こんにちは、カズです。
今回は、2026年2月19日(木)実施、「渋谷の今昔を歩く」企画で通るポイントの説明、
及び、そのポイントの昔の風景を写真でお伝えしていきます。
【渋谷のベースは大山道】
まず渋谷は元々はどんな場所だったか。
渋谷のベースになっているのは、「宮益坂」から「道玄坂」に抜けていく道です。
この道は「大山道」「矢倉沢往還」「足柄道」と呼ばれ、
実は奈良時代や平安時代といった古代から官道として使われてきた
最も古い東海道とも言われています。
※ただ、800年の富士噴火で歩行困難になり、主要道は箱根路に
その古道における、江戸城、現在の皇居から最も近い、
最初の休息地が宮益坂、そして道玄坂だった、ということです。
①
江戸時代の宮益坂
特に宮益坂は、江戸時代になる少し前、1570年、
坂の途中に「宮益御嶽神社」が創建され、茶屋もできるなど
最も早く町屋となった場所です。
道は渋谷駅に向かって下っていく場合
右側の歩道あたりが古道が通っていた場所で、
道幅は約5.4メートル。現在よりも急な坂道で、
「富士見坂」とも呼ばれ、
1745年の記録では、道の両側に計72軒が連ねていたとのこと。
1828年には170軒となっています。
餅屋やご飯屋、水菓子屋、そば屋、すし屋などがあったようです。
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坂を降りたところ、
現在の明治通りを渡ったところには
幕府が民衆に法令や罰則などを知らしめるために掲示した
高札も設けられていました。
②
宮益坂下には高札場もあった
またそのすぐ先、現在のみずほ銀行の角の部分に、
かつて「宮益橋」が架かっており、
その下には「渋谷川」が流れていました。
③
宮益橋と渋谷川
④
1901年(明治34年)の宮益橋と渋谷川(東京都建設局所蔵)
この橋は今はもちろんありませんが、
渋谷川は今もこの川があった場所に流れており、
現在は暗渠となっています。
渋谷川自体は、スクランブルスクエアの先からは
開渠となっているので、見ることができます。
また、この古地図を見ると
この宮益橋のところに一本、左から川が流れ込んでますが、
これは「宇田川」です。
⑤
渋谷川の支流「宇田川」
宇田川はセンター街の下を流れている川で、
「宇田川町」の名前にもなっている川です。
センター街を歩くと、少し川臭いのは
下に宇田川が流れているためです。
江戸時代を通じて、渋谷地区はこの大山道の両脇は全て田んぼで
台地の上は畑でした。
今の渋谷駅がある場所も、もちろん田んぼでした。
⑥
渋谷駅周辺は、江戸時代は田んぼだった
渋谷はまず、大山街道の「宮益坂」から栄えました
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明治以降、渋谷を変えた大きな出来事
その①【渋谷駅ができる】
そんな大山道の休息所的でしかなかった渋谷ですが、
明治時代になっていくつか大きな変化が起こります。
その最初が「鉄道の停車場ができた」ということです。
日本鉄道品川線という、現在の山手線にあたる線が
赤羽から品川に向かって敷かれたのですが、
その品川線で
現在の山手線区間で最初にできた停車場が、〈新宿〉と〈渋谷〉でした。
1885年、明治18年のことです。
この品川線は当初は人を運ぶ目的ではなく、
栃木や群馬の生糸を、横浜に運ぶ物資輸送の目的で敷設され、
線路は、当時の江戸の町を避ける形、
江戸の淵を走るラインで敷設されました。
渋谷は、江戸の端っこだったので
このライン上にあり、
さらに大山道という街道が走っていたことで
停車場が設けられる形となりました。
⑦
1885年(明治18年)、渋谷に停車場ができる
下のイラストは大正時代初期のものですが
昔の渋谷駅周辺を描いたものです。
開設当初、渋谷駅は現在の場所ではなく、
もっと南、昔の埼京線のホームがあった辺りにありました。
※現在の「JR東日本ホテルメッツ渋谷」周辺
⑧
こちらは大正時代初期の渋谷駅周辺のイラスト。現在の位置に移転したのは1920年(大正9年)。大岡昇平『幼年』(潮出版社)より
その②【渋谷周辺に軍の施設が移転してくる】
渋谷に駅ができたものの、鉄道の利用者は当時非常に少なく、
駅ができたから渋谷が発展した、というわけにはいきませんでした。
そんな中で渋谷が大きく変わった出来事が
多くの軍施設が、大山街道沿いに移転してきたことです。
駅ができた2年後の1887年(明治20年)に
日比谷から青山に練兵場が移ってきて、
1890年(明治23年)には
現在の渋谷税務署のあたりに軍の監獄が、
1891年(明治24年)には
池尻、駒場に陸軍の騎兵隊が移駐。
青山に陸軍大学校ができ、
1907年(明治40年)、
現在の代々木公園の地に、練兵場も完成し、
また玉川電気鉄道(現田園都市線)も開通し、
渋谷は軍人が集まる街となり
道玄坂一帯が花街へと発展していきました。
元々江戸時代から大山街道沿いにある神泉は豊富な湧き水があり、
弘法湯という共同浴場が有名で、
その周辺には料亭などがたくさんあって花街を形成し、
軍関係者が渋谷に集まるようになると、
花街は神泉から広がって現在の円山町にまでおよび、
大正時代になると円山町の地は「三業地」という
公認の花街となって、渋谷の中心地となっていきました。
また京王井の頭線西口を出たところにある「大和田横丁」も
料亭が立ち並び、多くの芸妓さんが闊歩していました。
渋谷は軍人が集まる街となり、円山町や道玄坂周辺が花街として栄える
その③【関東大震災 ×〈百軒店〉】
円山町界隈の賑わいで急速に発展した渋谷は、
1923年(大正12年)の関東大震災で
山の手の位置していることもあって大きな被害を受けることがなく、
その翌年の1924年(大正13年)に
円山町に隣接する広大な土地を
のちの西武となる「箱根土地株式会社」が入手し
「百軒店」という商店街を開発。
関東大震災で被災し、店を失った下町の名店を誘致し、
東横線、井の頭線、地下鉄の開通によって
渋谷がターミナルと化したことも相まって、
東京一と言われるほどに繁盛しました。
百軒店は戦争の空襲によって全焼しましたが、
戦後復興し、喫茶店、バー、飲み屋、洋食店、映画館が立ち並び
盛況を取り戻していきました。
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盛況を極める「百軒店」
1964年のオリンピックあたりまで
渋谷といえば「百軒店」というほど
渋谷の中心地として君臨していました。
大正時代から昭和に入り、戦後に至るまで、渋谷の中心地は「百軒店」にあった
その④【終戦 × 代々木公園の地は米軍の宿舎に】
1945年の終戦後、渋谷にもたらした大きな変化は
現在の代々木公園の地、かつての代々木練兵場の場所に、
アメリカ軍の宿舎「ワシントンハイツ」が建てられたことです。
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現在の代々木公園の地に建てられた米軍宿舎「ワシントンハイツ」
この「ワシントンハイツ」から渋谷は至近距離で、
渋谷には米兵が本国に戻る際に処分するものが売られる質屋などが
百軒店の坂下に位置する「恋文横丁」にあって、
米軍横流しの服やジーンズ、レコード、楽器など
アメリカの文化が若者に伝播し、
アメカジの源流となっていきます。
この恋文横丁に「さかえや」という軍物横流しの古着屋があって
それが「麗郷」の坂を上がった左側に「ミウラ&サンズ」というアメカジの服屋を出店。
それが現在の「シップス」になっていきます。
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恋文横丁(道玄坂小路)にあったシップスの原点「さかえや」
シップスの原点「さかえや」
戦後、現在の代々木公園〜NHKの一帯が米軍の宿舎(ワシントンハイツ)となり、アメリカ文化が渋谷に流入した
その⑤【64年 東京オリンピック開催】
渋谷にもう一つ、大きな変化を与えたのが
1964年に開催された「東京オリンピック」です。
このオリンピックに合わせて、
渋谷区は「渋谷公会堂」を建設。
またNHKは、このオリンピックに合わせて、
「放送センター」をアメリカ軍のワシントンハイツの地に移設を進めていきます。
国立代々木競技場の建設、国道246の大幅な拡張工事、渋谷川の暗渠化、東横線の駅舎も拡張され
清潔で近代的な、今日の渋谷の基礎がこの時期に出来上がりました。
それを全力で推し進めたのは、渋谷の最大ディベロッパーである東急です。
渋谷は国鉄の渋谷駅に、東急が東横線、玉電(現在の田園都市線)を接続させ、
駅前に東急や玉電の駅ビルや文化会館などを建設し、積極的に開発していましたが、
当時渋谷の中心は、西武が開発した「百軒店」にあったわけで、
東急としては、人の流れを何とか東急に寄せたい、
という思いがあり、そこで打った手が、
百軒店のさらに奥、坂上にある場所に「東急百貨店本店」を開業(1967年)。
そして、その東急の仕掛けに呼応して、翌68年、渋谷にもう一つ百貨店をオープンさせたのが
「百軒店」を仕掛けた〈西武〉でした。
オリンピック開催に向かって東急は渋谷を近代的な街に整備。今日の渋谷の基礎ができる
その⑥【セゾングループが〈今日の渋谷〉の原型を作る】
しかし、この「西武百貨店」は、渋谷の主役だった〈百軒店〉を作った「西武」とは
実は別の「西武」でした。
「西武」は創業者の堤康次郎が64年に亡くなった後、
三男の義明が後継者として「西武鉄道」を経営していきますが、
西武の流通部門だった「西武百貨店」は
次男の清二が受け継ぎ、
兄弟で全く別の会社組織として
二つの西武が経営されることになりました。
その清二は父が亡くなり経営に入っていくまでは
詩人として名を馳せていた文化人で、
引き継いだ西武百貨店も独自の文化色を前面に押し出し
展開していきます。
そして、それが今日の渋谷を作った、
と言っても過言ではないでしょう。
清二は「商品を売る」のではなく「文化を売る」という戦略で
渋谷に進出していきます。
その最大の主役となったのは「パルコ」です。
清二は「パルコ」を筆頭に、
〈セゾングループ〉を形成し、
「ロフト」「SEED」「WAVE」「クアトロ」「西友」
「パルコ劇場」「無印良品」「ファミリーマート」「J-WAVE」などを展開し、
斬新な広告や、新進気鋭のデザイナーを取り上げた
セレクトショップの出店で、
新しいカルチャーを創生。
パルコの広告は斬新なコピー、デザインで、新しい時代を予感させた
若い世代の圧倒的な支持を受け、
渋谷の人の流れを「パルコ」に向かう道の方に
一気に変えました。
パルコ周辺は「公園通り」や「スペイン坂」など
独特の通り名が付くようになり、
現在に繋がる渋谷の若者カルチャーが
〈セゾングループ〉によって生み出されることになりました。
70年代から80年代にかけて、渋谷の流れは一気に「パルコ」を中心とした〈セゾングループエリア〉に
その⑦【バブル崩壊、ストリートカルチャーに】
しかし、栄枯盛衰で、そんなセゾングループは、バブル崩壊とともに
急速に勢いを無くしますが、
渋谷で生まれた若い世代が主役のファッション文化は
90年代に入ると、大きく二つに分かれていきます。
一つはアメカジの流れを引き継いだ〈渋カジ〉ファッションを身に纏った
「チーマー」と呼ばれる東京の不良少年グループと、
短いスカートなど露出は多め、派手な髪色、メイクを施した「コギャル」グループ、
彼ら彼女らは、センター街、そして「渋谷109」をベースにし、
独特の渋谷ポップカルチャーを作り出していきました。
もう一つの流れは、セゾングループからの高感度なファッションセンスを継承した
「セレクトショップ」の流れです。
この時期、原宿で「ビームス」が人気を博し、
その「ビームス」の名物店長が独立して「ユナイテッドアローズ」を創設。
渋谷の周辺部や明治通り沿いに小さいセレクトショップもたくさん生まれ、
また渋谷で原型が生まれ、銀座で誕生した「シップス」や
自由が丘発祥の「トゥモローランド」なども
渋谷に旗艦店を構え始め、
ファッショニスタが集まる街、という側面も
生み出されました。
109やセンター街にチーマーやコギャルが、パルコのさらに奥周辺、そして明治通り沿いにファッショニスタが集結
その⑧現在
【東急の大型開発で駅前の街に】
その後、渋谷はしばらく2010年代までは
センター街、109の人気が中心の、若者カルチャーの街でしたが、
2012年に「渋谷ヒカリエ」が誕生したあたりから、
渋谷に大きな変化が出始めます。
駅前の百貨店や商業施設が老朽化し、
また売り場も一昔前感が否めず、
若者は皆センター街や、北側の奥の渋谷に流れるようになり、
東急の存在感が危ぶまれていましたが、
この時暗い雰囲気だった渋谷の東口に
30代女性をターゲットにした「渋谷ヒカリエ」をオープンさせ
人の流れを一新。
さらに東急は開発を進め、
2018年には「渋谷ストリーム」、
2019年には「渋谷スクランブルスクエア」「渋谷フクラス」
2021年に「しぶちか」をリニューアルし、
2024年に「渋谷サクラステージ」をオープン、
現在、駅ビルの「東横百貨店」を閉店、
全く新しい2棟の「渋谷スクランブルスクエア」を建設中で、
それらが有機的に繋がり、街の一体感を創出する、ということです。
渋谷は東急による大規模開発中。街全体の回遊性が失われて、駅前だけの回遊性という街にならないことを祈るばかり
Qフロント側のスクランブル交差点から渋谷駅を見た「渋谷開発後の姿」(東急のHPより)
渋谷東口の開発後のイメージ図(東急のHPより)
東急の開発は非常に未来的で、
東西南北で分断されていた渋谷の街が
シームレスに繋がる
ワクワクする街づくりですが、
これまで時代によって移り変わってきた
様々な顔を持つ渋谷の地層、多面性
それを結んでいた回遊性が失われることがないよう
開発が進むことを祈るばかりです。


































































