さてと、GWに信州をあちこち点々と巡った話の方はようやっと最後ということに。安曇野の小さな美術館を覗いたとは言いましたですが、最後にやってきたのは資料館ですな。「義民の里 貞享義民記念館」という施設でありました。

 

 

義民の話といいますと、「佐倉義民伝」が講談にもなっているので夙に知られておるかと思うところながら、要するに悪政・圧政に耐えかねて立ち上がった農民たちが身分の故にお門違いの訴えと退けられるばかりか、処刑されてしまったりするという。現在は安曇野といわれる地域でも江戸期、貞享の頃(17世紀末)に松本藩の過酷な年貢取り立てに物申す人たちがいて、「その刑は磔8人、獄門20人という極刑で、百姓一揆史上稀にみる多数であった」という事件が起こったというのですな。

 

 

ちなみに農民の訴えがお門違いとされた背景には、しっかりと(?)訴訟の手順が決められていたということがありまして、今でもいきなり最高裁に訴えることができないように、手続きにも手順があったから。それにしても、農民が踏まねばならない手順というのは端から排除の論理で構築されていたのでもありましょう。

 

 

ところで、上のフライヤーやこの経緯説明で使われているのが切り絵風の絵柄なだけに、斎藤隆介の『ベロ出しチョンマ』に寄せた滝平二郎の挿絵を思い出してしまうような。そういえば佐倉惣五郎にまつわるお話、つまり「佐倉義民伝」の類でしたなあ。

 

ともあれ、安曇野の地ではこれを後世に語り継ぐために貞享義民記念館が作られたと。ま、政府から出た「ふるさと創生」事業を資金(の一部)としているとは、「おやおやぁ」と思ったりもするところですが、そういう使い方こそ物申す精神の伝承でもありましょうか。一方で、佐倉や安曇ばかりでなしに、おそらくは日本中に同様の蜂起があったでしょうけれど(ただし、信州は全国で最も一揆の多かった地方と言われているらしい)、それが悉く弾圧されたてなことが、現在に至るも日本人はおよそお上に逆らわないような空気を生んだのであるかとも思ったり。

 

それにしても、この記念館では後世に語り継ぐ意識が非常に篤い係の方がおりまして、来場者それぞれに事細かに説明する(せずにはおかない)といったふうでもありましたですよ。で、その説明を聞きながら、事の次第にまつわる展示史料(農民の訴状や役人の答弁書など)を見ていきますと、「お上のやることは今も昔も…」なんつうふうに思えてくるという。いやはやです。

 

 

一揆の大前提として、松本藩の年貢の取り立てがどんなようすであったのか、展示解説によりますと、松本藩の年貢はかつては幕府基準に従って五公五民に定めらえていたところ、領主が松平丹波守となって実質的に六公四民に改められ、貞享にはおよそ七公三民に当たる年貢を納めるよう触れが出たというのですな。ただ、表向きは幕府により五公五民と定められている都合上、納める年貢の俵数は同じでも一俵あたりの詰め込み方をぎゅうぎゅうと…てなこともあったようで。

 

近隣の高遠藩や諏訪藩では依然五公五民の年貢であったことから、触れが回ると不満爆発。ですが、穏便に進めようという取りまとめ役を務めた多田加助が書状をもって訴え出たところ、郡奉行から文書で回答があったという。この文書自体、「藩主や家老は何も知らず、年貢を受け取るところの役人が悪さを働いた」と、下の者たちが勝手にやったことにしてしまっているのですよね。

 

その上で、悪いやつらは辞めさせたらか安心しろ、年貢も従来どおり(それでも六公四民ですが)でよいと書いてきたわけですが、数日を経ると「渡した書状を返せ」と言ってきて、返さないと反逆罪だ!的な脅しになっていったという。要するに、訴えが出されたときに穏便にではあるも、たくさんの百姓が集まってきてしまったので、回答文は単にこれを解散させるための手段であったとは、なんと阿漕なことでありましょうかね。挙句の果ての結末は先ほど触れたように、多くの犠牲者を出してしまったわけで、語るに落ちた松本藩ではありませんか。

 

このあたりの話から、どこをとって「今も昔も…」と思ってしまったかはご覧の方々のご想像にお任せいたしますが、果たして国宝・松本城に住まったお殿様は本当に何にも知らなかったのでしょうかねえ。「知らなかった」で済む話ではないように思うも、「私は知らなかった」てな言葉はちょいと前に永田町の辺りでずいぶんと繰り返されたような気がしたものでありますよ。