動画配信サービスで何かしらの映画を見ると、「これもどう?あれもどう?」と同傾向の映画がオススメされてしまったり。結果、次から次へと…てなことになりかねないところがあるわけですが、今回は2本でやめておくことに。ナチス・ドイツ関係、ホロコーストに関わる映画をさすがに立て続けに何本もとはいかず…。
ひとつめは『ヒトラーのための虐殺会議』という一作でして、ドイツ語原題は「Die Wannseekonferenz」。第二次大戦中、ベルリン郊外にあるヴァンゼーという湖の畔にある邸宅で、親衛隊(SS)と政府高官とが集まって開かれたとある会議が後世に「ヴァンゼー会議」として知られるものとなりますな(以前、ヴァンゼー会議記念館を訪ねたことがありますが、悲しいくらいに?風光明媚ないいところにあるのですよね…)。
原題では文字通りに「ヴァンゼー会議」をタイトルとしているものの、ドイツ(あるいは広く欧米)とは異なって日本では内容が伝わりにくいということなのでしょう、少々説明過多の邦題になった由縁ですかね。
議題はただ一点、ユダヤ人問題の最終解決をどう図るかということ。後にここでの議事結果を受けて、アウシュヴィッツほかの強制収容所でユダヤ人虐殺が組織立って進行することになるとは、結果として知っているわけですね。そんな会議であるにも関わらず、出席者の意識としてはドイツから排除したもののどこのゲットーでも溢れかえるユダヤ人にどういう始末をつけるのかという問題の解決(!)を極めて事務的に話し合っていること自体に尋常でなさが感じられるところではないかと。
この事務的さ加減は「淡々と…」と形容してもよろしいかと思いますが、そも「ヴァンゼー会議」という至って淡々としたタイトルにも感じられるところ(邦題を説明過多と言った理由)なのだと思われます。
会議の中では少々紛糾する場面も無いではものの、それはそれぞれの部署の管轄の問題だったりして、結局のところ議題そのものには誰ひとりとして疑義は無い(ナチ党員には余りに当たり前)ばかりか、逡巡とか懊悩とかそういった気配さえ無いようすもまた淡々と描かれていくわけです。見る側として、淡々に反比例するごとく尋常でなさが弥増すのですが…。取り分け、会議主宰者・親衛隊大将ハイドリヒの事務次官のような役割を務めたアドルフ・アイヒマンが事務的な有能さを発揮すればするほどに。
ご存じのとおり、ナチス・ドイツの崩壊から逃亡を図ったアイヒマンは後につかまってイスラエルで裁判が行われることになりますが、その裁判を傍聴したハンナ・アーレントは「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」と言ってましたですねえ。ヒトラーが巻いた思想の悪が大々的に現実化してしまったのは、アイヒマンなど「思考停止の凡人」が生み出したとも言えましょうね。
で、ヴァンゼー会議に感じる淡々とした印象は、実際の収容所の現場でも。もうひとつの映画『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』を見て思うところでありますよ。
収容所を舞台としつつも、この映画は実話ベースの助かる人の方の話ですので凄惨な場面に覆いつくされているものではないものの、収容所勤務者たち(ヴァンゼー会議出席者ほどの高官ではないわけですが)にはやはり思考停止の淡々さがにじみ出るようでしたなあ。
ユダヤ人の出自を隠してペルシア人と偽った主人公が、たまたまペルシア語を習得したいと考えていた収容所将校に出会い、言葉のレッスンを行う代わりに(周囲に比べれば)格段の恩恵を受けることになるという。
将校自身も些か怪しむ一方で、他のドイツ兵や同じく収容されている者たちからも「あいつは本当にユダヤ人ではないのか?」という疑いの目に曝されながらも、周囲で展開する収容者虐待などを目にするにつけ、「なんとか隠し通さねば…」という思いが起こる(全く知らないペルシア語の単語を想像で作り出すだけでも苦労が多いわけですが)。それと同時に「自分だけがこの待遇でいいのか…」とも。
そんな主人公に対して、やがては信用し(一方的ながら)友人感覚も抱いていく将校ですけれど、ふとした疑念に駆られて主人公に詰め寄るとき、さらには他の収容者に当たるときの苛烈な対応は、とても同一人物とは思われないような。そんな二面性とも思える自らのようすに全くに気付くことも無いのが、まさに思考停止の人たるところでもあるのでしょうなあ。
収容所に連合軍が迫る中、かの将校は主人公ひとりを連れ出して、逃亡を図る。森の中で別れた二人のうち、主人公は自由への道を歩みだすわけですが、将校の方は…。
ま、予想される結末が待っているわけですけれど、逃亡を図る将校に関しては、逃亡を図るということはよからぬことをしたという自覚があったのか…と、一度は想像したりも。ですが、それは収容所でしてきたことがとんでもない行いであったという自覚よりも、敗者の側に立たされることに対する単なる恐れであったかと気付けば、また所内で行われてきたことの淡々さに思い至ることになったものなのでありました。