ロシアの作家アントン・チェーホフといいますと、『かもめ』や『桜の園』といった戯曲で知られるところですけれど、どうやら若い頃には推理小説とも受け止められうる作品をものしていたそうでありますなあ。

 

世に推理小説の嚆矢はエドガー・アラン・ポーが1841年に発表した『モルグ街の殺人』と知られるわけですが、この作風には世界中が真似をしたくなるような魅力があったのでありましょう。ロシアでもチェーホフに先行してミステリ的な作品が生み出されていたようですし、若いチェーホフもそうした風潮に刺激されたのかもしれませんですね。

 

ミステリー愛好家の間ではチェーホフの推理小説的なる作品は古くから知られていたようでして、昔々に江戸川乱歩が編んだ『世界推理短編傑作集』にはチェーホフ作品がすでにして掲載されているそうな。個人的に若い頃にはずいぶんと推理小説を読み漁った時期があったのですけれど、あまり短編には目を向けておらず、今の今までチェーホフにその手の作品があることを全く知らずにおりました。

 

とまあ、そんなところでたまたま手に取ったのが中公文庫の一冊、チェーホフの『狩場の悲劇』でありました。戯曲のほかには短編小説の多いチェーホフにあって、この作品は唯一ともいえる長編だとか。それがミステリー風味であったとは?ではなかろうかと。1884年に発表された、チェーホフが24歳頃の一編です。

 

 

それにしても、読み始めた当初はどろどろの愛憎劇といった話が延々と続くことに、どこまで行けばミステリーっぽくなるのかとも思ったものでして。まあ、愛情のもつれは犯罪のタネになりますから仕方がないにもせよ、チェーホフの意図するところであるのか、この長々と入れ子構造の手記で語られる部分に、読者を惑わしたり、考え込ませたりするミスディレクションがちらりちらりと。

 

端から推理小説的なるものと思って読んだ者には、そのあたりに過敏になりすぎて、ヒロインのオリガのふるまいにイーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』のジェニーを想起したりも(直情さと冷徹さとでは全くタイプが異なるのですけれどね)。

 

ともあれ、ミスディレクションに翻弄されるというよりも、勝手な思い込みで読み違えをしつつ読み進めたですが、ふとした瞬間に「これって?!」と、大きな驚きに直面することになったのでありました。これに触れてしまいますと明らかにネタバレになりますので、どう申し上げたものか…と思うのですが、これが実に悩ましい。

 

中公文庫の紹介ページには「近代ロシア文学を代表する作家が残した恐るべき大トリック」とだけしかありませんので、それ以上触れるのは掟破りになるのかも。ただ、ここに言う「大トリック」というのが、40年余りを経て超有名ミステリー作家が、推理小説に関心が無い人でも題名は聞いたことがある、あるいはドラマ化されたものを見ているであろうという超有名作のトリックを想起させる、このことに「おお!」となるのですよね。

 

ただ、推理小説としての完成度は明らかに後の作品の方が圧倒的に高いので、同じ土俵で比べるのはチェーホフに分が悪いですが、本書の巻末解説にある、別の示唆がまた興味深い。そのあたりが、同文庫HPの紹介に「読み終えてなお解け残る謎」として示されているのかもですな。

 

基本的に推理小説ではあれば、リドルストーリーのような終わり方は歓迎されないところでしょうけれど、必ずしもリドルストーリーとは言わずとも、この解釈の余地が残されるあたり、若書きとはいえ、その後のチェーホフの大成の元があるのであるかと思ったりもしたものです。

 

とまあ、肝心なところを避けて話をしておりますので、「なんのことやら?」にもなろうかとは思いますが、Amazonのレビューで(総数は少ないものの)☆4.6となっているあたり、ご興味が生じたなら読んでみるのもよろしいかと思っておりますです、はい。

雨に苛まれた八女市ぶらりの翌日、この日はまた新・福岡古楽音楽祭のイベントにふたつほど参加すべく久留米の滞在先から西鉄福岡(天神)へ。ひとつは先に触れた古楽講座リコーダー編でして、11時始まりではありましたが、ちと早めに出かけて天神界隈をちとうろちょろしてみた次第でありますよ。

 

前日の名残りか、あまり芳しいお天気ではありませんでしたので、もっぱらアクロス福岡の近辺だけ。まずは、アクロス福岡の通りを挟ん向かい側に見えていた鳥居が気になっておったのですな。

 

 

左手の石柱には「水鏡神社」とある一方で、鳥居に掛かる扁額には「天満宮」という文字が見える。天満宮といえば天神様なわけで、傍らの解説板によれば、「おお!」とも思う由緒のようでして。

社伝によれば、延喜元年(901年)京都から大宰府に赴任途中の菅原道真が、四十川の清流を水鏡にして自らの姿を映した場所に、後に社殿を建て、水鏡天神または容見(すがたみ)天神と呼びました。慶長17年(1612年)には、福岡藩初代藩主黒田長政がこの地に移し、二代藩主忠之が社殿を再建したとされます。福岡の繁華街「天神」の地名は、この神社にちなんだものと言われています。

今回の旅でもって天神エリアの尋常でない繁華ぶりに驚かされたですが、その天神の地名の由来がこの小さなお社にあったとは?!ついぞ太宰府天満宮に寄ったことが無いのに…と思いましたが、菅原道真自身、大宰府へ赴く途次に立ち寄った土地なれば、まあ、次の機会には太宰府天満宮にもと改めて。

 

 

ともあれ、道真ゆかりの天満宮らしく牛の石像に守られたお社に参拝いたしまして、脇道へと境内を抜けますと、参道商店街ならぬ参道飲み屋街でありましょうか…。

 

 

この裏道を写真では背になる方向へと進んでいきますと、そちらにもやはり鳥居がありました…という以上に、これまた気になるのは背後に見えるレンガ造りの建物ですなあ。「何の建物であるか?」と。

 

 

場所としてはちょうど那珂川に架かる橋のたもとの交差点に面しておりまして、建物の全体像をつかむにはいったん信号を渡って…ということに。

 

 

赤レンガに白い帯の入ったこの感じ…あまりに安直とは思いつつも「よもや辰野金吾ではあるまいな…」と思えば、「明治時代のわが国を代表する建築家辰野金吾東京駅等を設計)、片岡安の設計」(福岡市の文化財HP)だということでありましたよ。やっぱりなあ(笑)。 

 

で、いったいこの建物は?がお留守になってますが、現在の名称は「福岡市赤煉瓦文化館」であると。もともとは日本生命の九州支店として明治42年(1909年)竣工した建物で、昭和44年(1969年)重要文化財に指定されたのを機に福岡市に譲渡されたとか。

 

 

看板に「入館無料」とあることからすれば、「入っていいのであるか」となりますな。では、お言葉に甘えて…となるわけですが、内部のようすはこの次にということで。

タイの西部、ミャンマーとの国境にも近い山岳地帯へ向かって進みます。途中、ランチ休憩で寄った「The Village Farm To Cafe」の駐車場で、すでにかようにして山の高まりがが見えていたりしまして。

 

 

で、ここまでカンチャナブリといえば…的に触れつつも、誰もがお気づきであろうと申すばかりでありました目的と言いますのが、泰緬鉄道の一端に触れるということでありますよ。ご存じとは思いますが、タイ王国政府観光庁日本事務所HPで「映画や書籍で取り上げられてきた泰緬鉄道は、かつて旧日本軍がタイとミャンマーの国境地帯に建設した路線」と紹介されおりますが、今でも現役でタイ国内を走っているのでして(Wikipediaに曰く「現在では泰緬(タイ・ミャンマー)両国の国境付近の鉄道はイギリスによって撤去させられた」と)。

 

ともあれ、この先はうねうねとした山道に入ったりもして、さながら日本の道を走っているような気にもなりましたですが、しばらくして村のようなところにでたなと思えば、「ここで降車するのだ」とガイドさん。駐車場の目と鼻の先に泰緬鉄道のタムクラセー駅があるというこで。

 

 

ちなみに右端でホームを歩いているのが今回の日帰りツアーのガイドさんですが、それ以外は観光客ですな。ひなびた雰囲気の村と思ったところが、観光客が来るからという市場原理でしょうか、駅に至る道筋はさながら参道商店街のようにもなっておりましたですよ。

 

 

ま、差し当たっては商店街?もホームも人影まばらと見えますですが、これがじわじわと鉄道がやってくる時間が近づくにつれ、わんさか状態になるのですなあ。今では英語表記で「The death railway」と称される戦争遺産が観光資源になっておるわけですねえ…と、自らもそこに行ったのですから、他人様のことをとやかく言うつもりはありませんが…。

 

 

ところで、この駅に来る人はほぼほぼ泰緬鉄道に乗ってみることを目論んでおるわけでして、到着・発車時刻が迫れば自ずと人は増えることになりますけれど、何せ発着頻度は一日三本で、観光客に都合のいい昼間の時間帯は13:25発だけでしょうから、混み合うことは必定と。

 

 

ちなみに13:25発の259列車に乗車してそのまま乗り続けていきますと、終着のトンブリー駅(バンコクでチャオプラヤ川の川向う)到着は18:30と。さすがにこれは乗り鉄濃度が高くないと、敢えて試みることはないでしょうなあ。

 

てなことで、259列車の到着を待つ間には線路廻りをぶらりとしたのですが、そのお話はこの次に。バンコク方面に向かって進行方向を少々進むと鉄道橋があるようですのでね、そこまで行ってみたのでありますよ。

 

 

そうそう、全くの余談になりますけれど、泰緬鉄道のことで覗かせてもらいましたタイ王国政府観光庁日本事務所HPの「泰緬鉄道の旅」を紹介するページで、「秦緬鉄道」という表記がありましたなあ。手書きをすることの極めて少なくなった昨今、PC頼みの変換でささっとこれで良しと似て非なる漢字を見過ごしてしまうことは他人事ではありませんので、言えた義理ではないのでしょうけれどね…。

「春に三日の晴れ無し」とは誰が言ったものであるのか、昔から観天望気の結果として語り伝えられてきたのでしょうけれど、まさに!というような日々でありますなあ。今年の冬は全くといっていいほど雨が降らずにいたのですけれどね…。

 

と、春らしくお天気のすぐれない中?池袋の東京芸術劇場まで、尾高忠明指揮による読響の演奏会を聴きに出向いたのでありましたよ。

 

 

プログラムは、モーツァルトクラリネット協奏曲とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」の2曲。全体像としては、演奏会の頭に小品があってもいいかなとは思ったものの、協奏曲後のアンコール含めてたっぷり感のあるものではありました。

 

なにせ、このクラリネット協奏曲は数多あるモーツァルトの協奏作品の中でも最晩年のもので、重量感が他とは違いますものね。モーツァルトの協奏作品では個人的に一番のお気に入り作品でありますので、そのあたりがたっぷりの満足感につながってもいようかと。

 

それにしてもソリストのニコラ・バルディルー、(日本人感覚で見れば)結構な長身であって、その人が携えてきた楽器を見るに「おや、ちと長い?」と思いましたですが、音色を聴いて「ああ、バセットクラリネットを使っているのであるな」と。

 

この曲はモーツァルトの時代、名手として知られたアントン・シュタードラーの演奏前提で作られたわけですが、その当時に使われていたのがバセットクラリネットだったのですな。wikipediaには、「1991年に復元されたシュタードラーのバセットクラリネットを演奏に用いる試みもある」てな記載がありますけれど、今回の演奏ではまさにそれ!を使っていたといえましょうか。

 

後の現在に至るいわゆるクラリネットに比べて、音にくぐもりというか濁りというか、そういう雑味が混じるところもあるものの、それが翳りにもなりまして、味わいを醸すところかと。奏法上の違いがどれほどあるのかは分かりませんですが、ゆったりしたフレーズも、さらに快速のパッセージも、さすがに見事なものでありましたよ。

 

で、アンコールがまた読響のクラリネット奏者を引き連れ(うち、ひとりはバルディルーの教え子とか)、バルディルー自身もクラリネット(エスクラだったかな)に持ち替えて三重奏を展開するという趣向。本人が編曲したビゼーカルメン』のハバネラによるパラフレーズは、聴衆を喜ばせるツボを突いたものでありました。

 

ところで後半の「英雄の生涯」、読響の演奏では2020年3月公演で予定されていたのがコロナ蔓延でキャンセルになったりしてましたので、生音で聴くのはもしかしたら初めてかもしれませんですねえ。

 

ともあれこの曲、若い頃には冒頭に現れる雄大なつかみの部分に「おお!」と思うも、その後の展開にどうにもついていけないふうだったですなあ。単純にも英雄というからには颯爽していて…てなふうな思いが冒頭では正しく表されながらも、ほどなくちまちまと不穏にささやく木管が現れたりすることに、違和感を隠せなかったわけで。

 

ですが、改めてこの後期ロマン派の爛熟を絵に描いたような作品を耳にしますと、「英雄」なるものを描きようも変わってきた時代なのであろうなあと思ったり。国が違うのを引き合いにだすのはどうよ?とも思いますが、フランスで前世紀くらいに登場したナポレオンを英雄視する見方と、その後のナポレオン3世(登場時は皆の期待を一身に背負ったかもですが)の見られようには大きな違いがありまして、それこそ手放しで「英雄」と言えるような人物を期待できない時代になってもいたのかもしれませんですね。

 

もっとも、この曲で「英雄」というのがシュトラウス自身を指すのだとはよく聞く話ですので、ナポレオン云々を引き合いに出すこと自体、的外れなのかもながら、実際にシュトラウス自身のことだとしたならば(本人がそうだと言っているわけではないようですが)、それはそれで(言い方悪いですが)「英雄」という言葉が実に安いものとして使われているようにも思えますしね。

 

ま、実情は不明ながら英雄の颯爽して華々しいだけではない面も含めて描き出した曲なわけですが、全体としてあまりに壮大な仕立て(オケとしても、東京芸術劇場のステージいっぱいにはみ出さんばかり)で作られていること自体がすでにして、英雄のカリカチュアライズなのではと思ってしまったりしたものなのでありました。

福岡県八女市の伝統工芸館民俗資料館をつぶさに見て回り、観光物産館では土産の八女茶を購入するなどしばしの時を過ごして、さあて八女福島の古い街並みぶらりの続きを…と思ったところで、やおら雨脚が強まってしまい…。

 

誠に残念ながらも往路に降車したバス停へと向かい、久留米の宿へと帰途に就くことにいたした次第です。ま、戻り道は別の裏道などを抜けたりもしましたので、また違った景色に出くわしたりしたのですけれどね。

 

 

せせらぎがあったりしますと、比較的最近に訪ねたところでは鳥取の倉吉を思い出したりもしましたですな。ただ、そぞろ歩きには倉吉の方が雰囲気があるかなあと。

 

 

老舗らしい茶舗の建物はそれらしい佇まいですけれど、街並み全体を保存するというのはとにもかくにも難しいことがあろうなあとは思いますが…。

 

 

とはいえ、街角に昔懐かしいホーロー看板がずらり並んでいたする光景を目にしますと「おお!」とはなりますな。

 

 

もっとも、看板にはご当地ものもありましょうから、ここでは塩とたばこの専売を示すものと月星の靴の看板くらいでしたけれどね。ちなみにブランド名にあやかって現在は株式会社ムーンスターとなっている、かつての月星ゴムは淵源をたどれば久留米市発祥の会社だったようですなあ。

 

 

 

とまあ、雨の中ぶらりの果てにたどり着いたのは大きな石の鳥居でありまして、かつてこの地に福島城があった跡地に勧請された福島八幡宮ということで。なるほど、すぐ脇には福島城の堀であったと見えるところが今では文化池と呼ばれているようですな。

 

 

余談ながら、福島城跡に八幡宮が勧請されたのは寛文元年(1661年)だそうで、かなり早い時期に廃城となっていたとは、いったい城主は誰?と思ったりして、ちと検索を。八女市HPにはこのようにありました。

天正15年(1587年)、筑紫広門が郡内支配の拠点として立てていた館を、関ヶ原合戦後田中吉政が大改造し上妻郡支配の拠点として構えたと伝えられています。 それ以後福島町は城下町として発展していき、初代城主は吉政の三男田中康政となりました。しかしながら、元和6年(1620年)に後継者である忠政が没し、田中氏が改易され、元和7年(1621年)、一国一城令により廃城となりました。

関ヶ原の勲功で一時は筑後一国の国主となった田中吉政ですけれど、田中家は後継ぎが絶えて改易、城は廃城になったのでしたか…。

 

すでに城が無くなって350年あまり、今ではすっかり福島八幡宮となって、八女福島の氏神として定着しているのでありましょう。鳥居の向こうに見える大イチョウがシンボルでもあるようで。

 

 

そういえば、先に覗いた八女民俗資料館で紹介されていた伝統芸能「八女福島の燈籠人形」はこの八幡宮境内で催されるのでありましたよ。

 

 

ま、そんな福島八幡宮の境内巡りもそこそこに、久留米市へ戻るバスの時間が差し迫ってまいりましたので、少々街歩きに名残りを残しつつも退散することに。時間としてはまだまだ午後は長いという段階だったですが、こう雨に祟られては…ということで。