近隣の公共施設のイベントで『地名の由来~地名の始まりを知り、未来へ伝える~』という講演を聴いてきたのでありますよ。講師は地図研究家の今尾恵介という方でして、アカデミックな話よりも脱線して、つい誰かに話してきかせたくなるような小ネタ満載といったところ、楽しく拝聴いたしました。

 

ですので、副題にあります「地名の始まりを知り、未来へ伝える」てなことからすると、同氏に関するWikipediaの記載の中に「伝統的な地名の安易な変更に警鐘を鳴らしたりもしている」とあるのは宜なるかなと。

 

取り分け、大きな自然災害が起こったりしますと、土地土地の地名には昔からの自然環境が現れているので対策というか、心構えに大きく役立つ情報であって、これを大きな括りの町名の下、1丁目、2丁目、3丁目…などとしては、どの土地がどんな環境になるのかわからなくなってしまう…と言われたりもしますしね。

 

ですが、今回の話の中では地名と土地条件の関係として、例えば浸水に結びつくような地名(さんずいの漢字が使われていたり)であっても必ずしも浸水の危険があるとは言えないと言っておられましたな。ただ「この地名の場所は危ない!」てなことは、ともするとマスコミが面白おかしくというか、やたら危機感ばかりを煽り立てるように使われてしまったり、はたまたその風評が不動産に関わって悲喜こもごもになったりもする。むしろ、そんなことに踊らされてはいけませんですよと、言いたかったのではなかろうかと。

 

実際には、地名が低地を表しているのが敬遠されるのと反対に、高台っぽいところなら安心だろうという思い込みを打ち下す実例があるとも。埼玉県の東武伊勢崎線沿線にせんげん台という駅がありまして、住居表示は千間台、いかにも台地っぽい地名ながらも実は自然堤防の後背低地(標高は3~4m)であって、「2023年6月の大雨でもせんげん台駅付近の商店が床上30㎝の浸水」被害を受けたということでありますよ。

 

このことは何も千間台に限った話ではないでしょう、取り分け新興住宅地として開発されたところには新しい体裁のいい?地名として〇〇台やら××ヶ丘やらが設けられたりするわけですしね。

 

さりながら、「だから古い地名を残した方がいい」「その方が自然災害対策に信憑性がある」てなことを言いたいのでもないのですな。だいたい古い地名というのがいったいいつ頃からの地名であるのかは、それこそ土地土地の事情次第でありましょう。

 

仮に昭和の新興住宅地であってもすでに新たな地名が付けられてからでも半世紀経っていたりすることもあるわけで、それを新しいと見るのか、古い(定着した)と見るのかは受け止め方次第ですものね。

 

20世紀の世紀末を挟んだ時期、平成の大合併なるもので数々の自治体に統合の動きがあった結果、どこから付けたの?という名前の市町村がたくさんできましたけれど、傍目で見れば今でも「なにそれ?」と思う反面、住まっている人たちには慣れが生じる、愛着が生まれる、そうでなくても慣れなきゃどうしようもないてなところでしょうし。

 

ですから、何も地名に込めた人々の思いというも、ただただ災害対策的なところで考えるのならば、むしろ各地で作られているハザードマップを参照した方がよほど判断材料になると、講師の方が言っておりましたですよ。

 

先にWikipedia記載から引用した「伝統的な地名の安易な変更」に反対する立場というのは、どれだけ住民の納得感が得られているのかといったあたりも、重要なのだろうなと。名称がまとまらす合併が頓挫した一例として紹介されたのが、愛知県に出来かかった?南セントレア市でありました。セントレア(中部国際空港)自体は常滑市にありますが、それより南側の自治体がまとまって南セントレア市を名乗ろうとして「そりゃあ、いくら何でも…」となったようでありますよ。

 

一方で、山梨県には南アルプス市というのがありますですね。南アルプスという山域を考えると、決して南アルプス市にすっぱり収まってしまうわけではないですが、おそらく住民の方々はそのネーミングに(一定程度?)満足というか納得した結果、決まった名称なのでありましょう。傍目でついつい突っ込みを入れたくなるものの、あまり余計なお世話をやくのは場違いなのかもしれませんですね。

 

と、途中からはすっかり講演の内容から離れて、個人的な思い巡らしの方へとシフトしてしまいましたが、そんな思い巡らしのきっかけにもなった講演会でありましたよ。

 


 

このほどはまた定期的な父親の通院介助で両親のところへ出向くため、明日(1/20)はお休みということに。どうぞ明後日(1/21)にお目にかかれますよう…。

 

日比谷図書文化館の「THE SHOWA MUST GO ON」展を見たあとには、ついつい昔の記憶を蘇らせたりもしてしまい…。「ああ、日比谷界隈の映画館にはずいぶんとお世話になったっけなあ」と。

 

とはいえ、盛んに映画を見るようになった中学生の頃に、映画館に入り浸るほどの小遣いがあるでなし、映画のシャワーとして浴びていたのはもっぱらTVのロードショー番組でしたけれど。その頃のロードショー番組では結構な頻度で往年の西部劇が取り上げられており、初めて買った映画音楽のLPレコードが「西部劇音楽全集」みたいな2枚組であったなあ…てなことを振り返っておりました折に「そういえば」と思い出すことが。

 

しばらく前にWOWOWプラスで放送されていたジョン・ウェインの映画『騎兵隊』を録画して、いつか見ようと思いながらお蔵入りになりかかっておったなあと。ようやっと、らしい機会が巡ってきたと見てみましたが、ジョン・フォード監督作品とはいえ、「どうもなあ」という話ではありましたな(個人の意見です)。

 

ところで、その『騎兵隊』の音楽、オープニングで歌われる合唱曲(先のLPにも収録されていましたっけ)とは別に、北軍の騎兵隊(話はアメリカ、南北戦争下のエピソード)が南へと進軍する際に、兵士たちが行軍しながら歌っていた曲に「ああ、これ!ジョニーが凱旋するとき!」と膝を乗り出すことに。

 

ま、膝を乗り出すとまで言っては大袈裟ですけれど、最初にこの曲のメロディーに触れたのは映画『第十七捕虜収容所』ではなかったかと。当時はネット検索など影も形もありませんので、「なんつう曲であるかな?」と気にしておりましたところ、吹奏楽をやっていた関係でモートン・グールド作曲の『アメリカン・サリュート』という曲に接し、「まさにあのメロディ―ではないかいね」と。その流れでもって、『アメリカン・サリュート』に引用されている元ネタが『ジョニーが凱旋するとき』であることに、ようやっと到達したわけなのですね。

 

ですが、曲名が分かったところでひと段落ついてしまった感になっていましたが、実は出自が南北戦争にあることまでは知るに至っておらず…。はっきり申せば、このほど『騎兵隊』の中で歌われていることとの関連から調べてみれば、「南北戦争当時に北軍・南軍問わず広く歌われていたのであると、今さらながらに知ることになったのでありますよ。南北戦争を扱った『騎兵隊』の中で使われるのはもっともなことだったわけです。

 

そこで、Youtubeでもって勇まし気な男性合唱で歌われる『ジョニーが凱旋するとき』を聴いてみましたところ、歌詞の中にあたかも南北戦争の経過をたどるようなところがあることにも気付かされたのですね。1861年には戦争が始まった、1862年には南北両軍ともに何やらまずい状況になり、1863年になるとエイブ(リンカーン大統領)が奴隷制を廃止、1864年になると北軍が5000万に及ぶ動員をかけ、1865年にようやく講和の話し合いが出てくる…てな具合に。

 

ところが、Wikipediaの項目『ジョニーが凱旋するとき』に掲載されている歌詞には、こうした年毎の経緯の記述が全く無い…とは、おそらく歌詞のバリエーションが多様だということなのではないかと。実際に戦時下に歌い継がれたとなりますと、替え歌なども横行したことでしょうしね。

 

で、改めてWiki掲載の歌詞を見ますと、「When Johnny comes marching home(ジョニーが行進しながら家に帰って来る時には)」(こちらがオリジナルの題名ですが)どう出迎えてやるか、心からの歓迎、バラの花、月桂冠などの言葉が歌詞には散りばめられておりましたよ。ただ、これ、「ジョニーが帰ってくるとしたら…」という意味合い、というか色合いが濃厚に漂っている気がしたりもする。

 

日本語題名が付けられたときに、本来は無い「凱旋」イメージを付けてしまったので、勇ましい行軍歌と受け止めてしまいますですが、日本の軍歌・戦時歌謡も時に勇壮を装いつつ、底には短調でもって悲壮さを湛える(古関裕而の曲とか)ことがあるように、なかなかにシニカルな含みがあったりするような。

 

果たして、帰ってきたならと出迎える準備は万端ながら、ジョニーは帰ってきたのですかねえ。タイトルの名前が同じだというだけで繋げてしまうのはいかがなものかとは思いつつも、映画『ジョニーは戦場へ行った』の主人公を思い浮かべてしまったり。

 

初めは勇ましさ全面で歌い広がったかもながら、戦争が長引くにつれて表面化できない厭戦気分が歌詞に、あるいは歌いぶりにも入り込んでいったのかもと思ったりしたものです。ご存じのように、アメリカの大内乱である南北戦争は1865年に終結しますが、戦争が終わって不要になった武器が商品として幕末の日本に大量に流れ込む、結果として戊辰戦争の武器が潤沢に用意されることになったとは…。輸出してほしいのは厭戦の方ではなかったかと思ってしまうところでありますよ。

では、改めて吉野ヶ里遺跡の王家の谷…と言っても盛り土されているので谷ではありませんが、ともあれ北墳丘墓の中に設けられている展示施設のお話をもう少し。

 

 

こちらは「墳丘墓くらべ」というコーナーでして、後列左端が吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓、長方形をしていることは先にも触れましたですねえ。そして、後列右端にあるのが後の時代の古墳の代表格、前方後円墳です。そもそも「弥生時代の墳丘をもつ墓は、古墳時代の古墳と区別して「墳丘墓」と呼ばれています」ということではありますが、やはり後の古墳の祖型ではありましょうかね。

墳丘墓という墓の形式は、弥生時代前期末に畿内を中心に方形周溝墓と呼ばれる低墳丘墓が出現しはじめ、北部九州でも墳丘や溝で区画された墓が弥生時代中期には出現しています。

上に並んだ模型では真ん中にあるのが方形周溝墓ですけれど、稲作の伝播が西から東へというルートと反対に、墓の形は東から西へ伝わった…ということになりましょうか。ただ、後の前方後円墳の広まりのように、畿内の王権の強さを示すこととも違うような。実際、山陰地方では独特な形をした四隅突出型墳丘墓(上の写真では前列左側)が作られたりするのですし。

弥生時代中期後半以降には、方形周溝墓は畿内から東海、北陸に順次広がりをみせ、山陰地方では四隅突出型墳丘墓など異なる形の墳丘墓が現れますが、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は、まだ類例の少ない弥生中期のはじめに、国内では他の地域の墳丘墓よりもはるかに大きい規模で築造されています。

確かに吉野ヶ里の北墳丘墓は、以前大阪・高槻市の安満遺跡で見た方形周溝墓と比べれば格段に大きいですな。それだけに、単に形が方形で似ているてな話ではない独自性、それは独自の祭祀を伴ったものでもあった、そんな気がしてくるところですなあ。

…やがて、古墳時代に入ると墓の形式が前方後円墳に代表される全国共通の形式に変わり、ひとつの勢力に統括されていきますが、この弥生時代には、勢力を持った集団が各地に存在していた事がうかがえます。

ま、各地に勢力が台頭して拮抗し…てなことは「だからかぁ…」と戦乱の世でもあったことを思わせるのですけれどね…。

 

 

なにやら墳丘の形の話で長くなってしまいましたですが、葬送儀礼は祭祀とも関わっておるわけですなあ。祖霊を祀るということがとても重要視されていたのであると。

 

 

ですので、高い地位にあった人を葬るにあたっては「副葬品が表す地位をともなったまま墳丘墓に埋葬され、死後もなおその身分を保持して、その社会を導くものと考え」ていたようでありますよ。下の写真は「とりわけ豪華な副葬品が出土した1002号甕棺をモデルに、当時の棺の姿を復元し」たものであると。

 

 

こうした再現を見ますと、棺として普通に思い浮かべる直方体のものとは違って、何やら胎内回帰を思わせるところがありませんでしょうか。ま、そんなことや副葬品のことはともかくとしまして、棺内が水銀朱で赤く塗られているのが見えておりましょう。発掘例によっては、「頭蓋骨や副葬品の銅剣にまで塗られたように朱が付着している例もあ」ったそうな。

…水銀朱は、辰砂、朱砂、丹などともいい、科学的には硫化水銀(HgS)という強い殺菌作用をもつ物質です。これは、中国では古くから不老不死の象徴として珍重されていたもので、弥生時代の日本にも既にそうした思想が入っていた可能性が高いと考えられています。

展示としては、これ以外にも墳丘墓の作り方ですとか、一方で遺跡の保存のありようなどを説明しているところもありましたが、些か長くなりましたのでここまでにしておくことに。

 

お次は「吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています」と歴史公園HPに紹介されている北内郭へと向かいます。北内郭には最高司祭者もいたといいますので、北墳丘墓との関わりも深いところがありましょう。では、次回にまた。

さて、杉並区立郷土博物館から養蚕つながりで?立ち寄った東京農工大学科学博物館ですけれど、機械が居並ぶ常設展示のほかに企画展「シルクが切り開く未来展」というのが開催されておりましたですよ。

 

…シルクと聞くと「糸」や「布」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?実はシルクを溶かしたり、固めたりして「糸」以外の用途に利用する試みが近年盛んに行われています。東京農工大学が進める工学と農学の枠組みを超えた医療及び食料問題に対するシルク研究は、シルク由来タンパク質の新たな活用方法を社会に提案しています。(同展フライヤー)

恥ずかしながら「糸や布以外に利用方法があったのであるか?」てな意識の者が見て、咀嚼できたところを振り返ってみるといたしましょうね。ま、入口にあったボードに来場者が貼ったシールの数を見ても、多くの方と認識の異なるところではなかったわけですが…。

 

シルクは主にシルクフィブロインとシルクセリシンという2種類のタンパク質から構成されている。シルクフィブロインはシルク繊維の芯を形成するしなやかで強靭な構造タンパク質であり、シルクセリシンはその周囲を包み込み、接着剤のように繊維束を結合する役割を担っている。

 

とまあ、そんなタンパク質の特性はいわゆる「シルク」と言って思い浮かべる糸や布として利用するにメリット大(なにせ「しなやかで強靭」)だったわけですが、カイコが吐き出した糸を、糸以前の物質として見ることで新たな活用法が見いだされるということでありましょう。

 

 

それが、例えばナノファイバー/不織布であったり、チューブ/人工血管であったりと、さまざまな分野で生きてくるようで。それ以外にも、シルク素材のスポンジの実用化が研究されたりしていると。

シルクフィブロインを用いたスポンジは、生体適合性や体内で分解される性質を持つことから、細胞の三次元培養や損傷した組織の再生を促す足場材料として有望な素材とされている。…例えば、骨のような硬組織のみならず、皮膚や筋肉といった軟組織の再生、さらには培養肉の作製などの用途に対応した材料として、実用化が進められている。

カイコの糸から医療領域、さらに食糧問題に関わるところまでの応用ができるのでしたか。さらには、生分解性プラスチックまで研究されていると。「シルクフィブロインは海水中での分解性を有する」ということですので、今も日々増殖しているであろう海洋投棄プラスチックの問題に少々明るい材料となるのでは(すでに海中にあるプラは如何ともしがたいですが…)。

 

とまあ、応用範囲が多そうなシルクですが、シルク素材を培養の足場として牛や豚などの細胞から肉を増殖させるという「細胞農業」とやら、利点として挙がるのはいいことづくめではありますがねえ。

 

 

日々の食べ物にはちと慎重になりがちな性質なだけに「どうなのかなあ…」なども思いつつも、そうこう言っていられない未来があったりするのかもしれんし…とも。ではありますが、やはり一般人の考えるところは似たり寄ったりなのか、会場出口のところに「培養肉を食べてみたいか?」とあってまたシールはりつけるボードがありまして、やっぱり慎重派が多いなとは思ったものでありますよ。

 

ま、医療現場でシルク素材のさまざまなもの(例えば人工血管とか)の利用が進んでいけば、いざとなればそれが身体に入ることにはなりましょうから、培養肉だけの話でもないでしょうねえ。とかく、先端的に進められる科学研究の中には、常人には「うむむ」と感じてしまうものもあるということで。とはいえ、知らないことを知ることになった展示でありましたよ。

 

ちょいと都心へ出たついでで、久しぶりに日比谷図書文化館に立ち寄ったのでありますよ。かつての都立図書館は今や千代田区の郷土資料館的な役割も担う複合施設となっておるのですなあ。ただ今のところ、特別展「THE SHOWA MUST GO ON-「昭和」という舞台を観に行こう-」が開催中でしたので、これを覗きに。

 

 

「The show must go on」とはよく聞く言葉で、幕があがるからには親の死に目にも会えない舞台人…てな印象とセットになっている感がありますけれど、この言葉にshowa(昭和)を引っかける語呂自体は悪くない。ただ、いつまでも昭和であってほしい…みたいなふうに受け止められなくもありませんが。

 

とまれ、千代田区の郷土資料館的施設でもってこの特別展とは?ですが、「千代田区の特徴のひとつに、近代から現在に至るまで、数多くの劇場施設があることが挙げられます」(同展HP)と言われて思い巡らしてみますと、なるほどね!とはなりましょうか。主に日比谷・有楽町界隈には帝国劇場、日生劇場、東京宝塚劇場、かつては日劇もありましたし、以前とは形が異なるにもせよ、数多の映画館がひしめいており、ひと頃はずいぶん通ったものだと思い出したりもするという。

 

ですが、日比谷・有楽町界隈はどうしたってメインエリアであるも、改めて千代田区内と考えてみれば、皇居を挟んだ反対側には国立劇場まであるのですものねえ。でも、よく気付いて特別展に企画にしたものだなと、妙なところに感心したりも。

 

ただ、現在千代田区となっているあたりはあまりに江戸城に近い。ですので、江戸三座と言われて芝居の賑わいを一手に引き受けるような場所は、天保の改革によって浅草といういわば郊外にまとめ置かれた(移転させられた)ようですな。なにしろ、当時の芝居小屋は周辺の風紀紊乱の元となる「悪所」とされていたわけで。さりながら明治になりますと、少々様子が変わってきたようで。

 

「明治政府は欧米視察の中で近代劇場が社交の場、転じて政治・経済の話を行う場となっていることを目にし」たことから、こりゃNational theaterを作らにゃあかん!となったそうな。もっとも、鹿鳴館外交の時代、この国を挙げた劇場開設機運に歌舞伎の芝居小屋は想定されておらなかったでしょうけれど。

 

折々に国立劇場創設案が検討されるも、いつしか国の予算は戦争絡みに持って行かれてしまったりもして、いっかな実現の目処が立たない。結局のところ、日本に晴れて?国立劇場が誕生したのは1966年、場所は千代田区隼町であって、皇居に面した同地にはかつて陸軍関係施設がかたまっていたのを戦後はGHQが接収、1958年に返還されたという曰くあるロケーションであったと。

 

明治当初の国立劇場構想は欧米風の近代的劇場だったわけですが、戦後になっていざ国立劇場開設となりますと「西洋化した社会において危機に瀕する日本の伝統芸能を継承する劇場」とコンセプトが大転換していたとは、なんとも奇しき話でもありますですよねえ。「悪所」と言われていたのでは…。

 

そんな国の動きとは全く別に、明治以降も民間レベルで娯楽の追及は進むのですよね。千代田区との関わりでは明治23年(1890年)、元は大名屋敷の並んでいた跡地を陸軍が使っていた神田三崎町界隈(現在のJR水道橋駅の南側一帯)の払い下げを受けた三菱が市街地化にこれ努める中、三崎三座と称される劇場街もできていったそうな。これは江戸三座と言われた中村座、市村座、森田座とは別ものの、三崎座、川上座、東京座であったと(川上座は川上音二郎の劇場)。

 

今でこそ神田三崎町の辺りは、出版・印刷・製本関連の業者集積地てなイメージですけれど、当時の神田が劇場街として認知されていたと裏付けられることとして、昭和2年(1927年)には関東大震災の被災により神田一ツ橋から国立市(一部、小平市)に移転することになった東京商科大学(現・一橋大学)の跡に国立劇場を建てようと計画されたことがあったとも。この時はやがて来る世界大恐慌で頓挫したようですが。

 

一方で、震災復興が進む中で今度は日比谷界隈に劇場が続々建てられるといったことにもなっていったと。これは「当時3万人を数えた丸の内の出勤者やその家族」を、劇場を仕掛ける側がターゲットとしてようでありますよ。昭和8~9年(1933~34年)、日劇や東京宝塚劇場、日比谷映画劇場(現在の日比谷シャンテ)などができたそうな。

 

映画館と言って今ではシネコンの印象ばかりになりましょうけれど、往時は大きな空間でもっていかにもな「劇場」感を出しておりましたなあ。日比谷映画やお隣の有楽座はもとより、ちと離れますが京橋のテアトル東京とか東銀座の松竹セントラルとか。場所はさらに離れて錦糸町楽天地にあった江東劇場では、映画の前座?に歌謡ショー(確か殿様キングスだったような…)があったのを子供の頃に見た記憶があったりもして、「ああ、劇場なんだなぁ」と。

 

話を千代田区の日比谷・有楽町に戻しますと、この地域を劇場街にした推進力として阪急総帥・小林一三が「有楽町アミューズメント計画」というのを画策していたそうなのですな。東京宝塚劇場の開設を嚆矢として、考えてみれば日比谷映画も有楽座も東宝(東京宝塚)系列ですものね。

 

ちなみに映画館で「映画単独のプログラムを販売するのは日本独自の文化」だそうですな。始まりは昭和22年(1947年)公開の『アメリカ交響楽』(作曲家ガーシュウィンの生涯を描く)であると。さらにちなみに、「劇場名が入っている「館名入り」と呼ばれるプログラムが発行できたのは大劇場の証でした」と。

 

もひとつ余談ですけれど、NHK「紅白歌合戦」は大晦日恒例となっておるわけながら、そもそもは昭和26年にラジオの正月番組としてスタートしたそうですね。第4回にテレビ・ラジオ同時生放送を始めるにあたり、会場として大きな劇場が必要になったのですが、「大劇場の正月は新春公演でうまっていた」ことからやむなく番組を大晦日へ。それが今や当たり前のように大晦日番組となっておるそうな。

 

とまあ、余談も含めて千代田区が劇場街だった昭和を振り返る展示、まずまず興味深く見てきたのでありました。シネコン全盛となってからは、あそこにもここにも軒並み映画館・劇場を見かけることこそ無くなりましたですが、それもまた懐かしい昭和の風景ということになるのかもしれませんですね。