舌癌は癌全体のわずか3%。
父の闘病中に、何度も何度も「舌癌」というワードで舌癌患者ご本人やそのご家族の方の手記やブログを検索しましたがほとんど出て来ませんでした。
当時はたとえネガティヴな内容だったとしても、なんでもいいから情報が欲しかったのです。
少しでも「誰かの世界を参考に出来ると有難い」と思う方がいるなら書くべきだと思いました。
とはいえ病気の話はどうしても暗い話になります。
興味のない方や、癌の話で辛い気持ちになってしまう方はご覧にならないでください。
よろしくお願い致します。
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父は舌癌でした を最初からお読みになりたい方はこちらからどうぞ。
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2011.11.13
父の最期を一人で看取るのが怖くて、前日も泊まって寝ていない兄に続けて一緒に泊まってもらいました。
朝8時過ぎ、1階の自動販売機へ缶コーヒーを買いに行きました。
エレベーターで頭頸部外科のある階へ上り、そこからすぐの病室に戻る前にナースステーションの反対側にある共有の冷蔵庫に行きました。
この状態になる前に父のために買って来たプリンが冷蔵庫にあったことを急に思い出したので、兄の朝ごはん代わりになればと思ったからです。
プリンと缶コーヒーを持って病室に戻ろうとすると、けたたましいブザー音が鳴り出しました。
看護師さんが走って父の病室に入って行きます。
わたしも慌てて病室に入ると、窓の外を見ていた兄も振り返り驚いた顔をしています。
「○○さん!聞こえますか!?○○さん!」
看護師さんは首のカニューレの蓋を開け、そこに酸素マスクを当てます。
兄は慌てて「おばあちゃんに電話してくる!」と病室を飛び出しました。
わたしは看護師さんに促され、父の手を握りながら「父さん!父さん!」と叫びました。
このガリガリに痩せ細ってしまった体のどこにこんな力が残っていたのかという程の強い力で手を握り返されます。
父の反対の手はベッドの手すりを握り激しく揺らしていました。
父は今、全身をバタつかせてもがき苦しんでいる。
そんな父を見るのは辛かったけれど、見なくてはならない気がしました。
アゴを上げて天を仰ぐように仰け反り、ぴたっと動きが止まりました。
でもまだ握った手に力が残っていたので「父さん!息して!」と言うと、一度だけ大きく吸って、それからゆっくりと見開いていた目を閉じて全身の力が抜けて行きました。
ドラマで聞いたことのある「ピー」という機械音。
今の今まで騒がしかった病室にはその機械音だけが鳴り響き、看護師さんは動くのをやめ、わたしは父の手を自分の頬に当ててうずくまりました。
すぐに兄が病室に戻って来て、時がまた動き出しました。
看護師さんを見ると、2人とも涙を流していました。
わたしの背中をさすりながら、「お父さん、頑張ったね」と一緒に泣いてくれました。
別の看護師さんが主治医を連れて病室に入って来ました。
2011年11月13日午前9:03
父は癌との戦いを終えました。
すぐにロッカーの荷物をまとめ、冷蔵庫の中のものも出してバッグに詰めました。
父からは「家族葬でいい。金なんか掛けないで、戒名もいらないから」と言われていたので、少し前から探していた家族葬を専門とする業者に連絡しました。
看護師さん2人が父の顔や体を綺麗にしてくださり、1階にある小さな部屋へストレッチャーに乗せられて移動しました。
地下にある霊安室のような部屋とは違って、明るいその部屋で葬儀社の車が迎えに来るのを待つのですが、主治医や看護師さんたちがお線香を上げ始めました。
兄も促されてお線香を上げていましたが、わたしにはまだ出来ませんでした。
だってまだ1時間も経ってない…
父さんにお線香を上げる?なにそれ?
強い違和感を覚えて廊下で泣いていると、祖母が伯父とやって来ました。
父の体を揺らし泣き叫んでいました。
息子に先に逝かれるなんて、辛いよね。
1時間もかからず葬儀社の車が迎えに来ました。
看護師さん達にお礼を言って、兄がその車の助手席に乗り込みました。
わたしはボーッとしたまま、伯父達と駐車場へ向かいました。
「運転気を付けてな!」と何度も言われて車に乗り込み、伯父の車が駐車場を出たのを見届けてから声を上げて泣きました。
どれくらい泣いていたのか、どこを通って帰ったのか、全く覚えていません。
享年58歳
3年前に他界した4歳年上の母と、永遠に同い年です。(母の誕生日は12月なので)
父はよく、年上の母をからかうように「母さんは戦時中の生まれだからな〜」と言っていました。
「違うわよ!」と拗ねる母が可愛かった。
でももうこれで、からかわれなくなったね。