と、思いがけず二度目の振り返りをしてしまった焼絵展でありましたが、このときのぶらりの主目的地たる板橋区立美術館を訪ねた後はもう、東武東上線の成増駅まで歩いて戻るだけということに。

 

 

ただ、美術館隣接の塚溜池公園にある案内板によりますれば、すぐ近くに千葉氏ゆかりの赤塚城跡板橋区立郷土資料館もあったりするのですが、いずれも一度訪ねたことがありますので、今回はちと端折りまして。

 

それでも成増駅へ出る道すがら、覗いたところがないではないのでして、そちら向かう際に歩いて思いましたのは、思いのほか坂の多い街なのであるなと。

 

 

自転車を押して登る人もいるくらいな坂道ですけれど、右手の擁壁の上にありますのが、立ち寄りポイント、赤塚氷川神社なのでありました。

 

 

解説板には「長禄元年(一四五七)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したと言われています」とありまして、上赤塚村一帯の鎮守として長い歴史を刻んでおるようですな。

 

 

ちなみに上の写真では八重桜が咲いておりますが、訪ねたのがすでにひと月以上前の4月半ばであったから…と注釈を。ともあれ、こちらのお社に立ち寄りましたは(参拝はともかくといってはなんですが)、ここにもまた富士塚があるということでしたのでね。

 

 

これまた「浅間神社」の扁額を掲げた鳥居の先、右手にあるこんもりした高まりが富士塚でありまして、「赤塚氷川神社富士塚」と呼ばれるそうな。ちなみに先に登拝した赤塚諏訪神社富士塚を造った「丸吉講」という富士講の講中だそうですが、こんなに近いところに二つも富士塚が造られることってあるんですかね…。想像するに、講の仲間を増やす宣伝材料にしたのでは…と思ったりしたものでありますよ。

 

 

と、勝手な想像はともかくも、この日二度目となる富士登山(の疑似体験)に臨みます。登り口すぐ左手に見える石碑には、丸の中に吉の文字、まさしくこれぞ丸吉講の紋所てなものであろうかと。

 

 

高さとしてはこのくらいですので、登山などというほどのものではないですな。それだけに頂上からの見晴らしも期待はしておりませんが、一応こんな具合でしたですよ。

 

 

全く眺望が無いというわけではない分、諏訪神社の富士塚よりは登った甲斐がありましょうかね。ま、一日で二度富士に登ったということで満足しておくとして、いざ帰路へ…なのですが、氷川神社の長い参道を抜けたところで、いやはやなんとも立派な巨木に遭遇したのですなあ。

 

 

それでもこの程度ならいずこでも見かけられそうな…ではあるも、傍らにある石碑を見て「あらら?」ということになりまして。

 

 

赤塚乳房大神…。今回ぶらりの歩きはじめに立ち寄った松月院の脇に「怪談乳房榎記念碑」を見出して、三遊亭圓朝の作った怪談噺「乳房榎」の舞台は松月院であったか…思ったわけですが、氷川神社近くにもゆかりがあるということなんでしょうかね。

 

傍らに解説板の類いが見当たらないので「はて?」と思ったですが、ちと離れたところの「氷川神社の参道並木」解説板の中にこんな一節がありましたですよ。

…参道入口の飛び地にあるケヤキは、幕末から明治期にかけて活躍した落語家三遊亭円朝の、「怪談乳房榎」のモデルおひとつといわれています。

そもそもケヤキであるか…と思うと、看板に偽りあり?てな気にもなってしまいすが、円朝の創作に何らかインスピレーションを与えたのかも。そんなこんなを思い巡らしながら、しばらく歩いているうちに成増駅に到着と相成りました。

 

 

歩き出しに下車した、ひとつお隣の下赤塚駅とは打って変わってターミナル感のある駅であったのでしたか。ともあれ、最終回は少々長くなりましたですが、これにて「ぶらり板橋赤塚散歩」は全巻の読み終わりにございます。

信州松本に出かけて街中ぶらりの途上、時代遅れの洋食屋おきな堂でランチに及んだわけですが、これが先にも申したとおり、松本ランドマークのひとつである四柱神社の目の前であったのですな。

 

 

店のすぐ脇で女鳥羽川に架かる橋を越せば神社の境内…なのですが、気になりましたのは橋の向こう、真ん中に顔はめパネル(というのか、顔出しパネルというのか…)が置かれておるようでして、誰かしらゆかりの有名人のような存在があったかいね?と、橋を渡ってみれば、これが…。

 

 

カエルですかぁ…と。パネルでは四柱神社で願い事を促すような感じですが、実際のところこちらの神社ゆかりというよりも、橋のたもとにある祠の方が関係しておるようですなあ。

 

 

扁額に曰く「蛙大明神」ということで。傍らにある「繩手と蛙」とある解説板からちとカエルとの関わりを探ってみますと、かつて繩手「に沿って流れる女鳥羽川の水辺では「河鹿蛙」が美しい鳴き声をかなでてい」たところが、「いつの頃からか、川が汚れ河鹿蛙は上流に追いやられ、通りも活気を失った時期があ」ったのだそうな。

 

そこで、「昭和47年「かえる大明神」を祀り、もう一度、末永く活気ある通りにカエようと新たなとりくみが始まり、以来「かえるの街」として…現在に至」るということでありますよ。盛り上げる一環としてとして、毎年6月には「かえるまつり」というイベントが開催されていて、今年2026年は23回目であるとか。6月も近いので、これはその告知ポスターでありましょう。

 

 

ちなみに「かえるまつり」が行われる「なわて通り商店街」HPによりますれば、ポスターにあしらわれておるのは「なわて通りのイメージキャラクターであるメトバ、ゴウ太」で、「女鳥羽川が再びカジカガエルが住めるような綺麗な川になることを願って生まれ」たのであると言われれば、「そうでしょう、そうでしょう」と。

 

上に引いたかえる大明神脇の解説板では、商店街に賑わいがカエルことばかりな気もしたものですが、河鹿が鳴いていた清流もまたカエルことが示された方がなるほど感が強まるように思えますのでね。ということで、繩手通りのカエル推しの一端をご想像くださいまし。

 

 

 

 

 

最後の写真は、先ほど紹介のありました2匹のキャラクターのうち、ゴウ太の像ですけれど、黒ずんでしまって目だけが光っているようにも見え、些か不気味感が漂いますなあ。夜にはあまり見たくないかもです(ですので、写真も心持ち小さめに…笑)。

 

てなふうに、松本市の繩手通り界隈でやたらにカエル・キャラを見かけたもので、当初はすっかり「松本は(全体として)カエルの街であったのかと思ってしまったものの、ひとえに繩手通りの仕掛けものであったのですな。ただ、「かえるまつり」は今ではすっかり広く市民に親しまれている行事となっているようですし、松本市公式観光サイト「松本旅のしらべ」に「初夏にはカジカガエルの涼やかな鳴き声が響き、蛍が舞う幻想的な夜景も楽しめます」とあるところを見れば、どうやら清流は復活したのでありましょう、めでたしめでたし。

 

静岡・掛川市にポッコリ突き出た高まり、その上にある掛川城天守の下まで石段をえっちらおっちら登って行ったわけですが、天守の建物内に入ればこれまた当然にして登りが待っている。お城の中の階段がやたらに急であることはいずこも同じでありますねえ。

 

 

でもって、内部にはお城にまつわる展示解説がたくさん!というのもまた同じ(ここのはこぢんまりとしてましたが)ですけれど、これを拝見するのはちと後回しにしてまずは最上階からの展望を見ておくといたしましょうか。

 

 

こちらは天守まで登ってきた道を顧みる方角で、南東方向ということになりますですね。直下が本丸広場で、左側の空き地状の部分が三の丸広場、その間にあるのが太鼓櫓ですけれど、思ったより大きな建物(こんなに奥に長い建物だと思わず…)だったのですなあ。

 

 

これは東の方角になります。眼下に見える屋根を寄せ集めた大きな建物は二の丸御殿でして、ここにはこの後に立ち寄りましたので、またのお話ということに。ただ、この方角、スキッと晴れ渡る日であれば富士のお山も眺められるとか。もはや駿府(静岡市)も過ぎて、遠江国の掛川にあってはもはや富士も遠望できまいなどと思っておりましたが、どうやらそうではないようで(といって、この日は全くみえませんでしたけれど)。

 

 

今度は南の方角を。真ん中に見える広い通りをまっすぐ進むと掛川駅に到達します(が、駅の正面とお城を結んでいる道とは西に一本筋違いとなっておりますです、念のため)。と、

 

こんなふうにお城から城下を眺め渡してみますと、平山城のほどほどに城下を見下ろし、また城下からもほどよく見上げられるという関係はなんとなく好もしく感じたものでありましたよ。

 

 

てなところで、眺望もほどほどにまたしても急な階段を気を付けて下り、展示室へと降りてきましたが、まずは展示室の片隅で上映されていたビデオ映像のことに触れておきましょうかね。後から気づけばこれ、Youtubeでも見られる内容なんですが、題して『掛川三城ものがたり』というものでありました。

 

 

掛川市では市の観光交流課がかようなパンフレットを作ってしまうほどに(?)当地に来たならぜひ市内の三つのお城を巡っていってくださいまし!という推し状態のようですな。パンフに見えるとおり、掛川三城というのは掛川城、高天神城、横須賀城のことですけれど、ビデオでは『掛川三城ものがたり』予告編としてそれぞれの城のさわりだけ紹介するという体裁なのですなあ。後は実際に訪ねて実見することをうまく唆す(言葉は悪いですが)仕立てになっておりましたよ。

 

見ているとついその気になって、取り分け車利用で来ている人たちなどは「んじゃ、ついでだから」とその気になったりするでしょうなあ。そうでない(公共交通機関頼みの)者でも釣られそうになったりもしたもので(当初予定の目的地がいろいろありましたので、行きはしませんでしけれど…)。

 

ともあれ、ビデオを見たあとには展示解説をつぶさに見て回って…となるところながら、解説内容に触れだすと長くなりそうですので、改めて次回ということにいたしましょうね。

結局のところ、バンコクのチャイナタウンに繰り出しながらも、旧正月元日の喧騒とタイらしい暑熱にへたれて、早々に(というより這う這うの体で?)ホテルに引き上げてきたわけですが、後は午睡とプールサイドでのんびりという、ある意味で実に贅沢な時間を過ごしたのでありますよ。

 

まあ、それだけ休養に努めたのも翌日にはまた朝から日帰りのプライベートツアーが設定されていたりもしたからでして、今度の行先は古都アユタヤでありました。

 

 

カンチャナブリに向かう際はひたすら西へ、でしたけれど、今度はひたすら北へという進路でありましたよ。例によって、バンコク中心部の交通渋滞を抜け出て高速道路に入りますと、通勤であるのか、バンコクへと向かってくる車の列を後目に、すいすいと郊外へ向かっていった次第です。

 

 

で、ひとたびビルの立ち並ぶ都市部の市街を抜けますと、そこに広がるのは穀倉地帯の姿でありますね。関東の人間ですのでついつい関東平野になぞらえてしまいますが、タイを北から南へ貫流するチャオプラヤ川が作り出した堆積平野が広がっているという恰好のようで。

 

徳川家康が江戸に入った頃でも、関東平野が江戸湾で終わりを告げるあたり、どうしようもない低湿地であって、これを大土木工事で今の東京につながる礎を築いたわけですけれど、タイの場合も14世紀半ばから18世紀半ばのアユタヤ王朝の時代、上の地図に見るアユタヤの南方、現在のバンコクのあたりもチャオプラヤ・デルタでずぶずぶの低湿地、とても農業などに向かい土地であったようでありますよ。

 

ですが、これを南へ南へと開拓、開墾を進めていったのでありましょう。上の写真よりも少し北へ移動しますと、なおのこと田んぼが広がっている、つまり盛んに稲作が行われているのですな。

 

 

こうした景観は、山岳地帯の際へと続くカンチャナブリへの往復で見かけたキャッサバ畑とは全く違う印象ですけれど、キャッサバはタイの特産物ながら、一方で米もまたタイの特産物であったことを思い出させることになりますですね。

 

ちなみに、第二次世界大戦時のタイは、東のカンボジアがフランスに、西のミャンマーと南のマレー半島がイギリスに蚕食されていたこともありましょうが、日本との関係(日本の圧力もあったようですが)を保ったのでして、そのために戦後(日本と同等の敗戦国扱いではないにもせよ)には、連合国列国に対する戦後賠償が必要になった。その賠償というのがタイの場合、米であったそうでありますよ。各国とも戦後の食糧不足に瀕する中ですので、ばんばん送り出されたようですので、農家は困ったでしょうなあ…。

 

日本でも、昨2025年の米不足による価格高騰の際にはあまり目立ちませんでしたが、1993年の米不足(平成の米騒動とも)のときには、かなりタイ米のお世話になったという記憶がありますですね。日本米に慣れた舌には、同じ米として食するには多少違和感ありでしたけれど、クミンと一緒に炊き込んだりして、そういうものだという味わいをそれはそれで楽しんだりもしたような。

 

余談ながら、1993年の米不足は記録的な冷夏による不作がもたらしたものであった…という記憶はすっかりなくなっておりますが、原因は(Wikipediaに曰く)「20世紀最大級ともいわれる1991年(平成3年)6月のフィリピン・ピナトゥボ山(ピナツボ山)の噴火が原因で発生したと考えられている」そうな。「夏の気温は平年より2度から3度以上も下回った」と聞きますと、不謹慎な話ながら昨今の酷暑には火山の大噴火が暑さしのぎになるのか…てなことを考えてしまったり…(失礼)。

 

と、すっかりタイと米の話が長くなってしまいましたが、そんな思い巡らしをしながら先ずたどり着いたのはアユタヤの町のちょいと手前に位置するバンパイン宮殿とやら。なんでもタイ王室の夏の離宮だったところということでありまして、次回はそちらを訪ねたお話を。

 

月いち開催のランチタイムコンサートで、またまたミューザ川崎に出かけてまいりました。何かと変わった組み合わせのアンサンブルで意表を突かれるところのある演奏会ですけれど、今回は極めてオーソドックスにヴァイオリンとピアノのデュオでありましたよ。

 

 

その分、「踊るヴァイオリン!」と銘打ったプログラムがこだわりのラインナップだったのかもしれませんですねえ。もちろん、ヴァイオリンを持ってソリスト(奇しくも石上真由子がまたしても登場)が踊るわけではないとは想像のつくところでありまして、舞曲由来の作品を集めたということになりますな。こんな具合です。

  • ファリャ:スペイン舞曲
  • チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ ハ長調 op.34
  • ジョン・ウィリアムズ:映画『イーストウィックの魔女たち』から「悪魔のダンス」
  • J.S.バッハ:無伴奏パルティータ第2番BWV1004からシャコンヌ
  •  武満 徹:映画『他人の顔』から「ワルツ」

なかなかのバリエーションではありませんか。でもって、この中で舞曲、ダンスの音楽ジャンルとして被っているのは「ワルツ」ですけれど、「ワルツ」と聞いて思い浮かべる、ヨハン・シュトラウスあたりのウィンナ・ワルツとは、「ワルツ」は「ワルツ」でもちょいと違うのが面白いところかと。

 

ウィンナ・ワルツのイメージでしょうけれど、優雅であったり朗らかであったりという印象ばかりがワルツではないと思わされることになるわけですね。まあ、チャイコフスキーの方は元来、ヴァイオリンの技巧を見せるための曲でもありましょうから、これで踊れないと言っても詮無い話ですなあ。

 

一方の武満作品は、いわゆるぶんちゃっちゃの三拍子で、踊れるワルツではあるものの、優雅、朗らかとは程遠いメランコリックさを湛える一曲でありました。これもそうですが、だいたい短調系のワルツに染み入ってくる要素がありますですねえ。すぐに頭に浮かぶところとしては、ショスタコーヴィチのジャズ組曲の中にあるワルツなんかがまさにではないですかね。

 

もそっと日本人的なる(どういうの?)感性に迫るとすれば、チンドン屋の定番曲として触れた『美しき天然』あたりは、まさにまさに!ですよねえ、きっと。

 

ちなみに『美しき天然』は日本初のワルツであるとも言われますが、おそらくは当時、チンドン屋以前に西洋楽器を用いた小規模楽団が市中を練り歩いたようなことがありまして、この楽団を「ジンタ」と呼んだそうな。おそらくは『美しき天然』も大いに演奏したのではなかろうかと。

 

なにせ「ジンタ」という呼称の由来として、演奏が♪ジンタッタ、ジンタッタと演奏されたからてな話が伝わりようですが、これってまんまワルツのリズムではありませんか?

 

ウィキペディアに曰く、ジンタでは「曲目も通俗曲に小ぶし風の装飾をつけた独得の哀調をおびた節回しで演奏するようになって」いったとありますが、西洋音楽は明治になって日本に本格流入したわけですから、日本人にワルツのリズムが刻み込まれて、そうそう歴史的に長いわけではない。ですが、ワルツのリズムが哀感と伴うような印象というは、その頃に根付いたのかもしれませんですね。

 

と、すっかり話は余談に走りましたが、かような思い巡らしを呼ぶというのも、演奏会が楽しいものであったが故と言ってよいとは思っておりますよ。