京都・伏見にある見学施設、黄桜伏見蔵を訪ねたわけですが、ここでちょいと黄桜の歴史などを少々。企業ミュージアムには当然にして社史を紹介するコーナーがあるものですのでね。

 

 

ですが、沿革の始まりが1925年(大正14年)にあるとは思いのほか新興企業でないの?!ということ。ただ、寛政三年(1791年)以来、造り酒屋を営み続けている松本家(伏見にたどり着いて一番最初に見かけた酒蔵、松本酒造であるようで)から分家して、1925年に松本治六郎商店(現在の黄桜株式会社)が創業されたのだとか。

 

本家筋の長い歴史にあまり触れないのは独立意識の表れであるのか、あまり親戚関係がよろしくないのか…。そのあたりは詳らかではありませんが、創業当初は苦節三十年と言ったところでしょうか、年譜で次に紹介されるのは1955年(昭和30年)に飛ぶという。この年、黄桜が全国的に知名度を上げることが起こったわけで。

 

 

黄桜といえば「これ!」と結びつくキャラクターとしてカッパの採用が決まったのが1955年、折しもTV放送が開始され、神武景気で家電がどんどん普及していく中、カッパのCMは絶大な広告効果をもたらしたそうな。

 

 

そんなカッパのキャラクターが、実は途中で代替わりしていたのでしたか。初代が清水崑、二代目が小島功によって描かれたカッパたち、言われてみれば絵の個性が異なりますなあ。二代目へバトンタッチしたのは1974年だそうですが、意識したこともありませんでした。

 

ともあれ、知名度アップに製品が追いつかないとそれまでながら、1966年に「金印黄桜」を発売、当時は特級酒、一級酒、二級酒という等級分けがある中で、お手頃価格の二級酒ながら一級酒並みのアルコール度数を満たしていたのが「金印」であったと。その頃のお酒の等級分けにはアルコール度数が大きく関わっていたのでしたか。

 

 

続いて1971年には「本造り黄桜」を発売、「当時の一般的な一級酒に比べアルコール添加量を減らした製法」で今でも使われている「本醸造酒」の業界基準を導くことになったのであると。簡単に言ってしまえば、混ぜ物が少ないと言えましょかね。

 

 

次いで1982年には業界初の紙パック容器で「呑(どん)」が発売され…と、このあたり、企業ミュージアムですので自社製品の自慢?が並ぶのは致し方ありませんが、同社製品の過去のCM映像を集めた「コマーシャルライブラリー」で振り返ってみますと、確かに一世を風靡した商品名であったなあとも。

 

 

♪さぁけぇはきざくぅうら、ほんづぅくぅり~と大川栄策(「さざんかの宿」がヒットした演歌歌手ですな)が歌っていたり、叶和貴子と三宅裕司が夫婦役で出て来た後にひと言、「きぃざくらぁ!」と入る(山本譲二の声ですかね?)「呑(どん)」のCM映像があったり、この手のCMライブラリーはついつい腰を据えて見入ってしまいますなあ(笑)。

 

と、その後も1991年「山廃仕込」、1999年「辛口一献」と全国区銘柄らしい商品展開をしていくわけですが、いつしか日本酒市場には地酒ブームといったものが到来して、むしろ全国区銘柄(もちろん黄桜ばかりの話ではありませんが)は陳腐とみられるようにもなってしまっていようかと。居酒屋のメニューや酒販店の品揃えにはさまざまな地域で造られている地酒が並び、月桂冠とか黄桜とか(例えばですが)があっても敢えてこれをチョイスする向きも少なくなっているのではなかろうかと…。

 

 

そんな風潮もあってか、2006年に黄桜は社名変更に打って出る。といっても、「黄桜酒造株式会社」が「黄桜株式会社」になっただけといえばそれだけですが、こだわりの酒造りに専心してきたところで「酒造」の看板を下ろすのは大きな決断があったのでしょうなあ。決意表明としては「それまでの酒造りで培った技術を活かし、化粧品や食品分野にも参入を視野にいれていく」と。

 

ま、消費者としては気が付かないレベルかもしれませんですが、この手のことはよくあるわけで、「チョコレートは明治」で知られた明治製菓など、実は医薬品製造が事業の中心だったとして、「製菓」の文字はもはや社名にありませんですしね。という余談はともかく、黄桜が経営多角化に舵を切ったのは、1995年に参入した地ビール事業の成功体験(想像です)の故でもありましょうか。

 

黄桜は”地ビール解禁”に伴い、京都で初、日本で7番目のビール醸造免許を取得し、ここで造った「黄桜麦酒(きざくらばくしゅ)」を販売しました。ここでしか飲めないできたての地ビールや限定のお酒、京料理を提供する「カッパカントリー」をオープンしました。

てなわけで、この伏水蔵という見学施設が併設された新工場は必ずしも日本酒需要の高まりの故ではないようで…と前回のお話の最後に触れておりましたですが、(お酒も造っているにせよ)実はここはビール工場なのであるというのですなあ。話をそこに持って来んがために歴史を紐解いてしまいましたら、長くなってしまい…。ですので、次回には黄桜のビールのお話になってまいるのでありますよ。

もっぱら観光目的で山寺を詣でるならば、およそハイライトは奥之院にあるのでなくして、これから触れる開山堂・五大堂のあたりこそということになりましょうか。まずは開山堂です。

 

(開山堂は)立石寺を開いた慈覚大師の御堂で、大師の木造の尊像が安置されており、山内の僧侶が朝夕、食飯(じきはん)と香を供えてお勤めをしている。江戸時代末期の再建である。向かって左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物である。

納経堂の方には、先にふれました石墨草筆、一字三礼の写経修行による写経が納められるわけで、観光客が写経体験で書くのとはちと重みが違うような。なんとなれば、納経堂が立つ岩は百丈岩と呼ばれる大きなものなのですなあ。ちと回り込むとこんな具合ですが、もっと下の方まで続いているのでして。

 

 

この百丈岩(のどこかしら)には入定窟といわれる慈覚大師の遺骸を納めたところがあるそうな。延暦寺で亡くなった慈覚大師をこちらに改葬したとも伝わるようで、学術調査の結果として、それらしい?遺物が発見されたということでありますよ。とまあ、そんな開山堂・納経堂の右手の細道から五大堂へと向かいます。

 

 

五大堂は「五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、山寺随一の展望台でもある」ということですので、訪れる人皆、この石段を登っていくわけですな。皆さん、果たしてどんな感想を抱いておりましょうや…。

 

 

「山寺随一の展望台でもある」と言われれば期待度は大いに高まるところで、絶景が待ち構えているやに思うものの、決して否定的な意味合いではありませんが、個人的には「のどかな眺めだなあ」という印象でありましたよ。

 

♪山の麓 煙はいて列車が走る 凩が雑木林を転げ落ちてくる
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり 置き去られて雪をかぶった 案山子がひとり

ふと思い浮かんだのはさだまさし『案山子』の一節。雪景色の季節ではありませんけれど、ここに仙山線がまかり間違ってSLででも通りかかれば…なんつうふうに想像してしまったり。そんなまったり気分にもなる五大堂ですが、まあ、ここに限ったことではないものの、来た証を残したくなってしまう人がいるのでしょうかね…。

 

 

いやはや…と首を振りつつ五大堂を後にして、いよいよ本格的下りにかかるのでありました。

 

京都・伏見は酒のまち。訪ねたからには、と一日のうちに何軒もの酒蔵を渡り歩くことを目的にされる剛の者(無茶な人?)もおいでとは思いますけれど、個人的にはそのレベルには行っておらない。それでも、町なかをふらりとする中で「富翁」とか「京姫」とか、見知った銘柄を見かけると呼ばれているような気がしたものです。

 

 

さりながら酒蔵以外であちこち見て回りたいところがあったものですから、そこは堪えてやり過ごす。その代わり、工場見学があったり資料館が併設されているところに限定して立ち寄ることにして、その代表格が先に訪ねた月桂冠大倉資料館だったわけなのですなあ。で、伏見の酒にあって取り分け全国的浸透度の高いお酒としてもうひとつ、それが黄桜だったのでありますよ。

 

 

実はこれまでううろろしていた伏見の町なかにも「キザクラカッパカントリー」という施設がありまして、旅行ガイドブックなどにも載っておるのですけれど、どうやらここはレストランがメインであるようで。だもんで「別途、飲み食いに来ようかいね」と通り過ぎるにとどまっておったわけですが、伏見が誇る、月桂冠と並ぶ大衆的ブランドの雄?としては、企業史などを含めたPR施設が無いはずはない。市街地からちと離れて立つ新工場の方に該当施設があったのですなあ。こちらに来る以前の情報収集段階ではひっかかってこないでいたのですが…。

 

 

とまれ、京阪中書縞駅から徒歩20分(実際にはそれほどにかからなかったですが)という「黄桜 伏水蔵」を訪ねた次第。町なか施設の方は、いかにも黄桜らしくカッパ、カッパしておりましたが、こちらはずいぶんと落ち着いた雰囲気で…と思えば、入口ではやっぱり黄金のカッパが出迎えておりましたよ。

 

 

ところで施設名の「伏水蔵(ふしみぐら)」とは、先に何度も触れてきましたように伏見の地はかつて伏水と言われていた…というところから来ているのだろうと知ったか状態でしたけれど、その実、黄桜には黄桜の、独自の湧き水を「伏水(ふしみず)」というようで。「伏見名水スタンプラリー」」の紹介欄に書いてありましたですよ。と、水の話は(ここでは)ほどほどにして、施設見学へとまいりましょう。

 

 

 

酒造りではもちろん水は大事なわけですけれど、酒米もまた。ここでも酒造好適米と紹介されている「山田錦」は「酒米の王者」とも言われるとか。ですが、山田錦の何がそんなに凄いのか、なぜに酒造りに適していると言われるのか…には思い巡らしたことはありませなんだ。どうやら、こういうことのようで。

(山田錦は)一般的な米より大粒で、通常よりさらに磨く「高度精米」にも十分耐えられる特性を持っています。
米麹を造るために蒸米に麹菌を植え付けますが、米の中心部には心白(しんぱく)と呼ばれる細かい隙間があり、そこに菌糸が入り込みます。山田錦はこの心白が大きく、菌が育ちやすいため、良質な米麹が育まれます。

普段食べるお米は玄米から白米になるくらい、外側をうすく磨く感じかと思いますが、酒米の場合には中央部分のデンプンと取り巻く脂質やタンパク質が多く残ると雑味になってしまうのであると。そのため、心白近くぎりぎりまで磨くを良しとして、精米歩合が高さはお酒の値段に関わってくるのですなあ。

 

 

米を粉砕してしまっては元も子もないわけですから、磨く作業はなかなかに繊細なもののようで、50%まで持って行くのにおよそ24時間かかるとか。食べるお米の精米時間は1~2分だそうですが…。

 

 

と、この先、長い廊下に沿って壁面には解説パネル、反対側はガラス張りになって製造工程が見えるようになっておりましたよ。あいにくと作業はおよそ行われておりませんでしたけれどね。

 

 

で、プロセスは端折って恐縮ながら、全国区知名度の黄桜の酒が出来上がっていくのであるということになりましょう。

 

 

ですが、ここの工場が新設されたのは必ずしも日本酒需要が高まったから…ということではないのであるとか。次回はそのあたりを振り返ることにいたしましょうね。

山寺の石段登りもいよいよ大詰め。ここさえ登り詰めれば奥之院に到達という段階までたどり着いたわけですが、これまで登る方向ばかり見ていたのは山中を通過していて視界が開けていないからでもありまして。それが、この段階に来て振り返るとこんな具合の眺めが得られましたですよ。

 

 

結構登ってきた感はあるも、さほどに眺めがいいわけでもない…。ま、眺望の方は奥之院を巡ってから下りがてら立ち寄る五大堂に期待しておくといたしましょうね。で、とにもかくにも奥之院登頂(?)と相成りました。1015段の石段踏破です。

 

 

ちなみに「奥之院」とは通称のようで、正式には二つ並ぶ御堂の、右側が「如法堂」で左側が「大仏殿」ということになります。如法堂の方は「開山・慈覚大師が、中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊」とし、大仏殿の方は「像高五メートルの金色の阿弥陀如来像を安置」しておるということですが、触れておくべきは如法堂が写経道場であるということなのですなあ。

 

こういっては何ですが、写経なるものはあちこちのお寺さんで観光客向けにも体験できるようになっていたりするではないか?と思うところながら、立石寺野奥之院如法堂で行われているのは「石墨草筆による一字三礼の如法写経行」であると。石の墨と草の筆を用いるだけでも尋常でない(絶対的に書きやすいはずがない)と思いますし、一字三礼、即ち一文字書くごとに三度礼拝するとなると、こりゃあ、生半可では行えない。やはり「行」と言われるだけのことはありそうですね。ちなみに延暦寺では失われた習慣ながら、立石寺では今でも続けられておるということでありますよ。

 

 

という如法堂のお隣には寺務所がありまして、奥之院到達を果たした者だけが買える(たぶん)品が並んでおりましたので、登頂の証として奥之院お線香を買って帰ることにいたしました(御朱印・御法印の類は集めておりませんのでね)。

 

 

さてと、登りに登ってかいた汗がひとまず落ち着いたところで、今度は下りにかかります。途中には開山堂・五大堂と立ち寄りポイントがあるわけですが、その前にまず、脇道に入り込んで寄り道を。もはや立ち寄る人もほとんどいないようですな。なにせ看板が地味過ぎて…。

 

 

お寺さんにはよく三重塔やら五重塔、はたまた七重塔なんつうのもあったりして、一般には天を衝いて聳える塔を見上げ「大きいねえ」とつぶやくところなのですが、こちらにあるのは「三重小塔」であると。

 

 

この岩屋と一体化したような祠の中に件の三重小塔(高さ2.5mほどとか)が納められておりまして、添えられた解説にはわざわざ「模型ではありません」と断ってあるのが笑いを誘うところでもありましょう。それでも国指定重要文化財となれば、さぞかし精巧にできているのでしょうけれど、近寄って覗き込むもよく分かりませんでしたなあ…。

 

 

と、こちらの大きな(?)御堂には「行啓 山寺記念殿(通称:行在所)」という看板が出ておりました。皇太子時代の大正天皇が訪れたときの休息所だそうで、それを有難く思うものでもないですが、さすがに見晴らしの望める場所に作ったのであるなあとは少々の感心を。中に入れるわけではありませんけれど、建物からこんな風景を望んだのでありましょうね、きっと。

 

 

そんなこんなの寄り道を経ているうちに、下りの道すがらに立ち寄るポイントのハイライトが見えてまいりましたですよ。ということで、次回は開山堂・五大堂あたりのお話となってまいります。

 

京都・伏見の町歩き、紆余曲折を経て御香宮のお話に戻ってきました(実際に何度も足を運んだわけではありませんが…)。ということで、こちら改めて、御香宮神社でございます。

 

当社は通称「ごこんさん」として古くより地域の人々から親しみをもって呼ばれ、旧伏見町一帯の氏神として信仰を集めている。創建時は不詳であるが、御香宮縁起(三巻)によれば、貞観4年(862)9月9日御諸神社境内より「香」のよい水が湧出する奇瑞により、御香宮の名を清和天皇より賜ったとされている。しかし香椎宮編年記(香椎宮蔵)によれば弘仁14年(823)御祭神神功皇后の神託により、この地に宮殿を修造し椎を植えて神木としたと伝えられている。

こんな由緒が同社HPに紹介されておりますけれど、奇しくもここに清和天皇が登場。たった今、並行して山形の立石寺のことを書いておりますが、山寺自体、清和天皇の勅願寺であったわけで、ばらばらに訪ねた二つの土地でかようなつながりに行き当たることこそ「奇遇であるなあ」感を抱くところでもあろうかと。

 

さりながら、こちらの神社を覗いた段階でそのようなことを知るでもなく、またここに香りのよい水が湧いているなどということも予備知識無く…。ただ、先にも触れました「伏見名水スタンプラリー」の案内をたまたま手にし、そこに名水の地のひとつとして載っていたから訪ねてみたくらいな感じだったのですなあ。

平安時代、境内から水が湧き出て、その「香」が四方に漂いました。飲むと病がたちまち癒え、それにちなんで「御香宮」と称されています。霊水信仰が厚く、伏見の酒造りの生命の水とされています。環境省「名水百選」のひとつ。

スタンプラリーの案内にあったのはかような紹介でして、湧き水系には結構関心あるところなれば、つい気になってしまったという。ともあれ、上の写真に見る立派な表門(これも伏見城から移築されたものとか)を潜って、境内へ入っていくことに。大きな木造建築物の門から入るとは何やらお寺さん感覚でもありますが、その後にはすぐ石の鳥居がお出迎えです。

 

 

古くは萬治二年(1659年)に紀州徳川家の徳川頼宣が奉納したという鳥居(その後何度も建替え)の向こう、まっすぐに長い参道が拝殿まで続くようすは神社ならでは清々しさですなあ。

 

 

拝殿はこれまた紀州・徳川頼宣の寄進として「伏見城御車寄の拝領と伝えられている」そうな。秀吉が好んだ金きらきんとは異なるも、徳川が絡むとやたらに極彩色となるような。こちらの建物、拝殿も本殿もまた同様の印象で。

 

 

 

と、それはともかく肝心なのは、神社の名の由縁ともなった「御香水」でありますねえ。

 

 

本殿の傍らには誰でもこの霊水(?)が汲めるようになっておりましたよ。ちなみに解説板によりますと、「井戸は明治時代に環境の変化により、涸れてしまいましたが、昭和57年の春に復元」されたとか。

 

 

そんな経緯はあったにせよ、現在は環境省「名水百選」のお墨付き(といって、国のやること全てに信を置くものではありませんけどね…)、また「口溶けの良い甘い風味のするお水です。ぜひご賞味ください」(同社HP)ということでもありますので、取り敢えず手にとって少々口に含んでみます。確かにまろやかないい水でして、ひと汗かいた体に染み渡るようでありましたよ。今とは異なってそこはかとないところに五感を刺激を受けていたであろう昔々、これを香り高い水と称するのは想像の範囲内かとも思ったものです。

 

と、御香水を味わって参道を引き返してきました折、表門のすぐ脇に「かような史跡もあったのであるか…」と。解説板には「伏見義民事績」とありました。

 

天明五年(一七八五)、時の伏見奉行小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を伏見義民という。

先ごろ信州安曇野に出かけた折、貞享義民記念館なる施設に立ち寄ったりもしましたので、お上の圧政がここにも…と。悪玉は時の伏見奉行小堀政方ということですけれど、名前から想像されるとおりにあの小堀遠州の係累になるわけですな。所業の実態として「おりしも天明の飢饉によって民衆が困窮する中、政方が行き詰まった藩財政と自らの浪費のために、伏見町民から総額11万両にも及ぶ御用金を不法に徴収するなどの悪政を行った」(Wikipedia)ようですが、「自らの浪費のため」とは茶人で数寄者の小堀の系譜が悪い方に極まってしまったのでありましょうか。いやはや、御香水で清々しくなった気分がどよんとなる史実を突きつけられた気がしたものなのでありました。