九州・福岡の旅話をしてまいろうかという場面ではありますですが、いささか積み残した岳南富士見紀行の方も進めておかねばと思うところでして、富士山南麓、広い広い裾野上にある広見公園にやってきたというお話の続きでありますよ。
園内にはあれこれ見ものがありそうで(詳細は富士市HP所載の広見公園パンフレットでご覧を)、下側中央の入口がまっすぐにずずいと奥へ進みますと、まずはかようなモニュメントに出くわすという。
小舟に乗って中央にすっくとした立ち姿は外国の武官であるような。ところが、その両脇に控えているのはちょんまげ姿の日本人?という作りなのでありますよ。
「友好の像」とされるモニュメントがここ富士市に作られた背景を、富士市HPではこんなふうに紹介しておりますな。
嘉永7年(1854)10月、プチャーチン提督率いる外交使節を乗せたロシア軍艦ディアナ号が下田に来航しました。この時、安政東海地震に遭遇し大破したディアナ号は、修理のため西伊豆の戸田港へ向かうことになりました。折から悪天候のため漂流し、嘉永7年(1854)11月、田子浦沖合に漂着し、その後、駿河湾内で沈没しました。 漂着した際、地元住民がディアナ号の乗組員を救助した話は、現在も語り継がれています。
ロシア船ディアナ号の遭難に関しては、そもそも寄港していた伊豆・下田の玉泉寺で被災した乗組員の墓所を見かけたり、沈没してしまったディアナ号の代船が建造された西伊豆・戸田の戸田造船郷土資料博物館を訪ねたりして、興味を寄せたことがあったわけですが、沈没の際には田子の浦の地元住民が救助に奔走したのであったとは意識しておらず…。
後付け知識として、「ふじのくに田子の浦みなと公園」には歴史学習施設ディアナ号(実物の3分の1の大きさで再現)があると知ったときには、いやはや何とも行かなかったことが悔やまれた次第でありますよ。みなと公園は田子の浦港を挟んで「富士と港の見える公園」とは向かい合わせにあるような場所でして、港の見える公園側からも対岸に展望タワーが見えておりましたっけ。
右手側にアポロ11号の月面着陸船のような姿を見せているのがみなと公園の展望タワーですけれど、これに「富士山ドラゴンタワー」てな愛称が付けられているだけでも、そっちの方が集客が期待される施設ということなのでしょう。愛称の謂われは、葛飾北斎もそうですが、古来の絵師が富士を描く際、天に昇る龍を描き込んだりしていることとの関わりでしょうかね。遠望では判然としませんけれど、タワーに登る螺旋階段にはドラゴンらしい鱗模様が描かれているようでありますよ。
ちなみに龍には81枚の鱗があるらしいのですが、喉元に1枚だけ逆さに生えているものを「逆鱗」と。これに触られると龍がたいそう怒り狂うところから「逆鱗に触れる」というのが、この言葉のそもそもですな…とは、つい先日のEテレ『日本の話芸』で見た落語『小倉舟』の噺の中で、月亭文都が言っていたこと。本当かどうか…てな気もしますが、謂われとしては本当のことではありますな。
余談はともかくとして、このときは取り敢えず吉原駅近辺を歩く前提でおりましたので、港の見える公園の方をとってしまいましたが、みなと公園側には「富士山しらす街道」なんつうのも設定されて、田子の浦しらすを提供する飲食店が並んでいたりもとなれば返す返すも残念で。田子の浦沖でディアナ号が沈んでしまったときにはプチャーチン提督が抱いたであろう無念さには及びもつきませんが、個人的な無念さもまた…。
なにやら残念無念の話ばかりになってしまいましたが、広見公園をさらに奥へと進みますとモニュメント広場に出るのですな。中央には大きな彫刻作品が置かれています。
目にした瞬間、「オシップ・ザッキンの作であるか?!」と思ってしまいましたが、静岡県内・伊豆高原にアトリエを構えていたという彫刻家・重岡建治の作品『和』であると。なんにつけ海外の有名作家の作品だとばかり思い込むのはルッキズムのようなものでもありましょうかね…(苦笑)。
と、結構公園の奥深くまで歩みを進めましたけれど、入り口から友好の像、そしてモニュメント広場へとまっすぐに続いている道の右手側、東側一帯は「広見公園ふるさと村歴史ゾーン」として古民家園のようにもなっておるようで。次にはその歴史ゾーンに踏み込んでいったお話になってまいりますですよ。













