アイヌの人々とその文化に些かの関心を寄せたのは、そも松浦武四郎の存在を知ったことからだったですかねえ。その松浦武四郎は自らの見聞から、アイヌの人々が和人のもとで過酷な環境に置かれた(男性は強制労働に駆り出され、女性は慰みものにされてしまう…)ことに触れて、こんな一文を残しておるのですな。

…それ(過酷な環境に放りこまれること)を拒むとひどい目にあわされるので、泣く泣く彼の地で日を送っている有様です。ですから、寛政年間は二千を数えていた人数も、今はその半ば足らずにに減り、このままではあと二十年もすればアイヌの種が絶えるのではと案じられ、誠にもって情けない限りです。

松浦武四郎は幕末の人で「北海道」という地名の名付け親として知られていますけれど、幕末から明治にかけてアイヌの人たちが置かれた状況の一端を伝えておりますですね。また、それ以前に北方探査を行った最上徳内を扱った小説『六つの村を越えて髭をなびかせる者』などを読んでも、幕藩体制下で蝦夷地(の一部)を治めた松前藩が、明らかにアイヌを蔑んでいたようすがありあり。

 

ですので、とりわけ江戸期のようすばかりを思い浮かべてしまいがちでしたですが、15世紀半ばにはアイヌの長であるコシャマインが蜂起するなど、和人とのいさかいは江戸期の遥か以前から繰り返されていたのですなあ。

 

先ほど触れた松浦武四郎のひと言を巻末においた武川佑の小説『円かなる大地』は、コシャマインの戦いからおよそ10年後、アイヌと和人の諍いが小規模噴火を起こしていた頃を背景に話が語られるのでありますよ。本州ではいよいよ戦国時代の動乱が激しくなっていく頃合いです。

 

 

結果から言えば、本書の帯にも書かれてありますのでネタバレではないでしょう、アイヌと和人の間の「歴史上たった一度の和睦」を目指し成就されるお話ですな。画期的な協定が結ばれるわけですが、それが決して長続きしなかったであろうことは、すでに江戸期の状況を見てきて想像が付くところですが…。

 

しかしまあ、とかく戦争のことなどにも関わって、人種や宗教などを超えて「どうして仲良くできないのであるかなあ…」と思うことしばしであるも、それが「難しいであるな」と思い知られることにもなりますですねえ。

 

本書の中、アイヌと和人との対話でアイヌ側から和人の悪逆非道が口々に語られる中、アイヌ女性と結婚し子どもも生まれている和人の武士・平八郎をして「良い和人」もいるという意見が出た場面で、当の平八郎が自らこんな言葉を吐くのでありますよ。

…わたしだって、子が和人として生きるか、アイヌとして生きるか、大人になったとき彼ら自身に任そうなどと対等な振るまいをしているようで、その実対等ではない。父は武士として禄を頂戴し、子らはここ浪岡の地で、和人に囲まれ和人の暮らしをして育っている。アイヌの村へは二、三度帰るだけ。現に子らはおなじ年頃の子ほど、アイヌの言葉が達者ではない。けっして五分と五分ではないのだ。それでもわたしは良い和人か?

およそ平八郎にはアイヌに対する差別意識は微塵もない。ですが、例えば自分の子どもたちの育て方についてはこんなことになってしまう。そこには、武士として主君に仕えるという生き方を支える生活様式(当然に和人の)を変えていないことがあるわけで、結果として対等を実現してはいないのであると、平八郎は気付かされたのですなあ。

 

現代においても「マイクロアグレッション」といった言われようがあるくらい、難しいことではありましょうけれど、ソクラテスの「無知の知」ではありませんが、知っている、気付いただけでも平八郎はましとは言えるのかもです。

 

そんなことからも、そうそう簡単に誰しも仲良くできるわけではないのであるか…と思ってしまうも、それでもさまざまに知見を、そして対話を積み重ねることで対処はできるのではなかろうかとも。今現在も世界のあちこちで対話を放棄して、武力を用いるなどの方法で相手を屈服させようとする状況が続いていますけれど、やっぱりそうではないありようがあるのではないですかね。それこそ、アイヌ文化の「チャランケ」を取り入れてみたら?…と思ったりしたものなのでありました。

 


 

と、かような本を読みますと、9月になって尚いつまでも暑い日々だけに北海道にでも行きたくなるところですが、全く方向違いの静岡方面へ出かけてまいります。ですので、少々お休みを頂戴いたしまして、次にお目にかかりますのは9月12日(金)あたりになろうかと。その節はまたどうぞよしなに願います。

 

酷暑続きでしばらくご無沙汰になっておりましたクラシック音楽の演奏会@秋川キララホールに出かけてきたのでありますよ。8月あたまにシャルパンティエのミサ曲を聴いて以来ですので、ゆうにひと月は経ってしまい…。

 

ま、今回は演奏会といっても、レクチャー&コンサート『ラフマニノフとブラームスを学ぶ』というものでして、前半レクチャー(実際のところは演奏者たちによるトークの趣でしたですが)、後半演奏という内容で。

 

 

それにしても、ラフマニノフとブラームスを組み合わせて「学ぶ」とは?と思いましたところ、10月初旬に同ホールでもって東京交響楽団の演奏会が予定されており、それが『ラフマニノフとブラームスを聴く』としてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とブラームスの交響曲第1番というプログラムであって、要するに「番宣か?!」と。両作曲家を結ぶ何かしらをレクチャーで解きほぐしてくれる…といった話では、全く無いのでありました…。

 

演奏を担当したのは弦楽四重奏団のクァルテット・エクセルシオですので、前半トークの中でブラームスのハンガリー舞曲第5番とラフマニノフのヴォカリーズ(それぞれ編曲版)で取り上げてたほか、後半のメインプロとしては、ラフマニノフの弦楽四重奏曲第1番(未完)とブラームスの弦楽四重奏曲第1番を聴くことができましたので、これはこれで良しということに。

 

それにしても、ラフマニノフの弦楽四重奏曲とは?!ですけれど、あいにくと会場配付のプログラムには楽曲紹介が全くありませんでしたなあ。そこで後付けでネット検索にも頼ることになりましたが、ラフマニノフが弦楽四重奏曲を手掛けたのはモスクワ音楽院在学中のことであったと。作曲技法修練の一環であるのか、「こういう曲も書けなくてはいけんよ」と課題にでも出されたのですかね。

 

ですが、未完と言われるとおりにロマンスとスケルツォ(一般的な曲構成からすると、第2、第3楽章にあたりましょうか)が残されたのみで終わってしまったようですな。若書きの断片ということになりましょうかね。

 

でも、演奏されたところを聴いてみれば、なかなかにいい曲のような。レクチャー段階で、ラフマニノフらしい印象というよりはチャイコフスキーを思い出させる…的な紹介がありましたですが、なるほどねえと思うところです。希代のメロディーメーカーであったチャイコフスキーの衣鉢を継ぐのは「おれだもんね」という気概が感じられそうでもありましたよ。

 

とはいえ、これに続いてブラームスの弦楽四重奏曲が演奏されますと、いやはやなんとも厚みと奥行きが全く違う。ラフマニノフの曲が若書きであると一層強調されてしまうような印象もありましたですねえ。同じく先人の衣鉢を継ぐといってもブラームスが意識したのはベートーヴェンであって、意識するのが強過ぎる余り、交響曲第1番の作曲には20年余りの歳月を要したとは夙に知られるところですが、弦楽四重奏曲第1番の方も8年近くを費やしたそうな。

 

ただ、時間をかけた弦楽四重奏曲が完成できたことで3年ほど後、ようやっと交響曲第1番を完成と言える至る弾みがついたかもしれません。何しろ両者はよく似た空気をまとっておるなと、一聴して感じたもので。

 

てな流れで行くとラフマニノフの曲が可哀想になりますけれど、今や必ずしも作曲技法へのこだわりをもって音楽を聴くばかりではないですので、美しいメロディーだけをとってももそっと聴かれても、つまりは演奏されてもいいような気がしましたですねえ。

 

ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』はシンフォニック・ジャズの礎を築いたといわれる一方で、その作曲技法のほどを指して、結局のところ、オケとピアノが交互に登場してくるだけと言われてしまったりするわりには、演奏される機会がとても多いといった例もありますしね。

 

そうは言っても、弦楽四重奏団のレパートリーと定番化していくことはなかろうと思いますので、アンコールピースとしてもそっと聴かれるようになったりしないかなあとは思ったものでありますよ。

『ごみと暮らしの社会学』を振り返っておりますときに、ふいと思い出された映像がありまして。とある漁港で魚が水揚げされる場面ですが、大型魚を次々は陸に運ぶ一方で、残った大量の小型魚を海に投棄しているのが映されておりました。

 

日本でもいわゆる雑魚といいますか、本来狙っていたのでない魚、取り分け消費者にとって馴染みのないような魚(つまりは買値がつかない、売れない)は打ち捨ててられてきたのでしょうけれど、近頃はそうした中にも調理の仕方によっては実はおいしく食せるような種類もあって、未利用魚などという呼ばれ方で積極利用を図る動きがあったもするような。

 

と、ここで思い出した映像は日本の漁港ではありませんし、投機の量も尋常ではないのですな。ところはアフリカのガーナの港、映像の元はちょいと前に(BSスペシャルを地上波で再放送した際)見たNHK『デジタル・アイ 暗黒船を追え』という番組のものでありました。

 

「暗黒船」とは何とも怪しげな言葉であるなと思うところですが、「IUU漁業」という違法行為に携わる船のことを暗黒船と言っておるようで。ちなみに「IUU漁業」というのは、魚食普及推進センターHPの至ってやさしい解説によれば、こんなふうにあります。

わかりやすく言うと、密漁や、ルールを無視して自分勝手に獲っている状態の事で、国際社会・水産業界全体が無くそう、追い出そうと考えている漁業です。
Illegal    : 違法・法律違反等の犯罪。他国の海での漁、密漁(泥棒)
Unreported : 無報告 何をどれだけ獲ったか報告せずに獲っている状態。
Unregulated : 無規制 ルールを決めずに自分勝手に獲る。決められた量以上に獲って報告しない等。
個人・企業で行う場合もあれば、国の方針として行っている(止めさせない・やめさせられない)場合もあります。どうにかしたいものですが・・・。

つまり、どこの国の領海だろうとお構いなし、資源保全のために一定の漁獲量制限があってもお構いなし、しかも乗組員には低賃金、重労働を強いてもお構いなしなどなど、なんでそんなことをするかいね!と思わずにはいられないことが行われているのであると。されど何故にそんなことが?と思えば、商売になるからなのですなあ。NHKの番組紹介ページには「ニッポンの食卓に欠かせない魚。魚の5匹に1匹が規制を無視したIUU漁業=違法・無報告・無規制だといわれているにまつわる」とあるくらいで、平然と流通しておるようで。

 

で、番組ではそんなIUU漁業に携わる船を監視・追跡する国際間の組織協調を紹介する一方で、ようやっと先のガーナのお話に到達いたします。

 

ガーナでは中国から支援を受けて大々的な港湾設備の改修が行われ、漁業関係者は使い勝手がよくなったと喜ぶのも束の間、地元漁業が比較的小さな船で日常の食卓に欠かせない小型魚を獲っていたところが、近代的な港湾設備を中国の大型船(船籍は便宜的置籍船として)他国に置いているようですが)が我が物顔で利用するになってしまったと。

 

でもって、行われるようになったのは先にも触れましたのように、海中を根こそぎして小型魚を大量投棄するというシーンが示す状況であるとは。投棄される小型魚こそガーナの人たちにとって日常食であるにもかかわらず。ま、このこと自体、中国という国が「国の方針として行っている」のではないにもせよ、「止めさせていない」のでもありましょう。その点ではやはりIUU漁業に当たることになりましょうね。

 

酷い話もあったものですが、中国の資金援助で行われることの全て、一事が万事ではないのでしょうけれど、ちょいと前に目にすることとなったマレーシア、マラッカの壮大なる夢の址?のことを思い出したりもしてしまいましたですよ。いやはやなんとも…。

 

ところで、日本の食卓にのる魚の5匹に1匹はIUU漁業由来となりますと、おちおち魚料理も食せなくなるような。安売りがあれば、なにもかも値上がりばかりのご時勢にあって、ありがたい!と飛びついてしまいがちですけれど、安い魚にはからくりがあると考えると、喜んでばかりもいられない。ですが、単なる消費者のひとりとしては、何事につけ、こうした違法行為にもよるからくりに絡めとられていくしかないのでしょうかねえ…。

「(IUU漁業を)減らすために世界中の関係者が頑張っています。消費者の皆さんは、応援したいモノ、応援したい場所のモノを購入する事が後押しになります。値段ではなく、ルールに沿って手間をかけている人たちが漁獲した魚を選んで購入してくださいネ。

先ほど触れた魚食普及推進センターHPでは消費者に対してこんな呼びかけをしていますけれど、適正な手段で漁獲された魚であるかどうかを、分かりやすく示してくれるものがあると有難いですなあ。ひとつとして「水産エコラベル」、「海のエコラベル」てなものがありまして、もっぱら環境配慮が主眼ながら、水産物を選択する際の材料にはなりそう…ですが、あまり普及してなさそうなのが難点かと…。

予てプラスチックごみの周辺を気に掛けておりますところから、いわゆる「ごみ問題」には些かの関心ありてなことでして、今回またひとつ、関わりありそうな一冊を手にとったのでありました。

 

 

『ごみと暮らしの社会学 モノとごみの境界を歩く』。内容としては、現前する「ごみ問題」をどうするかということではなくして、版元HPにはこのような紹介が。

私たちの日常生活に密接した「生活文化としてのごみ」に着目して、ごみとモノの境界がどこにあるのか、時代によってその境界がどう揺れ動いてきたのか、ごみとモノの価値の違いとは何なのかを、多くの雑誌や資料、フィールドワークから多角的に検証する。

学術書、研究書といっては大袈裟になりましょうけれど、ゴミ対策のハウツー本では決してなかったのですなあ。「生活文化としてのごみ」に着目するとありますように、「ごみ」というものの庶民文化の変遷とともに認識が変化してきた、現代において「そりゃ、ごみでしょう」と目されるものも、ある時期に「(ごみであるとして)発見された」てなふうにも言っておるわけで。

 

例えばですけれど、古来日本家屋は通風を重視してきた、つまり開放性のある建物だったわけですね。一方で、隙間風が吹き込むことなどには別途の対策を施すなどして(座敷と屋外の間に縁側を設けて、外と接する縁側の際には雨戸をたて、すこし引っ込んだ座敷の際には障子戸を設けるとか)。

 

その段階では、掃除というものは座敷に入り込んだちりやほこりを外に掃き出すことだったわけで、通風のよい中では掃き出したはずのちりほこりが逆流して室内へ…てなこともあったでしょう。さりながら、まあ、ともかく掃き出した、さっぱりしたというあたりに 掃除の満足感はあったものと思います。

 

ところが、戦後に大きく変わった住宅事情として集合住宅、いわゆる団地といった存在がある。アルミサッシを導入した密閉性の高い室内と、隣近所(上下も含め)が極めて近接する中では掃き出す掃除は必ずしも適当ではないわです。そこへもってきて登場したのが電気掃除機でありまして、室内のちりほこりを一網打尽に吸い込んでくれるという。

 

それまでは(結果はともかく)掃き出すことで納得していたところが、電気掃除機を使用すると「室内にこんなにちりほこりがありましたよ」と可視化されるようになりますな。見た方も「こんなにほこりが溜まっていたのであるか」と驚くような結果を目の当たりにしますと、これは是が非でも室内から排除しなくてはならないと思い至る。ひとつの「ごみの発見」であると。

 

一般の認識としてごみであるのかどうかは、使わなくなったもの、使えなくなったものをごみと捉えることもありましょうけれど、モノが豊かな時代になりますと、「使おうとすれば使えるけれどおそらくもう使わないだろう」という代物もごみとして認識(発見!)されるようになるわけですね。

 

ですが、「使えるけど使わないだろう」といった感覚は誰でも共通するところはありながら、モノであるかごみであるかの線引きには大いに個人差が生じることでありましょう。そこに登場するのが「ごみ屋敷」でもあろうかと。傍目のごみ屋敷は持ち主にとってはモノ屋敷かもしれず…。

 

著者は実際に(傍目で見て思う)ごみ屋敷の住人に対して丹念に聞き取りを進めておりましたよ。その方の場合には特に食品に執着があるでして、取り分け近隣から見れば「何とも迷惑な!」と映ってしまうケースなと。何しろため込まれた食品が腐っていようと、虫が湧いていようとお構いなしとなれば。

 

ただ、本人にとってその(ごみならぬ大事な?)モノはそこにあることが大切なことのようなのですなあ。なんとなれば、長年にわたりスーパーなどで試食販売員に従事し、(自分なりに)満ち足りて活躍していた(病を得た今ではできない)ことを偲ぶよすがとなっているというのですから。いわば自宅に溢れた食品の数々が自らの「存在証明」でもあると。

 

こうなってくると、問題はごみなのではなかろうというふうにもなってきますが、そも本書がごみ問題とその対処などを扱う本ではないことが改めてよおく分かってくるのでありますよ。もちろん、自治体やらケースワーカーやらと協同して対応するてなこともあるわけですが、ここではその対処法を示すことではなくして、これを一例にごみにまつわる認識が一様ではないことが紹介されておるのでもありますね。

 

とまあ、個別ケースではいろいろな事情なり背景なりがあるのではありますが、こと世の中にごみ(とされるモノ)が溢れかえっているような状況が前提にあること、この方面は経済学などの範疇になるかもしれませんですが、それ自体を考え直さないとならないところにあるのではないですかね。各種製品の工場では毎日毎日膨大な数のモノが生産されていて、そんな映像を目にしますと「いったい、そんなに誰が買うんだろう」と思うこともしばし。何かが違う、どこかの歯車をかけかえなきゃいけんのでは…と、改めて思ったものでありましたよ。

てなことで、信州富士見町にあります井戸尻考古館を覗いたわけですが、この施設はお隣にある富士見町歴史民俗資料館と共通入館券になっておりますので、やっぱり資料館にも足を向けてしまいますですね。

 

「先人達の歴史を理解するために、農業を中心とする生産用具、生活用具、武具、古文書等々を展示公開しています」(同館HP)とは、まあ、いずこでも見かけるおらが町の郷土資料館といった感じですけれど、やはり山村らしい民具などが山と積まれたようすが見られるのでありますよ。

 

 

平野部ではありませんので、手広く稲作を展開できないことから、養蚕が盛んであったことも窺えますな。関係する道具がたくさんありまして。

 

 

一方で、この地域の生活に欠かせないのが馬だったのであるなとも感じられる展示ですなあ。一番上の写真、屋内に入ってすぐ左手には厩があって、共同生活をしていたのでしょう。当然に馬具の展示もたくさんです。

 

 

古来、「延喜式」の昔から八ヶ岳山麓周辺には官牧があったりして、馬の生育には適した場所だったのではなかろうかと。もちろん、官牧の馬は都に送る大事な税金替わりで一般人が手出しできるものではなかったでしょうけれど、そんなサラブレッド級とは毛並みの異なる?馬たちを可愛がり、また大いに農耕作業の助けともしていたのでありましょう。

 

 

 

これらは、馬の助けを借りた作業の日常を撮ったもののようですけれど、いずれも昭和31~32年頃であるとは、ちとびっくり。昭和30年代はこうだったのですなあ…。

 

 

こっちの写真になりますと、『諏訪の近世史』(諏訪教育会編・1966年)所載とあるだけでいつの時代かは分かりませんですが、「中馬」という馬による荷運びのようすですな。これも山村の生業のひとつになっていたということで。近くを甲州街道と佐久往還が通っていますのでね。

 

 

とまあ、こんなふうに見てきますと、信濃境のあたりが相当な山の中といったふうにも思えてしまうところながら、いざ資料館の外へ出て見れば、いかにもな山里の風景といいましょうか。

 

 

遺跡らしさは先日触れた復元竪穴住居一棟のみながら、緩く傾斜する土地を拓いて縄文人も農耕を意図名rんだのでありましょうか。以来、連綿と人の暮らしがここで営まれてきたのでしょう。左手の山並みの向こうには(この日は雲に隠れていましたが)富士山を遠望できるのも、古代人の信仰心に影響して土地を選んだかもと思ったり。

 

 

話が後先になるもこちらが井戸尻史跡公園の案内図…って、ご覧いただきたいのは地図の下にある注意書き。こんな開けた感じのところにまで、熊が出没するようになっておりましたか…。もはや、♪ある日、森の中、くまさんに出会った…などと浮かれた歌を歌っている場合ではないのかもしれませんですねえ。