読響演奏会で東京・池袋へ出たついで、またまた立ち寄ったのが豊島区立郷土資料館でして。先月訪ねて「江戸・東京の特産物と種子屋(たねや)―榎本留吉商店と種子屋街道―」展を覗いてからまだひと月も経ってはおりませんが、折しも次なる企画展の開幕初日にあたってのですなあ。「Made in としまの紙芝居~日本画劇が残したもの~」という展示でありましたよ。

 

 

世に「昭和レトロ」などという言葉が広く出回って、それらしいものをざあっと展示する中ではその一点景のようには見ることのできる紙芝居ですけれど、改まってその紙芝居にフォーカスする展示というのも珍しいような。子供のころ、自転車でもって近所に回ってくる紙芝居屋に群れる一群の中にいた経験のある者としましては、ちと捨て置けない気になって出向いてしまいました。

 

 

ところで、紙芝居に関わる企画展が豊島区立郷土資料館で開催される由縁としては、1945~47年頃、豊島区要町に日本画劇株式会社という紙芝居の制作を専門的に扱う会社があったから…なのですが、期間が短いので豊島区との直接的な関係は些か希薄なような気も。

 

そも戦前の1937年(昭和12年、日中戦争の始まる年)に、それまで個人業者が多かった紙芝居業界関係者が大同合併(このこと自体は戦争前夜の影響ではなさそうですが)して、荒川区三河島に大日本画劇株式会社が設立されたそうな。

 

街頭紙芝居(いわゆる紙芝居屋が口演する紙芝居)と印刷紙芝居(印刷物として広く販売され、幼稚園や学校で教材などとしても使われた紙芝居)の両方を手掛ける会社は当時稀有な存在だったようでして、大手だったことが窺えますなあ。

 

 

時局の暗雲はどんどん広がっていくような時期ですので、同社発足翌年の1938年には紙芝居にも検閲が入るようになり、紙芝居屋も名簿登録が必要ななったとか。印刷紙芝居は学校現場でも使われるだけに、国策宣伝に利用されるようにもなっていったそうでありますよ。太平洋戦争が始まるとその動きはなおのことで。

 

例えばですが、大本営が大敗を隠したミッドウェー海戦で沈んだ航空母艦・飛竜の艦長を英雄として称える紙芝居が展示されておりました。これは準備されるも公開はされなかった…と申しますのは、その後に連合艦隊司令長官・山本五十六の撃墜死が伝えられるところなって、軍神山本の死の方が宣伝効果が高いと判断されたようで(いやはやなんともな話です)。

 

ともあれ、そんな国策紙芝居も制作していた大日本画劇は、1945年4月13日の城北大空襲(同年3月10日の、いわゆる東京大空襲で終わりではなかったわけですね)でもって社屋が焼失してしまい、戦後になって豊島区に仮社屋を設けてなんとか復活を果たしたのが、冒頭で触れた日本画劇という会社でありましょう。やがて品川区へ移転していったということですので、やはり豊島区との関わりは薄いような(と、繰り返し言うほどのことではありませんが)。

 

ところで、先に印刷紙芝居は印刷物であるとは触れましたですが、一方の街頭紙芝居、こちらは何とまあ、手描きの一点ものであったそうなのでありますよ。制作会社から貸元に販売され、紙芝居屋のおじさんたちは貸元から借り受けて(もちろん有料でしょう)商売をして回っていたのであると。一点ものなだけに、紙芝居の表面はニスでコーティングされていたそうでして、思い起こせば目の当たりにしていた紙芝居もなんとなく赤味がかったてらてら感があったような気がしてきたものです。

 

 

と、戦後の最初期、「あらゆる児童文化に先駆けて」復興したのが街頭紙芝居であったそうな。子供向けの本やら雑誌やら、印刷物が出回る状況に無い中、いち早くとういことだったようですな。さりながら、戦後復興が進み、昭和三十年代に入って高度成長期ともなってまいりますと、国の失業者対策なども行われるようになったこともあり「紙芝居屋の姿は徐々に街頭から消え」ていったのであると。

 

こうなりますと、制作会社としては印刷紙芝居の方を中心としていくわけですが、紙芝居大手の日本画劇としては1960年1月に制作されたのが現時点で確認できる最後の作品『なわとびふうちゃん』であるそうな。

 

てなふうに展示解説を辿ってきたわけですが、どうも個人的な感覚として街頭紙芝居はも少し長く続いたのではないですかねえ。昭和四十年代に入っても東京の下町あたりでは「いつもの紙芝居屋のおじさん」を二人ほど思い浮かべることができますし。

 

記憶に残る限りでは出し物は『黄金バット』などかなり古いものの使いまわしであったように思いますが、それが貸元から借りていたものだったのであるか、今さらながらに思い至る次第でありますよ。

 

ま、本展展示はもっぱら日本画劇に関するものですので、必ずしも紙芝居文化の全体像に及ぶものではないことに注意は必要でしょうかね。現に(日本画劇の制作は終了しても)印刷紙芝居は今も作られておりましょうし、また街頭紙芝居がむしろ新しい形で復活を遂げたりもしている。もちろん集まった子供たちに駄菓子を売って生業とするようなビジネスモデルではないでしょうけれど。

 

とは言いつつ、年代の故かもしれませんが、それなりに興味深く見て回った展示ではありましたでうしょ。

 

JR東海道本線の金谷駅からはバスで登っていくこと5分ほど、牧之原台地の上に広がる茶畑の中に設けられた「ふじのくに茶の都ミュージアム」を訪ねたというお話でありまして。

 

 

建物として「外観に県産材を使用した吹き寄せ壁を設け」たことも特徴のひとつのようですが、木材多用の隈研吾建築にも見られるように、経年による劣化といいますか、朽ちた感が出てきてしまうのは何ともうしましょうか。栃木県那珂川町の馬頭広重美術館ではちと驚きを隠せない状況になったりも…。

 

と、いささか話を大きくしてしまいましたが、ここは建物の全体が木材多用というでなしに一部の壁がということですし、隈研吾が手がけたわけでもないですのでね。ただ、経年による枯れた味わいを小堀遠州ゆかりの「綺麗さび」と関わるのであるのかどうか…。

 

かように申しますのも、ここのミュージアムには「寛永11年(1634)、遠州が手掛けた後水之尾院の仙洞御所の東庭を復元し」という庭園が付属しているのでありまして。まずはその庭園を覗いてみますかね…と言って、そそくさとミュージアムに足を踏み入れないのは折しもちょっとした団体さんが入場していったところで、その喧騒?をやり過ごす意味合いもあったとはちと注釈です。ともあれ、庭園の入口はこちらになります。

 

小堀遠州(1579-1647)は、江戸幕府の作事奉行として重要な建築や庭園を担当した人物です。また茶人としてもよく知られ、島田市金谷の志戸呂窯は、遠州が好みの道具を焼かせた「遠州七窯」の一つと言われています。そのゆかりをもって、ここに小堀遠州が営んだ庭園と建物を組み合わせ、遠州の「綺麗さび」の世界を再現しています。

大井川を西へ越えたら遠州(遠江国)ということで小堀遠州とのゆかりを標榜するのはさすがにとってつけた感があるようにも思いましたが(何せ遠州=遠江守は名乗りであって、この地に領地があったわけでもありませんし)、大いに関わりあるやきものの窯があったとなれば、話は別ですな。

 

 

てな関わりを再認識したところで、解説板に曰く「自然と人工、直線と曲線といった、対立的な要素が融合されている点が特徴で」あるという「池泉回遊・舟遊式の庭園」を拝見するといたしましょう。

 

 

箱庭といってはなんですが、広大な面積を誇るといった類いの庭園ではないコンパクトさはほどほどの落ち着きを醸してくれておりますね。なんともゆったりした気分にさせられます。

 

 

庭園歩きをしておりましたときは、幸いにも他に誰もおらず静寂に包まれておりまして、池で遊ぶ鴨くんも心ゆるやかに水遊びといった雰囲気でしたなあ。

 

 

で、鴨の向こうにある橋廊のさらに奥には「築地塀を隔て、『伊勢物語』にちなむ八橋が架けられ、平安時代の王朝文化に憧れを抱いていた遠州の特色が表れています」(同館HP)ということですので、そちらの方へも足を向けてみることに。

 

 

八つの橋はそれぞれに異なる仕立てになっているようでして、庭園入口の解説板にある紹介写真ではきれいに整備された姿が掲載されているも、実際のところはなかなか手入れが行き届かぬのか、「渡ってはいけん」という注意喚起があったように記憶しておりますよ。

 

ちなみにこの八橋のさらに外側(左側)には、小さなものではありましたけれど、茶畑が設けられているというのは、この地らしいところでもあろうかと。

 

 

てなことで、小堀遠州ゆかりの庭園をゆらりひと巡りしたわけですが、池の端には大きな建物がありまして、こちらは茶室になっておるということで。茶室にあがるだけならばミュージアム入館料に含まれている(中の一室でできる茶道体験は別料金)なれば、ちとお邪魔をしてしまいますなあ。ですので、お次は遠州ゆかりの茶室を覗いてみた…というお話になってまいります。

 

愛知県陶磁美術館の特集展示コーナーでマイセン磁器を眺めたついで、ドイツつながりということで「話題のやきもの」コーナーにあった展示に触れておこうかと。題して「世界の名窯で乾杯!キリン・ビアマグコレクション」と(展示は9/27で終了)。

 

ビールは、世界で最も親しまれているお酒の一つでしょう。その歴史は諸説あるものの紀元前8000年から4000年メソポタミアのシュメール文明の時代にまで遡るとされています。日本では鎖国時代の18世紀後半にオランダからもたらされました。明治時代の初めには日本でもビールが醸造されるようになりました。

というビールであるだけに、それ用の器である「ビアマグ」は「世界共通の酒器と言えるでしょう」てなことで、様々なタイプが紹介されておりましたよ。

 

 

ここに並ぶのは前列の左から、日本の柿右衛門(14代)、フランスのセーブル、イギリスのウェッジウッド、中国の景徳鎮、イタリアのリチャードジノリと(歴史の新旧はともあれ)いずれ劣らぬやきもののブランドですな。ビアマグにはビューターや最近ではチタン製などもあるようですけれど、陶磁美術館が展示するのは当然にしてもっぱらやきものというわけで。

 

ところで、近頃でこそ「ビアマグ」という言い方もされはしますが、日本でより一般的な呼ばれ方は「ジョッキ」の方ではなかろうかと。ですが、これはやっぱり和製英語のひとつであるようですなあ。

…日本でよく耳にする「ジョッキ」という呼び方は、実は英語の「ジャグ(jug)」が変化した和製英語で、「ジャグ」には「水差し」や「壺」などの意味があります。一方、「マグ」は把手のついた筒状の容器のことを指します。

 

こちらの写真で右端のマグはきらきらしていて金属製?と見えますが、本体は陶器で蓋の部分だけが金属のようすな。で、ドイツあたりで見かける蓋付きのマグですが、そもそもマグに蓋が付けられた背景は結構深刻な事情があったようでありますよ。

蓋のついたビアマグは、14世紀ヨーロッパで使われるようになりました。この頃のヨーロッパではペスト(黒死病)が流行しており、ハエが病原菌を媒介していると考えられていたのです。そのため、お酒を飲んでいる途中でハエが中に入ってしまわないように、蓋つきのマグが作られました。

てっきりビールの品質や味わいを損ねないためであるか…てなふうに考えておりましたが、そうではなさそう。となると、飲むほどに酔うほどに蓋が付いていてはぐびぐびするのに煩わしいというのが庶民感覚であるのか、16世紀にブリューゲルが描いた農民の宴会のようす(画像は部分)では蓋無しのマグで飲み交わしておるようで。ブリューゲルの生きた時代にもペストの脅威が無かったわけではないはずですが…。

 

 

ただ、蓋付きであろうが蓋無しであろうが、ビールを飲むなら把手のついた大きめのマグでというのが伝統のようですな。日本では、徳利片手にさしつさされつ…という文化の延長か、瓶ビールでグラスに注ぎ合うというパターンが多い(とはすでに昭和レトロであるか…)でしょうから、ずいぶんと大きさには違いがあるように思えます。

 

その点では、料理にしてもあてがいぶちの一人前をそれぞれにオーダーするのが西洋の食事として、さまざまにシェアして食する居酒屋文化は日本風なのだといえましょうかね。

 

 

ということで、少々寄り道のように眺めたビアマグコレクション、これはこれで面白かったなと思った次第でありますよ。

ほぼ月いちの読響演奏会@東京芸術劇場でもって池袋へ。先月はじとじとと雨が降る中でしたので、演奏会を聴いていても思いはさまざま駆け巡る…てな感じでしたけれど、はて今回は…。

 

 

プログラムとしましては、ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」から"ポロネーズ"、 ショパンのピアノ協奏曲第1番、そしてシューマンの交響曲第3番 「ライン」という組み合わせでして、ついかようかな組み合わせの由縁は?などと考えてしまったのですな。

 

歌劇のルサルカはほぼほぼ人魚姫状態ながら、本来は(プログラムの解説に曰く)「スラヴの民間伝承に登場する水の精の名」であって、「水死した女性などが幽霊になって若い男を誘惑して死に至らせる怖い存在」であると。こうなるとすぐにドイツの「ローレライ伝説」が思う浮かぶところでして、「ああ、それでシューマンの「ライン」が出てくるのだあね」と早合点も。

 

さりながら、そうなってしまいますと、ショパンの出番はどういうこと?になってしまいますので、むしろこのプログラムはショパンが軸であろうかと。最初に歌劇「ルサルカ」から演奏されるのはポロネーズであって、言わずと知れたショパンの祖国ポーランドの音楽なわけですね。で、シューマンはショパンをいち早く天才として広く紹介した人物であるのですし。

 

このあたり、ショパンのコンチェルトを弾いたアレクサンダー・ガジェヴがアンコールに選んだのがやっぱりショパンのマズルカだったというのも、ショパンが軸たる補強材料でしょうか…とまあ、そんな想像でしかないことを反芻することになってしまいましたのは、実のところ、またまた少々上の空っぽくなっていたところがあったものでして(天候はスカッと秋晴れでしたのに…)。

 

理由はなんぞ?と申しますれば、東京芸術劇場の建物内、コンサートホールのエントランスと同じフロアにギャラリーがあるのですが、開場前のひととき、ひやかし気分で(すいません)覗いたギャラリーの方にちと感心するところがあったものですのでね。

 

 

開催されていたのは柴山古流・縁山流 いけばな展「千紫万紅」というものでしたが、元々いけばな、華道には何らの予備知識もありませんので、この流派が華道界でどんな立ち位置にあるのかも全く見当がつきませんが、それはともあれ、映画『花戦さ』を見たりしたときにいけばな作品のアート性に改めて気付かされたと申しましょうか。

 

 

上の大きな作品はどうやら家元の作ということでしたですが、他にも展示された作品を見て回るうち、要するに花を飾っているようでいて、個々の花そのものを愛でるのと同時に全体像が導く小宇宙をこそ見てほしいものという作品のありようであるかと思った次第です。

 

 

昔、中学・高校の頃だったか、学校には華道部なる部活があって、その当時はおよそ女子ばかりが畳の部屋で花をああでもない、こうでもないしている…くらいの見方しかしてなかったですが、その頃の部活でどれほど深遠な思いを表現に乗せていたのかは判断のしようもないものの、突き詰めれば確かに深淵な世界につながるものであったのであるか…と、今さらながらに思ったものでありましたよ。そんな気になりましたのも、やはり芸術の秋だからでありましょうかね…。

折しも雨脚の強くなった天候によりまして、越すに越されぬ大井川橋…となったわけですが、バス利用でさっさかと到着したのはJR東海道本線の金谷駅でありました。

 

 

雨降りとあって、駅から旧東海道の石畳道を登りに行くのをまず見送って、かといってふじのくに茶の都ミュージアムへのバス路線は時間が合わず、結果として掛川へとって返して資生堂アートハウスに向かった…とは、先にも申したとおりでしたですね。

 

でもって一夜明けた翌朝、相変わらず空模様は怪しい感じであるも、取り敢えず雨は降っておらない…と見て、そそくさと出かけることに。東海道線を右往左往状態ですが、掛川駅から再び金谷駅へと戻ってまいった次第。駅前から乗り込んだバスはひたすらに牧之原台地の上へと登っていくのでして、目指すは台地上にあるふじのくに茶の都ミュージアムでありました。

 

 

ミュージアム最寄りというバス停で降車しますと、そこはもう一面の茶畑が広がっておりましたよ。ミュージアム名に「茶の都」を標榜するのも分かる気がしたものです。この後に他の場所で山の斜面に広がる茶畑を目にすることもありましたですが、ここは何しろ平坦地がずっと続いている点で壮観といいますか。

 

 

ところで台地上にあがってきたと申すも、どのくらいのところへ来たのであるか?ですが、実は降りたバス停のひとつ手前に「牧之原公園前」という停留所がありまして、大層眺めの良いところだったのですなあ。あいにくとバスはすいっと通り過ぎていったわけながら、あの眺めをミュージアム近くでも得られぬものかと少々うろちょろと。その甲斐あって、ミュージアム裏手で開けた景観はこんな広がりを見せたのでありますよ。

 

 

右手が下流方向でして、見えている鉄橋は東海道本線のものになります。ちと陰になってしまうので蓬莱橋までは見えませんが…。で、上流側の方にも目を転じてみれば…。

 

 

遠く南アルプスに端を発する水流が大井川となって流れ下る。いやはや川幅の広いこと広いこと!ちなみに3本見えている橋の内、一番右手にあるのが、前日にバスで渡り越した大井川橋でありますよ。

 

とまあ、そんな具合に眺めの良い牧之原台地の上に茶畑が広がってこれもまた緑の絨毯を敷き詰めたように良い眺め…なのですが、そも牧之原台地は洪積台地であるということでして、Wikipediaに曰く「(洪積台地は)基本的に水はけがよく、比較的平坦かつ地盤特性が良好で洪水の心配もない」一方、「水田には適さないため、畑作や果樹園、茶畑などに利用されることが多い」のであると。

 

だから明治期に茶畑として開墾が進められたのであるなと思うところながら、実は非常に水利を得るのが困難な場所でもあったそうなのですね。目と鼻の先に水量豊富な大井川が流れているのになんとも皮肉な話でもあろうかと。

 

ま、その辺りの事情なども、ふじのくに茶の都ミュージアムを覗いてみれば腑に落ちることになろうかということで、いよいよミュージアムへと進む…わけですが、またまた話が長くなりそうですので、館内展示のようすは次回にということで。