遺跡のあちこちを見て廻って、すっかり長くなってしまいました吉野ヶ里歴史公園のお話はようやっと最終段階でございます。久留米に戻るバスの時間の都合で、南のムラの見て歩きはちと諦めて、最後に立ち寄ったのは入口ゾーンにある多目的ルームでありました。
こちらでは「よみがえる邪馬台国 倭人伝のクニを探るVII 一支国と土佐のクニ」という特別企画展が開催されておりましたもので(会期は2025年11月9日で終了)。
邪馬台国にまつわるあれこれに関して、テーマを定めて特集展示するシリーズ企画の一環のようですけれど、一支国とは魏志倭人伝にも出てくる名前ですからなるほどながら、はて?土佐とは高知県のことであろうにその関わりとは?てな印象がありまして覗いた次第です。
今回の展示では、弥生時代の中国大陸や 朝鮮半島との対外交渉に重要な役割を果たした「一支国」の…遺跡の 発掘調査成果を紹介します。また、太平洋に面し九州の武器形青銅器と近畿の銅鐸が対峙す るように見つかっている土佐地域についても取り上げます。
大陸・半島と関わりの深い北部九州と、ヤマト王権の台頭する近畿地方とを結ぶラインはもっぱら瀬戸内海経由、あるいは日本海沿岸地域経由であったかのように想像してしまいますが、思いのほか四国は近いですから、当然にして文化伝播はあったのでしょう。それにしても、太平洋側の土佐とは?ですよねえ。
ともあれ、一支国すなわち現在の壱岐に関する展示から振り返ってまいるといたしまして、大陸・半島と倭との交流拠点となっていた一支国のようすはこんなふうに紹介されておりました。
壱岐市内には「一支国」の王都と考えられる原の辻遺跡を頂点として、60数箇所の弥生時代の遺跡が確認されており、青銅器類(中国鏡、貨幣、三翼鏃、馬車具)、楽浪系の瓦質土器、朝鮮半島の鉄器、無文土器、三韓系瓦質土器など活発な交流を物語る資料が数多く出土しています。
また、当時「倭」とよばれた日本本土から運ばれた小形仿製鏡などの青銅製品、北部九州・近畿・山陰・瀬戸内各地から搬入された土器類なども出土しており、このことは、当時の「一支国」が交流拠点として、重要な役割を果たしていたことを物語っています。
仿製鏡というのは中国の銅鏡を模して作った鏡であるとのことですが、大陸・半島由来の文物が一支国を経て倭国(倭を構成するクニグニ)に一方通行で伝えられるばかりではなかったようですな。tのことましょう。ちなみに、原の辻遺跡は「多重の環壕が巡る大規模な環壕集落で、その…環壕内の面積は約25haです」と。吉野ヶ里遺跡の環壕集落部分がおよそ40haということですので、原の辻遺跡もまた確かに大規模な集落だったわけで。
でもって、いかにも交流拠点であった一支国の遺跡らしいこととしては「丘陵の西側低地部では、東の内海湾から幡鉾川を遡った船が到着する国内最古の「船着き場跡」も発見されています」というあたりかと。
とまあ、そんな交流拠点を経由して伝わる文化と、列島古来の縄文文化の交差点のようでもあるのが、土佐であったということで。高知県にある居徳遺跡群と田村遺跡群は「縄文時代から弥生時代にかけての移行期を代表して…好対照を示してい」るのであるとか。
居徳遺跡群では、縄文晩期の突帯文土器を中心に東日本の縄文文化との密接な交流をうかがわせる遺物が出土しています。…最新の縄文土器である突帯文土器と弥生時代前期の土器である遠賀川式土器が共伴する遺跡といわれています。
一方の田村遺跡群では、九州や瀬戸内の縄文後期の土器が出土していますが、突帯文土器は確認されず、かわりに遠賀川式土器よりも古い段階の突帯文系弥生土器が出土しています。この土器は、突帯文土器の形状を示していますが、制作技法は朝鮮半島の技法が使われており、弥生土器に分類されています。
解説文の引用が長くなりましたが、要するに東日本との関わりが深い居徳遺跡の方は縄文文化がぎりぎり最後まで残る中、弥生時代前期の土器が完成形として入って来た一方、田村遺跡群の方では西から影響で居徳遺跡よりも早じ時期に弥生化していたてなことでしょうか。縄文と弥生のせめぎ合い、このあたりは日本のミッシングリンクのようでもありますよね。
それにしても、現在の高知市を挟んで田村遺跡群は東側にあり、むしろ居徳遺跡群は西側にあるのに…と思わなくもない。そして、両者は(Google mapによれば)徒歩で6時間ほどしか離れていない距離ですのに、単純に西に寄ってる、東に寄ってるという話でもないのですなあ。
ま、特別企画展というわりには、主だった展示が解説パネルではありましたですが、そんな思い巡らしにつながったので良しとしましょうか。ということで、この後は西鉄バスで福岡県久留米市に戻り、また別のお話となってまいるのでありますよ。























