歴史上の人物を、例えば小説で、映画で、ドラマで描くときに、「これって本当?」といった人物造形がなされることがままありますですね。比較的近年の戦国もの大河ドラマでも、『どうする家康』と『麒麟が来る』とでは明智光秀の描かれようが極端に異なってもおり…といって、『麒麟が来る』は光秀が主人公ですからねえ。それにしても、本当のところはどんな人であったのか?を言っても詮無いことでるかも。

 

昔過ぎて分からないことがありますので、そこは書き手が思い描く人物像から歴史に語り残されない空隙を想像で埋めていく、何せ小説であり、ドラマでありですから。ですが、もそっと年代の下った人物を、「創作なのですよ」と断るでなくして実際、正真正銘の事実はこうです!といった形で表してしまったのがアントン・フェリックス・シンドラーの過ちだったのでしょうかね、映画『ベートーヴェン捏造』を見ていて、そんなふうに思ったものでありますよ。

 

 

原作となった『ベートーヴェン捏造名プロデューサーは嘘をつく』は数年前に読みましたけれど、このノンフィクションを入れ子仕立てのドラマとして、現代の学校で教師と生徒の話に差し挿むようにしたのは脚本を手掛けたバカリズムの手練れともいめしょうか。さりながら、最後の部分の教師と生徒との会話に示されるように、「シンドラー、ダメじゃん!」感が増幅されるようにもなっていたような。

 

もちろん、シンドラーの行いを手放しで良しとすることはできないものの、現代の倫理観を持ち込んで一刀両断するのもまた違うような気もしたのでありまして。例として適切かどうかというのはありますが、鎌倉時代の正史ともされてきたであろう『吾妻鏡』には北条得宗家側の都合がふんだんに斟酌されて、それはもはや事実の歪曲というレベルにまでなっていることは先にも中公新書の一冊で読んだとおりですし、甲斐武田を伝える歴史書とされる『甲陽軍鑑』もまた。たぶん、他にも同様のことは数多くあるのでしょう。

 

これは偏に書き手の側(書き手に影響力を持つ側)がよかれと思ってやっていることであって、後に批判されるわけですが、それはあくまで後々のことなわけですね。同時代的には「これでいいのだ」という大義名分があったのでしょうから。

 

シンドラーにしても「偉大なる作曲家ベートーヴェンはこうであった」というふうに書き残しておかねばという大義名分があったわけですが、これを批判することになるのはやっぱり後の時代の考え方なのでしょう。同時代的には、ベートーヴェンの生涯にまつわる著作を残した人物たちと、新聞紙上で激論が交わされたてなことがあったと、本作の挿話にも出てきますけれど、本当の本当に「だめじゃね?」とされたのであれば、シンドラーの著作はもっともっと分析されて、徹底批判されていたのではなかろうかと。

 

少々時代が下ってセイヤーというアメリカ人音楽ジャーナリストが批判に及ぶわけですが、これもまた、シンドラーの大義名分に口をつぐんだ恰好になってしまう。シンドラーの「ベートーヴェン伝」改訂第3版が刊行されたのは1860年、時代はようやくセイヤーが正論をもって指摘するところにたどりついたばかりだったのかも。そのセイヤー自身が口をつぐむとは、やはりその後の物差しでは測れない考え方であった時代なのでしょう。

 

ベートーヴェンの交響曲第5番冒頭の、そして全編を構築する動機は、「運命はかく扉を叩く」として広く知れ渡ることになって現在に至りますが、それをベートーヴェン自身が言ったと書いてしまうのはシンドラーのベートーヴェン神話なのでしょうけれど、しかしまあ、よく言ったものだとも思ったりしますですね。

 

同曲が「運命」という呼ばれ方をする源であって、これを長い長い間、人々は「なるほど」と思ってきたのであって、仮に先のひと言をベートーヴェンが言ったのではないとしても、もはや名言の類なのではと思えてしまったりしますし。

 

現代基準で言えば、シンドラーの行いは犯罪レベルとなりますですが、それをそのまま当時の倫理観に求めても詮無いとはいえましょうか。ま、映画としては面白くできていたとは思いますが、ちと現代目線が気になってしまったりもした…という印象でありましたよ。

先ごろ東京都公文書館を訪ねたのは高尾山にまつわるミニ展示を見るためでしたですが、そのひとつ前の秋企画展で「渋沢栄一と東京」というのをやっていたのですよねえ。

 

 

あいにくと見逃してしまいましたけれど、ここの施設のいいところ(?)は、過去展の図録らしき小冊子を無料で配布している点ですな。折も折、一冊いだだいてまいりまして、目を通してみれば「おお!そんなことになってましたか?!」ということを、冒頭の「ごあいさつ」文の中に見出してしまいまして。曰く、こんなふうです。

明治維新後、新政府は東京を帝都にふさわしい機能と景観をそなえた大都市として整備しようと様々な施策を行いました。その財源となったのが、「七分積金」です。
七分積金は、寛政3年(1791)、窮民救済を目的に松平定信が設置し、幕末に至るまで長年にわたり江戸町人が積み立ててきた財源でしたが、新政府は、インフラ整備など窮民救済以外の「公益」に資する事業にも利用していきます。

江戸庶民に対する福祉を名目に設けられた特別税であったものを、公益のためとはいえ、明治政府では幅広く使ったということのようで。道路・橋梁の修繕、街灯整備などなど、いずれも道や橋は安全な方がいいでしょう、街灯で夜間も明るい方が安心でしょうと、つまりは庶民の皆さんのためなのですよと言いつつ、本来の目的とは違った形で税金が使われる。明治政府は幕府とは全く異なる政治主体ですので、約束が違うことに頓着は無かったのかもですが、「情けは国のためならず」とでも言うような論法は、今にもつながるところと言えましょうかね…。

 

と、またまた余談に走りそうなところで元の図録の話に戻しますと、「七分積金は、適切な管理を欠いたまま、多種多様な事業に用いられ、瞬く間に減少していきました」と。そんなところで、「七分積金を用いた事業を運営していた東京会議所」の会頭に就任したのが、渋沢栄一であったそうなのですね。

 

渋沢がやったことというのは事業仕分け(どこかで聞いたことのあるものとは意味合いが異なりますが)でして、まずは七分積金よる事業を東京府に移管して行政の監督が行き届くものとし、一方で今も昔の時間がかかるらしい役所仕事に馴染まない迅速な意思決定が求められる事業は民間に任せることにしたようで。

 

後者の例にはガス事業がありまして、東京ガスが運営するガスミュージアムでも渋沢栄一が大きく紹介されておりましたっけね。そちらの展示を見たときにはでは「1885年には民間払い下げとなったガス事業経営のため、東京瓦斯会社が設立され、これまた渋沢が初代社長(当時の呼称は会長と)に就任する」てなことを書いたわけですが、そも民間払い下げを主導したのが渋沢で、自ら受け皿の会社の社長になってしまうとはどういうこと?とも。

 

さりながら、ガス事業の滑り出しは利用者伸び悩みと大問題を抱えておったそうですから、自ら言い出しっぺになったことに責任を取ったてなふうにも言えましょうかね。

 

ところで、七分積金本来の予定使途であった窮民救済の事業はどうなったか。明治5年(1872年)に東京府は養育院なる施設を設け、困窮者240名を収容したのではあると。ところが、これは「折から予定されていたロシア皇子の来日に際し、府が帝都の不体裁を取締るために講じた臨時的な処置」だったそうな。外国から賓客を迎えるのに首都・東京に貧しい人たちの姿をあるのを見せてはいけんと、それだけのためだったようです。いやはや…ではありませんか(ちなみにこの時の来日したのはアレクセイ・アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル2世の息子)で、もちろん大津事件で遭難するニコライではありません、念のため)。

 

実際、養育院は設立から10年ほどしますと、費用負担への疑義が出されて廃止が検討されるような状況に。と、そこでまた腕を揮うことになったのが渋沢栄一であったそうなんですよねえ。さすがに養育院を民営化するわけにはいかないにせよ、独立自営という方向へ舵を切ったということで。もちろん簡単ことではありませんが、定期的な慈善市(バザーですな)を開催し、民間から寄付を募り、これに応えて?皇室からの下賜金もあったとか。行政はといえば持て余して投げ出すばかりでしたのに…。

 

渋沢栄一の事績に関しては、必ずしも個人的理解が十分にはありませんので、全ての点で「とにもかくにも渋沢、えらい!」とまで言い切れる材料がありませんけれど、ことごと接する限りにおいては、どうして今の時代にこういう人がでないものであるかな…と思ってもしてしまうところではなかろうかと。

 

まして、漠然とした期待感に頼ってナチを第一党に押し上げてしまった1932年のドイツを思わせるような選挙結果を目の当たりにしますと、なおのことではなかろうかと。漠然とした期待感がなんと危ういものであったかと、後になって知っても遅いのですけれど…。

さてと、福岡県八女市にあります岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」を訪ねて、その常設展示室のことを振り返ろうというお話。で、のっけから余談になりますが、八女市に関わることを書く…というついでにマイクロソフトの検索エンジンである「Bing」でもって「八女市」をキーワードに検索をしてみたのですな。結果として表示されたものの頭の部分がこちらになります。

 

 

まずもって「八女市ホームページ」が表示されるのはいいとして、そのすぐ下にはおそらくAIの解析なのでしょう、ページの紹介がなされておるわけですが、これを見たときには正に目が点になりそうでありましたよ。なんとなれば、「八女市は福岡県の北部に位置する市で…」とは?!。改めて地図を参照してしまいましたが、どう見たって福岡県の南部でしょうと。AIの実力はこの程度なんですかね…という余談はさておき、いわいの郷の常設展示室は広いロビーの左手側奥にありました。

 

 

展示室に入りますとすぐに現れるのが大きめのスクリーン。ここでつかみとして筑紫君磐井のことを知ってもらおうということでしょう、「八女英雄伝説への招待」という映像が上映されるのでして。

 

 

予想通りに、日本書記などでは叛乱の首謀者と描かれる筑紫君磐井がここではきっぱり「英雄」になっておりますですねえ。展示の方の解説文ではこのように。

八女には、かつて九州を代表する大豪族筑紫君一族がおり、八女北部の丘陵地に大きな古墳を次々に築きました。なかでも、磐井はその絶頂期に活躍し、九州の諸豪族と連携しながら朝鮮半島との海外交流を行っていました。

日本書記はヤマト王権に連なる国家形成を裏付けるように描かれておりましょうから、中央集権の盤石を謳うには九州豪族の所業を悪事としなければならないわけでしょうね。ただ、そもそも筑紫君の「君(きみ)」はいわゆる氏姓制度の中の「姓(かばね)」のひとつになっているわけですが、王権側としては「臣(おみ)」や「連(むらじ)」の方が政権内では高位とされたのかもしれないものの、あくまで王権の臣下であったり、王権に連なる者と想像されるところに比べれば、「君」はちと異なる次元にあるような。

 

なにせ君臣という言葉がありますように、地方豪族ではあるも後の言い方に擬えれば「一国一城の主」的な意味合い、位置づけがあったのではないですかね。その独立性、独自性を無視できないところもあって「君」なんつう姓をあてがったのでもあろうかと想像したりもするのでありますよ。

 

 

とまあ、そんな筑紫君磐井につながっていく歴史を展示解説から振り返っていこうと思いますが、いずこの歴史民俗資料館で同様の、太古も太古、縄文以前から始まる部分は(遺憾ながら)ここではちと端折りまして、「筑紫君 始動 有明海を制す!」というあたりから見ておきましょうかね。

倭王武(雄略天皇)の上表文や日本書記には、中国への渡航ルートや国際港湾としての有明海の姿が記述されています。5世紀中頃、高句麗や百済の戦争により玄界灘から大陸へのルートの一部が遮断され、有明海の重要度が飛躍的に上がりました。既に地場の盟主となっていた筑紫君一族は、有明の制海権を握ることで次第に巨大豪族となったものと推定できます。

 

一方で、ヤマト王権の勢力伸長は北部九州にも及んできていたのでしょうなあ。ただし、まだまだ完全に臣従する関係ではなかったとは思いますが。今日でいう「win-win」の関係のような形である限りは提携するといった形だったかもしれませんですね。

筑紫君一族がヤマト王権との関係を深めていく中で、磐井は北部九州を結束させる程の強大な影響力を持つようになります。しかし反面、全国の古墳に見られる「埴輪」を立てるのではなく、被葬者を守る役目を持つ凝灰岩製の石製品「石人・石馬」を数多く樹立させるなど、九州古墳文化の独自性を強く表現するようになります。

先に訪ねた九州歴史資料館で、石人像は北部九州の古墳に特徴的なものであると教えられたわけですが、上に引用した解説からすると、全ては磐井の影響力のように受け取れてしまいそうながら、そういうことでもないのではなかろうかと。ただ、石人・石馬が北部九州の古墳に特徴的なるものとはそのとおりですので、この後は展示室内にたくさん並んでいた石人・石馬の実像に触れながら進めてまいろう…とは、次回のお話ということで。

 

ちょいと前に日比谷図書文化館で特別展「THE SHOWA MUST GO ON-「昭和」という舞台を観に行こう-」を覗いた際に、阪急の総帥にして宝塚歌劇団(当初は宝塚唱歌隊、次いで宝塚少女歌劇団)の生みの親である小林一三が「有楽町アミューズメント計画」というのを画策していた…てなことがと、ちと記憶に残っておったのですな。そんなときに近隣図書館でかような一冊を発見、借り出して読んでみたのが『宝塚歌劇から東宝へ-小林一三のアミューズメントセンター構想』という一冊でありました。

 

 

若かりし頃の紆余曲折はともかくも、1907年(明治40年)後の阪急につながる箕面有馬電気軌道株式会社の専務取締役に就任した小林一三(若かりし頃がどうのといっても、このとき小林はまだ34歳で、実質的に同社の代表であったと)、阪神電鉄のように大阪、神戸という大都市間を結んで乗客需要が見込める路線でもないところから、さまざまな沿線開発を行ったことは夙に知られていようかと。

 

そのひとつが兵庫県宝塚市の周辺開発であったわけで、実際に鉄道が運行を開始した翌念(1910年)には宝塚新温泉(従来の宝塚温泉の対岸に当たるそうな)の営業を開始して娯楽客の誘致を始めたのであるそうな。温泉には来場者サービスの余興を見せるため劇場を設け、1913年にそこで公演を行う専属団体として組織したのが宝塚唱歌隊(後々の宝塚歌劇団)だったのであると。

 

その後…本書では宝塚歌劇の歴史が長く綴られるのですけれど、個人的な関心としては東京に進出して、東京宝塚すなわち東宝ができるあたりになりますので、ぐんと端折って話を進めるといたしましょう。ともあれ、最初から成算があったとも思えないのですが、宝塚少女歌劇は大評判になり好評を博したそうですが、これは始まりが温泉客向けの余興であって、基本的には無料観劇できたことも関係しておりましょうかね。

 

とにかく、評判に気をよくした小林、温泉施設の宣伝にもなりますので大阪市内、道頓堀の劇場街へと出張公演をすれば、これまた大当たり。やがては東京へも…と思い描くも、東京・日比谷の地に東京宝塚劇場を開設するのは1936 年(昭和11年)まで待たなければならないのですな。

 

阪急総帥ながら1932年、東京電燈株式会社(今の東京電力)の社長に就任した小林は東京に来る機会が増え、東京の劇場事情をつぶさに見て廻ることができるようになったわけでして、当時、東京最大の歓楽街は浅草であるも、ここを小林は「低級」と見ていたようでありまして。

 

だから、日比谷だったのであるか!?と思えば、後に東京宝塚劇場を建てるあたりは、甲州財閥の先輩である根津嘉一郎の土地を譲り受けたからということのようですね。今となっては知る人の少ない甲州財閥、戦前期までは侮れない存在であったことはこの辺のことでもまた。

 

後には周辺の土地も手に入れて、日比谷映画劇場(映画専門館)、有楽座(当初は日本の伝統芸能系のための劇場)といった大きな施設を作り、東宝村の様相を呈するわけですが、こうした動きに黙っておられないのが松竹であったと。

 

そもそも江戸期以来の歌舞伎興行を手中に収めていた感のある松竹は、大阪・道頓堀の劇場街に宝塚少女歌劇などという有象無象がしゃしゃり出てくることからして気に障るところであったのが、東京に進出するばかりか、その他に映画や芸能関係の興行まで行うようになってきた東宝が目障りでないはずはない。

 

東京においては、東銀座・築地界隈に歌舞伎座、東京劇場(現在は映画専門の東劇)などを有していたわけですが、目と鼻の先の日比谷に東宝が次々と劇場建設を進めるのは鼻もちならない事態かと。大阪から東京へとわだかまりを引き継いだ松竹と東宝は、バトルを繰り広げる。その至って分かりやすい例は、松竹歌劇団(SKD)の設立だったりするわけですね。なんだか、新興勢力をやたらつぶしにかかっているような松竹は大人げないといった気にもなったりしましたですよ。

 

ところで、小林の劇場運営は温泉の余興に始まった…というわりには、その後の展開があまりに熱心ではないかと思えてきますが、そも小林の頭の中には「新しい国民劇の創設」という高邁な?理想があったということなのですね。その「新しい国民劇」なるもののイメージはついぞかっちり具体的に語られることはなかったような気がしますけれど、明治期の欧化政索の時代を通り抜けた小林、歌舞伎のように邦楽伴奏によるのでなしに、西洋音楽を伴って歌い踊る形が浮かんでいたような。

 

かといって、オペラの真似事とも違うのだと考えていたようで、そうなりますとやっぱり宝塚的な?とも思うところながら、将来的には男女の俳優を擁する劇団運営をも想定したと。実際お抱え男優の育成をも図ったことはあるようですが、宝塚少女歌劇ほどにはうまくいかずに、試行錯誤が続いたようです。後も後、映画制作にも手を染め始めてから東宝専属俳優というのが出てくるまで、紆余曲折があったと(代々小林は映画制作にはおよそ興味を示していなかったようでし)。

 

そんなこんなのことを考え併せますと、後に松竹から譲り受けることになった帝国劇場が東宝ミュージカルの牙城となりますが、もしかすると小林が考えた国民劇のありようは、これによって体現されたことになるのかもとも。

 

確かに宝塚ともども東宝ミュージカルの人気は高いですが、これらをもって「国民劇」かと言われると「どうよ?…」の感ありの一方で、東京宝塚=東宝の台頭なしに、興行界が松竹一強で推移していたとしたら、果たして日本の劇場事情はどうなっていたことでしょう、想像もつきませんが…。

寒い寒いとちぢこまってばかりいるのも何ですので、少々暖かくなるという天気予報に釣られて自転車でひとっ走り、東京・西国分寺にあります東京都公文書館へ。途中に坂道のアップダウンが連続したりしますので、運動がてらということで…。

 

 

開催しているのはミニ企画展示 「東京百景シリーズ2 高尾山(八王子市)」というものでして、なるほど紛れもないミニな展示でしたなあ。なにしろ、今は開催していない企画展示室の扉を挟んだ両脇のショーケースふたつきりというもので。ですが、それなりながら些かの「ほおほお」はあったようにも思えましたですよ。

 

 

高尾山といえば、都内小学校の遠足で登る山というばかりの認識で舐めてかかっていたりしておりまして、埼玉県民であるが故に?登ったことが無いという友人を「楽勝よ!」などと言って導いたりもしたですが、運動不足をこじらせた身には思いがけない運動量になったりしたのですな。

 

と、そんな個人的経験はともかくといたしまして、東京の西の外れにあって反対側に下れば神奈川県相模原市の相模湖ということになるロケーション、その手前には明治になってまだ広大な武蔵野が、国木田独歩が描きだしたような姿で横たわっておったわけでして、さらに昔には「「萩、女郎花、荻、薄より外」無い状況が三日も続くという未開発の原野が広がっていた」…とは、ちょいと前に杉並区立郷土博物館の解説文で見たとおりでしたな。

 

今でこそ京王線が高尾山口まで通り、その先にはケーブルカーで登っていける便利さが、人気の観光地たる後押しをしているものの、昔々の高尾山は深山幽谷の趣でもあったろうかと。それだけに「天平16年(744)に聖武天皇の勅令を受け、東大寺の大仏造立で知られる行基によって開山したと伝えられる」薬王院ができた頃から長らくの間は、修験の道場としてのみ知られるところだったのでありましょう。

 

それが戦国時代になりますと、関東を手中にした北条氏が近辺に八王子城やら滝山城やらを築きますと、当然にそれらをつなぐ道ができて、往来は些か活発化したのではなかろうかと。ただ、北条氏の滅亡によってこのあたりは荒廃することになってしまったということで。

 

薬王院も同様だったわけですが、「江戸時代の寛永年間(1624~44)に檀徒が協力して再興」し、だんだんと江戸市中からも参詣者がやってくるように。この辺のことは、徳川の御代が安泰になって、物見遊山を兼ねた寺社参詣の旅をする余裕が人々の間で生まれたことからでしょうな、賑わいを見せた大山詣でや大規模になるとお伊勢参りの流行と同根でありましょう。

 

 

こちらは文政十年(1827年)江戸の仕立て屋さんの参詣旅日記の部分(明治8年写本)ですけれど、左上の薬王院あたりにはたくさんの建物がありまして、賑わいのほどを窺わせておるようで。

 

そんな江戸期から観光地となっていた高尾山がさらに注目されるようになりましたのは、明治になって鉄道が開通したことが機縁であると。まずは「明治22年(1889)の甲武鉄道(新宿ー八王子、現JR中央本線)の開通」があり、「八王子駅から高尾山まで2里(約8km)、道路も平たんで、馬車・人力車が往来していたことから、甲武鉄道の名所案内が出版されると、知名度が上昇」することになったということです。

 

 

明治34年に鉄路が山梨県の上野原まで延びますと、「高尾山により近い浅川駅(現高尾駅)が開業、さらに大正期には京王線が開通して観光客輸送は増え、ついに昭和2年(1927年)、「高尾山の麓から中腹にかけて…全国2番目となるケーブルカー」が開業することに。利便性は弥増すことになったようでありますよ。ちなみに、日本初のケーブルカーは大正7年開業の生駒ケーブルだそうな。

 

 

これは昭和初期に京王電鉄が作った沿線案内図ということでして、東京から高尾山へ、交通至便なようすを描き出す中にはしっかりとケーブルカーが描かれておりますよ。

 

 

ところで、この高尾山のケーブルカーは「最急勾配は31度18分、ケーブルカーの線路では日本一の急勾配となっています」と高尾登山電鉄HPのありますので、さぞや難工事だったのではないですかねえ。

 

てなふうな推移を高尾山が経る中、かつて武蔵野の原野だったところは東側からじわじわと沿線開発が進んでいきましたですね。現在の中央線快速で東京から高尾へと向かう際、ほとんどビルと家々の屋根が途切れることはないようになっているわけで。

 

かような様相を呈する以前、結構早い段階から高尾山の自然を保全する動きはあったようですね。大正8年(1916年)に施行された「史蹟名勝天然記念物保存法」では「高尾山を重要な史蹟や名勝に指定し」、昭和10年には「高尾山を含む一帯は「高尾景園地」(都市の中で自然や景観を保護し住民のレクリエーションや健康を促進するためのに計画された緑地)に指定され」たということでありますよ。

 

都心から交通至便なわりに深い自然を保ち続けているのは、こうした施策の賜物ではありましょう。さりながら、開発の手はすでに高尾駅周辺を大きく変えるに至っておりますね。大規模マンションやら大型商業施設ができたりもして。なにせ中央線快速の始発駅にあたる高尾駅から乗車すれば、都心まで通勤するのに毎朝座って行けるというのは大きな魅力でしょうから。そんなことがあってもなお、高尾山の自然はその命脈をどこまで保つことができるのか…少々心配にもなっているところでありますよ。