山梨県韮崎市に韮崎大村美術館を訪ねたわけですが、市民バスに乗って韮崎駅に戻るも、列車待ちの少々の時間を利用して駅前周辺を探索することに。

 

 

ま、駅舎自体はなんつうこともありませんな。ですが、駅前ロータリーの傍らに立つ「球児の像」は韮崎らしさが出ているところかと。

 

 

「球児」と聞けば単純に高校野球あたりを思い出すわけながら、ここ韮崎ではサッカーのようで。確かに高校サッカーで韮崎高校の名前は耳にしたことがあるものの、昨今の実力はどうなんでしょう…。

 

ともあれ、駅前にはそんなサッカー推しの像とともに、郷土の偉人を誇るようなものもありますな。例えば、大村博士はもちろんその一人でしょう。

 

 

こちらの看板は単に大村美術館の案内というだけかもですが、駅を背にして左手側にある大きな複合施設にも懸垂幕が掛かっておりましたですよ。下の写真では右端の方に…といっても、小さすぎて見えないでしょうけれど。

 

 

ともあれ、この「韮崎市民交流センター NICORI ニコリ」とやら、観光案内所も入っているようでしたので(遅まきながら)覗きに近寄ってみれば、入口近くにはもうひとり、韮崎出身で知名度はおそらく全国区と思しき人物の顕彰碑(?)を発見いたしました。

 

 

ぞの名は小林一三、山梨出身ながら関西方面での方がよく知られておるやもしれませんなあ。なにせ阪急電鉄の社長を務めて、百貨店を作ったり、沿線の宅地開発を進めたり、さらには宝塚歌劇団の生みの親でもあるわけで。

 

と、かかる著名人の碑を入口前に置く「二コリ」の中には「韮崎市ふるさと偉人資料館」なる施設があると気が付いたものですから、そりゃあやっぱり覗かせてもらおうということに。入館無料というので、それこそ気兼ねなく(笑)。

 

 

折しも開催されていましたのは『"昭和100年"を迎えて韮崎市の人とくらし ~産業・交通・災害編~』という企画展でして、ご当地の産業の発展(養蚕から果樹栽培への転換)、交通事情の変化(中央本線や道路網の整備)、災害への対応(戦災やら台風やら水害やら…)に絡む展示がなされておりました。

 

 

が、展示の性格上致し方なしではありますが、もそっと人物像の紹介があるものと思っていましたので、どちらかというと市民の振り返り向けの無いようであるかなとも。館内は写真撮影不可でしたので、大村博士や小林一三ほどの大それた感はないにしても、記憶に残った二人のことを記しておくといたしますか。

 

ひとりは権藤はなよという歌人・童謡作詞家でして、「誰?」というのが正直なところでしたけれど、あの!童謡『たなばたさま』の作詞者であるそうな(ちなみに題名は『たなばた』かと思ってましたが、正しくは『たなばたさま』なのですなあ)。ま、有名な童謡は数々あれど、その作詞者の名前を知っているものはほとんどありませんけれど…。

 

もうひとりは保阪嘉内という人でして、こちらも「誰、それ?」と思う方は多かろうと。こういってはなんですが、この人自身よりも深く交友して影響を与え合った友人が超有名人なわけですね。それが宮沢賢治となれば。賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に登場するカムパネルラは保阪嘉内イメージの人物であるということでもありますし。

 

 

韮崎駅前に「銀河鉄道発祥の地にらさき」という看板が立つのは、そもそも賢治に『銀河鉄道の夜』を書かせるきっかけを与えたのが保阪嘉内であるからのようで。嘉内がハレー彗星を観測して「銀漢を行く夜行列車のよう」と賢治に伝えたことが、作品の原点という説もあるようでありますよ。

 

ちなみに上の写真では、高台にすっくと立つ観音様(平和観音像)の方が目立ってますですが、八ヶ岳から流れ出た溶岩流の最終到達点の崖の上にあって、富士山の眺めがよろしいということですので、いつか登ってみましょうかね。と、ちなみについでですが、駅の向かいには「ライフガーデンにらさき」というショッピングモールがあるのですな。

 

 

駅前立地のわりにずいぶんと広い敷地を見受けていたわけですが、先の「韮崎市ふるさと偉人資料館」の展示解説に曰く、もともとは養蚕がらみの製糸業を手掛けていた片倉工業の韮崎工場跡地であると知りました。先の展示で韮崎の産業に養蚕が挙がっていたことに「なるほどなあ」と思ったものなのでありました。

 


 

毎度毎度のことではありますが、父親の通院介助のため両親のところへ行ってまいりますので、明日(12/9)はお休みということに。明後日(12/10)にまたお目にかかれますと幸いでございます。

吉野ケ里遺跡を見むとて佐賀県まで出かけ、吉野ケ里歴史公園の入口へとたどり着きながらもたもたしているような嫌いがないではなし…。ですが、このとば口部分がすでに「入口ゾーン」というひとつのエリアとして同公園HP上でも紹介されておりますとおり、素通りできない場所でもあるわけですな。

 

で、その入口ゾーンには「遺跡巡りの予習としてどうぞ」とHPに紹介されております「ガイダンスルーム」を一渉り見ておこうと、そういう次第です。ちなみに、このガイダンスルームを眺めるだけならば入場券を買う前に(つまりは無料で)入れるように思いますが、吉野ケ里遺跡を目の前にして入場しない…という人もいませんね、きっと(笑)。

 

「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山縞に依りて国邑を為す…」と始まる『魏志』倭人伝。…その中に描かれた邪馬台国や女王卑弥呼について、長い間多くの人達が研究をしてきました。
当時の日本へは、中国から様々な文化が伝わって来ました。吉野ケ里は、その文化を受けて発展した、大きな弥生のクニの中心集落だったのです。

ということは、いかに吉野ケ里が大きな遺跡であっても、ここが邪馬台国だったというわけではないのですな。『魏志倭人伝』には邪馬台国に至る道筋にいくつものクニがあったことを示していて、そのうちのいくつかは「ここらだろう…」という目処は立っているも、全容は明らかとなってはいない。もっとも邪馬台国論争では、邪馬台国が北部九州にあったかどうかさえ、意見の分かれるところではありますが…。

 

 

ともあれ、多くのクニが乱立状態(争いが絶えなかったところを卑弥呼がトップに立って収まった?)だった2~3世紀頃、吉野ケ里もまたひとつのクニとして存立していたのでありましょう。吉野ケ里の位置関係も確認しておきましょうね。

 

 

大陸や朝鮮半島が先進文化を伝えてくれるとすると、最も近い海上ルートの玄関口である玄界灘一とは、脊振山地で隔てられておりますので、対外的に直接的なやりとりはしにくいように思えてしまいますな。さりながら、玄海灘は「灘」の文字が示すとおりに荒海だったであろうという想像は難くない。一方で、些か迂回ルートにはなるものの、有明海は内海ですから比較的穏やかで船の行き来はしやすかったのではなかいかと。

 

また、吉野ケ里は内陸深くにあるとはいえ、有明海に注ぐ筑後川が近くを流れていて、これを川舟で遡上すれば物資輸送も容易なのではとも思えるような。ま、対外的なやりとりは想像でしかありませんですが、弥生の時代に何より重要なのは稲作適地であるかどうかでしょうかね。実際、上の地図にも見る通り、吉野ケ里は平野部の中に位置しておりますものね。

紀元前、紀元後にまたがる約600年間の時代(紀元前3世紀~紀元3世紀頃)を、日本では弥生時代といいます。…弥生時代の大きな特徴は、水田でコメを作り始めた事です。吉野ケ里でもその頃に、小さい集落ができました。…(それが)弥生時代の終わり頃になると、集落はより大きくりっぱになります。「祭殿」や「物見やぐら」などの大きな建物が立ち並び、重要な集落のまわりには、二重三重に壕(溝)が掘られていました。

 

中央に見える前期の小さな円形の環濠が大きくなっていくさまは、まさに「ムラ」から「クニ」へと言ったところでしょうか。広がりがいびつな形をしているのは、遺跡のある場所が周囲の平野部からこんもり盛り上がった丘状の場所に位置していて、丘の形なりに広がったと言えそうです。

 

 

とまあ、そんな丘の上の遺跡から「歴代の王の墓や、一般の人達の墓、竪穴住居、高床倉庫、物見やぐら、そして大型の建物の跡など」数々の遺構が発見されたわけですな。ガイダンスルームの「昔の生活の跡を見てみよう」という呼びかけに送られて、さてと遺跡そのものを見に行くことにいたしましょうね。

東京オペラシティで「ヴィジュアルオルガンコンサート」を聴いた帰りしな、ちと杉並区立郷土博物館に立ち寄ったのでありますよ。

 

これがなかなかに不便なところにありまして、いささか二の足を踏んでおったのですが、オペラシティから少々北上した方南通りを通る京王バス(新宿駅西口~永福町駅)の存在に気付いたおかげで、楽に移動することが出来ましたですよ。ま、この部分はどうでもいい話ですが、東京にあっても全く縁の無い街並みを抜けて行くバス路線というのも楽しからずやではありまして。

 

 

ともあれ、たどり着いた博物館では特別展「昭和歌謡は杉並から生まれた テイチク東京吹込所物語」なる展示が行われておりまして、かつて杉並区堀ノ内にテイチクレコードのレコーディングスタジオがあった…ということに触れる企画展。1999年に閉鎖されたそうですが、まさにその当時は杉並に住まっておったものの、全然知らなかった…という思いも沸いて、出かけてみた次第です。

 

 

ただ、テイチクレコードと聞いて爆と思い浮かべるところは「演歌のレーベルじゃね?」ということくらい。まあ、展覧会タイトルも「昭和歌謡」と言ってますけれど、かなり年代物の昭和歌謡となりましょうかね。展示室の入口部分(室内は写真不可)ではこんなふうに、出迎えてくれるのは三波春夫原裕次郎という具合で。

 

 

現在のテイチクエンタテインメントの元となる帝国蓄音器商会が設立されたのは昭和6年(1931年)ですので、まさに昭和と共に歩んできたレコード会社ということになりますな。当初はなかなかヒット曲に恵まれず、ビクター、コロムビア、ポリドールといった外資系のレコード会社に押されっぱなしだったとか。まあ、レコードという媒体自体が外来のものですしねえ。

 

さりながら、昭和9年に社運を賭けて?東京吹込所(堀ノ内吹込所)を設けたところ、これが最新設備を誇ることになかったか、移籍組も含めて作曲家や歌手との契約も進み、「外資系と肩を並べる大手会社に休息に成長したそうな。特に、古賀政男を専属作曲家(昭和9~14年)に迎らえたことは大きかったようです。

 

ちなみにざっくりとした時代区分でもって、テイチクの名だたる歌手名を挙げてみますと、このようになるようですな。

  • 戦前期:楠木繁夫、美ち奴、ディック・ミネ、藤山一郎
  • 戦中期:東海林太郎
  • 戦後復興期:田畑義夫、菊池章子、菅原都々子
  • 高度成長期:石原裕次郎、三波春夫

あもちろん初めて目にする名前のありましたが、半数以上は知っている。これも親世代の影響ですので、個人差は大きいでしょうけれど、いわゆる「懐かしのメロディー」的な番組の常連だった人たちが多いですよね。つまり、懐かしがられるほどに売れた歌手たちだった…ということになりましょう。

 

ですが、それぞれの時代にはそれぞれの世相が反映しているのでもありますよね。例えば、戦前期の曲ながら今でもカラオケで歌われることのある藤山一郎の『東京ラプソディ』(古賀政男作曲)は昭和11年(1936年)の作であると。

 

展示解説には、藤山一郎は「楷書の歌手」と言われた…てな紹介がありましたですが、改めて東京音楽学校(要するに後の芸大音楽学部ですな)の出身であると言われれば、あの歌いぶりはアカデミックな音楽教育から出ていたことだったのであるなあと。展示には藤山が書いた『東京ラプソディ』の編曲楽譜がありましたけれど、なるほど系統だった音楽教育を受けたのであろうと思ったものでありますよ。

 

とまれ、帝都・東京の名所案内さながらの『東京ラプソディ』は勢いのあるアップテンポの曲であるわけながら、翌昭和12年(1937年)になり、日中戦争の時代となってきますともっぱら「戦時歌謡」が聞こえてくるようになるのですな。

 

当初の戦時歌謡は「哀調を帯びた暗い曲調」だったようで、思い返せば♪徐州徐州と人馬は進む…と歌われる『麦と兵隊』(昭和13年)あたり、いかにもな曲調かと。そして、これを歌ったのが東海林太郎でしたか。直立不動で歌うその姿勢から、東海林太郎こそ東京音楽学校出かいね?と思えば、満鉄の職員だったという経歴だそうで。時代ですなあ。

 

と、当初は哀調を帯びていた戦時歌謡ですが、太平洋戦争とともに戦時色が一層濃くなっていきますと、国民を元気にする(カラ元気ですかね…)ようなものに変わっていったと。要するに「国策歌謡」とでもいうべきプロパガンダですよね。やたら威勢のいい『月月火水木金金』とか表向き明るい『隣組』とか、作曲家・古関裕而が『若鷲の歌』、『露営の歌』などで大活躍したのもこの時期になりましょうか(古関はテイチクでなしにコロムビア専属だったようですが)。

 

さてと、戦後の復興期、ここらの時代背景という点では、もちろん戦時歌謡の類は姿を消しますし、GHQの指令によって時代劇映画が作れなくなった(日本刀を振り回すチャンバラは物騒ということなのでしょう)のと同様に、時代劇背景の歌曲もまた無くなったわけですが、その後の高度成長期、ここに三波春夫が登場する(もちろん時代劇背景の曲もばんばん歌う)のは、これまたやっぱり世相を思わせるところではなかろうかと。昭和32年(1957年)のレコードデビュー第2作がかの『チャンチキおけさ』であったとは、昭和のサラリーマンの大宴会が思い浮かぶではありませんか。

 

後に国民的歌手と言われて、東京オリンピック(1964年)では『東京五輪音頭』を、大阪万博(1970年)では『世界の国からこんにちは』を歌うなど、昭和の時代とは切り離せない存在になりますな。そんな三波春夫には日本全国からご当地音頭を歌ってほしいという依頼が続出。果ては(展示を見て知りましたが)『ルパン音頭』(1978年、映画版『ルパン三世』で使われた)や『21世紀の宇宙音頭』(1978年)なんつうものまで登場していたとは。

 

とまあ、テイチクレコードのことを概観いたしますと、やっぱり演歌のレーベルという認識もあながち間違ってはいなかったと思うわけですが、テイチクにもアイドル歌手がいた?!というのが高田みづえ(1977年、『硝子坂』でデビュー)だということで。活動期間は7~8年と短く、その後は相撲部屋のおかみさんになってしまったわけですが。ついでに言えば、個人的にひと頃カラオケでよく歌ったなあと思い出した雅夢の『愛はかげろう』(1980年)もテイチクでしたか…。 

 

とまあ、年代的に懐かしがるは最後の方に出てくるほんの少々でしたですが、しみじみと昭和の世相を感じつつ見て廻った特別展でありますしたよ。

JR中央本線の沿線を下諏訪、上諏訪、茅野と各駅停車状態で、そこここの美術館・博物館を訪ねたことを振り返っておるわけですが、お次に立ち寄ったのは少々東京方面寄りに近づいた山梨県の韮崎市でありまして。2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞したことで知られる大村智博士の個人コレクションが故郷・韮崎市に寄贈されたのを受けて誕生した韮崎大村美術館を覗こうと思いましてね。

 

 

一度、4年ほど前の2021年に訪ねたことはあるのですが、ちょうど「愛と情熱の画家 三岸節子 生誕120周年記念展」という展覧会が開催中で、予て気になる画家であった三岸節子作品との対面に及んだ次第でありますよ(会期は2025年11月24日で終了)。

 

 

ちょうど10年前、つまりは作家誕生110年の回顧展を武蔵野市立吉祥寺美術館で見たときに、自身の言葉として「色彩で奏でる」とか「絵画で奏でる音楽」といった表現がなされてありました。そのときには本人が言及していたボナールやブラックとの関わりで作品に接しましたけれど、少々時間が経って見ると、素直にフォーヴィスム、取り分けマティスを即座に思い浮かべたり。室内の情景を描いた1936年作など特に。

 

三岸が渡仏できるようになったのは戦後のことですので、画壇のリアルタイムな潮流としてフォーブに接したわけではありませんが、自らの芸術と親和することを感じ取ったのが色彩の用い方だったのかも。先ほどの『室内』はマティスを思い浮かべたりしたわけですが、方向性はさらに進んで、静物(特に花)や風景を描きつつも、画面が抽象化していったりもするわけでして。

 

1970年代初め頃に制作された『カーニュ風景』(三岸のフランスでの滞在先)や『小運河にて』などは画像をご覧いただけないのが残念な限り。ただ、塗りのバリエーションは画像や印刷物を見ても「なんだかな…」でしょうから、やはり実物を目にするに如くは無しでしょうけれどね(ですので、図録購入は思いとどまりました)。その延長からすれば、リトグラフ作品が展示されていた花の絵も、三岸直筆の原画でこそ見たいという気になりますしねえ。

 

ところで、大村美術館で三岸節子の回顧展とは?という点に関しては、三岸が女子美術大学の卒業生(市首席だったそうな)であることと、大村博士が女子美の理事長をしていたことのつながりですかね。大村博士にしても、女子美の理事長を引き受けたことがきっかけで日本近現代の女性美術家たちの作品を収集するようにもなったようですし。

 

そんなことから常設展示のコーナーでは、見事に女性作家の作品ばかりが並んでおりましたですよ。堀文子の『雪嶺』に見る厳冬のおさえた色彩と『アフガンの王女』の鮮やかな(それでいて憂いをまとう)色合い、あたかも油彩画かとも思う小倉遊亀の『山吹』、そして片岡球子にしては表情がおとなしい印象の大作『面構 浮世絵師烏亭焉馬と二代団十郎』、さらにはちょいと前にEテレ『日曜美術館』で取り上げられていた佐野ぬいのコラージュ作品の妙などなど、実に見ものの多い展示となっておりましたですよ。

 

てなことで、小粒な施設ながらもお楽しみのある韮崎大村美術館。公共交通機関利用者にはバス便が少ないという難点はあるも、北側に開けた眺めも堪能できますし、訪ね甲斐はあるものと思っておりますよ(ちなみに眼前の稜線は、八ヶ岳ではなくして通称「にせ八つ」とも言われる茅ヶ岳の山並みですけれどね)。

 

 

福岡県久留米市から路線バス利用でたどりついたのは、佐賀県の吉野ケ里歴史公園。早速中へと気持ちは逸りますが、入り口の感じからしても「ずいぶん広そうであるな」という印象が。すぐ脇にあった案内図を見れば、このとおりです。

 

 

折しも炎天下に曝されている状況で、どうやら東京ドーム22個分もあるらしい歴史公園を踏破できるものであるか…と、心配が先立ってしまったりもしたものでありましたよ。ともあれ、入り口(東口)からまっすぐに続く道を進みますと、ほどなく歴史公園センターというモダンな?建物に出くわします。

 

 

正直な感想として、ここに立ち至りましたその時、思い浮かんだのは大型レジャー施設のプールの入口?といったところ。横方向にやたら長い建物の通路には更衣室やシャワー室があったりするような気がしてしまいまして。

 

 

 

で、この天蓋を抜けると、目の前には大きな流れるプールやら波の出るプールが広がっていると…。ま、そんなイメージが広がったのはただただ暑い日だったかもしれませんなあ。実際には上に見る通路にはミニシアターやガイダンスルームがありまして、さくっと吉野ケ里遺跡とは?を教えてくれるわけですが、どうもここを素通りしてそそくさと遺跡に向かう方々が多かったような。ちともったいないですな。

 

 

ちなみにこちらは反対側(遺跡に向かって左手側)の通路でして、明るさが多い分、この方がレジャー施設っぽいかも。浮き輪やサングラスを売っている売店が並ぶような雰囲気ですが、実際に売店やレストランが入っておりましたよ。奥の方には特別企画展の会場もあるようですが、それは後から覗くとしましょう。

 

 

ということで、手始めに立ち寄ったのは(右手側の通路にある)ミニシアター、ここでは「蘇る“弥生の都市”」という映画(約12分)が上映されておりました。結構、今風の作りの映像(弥生の人たちのビジュアル化など)であるなと思いましたが、年齢相応の受け止め方かも。若い人はまた違う印象かもですね。

 

そんなミニシアターの映像で「ああ、こういう祭祀があって、争いもあって…」と縄文との違いをしみじみ感じたところで、向かいにあるガイダンスルーム(上で言った特別企画展の会場とは別ものです)へ。改めて吉野ケ里遺跡の概要を把握せんとする…場面ではありますが、そのおお話は次回ということで。