食って、どうしようもなくなる。

 なんでもない時に、嗚咽がきて涙がざぁーと流れる。一人の時ならいいけど、人前で

は、なにごともなかったように隠して、その場を立ち去るしかありません。

こんな、地獄から立ち直ることが出来たのは、佐野洋子さんの「シズコさん」です。

「友だちは無駄である」の次に読んだエッセイです。


 彼女は小さい時に、母親から虐待を受けて育ちました。シズコさんとはお母さんのこと

です。その幼児体験から、認知症になったお母さんの介護まで、赤裸々に綴ったエッセイ

は、ここまで書くかというほどの告白は、ワタシを開放してくれました。

 ワタシの場合は、母親が虐待を受けて育った人、普通ではありませんでした。

そうです、普通じゃなかったです。「氷点」氷のような思いをした思い出はどうしった

って消えないんです。直接手を下す虐待ではなく、「あんた、誰?」みたいな目。

「そこで、待ってて」といって、忘れられたことありますか?

知らない公園の、砂場で何時間も一人で、泣いたらあかん、泣いたらあかんと言いながら

涙をこらえて、空ばっかり見上げたことありますか?

それでも、それでも、世界中で一番好きなのはおかあちゃんなんです。

なぜ、嫌われるのか?ワタシがバカで不細工やから。



 「成長過程で、親から何らかの傷を受けてしまった人の社会適応の難しさ、そういう人

に特有の『生きづらさ』というものはあると思う」



 エッセイ「シズコさん」に書かれてあった、文章です。

そうなんや、ワタシ、親から傷つけられていたんや。それを認めたらよかったんや。

簡単なことでした。なんだかわかりません、プライドっていうんでしょうか?

親から傷つけられるような、悪い子じゃないワタシは、そう思いたかったんでしょうか。

 でも実際には、ズタズタにされていたんです。ただ、認めたくなかったんです。

簡単なことでした、変に頑なな心と素直になれない自分との戦い、嫌いと言われたら

安心する、「ええのよ、ワタシは、嫌われるタイプの人間やから」

自分で自分の首を絞めるとはこのことでしょうか?

 ただ、傷つけられたことで、人の心の傷にはとても敏感です。いいのか悪いのか

何も言わなくても、わかってしまいます。ある意味「シックス・センス」の発達です。

顔みただけ、文章を読んだだけで、わかります。隠せば隠すほど。。。。



 日々の出来事を綴るのも、ブログなら、こうして自分の心情を語るのもブログ。

誰にも話したことなんてない、面と向かってはけっして言えない話です。

いつも、長くて自分勝手なブログですが、闘病ブログにコメント書き辛いように

大変だったわね、なんて書けないでしょう。

でも、だまって読んで、同じ思いを持つ人がうなづいてくれたら嬉しいです。

 

 今日は、2番目の洋子さんの話でした。まだようこさんがいっぱいいますよ。

番外編の、桐島洋子、荒木陽子、今日は佐野洋子でしたが、ちょっと出てきた

三浦綾子の小説「氷点」の主人公陽子も、継母に虐められて大きくなり、出生の

秘密を知らされ、自殺してしまいます。何度も映画化されましたが、一番最初の

若尾文子が母親役、そして、若くてピチピチな安田道代が主役陽子を演じました。


ワタシは、「続氷点」も読み、若尾文子のいじめとおかあちゃんのいじめがよく似てる

と思っていました。でも、ワタシの場合は顔がそっくりなので実の母親です。残念。


でわ、今夜はこの辺で。