京都・伏見の町歩き、紆余曲折を経て御香宮のお話に戻ってきました(実際に何度も足を運んだわけではありませんが…)。ということで、こちら改めて、御香宮神社でございます。
当社は通称「ごこんさん」として古くより地域の人々から親しみをもって呼ばれ、旧伏見町一帯の氏神として信仰を集めている。創建時は不詳であるが、御香宮縁起(三巻)によれば、貞観4年(862)9月9日御諸神社境内より「香」のよい水が湧出する奇瑞により、御香宮の名を清和天皇より賜ったとされている。しかし香椎宮編年記(香椎宮蔵)によれば弘仁14年(823)御祭神神功皇后の神託により、この地に宮殿を修造し椎を植えて神木としたと伝えられている。
こんな由緒が同社HPに紹介されておりますけれど、奇しくもここに清和天皇が登場。たった今、並行して山形の立石寺のことを書いておりますが、山寺自体、清和天皇の勅願寺であったわけで、ばらばらに訪ねた二つの土地でかようなつながりに行き当たることこそ「奇遇であるなあ」感を抱くところでもあろうかと。
さりながら、こちらの神社を覗いた段階でそのようなことを知るでもなく、またここに香りのよい水が湧いているなどということも予備知識無く…。ただ、先にも触れました「伏見名水スタンプラリー」の案内をたまたま手にし、そこに名水の地のひとつとして載っていたから訪ねてみたくらいな感じだったのですなあ。
平安時代、境内から水が湧き出て、その「香」が四方に漂いました。飲むと病がたちまち癒え、それにちなんで「御香宮」と称されています。霊水信仰が厚く、伏見の酒造りの生命の水とされています。環境省「名水百選」のひとつ。
スタンプラリーの案内にあったのはかような紹介でして、湧き水系には結構関心あるところなれば、つい気になってしまったという。ともあれ、上の写真に見る立派な表門(これも伏見城から移築されたものとか)を潜って、境内へ入っていくことに。大きな木造建築物の門から入るとは何やらお寺さん感覚でもありますが、その後にはすぐ石の鳥居がお出迎えです。
古くは萬治二年(1659年)に紀州徳川家の徳川頼宣が奉納したという鳥居(その後何度も建替え)の向こう、まっすぐに長い参道が拝殿まで続くようすは神社ならでは清々しさですなあ。
拝殿はこれまた紀州・徳川頼宣の寄進として「伏見城御車寄の拝領と伝えられている」そうな。秀吉が好んだ金きらきんとは異なるも、徳川が絡むとやたらに極彩色となるような。こちらの建物、拝殿も本殿もまた同様の印象で。
と、それはともかく肝心なのは、神社の名の由縁ともなった「御香水」でありますねえ。
本殿の傍らには誰でもこの霊水(?)が汲めるようになっておりましたよ。ちなみに解説板によりますと、「井戸は明治時代に環境の変化により、涸れてしまいましたが、昭和57年の春に復元」されたとか。
そんな経緯はあったにせよ、現在は環境省「名水百選」のお墨付き(といって、国のやること全てに信を置くものではありませんけどね…)、また「口溶けの良い甘い風味のするお水です。ぜひご賞味ください」(同社HP)ということでもありますので、取り敢えず手にとって少々口に含んでみます。確かにまろやかないい水でして、ひと汗かいた体に染み渡るようでありましたよ。今とは異なってそこはかとないところに五感を刺激を受けていたであろう昔々、これを香り高い水と称するのは想像の範囲内かとも思ったものです。
と、御香水を味わって参道を引き返してきました折、表門のすぐ脇に「かような史跡もあったのであるか…」と。解説板には「伏見義民事績」とありました。
天明五年(一七八五)、時の伏見奉行小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を伏見義民という。
先ごろ信州安曇野に出かけた折、貞享義民記念館なる施設に立ち寄ったりもしましたので、お上の圧政がここにも…と。悪玉は時の伏見奉行小堀政方ということですけれど、名前から想像されるとおりにあの小堀遠州の係累になるわけですな。所業の実態として「おりしも天明の飢饉によって民衆が困窮する中、政方が行き詰まった藩財政と自らの浪費のために、伏見町民から総額11万両にも及ぶ御用金を不法に徴収するなどの悪政を行った」(Wikipedia)ようですが、「自らの浪費のため」とは茶人で数寄者の小堀の系譜が悪い方に極まってしまったのでありましょうか。いやはや、御香水で清々しくなった気分がどよんとなる史実を突きつけられた気がしたものなのでありました。