「そういうことなんだろうなあ…」とは、予め抱いていた思いを裏付けるような形で、考えたものでありまして。『「イスラエル人」の世界観』という一冊を読み終えた印象でありますよ。

 

なぜ、世界中から非難されても彼らは攻撃・報復を止めないのか。 国家の存亡をかけた「悪との戦い」 建国以来、周辺地域との戦闘を繰り返してきた国家の論理がわかれば、イスラエル・パレスチナ紛争の本質も見えてくる。

版元・毎日新聞出版HPに(そして本書帯にも)ある紹介文でして、著者は毎日新聞のエルサレム特派員として現地取材を重ね、その後紛争当事者たちの心理を知りたいとイスラエルに残り、テルアビブ大学大学院で危機・トラウマ学などを修めたという人であると。

 

ただ、紛争続くイスラエルに残る選択というのも、個人の思いとして「なぜ?」という思いが、取材を重ねてなお、拭えなかったからのようですな。つまり、疑問を持つ感覚は遠く離れた地にいる第三国人とも同様であるような(もっとも、思いの強さは比べものにならないでしょうけれど)。

 

で、結局のところ…と言ってしまうのはあまりに安直ながら、イスラエルのユダヤ人(同国内にはユダヤ人以外の人々もおりますのでね)は強い被害者意識が染みついてしまっておるようですな。

 

すぐに思い浮かぶのはホロコーストであって、ことほどかほどに酷いことに曝されたのだから、そりゃあ、被害者意識もあって当然とはなりましょうけれど、翻って現状を鑑みるに、イスラエルがガザに行っている圧倒的な軍事力の行使は、むしろガザの人々の方が被害者であって、イスラエルは加害者なのではとも見える。ところが、この状況になっても、外部者からそういうふうに見られること自体、彼らの側の被害者意識を刺激するものでもあるようで。

 

エルサレムを中心にユダヤ人の国があったことは歴史に刻まれているわけですが、その後に国を失い、各地を移り住むも、地理的に近いながらもキリスト教系の国にあってはユダヤ人=「イエスを処刑に追いやった民族」として差別を受け、果てはホロコーストにまで至る苦難の歴史があったとはいわずもがな。

 

とはいえ、ガザでの戦闘を挙げるまでもなく、ヨルダン川西岸地区などでもパレスチナ人に対して、それこそ「人を人とも思わぬ」扱いを日常的に行って、イスラエルの人たちは何も思わないのだろうかという思いが、傍目に湧いてくるのも自然でありましょう。

 

そんなところで引き合いに出されるのが、ナチス・ドイツの強制収容所の話なのですよね。収容所運営にあたる独軍将校とその家族は、日々残虐な行為が行われている収容所に近接する官舎に住まい、楽しくも平穏な暮らしを送っていたのであると。

 

イスラエル軍の攻撃によって民間人の遺体収容が追い付かず、子供の遺体はアイスボックスに入れられていたりしたことを見た著者が、取材を終えて数時間車で走り、テルアビブ近郊に戻るとユダヤ人の子どもが嬉しそうにアイスクリームを食べ、家族が楽しそうにしているようすを目にすることになる。本書の「アイスとアイス」という項に紹介されている情景でありますよ。

 

収容所の家族の話も、現在のイスラエルの家族の話も、つまりは不都合な事実には目をつぶるという、ある種、ヒトの生存戦略にも関わる本能的なことかもしれませんが、そういう割り切りがあるようで。またそれを「被害者意識」というものが自己正当化する由縁にもなっているのでしょう。

 

ただ、イスラエルのユダヤ人の全部が全部、そうではないということも、パレスチナの人たちとの対話を重ねる活動などを追うことで紹介されてはいます。さりながら、現状肯定を率先して行っているのが現政府であるとも触れておりますな。

 

片やその場所が宗教上も「約束の地」であるとして、本来的に自分たちの土地なのだ、国なのだと主張する人たちがおり、ユダヤ人の離散後に何百年にもわたってそこで生活の根を張って来たパレスチナの人々がいる。根の深い対立構造に対しては、イスラエルとパレスチナという「2国家解決」が目指されるべきものと言われたりしてきましたですが、ネタニヤフ政権は(平和的に?)交渉すべき相手はもはやいないとしておるそうな。

 

すでに2009年以来、20年近く続くネタニヤフ政権ではイスラエルの現状を守り続けることがひたすらに正しい道と示して、そういう現状肯定(2国家解決などによる和平など夢物語であると)の空気の中で育ってきた人たちがすでに大人となっているわけですね。政治というのは、ボタンを掛け違えるとは何と危ういものになるかを示してもいるようです。

 

さらには、ドイツをはじめとする欧州諸国ではかつて長い長い間にわたってユダヤ人を差別してきたことが引け目となって強いことが言えない、アメリカは(国内に相当数のユダヤ人がいるからという以上に)キリスト教福音派がイスラエルの地にユダヤ人の国があることは、キリスト再臨の前提条件になるものとして支持し、これを選挙対策上、無視できない米政府は相当以上にイスラエル寄りの立場に立っている。宗教というのもまた、何とも危ういものをはらんでいるではありませんか。

 

対話を重ねるイスラエルとパレスチナの人たちがいることを積極評価して共に取り組むような政治体制があってようやく話は進むのではなかろうかと思うところで、日本は?と思えば、なにくれとなくアメリカべったりでは何をかいわんや。まして、イスラエス製の武器を購入しようなどと考える人たちがいることに暗澹たるところに落ちていってしまいそうです。

 

かの武器は「combat proven」(実戦使用により効果は実証済み)というお墨付きなのだそうで、使う側としては安心感?があるのかもしれませんが、実戦で使用されること自体が武器に、戦争に矛盾があるところながら、全世界こぞって右傾化の中では顧みられることもないのでしょうかね。

 

…ということで、イスラエルと取り巻く周辺諸国のようすなど、現代理解を促す一冊であったと思ったものでありますよ。

 


 

と、いささか重たいお話のあとになんですが、ちとタイへ行ってまいりますのでしばしお休みを。昨年は1月にお呼ばれしてマレーシアへ行ってきましたが、その際の滞在先のアパートの住人と今年はバンコクで待ち合わせをすることになっておりまして。フライトの都合で前泊・後泊もこれあり、長いお休みとはなりますが、2/22(日)にまたお目にかかれましたらと考えておりますよ。では、気温差およそ20℃に近い旅に行ってまいります!

福岡県八女市の岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」、その常設展示室を見て来たというお話の続きでございます。

 

西暦では527年に起こった北部九州連合軍対ヤマト王権軍との内乱は、後に「磐井の乱」と言われますように中央集権側から見た呼称になってますですが、その当時、大王の位にあった継体天皇の即位とその後の経緯を思うにつけ、決して強固な体制になっていたとは言い難いところではなかろうかと。

 

だからこそ、叛乱首謀者とされる筑紫君磐井がご当地では「英雄」とされ、こんなふうに展示解説で語られたりもするのでしょう。

度重なる百済支援のため九州に要求される兵・船・馬などの軍事徴発、強まる地方への支配体制。磐井は遂に立ち上がり火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)と共にヤマトの軍勢に刃を向け、ここに古代史上最大の内乱「磐井の乱」が勃発します。日本書記は「旗や鼓が相対し、塵芥入り乱れ、互いに必死に戦った」と、壮絶な戦闘であったことを記しています。戦いは、結果としてヤマト王権側の勝利で終結します。磐井の無念を残したまま。

「1年半にも及んだ戦いは御井郡(現久留米市)において最終決戦が行われ」、「磐井は斬られ反乱は鎮圧されたと日本書記には記されてい」ということながら、「筑後国風土記」逸文では「豊前国の山深い地に逃れた」と記してあるそうな。「義経は生きながらえて大陸に渡り、チンギスハンになった」てな伝承と同様に、慕う人々にとっては「生きていてもらいたい」という気持ちが伝承として伝えらえたのでもありましょう。

 

叛乱が鎮圧され、ヤマト王権の軍門に下った北部九州では、磐井の息子である葛子が「罰せられることを恐れ差し出した糟屋の地にヤマト王権は直轄地「屯倉」を設置」、以来、各地に次々と屯倉が設置されていったのであると。中央集権国家による地方の直接支配を強めたということになりましょうね。北部九州の地域的な王であった筑紫君は中央の体制下で地方長官になっていったようでありますよ。

 

 

かようにして中央支配が強く及ぶようになった北部九州、地域独自の結束を示すとされた古墳の石人・石馬像が本州同様、埴輪の配置にとってかわられていくことにもなったではないですかね。

 

 

ちなみに埴輪展示の奥に見える写真パネルは、しばらく前に大阪・高槻市に見に行った今城塚古墳ですな。筑紫君磐井と敵対することになった継体天皇の陵墓とされている古墳です。この古墳に関しては、展示解説の中にこんな紹介もありましたですよ。

…平成10年には墳丘上で熊本県宇土産凝灰岩の石棺材が発見され、磐井の乱後も火君と大王家との関係が続いていたことが分かりました。

そして、こんな説明も。

火君は得意な海上活動能力を買われ、乱後、九州各地に進出していきます。しかし、これはヤマト王権の北部九州兵站基地化を推進するための「移住命令」であり、勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。

 

 

大陸や朝鮮半島に近いが故に、文化交流の最先端窓口にもなっていた北部九州はその後も地理的に最先端、最前線の役割を担っていきますけれど、それはあくまで中央の意向のままにということに。歴史に「もしも…」は詮無い話ですけれど、筑紫君磐井率いる連合軍が仮にヤマト王権軍を退けていたならば、日本の歴史は違ったものになっていたのかも。今でも囁かれることのあるような九州独立が現前していたかもしれませんですなあ。

 

と、たっぷりと見て廻った資料室をあとに、磐井の墓所とされる岩戸山古墳を巡ってみましょうかね。ということで、筑紫君磐井に関わるお話はも少し続くということで。

いささかなりとも「やきもの」に興味を示しますと、どうしたって古田織部の名前に行き当たるところはあろうかと。2023年秋に「美濃瀬戸やきもの紀行」の旅をした折にも、あちらこちらでその名を見かけることになりましたし。ただ、茶人として語られることが多い反面、織田・豊臣・徳川と天下人の移り変わる中にあって戦国武将として過ごしたあたりは、あまり多くは語られることがないような。そこで、こんな一冊を手にとってみたのでありますよ。

 

 

諸田玲子作『織部の妻』と。戦国期には珍しく?たったひとりの妻と添い遂げた織部を、妻の側から描き出すとなれば、お茶の話ばかりではないでしょうと思ったわけでしたが、大団円としては織部切腹の謎に迫る(といっても想像力を縦横無尽に発揮したものでしょうけれど)ことにもなっておりましたよ。

 

ま、そのあたりは例によって「よく作ったな」と思うもネタバレは遠慮しておくといたしまして、織部の古田家は美濃の国人領主の家筋ながら、妻・せんを摂津の中川家から迎えたせいか、これほどに摂津との関わりが深いのであったか…と知ることに。せんが中川清秀の妹であるというばかりでなしに、本書掲載の人物相関図を見て「あららぁ!」てなものでして。なにせ高山右近とも、荒木村重ともいとこ同士であったとは、です。

 

後に、茨木城に中川清秀、高槻城に高山右近、そして有岡城に荒木村重と並び立つことになる人たち、つまりは摂津国の国人たちは相互に色濃く関わりを持ちつつ、微妙なバランスを保って共存していたのであるかと思ったわけです。が、そこへ天下布武の中央集権化を図ろうとする織田信長が現れて、そのバランスを危うくするのですよね。当然、抵抗もあるわけで。

 

この辺、摂津制圧の困難さが歴史でクローズアップされることはありませんけれど、地理的に近しい丹波・丹後では国人領主とのせめぎ合いで織田側は制圧に苦労したことが知られるのは、摂津と同じような背景があったからなのであるかなと思ったものです。仲間内でなんとかうまくやっているところに茶々を入れるなと。

 

摂津の方でも荒木村重の謀反を織田側も寝耳に水と慌てふためく場面もありますが、こちらはなんとか収まるようですけれどね。ともあれ、そんな摂津国人たちとのつながりを、妻を通じて濃くしていった古田織部。これまた後に、中川家が代替わりの際に年若い当主を頂くことになった際、後見たる家老職に織部ゆかりの古田家から送り込まれたりするのも、関係の深さ故でありましょう。

 

やがて中川家は豊後国岡城に移封されてなお、家老の古田家も存続していったと。つまり、織部の近しい一族は織部切腹の折りに連座させられた者が多かった中、豊後では古田家が続いてもいたのであるようで。

 

と、本書の主たる筋から少々外れた周辺部分の話になってしまいましたですが、ネタバレ遠慮と言いつつ少しばかり本筋の方に触れますと、惨殺された室町将軍・足利義輝の遺児(姫)と、摂津国人の旧家である安威家(Wikipediaでも「安威氏」の項目で記載はほんの少し)とをこれでもか!というほどに使って、よくまあ、作ったとは思うところですな。

 

結局は織部の茶人以外の部分については、信長、秀吉、家康の使い番として多忙を極めたものの、その動きの実像は見えないのですけれどね。妻にも「それは話せない…」ということで。でも、織部切腹に至る謀反の背景、こんな話があったのならやむを得ない…とも思えるところではありますが。

…ということで、福岡県南部の八女市にあります岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」を訪ねて、常設展示室を振り勝っておりますが、その続きを。

5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再認識することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。石人・石馬は筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族たちのシンボルでもあったのでしょう。

このように展示解説にある石人・石馬像は、一般に古墳に飾られるものとして思い浮かぶ埴輪に代わって、北部九州のヤマト王権からの独立性とでもいいましょうか、それをアピールしておるでもあろうかと。確かに有明海を囲むように、石人・石馬像は分布しているようですなあ。

 

 

それにしても、すでに土器を作る技術はあるわけですから、埴輪の方が作りやすいと思うところでして、その点、石造りの像とは運ぶのも、彫って造形するのも手間暇がかかったことでしょう。ただ、一族結束の証ということであっては、その辺りの手間暇を面倒に思ってはいけんのでしょうけれど、それにしても結構大きい、つまりは重いでしょうにねえ。

 

 

岩戸山古墳はじめ近隣の八女古墳群の出土品が展示室には並んでおりましたですが、せっかくですので岩戸山古墳で発見されたもの(と伝わるものも)をちとクローズアップしてみますかね。

 

 

こちらは「靫を負う石人」と。埴輪でも武装した人物像はよくありますので、同趣旨でありましょう。頭のあたりに古代日本の定番イメージと思しき「美豆良(みずら)」らしい髪型が見てとれるのが、なるほど6世紀と感じされるところです。それにしても、薄笑いのような表情はなんとも言えず…。

 

 

こちらはあいにくと胴体だけになってしまってますが、石馬像ですな。解説に「馬鐸(馬につけ馬の歩みによって音を出す)、鐙(足を乗せるための馬具)、手綱、鞍、杏葉(馬の棟や尻の部分などにつける装飾物)が浮彫で表現されています」とあるとおり、このあたりの装飾は手が込んでおりますねえ。

 

さまざまな造形をひとまとめにして石人・石馬像と言っておりますですが、武具単体を彫り出したものもありましたですねえ。石靫とか石盾とか。

 

 

 

ちなみに、これらの石製品が凝灰岩製であるとは先に触れましたですが、石材は阿蘇山の噴火で形成された阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇の灰石とも)と呼ばれるものであるそうな。「比較的軽く、加工も容易である」とは古代の人々もちゃあんと選んで使っていたのですよね。ま、古墳の石室や石棺も同様ですけれど。

 

と、石人・石馬像を見て来たところで話を筑紫君磐井に戻しますと、当時の朝鮮半島は動乱の時代であって、「大陸の文化・情報を百済から一元的に受けていた」ことや、「良質の鉄を産出し友好関係にあった伽耶諸国」との関係からも、「対新羅を目的とした軍事援助を」ヤマト王権は行っていたのですが、都度都度「九州で挑発した兵士や軍船を度々送る」という形をとっていたそうな。

 

 

これに「いい加減にせえよ!」と物申したのが磐井であったということになりましょう…が、結果としてはやがて北部九州でも古墳には埴輪が備えられていくことになる。ということは?…というあたりを、次回に見て行きたいと思っておりますです、はい。

歴史上の人物を、例えば小説で、映画で、ドラマで描くときに、「これって本当?」といった人物造形がなされることがままありますですね。比較的近年の戦国もの大河ドラマでも、『どうする家康』と『麒麟が来る』とでは明智光秀の描かれようが極端に異なってもおり…といって、『麒麟が来る』は光秀が主人公ですからねえ。それにしても、本当のところはどんな人であったのか?を言っても詮無いことでるかも。

 

昔過ぎて分からないことがありますので、そこは書き手が思い描く人物像から歴史に語り残されない空隙を想像で埋めていく、何せ小説であり、ドラマでありですから。ですが、もそっと年代の下った人物を、「創作なのですよ」と断るでなくして実際、正真正銘の事実はこうです!といった形で表してしまったのがアントン・フェリックス・シンドラーの過ちだったのでしょうかね、映画『ベートーヴェン捏造』を見ていて、そんなふうに思ったものでありますよ。

 

 

原作となった『ベートーヴェン捏造名プロデューサーは嘘をつく』は数年前に読みましたけれど、このノンフィクションを入れ子仕立てのドラマとして、現代の学校で教師と生徒の話に差し挿むようにしたのは脚本を手掛けたバカリズムの手練れともいめしょうか。さりながら、最後の部分の教師と生徒との会話に示されるように、「シンドラー、ダメじゃん!」感が増幅されるようにもなっていたような。

 

もちろん、シンドラーの行いを手放しで良しとすることはできないものの、現代の倫理観を持ち込んで一刀両断するのもまた違うような気もしたのでありまして。例として適切かどうかというのはありますが、鎌倉時代の正史ともされてきたであろう『吾妻鏡』には北条得宗家側の都合がふんだんに斟酌されて、それはもはや事実の歪曲というレベルにまでなっていることは先にも中公新書の一冊で読んだとおりですし、甲斐武田を伝える歴史書とされる『甲陽軍鑑』もまた。たぶん、他にも同様のことは数多くあるのでしょう。

 

これは偏に書き手の側(書き手に影響力を持つ側)がよかれと思ってやっていることであって、後に批判されるわけですが、それはあくまで後々のことなわけですね。同時代的には「これでいいのだ」という大義名分があったのでしょうから。

 

シンドラーにしても「偉大なる作曲家ベートーヴェンはこうであった」というふうに書き残しておかねばという大義名分があったわけですが、これを批判することになるのはやっぱり後の時代の考え方なのでしょう。同時代的には、ベートーヴェンの生涯にまつわる著作を残した人物たちと、新聞紙上で激論が交わされたてなことがあったと、本作の挿話にも出てきますけれど、本当の本当に「だめじゃね?」とされたのであれば、シンドラーの著作はもっともっと分析されて、徹底批判されていたのではなかろうかと。

 

少々時代が下ってセイヤーというアメリカ人音楽ジャーナリストが批判に及ぶわけですが、これもまた、シンドラーの大義名分に口をつぐんだ恰好になってしまう。シンドラーの「ベートーヴェン伝」改訂第3版が刊行されたのは1860年、時代はようやくセイヤーが正論をもって指摘するところにたどりついたばかりだったのかも。そのセイヤー自身が口をつぐむとは、やはりその後の物差しでは測れない考え方であった時代なのでしょう。

 

ベートーヴェンの交響曲第5番冒頭の、そして全編を構築する動機は、「運命はかく扉を叩く」として広く知れ渡ることになって現在に至りますが、それをベートーヴェン自身が言ったと書いてしまうのはシンドラーのベートーヴェン神話なのでしょうけれど、しかしまあ、よく言ったものだとも思ったりしますですね。

 

同曲が「運命」という呼ばれ方をする源であって、これを長い長い間、人々は「なるほど」と思ってきたのであって、仮に先のひと言をベートーヴェンが言ったのではないとしても、もはや名言の類なのではと思えてしまったりしますし。

 

現代基準で言えば、シンドラーの行いは犯罪レベルとなりますですが、それをそのまま当時の倫理観に求めても詮無いとはいえましょうか。ま、映画としては面白くできていたとは思いますが、ちと現代目線が気になってしまったりもした…という印象でありましたよ。