遺跡のあちこちを見て廻って、すっかり長くなってしまいました吉野ヶ里歴史公園のお話はようやっと最終段階でございます。久留米に戻るバスの時間の都合で、南のムラの見て歩きはちと諦めて、最後に立ち寄ったのは入口ゾーンにある多目的ルームでありました。

 

 

こちらでは「よみがえる邪馬台国 倭人伝のクニを探るVII 一支国と土佐のクニ」という特別企画展が開催されておりましたもので(会期は2025年11月9日で終了)。

 

 

邪馬台国にまつわるあれこれに関して、テーマを定めて特集展示するシリーズ企画の一環のようですけれど、一支国とは魏志倭人伝にも出てくる名前ですからなるほどながら、はて?土佐とは高知県のことであろうにその関わりとは?てな印象がありまして覗いた次第です。

今回の展示では、弥生時代の中国大陸や 朝鮮半島との対外交渉に重要な役割を果たした「一支国」の…遺跡の 発掘調査成果を紹介します。また、太平洋に面し九州の武器形青銅器と近畿の銅鐸が対峙す るように見つかっている土佐地域についても取り上げます。

大陸・半島と関わりの深い北部九州と、ヤマト王権の台頭する近畿地方とを結ぶラインはもっぱら瀬戸内海経由、あるいは日本海沿岸地域経由であったかのように想像してしまいますが、思いのほか四国は近いですから、当然にして文化伝播はあったのでしょう。それにしても、太平洋側の土佐とは?ですよねえ。

 

 

ともあれ、一支国すなわち現在の壱岐に関する展示から振り返ってまいるといたしまして、大陸・半島と倭との交流拠点となっていた一支国のようすはこんなふうに紹介されておりました。

壱岐市内には「一支国」の王都と考えられる原の辻遺跡を頂点として、60数箇所の弥生時代の遺跡が確認されており、青銅器類(中国鏡、貨幣、三翼鏃、馬車具)、楽浪系の瓦質土器、朝鮮半島の鉄器、無文土器、三韓系瓦質土器など活発な交流を物語る資料が数多く出土しています。
また、当時「倭」とよばれた日本本土から運ばれた小形仿製鏡などの青銅製品、北部九州・近畿・山陰・瀬戸内各地から搬入された土器類なども出土しており、このことは、当時の「一支国」が交流拠点として、重要な役割を果たしていたことを物語っています。

仿製鏡というのは中国の銅鏡を模して作った鏡であるとのことですが、大陸・半島由来の文物が一支国を経て倭国(倭を構成するクニグニ)に一方通行で伝えられるばかりではなかったようですな。tのことましょう。ちなみに、原の辻遺跡は「多重の環壕が巡る大規模な環壕集落で、その…環壕内の面積は約25haです」と。吉野ヶ里遺跡の環壕集落部分がおよそ40haということですので、原の辻遺跡もまた確かに大規模な集落だったわけで。

 

 

でもって、いかにも交流拠点であった一支国の遺跡らしいこととしては「丘陵の西側低地部では、東の内海湾から幡鉾川を遡った船が到着する国内最古の「船着き場跡」も発見されています」というあたりかと。

 

 

とまあ、そんな交流拠点を経由して伝わる文化と、列島古来の縄文文化の交差点のようでもあるのが、土佐であったということで。高知県にある居徳遺跡群と田村遺跡群は「縄文時代から弥生時代にかけての移行期を代表して…好対照を示してい」るのであるとか。

居徳遺跡群では、縄文晩期の突帯文土器を中心に東日本の縄文文化との密接な交流をうかがわせる遺物が出土しています。…最新の縄文土器である突帯文土器と弥生時代前期の土器である遠賀川式土器が共伴する遺跡といわれています。
一方の田村遺跡群では、九州や瀬戸内の縄文後期の土器が出土していますが、突帯文土器は確認されず、かわりに遠賀川式土器よりも古い段階の突帯文系弥生土器が出土しています。この土器は、突帯文土器の形状を示していますが、制作技法は朝鮮半島の技法が使われており、弥生土器に分類されています。

解説文の引用が長くなりましたが、要するに東日本との関わりが深い居徳遺跡の方は縄文文化がぎりぎり最後まで残る中、弥生時代前期の土器が完成形として入って来た一方、田村遺跡群の方では西から影響で居徳遺跡よりも早じ時期に弥生化していたてなことでしょうか。縄文と弥生のせめぎ合い、このあたりは日本のミッシングリンクのようでもありますよね。

 

 

それにしても、現在の高知市を挟んで田村遺跡群は東側にあり、むしろ居徳遺跡群は西側にあるのに…と思わなくもない。そして、両者は(Google mapによれば)徒歩で6時間ほどしか離れていない距離ですのに、単純に西に寄ってる、東に寄ってるという話でもないのですなあ。

 

 

ま、特別企画展というわりには、主だった展示が解説パネルではありましたですが、そんな思い巡らしにつながったので良しとしましょうか。ということで、この後は西鉄バスで福岡県久留米市に戻り、また別のお話となってまいるのでありますよ。

先日読んだ『日本万博全史』で、1940年に予定された東京オリンピック同年開催の万国博覧会がオリンピックともども計画倒れに終わる以前、明治になってからというもの、事あるごとに万博誘致熱が怒りながらも頓挫した前史が語られておりましたですね。理由の多くは国の財政難であって、原因は戦費に金がかかるというものでもありました。

 

国家予算の何に重点を置くのかは時々の情勢にもよりましょうけれど、戦費(あるいはそれを準備するための費用)を重視するあまり、他の予算に手が回らなくなる…てなことは繰り返されるのでしょうかねえ。早く一等国に伍していかないと植民地される危惧ありという感覚から離れられなかった明治とは、世が移り変わっても相変わらずのような気がしないでもない。

 

でもって、手が回らなくなる予算というのは、かつて流行った言葉で言えば不要不急のものであって、ともすると文化関係に掛ける予算は「そんなもん、あるかい!」てなことに。万博などには回せる金がないとなるわけですが、同様のことは他にもあったのでしたか。それと気付かされたのが、中島京子作の『夢見る帝国図書館』でありましたよ。

 

 

なにやら万博誘致熱と同じような発端にはなりますが、明治になって欧米諸国を視察して周りますと、各国には立派な国立図書館のようなものがあると知ることになり、これも早急に設けなくてはいけん!と明治政府では考えたようです。

 

そこで、かつての昌平坂学問所、湯島聖堂の中に、後に帝国図書館と称される文庫(ふみくら)が設けられるのですな。将来的には独自の建物として立派な箱ものを設け、数多の蔵書を抱える施設を作ろうと、意気込みはいいのですが、例によってそこに回す金が無い…ということに。初期の施設では、永井荷風の父親が職員として働き、かなり強硬に予算要求をしていたようですが、無い袖は振れないてな感じだったようです。

 

時を経て帝国図書館は東京・上野に建設され、戦後に国立国会図書館が永田町に新設されるまで使われることになり、旧来の帝国図書館建物は現在、国際子ども図書館として国会図書館の分館扱いながらも健在…と、あまりにもざっくり経過をたどればそんなふうかと。

 

でもってこの小説ですが、そんな帝国図書館の黎明期から現在までの歴史を綴るのが必ずしも話の主たる筋ではないのでありますよ。激動の昭和史の中で自らも激動の、といって、必ずしも大事件に巻き込まれてばかりというでなく、昭和という世相を振り返る中ではあまり語られない当時のありように翻弄される一女性の姿が喜和子さんという登場人物を通じて描かれるのがひとつ。

 

そしてもう一つは、喜和子さんと偶然出会ったもの書きの語り手が「帝国図書館を主人公(!)にした小説を書いてほしい、自分で書こうとしたけれど書けないから…」と頼まれるも、それらしい話はすでに書かれており、喜和子さんのことを語る合間合間に唐突に差しはさまれているという。このあたり、文庫版巻末の解説に京極夏彦がこんなふうに触れておりますよ。

ところが。突然、「夢見る帝国図書館」というそれまでとは異質なパートが挿入される。同名の作品は現実(と読者が思っている)パートにも登場する。喜和子さんいうところのお兄さんが書いたらしい、そして喜和子が書くつもりでいるらしい、そして語り手がいつか書くかもしれない物語がそれである。読んでいる方は、このパートがそのいずれかなのだろうと、そう思う。だが、どうもそうではないのだ。

このテクニカルな入れ子構造を、テクニカルな印象を与えずに差しはさみ、相互補完的に進行させる術は「ああ、やっぱり作家はたいしたものだ」と思ったりもするところではなかろうかと。

 

いったい誰が書いたのか、謎は謎のまま投げ出される…というとリドルストーリーのようですが、なんとなあく「これって、帝国図書館自体が自らの思い出を語っているのでないの?」と想像させたりもしつつ、謎は放置されることは話全体の雰囲気を作り出すことにもなっておりますな。ただ、この図書館の思い出話(?)、明治期以降、館を頼りにやってきた数々の小説家たちのエピソードが織り込まれて、これはこれでまた楽しからずやでして。

 

とまあ、散漫に印象を綴ってしまいましたですが、もしもこれからお読みになる方がおいででしたら、是非に巻末解説付きの文庫版を手に取られるのがよろしいのではなかろうかと思いますですよ。

先日のEテレ『日曜美術館』アートシーンで紹介されていた展覧会に出かけてみたのでありますよ。会場は東京・千駄ヶ谷にある佐藤美術館でして、2008年に一度訪ねたことがあるきりでしたが、その時の印象としては来場者が至って少なくて、じっくり絵と向き合える空間という印象。さりながら、今回はTVで紹介された後だっただけに(それでも混み混みではないのですが)「やっぱりTVは影響力、あるねえ」と言ってる当人がTV情報で立ち寄ったわけですが(笑)。

 

 

ところで、開催されておりますのは「塩谷亮 刻を描くリアリズム」展というもの。画像だけをちら見すれば「写真でしょ」と片付けられてしまいそうな作品がずらりでありましたよ。

 

そもそも(と思い出話で恐縮ですが)美術鑑賞におよそ縁の無かった若い頃、なんとはなしに「展覧会なるものを覗いて見むとぞおもけむ時がありましてねえ、いわゆる本物の?美術館はちと敷居が高く感じて、出かけたのは東京・新宿にあった伊勢丹美術館。当時はあちこちのデパートに小ぢんまりと美術館が併設されていたものですが、世は移り変わってすっかりなくなってしまいましたなあ…。

 

ともあれ、そんな具合で出かけた伊勢丹美術館で開催されていたのが「スーパーリアリズム展」でありまして、写真かと見紛うばかりの作品群に「ほお~!」と思ったものでありました。超のつく写実的絵画を気にかけているのはそれ以来となりましょうか。思えば、一昨年2024年秋に訪ねることができた仙台の島川美術館に長らく行きたいと思っていたのも、根っこはそこにあるわけでして。

 

もひとつ思い出してみれば、2008年にも佐藤美術館に出向いたとは申しましたが、その時の展覧会もやはり写実作品の画家である諏訪敦の作品展だったなあと。とまあ、長い前置きになってしまいましたですが、本展は画家・塩谷亮の画業30年にわたる作品を集めた回顧展ということであると。来場者の目の前で描くライブペインティングも行われているそうでありますよ。

 

 

訪ねた時には見られませんでしたが、その代わり、奥にあるモニターでライブペインティングのようすが上映されておりまして、真っ白いキャンバスに筆を入れ始めたばかりには「本当にモデルの姿を写し取っているのであるか?」と思えてしまう線と塗りとが重なっていくのですが、見ているうちにいつしか「あらら、像が現れてきた…」てな具合。傍目には何もないところに「描いていく」という印象ながら、おそらく作家本人の頭の中ではすでにキャンバスに仕上がった作品が出来ていて、それを現前させる作業を行っているというような感じなのかもしれませんですね。

 

というわけで展示された作品群を見て行ったわけですが、女性像や風景画など数々ある中で、個人的にもっとも「おお!」となったのは、こちらの大きな作品(162.0cm×194.0cm)になりましょうか。

 

 

いつくかあった裸婦像にも肌の仕上がりに驚くばかりなのですけれど、着衣なればこそ、衣服の質感の再現もさらに感心してしまうところですし、大判故に端の方(上の絵なら右上の方)には奥になるだけ、写真で言えば少々ボケが入るあたりの描き方にも唸らずにはおられないのでして。

 

「Daria」というタイトルはモデルの名前でしょうか、別の展示室には「ダリアの解剖図」なるデッサンがありまして、そのまんまを描くとは外側の見た目という問題ではないのであるなと改めて(諏訪敦の展覧会でも同様に思いました)。

 

 

ところで、今回と同じようなブログタイトルで書いたことが以前ありまして、しばらく前に「上田薫展」@埼玉県立近代美術館を見た時のこと。そちらは同じく超写実とはいえ、静物画といっていいのでしょうか、それ系の主題が多かったと思いますけれど、リアルさの追求というのと並行してそこにはシュルレアリスムに通じるところがあるなあと感じたのですな。で、それと同じような印象が今回もあったわけなのですね。

 

 

初期作品として展示された、作家17歳の時の「静物」という一枚のいかにもなようすに「すでにしてかかる素養が…」とも思ったものですが、それはあまりに直接的に過ぎるとしても、後の作品、写実を極めた作風にとかく目が奪われがちながら、いわゆるシュールさをほのかに漂わせるところがあって、ことさら味わい深いものになっておるのだなあと思い返すことに。

 

 

やはり随分と前にサルバドール・ダリの展覧会を見た際に、ダリというだけで奇想の画家と思ってしまうも、その写実性の再現に驚かされたことがあったのですよね、「この人、巧いなあ」と。ダリの方は奇想さ、シュールさが前面に出てしまって高い写実技巧を見失いがちだったわけですが、本展の場合の気付きは逆方向ということになりますかね。

 

シュルレアリスムの絵画はともすると、見る側が絵の中に勝手に物語を作りだすことで作品が「分かった気になる」ところがありますですが、上の作品などもそんな勝手な想像を巡らしたくなる、想像を巡らさないとただの綺麗な絵で終わってしまう…のを作品が許さないといいましょうかね、そんな「気」が感じられるのでありますよ。

 

そういえば、本展構成のチャプター分けの中に「気を描く」というのがありましたな。解説文にはかようなことが書かれてありました。

目に見えない「気配」や「空気」、移ろいゆく環状、そして過ぎ行く時間の静けさを、写実でいかに可視化できるか。塩谷が追求してきたのは、かたちや色の再現を超えて、画面に漂う非物質的な質感を捉えることでした。

いまさらながらに、写実といってヒトの目に見えるものをそのままに写し取るのではない芸術創造のありようを表しているのではないですかね。「いいもの、見たな」と思える展覧会でありましたよ。

 

 

佐賀県にあります吉野ヶ里歴史公園の中を、主に北側の復元建物を見ながら巡ってきたわけですが、環壕ゾーンの入口近くまで戻ってきました。

 

 

吉野ヶ里遺跡はそちらの南側方向にもありまして、やはり竪穴住居が復元されておるのが望めます。「吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられてい」る「南のムラ」と呼ばれるエリア…なのですが、北の方を廻るのにかなり時間を要してしまい、帰りのバスのことを考えるとこっちの奥まで足を踏み入れてはいられない事態に。止む無く深入りは諦めて、南のムラを見晴らすあたりにあった「弥生くらし館」とやらを覗くにとどめることにした次第です。

 

遠方、左手奥に見えるちょいとした高まりが南祭壇(精霊を祀る場であったと考えられているとか)と思われるだけに何とも残念な限りでしたが、取り敢えずは弥生くらし館に。

 

 

この施設は主に、勾玉づくり、石包丁づくり、火おこし、土笛づくりといったプログラムが行われる体験工房と、土器復元作業を見学できる公開作業室とがメインであるようす。ではありますが、傍らに展示ギャラリーもありましたので、これを眺めてきたのでありますよ。

 

 

と、ここに先ほど眺めやった南側の高まり、南祭壇と思しきところを説明している部分がありましたので、ちと押さえておきますかね。北側の高まり、北墳丘墓との違いが示されておりますよ。

…集落に囲まれた尾根の部分には、壇状の遺構が見つかっています。この遺構上部からは、貝や鳥を入れた壺型の祭祀土器が発掘されており、祭壇として使われていたと考えられています。しかし、同じ様に作られた北墳丘墓と違い、お墓ではありませんでした。そこでこの祭壇は、先祖の霊を祀るものではなく土地神(精霊や穀霊)を祀り、豊作を祈るものであったのではないかと考えられています。

北墳丘墓が展示施設として整備され、向き合った北内郭主祭殿との関係から重要な場所ということも分かっている反面、南祭壇の方は土地神を祀ると考えられるも遺物は多くはないようで、はっきりとは意味合いが分かっていない…と、この違いは当時の吉野ヶ里の人たちにとって北と南のどちらかにより重きを置いたのかということと、およそ関わりないのですが、しっかり整備された北墳丘墓の方が手厚く遇されたのでは?などと思えてしまいますなあ。ま、結局のところ、現代人が想像可能な範囲内で復元したものですので、いずれの軽重などに思い込みを抱くのは禁物でしょうけれど。

 

とまれ、そんな祭壇(と思しき場所)を抱える南のムラですけれど、いわゆる支配層ではない一般人が生活していたところというこで、左側のような、いわゆる弥生時代の人として想像できそうな姿の人たちが暮らしていたのでありましょう。

 

 

南のムラではかような麻の服をみにまとう庶民が200人ほど暮らし、日々農作業に勤しんでおったということで。吉野ヶ里遺跡では弥生時代の象徴というべき水田跡が見つかっていないとは先にも触れましたですが、では南のムラの人々の農作業とは?となりますですねえ。

 

…当時栽培していたと考えられる作物には、穀物や野菜類など現在も食しているものが多く見受けられます。また、衣服の素材となる麻や絹糸の材料となる繭玉をとるために、蚕の好むクワの木も栽培していたと考えられています。

ここでクワの木を栽培していたとなれば、当然のこと養蚕を行ってもいたわけですな。養蚕のことは魏志倭人伝にも記述があるのだそうでありますよ。

 

 

なお、「農作業の合間や冬には、生活に必要な様々な道具や物づくりが行われてい」たのであると。素材としては、「木や土や石、動物の骨や皮、鉄やガラスなど自然からとれるものばかり」だったといいますが、こうして並べてみますと、自然由来の材料は常に周囲の自然とのつながりを感じていたことでしょう。

 

道具や物ということでは、現代ではなんでもプラスチックで作られ、それを便利に使っているわけですが、およそそこに自然とのつながりを感じることはないですよね。人の進化(といわれるもの)は自然環境への適応以上の方向に進んでしまってきたのであるなあ…としみじみ考えてしまいます(もちろん、弥生時代は良かったてなことを手放しで言うものではありませんですが)。

 

 

とまあ、そんな具合になんでも手作り、手作業の弥生時代に何らか、生活に彩りを与えるものがあったろうかと思いますと、登場するのはこちら、楽器でありますよ。

 

弥生時代の遺跡から出土した楽器と考えられているものには、土笛、琴、銅鐸やささらがありますが、縄文時代や古墳時代には、その他にも様々な楽器があり、埴輪には楽器らしきものを持ったものがあることから、弥生時代にも、様々な楽器があったと考えられています。また、細い棒で丸太を叩くなど自然にあるものを、そのまま楽器として使っていたと考えられます。

弥生時代からすでに琴が奏でられいたとは、静岡県の登呂博物館で教えられましたし、吉野ヶ里の北内郭主祭殿に設けられた祭祀を再現した場にも登場しておりましたですね。Wikipediaには「日本最古の楽器」と記されてもいましたなあ。

 

琴は祭祀用かもしれませんが、上の写真で床にころがっている土笛の類はおそらくオカリナの音色を思い浮かべればいいと思うのですが、丘陵上に立地する吉野ヶ里のムラにあって、吹き抜ける風の中を土笛の素朴な音色が漂っていく…てなことをつい想像してしまう。それだけで気分はすっかり弥生!てなことにもなりましょう。てなことで、文字通りに想像を巡らす「弥生くらし館」の展示なのでありました。

このほど『日本万博全史』なる一冊を読んでいて、またまたちと先日のNHK「知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?」を思い出したりもしたのでありますよ。火山噴火、地震、津波…と自然災害の多発する日本列島にあって、そこに住まうヒトは一人では生きていきにくい、皆で力を合わせて乗り越えなくてはならない環境にさらされることで、いわゆる「日本人」的なる協調性やらを遺伝子的にも身に着けてきたのであるてなあたりのことですな。

 

このことはともすると同調圧力にも通して、いいことばかりではないとは思うわけですが、いずれにしても寄り集まって何かする性質が日本人には備わったか、思い付きにもせよ、そのあたりが本書でも触れられていた日本人のイベント好きにつながるのであるかなあと思った次第でして。

 

 

昨2025年7月刊行の本書は、タイミング的に関西万博便乗本のような気がしないではないところですけれど、それはそれとして(関西万博には些かの興味も無かったものの)日本と万博との関わりを紐解く内容であるかと手にしたのですな。つまり、幕末に日本が初めて参加した1867年のパリ万博、明治になって国際社会に認められようとやっきになっていた時期のウィーン万博、この辺から語り起こされるものと思い込んでおり…。

 

実際には、パリ万博、特にウィーン万博を経て、先進国と伍すには日本でも万博を立派に開催できるところを広く世界に示さにゃいけん!と思い込んだことに始まる、万博誘致熱の高まりから始まる内容でありました。まあ、万博誘致熱といっても、当時の日本人一般には「万国博覧会って何?」てなものでしたでしょうから、明治政府としては内国勧業博覧会(及びそれに類するもの)を次々と開催するのですな。

 

このあたり、単純に殖産興業との関わりでしか捉えておりませんでしたが、鹿鳴館外交の延長線上のようなところもあったわけで、だからこそ「博覧会ってすごいだろ!」と庶民に理解させるためにも?次々と博覧会が開催されたのでもありましょうかね。

 

と、国内的に大がかりな博覧会実施という経験を重ねていきましたので、日本で万博開催という野望は明治以降一貫して為政者の側にはあったようですな。それが非常に現実味を帯びてきたのが、ようやっと1940年(昭和15年)、神代の時代の建国?から数えて紀元二千六百年にあたる年のイベントとして万博は打ってつけと考えられたようで。

 

もっとも、このときには東京オリンピックまでも同じ年に開催しようという大胆な試みでもあったのですよね。当時は冬季オリンピックも同年開催になっていましたので、これを札幌で開催するものとして、もしも実現していましたら冬季・夏季オリンピック、さらに万博と世界的イベント3連発が目論まれたとなれば、なおのことです。

 

1940年に東京オリンピックが開催されそうになっていた…てなことは知っておりましたし、それが戦時下に入ってきていた(日中戦争は1937年の盧溝橋事件からですものね)だけに開催されることなく終わったことは知っていても、この年に冬季五輪も万博もであったとは、日本人のイベント好きというよりもその時々の為政者が国威発揚にこれらのイベントを利用しようとする傾向があるといった方がいいのではないでしょうかねえ。

 

その後、1964年に東京オリンピック、1970年に大阪万博、1972年に札幌オリンピックを(分散してはいるも)開催するに及び、ようやっと長年の悲願達成となったのでしょうけれど、本書を見るにその後も引き続き、万博やらオリンピックやらの招致運動に日本という国が長い時間を費やしてきたことが窺えますし。

 

結果として、1998年の長野オリンピック、2020年(実際には2021年)の東京オリンピックがあった他、万博の方は昨2025年の関西万博が目立つものの、それほど大きなイベントでないながら、沖縄海洋博とかつくば科学博とか花の万博とか愛・地球博とか、折々にいろいろな趣向で開催されてきているのですなあ。もはや、明治の頃のようにこうしたイベントが開催できるような「一等国」になりたいてな意識を持つまでもないでありましょうに。

 

考えてみれば、日本という国は今でも明治期に抱いた欧米諸国に対するインフェリオリティ・コンプレックスを抱え続けているのでもありましょうか。近年になってもオリンピックや万博には、一大イベント開催に堪える大国であるとの証を示したいとして手を挙げる国々はあるものと思いますが、そうしたことに無縁の国というか、あまり関心を示していないような国もありますですよね。いわゆる先進国と言われる国々であっても。

 

思うにそうした国は先進国というグループの範疇ではあっても、必ずしも世界経済で順位が何位とかいうことにおよそこだわっているようではない国とも言えましょうか。さりながら、だからといってそれらの国々が貧しく、国民は幸福でないというわけでもなさそうです。とにもかくにも経済大国でなくては夜も日も明けないといった発想とは別のありようというのが、きっとあるはずなのではないかと。

 

あれやこれやの珍しいものが見られる万博という機会は単純に楽しくもあることでしょうけれど、なぜ開催するのか(開催しなくてはならないのか)といったあたり、よくよく考えてみることも必要なのではないかいな…と、本書を読む前から思っていたことをなおのこと考える読後でありましたよ。