これまたちょいと前、川崎市岡本太郎美術館を訪ねたのと併せて出かけた世田谷美術館のお話。

近頃はオミクロン株によって急上昇のカーブを見るにつけ、またしても多摩籠り状態ですので、

もっぱら蔵出しといったところでありまして…。

 

 

ともあれ世田谷美術館で開催中でありましたのは「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」という展覧会、

生誕160年(実際に160年は2020年で、本展は巡回展なのでしょう)ということですが、

101歳までの長寿であった方ですので、没後で言えば60年ほど。さほど昔の人とも思えぬような…。

 

ですが、1860年生まれというグランマ・モーゼスはやはり19世紀末から20世紀初頭にかけて、

その時代の人であるなあということが作品からも見てとることができるような気がしますですね。

本格的に絵を描き始めた70代になってからということですので、もはや19世紀でもなかろうと思うところながら、

モーゼスが描いたのは目の前の風景を写実的に、というよりは娘時代から見てきた、

自らにとっての(貧しいながらも)古き良きアメリカの姿をのっけているようでもありますし。

 

開拓農民の村らしく、さまざまなものを手作りすることが季節ごとの行事とされて、

時にお祭りのように村総出となるあたり、アメリカに限らず「原風景」と思ったりするところです。

 

これはあたかも、映画『目撃者 刑事ジョン・ブック』で見たアーミッシュの村を思い浮かべたりもしますが、

今から考えると、さまざまな「便利」を享受することに慣れてしまっているがために、

もはや戻れない昔を今でも続けるのは大変だろうなと思ってもしまうのですなあ。

 

さりながら、今ほどの「便利」(とその反動の不便益もありますが)に至っていない時代でも、

モーゼスにとっては時代が進むにつれて、失うものの大きさを感じていたようでもありますね。

本展では作品を見ながらその思いに馳せる一方、ところどころに引用されたモーゼス自身の言葉によって

考えるところが大きかった気がしておりますよ。

 

今となっては、どういうものを失ってしまったのかさえ分からなくなってしまっていようかと思いますが、

便利、便利を追求してきた挙句、モーゼスが生きた村の人たちのような素朴な幸福感、満足感が

分からなくなってしまってもいるような。

 

もちろん、便利になったことを真向否定するつもりはありませんけれど、

どこかで立ち止まることは必要だったでしょうし、今からでも決して遅くはないところもあろうかと。

モーゼスの描いた風景を見て、「ああ、いい景色だな」と思うとすれば、

やはり何かしら取り分け置き去りにして進んできてしまったものがあるように思えたものでありますよ。

昨日(1/21)の東京新聞夕刊の記事を読んで、つらつらと考えを巡らしたものでありまして。

記事の書き出し部分はこんなふうでありました。

人の心理効果を利用して望ましい行動を促す「ナッジ」と呼ばれる手法を施策に取り入れる自治体が増えている。

ここで言う「望ましい」とは「ナッジを使う側にとって」ということであって、

そも「ナッジ」の語源である「ちょいと肘で小突く」、日本語的には「背中を押す」てなところでしょうけれど、

仕掛ける側にとって都合のいい方向にヒトを動かすと考えますと、世の中にある数々の詐欺の類いなどは

みなこれでもって出来ているのであろうかと、うさん臭く思ったりするところです。

 

が、今回の新聞記事でこれを使う主体は自治体であるということですので、

あまりに悪意をもってみてはいけんのかもしれませんですが。

ともあれ、参考例として紹介されていたのは東京・八王子市が市民に出すお知らせハガキの文面でして、

新旧対比をすると、こんな具合になったようで。

(旧)今年度、(市の大腸がん検査を)受診された方には来年度、(検査キットを)ご自宅にお送りします。
(新)今年度、受診されないと来年度、ご自宅にお送りすることができません。

かように文言を変えたところ従来より受診率が上がったということで、

結果は上々、ナッジのおかげと話になるわけですけれど、これって言い方を変えただけではないような。

そもそも書き換えた方のような意図なのであれば、最初からそう書いておいてほしいところでして、

従来の言い回しでは、来年は送ってこないとは全く認識できないわけですから。

 

確かに新たな表現は少々きっぱり言い切る感がありますので、自治体としては市民に優しく丁寧にと

考えていたのかもしれません。されど、あまり婉曲表現ばかりでは伝わるものも伝わらないように思いますし、

反って違和感を抱くこともありますなあ。

 

公共施設のトイレでよく見かける貼り紙に「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます」というのが

ありますね(本当は「使っていただき」の部分は「使ってくださり」、「使ってくださいまして」でしょうけど)。

 

これも、なんだってこんな貼り紙があるのかと考えると、

「使用者が本当にきれいに使っていて心からお礼を述べたいのです」ということではないはず。

本音では「いつも汚してばかりで、どうしてきれいに使えないのかね…」と考えた結果と想像できるだけに

ここでの「ありがとう」には歯が浮いてしまう心地にもなろうというものです。

素直な性分ではないもので、どうにも嫌味だなねえと思ってしまったり(笑)。

 

ちなみに、新聞記事のお話とは別に「ナッジ」が効果的に機能した例として有名なのが

アムステルダム・スキポール空港の男性用トイレの事例だそうですな。

また、トイレの話か…となりますので、詳しくは検索でご覧いただきたいところですが、

ナッジによる誘導にみなまんまと嵌っているのだそうでありますよ。

 

自治体や企業にしてみれば、思ったような成果がでない何かしらに「ナッジ」の手法を取り入れて…と

考えるのでしょうけれど、先にもネガティブな言い方をしてしまいましたように、

どうもヒトの弱みに付け込んで…という気がしてしまうのですよね。

何かと裏を読まねば本当のところを量りかねるとは、何とも面倒な世の中であることか…。

毎日寒い寒いと思いつつ、読んでいた小説の主人公たちの体験したことは

「こんなもんじゃあなかったのだなあ」と。手にしていたのは『北冥の白虹』という一冊、

ちなみに「北冥」とは「北方の大海」のこと、「白虹」には「オーロラ」とルビが振られておりますよ。

北海道、というより江戸時代の蝦夷地が舞台なのでありました。

 

 

タイトルには「小説・最上徳内」と添えてありますとおり、

主人公は江戸期に数度の蝦夷地検分(探査)を行った人物・最上徳内が主人公なのですな。

 

歴史の教科書としては、北方探査で思い浮かぶ名前は近藤重蔵や間宮林蔵、

そして間宮の師匠で沿海地図を作った伊能忠敬あたりかと思いますけれど、

蝦夷地を振り返る点において、最上徳内は決して忘れてはいけん人物なのでありますなあ。

さらにもうひとり挙げるならば、松浦武四郎でしょうか。

 

東北・庄内の貧しい農家に生まれた徳内は、当時の身分制度下にあってこれに拘らず、

上昇志向のあった人なのでしょう、学問を志して苦労を重ね、天文・測量、算術などに長ずるようになり、

折しも北辺にロシア船が出没するようになっていた頃合い、幕府の蝦夷地検分に随行することになるのですな。

 

寛政二年(1790年)の探査では国後島に渡り、さらには択捉島、得撫島の北端にまで足跡を記します。

寛政四年(1792年)には、漂流民として長らくロシアに留め置かれていた大黒屋光太夫らの帰国にあたり、

彼らを乗せてきたロシア艦隊が根室に来航する、そんな時代ですね(その時、徳内は松前にいたようで)。

 

のちには士分に取り立てられた徳内、幕末のどさくさ以前としては破格の出世を遂げたと言えそうですが、

常に順風満帆だったわけではもちろんありませんな。蝦夷地の開拓に関して、上役との意見の相違から

一端は蝦夷地との関わりが一切無くなるといったことも経験しておるようで。

 

このときの意見対立は(この小説によりますと、ですが)

もっぱらアイヌの人たちに対する考え方の違いによるものであったようですね。

徳内は蝦夷地という厳しい気候条件の下では長年暮らしてきているアイヌの知恵に学ぶべきと考えますが、

以前より蝦夷地支配にあたった松前藩ではアイヌの人々に対して「愚民政策」を取っていたようで。

 

簡単に言えば、隷属的な労働力とか、交易で都合よく掠め取る対象として見ていなかったのでして、

これに常々憤りを感じていた徳内は予て「撫民政策」をこそ採るべきと考えていたのですが、

意見のぶつかった上役(探査の総裁の旗本・松平忠明)もまた考えは松前藩と同じのですなあ。

 

歴然とした身分社会の中、藻掻いて這い上がった徳内だけに当時としては開明的な考え方に至ったのか、

とも思うところではあるものの、おそらくは先人の知恵には活かすべきことがあり、それがたまたま蝦夷地では

アイヌだったということなのかもしれません。今の考え方でことさら開明的と考えてしまうのは当たっていないかも。

(このことは、もそっと後の松浦武四郎にも通じることなのかもしれません)

 

ただ、だからといって松前藩や松平忠明の示した方向性に比べ、

徳内の考え方は断然に支持されるべきところであろうとは思うところながら、

そうはならないのが「その時代」の限界だったのであるなとも考えたりしましたですよ。

 

晩年にはシーボルトとも交流し、アイヌ語・日本語・ドイツ語・オランダ語相互の辞書編纂にも

協力したといわれる最上徳内。その80年を超える波乱の生涯は(描きようによっては)十分に

「大河ドラマ」ものであるなと思ったりもしたのでありました。

(ただ、どうしても北方領土絡みの話になる点ではセンシティブなところもあろうかとは思いますが)

「親ガチャ」てな言葉が一般化したのは比較的最近のことなのですかね。

もともと「子供は親を選べない」という言い回しが昔からありましたし、

「ガチャ」の元となったいわゆる「ガチャガチャ」も昔からあったわけで、どうして今頃とも。

 

まったく知らなかったですが、インターネット利用のゲームの中に「ガチャガチャ」を模したものがあって、

それが(まあ、若年層にでしょうけれど)認知されるの及んで、「ガチャ」という言葉の使用頻度が上がった結果、

何が出てくるわからない(大方、予想に反した結果となるのがガチャガチャの常でもありましょうが)ことと

昔からある「子供は親を選べない」ということと(言葉というよりも意識の点で)結びついて生まれたのが

「親ガチャ」なのでもありましょうかね。

 

最初聴いたときには、その語の持つ語感の軽さから、いささかふざけたニュアンスでもあるのかと思ったですが、

よくよく考えてみると実は深刻な側面があるのかなとも思ったり。まあ、言葉の広がりに際しては、

ふざけた感のもとに便乗した使い方も多くあるのでしょうけれど。

 

と、やおらかようなお話になりましたのは、

レバノン映画の『存在のない子供たち』(2018年)を見たからでもありまして。

 

 

レバノンの首都ベイルートのスラムに家族ともども狭いアパートに暮らす少年ゼインが主人公。

12歳というわりに、体格的にはもそっと幼く見える一方、その外見としては自律的に行動する印象かと。

まあ、ストーリーそのものは(肝心な点ではありますが)映画関係のサイトなど別のところに譲るとしまして、

紆余曲折を経て、このゼインが両親を告発することになるのですなあ。

「自分を生んだこと、それ自体罪である」として。

 

もちろん脚本が言わせていることなのですけれど、これを12歳の少年に言わせること、

これは重いではありませんか。「親ガチャ」の外れを引いてしまった己を嘆くというレベルを突き抜けて、

自分を存在させてしまったことが罪であると糾弾する、この第三者感。愕然とせざるを得ないわけです。

 

そりゃあきっとレバノンのスラムあたりは状況的に酷いものであろうとは、

映画の中でもつぶさに描かれるところですけれど、たぶんゼインに告発された両親にしても、

ゼインほどの言葉を持たなかったにせよ、子供のころには「親ガチャ」の外れを引いたと思ってもいたろうかと。

この連鎖にもまた愕然とさせられるのですよね。

 

もちろんこれとの比較でもって、日本での「親ガチャ」外れ感をどうのこうのいうつもりはありませんですよ。

どちらがより酷いのかと言っても詮無い話でしょうから。それぞれに現象への対処ではなくして、

原因を見極めて考えていくことが必要なのでしょう。

 

お門違いかどうはともかく、こうした思いに沈むとき、

先月に再放送されていたEテレ『100分de名著』の『資本論』の話を思い出したりもしますですね。

貧富の「貧」が存在してしまうこと(翻って、なぜに過大な富者も存在してしまうのかでもありますが)、

それが社会構造の結果である可能性があるのならば、それを変革する必要があるものと考えるのは

自然なことなはずながら、どっぷりつかった資本主義からなかなかに踏み出しにくくなってしまっている。

 

番組では、ひとつの結果として環境問題に言及していましたけれど、

歪みはまた別のところにも出ていて、正されるどころか、さらに酷くなりつつあるような。

ちと風呂敷を広げすぎた話になってしまったものの、そんなあれこれを思い巡らしたものでありましたよ。

うっかりしておりましたが、2021年末の「第九」公演を聴きに行った際に立ち寄った

練馬区立美術館のことを遅まきながら記しておこうかと。

「収蔵作品による 小林清親展【増補】-サプリメント-」という展覧会が開催中でありまして。

 

 

「増補」、「サプリメント」とは何とも異なタイトルですけれど、

2015年に同館で清親没後100年展が開催されたのち、「この展覧会が機縁となって

清親の作品や資料、遺品類約300件の寄託」を受けることになったというのですなあ。

こうしたことからこれらの資料を展観する場として、回顧展のサプリメントとして開催する展覧会、

それが本展であるということです。

 

それだけに、「光線画」として知られる小林清親らしさ全開と思しき作品が並ぶ展示というよりも、

光線画たる作品に仕立てあがる以前の下絵や、さらには思いもよらない清親の別世界といいますか、

こんなお戯れの一面もあったのかというあたりも垣間見られるものとなっていたのでありました。

 

例えばですけれど、上のフライヤーに配された作品はどうでしょう。

これが小林清親の作品と言われて俄かに得心がいくものではないような。

 

 

明治16年(1883年)に刊行された『全世界一大奇書』という書物、内容のオリジナルは

「アラビアンナイト」だそうですけれど、これに清親はモノクロの線描画で挿絵を寄せたのだそうな。

展示された本作は水彩による彩色画でして、それだからこそ尚一層かもしれませんが、

遠景にそそり立つ宮殿などはもはやSF映画のようではなかろうかと思うところです。

 

清親の想像力はまるでヒエロニムス・ボスでもあろうか(「快楽の園」を思い出したり…)とも

思ってしまうところながら、実はこれは英国の挿絵画家ルネ・ブルの作を模写したものであるとか。

この種明かしには少々肩透かしを食った気分でありましたよ(笑)。

 

一方で、戯画を描くとは(個人的には知らない世界でしたですが)清親にはよく知られたことでもあったようで。

「弁慶と小町」という一作は、タイトルからすると大層な歴史絵巻かと想像するところながら、

その実、「弁慶と小町は馬鹿だ、なあ嬶ぁ」という艶笑的な江戸川柳をベースにしたもの。

 

武蔵坊弁慶も小野小町も、どちらも男女の深い仲になったことが無い、

お楽しみを知らないとは馬鹿なやつらよというわけで、弁慶と小町を見て、遊女たちが忍び笑いをしていると、

こうした類の絵を(手遊びにもせよ)手掛けていたとは、戯画作家たる清親を知らなかった者にとっては

驚くべき新事実のように思えたものなのでありました。

 

ところで、小林清親には弟子が何人もいたそうなのですけれど、

その中で本展では「清親の右腕」と紹介されていたのが土屋光逸という人であったと。

16歳で清親の内弟子となり、「家族同様に扱われ小林家の家事全般もこなしていた」とか。

 

清親としても「指導を惜しまなかったという」ことなるも、あまりに清親の一家をかまうことを優先してしまったか、

土屋自身の画家デビューはなんと60歳になってしまっていたそうな。

作風はいわゆる「新版画」ということになりまして、昨今、新版画では川瀬巴水が知られるも、

土屋光逸の作品もなかなか。インターネットの画像検索で作品の数々が見られますが、

展示にあった「雪の堅田 浮見堂」などは静かにじっと眺めていたくなる一作でありましたですよ。

 

とまあ、弟子のことも含めて、知らなかったことをあれこれ気付かせてくれた展覧会、

サプリメントというだけあって(TVのCMで見かけるサプリメント通販の試供品でもないのに)

無料で見られるとは誠に太っ腹の練馬区立美術館ではなかろうかと思ったりもしたのでありました。